/*/ バッハトマ軍・臨時整備棟 デムザンバラ調律試験区画・外周 /*/
臨時整備棟の中では、デムザンバラのフルメンテナンスが続いていた。
白銀の装甲は外され、胸部騎士殻、腰部スイング関節、脚部反力機構、頭部コントローラー系統までが開かれている。
ユーゴ・マウザー教授の怒鳴り声が、厚い隔壁の奥から響く。
「足首を先に締めるな! 腰が死ぬぞ!」
「胸部の熱溜まりを見ろ! ジィッドの呼吸癖がそこに出ている!」
「馬鹿、そこを軍用規格で殺すな! モルフォ型だぞ! 蝶の翅を鉄板で挟む気か!」
整備兵たちの返答。
工具の音。
魔導計測線の低い唸り。
デムザンバラは、骨まで開かれていた。
その外。
調律試験区画の外周に、GTM用ヘリオス装甲板が一枚、垂直に立てられていた。
厚く、黒く、無愛想な板。
人間が斬るものではない。
騎士が生身で向き合う標的でもない。
だが、その前にジョー・ジィッド・マトリアは立っていた。
手には、出力を絞った訓練用ガットブロウ。
電磁溶解剣。
この出力では、ヘリオス装甲板は斬れない。
刃を当てても、表面に浅い熱傷をつけるだけ。
力任せに入れば、反力がそのまま手に返る。
木刀で石を殴ったように、指が白く痺れる。
だからこそ、ここに立つ。
斬るためではない。
斬れないものを打つため。
そして、斬れないものを打っても、手を壊さないため。
ジィッドは息を吐いた。
ガットブロウを構える。
正面ではない。
少し右。
肩をわずかに落とす。
肘を殺す。
刃筋を見せない。
足裏を地面に貼る。
そこから、すり足で滑る。
そして、ロングスライド・スタンス。
伸侵剣。
接近戦用の技術。
踏み込んだ、と見せない。
肩で間合いを測らせない。
肘で切り込み位置を読ませない。
上体を伸ばした瞬間には、すでに足が入っている。
侵すように伸びる。
滑るように詰める。
相手の目が、肩を見る。
肘を見る。
剣先を見る。
そのどれでもない位置から、間合いが潰れる。
ジィッドは、すり足で接近した。
一歩ではない。
半歩でもない。
滑る。
間合いの端を舐めるように入る。
そして打つ。
ガットブロウがヘリオス装甲板に触れた。
硬い音。
刃は入らない。
跳ねる。
反力が返る。
「っ」
掌が痺れた。
握り込んだ。
ジィッドは即座に分かった。
衝撃が返ると分かった瞬間、右手の薬指と小指が遅れて締まった。
それが駄目だった。
刃を持とうとした。
衝撃を掌で止めようとした。
デムザンバラの〇・〇一秒でそれをやれば、また剣を落とす。
ジィッドは、すり足で戻った。
後ろへ跳ばない。
足を浮かせない。
打った位置から、そのまま線を消すように戻る。
元の位置へ。
ただし、同じ場所には立たない。
半歩ずらす。
今度は左。
「一本」
自分で数える。
ニナリスはいない。
マウザー教授もいない。
整備班長も中でデムザンバラを見ている。
だから、自分で数える。
自分で見る。
自分で修正する。
「二本」
肩を少し上げる。
相手に肩で打つと思わせる。
だが、肘を抜く。
剣先を遅らせる。
すり足で接近。
今度は装甲板の右下へ打つ。
跳ねる。
痺れる。
戻る。
「三本」
肘を開く。
上段気味に見せる。
だが、足は左へ滑る。
切り込み位置は中央ではない。
装甲板の左肩相当。
打つ。
跳ねる。
親指の付け根に反力が残る。
「駄目だ」
ジィッドは呟いた。
また、すり足で戻る。
構え直す。
今度は、肩を殺す。
肘も殺す。
剣先だけを少し見せる。
「四本」
滑る。
入る。
打つ。
戻る。
ロングスライド・スタンスは、派手な技ではない。
大きく踏み込まない。
跳ばない。
叫ばない。
ただ、間合いが知らないうちに消える。
肩と肘で相手の目を騙し、足裏で距離を盗む。
ジィッドは、それを何度も繰り返した。
打ち込み位置は毎回変える。
上。
下。
右。
左。
中央。
やや斜め。
肩から入る形。
肘から入る形。
剣先を先に見せる形。
剣先を隠して、足だけで入る形。
だが、目的は斬ることではない。
どこから入っても、手が痺れないこと。
どの角度で当たっても、反力を掌で止めないこと。
打った後、すり足で戻れること。
斬れなくても崩れないこと。
「二十一本」
右肩を見せて、左へ滑る。
打つ。
戻る。
「二十二本」
肘を開いて、上から来るように見せる。
実際は低く入る。
打つ。
戻る。
「二十三本」
剣先を遅らせる。
足だけが先に入る。
打つ。
反力が指に来る。
痺れる。
「握ったな」
自分で言う。
誰も答えない。
それでいい。
これは一人の稽古だ。
自分で気づけなければ意味がない。
デムザンバラでニナリスが止める前に、自分で止まるための稽古。
ピーク窓を開ける前に、己の手の内が負ける癖を知るための稽古。
ジィッドはまた戻る。
すり足。
足裏を地面から離さない。
戻りも稽古だ。
打ち込みだけなら、誰でも強く見える。
だが、戻りが乱れれば、戦場では死ぬ。
デムザンバラで〇・〇一秒だけピークを開けるなら、切断の瞬間だけでは足りない。
その前に接近しなければならない。
その後に戻らなければならない。
斬る一瞬より、前後の方が長い。
「五十六本」
肩を落とす。
滑る。
打つ。
戻る。
「五十七本」
肘を見せる。
滑る。
装甲板の中央ではなく、右下へ打つ。
戻る。
「五十八本」
今度は剣先を消す。
足だけで入る。
打つ。
刃が跳ねる。
手は痺れない。
ジィッドは止まらない。
喜ぶと崩れる。
評価は後でいい。
「五十九本」
もう一度。
今度は少し痺れた。
「欲を出したな」
自分で言う。
戻る。
やり直す。
中から、マウザー教授の声が響いた。
「ピークを残すなら、逃げ道も残せ! 殺しきるな! だが自由にもするな! この騎体は、自由にした瞬間に騎士を置いていく!」
ジィッドは耳の端で聞いた。
デムザンバラも、中で同じことをされている。
殺しすぎるな。
自由にしすぎるな。
使える一点を探せ。
自分も同じだ。
握りすぎるな。
緩めすぎるな。
踏み込みすぎるな。
逃げすぎるな。
間合いを侵せ。
だが、飲まれるな。
「百本」
すり足で接近。
打つ。
すり足で戻る。
「百一本」
位置を変える。
今度は右外から。
肩を先に見せる。
打つ。
戻る。
「百二本」
左外から。
肘を折って、剣筋を隠す。
打つ。
戻る。
ヘリオス装甲板には、浅い打痕が散らばっていく。
一直線ではない。
同じ場所を叩き続けているわけでもない。
上にも下にも。
右にも左にも。
ジィッドが間合いを変え、打ち込み位置を変え続けた痕跡だった。
斬れてはいない。
だが、それでいい。
敵は装甲板ではない。
敵は、自分の癖だ。
同じ場所へ入る癖。
同じ肩の動きで距離を見せる癖。
打つ瞬間に肘が固まる癖。
反力を怖がって握る癖。
斬れた気になる癖。
斬れないと焦る癖。
全部、ヘリオス装甲板が跳ね返してくる。
「二百四十七本」
滑る。
打つ。
戻る。
「二百四十八本」
滑る。
今度は一拍遅らせる。
肩だけ先に入れ、足を後から入れるように見せる。
だが実際は足が先。
打つ。
戻る。
「二百四十九本」
逆。
剣先を先に見せる。
足を殺す。
相手が剣を見る位置から、すり足で半歩伸びる。
打つ。
反力が肘へ抜けた。
掌には残らない。
ジィッドは、少しだけ息を吐いた。
良い。
だが、そこで止まらない。
「二百五十本」
同じことはしない。
次は位置を変える。
右下。
打つ。
戻る。
日が傾き始めた。
外周区画に影が伸びる。
臨時整備棟の扉が一度開き、整備兵が工具箱を抱えて出てきた。
彼はジィッドを見た。
白銀の剣聖騎に乗る若い騎士が、一人でヘリオス装甲板の前にいる。
すり足で接近し、打ち込み、すり足で戻る。
それを淡々と繰り返している。
派手な一撃ではない。
英雄的な斬撃でもない。
ただ、間合いを盗む。
位置を変える。
打つ。
戻る。
また位置を変える。
整備兵は、声をかけなかった。
そのまま中へ戻った。
扉が閉まる。
ジィッドはまた一人になる。
「四百十二本」
肩を見せない。
肘も見せない。
足だけで入る。
打つ。
痺れない。
戻る。
「四百十三本」
肩を大きく見せる。
だが、打ち込み位置は逆。
右肩から入るように見せて、左下へ入れる。
打つ。
少し痺れる。
戻る。
「まだ雑だ」
自分で言う。
汗が額から落ちた。
手の皮が熱い。
肘の内側が重い。
足裏が擦れている。
だが、続ける。
ロングスライド・スタンスは、足だけの技ではない。
肩も。
肘も。
視線も。
剣先も。
全部で間合いを騙す。
そのうえで、打った反力に負けない手の内を作る。
デムザンバラでピークを開けるなら、機体が斬る。
ジィッドは、その瞬間に邪魔をしない。
だから今は、生身で邪魔をしない手を作る。
「五百」
滑る。
打つ。
戻る。
「五百一」
滑る。
位置を変える。
打つ。
戻る。
「五百二」
滑る。
さらに位置を変える。
打つ。
痺れない。
戻る。
その時、背後に静かな足音があった。
ジィッドは振り返らない。
ニナリスだと分かった。
彼女はしばらく何も言わなかった。
記録端末も構えていない。
ただ、少し離れて見ている。
ジィッドは構えた。
「五百三」
すり足で接近。
打つ。
戻る。
「五百四」
肩を見せる。
肘を消す。
打ち込み位置を変える。
戻る。
ニナリスが静かに言った。
「マスター。右足が先に答えを出しています」
ジィッドは構えたまま答える。
「まだ早いか」
「はい。肩と肘で隠す前に、足裏の圧が出ています」
「相手に読まれる?」
「読まれます」
「デムザンバラでも?」
「はい」
ジィッドは息を吐いた。
「厳しいな」
「軍務ですので」
「見ていたのか」
「はい」
「記録は?」
「していません」
ジィッドは少しだけ驚いた。
「珍しいな」
「これは、マスターが一人で行う修練です」
「なら、なぜ口を出した」
「右足が危険でした」
「軍務だな」
「はい」
ジィッドは、少しだけ笑いそうになった。
だが、笑わない。
握りが変わる。
構え直す。
「五百五」
今度は、足裏の圧を消す。
肩で見せる。
肘で遅らせる。
剣先を少しだけ揺らす。
相手の目を上へ置いてから、すり足で下へ入る。
打つ。
反力が抜ける。
痺れない。
戻る。
ニナリスが静かに言った。
「良好です」
「褒めたな」
「事実ですので」
「では、もう一本」
「はい」
「五百六」
滑る。
打つ。
戻る。
奥の整備棟から、デムザンバラの低い音が一度だけ響いた。
フルメンテナンス中の白銀の騎体が、眠りの中で喉を鳴らしたような音だった。
ジィッドは振り返らない。
今は、あの騎体に乗れない。
だから、外で自分を削る。
ロングスライド・スタンス。
伸侵剣。
肩で読ませず。
肘で測らせず。
すり足で間合いを侵し。
毎回違う位置へ打ち込み。
反力を掌に残さず。
すり足で戻る。
何百回も。
何千回も。
白銀の騎士の〇・〇一秒に、今度こそ手の内が負けないように。
ジィッドは、次の一本へ入った。
「五百七」
すり足。
接近。
打ち込み。
戻り。
それだけが、夕暮れの外周区画で、静かに続いていた。