ノウラン市占領地・銀月騎士団執務テント
ジィッド・マトリアは、限界を迎えていた。
戦場ではない。
書類で。
礼状。
返礼。
追加報告。
救護記録。
ファティマ保護確認。
カーバーゲン整備報告。
若手教育計画。
ラド・ベイカーの救護任務記録。
南翼HL1教材。
撤退線保持訓練の評価表。
各軍による礼状の政治利用への対応文。
机の上に紙が積み上がる。
ニナリスは端末で整理してくれている。
整備班長は機体関係をまとめてくれている。
救護班長は救護記録を出してくれている。
だが、それでも足りない。
ジィッドは両手で顔を覆った。
「副官が欲しい」
テントにいた若手騎士が、びくっとした。
「隊長?」
「副官が欲しい。今、心の底から副官が欲しい」
ジィッドは顔を上げた。
「しかもベテランの副官が要る。今なら分かる。副官というのは、ただ横に立って命令を復唱する者ではない。団長が踏み込みすぎる前に止め、書類が政治利用される前に気づき、若手の熱を見て、救護班の白旗を見て、整備班の限界を見て、同盟軍への言い回しを整えてくれる人間だ」
若手騎士は真顔で聞いていた。
「大変そうですね」
「大変なんだよ」
ジィッドは机を叩いた。
「俺自身、まだまだこれからなんだぞ。デコーズ隊長に言われ、バギィ少将に言われ、ニナリスに止められ、礼状で赤を入れられ、デムザンバラにはピークを踏むなと言われている。俺が教わりたいことが山ほどある」
そこへ、バギィ・ブーフ少将が入ってきた。
「何を騒いでんだ」
ジィッドは即座に立ち上がった。
「バギィさん!」
「お、おう」
「俺を補佐してくれる、良い感じのベテランいませんか!」
バギィはジィッドを見た。
机の書類を見る。
端末を見る。
壁に貼られた「銀月は、帰すために立つ」を見る。
白旗運用表を見る。
若手教育予定を見る。
そして、実に渋い顔をした。
「いなねぇなぁ」
即答だった。
ジィッドが固まった。
「そんな即答ありますか」
「ある。いないもんはいねぇ」
「探してください」
「探していねぇんだよ」
バギィは椅子に腰を下ろした。
「いいか、ジィッド。お前が欲しがってるのは、ただの副官じゃねぇ」
「分かっています」
「分かってねぇ」
バギィは指を折った。
「若手の熱を冷ませる。救護班と整備班の言葉が分かる。ファティマを雑に扱わない。礼状の意味が分かる。敵に礼を出しても腰が引けない。味方に感謝状を出しても媚びない。撤退線を地味だと馬鹿にしない。バッハトマ内で舐められず、他軍にも口が利く。なおかつ、お前の癖を見て止められる」
ジィッドは黙った。
バギィは肩をすくめる。
「そんな奴が余ってると思うか?」
「……思いません」
「だろ」
その時、テントの外から声がした。
「随分と虫のいい話をしているじゃないか」
幕が上がる。
入ってきたのは、泉興京巴准将だった。
黒豹騎士団団長。
通称、トモエ姐さん。
騎士ではある。
だが、GTMで正面から斬り合う騎士ではない。
諜報、工作、潜入、撹乱。
忍者を束ね、煙幕と手裏剣と罠で相手を削る側の人間。
そして、ファティマが嫌いな女だった。
ニナリスは静かに一礼する。
「泉興京巴准将様」
トモエは、その礼を一瞥した。
返礼はする。
だが、温度はない。
「ああ」
短い。
ジィッドは慌てて姿勢を正した。
「トモエ准将」
「姐さんでいいよ。今さら准将呼びされても肩が凝る」
「では、トモエ姐さん」
「で、何だい。ベテラン副官が欲しいって?」
「はい」
「いないねぇ」
「まだ説明してません!」
「聞こえてたよ」
トモエは机の書類を見下ろした。
「礼状。返礼。白旗。救護。若手教育。ファティマ保護確認。撤退線保持。政治利用への追加文書。おまけにデムザンバラの起動記録まである。あんた、騎士団長というより前線役所でも始める気かい」
「俺もそう思い始めています」
「なら、余計にいない」
トモエは即答した。
「ベテランで、事務が読めて、戦場が見えて、若手を冷やせて、敵味方の筋も分かって、しかも銀月に来てもいい人材だろ。そんな便利な奴が余ってるなら、とっくに別のところが抱えてるよ」
ジィッドは項垂れた。
「やはり」
「それに、あんたのところは面倒だ」
「面倒ですか」
「面倒だよ。デコーズの下で、剣聖騎の成れの果てを運用して、若手を死に役から引き戻して、礼状で信用を積んでる。敵にも味方にも睨まれる。下手な副官なら三日で胃を壊す」
バギィが頷いた。
「俺もそう思う」
「バギィさんまで」
トモエはニナリスを見た。
「それで、そこのファティマが文書と制御を見てるわけか」
「はい、泉興京巴准将様」
「便利だねぇ」
声には棘があった。
ジィッドは少しだけ眉を動かす。
だが、ニナリスは表情を変えない。
「マスターの文書運用とデムザンバラ制御に必要ですので」
「そうかい」
トモエはそれ以上踏み込まなかった。
嫌悪はある。
だが、仕事の場だ。
必要な道具、必要な能力、必要な相手を、感情だけで排除するほど愚かではない。
「で、ジィッド」
「はい」
「一人で全部持つのは無理だよ」
「分かっています」
「分かってないねぇ」
トモエは机の上から礼状の写しを一枚持ち上げた。
「副官一人を探すんじゃない。機能を分けな」
「機能」
「そう。文書はファティマに見せているんだろう。なら、そこは使えばいい」
ニナリスを見る目には好意はない。
だが、評価はあった。
「整備は整備班長。救護は救護班長。若手の熱はバギィさんが時々殴ればいい。私は、諜報と工作と、他軍がどう文書を使うかくらいなら見てやれる」
ジィッドが顔を上げた。
「見ていただけるんですか」
「少しだけだよ」
トモエは釘を刺す。
「私は黒豹騎士団がある。あんたの副官にはならない。ただ、文書が政治利用される匂い、誰が裏で何を拾うか、どの礼状がどこで変な使われ方をするか。そのあたりは、騎士より忍者の方が見える」
バギィが笑った。
「適任じゃねぇか」
「面倒を増やすな、バギィさん」
トモエは軽く睨む。
それから、ジィッドへ向き直った。
「一つ言っておくよ。あんたの銀月は、もう“突っ込んで死んだ若手たち”では済まなくなってきている。帰還線を守れると記録された。白旗を守ると敵にも知られた。そうなると、次からは利用される」
「はい」
「利用されるなら、こっちも利用しな。礼状を出すだけじゃない。誰がそれを使うか、どう歪めるか、どこで広めるかまで見る」
「書類まで戦場ですね」
「当たり前だろ」
トモエは、少しだけ笑った。
「戦場ってのは、剣で斬る場所だけじゃない。紙、噂、酒席、寝所、敗残兵の愚痴、整備兵の小言。全部、戦場だよ」
ジィッドは黙る。
「俺は、それをまだ見えていません」
「見えてないから、聞きに来たんだろ。そこは悪くない」
トモエは書類を机に戻した。
「副官はいない。だけど、副官機能なら作れる。文書、整備、救護、教育、諜報、政治利用対策。線を分けな」
ニナリスが端末に入力する。
「銀月騎士団、分掌型副官機能案。文書補助、整備連絡、救護連絡、若手教育、撤退線訓練記録、他軍折衝補助、諜報・政治利用監視」
トモエが眉を上げた。
「早いね」
「必要ですので」
「……本当に便利だねぇ」
やはり、声には棘がある。
ニナリスは静かに受け止めた。
「はい」
ジィッドは、二人の間に流れる冷たいものを感じながらも、今は踏み込まなかった。
トモエ姐さんはファティマ嫌いだ。
それは噂では済まない。
だが、今ここでそれを正す場ではない。
ニナリスも、正されることを望んでいない。
まずは仕事だ。
「トモエ姐さん」
「何だい」
「諜報・政治利用監視の部分だけでも、初期の見方を教えてください」
「いいよ。ただし、私が見るのは文面じゃない」
「何を見るんですか」
「誰が、その文面を欲しがるかだ」
トモエは指を立てた。
「ウモスは撤収統制の正当化に使う。ロッゾは自軍の規律の証明に使う。ハプハミトンとドレンノは表で言わず、裏で借りとして抱える。敵側は、銀月を“白旗を撃たない敵”として記録する」
「はい」
「で、黒豹が見るのは、その次だ」
「次」
「その礼状や返礼を使って、誰が誰を黙らせるか。誰が誰に貸しを作るか。誰が銀月の名を使って、自分の失敗を薄めるか」
ジィッドは、少しだけ顔をしかめた。
「吐き気がしますね」
「慣れな」
「慣れたくありません」
「慣れなきゃ食われる」
バギィが低く笑った。
「ジィッド、よかったな。ベテラン副官はいねぇが、厄介な先生は来たぞ」
「本当に厄介ですね」
トモエは楽しそうに笑った。
「褒め言葉として受け取っておくよ」
ジィッドは椅子に座り直した。
「では、分掌案を作ります。ニナリス、草案を」
「はい、マスター」
「整備班長、救護班長、ラドも呼べ。若手からも二人選ぶ」
「承知しました」
若手騎士が、端で青ざめる。
「俺、まさか文書係ですか」
トモエがその若手を見た。
「あんた、字は読める?」
「読めます!」
「寝ずに?」
「……努力します」
「じゃあ返礼分類係だ」
「罰が役職に変わった!」
バギィが笑う。
「銀月らしくなってきたじゃねぇか」
ジィッドは机の書類を見る。
副官はいない。
都合のいいベテランなど余っていない。
だが、線は作れる。
撤退線と同じように。
一人で支えず、複数で支える線を。
文書。
整備。
救護。
教育。
諜報。
政治利用対策。
それを銀月の中に張る。
「……副官が欲しい」
ジィッドがもう一度呟くと、バギィとトモエが同時に言った。
「いないねぇ」
ジィッドは天井を仰いだ。
ニナリスが端末に入力する。
「銀月騎士団、副官機能構築計画。発端、ジィッド様の悲鳴」
「そこは消せ」
「教育資料として有用です」
「消せ」
トモエが笑った。
「残しときな。将来、銀月が大きくなった時に笑えるよ」
「俺が笑えません」
「団長なんて、だいたい後で笑われるものだよ」
ジィッドは諦めたようにペンを取った。
銀月騎士団は、また一つ組織になっていく。
その最初の一歩は、副官が欲しいという、団長の切実な悲鳴だった。