ノウラン市占領地・銀月騎士団執務テント
戦場の後始末は、まだ続いていた。
礼状。
返礼。
救護記録。
白旗運用記録。
各軍への追加報告。
銀月若手向けの教育資料。
そして、ニナリスによる赤入れ。
ジィッドは、最後の一枚に署名を入れ、ようやくペンを置いた。
「……終わった」
その声には、戦闘後の疲労とは別種の消耗があった。
ニナリスは、デカダン・スタイルの袖口を整え、端末を閉じる。
「はい、マスター。現時点で必要な文書は完了しています」
「現時点で、か」
「はい。追加返礼が届いた場合は、再対応が必要です」
「聞かなかったことにしたい」
「記録しますか」
「しなくていい」
「承知しました」
ジィッドは苦笑し、机の引き出しから小さな箱を取り出した。
黒い革張りの箱だった。
戦場の野戦テントには、少しだけ似合わない。
だが、ここ数日の礼状と返礼と政治利用を見ていると、戦場に似合わないものほど、実は戦場で効くのだとジィッドは学び始めていた。
「ニナリス」
「はい、マスター」
「これを」
箱を差し出す。
ニナリスは一瞬、動きを止めた。
「私に、ですか」
「ほかに誰がいる」
「確認です」
「そうか」
ニナリスは両手で箱を受け取った。
開ける。
中に入っていたのは、カフスボタンだった。
マンダリンガーネット。
橙に燃える石が、銀の台座に留められている。
鮮やかだが、軽くない。
派手だが、品を失っていない。
デカダン・スタイルの橙の差し色と、まるで最初から揃えたように馴染む色だった。
ニナリスは、数秒、黙った。
「マスター。これは」
「日ごろの業務のサポート、指導、礼状の添削、その褒美だ」
「礼状の添削の褒美、ですか」
「ああ」
「七騎撃破の褒美ではなく」
「それはデムザンバラとお前と整備班の仕事だ。俺一人の手柄じゃない」
「では、礼状の添削は」
「ほぼお前の仕事だ」
ジィッドは真顔で言った。
「俺は何度ピークを踏みかけたか分からない。相手を軽く扱いかけ、言葉を出しすぎ、卑屈に寄り、面子を潰しかけた。そのたびに止められた」
「マスターの文書運用は改善しています」
「褒めてるのか」
「評価です」
「だろうな」
ニナリスは、箱の中の石を見つめた。
「マンダリンガーネットですね」
「分かるか」
「はい。品質も高い。時価は……」
「計算するな」
「既に概算しました」
「早いな」
「数千万規模です」
「だろうな」
ニナリスは顔を上げた。
「マスター。これは過分です」
「過分じゃない」
「装飾品としては、前線運用上、過剰です」
「装飾品だけじゃない」
ジィッドの声が、少しだけ低くなった。
「俺が戦場で討ち死にした時のためだ」
ニナリスは、瞬きをしなかった。
ジィッドは続けた。
「俺が死んだら、お前がどう扱われるか分からない。バッハトマの中で守られるかもしれない。デコーズ隊長やバギィ少将が手を回してくれるかもしれない。だが、戦場でそんなものは当てにならない」
「マスター」
「だから、いざという時の資金になるものを持っておけ。売ってもいい。担保にしてもいい。逃げるためでも、調整を受けるためでも、どこかへ身を寄せるためでもいい」
ニナリスは、箱を持つ指にほんのわずか力を入れた。
「私はファティマです」
「知っている」
「マスターを失った場合、所属騎士団、マイト、マイスター、管理系統のいずれかへ戻されます」
「それが綺麗に機能する保証はない」
「……はい」
「俺は、白旗と礼状が命の橋になると若手に言った。なら、お前にも橋を持たせておきたい」
ジィッドは少しだけ視線を逸らした。
「俺がいなくなっても、ニナリスが路頭に迷わないように」
その言葉は、上手く整えられていなかった。
礼状なら、ニナリスに赤を入れられていただろう。
相手を不安にさせすぎる。
自分の死を前提にしすぎる。
贈与の意図が重すぎる。
文面としては不適切。
だが、口に出た言葉はもう戻らない。
ニナリスは静かに箱を閉じた。
「マスター」
「何だ」
「七騎撃破の褒美ではなく、礼状の添削の褒美というのは、らしいですね」
ジィッドは少し困ったように笑った。
「そうか」
「ええ」
「嬉しいなら何よりだ」
ニナリスは答えなかった。
ただ、箱を胸元に近づけた。
嬉しい。
嬉しい。
嬉しい。
演算が、同じ結果を何度も返す。
価値が高いからではない。
美しいからでもない。
マンダリンガーネットだからでもない。
ジィッド様が、自分が死んだ後の私のことを考えた。
戦果ではなく、礼状の添削を見ていた。
戦闘補助ではなく、日々の制御と指導を見ていた。
そして、私が残された時の橋を用意しようとした。
嬉しい。
嬉しい。
嬉しい。
ニナリスは、ほんの少しだけ目を伏せた。
「ありがとうございます、マスター」
「うん」
「大切にします」
「必要になったら売れ」
「大切にします」
「……必要になったら売れよ」
「検討します」
「それは売らないやつだな」
「必要性が発生した場合、合理的に判断します」
「信用できない」
「記録しますか」
「何を」
「マスターが、私の合理判断を信用していない件を」
「するな」
「承知しました」
ジィッドは息を吐き、椅子にもたれた。
「カフスボタンなら、デカダン・スタイルにも合わせられるだろ」
「はい。色調も整っています」
「そこは店の者に聞いた。俺だと分からない」
「マスターが選ばれたのですか」
「最終的にはな。橙が良いと思った」
「なぜですか」
「ニナリスの差し色に合う」
「……そうですか」
「変だったか」
「いいえ」
嬉しい。
嬉しい。
嬉しい。
ニナリスは箱を開け、片方のカフスボタンをそっと取り出した。
袖口に合わせる。
橙の石が、デカダン・スタイルの白と紫紺の上で、小さく灯った。
戦場の炎ではない。
撃破の証でもない。
礼状の赤入れと、白旗と、帰還線と、ジィッドの不器用な備えの色だった。
「似合うな」
ジィッドが言った。
短い言葉だった。
ニナリスは静かに礼をした。
「ありがとうございます、ジィッド様」
その呼び方に、ジィッドは少しだけ眉を上げた。
「今、ジィッド様だったな」
「はい」
「マスターではなく?」
「贈り物への礼でしたので」
「そうか」
「はい」
ジィッドは少し照れたように視線を外した。
「なら、まあ、いい」
ニナリスは袖口の石を見た。
もし、マスターが死んだら。
その仮定を、彼女は否定できない。
戦場に出る以上、ジィッドは死ぬ可能性がある。
デムザンバラは危険な騎体だ。
銀月は若い。
戦争は続いている。
だが、その未来のために贈られた石が、いまは「生きているマスターから受け取った贈り物」として手元にある。
いざという時の資金。
そう説明された。
けれど、今この瞬間のニナリスにとって、それは資金ではなかった。
マスターが、自分を残す未来を恐れた証。
そして、その未来に橋を架けようとした証。
「マスター」
「何だ」
「このカフスボタンは、通常時は着用し、必要時には資産として運用可能な状態で保管します」
「合理的だな」
「はい」
「でも、売る気は薄いな」
「現時点では、売却の必要性を認めません」
「だろうな」
ジィッドは笑った。
ニナリスも、ほんのわずかに目元を柔らかくした。
外では、銀月の若手たちがまた何かで騒いでいる。
整備班長の怒鳴り声。
白旗を畳む救護班。
カーバーゲンの洗浄音。
紙の束。
冷めた珈琲。
その全部が、いつもの野戦陣地だった。
ニナリスは、袖口のマンダリンガーネットに触れた。
嬉しい。
嬉しい。
嬉しい。
だが、その感情は声に出さない。
代わりに、いつものように端末を開く。
「マスター。次の礼状草案があります」
「まだあるのか」
「はい」
「褒美を渡した直後に仕事を増やすのか」
「軍務ですので」
ジィッドは、しばらくニナリスを見た。
それから、諦めたようにペンを取った。
「分かった。見てくれ」
「はい、マスター」
袖口の橙が、小さく光った。
礼状の赤入れは、まだ続く。
ジィッドも、ニナリスも、戦場も、まだ終わっていない。
だがその日、銀月騎士団の執務テントに、ひとつだけ新しい色が増えた。