/*/ ペール会長への泣きつき /*/
その日の夕方。
ジィッドは通信卓の前で、すでに疲れた顔をしていた。
ノウラン市。
オータ市。
北東沿岸の港町。
街道宿場。
難民登録所。
農地。
工房区。
酒場街。
軍補給倉庫。
さらに、薬流通管理線。
横流し調査線。
二重スパイ運用候補線。
管理官増員要請。
書類は、すでに机の上で小山になっている。
ジィッドは通信回線が開くのを待ち、相手が映るなり言った。
「ペール会長。人をください」
通信画面の向こうで、ビューティ・ペールは優雅に資料をめくっていた。
「ご挨拶より先にそれですのね」
「挨拶している余裕がありません」
「正直ですわね」
「三人では足りません」
ジィッドは即答した。
「ノウラン市だけなら三人で回せた。オータ市を押さえて、北東沿岸まで広げたらもう無理です。さらに難民が来る。仕事を作る。市場を動かす。港を動かす。裏社会まで見なきゃいけない」
ペール会長は微笑んだ。
「それで、裏社会も管理対象に入れましたの?」
「入れざるを得ません」
「薬も?」
「勝手な網を作らせるよりは、見える場所へ寄せます」
「いい判断ですわね」
「褒めないでください。気分が悪い」
「ふふ」
ペール会長は、指先で資料を一枚送った。
「それで、何人必要ですの?」
「最低十人。できれば二十人」
「管理官だけで?」
「港湾税務、倉庫監査、難民登録、雇用監査、医療会計、治安連絡、裏社会監視、補給横流し調査。分けないと壊れます」
「壊れるのは都市ですの? それともジィッド君ですの?」
「両方です」
ペール会長は楽しそうに笑った。
「正直でよろしいですわ」
「本当に笑い事ではありません。薬の流通、難民、横流し、敵のスパイ、旧ベイジ避難民、騎士崩れ。全部が同じ酒場に集まるんです。管理官三人でどうにかなる量じゃありません」
ラドが横で小声で言う。
「少将、かなり切実ですね」
「切実なんだよ」
ノエルも書類を抱えたまま言う。
「僕も署名欄に潰されそうです」
ペール会長はノエルを見て、少し目を細めた。
「ローグ卿も育っていますわね」
「育てないでください!」
ジィッドとノエルの声が重なった。
ペール会長は、ひどく満足そうだった。
/*/ 条件 /*/
「よろしいですわ」
ペール会長は言った。
「管理官を送ります。まず十名。追加で十名は準備。港湾税務と軍政会計に強い者を優先します」
ジィッドは少しだけ救われた顔をした。
「助かります」
「ただし」
ジィッドの顔が曇る。
「来た」
「当然ですわね」
「条件ですか」
「条件というより、報告義務ですわ」
「最悪だ」
ペール会長は資料を読み上げる。
「ノウラン市、オータ市、北東沿岸港町の月次人口移動。難民登録数。就労転換率。起業補助件数。港湾税収。倉庫監査。薬物被害件数。裏社会接触線。補給横流し疑義件数。敵諜報関与の可能性。以上を月次で」
ジィッドは固まった。
「月次」
「はい。月次ですわ」
「報告書が増えた」
「人員も増えますわ」
「差し引きで胃が痛い」
「それはいつものことでしょう?」
「慣れていません」
「慣れますわ」
「慣れたくない」
ペール会長は、にこやかに言った。
「ジィッド君。都市を取るより、都市を腐らせずに持つ方が難しいのですわ」
「分かっています」
「だから、人を送ります。あなたは帳簿を見なさい。帳簿を見れば、街のどこが腐り始めたか分かります」
「騎士団長の仕事じゃない」
「少将の仕事ですわね」
「階級で殴らないでください」
ペール会長は楽しそうに笑った。
「では、管理官増員を承認します。ノウラン=オータ沿岸管理局とでも呼びましょうか」
「名前を増やさないでください」
「正式名が必要ですわ」
「正式名が増えると書類が増える」
「当然ですわね」
「当然で殴るな……」
/*/ 増えた管理官たち /*/
数週間後。
ノウラン基地に、追加の管理官たちが到着した。
十名。
全員、ユーコン財団系。
全員、笑顔が薄い。
全員、帳簿を見る目をしていた。
ノエルはその列を見て、思わず言った。
「増援というより、帳簿を持った軍隊ですね」
ラドが小声で返す。
「ある意味、騎士より怖いな」
ジィッドは頭を抱えた。
「怖いが必要なんだよ」
管理官たちは、到着してすぐ仕事を分けた。
港湾税務。
難民登録。
雇用監査。
医療会計。
農地開墾。
倉庫監査。
治安連絡。
裏社会監視。
補給横流し調査。
市場許可。
三人で抱えていたものが、十数の線に分かれていく。
ノエルは地図を見て呻いた。
「線が増えたのに、少し見やすくなっている……」
ジィッドが言う。
「それが怖い」
ニナリスが端末を見ながら答える。
「管理線が分離されたことで、異常値を検出しやすくなっています」
「便利だな」
「はい」
「便利なものほど仕事が増える」
「はい」
新任管理官の一人が、淡々と報告した。
「少将。難民登録所の滞留が減りました。職能分類後、道路修繕と荷役への移行率が上がっています」
別の管理官が続ける。
「オータ市の市場税は初月抑制。商人の逃散は少ないです。むしろ旧ベイジ系の商人が戻り始めています」
さらに別の管理官。
「薬物被害は増加前に把握できています。モグリの売人を二系統確認。ひとつは敵諜報の可能性があります」
ジィッドは顔を上げた。
「潰すな」
「承知しています。使えるか確認します」
ノエルが小声で言う。
「会話が怖い」
ラドも頷く。
「でも、これで先に見える」
ジィッドは地図を見た。
ノウランとオータ。
その間の街道。
港町。
避難民の流れ。
市場。
酒場。
裏路地。
見えないはずの線が、帳簿の上に浮かび始めていた。
/*/ 旧ベイジ避難民 /*/
管理官の一人が、新しい束を机に置いた。
「少将。旧ベイジ避難民の職能分布です」
「また増えたか」
「はい。ただし、悪い数字ではありません」
ジィッドは眉を上げた。
「悪くない?」
「元官吏、記録係、倉庫番、港湾労働者、商人、医療関係者、職人が混ざっています。使えます」
ノエルが資料を取る。
「元官吏は信用できますか」
「信用はしません。ですが、帳簿は読めます」
ジィッドが即答した。
「二重帳簿で使え。監査を付けろ。旧ベイジ系だけで固めるな」
「承知しました」
ラドが別の資料を見る。
「孤児と老人は?」
「保護線へ回っています。問題は、人買いと偽装保護団体です」
ジィッドの目が冷えた。
「黒豹照会」
「既に」
「早いな」
管理官は薄く笑った。
「黒豹の方々は、こういう時は非常に仕事が早い」
ノエルが乾いた声で言う。
「早すぎて怖いです」
「怖いくらいでちょうどいい」
ジィッドは低く言った。
「難民を受け入れる。だが、難民を食う奴は許さない」
ニナリスが記録する。
「旧ベイジ避難民保護線、職能再配置線、人身売買対策線、黒豹照会継続」
「線を増やすなと言いたいが、これは必要だな」
「はい」
ジィッドは、少しだけ疲れた顔で頷いた。
/*/ 酒場街の規定 /*/
オータ市の市場が再開すると、酒場も増えた。
人が集まる場所には、酒がいる。
酒があれば、喧嘩が起きる。
喧嘩があれば、情報屋が寄る。
情報屋が寄れば、薬と女衆と賭博が寄る。
ノエルは新しい規定案を持ってきた。
「少将。酒場街の営業区画指定案です」
ジィッドは嫌そうに顔を上げた。
「今度は酒場か」
「必要です」
「分かっている」
ノエルは読み上げる。
「兵舎から一定距離を取る。医療区画、避難民登録所、孤児保護区画への接近は禁止。女衆の営業は指定区画のみ。賭博は公認賭場以外禁止。薬物は存在しないことになっていますが、監視線は裏側で接続」
「表と裏で別の紙か」
「はい」
「面倒だな」
「街ですから」
ジィッドは苦笑した。
「お前も言うようになったな」
「言わないと処理できません」
ラドが言う。
「兵が休める場所は必要です。全部締めると、かえって裏に潜ります」
「分かっている。酒と飯と娯楽があれば、暴動は減る」
ジィッドは規定案に署名した。
「ただし、兵が市民を食ったら即処罰。騎士崩れが暴れたら即排除。薬で未成年を巻き込んだら黒豹へ渡せ」
ノエルが顔をしかめる。
「黒豹が便利な恐怖枠になってますね」
「便利だが、使いすぎるな。恐怖は薄まる」
ニナリスが静かに記録する。
「酒場街規定、兵士休養線、裏社会監視線、黒豹照会条件」
ジィッドはもう諦めたように言った。
「線が増えるのは分かった。せめて絡ませるな」
「整理します」
/*/ 夜 ノウラン基地 /*/
夜になっても、司令室の灯は消えなかった。
ノウラン市外縁の難民登録所には、まだ列がある。
オータ市の市場では、夜間荷役が始まっている。
北東沿岸の港町では、倉庫監査が行われている。
酒場街では、憲兵と裏の監視役がそれぞれ別の顔で歩いている。
ジィッドは窓の外を見ていた。
「街を持つってのは、戦場より面倒だな」
ラドが答える。
「でも、戦場を続けるには街が要ります」
「分かっている」
ノエルが書類をまとめながら言う。
「難民キャンプを作らせなかったのは正解でした。登録線が先にできたので、まだ流れています」
「止まったら腐るからな」
ニナリスが静かに言う。
「管理官増員により、腐敗の検出速度は上がっています」
「人間を物資みたいに言うな」
「申し訳ありません」
「いや、正しい。正しいから嫌なんだ」
ジィッドは机に戻った。
そこには、ペール会長へ送る月次報告の草案が置かれている。
難民登録数。
就労転換率。
薬被害件数。
横流し疑義。
敵諜報候補。
管理官増員効果。
オータ市場税。
ノウラン農地拡張。
北東沿岸倉庫稼働率。
彼はそれを見て、低く呻いた。
「戦果報告より分厚い」
ノエルが言う。
「実際、こちらの方が重要です」
「言うな」
ニナリスが筆記欄を示す。
「マスター、総括欄を」
「また俺が書くのか」
「はい」
ジィッドは少し考え、短く書いた。
/*/
難民を積まず、仕事へ流す。
悪を消すのではなく、勝手な網を許さない。
ノウラン=オータ線は拡大中。
管理官はまだ足りない。
/*/
ノエルが覗き込む。
「最後、また人員要求ですね」
「足りないんだから仕方ない」
ラドが笑った。
「ペール会長、喜びそうですね」
「喜ばせたくない」
ニナリスが静かに言った。
「しかし、報告としては正確です」
「記録はいつも残酷だな」
外では、人と荷と金が動き続けていた。
ノウランとオータ。
その間に伸びる北東沿岸の線。
それはまだ細い。
だが、食料と仕事と規律と影を飲み込みながら、少しずつ太くなっていた。