/*/ バッハトマ軍・臨時整備棟 デムザンバラ調律試験区画 /*/
試験区画の床に、黒い切断標的が固定されていた。
装甲材ではない。
正確には、装甲材に似せた試験用複合柱だった。
斬れればよい、というものではない。
どの角度で刃が入り、どの瞬間に反力が戻り、騎士殻と脚部カバー内コントローラーにどれだけの負荷が返るか。
それを見るための標的だった。
デムザンバラは、白銀の装甲を仮固定具で縛られたまま立っている。
右手には、実剣。
ガットブロウ。
電磁溶解剣。
ただし、戦闘出力ではない。
試験出力。
刃は眠っているように低く鳴り、白い巨体の手首で静かに保持されていた。
ジィッド・マトリアは騎士殻の中で、少しだけ息を吐いた。
「教授。本当にやるんですか」
外部回線越しに、ユーゴ・マウザー教授が答える。
「やる」
短い。
実に短い。
ニナリスの声が、それよりも静かに重なった。
「許可できません」
試験区画の空気が止まった。
マウザー教授は端末を見たまま言う。
「もう少し上を見たい。こいつの本来の反応を知らねば、正しく殺せん」
「マスターを危険域に入れる必要があります」
「必要だ」
「許可できません」
声は荒くない。
怒鳴り合いでもない。
だからこそ、周囲の整備兵たちは動けなかった。
教授は機体を見たい。
ニナリスはジィッドを生かしたい。
目的は近い。
だが、優先順位が違う。
ジィッドは騎士殻の中で、少しだけ首を傾げた。
「俺の騎体の話なのに、俺の許可が一番軽いな」
マウザー教授は即答した。
「当然だ。お前は一番信用ならん」
ニナリスも即答した。
「同意します」
「同意するのか」
「はい」
「軍務だな?」
「はい」
ジィッドは小さく笑いかけた。
その瞬間、胸部騎士殻がわずかに反応した。
警告灯が一つ灯る。
ニナリスが即座に言う。
「マスター。呼吸圧が上がっています」
「笑っただけだ」
「笑いでも拾います」
「この機体は面倒だな」
「危険な機体です」
マウザー教授が鼻を鳴らした。
「面倒で危険だから、俺が見ているんだ」
教授は端末に指を走らせた。
空中に、デムザンバラの出力曲線が浮かぶ。
低中域は太い。
ジィッドとニナリスが、必死に扱える形へ潰した領域。
その先に、細く鋭い針のような山がある。
ピーク域。
カイエンのために鳴る場所。
ジィッドが踏めば、機体に置いていかれる場所。
ニナリスがその山を見て、静かに言った。
「〇・〇一秒未満です」
「足りん」
「それ以上は許可できません」
「〇・〇一では、刃の入りしか見えん。腰部スイング関節の戻りが見えない」
「戻りを見る前に、マスターの手の内が破綻します」
マウザー教授が初めてニナリスを見た。
「そこまで下手か?」
ニナリスは一瞬だけ沈黙した。
ジィッドが嫌な予感を覚えた。
「ニナリス?」
「現状のマスターでは、ピーク解放時の反力を保持できる可能性は低いと判断します」
「つまり?」
「剣を取り落とす可能性があります」
ジィッドは騎士殻の中で目を閉じた。
「はっきり言うな」
「軍務ですので」
マウザー教授は面白そうに笑った。
「よし。では見よう」
「教授」
「取り落とすなら、それも重要なデータだ」
「人の失敗を前提にしないでください」
「成功前提の試験など、ただの儀式だ」
ジィッドは返答に詰まった。
整備班長が、慎重に割って入る。
「教授。安全拘束を三重にします。ガットブロウの落下方向を固定。右腕部外部保持索を追加。騎士殻側の手指反応にリミッターを入れます」
「入れろ。ただし、反力は殺すな」
「殺さないのですか」
「殺したら試験にならん」
ニナリスが静かに言った。
「反力を殺さなければ、マスターに戻ります」
「戻る」
「許可できません」
「だから〇・〇一未満だ」
「それでも危険です」
「危険でなければ、こいつの本来の反応は見えん」
また沈黙。
ジィッドは、二人の間に入った。
「ニナリス」
「はい、マスター」
「〇・〇一未満なら、俺は死なないか」
「死にません」
「手は?」
「痺れます」
「剣は?」
「取り落とす可能性があります」
「機体は?」
「右手首、肘、肩、腰部に反力が返ります。ただし整備班の外部拘束があれば、損傷域には入りません」
「では、やる」
ニナリスの返事が、ほんのわずか遅れた。
「……承知しました」
ジィッドはその遅れに気づいた。
だが、何も言わなかった。
かわりに、いつもの少し軽い声を作った。
「教授。もし俺が剣を落としたら、笑っていいですよ」
「笑わん」
「意外ですね」
「記録する」
「そっちの方が嫌だ」
マウザー教授はにやりと笑った。
「安心しろ。後で笑う」
「最悪だ」
試験区画に警告灯が回る。
白いデムザンバラが、右足をわずかに沈めた。
低い唸り。
地を踏む音。
ジィッドが知っているデムザンバラの音。
ニナリスの声が入る。
「低中域安定。脚部荷重、制御内。右手ガットブロウ保持。肘部反力受け、待機。肩甲支持、待機」
ジィッドは、右手の感覚を確かめた。
人間の手ではない。
だが、人間の手の延長にある。
巨大な白い指が、電磁溶解剣の柄を握っている。
握っている、はずだった。
自分の感覚では、少し遠い。
剣が遠い。
右手首が遠い。
肩の入りが浅い。
ジィッドは嫌な汗をかいた。
「ニナリス」
「はい」
「もう嫌な感じがする」
「正常です」
「正常なのか」
「マスターが危険を認識しています」
「なるほど」
マウザー教授が割り込んだ。
「いいか、ジィッド。斬ろうとするな」
「試し切りでは?」
「斬ろうとすると、腕で行く。腕で行けば返る。返れば落とす」
「では、どうしろと」
「置け」
「置く?」
「刃を置け。機体が斬る。お前は邪魔をするな」
ジィッドは黙った。
「教授」
「何だ」
「それができるなら、俺はもっと強いと思います」
「分かっている。だから試す」
「俺を何だと思っているんですか」
「今から分かる」
ニナリスが静かに告げた。
「ピーク窓、準備」
白い騎体の音が、変わりかけた。
低い唸りの奥から、細い高音が顔を出す。
まだ開いていない。
だが、いる。
眠っていた剣聖騎の喉が、こちらを見ている。
ジィッドの背筋に寒気が走った。
「……これは、怖いな」
「はい」
ニナリスの声も、少しだけ硬かった。
「マスター。ピーク解放は〇・〇一秒未満。打ち込みの瞬間のみ。事前に踏み込まないでください」
「分かっている」
「マスター。右足が早いです」
「まだ動かしてない」
「動かそうとしています」
「そこまで拾うのか」
「拾います」
マウザー教授が言う。
「だから信用ならんのだ」
「俺の意思が読まれすぎる」
「GTMに乗るとはそういうことだ」
標的まで、わずかな距離。
通常なら、一歩。
だが、デムザンバラにとっては、その一歩が危険だった。
ジィッドは息を落とす。
笑わない。
気取らない。
強くなった気にならない。
ただ、刃を置く。
置く。
置く。
ニナリスが言った。
「開始」
デムザンバラが動いた。
低い唸りのまま、右足が床を噛む。
ジィッドは腕で振らないようにした。
肩を入れすぎないようにした。
刃を置く。
そのつもりだった。
その瞬間。
ピーク窓が開いた。
〇・〇一秒にも満たない時間。
だが、音が変わった。
白い騎体の中で、細く澄んだ高音が鳴った。
空を裂く音。
剣聖騎の音。
ジィッドの身体より速く、デムザンバラが斬った。
ガットブロウの刃が標的へ入る。
黒い複合柱が、抵抗する間もなく割れた。
溶けたのではない。
裂けた。
斬撃の軌道に沿って、素材が自分の構造を思い出せなくなったように分かれた。
次の瞬間、反力が来た。
「っ――!」
ジィッドの右手に、衝撃が戻った。
人間の手ではない。
巨大なGTMの手を通じた反力。
それでも、騎士殻は拾う。
手の内に来る。
掌に来る。
指に来る。
木刀で固い石を全力で殴った時のような、嫌な痺れ。
いや、それより悪い。
握っていたはずの感覚が、一瞬で白く消えた。
右手が剣を拒否した。
デムザンバラの指が開く。
「保持!」
整備班長が叫んだ。
外部保持索が走る。
ガットブロウが、白い手から滑り落ちた。
完全落下はしなかった。
拘束索に吊られ、床すれすれで止まる。
試験区画に、重い沈黙が落ちた。
ジィッドは騎士殻の中で、右手の感覚を失っていた。
「……ニナリス」
「はい」
「右手がない」
「あります」
「感覚がない」
「一時的な神経反応過多です。騎士殻側で遮断します」
「剣は」
「取り落としました」
「やっぱりか」
マウザー教授は、しばらく黙ってデータを見ていた。
その顔から笑みが消えている。
ジィッドは少しだけ緊張した。
「教授?」
マウザー教授は、ぼそりと言った。
「……思ったより三段くらい下手だな、お前」
ジィッドは即座に返した。
「だから無茶だと言ってたでしょ!」
整備班の何人かが、耐えきれずに噴き出した。
ニナリスは笑わない。
ただ、端末へ淡々と記録している。
「ピーク窓、〇・〇〇七秒。右手保持失敗。反力処理不能。ガットブロウ落下。外部保持索により損傷回避。マスター右手感覚、一時遮断」
ジィッドが呻く。
「記録が容赦ない」
「軍務ですので」
「今のは、俺が悪いのか」
マウザー教授が即答した。
「悪い」
ニナリスも答えた。
「悪いです」
整備班長も、少し申し訳なさそうに言った。
「悪いですね」
「全員で畳みかけるな」
教授は端末を拡大する。
「いいか。お前は斬る瞬間、ほんの少し握り込んだ」
「握りますよ。剣ですから」
「そこだ」
教授は指で波形を叩いた。
「ピークが開いた瞬間、機体側はもう斬っている。なのにお前は、人間の癖で柄を握り直した。結果、刃の入りと手の内が喧嘩した。ガットブロウは進む。手は固まる。反力は逃げ場を失う。だから痺れる」
ジィッドは黙った。
「……剣を握るな、ということですか」
「違う。握るなではない。握り込むな。預けろ」
「難しいですね」
「難しいから、剣聖騎なのだ」
その言葉に、ジィッドは少しだけ息を止めた。
マウザー教授は続ける。
「カイエンなら、今の反力を手の内で逃がす。いや、逃がす前に、機体と同じ速度で次の動きへ変える。お前はそこで止まった。止まったから、反力が全部戻った」
「つまり」
「お前の剣が遅い」
ジィッドは苦笑した。
「三段どころではなく聞こえます」
「慰めが必要か?」
「いりません」
「ならよろしい」
ニナリスが静かに言った。
「教授。再試験は許可できません」
「分かっている」
意外にも、マウザー教授は引いた。
ジィッドが驚く。
「やらないのですか」
「やらん。十分見えた」
「俺の下手さが?」
「それもだ」
教授は、今度は少し真面目な顔で白い騎体を見上げた。
「デムザンバラのピーク窓は使える。ただし、斬撃には使うな」
ニナリスが反応する。
「斬撃以外ですか」
「離脱。受け流し。踏み替え。姿勢復帰。そちらだ」
ジィッドも黙って聞く。
「こいつのピークは斬るためにある。だが、お前が斬ると手がついてこない。なら、斬る手前か、斬った後に使え」
「攻撃ではなく、生存のために使う」
「そうだ」
マウザー教授は端末を閉じた。
「ピークを刃に入れるな。足に入れろ。腕に入れるな。腰にも入れすぎるな。崩れた姿勢を戻す、一瞬の踏み替えに使え。お前の腕では剣聖の斬撃は扱えん。だが、剣聖騎の足を〇・〇一未満だけ借りることなら、訓練次第で可能だ」
ジィッドは右手の痺れが引かないまま、白い視界を見つめた。
「……剣では勝てないから、足で帰る」
「そういうことだ」
ニナリスが、わずかに表情を動かした。
「それなら、許可可能範囲があります」
「だろうな」
教授は満足げに頷いた。
「お前はマスターを生かしたい。俺は機体を見たい。なら、生きるためのピークなら両方の目的に合う」
ジィッドは苦笑した。
「俺の剣が下手なおかげで、運用方針が固まりましたね」
「そうだ」
「もう少し言い方はありませんか」
「ない」
「軍務ですか」
ニナリスが答えた。
「はい」
ジィッドはようやく少し笑った。
今度は胸部騎士殻が反応しない程度に、小さく。
「では、記録しておいてくれ。デムザンバラのピーク窓は、攻撃ではなく離脱と姿勢復帰に限定」
「承知しました」
「それと、欠点一覧に追加」
「内容を」
「剣を握り込みすぎる」
「記録済みです」
「早いな」
「先ほどの試験中に」
マウザー教授が横から言う。
「ついでに書いておけ。思ったより三段下手」
「教授、それは正式記録に必要ですか」
「必要だ」
「本当に?」
「後で読んだお前が、勘違いしなくなる」
ジィッドは少し黙った。
それから、静かに言った。
「では、記録してください」
ニナリスの指が止まる。
「よろしいのですか」
「必要なんだろう」
「……はい」
端末に、一行が追加される。
/*/
操縦者はピーク解放時の斬撃反力を処理不能。
手の内、想定より三段不足。
攻撃使用不可。離脱・姿勢復帰用途を優先。
/*/
ジィッドはそれを見て、深く息を吐いた。
「ひどい記録だ」
マウザー教授が笑った。
「良い記録だ。命を救う」
ニナリスが静かに頷いた。
「はい。良い記録です」
ジィッドは白い騎体の右手を見た。
ガットブロウは、まだ外部保持索に吊られている。
握れなかった剣。
扱えなかったピーク。
届かなかった剣聖の領域。
だが、それでいい。
分かった。
分かれば、殺せる。
殺せば、使える。
デムザンバラは、剣聖騎としては泣くかもしれない。
だが、ジィッドはもう、その泣き声を剣に使わない。
足に使う。
帰るために使う。
「ニナリス」
「はい、マスター」
「次は、剣じゃなく足でやろう」
「承知しました」
「教授」
「何だ」
「俺がまた三段下手だったら?」
「五段下手と記録する」
「容赦がない」
「軍務だ」
ジィッドは、騎士殻の中で小さく笑った。
今度は、デムザンバラは反応しなかった。
低く、太く、地を踏むように唸っているだけだった。