ノウラン市占領地・黒騎士隊・臨時指揮所
作戦図の上で、王都ペイジ周辺は意図的に白く残されていた。
空白地帯。
正面から押し込まない。
主攻を悟らせない。
周辺諸勢力を牽制させ合い、疑心暗鬼にし、兵站と情報を濁らせる。
それが、初期の方針だった。
ジィッド・マトリアは地図を見下ろし、ノウラン市の位置に指を置いた。
「王都ペイジ周辺は空白地帯にして牽制させ合う。混乱させる。それが初期の戦略でした」
デコーズ・ワイズメルは椅子に浅く腰掛け、片肘をついていた。
「そうだねぇ。みんなで睨み合って、誰も気持ちよく動けない。悪くない腐らせ方だったろ」
「はい。ですが、もう良い具合に煮えてきた」
ジィッドはノウラン市を軽く叩いた。
「だから、王都ペイジ近くのノウラン市を押さえた。ここをただの野戦陣地で終わらせるのは惜しいです」
バギィ・ブーフ少将が腕を組む。
「で、言いたいことは?」
「ここを陣地化して、段階的に基地へ発展させてもよろしいでしょうか。デコーズ隊長」
デコーズは、にやりと笑った。
「お前、食堂作った時点で基地にする顔してたぜ」
「食堂は士気維持です」
「その言い訳も基地を作る奴の言い訳だよ」
ジィッドは否定しなかった。
代わりに、書類を差し出す。
「ノウラン市基地化計画案です」
デコーズは書類を受け取り、ぱらぱらとめくった。
「また紙か。お前、ほんと騎士団長になってから紙ばっか増やすねぇ」
「必要です」
「好きなんじゃねぇの?」
「好きではありません」
「じゃあ向いてるんだろ」
「嬉しくありません」
バギィが低く笑った。
「項目は?」
ジィッドは即座に答えた。
「第一段階、野戦陣地の固定化。防御線、見張り所、補給路、救護所、ファティマ待機スペース、カーバーゲン整備区画、デムザンバラ専用冷却区画」
「うん」
「第二段階、後方補給との接続。冷蔵保管、移動式キッチン、予備部品倉庫、燃料・魔導炉関連資材。給養兵の常駐化も必要です」
「飯を重く見るようになったな」
「温食は士気に直結します。整備班と救護班の疲労回復にも効きます」
「銀月らしいな」
「第三段階、ファティマ保守区画の設置」
デコーズの目が少し細くなった。
「ファティマ保守?」
「はい」
ジィッドは資料を一枚抜き出した。
「前線でファティマスーツが汚損・破損した際、若手騎士や一般整備兵だけでは扱いきれません。デカダン・スタイルであっても非常に高価で、素材管理も難しい。アシリア・セパレートともなれば、なおさらです。肌着やブラウスも、ファティマがアレルギーを起こさない天然素材が必要になります」
「金のかかる話だな」
「はい。ただし、金だけではありません。誰が触れてよいか、どの範囲で洗浄・補修・保管できるかが問題です」
ジィッドは続けた。
「ファティマは、マスターの許可範囲と運用基準が明確なら、自身の装備について高精度に判断できます。若手騎士たちに手が余るなら、ファティマが自らの権限で整備できる区画を作るべきです」
バギィが頷いた。
「つまり、ファティマ服の整備を人間側の雑な倉庫仕事にしないってことか」
「はい。洗浄、補修、予備服管理、素材確認、着用後の状態記録。ファティマ自身が判断できる範囲を明文化して、専用区画で行わせます」
「ニナリスの案か?」
「ニナリスと整備班長の意見を入れています」
「お前の意見は?」
「若手に触らせると、たぶん事故ります」
デコーズが笑った。
「正直だねぇ」
「触って壊した後に値段と責任を知るより、最初から触らせない方がいいです」
「そりゃそうだ」
デコーズは書類をさらにめくる。
「第四段階は?」
「指揮機能の拡張です。銀月だけではなく、同盟軍の小部隊が一時後退、救護、補給、整備に使える中継基地にします。白旗線、負傷者交換、ファティマ返還手順を標準化します」
「お前、とうとう基地運営までやる気か」
「やりたくはありません」
「でも案は作ってる」
「必要だからです」
デコーズは、机に書類を置いた。
「ノウランを基地にすれば、ペイジ周辺の空白地帯は完全な空白じゃなくなる。敵も味方もここを見る。補給部も、救護も、整備も、商人も、難民も、間者も寄ってくる」
「はい」
「面倒だぜ」
「理解しています」
「いや、たぶん理解してない。お前の想像の三倍は面倒だ」
「それは嫌です」
「嫌でもやるんだよ」
ジィッドは少し眉をひそめた。
「やる、ですか」
デコーズは笑った。
「そう。お前がやる」
ジィッドの顔がはっきり嫌そうになった。
「……私は線を引くつもりでした。基地司令部の下で、撤退線、救護線、ファティマ返還線、整備線の基準策定を」
「いいや」
デコーズは書類の上を指で叩いた。
「お前が基地司令だ」
沈黙。
バギィが少しだけ口角を上げた。
ジィッドは、ゆっくりと言った。
「デコーズ隊長。私はまだ若輩です。銀月騎士団の運用だけでも手が回りきっていません。副官もいません」
バギィと、いつの間にか入口に立っていたトモエが同時に言った。
「いないねぇ」
ジィッドはそちらを見ないようにした。
「それに、基地司令となれば他軍折衝、補給、救護、整備、警備、諜報、給養、ファティマ保護、住民対応まで含まれます。私はまだ――」
「准将にする」
デコーズが軽く言った。
ジィッドが止まった。
「はい?」
「ジョー・ジィッド・マトリア。お前を准将に任命する。ノウラン基地司令だ」
「お待ちください」
「待たない」
「階級が上がれば仕事が減るわけではありません」
「増えるねぇ」
「分かっていて言っていますね」
「分かって言ってる」
ジィッドは、本当に嫌そうな顔をした。
「私は、戦場に出る騎士です。基地司令ではありません」
「戦場に出る騎士だから、ここをどう使うか分かるんだろ」
「基地運営は専門職が」
「専門職はあとで付ける。最初に線を引く奴が要る。お前だ」
「デコーズ隊長」
「ボクちゃんは忙しい。一か所に留まってられないんだから、お前がやるんだよ」
デコーズの声は軽い。
だが、命令だった。
ジィッドはしばらく黙った。
バギィが口を開く。
「ジィッド。嫌なのは分かる」
「はい」
「だが、お前が作った案だ。お前以外が司令になったら、半分は潰れる」
「……それは」
「ファティマ保守区画なんざ、普通の奴なら真っ先に後回しだ。救護線も白旗線も、攻勢優先で削られる。給養は飯が出ればいい扱いになる。整備線も、デムザンバラとカーバーゲンを同じ感覚で詰め込まれる」
トモエが冷たく続けた。
「諜報線もね。基地に人が集まるなら、噂と間者の線を最初から張らないと腐る。後から直すのは面倒だよ」
ジィッドは地図を見た。
ノウラン市。
ペイジ近郊に置かれる、ただの野戦陣地ではないもの。
補給が来る。
救護が来る。
整備が来る。
ファティマが戻る。
若手が出撃し、帰る。
時には死体も戻る。
それを、誰かが線にしなければならない。
「……准将ですか」
「そうだよ、准将殿」
デコーズが楽しそうに笑う。
ジィッドは明らかに嫌そうだった。
「荷が重いです」
「軽い荷を渡すために出世させるわけねぇだろ」
「それはそうですが」
「あと、出世はしてるだろ」
ジィッドは思わず若手の口調を真似て言った。
「思ってたのと違う」
バギィが吹き出した。
トモエも口元だけ笑った。
デコーズは声を上げて笑った。
「いいじゃねぇか。星を取って准将だ。立派なもんだろ」
「基地司令になるとは聞いていません」
「今言った」
「横暴です」
「黒騎士だからな」
ジィッドは深く息を吐いた。
「条件があります」
「言え」
「基地司令部には、実務参謀を付けてください。補給、給養、整備、救護、警備、諜報、それぞれに専門責任者を置く。銀月だけで回すのは不可能です」
「当然だ」
「ファティマ保守区画は、ファティマ自身の権限を明文化します。マスターの許可範囲に基づき、洗浄・補修・素材確認・予備服管理を行えるようにする」
「通せ」
「デムザンバラ専用区画は、一般GTM整備区画から分離します」
「それも通せ」
「基地は墓にしません。維持不能なら焼いて退きます」
デコーズは笑みを少しだけ深くした。
「それを言えるなら、やれる」
「やりたくはありません」
「やれ」
「はい」
ジィッドは敬礼した。
「ジョー・ジィッド・マトリア、准将任命およびノウラン基地司令拝命、承りました」
「嫌そうだねぇ」
「嫌です」
「正直でよろしい」
デコーズは立ち上がり、地図の上のノウラン市を指で叩いた。
「ここを、ペイジ周辺の煮えた鍋に置く蓋にしろ。攻めるための矛じゃねぇ。折れた矛を直す場所だ。だが、敵が蓋を取ろうとしたら噛みつけ」
「承知しました」
「銀月も使え。だが、銀月だけにするな。お前はもう基地司令だ。自分の騎士団だけ見てたら足元を掬われる」
「はい」
「あと」
「はい」
「准将になったんだから、帝国騎士服の着方はちゃんとしろよ」
ジィッドはそこで少し顔をしかめた。
「礼服は支給されたバハットマ魔法帝国騎士服があります」
「シアン夫人に作らせたやつは?」
「あれは格式のある戦闘用騎士服です。ニナリスの装いと合わせる必要があって作っていただいたもので、礼服ではありません」
「贅沢だねぇ」
「私の趣味ではありません」
「本当かなぁ」
ジィッドは答えなかった。
デコーズはにやにやしている。
バギィが肩をすくめた。
「まあ、准将なら着るものも増やせ。基地司令が服一着で回ると思うな」
「予算が」
トモエが即座に言った。
「司令部面子維持費」
「便利な言葉ですね」
「覚えな」
ジィッドはまた深く息を吐いた。
「副官が欲しい」
バギィとトモエが、また同時に言った。
「いないねぇ」
デコーズは笑いながら手を振った。
「行け、准将。ノウランを基地にしてこい」
ジィッドは書類を抱え直し、指揮所を出た。
外には、まだ野戦陣地の空気があった。
泥。
油。
温食の匂い。
冷却中のGTM。
若手の声。
給養兵の怒鳴り声。
ファティマ待機スペースの静けさ。
これを、基地にする。
そして、自分がその司令になる。
ジィッドは嫌そうに空を見上げた。
「……思ってた出世と違う」
だが、足は止めなかった。