バッハトマ軍・臨時整備棟 ユーゴ・マウザー教授作業区画
白いGTMが、解体待ちの獣のように吊られていた。
デムザンバラ。
いや、ユーゴ・マウザー教授は、その名を聞く前から目を輝かせていた。
白銀の装甲。
肩から胸部へ流れる、異様に薄い外殻線。
通常GTMとは違う、フレームの締まり。
そして、胸部奥で眠るハー閃一〇一四型エンジンの気配。
ジィッド・マトリアは敬礼した。
「ユーゴ・マウザー教授。銀月騎士団所属、ジョー・ジィッド・マトリアです。本日は――」
「ほお!」
マウザー教授は、ジィッドの挨拶を最後まで聞かなかった。
白い騎体の足元まで歩き、顎を上げ、笑った。
「モルフォ型のGTMを俺に預けるか!」
整備班長の顔が固まった。
ニナリスの視線が一瞬だけジィッドへ向く。
ジィッドは、軍人らしく背筋を伸ばしたまま答えた。
「はい。デムザンバラの安全運用基準策定のため、教授の知見を――」
「デムザンバラ?」
マウザー教授は鼻で笑った。
「そいつは後から貼った名札だ。正式に呼ぶなら、イーエス・モルフォ1だ」
ジィッドは黙った。
「イーエス……モルフォ、ワン」
「そうだ」
教授は白い装甲を軽く叩いた。
金属音ではない。
薄い陶器の奥で、巨大な骨が震えたような音がした。
「レディオス・ソープが作ったモルフォ型ゴティックメード。ブリンガー・シリーズと同じ系譜のレオパルト・フレームを使っている。そこへハー閃一〇一四型エンジンを一基。単発でこの骨格を回す。普通なら頭がおかしい」
「……普通なら、ですか」
「普通じゃないから、こうなっている」
マウザー教授は楽しそうに笑った。
「いいな! これはな! 胴体主幹フレームの捻り戻しが異常に速い。腰部スイング関節が、ただの回転軸じゃない。肩甲支持と脚部反力が、反応炉のトルク立ち上がりに合わせて同時に戻る。つまり、踏み込み、斬撃、回避、再踏み込みが一つの波で繋がる」
ジィッドは真面目に聞いていた。
聞いていたが、顔には少しずつ軍人特有の沈黙が増えていった。
理解している沈黙ではない。
理解できないので、せめて失礼にならないようにしている沈黙だった。
マウザー教授は、ぴたりと止まった。
「ん?」
「はい」
「お前、全然わかっとらんな」
整備班長が咳払いをした。
ニナリスは何も言わなかった。
ジィッドは、少しだけ困ったように笑った。
「申し訳ありません。専門用語は、かなり怪しいです」
「怪しいどころではない。今の顔は、食堂で知らん魚の骨を噛んだ兵士の顔だ」
「そこまで分かりますか」
「分かるわ」
マウザー教授は、にやりと笑った。
「だが、それでいい。分かったふりをする騎士よりは、よほど助かる」
ジィッドは少しだけ頭を下げた。
「ですので、整備班長とニナリスを連れてきました。俺が理解できなくても、部隊として理解できれば構いません」
マウザー教授の目が、初めてジィッド本人を見る目になった。
「ほう」
それは騎士を見る目ではなかった。
兵器の持ち主を見る目でもない。
運用責任者を見る目だった。
「お前、こいつを名誉品として持ち込んだわけではないな」
「名誉品として扱えるほど、腕がありません」
「正直でよろしい」
教授は端末を開いた。
空中に、白い騎体の骨格図が浮かぶ。
「いいか。こいつは、古い呼び名で言うなら、GTMシュペルターに相当する騎体だ。白銀の騎士。ナイト・オブ・クローム。大剣聖ディモス・ハイアラキが持ち、その弟子ダグラス・カイエンが改装して使った」
ジィッドの顔が微妙に引きつった。
「……聞かなかったことにしたい名前が並びますね」
「聞け。逃げるな」
「はい」
「カイエンは化け物だ。あれは騎士というより、GTM側の限界を人間で叩きに行く存在だ。そのため、このモルフォ1はピーク域が人間用ではない。普通の騎士が踏むと、機体に置いていかれる。強い騎士が踏むと、今度はスイング関節が負ける」
マウザー教授は、脚部の図を拡大した。
「ここだ。腰部主軸。膝上の荷重逃がし。足首の反力折り返し。お前ら、ここをどれだけ殺した?」
ニナリスが即答した。
「現行表示上は、主出力八十五パーセント。ピークパワー領域は封鎖。低中域トルクを再配分。脚部反応は安全側に補正しています」
「表示上は、か」
マウザー教授が笑った。
ジィッドがニナリスを見る。
「表示上?」
ニナリスは淡々と答えた。
「マスターへの説明に必要な範囲では、八十五パーセントです」
「ニナリス」
「軍務ですので」
ジィッドは額に手を当てた。
「教授。実際は?」
マウザー教授は楽しそうに端末を叩いた。
「右足首の返しは七十二。腰部捻り戻しは七十八。肩甲連動は六十九まで落としてある。頭部コントローラーの視線追従も、かなり鈍くしているな」
「ニナリス」
「マスターが初回起動で床を割りかけましたので」
「それは事実だが」
「事実ですので」
整備班長が小さく頷いた。
「団長。自分も承認しています」
「お前もか」
「軍務ですので」
ジィッドはしばらく黙った。
そして、苦笑した。
「俺の周囲には軍務しかないのか」
マウザー教授が大笑いした。
「良い! 実に良い! 騎士の誇りより先に関節を守る。ファティマも整備班も分かっている。これなら、まだ壊さずに済む」
「まだ、ですか」
「当たり前だ」
教授は白い騎体を見上げた。
「デコーズ・ワイズメルでも、こいつを本来のまま振り回せば一戦でスイング関節を痛める。壊すとまでは言わん。だが、無傷では済まん。黒騎士でそれだ。お前がそのまま踏んだら、機体より先にお前の身体か、ニナリスの制御が破綻する」
ジィッドは笑わなかった。
「では、俺がこいつを扱えているのは」
「扱えていない」
即答だった。
格納庫の空気が止まる。
マウザー教授は続けた。
「お前は、扱っているのではない。扱える形まで周囲に落としてもらっている。ニナリスがピークを殺し、整備班が逃げを作り、お前が見栄を飲み込んでいる。だから動いている」
ジィッドは白い騎体を見上げた。
少ししてから、静かに答えた。
「それなら、十分です」
「ほう」
「俺が剣聖ではないことは、もう分かっています。知りたいのは、こいつを本来の姿に戻す方法ではありません。どこまで落とせば、兵器として役に立ち、部下を帰せるかです」
マウザー教授の笑みが、少し変わった。
悪戯好きな技術者の笑みから、職人の笑みに。
「お前、つまらん騎士だな」
「よく言われます」
「だが、良い運用者だ」
「それは初めて言われました」
「覚えておけ。モルフォ1は名騎だ。だが、名騎だから勝つのではない。名騎を壊さず、必要な時に必要な分だけ使う奴が勝つ」
教授は端末に指を走らせた。
「まず、ピーク域は開けるな」
「やはり」
「開けるな。ただし、完全に殺すな。非常時にだけ、瞬間的に滑り込ませる逃げ道を作る」
ニナリスが顔を上げる。
「制御窓を残す、ということですか」
「そうだ。だが、騎士に踏ませるな。ファティマ側が許可した時だけ、半拍未満で通す。ジィッド、お前はその瞬間に『自分が強くなった』と勘違いするな」
「しません」
「する」
マウザー教授は断言した。
「騎士はする。強い機体が一瞬だけ言うことを聞くと、自分が強くなった気がする。特にお前のような、血筋で悔しい思いをしてきた若い男は危ない」
ジィッドの表情が止まった。
整備班長が視線を落とす。
ニナリスだけは、ジィッドを見ていた。
マウザー教授は悪びれない。
「だから、記録しろ。ピーク手前領域使用時、操縦者心理負荷評価を必ず残せ。戦果と一緒に残すな。戦果の興奮に混ざる。別項目にしろ」
ニナリスが端末へ入力する。
「記録します」
「それから、脚部だ」
教授は図面を切り替えた。
「デムザンバラとして使うなら、足首を殺しすぎるな。お前らは怖くて七十二まで落としているが、それでは接地が鈍い。戦場では安全でも、長期的には腰部に逃げが溜まる。七十六まで戻せ」
整備班長が眉を寄せた。
「七十六ですか。団長の入力で暴れませんか」
「暴れる」
「教授」
「暴れるから、膝上に遅延を入れる。足首だけ戻して、膝で殺す。腰へ行く前に一度寝かせる。そうすれば、ジィッドの爪先が雑でも、機体は即座に飛ばない」
ジィッドが小さく呟いた。
「俺の爪先は雑なのか」
ニナリスが答えた。
「はい」
「少しは迷え」
「軍務ですので」
マウザー教授はまた笑った。
「良いファティマだ。お前にはもったいない」
「はい。それは毎日思っています」
ニナリスがわずかに目を伏せた。
「マスター。不要な卑屈は記録対象です」
「今のもか」
「はい」
「教授。これも軍務ですか」
「軍務だな」
ジィッドは諦めたように息を吐いた。
教授は白い騎体の胸部へ近づく。
「それから、ハー閃一〇一四型だ。こいつは一基で十分すぎる。だが単発ゆえに、出力の癖が素直にフレームへ来る。お前らはトルクを太らせた。判断は正しい。だが太らせた分、熱が逃げにくい。胸部内殻の熱溜まりを見ろ」
整備班長が端末を確認する。
「……確かに、戦闘後に胸部右側へ偏っています」
「そこだ。騎士殻の呼吸圧変化も拾っている。ジィッド、お前、戦闘中に笑う癖があるな」
「あります」
「やめろ」
「努力します」
「努力では足りん。笑うなら、機体が拾わないように笑え」
ジィッドは真顔になった。
「それは、技術的に可能なのですか」
「知らん。騎士の仕事だ」
「無茶を言う」
「GTMに乗るとは無茶を整理することだ」
マウザー教授は、白い装甲に手を置いた。
「イーエス・モルフォ1。シュペルター。白銀の騎士。剣聖騎。デムザンバラ。名前はいくつもある。だが、お前が使うなら、名前より運用だ」
ジィッドは黙って聞いていた。
「こいつはカイエンのために鳴る喉を持っている。だが今は、お前の部隊を帰すために低く唸っている。その差を忘れるな。忘れた瞬間、お前は騎体に食われる」
「はい」
「ニナリス」
「はい」
「お前はもっと隠しているな」
ニナリスは静かに答えた。
「マスターの生存に必要な範囲で」
「よろしい」
ジィッドが目を閉じた。
「よろしいのですか」
「よろしい。騎士に全部教えると、騎士は余計なことをする」
「否定できないのが辛いですね」
「なら成長しろ」
マウザー教授は端末を閉じた。
「結論だ。デムザンバラは、今のままでは八十五パーセントでも危険だ。だが、殺しすぎると別の場所が壊れる。足首を少し戻す。膝で遅らせる。腰部スイング関節の熱逃がしを増やす。胸部騎士殻の呼吸反応を鈍らせる。ピーク域は封鎖。ただし、ファティマ許可の瞬間窓を作る」
整備班長が敬礼した。
「作業計画に落とします」
「ニナリス」
「はい」
「お前はジィッドに、ピーク窓の存在を忘れさせろ」
「承知しました」
「待て。俺はいま聞いたぞ」
「マスターは、聞いても実戦中に参照できないよう訓練します」
「怖いことを言うな」
「軍務ですので」
マウザー教授は満足げに頷いた。
「ジィッド」
「はい」
「お前は、この騎体に詫びるな」
ジィッドの表情が、わずかに変わった。
「……詫びるな、ですか」
「そうだ。詫びる暇があるなら、次の整備記録を読め。お前が詫びても、フレームの歪みは戻らん。熱も抜けん。関節の摩耗も減らん」
「はい」
「だが」
教授は白い騎体を見上げた。
「低く唸らされても、こいつはまだ名騎だ。泣いているなどと感傷に逃げるな。泣いているように聞こえるなら、その音を数値にしろ。数値にして、次は少しだけましに鳴らせ」
ジィッドは深く息を吐いた。
そして、敬礼した。
「了解しました。教授」
「よろしい」
マウザー教授は、また子供のように笑った。
「では始めるぞ。モルフォ型GTMの再調律だ。剣聖騎には戻さん。そんなものに戻したら、お前が死ぬ」
「助かります」
「デムザンバラとしても終わらせん。そんな雑な名札で済ませるには、惜しい騎体だ」
教授は白銀の装甲を軽く叩いた。
「お前のところまで落とすのではない。お前が届く少し上に置く。背伸びすれば届く。油断すれば喉を食い千切られる。そのくらいが、騎士もGTMも一番よく育つ」
ジィッドは、白い騎体を見上げた。
剣聖のための機体。
自分には扱えない機体。
だが、完全に諦めていい機体でもない。
「ニナリス」
「はい」
「欠点一覧に追加だ」
「内容を」
「専門用語を聞くと、分かったふりをしたくなる」
「記録します」
「それと」
ジィッドは少しだけ笑った。
「分からない時は、分かる者を連れてくる」
ニナリスの指が、端末の上で一瞬止まった。
「それは欠点ではありません」
「そうか?」
「はい」
マウザー教授が横から言った。
「それは、軍人としては美点だ」
ジィッドは少し驚いたように教授を見た。
それから、照れ隠しのように肩をすくめる。
「では、そのように記録しておいてくれ」
「承知しました」
白いGTMは、まだ沈黙していた。
ナイト・オブ・クローム。
イーエス・モルフォ1。
シュペルター。
デムザンバラ。
いくつもの名を持つ白銀の騎体の前で、若い騎士は専門家の言葉を半分も理解できずに立っていた。
だが、分かったことが一つある。
これは、名誉ではない。
夢でもない。
そして、ただの鹵獲兵器でもない。
扱いきれないものを、扱えるようにするための軍務だった。
マウザー教授が叫ぶ。
「よし! まずは腰部スイング関節を開けろ! おい整備班、そこを軍用規格のまま触るなよ! これはモルフォだ! 寝ている蝶の翅を、軍靴で踏む馬鹿があるか!」
整備班が慌ただしく動き出す。
ジィッドはニナリスに小声で聞いた。
「今の比喩は、技術的に正しいのか?」
「情緒的には正しいと思われます」
「技術的には?」
「確認中です」
「そうか」
ジィッドは少しだけ笑った。
「では、確認しよう。軍務だからな」
ニナリスも、ほんのわずかに目を伏せた。
「はい。軍務です」