ノウラン基地司令部
ユーコン財団から派遣された経営人材は、三日でノウラン市の帳簿を組み替えた。
道路修繕費。
酒場営業許可。
洗濯屋の再開支援。
兵士向け食堂の仕入れ導線。
市民雇用。
軍票交換。
苦情受付。
店舗保護費ではなく「営業安定協力金」と呼ばれる謎の項目。
ノエル・バルデン・ローグは、その帳簿の山を見ていた。
「……これ、昨日までの帳簿と別物じゃないですか」
ユーコン財団から来た男は、涼しい顔で答えた。
「昨日までのものは帳簿というより、騎士様方の善意と根性の記録でしたね」
「刺しますね」
「褒めております。経済に不慣れな騎士様方で、よくこれだけ回しておりましたね」
「褒めてるんですか?」
「はい。ですので、ローグ卿、もう少し頑張ってみましょう」
ノエルは一瞬止まった。
「サー・ローグ……って」
「私は騎士ではありませんから」
「あ、はい。でも助かります」
「助けます。ですが、こちらも使わせていただきます」
財団の男は、ノエルの前に新しい許可書を置いた。
「ここはローグ卿の名前と資金で回しましょう」
「え、いいんですか、それ?」
「良いのです。欲と名前を見せるのも大事です」
「欲と名前」
「人は、綺麗な理念だけでは動きません。誰が得をするのか。誰の顔を立てればよいのか。誰に借りを作るのか。それが見えた方が安心する者も多い」
ノエルは眉を寄せた。
「俺、文書運用補佐なんですが」
「だから向いています」
「どこがですか」
「あなたは腕を斬られても残った。勲章も受けた。銀月の文書線を任されている。若手騎士としての顔もあり、失敗した者としての傷もあり、今は基地運営側の名もある。商人から見ると、実に使いやすい名前です」
「使いやすい名前……」
褒められている気がしない。
だが、使えると言われているのは分かる。
リネットが横から静かに言った。
「ノエル様。ローグ卿名義の許可書は、銀月騎士団の中間層への信用付与として有効です」
「リネットまで」
「はい。ジィッド様の名前を使う前段階として、適切です」
「俺が緩衝材か」
「はい」
「即答しないで」
その時、ジィッドが司令室へ入ってきた。
「何の話だ」
財団の男は、丁寧に一礼した。
「マトリア卿。ノウラン市南市場の再開について、ローグ卿名義で営業許可を出す案です」
ジィッドはノエルを見た。
ノエルは両手を上げた。
「俺が言い出したんじゃありません」
「だろうな」
ジィッドは書類へ目を落とす。
「南市場か。あそこは補給車列とも近い。民間商人を入れすぎると漏れるぞ」
「はい。ですので、表の許可はローグ卿。実際の検査線は黒豹。仕入れ保証はユーコン財団。支払い導線は基地司令部。四つに分けます」
「面倒だな」
「面倒なほど、不正は一度で抜けにくくなります」
「なるほど」
ジィッドは少しだけ嫌そうに頷いた。
「ほどほどにな」
「心得ております」
財団の男は微笑んだ。
「ただ、もう一点。マトリア卿の名前をお借りしたく」
司令室の空気が少し止まった。
ジィッドの眉が動く。
「どこに使う」
「道路修繕組合の再編です。地元の顔役たちが、誰の下で働くのかを気にしております。ローグ卿の名では若すぎる。ユーコン財団の名では外から来た金に見えすぎる。ここは、ノウラン基地司令マトリア卿の名前が必要です」
「……わかった」
「ありがとうございます」
「ただし、俺の名前で市民を絞るな」
「絞りません。働かせ、払わせ、また働きたくさせます」
「怖い言い方をするな」
「経済ですので」
ノエルが小声で言った。
「軍務ですので、みたいに言う……」
ニナリスが淡々と答える。
「有効な表現です」
ジィッドは市街図を見た。
南市場。
道路修繕組合。
酒場予定地。
洗濯屋街。
兵士外出許可区域。
黒豹の噂拾い線。
救護課の市街対応線。
表の復興。
裏の監視。
清い帳簿。
濁った利権。
それらが少しずつ噛み合って、ノウラン市は回り始めている。
「ノエル」
「はい」
「ローグ卿として名前を貸せ」
「思ってた出世と違います」
「俺もマトリア卿として貸す」
「准将も道連れですか」
「そうだ」
ノエルは少しだけ笑った。
「なら、やります」
財団の男は満足げに頷く。
「良いお返事です、ローグ卿」
「まだ慣れません」
「慣れてください。名前は使うほど通ります」
ジィッドは窓の外を見た。
壊れた道に、修繕の杭が打たれている。
酒場の看板を掛け直す男がいる。
洗濯屋の女主人が、兵士相手の料金表を貼っている。
黒豹の若手が、何食わぬ顔で市場の端に立っている。
ノウラン市は、まだ占領地だ。
だが、ただの占領地ではなくなり始めている。
「裏と表、清濁合わせて統治、か」
ジィッドが呟く。
財団の男は、涼しく答えた。
「はい。綺麗な水だけでは、街は回りません」
「濁りすぎれば腐る」
「ですので、騎士様方に剣と名前をお借りします」
ジィッドは小さく息を吐いた。
「嫌な仕事を覚えていくな」
ニナリスが静かに言った。
「マスター。基地司令として有効です」
「知ってた」
ノエルは新しい許可書を見下ろした。
そこには、自分の名があった。
ノエル・バルデン・ローグ。
腕を斬られた若手。
書類係。
文書運用補佐。
勲章持ち。
そして今、ノウラン市南市場再開の顔。
「……ローグ卿か」
本人はまだ慣れない。
だが、名前はもう使われ始めていた。