/*/ 星団暦3045年・ボルサ諸島列島 首都コフツ /*/
会議室の奥には、古い海図が掛けられていた。
ボルサ諸島列島。
三十以上の島々。
大小の港。
灯台。
漁場。
塩田。
乾物加工場。
船大工の島。
そして、巫女ボルサ・バスコ・アトールにまつわる古い祠の印。
ジィッド・マトリア少将は、その祠の印を見て、しばらく黙っていた。
ラドが横から低く言う。
「少将。巫女関連施設の扱いですが」
「動かすな」
即答だった。
ノエルが顔を上げる。
「確認します。祠、祭礼、島ごとの信仰行事は、原則として維持」
「そうだ」
ジィッドは海図を指で叩いた。
「祠を倉庫にするな。祭りを止めるな。ボルサの名をバッハトマ式に変えるな。巫女信仰を反乱扱いするな」
管理官が筆を止めた。
「そこまで緩めますか」
「緩めるんじゃない。触らないんだ」
ジィッドは顔をしかめた。
「ボルサ・バスコ・アトールの生地だろう。そこを踏めば、港じゃなくて島の魂を敵に回す」
会議室には、島長たちも同席していた。
コフツの港湾代表。
漁業組合。
灯台組合。
塩田組合。
乾物商。
船大工。
そして、巫女の祠を守る古い家の代表。
彼らの表情は硬い。
当然だった。
目の前の男は、占領軍の少将である。
だが、その占領軍の少将が、祠を動かすなと言っている。
祭りを止めるなと言っている。
そのことが、逆に彼らを黙らせていた。
ジィッドは続けた。
「ただし」
島長たちの空気が、また硬くなる。
「祭りに紛れて武器を運ぶ奴は潰せ。祠を使って密輸する奴も潰せ。巫女の名を使って反乱の人集めをする奴も潰せ」
祠守の老人が、低い声で言った。
「信仰を疑うのですか」
「違う」
ジィッドは短く答えた。
「信仰を盾にする奴を疑う」
沈黙。
ノエルが、小さく息を吐いた。
管理官が確認する。
「宗教自治を認める形ですか」
「違う」
ジィッドは即座に返した。
「火種を油で洗わないだけだ」
その言葉に、ラドがわずかに眉を上げた。
管理官は書き留めようとした。
「今の言葉を――」
「使うな」
ニナリスが静かに言う。
「記録しました」
「記録はいつも残酷だな」
島長たちの何人かが、ほんの少しだけ視線を交わした。
笑ったわけではない。
だが、空気がわずかに緩んだ。
ジィッドはそれ以上、信仰の話を広げなかった。
踏み込まない。
だが、見ないふりもしない。
それがこの島での線だった。
/*/ コフツ港湾軍政監 /*/
次の議題は、役職名だった。
ノエルが書類を置く。
「コフツに常駐する軍政責任者の件です」
「総督代理は駄目だ」
ジィッドは、ノエルが読み上げる前に言った。
ノエルが苦笑する。
「まだ総督でもありませんしね」
「そういう問題でもあるし、そういう問題じゃない」
ジィッドは椅子に背を預けた。
「総督代理なんて置くな。島の王様に見える」
管理官が言う。
「では、コフツ軍政長官では」
「重い」
「コフツ統治監」
「もっと悪い」
「ボルサ諸島列島臨時軍政総括官」
「長い。重い。偉そう。却下」
ノエルが資料を見直して、別案を出す。
「コフツ港湾軍政監」
ジィッドは少し黙った。
「それでいい」
管理官が眉を上げる。
「よろしいのですか」
「名前が少し弱い方がいい」
ノエルが言う。
「それでも十分強い役職ですが」
「港と税と船だけ見る役に見える」
「実際には、港湾税、倉庫、船舶登録、海上警備、灯台、通信塔、主要島との連絡、ボルサ便の運行まで握ります」
「だから名前だけでも弱くしろ」
ジィッドは海図を見た。
「島民自治や祭礼、漁業組合の細かいことは現地代表会議に任せる。港湾軍政監は、港と税と船と灯台を見る。島の生活に手を突っ込みすぎるな」
港湾代表が問う。
「その港湾軍政監は、我々の上に立つのですか」
「港では上に立つ」
ジィッドは隠さなかった。
「だが、島の祭りの順番や、漁場の古い取り決めや、祠の掃除当番までは命令しない。そこまでやると反乱より先に港が止まる」
灯台組合の代表が言う。
「灯台は」
「軍政監が見る。だが、灯台守は灯台守として残す。軍人にするな。給金を遅らせるな。通信記録の写しは取る」
管理官が記録する。
「コフツ港湾軍政監。管轄、港湾税、倉庫、船舶登録、海上警備、灯台、通信塔、主要島連絡、ボルサ便運行。島民自治、祭礼、漁業細則は現地代表会議へ」
「それでいい」
ニナリスが補足する。
「港湾軍政監と現地代表会議の連絡線を設けます。権限衝突時は少将裁可」
ジィッドは嫌そうに目を細めた。
「結局、俺に来るのか」
「最終判断が必要です」
「必要なのが腹立たしい」
ラドが小さく笑った。
「少将、また仕事が増えましたね」
「増やしたくて増やしてるんじゃない」
ノエルがぼそりと言う。
「でも、増えましたね」
「言うな」
/*/ 統治スローガン /*/
会議の終わり、管理官が一枚の草案を出した。
「現地向けの軍政基本方針です」
ジィッドは警戒した顔で受け取った。
紙面には、整った文字が並んでいる。
/*/
ボルサ諸島列島軍政基本方針
一、海上交通の維持
二、灯台・通信機能の保全
三、食料供給および漁業継続
四、港湾税制の段階的整備
五、軍需補給線の安定化
/*/
ジィッドはしばらく眺めた。
「長い」
「正式文書ですので」
「俺の言葉より長くするな」
「少将の言葉は短すぎます」
「短い方が島民に伝わる」
管理官が尋ねる。
「では、現地向けにはどうしますか」
ジィッドは窓の外を見た。
港。
船。
灯台。
干物を運ぶ荷車。
塩樽。
漁師。
灯台守。
港湾労働者。
兵士。
占領地でありながら、まだ息をしている島々。
ジィッドは短く言った。
「船を止めるな。灯を消すな。飯を切らすな」
会議室が少し静かになった。
ノエルがその言葉を繰り返す。
「船を止めるな。灯を消すな。飯を切らすな」
ラドが頷いた。
「分かりやすいですね」
「分かりやすくないと意味がない」
ジィッドは言った。
「島民にも分かる。港湾労働者にも分かる。漁師にも分かる。軍にも分かる。ボルサ諸島列島では、これでいい」
管理官が少し考えてから、紙面に追記する。
「では、現地掲示用標語として採用します」
「標語にするな」
「必要です」
「何でも正式にするな」
「正式でなければ徹底されません」
「正式文書はいつも太る」
ニナリスが静かに言う。
「マスターの言葉を短文方針として掲示し、正式文書は補足条項として運用します」
「結局両方使うのか」
「はい」
「記録はいつも残酷だな」
祠守の老人が、そこで初めて口を開いた。
「船を止めるな。灯を消すな。飯を切らすな……か」
ジィッドは老人を見る。
「不満か」
「いいえ」
老人はゆっくり首を振った。
「占領軍の言葉としては、悪くない」
その評価が、褒め言葉なのか、皮肉なのかは分からなかった。
だが、ジィッドは頷いた。
「悪くないなら十分だ」
/*/ 港の掲示板 /*/
翌日、コフツ港の掲示板に、三つの短い文が掲げられた。
船を止めるな。
灯を消すな。
飯を切らすな。
その下に、小さく、正式文書の要約が続く。
海上交通の維持。
灯台・通信機能の保全。
食料供給および漁業継続。
港湾税制の段階的整備。
軍需補給線の安定化。
港湾労働者がそれを読む。
漁師が読む。
灯台守の若者が読む。
塩田組合の老人が読む。
船大工が、鼻で笑いながら読む。
子供が、意味も分からず読み上げる。
占領軍の言葉だった。
だが、島の生活を止めるなという言葉でもあった。
だから、誰もすぐには剥がさなかった。
ボルサ諸島列島は、まだ敵の手にある。
だが、船は出る。
灯は点く。
飯は作られる。
そしてコフツには、総督代理ではなく、港湾軍政監が置かれた。
島の王様ではない。
港と税と船を見張る、占領軍の細い針。
ジィッドはその報告を受けて、短く言った。
「よし。港を止めるな」
ノエルが答える。
「はい」
「祭りも止めるな」
「はい」
「ただし、祭りで武器を運ぶ奴は潰せ」
「はい」
ラドが苦笑する。
「優しいのか怖いのか分かりませんね」
「どっちでもない」
ジィッドは机の上に積まれた新しい帳簿を見た。
「軍政だ」
その一言で、会議は終わった。
綺麗な統治ではない。
だが、火種を油で洗うような愚は避けた。
ボルサ諸島列島の統治は、祠を動かさず、港を止めず、灯を消さず、帳簿を増やすところから始まった。