ノウラン市占領地・銀月騎士団・野戦食堂
野戦陣地が整うと、戦場の匂いが少し変わる。
泥と油と金属だけではない。
湯気。
焼いた肉。
煮込んだ豆。
温めたパン。
コーヒー。
そして、甘いものの匂い。
銀月騎士団の若手たちは、その匂いに釣られて食堂棟へ集まっていた。
食堂棟、といっても恒久施設ではない。
大型の天幕を連結し、床板を敷き、折り畳みテーブルと長椅子を並べた野戦食堂だ。
裏には移動式キッチン車。
給養兵たちが湯気の向こうで働いている。
ただし、今日の食事はいつものレーションではなかった。
Aレーション。
生鮮食材と冷蔵食材を使った、温食の最上位。
ノウラン市占領地の後方線が安定し、補給車列と冷蔵コンテナが通るようになったことで、ようやく出せるようになった食事だった。
「……肉の匂いがする」
「本物の肉だ」
「クラッカーとチーズペーストじゃない」
「いや、あれも嫌いじゃないけど」
「でも今日は肉だぞ」
若手騎士たちは、戦場より真剣な顔で配膳列に並んでいた。
一般兵用の大食堂は別にある。
銀月騎士団用の食堂は、騎士、整備班、救護班、ファティマが同席できるように少し広めに取られていた。
野戦陣地だからこそ、妙な形式ばった隔離はしない。
騎士は騎士で、ファティマはファティマで、整備は整備で、救護は救護で完全に分けるほど余裕はない。
むしろ、同じ線を守る者同士、同じ食堂で食べた方が情報も空気も回る。
ジィッドは配膳口の前で献立を見て、少しだけ目を細めた。
ローストビーフ。
グレービー。
マッシュポテト。
ベイクドチキン。
温野菜。
豆の煮込み。
サラダ。
ロールパン。
バター。
スープ。
コーヒー。
ジュース。
フルーツ。
パウンドケーキ。
そして、奥に冷凍保管箱があった。
若手の一人が、それを見て叫んだ。
「アイスクリームがある!」
食堂内の士気が、一瞬で跳ね上がった。
「嘘だろ!」
「野戦陣地でアイス!」
「勝った!」
「何に!?」
「補給に!」
給養兵が笑いながら言った。
「一人一つだ。二周するなよ」
若手たちは真剣に頷いた。
「了解!」
「今日一番揃った返事じゃないか?」
整備班長が呆れたように言う。
ジィッドはトレーを受け取りながら言った。
「温食は士気に効く。特に甘いものは」
ニナリスが隣で静かにトレーを持っていた。
今日もデカダン・スタイルだった。
日常生活と執務、教育、移動に対応するファティマの軽装装備。
白い襟元と紫紺の線、橙の差し色。
袖口には、ジィッドが贈ったマンダリンガーネットのカフスボタンが小さく灯っている。
野戦食堂の湯気と金属食器の音の中でも、ニナリスの姿は不思議と浮きすぎない。
むしろ、ファティマがファティマとして日常を送っているのだと分かる。
若手がその袖口に気づいた。
「ニナリス様、今日もカフス付けてる」
「似合ってるなあ」
「礼状の添削の褒美だっけ」
「七騎撃破じゃなくて礼状の添削って、隊長らしいよな」
ジィッドが振り返る。
「食事中に人の褒美の由来を掘るな」
「すみません!」
ニナリスは静かに言う。
「マスター。士気管理上、話題として機能しています」
「俺の羞恥も士気管理に入れるな」
「検討します」
「検討じゃなくてやめろ」
ラド・ベイカーは、少し離れた席でティリカと向かい合っていた。
ラドのトレーには、ローストビーフ、マッシュポテト、温野菜、豆の煮込み、ロールパン。
そして、まだ手をつけていないアイスクリーム。
ティリカのトレーは控えめだった。
スープ、柔らかいパン、少量のチキン、温野菜。
戦闘能力C、耐久Cの実務型ファティマ。
無理に食べる必要はないが、温かい食事を前にして、いつもより少しだけ表情が和らいでいるようにも見えた。
ラドはアイスクリームを見て言った。
「ティリカにも半分いるか?」
「ラド様。必要量は足りています」
「必要量じゃなくて、欲しいかどうか」
ティリカは少しだけ沈黙した。
「……一口であれば」
ラドは、ぱっと顔を明るくした。
「じゃあ溶けないうちに」
「ラド様。先に温食を終えてください」
「はい」
近くの若手が笑う。
「ラド、完全に管理されてる」
「ティリカ様の方が隊長より止め方うまいんじゃないか?」
ラドは反論しない。
「止めてくれるならありがたいだろ」
以前なら、そこで軽口を返していた。
だが今のラドは、そう言った。
周囲の若手たちが少し静かになる。
ティリカはただ静かに言った。
「良い傾向です、ラド様」
「うん。記録してくれ」
「記録します」
ジィッドはそのやり取りを横目で見ていた。
少しずつだ。
白旗を畳み、担架を持ち、救護班補助を続け、敵影を追わず、ティリカの停止警告を聞く。
それが、食堂での一口にも出始めている。
戦場ではない。
だが、こういう日常に出る。
ジィッドはスープを飲んだ。
「……温かいな」
ニナリスが答える。
「はい、マスター。給養兵によるAレーション提供は、隊内士気の改善に寄与しています」
「記録するのか」
「既にしています」
「だろうな」
若手の一人が、マッシュポテトにグレービーをかけすぎながら言った。
「隊長、これ毎日出ないんですか?」
「出ない」
「なぜ!」
「補給線と冷蔵保管と給養兵の労力を考えろ。毎日Aレーションが出るなら、それはもう野戦陣地じゃなくて基地だ」
「基地になりませんかね」
「戦争を食事目当てで長引かせるな」
整備班長が横から言う。
「でも、温食があると整備班の機嫌は確実に良くなります」
「整備班長まで」
「油と泥を落として、温かいものを食べられる。それだけで、次の整備で手順を雑にしない気力が戻ります」
救護班長も頷いた。
「救護班も同じです。冷たい携行食だけだと、負傷者搬送後の疲労が抜けません」
ジィッドは少し真面目な顔になった。
「分かった。給養兵への感謝状を出す」
若手たちが一斉に反応した。
「また礼状!」
「食堂にも礼状!」
「飯の礼状なら俺も読みます!」
ニナリスが端末を開く。
「草案を作成します」
「早いな」
「内容は、温食提供による士気維持、整備精度、救護班疲労軽減、ファティマの安定運用への寄与を含めます」
「そこまで書くのか」
「必要です」
給養兵の一人が、配膳口の向こうで目を丸くした。
「え、我々に感謝状ですか?」
ジィッドは頷いた。
「当然だ。戦場で温食が出るのは、当たり前じゃない。礼には礼で返す」
若手の一人が、パウンドケーキをかじりながら言った。
「隊長、また紙の戦場を広げてる……」
「飯の礼状は必要だろ」
「必要です!」
「満場一致だな」
バギィ・ブーフ少将が、いつの間にか食堂に入っていた。
トレーにはローストビーフが多めに盛られている。
「お、今日は当たりだな」
「バギィさん」
「Aレーションが出る陣地は長持ちするぞ。飯が温かいと兵隊は馬鹿なことを少し減らす」
若手が聞く。
「少しなんですか」
「少しだ」
「全部は減らないんですか」
「騎士だからな」
全員、妙に納得した。
バギィはニナリスの袖口を見て、少し笑う。
「例のカフス、付けてるのか」
「はい、バギィ少将様」
「いいじゃねぇか。前線の飯場に宝石ってのも変な絵だが、銀月らしい」
ジィッドが苦い顔をする。
「銀月らしい、の範囲が広がりすぎていませんか」
「白旗、礼状、アイスクリーム、マンダリンガーネット。十分らしいだろ」
「意味が分かりません」
「分かるようになったら末期だ」
そこへ、新入りの若い騎士が片腕を吊ったまま入ってきた。
先日、ジィッドに腕を切り落とされ、救護班に繋いでもらった跳ねっかえりだ。
顔色は悪いが、食欲はあるらしい。
「団長……」
「腕は」
「くっついてます」
「よし。今日は食え」
「はい」
「明日は書類仕事だ」
「……はい」
周囲の若手がにやにやする。
「礼状読めよ、新入り」
「二刀流より難しいぞ」
「初手で姿勢を崩されるな。文面でもな」
新入りは呻いた。
「俺、剣より先に礼状で鍛えられるんですか」
ジィッドは当然のように言った。
「そうだ」
ニナリスが補足する。
「ジィッド様に挑戦した件は、新入り教育資料として編集中です」
「編集!?」
「題名は“黒騎士の真似をする前に一刀を理解する”です」
食堂が笑いに包まれた。
新入りは耳まで赤くなったが、反論はしなかった。
片腕でトレーを持とうとして、救護班長に止められる。
「無理をしない。誰かに持ってもらいなさい」
「すみません」
ラドが立ち上がり、自然にトレーを持った。
「こっち座れ。片腕だとスープ危ない」
新入りは少し驚いた顔をした。
「ラドさん」
「俺も救護班で散々言われた。片腕で見栄張ると、こぼすし揺らす」
「……はい」
ティリカが静かに見ている。
「ラド様。良い対応です」
「うん」
ジィッドはそれを見て、わずかに息を吐いた。
野戦陣地の日常。
それは、戦場より地味だ。
食事を取る。
旗を畳む。
腕を繋ぐ。
書類を読む。
礼状を書く。
カーバーゲンを洗う。
ファティマと同じ食堂で温かいスープを飲む。
だが、こういう日常がなければ、若手はただの跳ねっかえりのままだ。
温食は、士気を保つ。
同じ食堂は、線をつなぐ。
アイスクリームは、少しだけ戦場を人間の場所に戻す。
ジィッドは、自分のトレーに残ったマッシュポテトを見た。
「ニナリス」
「はい、マスター」
「給養兵への感謝状、食後にやる」
「承知しました」
「ただし、今日は文面を少し柔らかくしたい」
「柔らかすぎると、公式記録としては不適切です」
「飯の礼状くらい、少し柔らかくてもいいだろ」
「検討します」
「そこは許可してくれ」
「草案を二種類作成します」
「助かる」
若手が叫ぶ。
「隊長! アイスクリーム溶けます!」
ジィッドは自分のカップを見る。
少し溶けていた。
「しまった」
ニナリスが静かに言う。
「マスター。食事中の業務思考過多です」
「それも記録か」
「はい」
「しなくていい」
「しました」
食堂にまた笑いが起きた。
銀月騎士団の野戦陣地に、温かい食事の湯気が立つ。
外では戦争が続いている。
だが、その日の昼だけは、若手たちは撃破数ではなく、アイスクリームの配給数に真剣だった。
それもまた、帰還線を守る騎士団の日常だった。