ノウラン基地司令室
ノウラン市の市街図には、赤と青と緑の線が増えていた。
赤は軍務。
青は民間流通。
緑はユーコン財団系の経済導線。
道路修繕。
南市場再開。
酒場営業許可。
洗濯屋街。
修理工房。
兵士外出区域。
市街救護線。
黒豹の噂拾い。
ジィッドは図面を見下ろし、ぽつりと言った。
「いざとなったら、基地を焼き捨てて撤退するつもりなんだがな」
司令室が少し静かになった。
ノエルが書類束から顔を上げる。
「いきなり物騒ですね」
「基地を墓にするつもりはない。守れないなら焼く。書類も通信設備も、GTM格納庫も、使えるものは残さない」
ジィッドは淡々と言った。
「そういう手順は作ってある」
ユーコン財団から派遣された経営人材は、少しも驚かなかった。
むしろ、当然の話として頷いた。
「司令がそのつもりでも、市民はそう見ません」
「どういう意味だ」
「資金が街に落ちています。道路が直り、店が開き、商人が戻り、兵士が金を使い、洗濯屋が雇用を増やしている。市民にとっては、バッハトマ軍がノウラン市に資産を置き始めたように見えます」
男は市街図の上を指でなぞった。
「資産が街にあれば、簡単にはノウラン市を捨てない。そう見ます。だから安心するのです」
ジィッドは眉を寄せた。
「こちらは撤退準備も並行している」
「それは軍の都合です」
「重要な都合だ」
「もちろんです。ですが、市民が見るのは焼却手順ではありません。道が直ったか。仕事があるか。客が来るか。支払いがあるか。そこです」
ノエルが小さく唸った。
「つまり、こっちが撤退できるよう準備していても、街に金を落とせば、市民は“ここを持ち続ける気がある”と見る」
「はい、ローグ卿」
「ローグ卿、まだ慣れません」
「慣れてください」
ジィッドは腕を組んだ。
「資金の積立と運用は別でやってるんだが……」
その瞬間、ノエルが反応した。
「団長! そんなことやってたんですか!」
ラドも目を丸くした。
「積立と運用?」
「やるだろ」
ジィッドは本気で不思議そうに返した。
「失職した時に困るぞ」
沈黙。
ノエルが口を開けたまま止まった。
「失職」
「騎士団が潰れるかもしれない。負けるかもしれない。左遷されるかもしれない。デムザンバラが壊れて俺の立場が飛ぶかもしれない。基地司令なんて、失敗したら一発だ」
「そこまで考えてたんですか」
「考えるだろ」
「騎士って、もっとこう、星とか、名誉とか、主君とか」
「星と名誉で飯は食えん」
ノエルが衝撃を受けた顔をした。
「団長が一番騎士っぽくないこと言った」
「ジィッド様は現実的です」
ニナリスが淡々と言った。
「マスターは、戦死時の私の移動・調整・保護資金として、マンダリンガーネットのカフスボタンも贈与されています」
「それも資産運用の一部だったんですか!」
「一部ではない。別枠だ」
ジィッドは言った。
「ニナリスの身につけるものだ。俺の積立とは分けている」
ユーコン財団の男が、初めて少し楽しそうな顔をした。
「マトリア卿は、騎士としては珍しい金銭感覚をお持ちですね」
「褒めているのか」
「かなり」
「ならいい」
ノエルはまだ納得しきれない顔をしている。
「俺、腕斬られて書類係にされた時点で将来設計が壊れたと思ってました」
「なら作り直せ」
「軽い」
「腕は繋がった。勲章もある。ローグ卿の名前も通り始めている。今から積み立てろ」
「何の話ですかこれ」
「出世した若手騎士の資産形成だ」
「思ってた騎士団会議と違います!」
ラドがぼそっと言った。
「俺もやった方がいいのか」
「やれ」
ジィッドは即答した。
「救護課トップは恨みも買う。怪我もする。騎士を続けられなくなった時に困る」
ラドは胸元の勲章を見た。
「……急に現実が重い」
ティリカが静かに言う。
「ラド様。救護課手当、危険任務手当、勲章に伴う支給記録を分類すれば、積立可能額を算出できます」
「ティリカ、できるのか」
「命令範囲をいただければ」
「……頼む」
「はい、ラド様」
ノエルがリネットを見る。
「リネット」
「はい、ノエル様」
「俺も?」
「はい。ローグ卿名義で市街許可に関わる場合、私費と軍務資金の分離が必要です。積立以前に、混同を避ける帳簿を作るべきです」
「俺、また帳簿?」
「出世です」
「厳しい!」
ユーコン財団の男は、満足そうに頷いた。
「よろしい。騎士様方に資産と帳簿の感覚が生まれれば、ノウラン市統治はもう一段安定します」
ジィッドは少し嫌そうに言う。
「騎士団が金勘定に慣れすぎるのもどうなんだ」
「慣れない騎士団は、商人に食われます」
「それは困る」
「でしょう」
男は市街図へ視線を戻した。
「基地は焼けます。書類も燃やせます。GTM格納庫も破壊できます。しかし、一度街に落ちた金と信用は、簡単には燃えません」
ジィッドは黙った。
「それが良い方向に働けば、市民は基地を守ります。悪い方向に働けば、市民は逃げ遅れます。だから、撤退手順と経済政策は別ではありません」
「……撤退時の市民動線も必要か」
「はい」
「また線が増えた」
ノエルが机に突っ伏した。
「線が増える……」
ニナリスが端末に記録する。
「ノウラン市撤退時民間動線、資産保護、店舗閉鎖手順、軍務資金と民間資金の分離、騎士個人資産形成講習」
「最後の項目は何だ」
「必要です、マスター」
「本当に?」
「はい。ノエル様とラド様に効果があります」
二人が同時に顔を上げた。
「俺たち名指しですか!」
「出世です」
ジィッドは少しだけ笑った。
「まあ、やっておけ。騎士はいつ死ぬか分からん。死ななくても、仕事はいつ飛ぶか分からん」
ノエルがぼやく。
「団長、夢がないです」
「夢はあっていい。だが、夢から落ちた時の金も要る」
ユーコン財団の男が、深く頷いた。
「マトリア卿、その言葉は市民向け演説にも使えます」
「使うな」
「検討します」
「使うなと言った」
司令室に笑いが起きた。
外では、ノウラン市の道路修繕が進んでいる。
市場には屋台の骨組みが戻り、酒場には新しい看板が掛けられ、洗濯屋の前には兵士の衣類が積まれている。
基地は、いざとなれば焼く。
だが、街は簡単には焼けない。
金が落ちる。
信用が積まれる。
市民が働く。
騎士が遊びに行く。
店が増える。
それらすべてが、ノウラン市を「捨てにくい場所」にしていく。
ジィッドは市街図を見下ろした。
「……基地を墓にしないつもりだったんだがな」
ニナリスが答える。
「街を生かすほど、撤退判断は難しくなります」
「嫌なことを言う」
「必要なことです」
「知ってた」
ジィッドは赤線を一本引いた。
軍の撤退線ではない。
市民の避難線だった。