/*/ 星団暦3069年・ナカカラ北部戦線 後方観測丘陵 /*/
全ての表示が、フィルモアの紋章に塗り替わった。
民間放送。
報道回線。
広域通信。
軍事通信網。
戦場の外側を満たしていた情報の海が、一瞬で黒と白の帝国章に変わる。
GTMそのものは影響を受けていない。
騎体内部管制。
ファティマ系統。
近距離戦術リンク。
それらは生きている。
だが、星団へ向けて開いている口という口は、すべてフィルモアに奪われていた。
「なんだこれ?」
ラドが呟いた。
通信士が叫ぶ。
「全星団通信網が乗っ取られています! 軍事通信網もです!」
ジィッドは、三脚に据えた角型双眼鏡――ツノカタ、通称カニ眼鏡から顔を離した。
丘の上では、黒ローブの集団が動揺を隠しきれずにいる。
顔は見えない。
だが、空気が変わった。
次の瞬間、通信が開く。
『聞け! 全フィルモアの民よ! 騎士たちよ! すべての星団の民よ!
余は238代目フィルモア皇帝、ダイ・グである!』
若い声だった。
しかし、それは皇帝の声だった。
ナカカラ北部の戦場にいた全員が、否応なく聞かされた。
ロッゾ傭兵騎士団。
西部騎士団連合。
ブーレイ傭兵騎士団オデオン。
ノイエシルチス青グループ。
銀月騎士団。
黒豹騎士団。
そして、丘の上の黒ローブたち。
『余はナカカラに武力で攻め入るいかなる国家も、集団も、排除する!
フィルモアはナカカラを守る!
これは余の意志である!』
アーリィ・ブラストが、低く息を呑んだ。
「皇帝が……直接」
ジィッドは黙っていた。
カニ眼鏡の向こうでは、戦場が止まっていない。
青グループは前進を続けている。
ロッゾと西部連合は押されている。
ブーレイ傭兵騎士団オデオン五十騎が入ったことで、一度は拮抗した。
だが、この声が、戦場の重心を変えていく。
『だが!
それは決して、ナカカラを武力や経済で抑え込むことではない!
余の願いはただ一つ!
それは古より続く、ミノグシアとフィルモアの友好!』
ジィッドの眉が、わずかに動いた。
武力で攻め入る。
だが、支配のためではない。
ナカカラを守る。
皇帝が、全星団にそう言った。
これは戦術ではない。
政治でも足りない。
皇帝が、自分の命と帝国の理念を賭けて、戦場そのものの意味を書き換えに来ていた。
『笑え!
若き皇帝の戯言!
甘い理想とな!
だが、この国の平和を乱すことは許さぬ!』
前線の通信が混線する。
「陛下だ……!」
「ダイ・グ陛下だ!」
「ナカカラを守れ!」
「艦隊も前進している! 陛下が来ているんだぞ!」
フィルモアの騎士たちの声が、雑音混じりに流れ込む。
ジィッドはカニ眼鏡に戻った。
ブーレイの識別信号が揺れている。
先ほどまで、同盟軍側の楔として青グループを止めていたオデオン五十騎。
その信号が、一斉に変わった。
「ブーレイ、敵味方識別信号変更!」
「オデオン五十騎、フィルモア側へ!」
「寝返りました!」
さらに別の声が割り込む。
「もえぎ騎士団! 陛下の勅命に従うぞ!
フィルモア軍と共に同盟を叩け!」
続いて、鋭い女の声。
「ブーレイ部隊! 敵味方識別信号変更!
ラミアス始動!
私に続け!」
オデオン五十騎が反転した。
楔が、刃になった。
青グループに押されていた戦線を支えるために入ったはずの五十騎が、同盟軍の横腹へ向きを変える。
ロッゾ傭兵騎士団の横線が裂ける。
西部騎士団連合の後退線が乱れる。
前からは、正真正銘のフィルモア騎士のエリート、ノイエシルチス青グループ。
横からは、寝返ったブーレイ傭兵騎士団オデオン五十騎。
そのさらに奥では、ギーレル国境沿いから現れた貨物船偽装の戦艦群が、王宮と北部戦線の間へ増援を落としている。
戦場が、折れた。
アーリィが呟く。
「これは……」
ジィッドは、カニ眼鏡から顔を離した。
表情は冷えていた。
「ここまでだな」
ラドが振り返る。
「少将」
「王都ナカカラ攻略は失敗だ」
ノエルが息を呑む。
アーリィが、前線を見たまま言う。
「間に割って入った味方は?」
王宮と北部戦線の間へ落とされた同盟側の増援。
先ほどまでは、王都への圧力を強める刃だった。
だが、今は違う。
ブーレイ反転。
青グループ再加速。
フィルモア艦隊前進。
皇帝勅命による士気反転。
あの位置にいる味方は、突出したまま孤立する。
救いに行けば、こちらの主力まで飲み込まれる。
ジィッドは、短く答えた。
「救出できない」
沈黙。
重い沈黙だった。
ラドが口を開きかけ、何も言えなかった。
ノエルも同じだった。
アーリィの顔が硬くなる。
「切るのか」
「切らなければ全体が死ぬ」
ジィッドの声は、低かった。
「青グループが前から押してくる。ブーレイが横から刺す。王宮と北部戦線の間には敵増援が落ちる。あの間に割って入った味方を助けに行けば、撤退路そのものが塞がる」
「だが」
「分かっている」
ジィッドはアーリィを見た。
「分かっているから言っている」
前線では、ロッゾと西部連合が一気に押し返されている。
先ほどまでの後退とは違う。
今は、戦線の意味そのものが変わった。
同盟軍の再侵攻は、王都ナカカラを落とす作戦ではなくなった。
生き残れるだけの戦力を引き抜く撤退戦になった。
丘の上の黒ローブたちが、ようやく動き出す。
遅い。
あまりに遅い。
彼らの盤面は、フィルモア皇帝の勅命とブーレイ反転によって割られていた。
ジィッドは、その黒ローブたちへ向けて怒鳴った。
「おい、黒ローブ!」
黒い布がこちらを向く。
「退却するぞ!」
制止の気配があった。
だが、ジィッドは止まらない。
「王都攻略は失敗だ! ブーレイは反転、青グループは再前進、王宮と北部戦線の間には敵増援は敵味方に割れた! ここで押せば全軍が包まれる!」
返答はない。
ジィッドは吐き捨てるように言った。
「命令責任は後で問え。今は兵を残す!」
そして通信を切り替えた。
「銀月騎士団、撤退支援行動開始!」
待機していた五十八騎が、一斉に応答する。
「了解!」
「第一機動戦隊、出ます!」
「第二支援戦隊、撤退路形成!」
「救出班、前進!」
ジィッドは続ける。
「救出対象はロッゾ主力と西部連合の後退可能部隊だ。王宮方面へ割って入った部隊には向かうな」
ラドが一瞬だけ声を詰まらせた。
「少将……!」
「命令だ」
ジィッドは言った。
「向かえば全体が死ぬ」
次に、アーリィへ向いた。
「黒豹騎士団も指揮下に入れ」
アーリィは一拍、黙った。
前線を見る。
寝返ったブーレイを見る。
青グループを見る。
丘の上の黒ローブを見る。
そして、ジィッドを見る。
「異論はない」
彼女は黒豹の通信を開いた。
「黒豹騎士団、銀月の撤退支援行動に同期。ジィッド少将の戦術指揮下に入る。反論は後で聞く。今は動け!」
丘の下で、黒いGTMが一斉に立ち上がる。
銀月の白。
黒豹の黒。
それまで戦わず待機していた二つの騎士団が、同時に動いた。
だが、目的は勝利ではない。
撤退。
生存。
戦力の回収。
王都攻略の放棄。
ジィッドは矢継ぎ早に命令を出す。
「銀月第一班、ロッゾ左翼の退路を開け! 斬るな、押し返せ! 第二班、西部連合の後退線に入れ! 敵を止めるな、流せ! 第三班、ブーレイと長く接触するな。足を止めさせるだけでいい!」
アーリィが問う。
「黒豹は」
「刺すな」
「刺すな?」
「今刺すと深入りする。ブーレイ反転直後で識別が乱れている。黒豹は側面を脅せ。敵に追撃線を作らせるな」
アーリィが即座に命令する。
「黒豹、追撃線を切る! 撃破より威圧! 深入りするな!」
黒豹が横へ流れる。
獲物へ飛びかかるのではない。
追ってくる敵の喉元へ影を落とす。
銀月は、崩れた味方の後退線へ入った。
救うためではない。
全てを救うことはできない。
だから、残せるものを残すために。
デムザンバラが起動する。
白銀の騎体が丘の下から進み出る。
「ニナリス」
「はい。デムザンバラ、起動準備完了」
「撤退戦だ」
「承知しました」
「王都攻略は諦める。割って入った味方は救えない」
「はい」
「星はいらん。残せる部隊を残す」
「はい、マスター」
デムザンバラの視界に、崩れた戦線が映る。
ロッゾの一騎が後退しきれず、ブーレイの反転部隊に捕まりかけている。
ジィッドは即座に指示する。
「銀月第五班、ロッゾ三番機を引け。デムザンバラが間に入る」
「了解!」
白銀の騎体が滑り込む。
敵を斬るのではない。
追撃角をずらす。
ブーレイの進路を半歩狂わせる。
青グループの押し出し線に、わずかな歪みを作る。
ガットブロウが抜かれる。
一閃。
敵は落ちない。
だが膝が止まる。
その一瞬で、ロッゾ三番機が後退線に滑り込む。
「次!」
ジィッドが叫ぶ。
「西部連合の右を開けるな! そこから包まれる! 銀月第二班、黒豹の影に合わせろ!」
黒豹が横から圧をかける。
敵は追いたい。
だが、黒豹がいる。
追えば横腹を抉られる。
その迷いの間に、銀月が味方を抜く。
撤退戦は、勝つ戦いではない。
負けを減らす戦いだ。
ジィッドはそれを知っていた。
三十八年、街を残すために選んできた男だった。
今度は戦場で、兵を残す。
通信が混線する。
「フィルモア艦隊、さらに前進!」
「ブーレイ反転部隊、追撃!」
「ロッゾ左翼、後退!」
「西部連合、再編不能!」
「黒ローブから通信要求!」
ラドが叫ぶ。
「准将、黒ローブから停止命令です!」
ジィッドは迷わなかった。
「切れ」
「切ります!」
「後で処分されますよ!」
「生きていればな!」
デムザンバラが、再び敵の前に出る。
白銀の騎体は戦場を割らない。
だが、撤退する味方の前には必ずいる。
アーリィの声が入る。
「准将、黒豹、左の追撃線を切った。次は」
「そのまま脅せ。踏み込むな。黒豹を失うと撤退路が閉じる」
「了解」
「アーリィ」
「何だ」
「ここからは派手に勝つな。地味に残せ」
通信の向こうで、アーリィが小さく笑った気配があった。
「銀月式だな」
「嫌な言い方をする」
「だが、今は正しい」
その時、ダイ・グ皇帝の声が再び通信網を満たした。
『フィルモア騎士たちよ。
今一度、余に命を預け、その誇りを持ってナカカラを守れ!』
ノイエシルチス青グループの動きが、さらに鋭くなる。
ブーレイ反転部隊が、それに呼応する。
同盟軍は、もう王都へ進めない。
攻略は終わった。
退くしかない。
ジィッドは全軍通信に切り替えた。
「全軍へ。銀月と黒豹が撤退路を開く。ロッゾ、西部連合は北西へ抜けろ。王宮方面へ入るな。王宮と北部戦線の間はもう敵の釜だ」
ノエルが確認する。
「王都ナカカラ攻略中止、で流しますか」
「そうだ」
ジィッドは言った。
「王都を落とすのは諦める。今は生きて抜ける」
その言葉は、重かった。
だが、正しかった。
フィルモアは本陣を下げなかった。
王都を捨てなかった。
皇帝が命を懸けて前線に出てきた。
全星団通信網を奪い、帝国の誇りを叫び、騎士たちを奮い立たせた。
その結果、同盟軍はナカカラから叩き出され始めている。
ジィッドはその事実を認めた。
「フィルモアは退かなかったな」
ニナリスが答える。
「はい」
「皇帝が前に出てきた」
「はい」
「それで戦場がひっくり返った」
「その通りです」
ジィッドは苦く笑った。
「若い皇帝の戯言、か」
デムザンバラが前へ出る。
銀月五十八騎が、戦場の裂け目を縫う。
黒豹七十二騎が、追撃線を切る。
ロッゾと西部連合が、血を流しながら後退する。
王宮方面へ割って入った味方は、もう救えない。
その事実を抱えたまま、ジィッドは撤退路を開いた。
全てを救うことはできない。
だから、残せるものを残す。
騎士は、強い弱いではない。
生き残るものだ。
その言葉が、どこかで笑う黒騎士の声のように、ジィッドの耳の奥に残っていた。
ナカカラの空には、まだフィルモアの紋章が映っている。
同盟軍の王都攻略は、終わった。
そしてフィルモアは、皇帝の命を賭けた勅命によって、ナカカラから同盟軍を叩き出し始めていた。