/*/ 星団暦3045年・ボルサ諸島列島 首都コフツ /*/
港は、まだ動いていた。
それが、ジィッド・マトリアにとって最初の確認事項だった。
戦艦は沖合にいる。
輸送艦は港外で順番を待っている。
上陸艇は防波堤の陰に退き、歩兵と憲兵が港湾道路の要所に立っている。
だが、港そのものは止まっていなかった。
荷役の声がある。
木箱を引きずる音がある。
魚を積んだ小舟が岸壁に寄る。
灯台は点いている。
倉庫は焼けていない。
船大工の工房からは、まだ槌の音がしていた。
ボルサ諸島列島は制圧された。
だが、死んではいない。
ジィッドは窓の外を見て、短く言った。
「漁業を止めるな」
管理官が筆を構える。
「商船を止めるな」
別の管理官が記録する。
「灯台を消すな。港湾労働者を逃がすな。倉庫を焼くな。船大工を徴発しすぎるな」
ラドが港を見下ろしながら言った。
「全部止めれば、支配は楽です」
「その代わり、島が死ぬ」
ジィッドは即答した。
「死んだ島を持っても意味がない。ボルサ諸島列島は、海が動いているから価値がある。漁船が出て、商船が寄って、灯台が光って、港で荷が動いているから使える」
ノエルが資料をめくる。
「首都コフツに軍政庁を置く方針ですね」
「ああ」
「全島統一命令ではなく、島ごとの自治を残す」
「残せ」
ジィッドは、卓上の海図を指で叩いた。
三十以上の島が描かれている。
大小さまざまな島。
漁港。
塩田。
乾物加工場。
船舶修理場。
灯台。
通信塔。
古い祠。
巫女ボルサ・バスコ・アトールの記憶が残る島。
「この島々をコフツから一律に縛ろうとすると失敗する」
ジィッドは言った。
「漁業の島には漁業の理屈がある。船大工の島には船大工の理屈がある。灯台の島には灯台の理屈がある。塩田と乾物加工の島も同じだ」
ノエルが頷く。
「では、島長は残す」
「残せ。港湾組合も残せ。漁業組合も残せ。船大工も、灯台守も、塩の組合も残せ」
管理官が顔を上げる。
「ただし、軍政庁が見る範囲は」
「灯台、通信、港湾税、船舶登録、倉庫」
ジィッドは即答した。
「そこは渡さない。港と税と通信は軍政庁が見る。島の飯と祭りと漁の細かい作法までは触るな。だが、船がどこから来て、何を積み、どこへ出るかは記録する」
管理官が淡々と書く。
「島長自治維持。港湾・税務・通信・灯台・倉庫は軍政庁直轄」
「直轄と書くな。強すぎる」
「では、軍政庁管理」
「それでいい」
ノエルが小さく苦笑した。
「言葉の温度調整ですね」
「島民は言葉で怒る。怒った島民は港を止める。港が止まると俺の机に書類が来る」
「最後が本音ですね」
「全部本音だ」
そこへ、港湾代表、漁業組合の長、船大工組合、灯台守の代表、乾物商、塩田の代表、そして各島の島長たちが通された。
彼らの表情は硬い。
当然だった。
目の前にいるのは占領軍の将校。
バッハトマの騎士。
銀月騎士団のジィッド・マトリア。
敵だ。
だが、その敵は港を焼かなかった。
漁船を全部奪わなかった。
灯台守を殺さなかった。
その事実だけが、会議室の空気をかろうじて保っていた。
ジィッドは彼らを見渡した。
「最初に言っておく。島を全部軍の倉庫にする気はない」
島長の一人が眉を動かした。
ジィッドは続ける。
「島民が飯を食って、船が出て、港が動いているから価値がある。軍が船を全部取れば島は死ぬ。漁を止めれば食料が死ぬ。灯台を消せば海路が死ぬ。倉庫を焼けば税も補給も死ぬ」
港湾代表が低く言った。
「では、我々に何を求める」
「港を動かせ」
ジィッドは短く答えた。
「漁を続けろ。荷を動かせ。船を直せ。灯台を守れ。乾物を作れ。塩を作れ。島の生活を止めるな」
漁業組合の長が警戒した目を向ける。
「その代わりに、何を差し出せと?」
「記録だ」
ジィッドは言った。
「船舶登録。出入港記録。倉庫台帳。港湾税。灯台通信記録。そこは軍政庁が見る」
船大工組合の老人が渋い声を出した。
「徴発は」
「しすぎるなと命令してある」
老人の目が少し揺れた。
「しない、ではないのですな」
「嘘は言わない。必要な徴発はする。だが、船大工を全員軍に取ったら港が死ぬ。だから全部は取らない」
乾物商が言う。
「税は上がるのか」
「いきなり上げない」
管理官が横で少しだけ咳払いする。
ジィッドは無視した。
「港が動き、商船が戻り、倉庫が回ってから段階的に決める。最初から絞れば船が逃げる」
ノエルが小声で呟く。
「また管理官が増えますね」
「言うな」
灯台守の代表が、初めて口を開いた。
「灯台は軍が使うのか」
「軍も使う。商船も使う。漁船も使う。灯台は島の目だ。消すな」
その言葉に、会議室の空気がわずかに変わった。
ジィッドはそれを感じたが、表情を変えない。
ここで優しい顔をすると、交渉になる。
ここで脅しすぎると、反発になる。
だから、事務的に言う。
「港を取ったんじゃない。港の動きを取ったんだ」
管理官の筆が止まる。
ジィッドは続けた。
「動かなくなった港は、ただの石だ」
管理官が顔を上げる。
「今の言葉、港湾軍政方針に――」
「使うな」
ニナリスが静かに言った。
「記録しました」
「記録はいつも残酷だな」
島長たちの何人かが、奇妙な顔をした。
笑いではない。
だが、ほんの少しだけ、緊張がずれた。
ラドが横で低く言う。
「少将、巫女関連の島はどうします」
その一言で、空気がまた硬くなる。
ボルサ・バスコ・アトール。
その名は、この島々にとって軽くない。
ジィッドは島長たちを見る。
「祠は動かすな。祭礼も止めるな」
管理官が筆を走らせる。
「ただし」
島長たちの目が細くなる。
「祭礼に紛れて武器を運ぶな。祠を使って密輸するな。巫女の名を使って反乱の人集めをするな。やった者は潰す」
ノエルが小さく息を吐いた。
優しいのか冷たいのか、どちらとも言えない線だった。
ジィッドは続ける。
「信仰を敵に回す気はない。だが、信仰の陰で武器を運ぶ奴を見逃す気もない」
島長の一人が静かに言った。
「占領軍らしい言い方ですな」
「そうだ。俺たちは占領軍だ」
ジィッドは即答した。
「だから、綺麗なことは言わない。港を動かせ。島を食わせろ。灯台を守れ。税と船の記録は出せ。勝手な網は作るな。それだけだ」
沈黙。
やがて、コフツの港湾代表がゆっくりと頷いた。
「港が動くなら、労働者は残ります」
漁業組合の長が言う。
「漁船を全部取らないなら、漁は続けられる」
船大工の老人が続く。
「軍の船だけ直せと言われるなら断る。だが、港の船を直してよいなら、工房は開ける」
灯台守の代表が最後に言った。
「灯台は消しません。ですが、灯台守は軍人ではない」
「軍人にするな」
ジィッドは管理官に言った。
「灯台守は灯台守として残せ。給金を遅らせるな。交代勤務表を軍が勝手にいじるな。だが通信記録は写しを取れ」
「承知しました」
ノエルがまた呻いた。
「また帳簿が増えた……」
「島を取るってのは、そういうことらしい」
ジィッドは窓の外を見た。
港では、まだ荷が動いている。
漁船が出る。
商船が待つ。
灯台は点いている。
ボルサ諸島列島は、敵の手に落ちた。
だが、まだ息をしている。
ジィッドはその息を止めないために、軍政庁を置く。
コフツに。
だが、島ごとの生活は残す。
港を握り、税を握り、通信を握る。
それでも、島を全部倉庫にしない。
軍港に染めすぎない。
商船と漁船を逃がさない。
管理官が最後に確認した。
「基本方針は、いかが記しますか」
ジィッドは少しだけ考えた。
「船を止めるな。灯を消すな。飯を切らすな」
「それだけですか」
「それだけだ」
「正式文書としては短すぎます」
「長くするな」
ニナリスが静かに言う。
「正式文書には補足条項を付けます」
「結局長くなるのか」
「必要です」
ジィッドは天井を見た。
「正式文書はいつも太る」
その日、ボルサ諸島列島の軍政は、征服の名ではなく、港湾台帳と灯台勤務表から始まった。
綺麗な統治ではない。
善政とも言い切れない。
だが、港は止まらなかった。
船は出た。
灯は消えなかった。
そしてジィッドの机には、また新しい帳簿が積まれることになった。