ノウラン基地
ユーコン財団から来た三人の管理官のうち、一人が帳簿を閉じた。
難民登録。
職能分類。
就労配分。
起業補助。
農地開墾。
港湾労働。
道路修繕。
オータ市の市場再開。
北東沿岸の倉庫と検問所。
三人で回すには、もう明らかに広すぎた。
だが、彼らは疲れた顔を見せなかった。
帳簿を見る目をしたまま、声だけを少し落とす。
「少将。薬はどうしますか?」
司令室の空気が変わった。
ノエルが眉をひそめる。
ラドは露骨に嫌そうな顔をした。
ニナリスは黙って記録待機に入る。
ジィッドは、すぐには答えなかった。
難民が集まる。
仕事が増える。
酒場が増える。
市場が開く。
港湾が動く。
荷役、洗濯、修理、食堂、宿屋、女衆、元兵士、騎士崩れ、情報屋。
ノウラン市だけではない。
オータ市も動き始めている。
その間の北東沿岸街道にも、人と物と金が流れ始めている。
街が大きくなれば、必ず影も太る。
「違法薬物の根絶は不可能だ」
ジィッドは言った。
ラドが顔を上げる。
「少将」
「根絶できると言う奴は、街を見ていない。だが、勝手に売られると、勝手に網を作られる」
ジィッドは地図を指で叩いた。
「薬の網は、金の網だ。金の網は、情報の網になる。放置すれば、売人、情報屋、敵の諜報、ゴロツキ騎士、腐った補給係、全部がそこに絡む」
管理官は、薄く笑った。
「では」
「必要悪として認める」
ノエルが小さく息を呑んだ。
ジィッドは続ける。
「ただし、野放しにはしない。管理できる裏組織を作れ。薬物被害を一定の水準以下に抑えろ。未成年、軍務中の兵、ファティマ周辺、医療区画、避難民登録所には近づけるな」
ラドが低く言う。
「医療班には情報を回してください。中毒者を隠されると死にます」
「回す」
「処罰だけでは駄目です。治療線も要ります」
「作れ」
ニナリスが静かに記録する。
「魔薬被害者医療線、保護対象、再発監視、憲兵連絡を分離します」
ラドが頷く。
「頼む」
三人の管理官の一人が満足そうに頷いた。
「少将は話がわかる御方だ」
「褒めるな」
「では、裏社会に強い者を呼び寄せます。薬の販売網と組織を、こちらの見える範囲に構築する。モグリの売人には売りをやらせない。勝手な網を作らせない」
ノエルが嫌そうに言った。
「それ、ほとんど公認の裏組織では」
「公認ではない」
ジィッドは即座に返した。
「存在しない組織だ。だが、こちらが見ている。憲兵も、黒豹も、医療も、管理官も、全員が薄く線を持つ」
「清濁の濁りが濃すぎませんか」
「濁りを見ないふりをすると、街ごと腐る」
管理官は涼しい顔で言った。
「よい判断です。根絶を掲げる者ほど、裏で別の網を育てますからな」
ジィッドは冷たく返す。
「勘違いするな。売らせたいわけじゃない」
「もちろん」
「中毒を増やすな。暴力を増やすな。市民を食うな。軍の中へ入れるな。敵へ情報を流すな。線を越えたら潰す」
「承知しました」
管理官は、そこで初めて少しだけ真顔になった。
「管理できる悪だけを残し、管理できない悪を消す。そういうことですな」
「そういうことだ」
ノエルは額を押さえた。
「思ってた都市計画と違います」
ジィッドは短く言った。
「俺もだ」
別の管理官が地図を広げる。
「ただ、少将。現在の三名では、ノウラン、オータ、北東沿岸の港町、難民登録線、起業補助、港湾税務、裏社会監視まで同時に見るのは限界です」
「分かっている」
「最低でも、あと十名。できれば二十名。港湾税務、倉庫監査、雇用管理、治安連絡、医療会計、難民登録を分けたいところです」
ジィッドは嫌そうに顔をしかめた。
「三人で十分だと言ってなかったか」
「ノウラン市だけなら」
「オータまで取ったからか」
「はい」
「占領地を広げると、管理官も増えるのか」
「当然です」
「当然で殴るな」
ニナリスが端末に項目を追加する。
「管理官増員要請。港湾税務、軍政会計、難民登録、雇用監査、裏社会管理線を分離」
ノエルが呻く。
「また線が増えた……」
ジィッドは地図を見下ろした。
ノウラン市。
オータ市。
北東沿岸の港。
市場。
病院。
農地。
牧場。
酒場。
難民登録所。
そして、見えない地下の網。
「街を作ると、影も作ることになるんだな」
管理官は微笑んだ。
「影のない街はございません。問題は、その影が誰の足元に落ちるかです」
ジィッドは低く答えた。
「なら、俺たちの目が届く場所に落とせ」
善政ではない。
だが、放置でもない。
ノウランとオータは、また一つ、清濁を飲み込んで大きくなっていった。
/*/ 横流しの網 /*/
ジィッドは、魔薬管理線の資料を見ながら言った。
「どうせ、もう一般歩兵用の戦闘薬が横流しされてるしな」
ノエルが顔を上げた。
「断定ですか」
「断定だ」
ジィッドは淡々としていた。
「戦場に薬があり、兵がいて、補給があり、金が動いている。横流しがないと思う方がおかしい」
ラドが嫌そうに眉を寄せる。
「医療班に回すべき薬まで流れている可能性もあります」
「ある。だから調べる」
ユーコン財団の管理官は、少し楽しそうに指を組んだ。
「では、裏社会に強い者が到着次第、まず横流しの流通経路を洗います」
「売っている奴だけじゃない」
ジィッドは釘を刺した。
「横流し元、運び屋、保管場所、買い手、酒場、情報屋、軍の補給係、憲兵の腐った枝。全部だ」
「承知しました」
「それと、敵のスパイが噛んでいないか調べろ」
ノエルが低く言う。
「薬の網は情報の網になる」
「そうだ」
ジィッドは頷いた。
「戦闘薬がどこへ流れているかを追えば、どの部隊が疲弊しているか、どの兵が金に困っているか、どの酒場に情報屋が集まるかも分かる。敵がそれを見ないはずがない」
管理官は満足げに笑った。
「スパイが見つかった場合は」
「即座に潰すな」
ノエルが驚いた顔をした。
「潰さないんですか」
「使えそうなら使う」
ジィッドは言った。
「二重スパイにできるなら、偽の流通量、偽の部隊疲弊情報、偽の補給不足を流す。使えないなら黒豹に渡せ」
その場の空気が、少し冷えた。
黒豹に渡す。
それが何を意味するかは、誰も細かく聞かなかった。
ラドが口を開く。
「中毒者はどうします」
「治療線に入れろ。ただし、情報は取る」
「治療と尋問を混ぜると、医療班が壊れます」
「分けろ」
ジィッドは即答した。
「医療は治療。憲兵は軍規。黒豹は情報。ユーコンは流通。混ぜるな。ただし、線は繋げろ」
ニナリスが静かに記録する。
「薬被害者医療線、補給横流し調査線、敵諜報照会線を分離。共有項目のみ上位記録へ」
ラドが小さく頷いた。
「それなら医療班は動けます」
ノエルが額を押さえた。
「少将、これもう治安維持じゃなくて防諜作戦です」
「治安維持と防諜は、街の裏では同じ網に引っかかる」
管理官が頷いた。
「少将は本当に話が分かる御方だ」
「褒めるな。気分が悪い」
「では、実務に戻します。裏社会に強い者を呼び、販売網をこちらの管理下へ寄せます。モグリの売人は排除。横流し元は特定。敵に繋がる枝は、切る前に使えるか確認」
「やれ」
そこで三人目の管理官が、静かに手を挙げた。
「少将。繰り返しになりますが、この規模を三人で見るのは無理です」
「何度でも言うな」
「重要ですので」
「分かっている」
「ノウラン市、オータ市、北東沿岸の港町、街道宿場、難民登録所、農地、工房区、酒場街、軍補給倉庫。これに魔薬管理線と裏社会監視線が加わります」
ノエルが乾いた声で言った。
「やめてください。聞いているだけで胃が痛い」
「ですので、増員を」
ジィッドはため息を吐いた。
「ペール会長に泣きつく」
ラドが笑いを堪えた。
「またですか」
「まただ」
ジィッドは地図を見下ろした。
ノウラン市。
オータ市。
酒場。
市場。
港。
兵舎。
補給倉庫。
裏路地。
見える線だけでは街は回らない。
見えない線を放置すれば、敵がそこから入ってくる。
「薬を許すんじゃない」
ジィッドは低く言った。
「勝手な網を許さないだけだ」
ニナリスが静かに記録した。
「薬流通管理線、横流し調査線、二重スパイ運用候補線、管理官増員要請、作成します」
ノエルが乾いた声で呟く。
「また線と書類が増えた……」
ジィッドは短く返した。
「街を持つってのは、そういうことらしい」
善政ではない。
だが、放置でもない。
ノウランとオータの影は、少しずつ銀月の帳簿と黒豹の目の届く場所へ引き寄せられていった。