ノウラン市占領地・銀月騎士団・団長執務テント
夜も遅い。
野戦陣地の外では、整備区画の灯りがひとつずつ落ち始めていた。
カーバーゲンの洗浄音も、デムザンバラの冷却音も、もう低く遠い。
だが、ジィッド・マトリアの執務テントだけは、まだ明かりが残っていた。
机の上には、礼状ではなく映像記録が開かれている。
黒騎士デコーズ・ワイズメルの戦闘記録。
何度も、同じ場面が再生されていた。
敵騎が踏み込む。
デコーズは動いていないように見える。
次の瞬間、敵の間合いが崩れる。
剣が触れたようには見えない。
だが、衝撃が走っている。
遅れて、敵騎の腕部が跳ね、姿勢が流れた。
ジィッドは、映像を止めた。
「ここだ」
ニナリスが隣に立っている。
今日はデカダン・スタイルではなく、執務用に整えた軽装だった。
袖口のマンダリンガーネットだけが、灯りを受けて小さく光っている。
「この足捌き」
ジィッドは映像を一コマ戻した。
「腰と膝の屈伸で、滑るように移動している。踏み込んでいない。跳んでもいない。足裏を浮かせずに、間合いだけが消えている」
「はい、マスター。すり足です」
「分かってはいる。理屈としては」
ジィッドは、また再生する。
黒騎士の影が、映像の中で揺れた。
動いたようには見えない。
だが、確かに動いている。
間合いを詰める。
超接近で手の動きだけを入れる。
衝撃を発生させる。
そして、同時に元の位置へ戻る。
だから遠目には、離れた位置から無手を放ったように見える。
「ここを真似できれば……俺はもう一段強くなれる」
ジィッドの声には熱があった。
戦場で若手に見せる熱とは違う。
デムザンバラのピークへ向かう危うい熱でもない。
純粋に、騎士として強くなりたい熱だった。
ニナリスは端末の時刻と、ジィッドの身体反応を確認した。
「マスター。現在の集中時間は、予定上限を超過しています」
「分かってる」
「明日の実騎訓練に響きます」
「分かってる」
ジィッドの視線は、まだ映像から離れない。
ニナリスは少しだけ間を置いた。
「今日はここまでにしましょう」
ジィッドは返事をしなかった。
映像の中で、デコーズがまた滑る。
腰が沈む。
膝が動く。
上体は乱れない。
剣の軌道ではなく、足の消え方で敵の意識が遅れる。
「……そうだな」
ジィッドは、ようやく言った。
「今日はもう休むか」
だが、手は動かない。
映像記録は閉じられていない。
視線も、まだ黒騎士の足元に張り付いている。
ニナリスは静かに言った。
「マスター」
「何だ」
「今、休むとおっしゃいました」
「言ったな」
「実行されていません」
「……もう少しだけ」
「却下します」
ジィッドがようやくニナリスを見た。
「却下か」
「はい。明日の訓練効率、デムザンバラ起動時の反応、筋出力制御、すべてに影響します」
「厳しいな」
「マスターが強くなるために必要です」
ジィッドは苦笑した。
「その言い方はずるい」
「有効ですので」
ニナリスは映像を停止し、端末に保存指示を入れた。
「該当箇所は抽出済みです。明日の午前、通常訓練後に三分だけ確認できます」
「三分?」
「はい」
「短い」
「三分以上見ると、実演したくなります」
「……否定できない」
「実演すると、明後日に響きます」
「そこまで読むか」
「マスターですので」
ジィッドは椅子にもたれた。
疲れが一気に出たように、肩が落ちる。
「デコーズ隊長は、これを当たり前みたいにやる」
「はい」
「俺が真似したら、たぶん膝を壊す」
「高確率で」
「少しは慰めろ」
「段階を踏めば、一部の要素は習得可能と推定します」
「それは慰めか?」
「評価です」
「知ってた」
ジィッドは苦笑し、映像が消えた黒い画面を見る。
そこにはもう黒騎士はいない。
けれど、足の動きだけが頭に残っている。
滑るような移動。
間合いを消す腰。
膝の沈み。
戻る速さ。
敵に「動かなかった」と錯覚させる間。
「ニナリス」
「はい、マスター」
「明日、足運びの基礎だけ確認する。すり足そのものじゃない。腰と膝の沈み込みと、戻りだけだ」
「承知しました。負荷を制限します」
「デムザンバラには乗せるな」
「はい。生身での確認に限定します」
「それと、若手には見せるな」
「理由は」
「真似する」
「妥当です」
ニナリスは記録した。
/*/
黒騎士戦闘記録研究。
対象:すり足、無手前段階の間合い処理。
マスターの関心強。
夜間視聴制限必要。
若手への公開禁止。
/*/
ジィッドが目を細める。
「夜間視聴制限必要、は消せ」
「必要です」
「副官みたいなことをするな」
「私はファティマです」
「副官がいないから、ファティマに止められてる」
「はい」
「はい、じゃない」
ニナリスは端末を閉じた。
「マスター。休息してください」
「分かった」
ジィッドは立ち上がった。
だが、出口へ向かう前に、もう一度だけ黒い画面を見た。
「いつか、あの足に一歩だけでも近づく」
「はい」
「デムザンバラではなく、俺自身で」
「はい、マスター」
ニナリスは、少しだけ柔らかく答えた。
「そのためにも、今日はお休みください」
ジィッドは笑った。
「結局そこか」
「はい」
外では、野戦陣地の夜が静かに沈んでいる。
黒騎士の足は、まだ遠い。
だが、ジィッドはそれを見た。
見えないものを、少しだけ見た。
その夜、彼はようやく映像記録から目を離した。
そしてニナリスは、彼が振り返ってまた再生しないよう、端末をそっと自分の側へ寄せた。