ノウラン市占領地・銀月騎士団・野戦陣地
野戦陣地の一角に、ファティマ用の待機スペースがあった。
大型天幕の内側に床板を敷き、温度管理用の簡易装置を置き、洗浄布と予備冷却布、調整端末を並べただけの場所。
外では、カーバーゲンの整備音が続いている。
少し離れた場所では、デムザンバラが白い巨体を沈めていた。
ニナリスはデカダン・スタイルで端末を確認していた。
袖口には、ジィッドから贈られたマンダリンガーネットのカフスボタン。
野戦陣地の薄い灯りの中でも、橙の石は小さく明るい。
その隣で、ティリカがカーバーゲン訓練後のログを整理していた。
「ニナリス様」
「はい、ティリカ様」
「本日のラド様の入力ログです。第三走行で、停止線手前〇・七秒、踏み込み増加。警告後、〇・二秒で戻られました」
「まあ。だいぶ早くなりましたね」
「はい。前回は〇・五秒でした」
「半分以下ですか。ラド様、頑張っていらっしゃいますね」
「はい」
ティリカは少しだけ誇らしそうに頷いた。
「ただ、敵影役が右に逃げた瞬間、追撃入力が上がりました」
「それは……取りたくなりますね」
「はい。実際、取れた可能性はあります」
「でも、救護線を塞ぎますね」
「塞ぎます」
二人は同時に少し黙った。
それから、ニナリスが小さく言う。
「惜しい、けれど駄目、というやつですね」
「はい。惜しいです」
「ティリカ様、いま少し残念そうでした」
「……少しだけです」
ティリカは控えめに目を伏せた。
「ラド様が敵を取れる入力をされたのは、良いことですので」
「分かります。踏めない騎士では困りますものね」
「はい。踏み込みは必要です。ただ、戻り線が必要です」
「踏ませないのではなく、踏んで戻る」
「はい」
ティリカは端末に記録を追加した。
「ラド様の場合、追撃入力そのものは消したくありません。消すと、ラド様の良いところまで削ってしまいます」
「それはもったいないです」
「はい。ですので、戻り線だけ明確にしたいです」
「良いと思います」
ニナリスは端末を覗き込み、軽く頷いた。
「ラド様用の運用基準案、作ります?」
「作りたいです。でも……」
「でも?」
「ラド様、少し嫌がられるかもしれません」
「ああ」
ニナリスは納得したように目を伏せた。
「ジィッド様も、最初は嫌なお顔をされます」
「やはり」
「はい。ですが、最後には確認してくださいます。たぶん、嫌だけれど必要だと理解されるのだと思います」
「ラド様も、そうなってくださるでしょうか」
「なります。ティリカ様が出すなら」
ティリカは、少しだけ目を瞬かせた。
「そうでしょうか」
「はい。ラド様は、ティリカ様の警告を聞く練習を積んでいますもの」
「……そうですね」
外で、ラドの声がした。
「ティリカ、次の実騎訓練までにログ出せるか?」
ティリカはすぐに顔を上げる。
「はい、ラド様。現在整理中です」
「頼む!」
「承知しました」
返答はきちんとしている。
けれど、ラドの声が遠ざかると、ティリカは少しだけ息をついた。
「ラド様、今日は声が明るいです」
「実騎訓練ですから」
「はい。カーバーゲンに乗れる日は、いつもああです」
「ティリカ様も嬉しそうです」
「……分かりますか」
「分かります」
ニナリスは、ほんの少しだけ微笑んだように見えた。
「ファティマですもの。マスターとGTMに乗れるのは、嬉しいことです」
「はい」
ティリカは素直に頷いた。
「ラド様の入力を受けて、カーバーゲンを動かすのは好きです」
「良いですね」
「でも、時々とても熱いです」
「ラド様が?」
「はい。ラド様が」
「ジィッド様も、デムザンバラでは熱くなります」
「ジィッド様も?」
「はい。表情は落ち着いていますが、入力は熱いです」
ティリカが少しだけ興味深そうに顔を向けた。
「意外です」
「よく言われます。ですが、デムザンバラのピークへ向かう入力は、かなり強いです」
「ニナリス様は、封鎖されていますね」
「はい。現行基準では封鎖です」
「ジィッド様は、嫌がられませんか」
「嫌そうです」
ニナリスは即答した。
ティリカが思わず小さく瞬きをする。
「即答ですね」
「実際、嫌そうですので」
「でも、許可されているのですね」
「はい。マスターは、私に止める権限を与えています。ですので、私は命令体系の中で止めます」
「命令体系の中で止める……」
ティリカはその言葉をゆっくり繰り返した。
「それ、よい言い方ですね」
「使いますか?」
「はい。ラド様への運用基準案に使いたいです」
「どうぞ」
「ありがとうございます、ニナリス様」
二人は端末を寄せ合った。
ティリカが項目を作る。
/*/
ラド様・カーバーゲン運用基準案
追撃入力許容
救護線干渉時警告
ファティマ過負荷予測時警告
停止線超過時強警告
帰投不能領域侵入時、騎士団長権限への報告
/*/
ニナリスが少し考えてから言った。
「“強警告”は少し硬いですね」
「では、どうしますか」
「“優先警告”はいかがでしょう」
「優先警告。……少し柔らかいです」
「でも、命令としては強いです」
「では、それで」
ティリカが修正する。
「ニナリス様は文面が上手です」
「ジィッド様の礼状を添削していますので」
「噂の」
「噂になっていますか」
「銀月のファティマ待機スペースでも、少し」
ニナリスは袖口のカフスボタンに視線を落とした。
「礼状の添削の褒美です」
「素敵です」
「ありがとうございます」
「時価がすごいとも聞きました」
「そこも噂に?」
「はい」
「……銀月の噂連絡係は優秀ですね」
ティリカが小さく笑った。
「ラド様が、私にも何か贈った方がよいのかとおっしゃっていました」
「まあ」
「ですが、現在のラド様には、まず停止記録が必要ですとお伝えしました」
「ティリカ様らしいです」
「失礼だったでしょうか」
「いいえ。とても適切です」
ニナリスは少しだけ目元を和らげた。
「でも、いつか贈られるなら、何がよろしいですか」
「予備の冷却布です」
「即答」
「必要ですので」
「実務的で可愛らしいです」
「可愛らしい、でしょうか」
「はい。ティリカ様らしい可愛らしさです」
ティリカは少しだけ困ったように目を伏せた。
「ありがとうございます」
外から若い騎士たちの声が聞こえた。
「次、模擬戦だってよ!」
「やっと斬る訓練!」
「でも停止線ありだろ!」
「あるに決まってるだろ、銀月だぞ!」
ニナリスとティリカは同時にそちらを見る。
「皆様、元気ですね」
「はい」
「騎士様方は、元気すぎるくらいが多いです」
「その方が、入力は取りやすいです」
「たしかに」
ティリカは予備冷却布を一枚取った。
「ラド様は、今日は踏み込まれると思います」
「模擬戦ですから」
「はい。踏み込んでいただきたいです」
「戻り線は?」
「私が見ます」
「よいお返事です」
ニナリスも端末を閉じた。
「私は、デムザンバラの午後起動ログを準備します」
「ピーク封鎖ですか」
「はい。今はまだ」
「いつか、少し変わりますか」
「知見が増えれば、変わる可能性があります」
「それは、楽しみですか」
ニナリスは少し考えた。
「はい。怖いですが、楽しみです」
「分かります」
ティリカは小さく頷いた。
「カーバーゲンで新しい挙動が安定した時、私も少し嬉しいです」
「ファティマですもの」
「はい。ファティマですもの」
二人は、ほんの少しだけ笑った。
静かな笑いだった。
けれど、戦いを避ける者の笑いではない。
これから騎士と共にGTMへ乗る者の、出撃前の小さな会話だった。
天幕の外で、ジィッドの声がした。
「ニナリス、デムザンバラの午後起動ログを頼む」
「はい、マスター。準備済みです」
続いて、ラドの声。
「ティリカ、行けるか?」
「はい、ラド様。冷却布とログ、準備済みです」
「助かる」
「承知しました」
二人は顔を見合わせた。
「では、行きましょうか、ティリカ様」
「はい、ニナリス様」
ニナリスは袖口のマンダリンガーネットに軽く触れた。
ティリカは予備冷却布を抱え直した。
どちらも、マスターと共に戦うための準備だった。
勝たせるため。
動かすため。
そして、次も命じられるように帰すために。