/*/ 星団暦3069年・ナカカラ北部戦線 後方観測丘陵 /*/
丘の上に、三脚が立てられていた。
軍用の角型双眼鏡。
通称、カニ眼鏡。
左右に張り出した観測筒が、節足動物の眼のように見えることから、前線観測兵たちはそう呼んでいた。
角型双眼鏡――ツノカタ。
通常の双眼鏡より視界は狭い。
だが距離、熱源、魔導反応、GTMの識別線、砲煙の流れまで拾える。
ジィッド・マトリアは、そのカニ眼鏡に顔を寄せていた。
隣では、アーリィ・ブラスト大佐が腕を組み、肉眼と携帯観測器を交互に使って戦場を見ている。
銀月騎士団は動かない。
黒豹騎士団も動かない。
丘の下には、銀月の五十八騎と黒豹の七十二騎が、沈黙したまま待機している。
戦場の音だけが、風に乗って届く。
砲声。
装甲同士の衝突音。
大地を削るGTMの足音。
そして、前線が後退する音。
ジィッドは、カニ眼鏡の接眼部から目を離さずに言った。
「一時間で戦線三十キロも戻された」
淡々とした声だった。
だが、その数字は尋常ではない。
三十キロ。
一時間。
それは、前線が押されたというより、戦場の地形そのものを奪われたに等しい。
「流石はノイエシルチス青グループ」
ジィッドは小さく息を吐いた。
そこにいたのは、曖昧な“フィルモア系”の騎士ではない。
正真正銘のフィルモア騎士。
その中でも、精鋭中の精鋭。
ノイエシルチス青グループ。
戦場の中央を、冷たく、正確に、容赦なく押していた。
ロッゾ傭兵騎士団も、西部騎士団連合も、粘れていない。
彼らは崩壊していない。
潰走もしていない。
だが、止められていない。
受ければ半歩下がる。
横へ逃がそうとすれば、そこを読まれる。
再編しようとすれば、その前に線を押し込まれる。
青グループは、華麗に斬り込んでいるのではない。
戦線の呼吸を奪っている。
ロッゾと西部連合の線が、整ったまま後退させられていく。
それが一番恐ろしかった。
崩れていないのに、戻されている。
負けていないように見えて、地図上では負けている。
アーリィが低く言った。
「……あれを止めろと言われても、簡単ではないな」
「黒豹なら刺せるだろう」
「刺せる。だが、止められるかは別だ」
「銀月も同じだ」
ジィッドはカニ眼鏡の焦点を少し動かした。
青い識別印。
その前で、ロッゾの線がまた下がる。
西部連合の一角が、横へ膨らむ。
逃げ道を作ったのではない。
押し込まれて、形を保つために膨らまざるを得ない。
「しかし」
アーリィは、少し苛立つように言った。
「少将が後方で待機とは……」
そこで、自分の騎士団を思い出したように、苦笑する。
「ま、うちの黒豹も同じだが」
「王都攻めとフィルモア本陣をやるのは、国家の枠の無い騎士団なんだと」
ジィッドは、カニ眼鏡から目を離した。
顎で丘の上を示す。
さらに高い位置。
黒いローブ姿の集団がいた。
顔は見えない。
風に揺れる布だけが、やけに黒い。
彼らは戦場を見ている。
だが、戦場に属していないようにも見える。
「あの黒ローブの方々が、各軍への指示を出すそうだ」
アーリィが眉をひそめた。
「誰だ」
「知らん」
「知らない者の指示で、我々は待機しているのか」
「命令系統上はそうなる」
「気に食わないな」
「俺もだ」
ジィッドはあっさり言った。
それでも銀月は動かない。
黒豹も動かない。
丘の下のGTMたちは、出撃準備を終えたまま、静かに待っている。
アーリィは黒ローブたちを見上げた。
「国家の枠の無い騎士団を前に出す。バッハトマの正規騎士団は待つ。そういう政治か」
「多分な」
「黒豹も銀月も、国家の色が濃いからか」
「そうだろう。王都攻めにバッハトマの旗が立ちすぎると、後で面倒になる」
「戦場で面倒を避けるために、戦力を寝かせるのか」
「よくある」
「嫌な言い方だ」
「嫌な話だからな」
その時、観測兵が声を上げた。
「前方、南西側より新規GTM反応! 数、五十!」
ジィッドは即座にカニ眼鏡へ戻った。
アーリィも観測器を上げる。
戦線後方から、土煙が上がっていた。
新しい騎影。
整った隊列。
機体の識別が、観測盤に走る。
「ブーレイ傭兵騎士団」
ラドが読み上げる。
「オデオン、五十騎!」
青グループに押されていた前線の後ろへ、オデオン五十騎が入る。
速い。
迷いがない。
押し戻されていたロッゾ傭兵騎士団と西部騎士団連合の後退線に、斜めから補強を差し込む形だった。
単なる増援ではない。
折れかけた線を、後ろから支える楔。
青グループの圧が、一瞬鈍る。
ロッゾの後退速度が落ちる。
西部連合の横への膨らみが収まる。
押されていた戦線に、ようやく芯が入った。
アーリィが呟く。
「止まった」
「拮抗したな」
ジィッドはカニ眼鏡を覗いたまま言った。
「ブーレイ五十騎で、ようやく一時間三十キロの後退が止まる。嫌な数字だ」
「青グループが強すぎる」
「強い。だが、押し切れないなら戦場になる」
前線は、そこでようやく殴り合いの形を取り戻した。
それまでは、青グループが戦場を畳んでいた。
いまは、ブーレイの楔が入り、ロッゾと西部連合が再び線として立つ。
GTMの群れがぶつかる。
土煙が厚くなる。
砲火が左右へ散る。
戦線の形が、押し込みから拮抗へ変わった。
だが、ジィッドの顔は緩まない。
むしろ、さらに険しくなった。
「おかしい」
アーリィが聞く。
「何が」
「オデオン五十騎は効いた。だが、効きすぎていない」
「どういう意味だ」
「青グループは押し続けていた。そこへ五十騎が入って拮抗した。理屈は通る。だが――」
言葉の途中で、別の観測兵が叫んだ。
「北東! ギーレル国境沿い、船影多数!」
ジィッドの手が止まった。
「船?」
「貨物船です。いや……識別修正。武装反応あり!」
観測盤の表示が変わる。
貨物船。
その外皮に隠された砲塔。
偽装を解く船体。
戦艦。
一隻ではない。
多数。
ギーレル国境沿いから、貨物船に偽装した戦艦が次々と姿を現していた。
それらは北部戦線の後方へ向かうのではない。
もっと嫌な位置へ進んでいる。
ナカカラ王宮と北部戦線の間。
前線と王都を切る位置。
そこへ増援を落とそうとしている。
アーリィが、初めて声を詰まらせた。
「これは……」
ジィッドはカニ眼鏡から目を離した。
顔が硬い。
「ギーレルは抱き込まれていたのか?」
答える者はいない。
黒ローブの集団は、丘の上で動かない。
まるで、それも予定のうちだと言わんばかりに。
戦艦群は、偽装を解きながら前進する。
そこから降下艇が分離する。
増援部隊が、北部戦線の背後ではなく、王宮と戦線の間へ落ちていく。
ノエルが息を呑んだ。
「王都と北部戦線が分断されます」
「完全にではない」
ジィッドは即座に言った。
「だが、王宮の最終防衛ラインが厳しくなるな」
アーリィは観測器を下ろさない。
「フィルモアはどうする」
ジィッドは、カニ眼鏡の三脚に片手を置いたまま、戦場ではなく地図を見た。
ナカカラ北部。
王宮。
北部戦線。
ギーレル国境。
偽装戦艦の出現位置。
増援降下地点。
前線では、青グループとオデオン五十騎が拮抗している。
その間に、王都と北部戦線の間へ新たな刃が差し込まれた。
「フィルモアはどうする」
ジィッドは、アーリィの問いを反復するように呟いた。
「本陣を下げて、王都ナカカラを一時放棄するのか」
ラドが顔を上げる。
「王都を?」
「北部戦線と王宮の間に増援を落とされた。王宮に固執すれば、本陣と王都と北部戦線がそれぞれ切られる。最悪、救援も撤退もできなくなる」
アーリィが言う。
「では、王都を捨てる?」
「一時的にな」
ジィッドは険しい顔で続けた。
「本国からの増援が来るまで、本陣を下げる。王都ナカカラを一時放棄して、同盟に取らせる。そこから伸びた敵の補給線を、本国増援で一気に叩き戻す」
「王都を餌にするのか」
「できるならな」
「できると思うか」
ジィッドは答えなかった。
できる。
できない。
その二択で済む話ではない。
王都を一時放棄するには、政治的な覚悟がいる。
民衆の避難。
王宮の象徴性。
防衛軍の士気。
各騎士団の面子。
フィルモア本国の増援到着時間。
敵が王都を取った後、どこまで深入りするか。
そのすべてを読まなければならない。
アーリィは低く言った。
「少将なら、どうする」
「俺に聞くな」
「聞きたい」
「聞くな。仕事になる」
アーリィは黙って待った。
ジィッドは嫌そうに息を吐く。
「……王都を死守する命令が出ているなら、守る。だが戦域全体を見るなら、北部戦線と本陣を残す方が優先だ。王都に固執して本陣まで食われたら終わる」
「つまり」
「一時放棄も選択肢だ」
ラドが、思わず呟いた。
「それを誰が決めるんですか」
ジィッドは黒ローブの集団を見た。
「さあな」
黒い布が風に揺れている。
顔は見えない。
その者たちは、ナカカラ北部が取れればよいと言っていた。
だが、今起きていることは、北部だけでは済まない。
王宮と北部戦線の間に増援を落とす。
ギーレル国境沿いから偽装戦艦を出す。
それは、ナカカラそのものを割る動きだった。
ジィッドは低く言った。
「色々と面倒な事を考えてそうだ」
アーリィが問う。
「黒ローブたちが?」
「少なくとも、表に見えている戦場だけ見てはいない」
「なら、我々は?」
「まだ待機だ」
アーリィの目が鋭くなる。
「この状況でもか」
「命令がない。黒豹も銀月も国家色が強い。ここで勝手に動けば、あの連中の盤面を壊す」
「盤面が壊れたら?」
「その時は、命令を待つ時間があるかどうかで決める」
ジィッドはカニ眼鏡をもう一度覗いた。
前線では青グループとオデオンがぶつかり、拮抗している。
その後方では、偽装戦艦からの増援が降りてくる。
さらに後方、丘の下では、銀月と黒豹が沈黙している。
戦わない騎士団。
待つ騎士団。
だが、その待機は怠惰ではない。
全ての戦線が噛み合わなくなった瞬間、どこへ投入されるかで戦況が変わる。
だからこそ、動けない。
ジィッドは呟いた。
「王宮の最終防衛ラインが厳しくなる」
アーリィは静かに頷いた。
「フィルモア本国からの増援まで、持つか」
「そこだな」
「持たなければ」
「王都ナカカラは落ちる」
風が冷たくなった。
丘の上の黒ローブたちは、まだ顔を見せない。
戦場は、押し戻しから拮抗へ。
拮抗から分断へ。
そして、王都の命運へと変わり始めていた。
ジィッドは、カニ眼鏡の三脚を握りながら、低く言った。
「……嫌な戦場だ」
アーリィが答える。
「同感だ」
銀月騎士団は、まだ動かない。
黒豹騎士団も、まだ動かない。
だが、二人とも分かっていた。
この観戦は、ただの観戦では終わらない。