/*/ 星団暦3069年・ナカカラ北部戦線 撤退路中継地点 /*/
撤退戦にも、息継ぎの瞬間はある。
完全な休息ではない。
ただ、追撃線が一度切れ、味方の後退列が次の稜線へ滑り込み、負傷機を後方へ押し込むまでの短い間。
それを休憩と呼ぶなら、いまは休憩だった。
銀月騎士団のGTMが、低い丘陵の陰に膝を落としている。
黒豹騎士団の黒い騎体も、その外側で追撃方向を睨んでいた。
ロッゾ傭兵騎士団と西部騎士団連合の一部は、すでに北西方向へ抜けた。
だが、全員ではない。
王宮方面へ割って入った部隊は、もう戻らない。
その事実が、誰の口からも出なかった。
出せば、音になる。
音になれば、重さが増す。
ジィッド・マトリアは、デムザンバラの足元から離れ、携帯用の湯沸かし器で淹れた薄い珈琲を飲んでいた。
まずい。
撤退戦の途中で飲むには、十分すぎるほどまずい。
隣に、アーリィ・ブラストが立っていた。
黒豹騎士団の大佐。
若い。
だが、さっきから一度も「若い」顔をしていない。
彼女は遠くの空を見ていた。
まだ、そこにはフィルモアの紋章が残っている。
全星団通信網を奪った帝国章。
そして、若き皇帝の声。
ジィッドが、ぽつりと言った。
「若い皇帝の戯言……ね」
アーリィが視線だけを向ける。
「ダイ・グ皇帝の言葉か」
「ああ」
ジィッドは珈琲を一口飲み、顔をしかめた。
「皇帝が最前線に飛び出して理想を語る。それに痺れない良いとこの騎士はいない」
少し離れたところで、ラドが補給報告を書きながら顔を上げた。
ノエルも、聞いていないふりをして聞いている。
アーリィは、短く言った。
「そういうものか」
「そういうものだ」
ジィッドは、空の紋章を見上げた。
「俺たちは捻くれてるからな。『おいおい、マジかよ』って笑う方だ」
彼は少しだけ笑った。
苦い笑いだった。
「だが、正直ちっと羨ましい」
アーリィの眉が、わずかに動いた。
「羨ましい?」
「羨ましいだろ」
ジィッドは、湯気の薄いカップを揺らした。
「自分の命が長くないと知って、それでも皇帝として前に出る。帝国の理念を叫ぶ。古い誓いを持ち出す。騎士に命を預けろと言う。そんなもん、反則だ」
「反則」
「反則だよ」
ジィッドは肩をすくめた。
「政治家なら嘘くさい。将軍なら危ない。詩人なら酔ってる。だが、皇帝が命を削って言うと、全部まとめて勅命になる」
アーリィは黙った。
その沈黙を、遠くの砲声が埋める。
追撃はまだ完全には止まっていない。
銀月と黒豹が作った撤退路の向こうで、まだGTMが動いている。
ジィッドは続けた。
「良い家の騎士ほど、ああいうのに弱い。誇り、理念、古い誓い、帝国の心。普段は鼻で笑ってても、いざ本物を見せられると膝に来る」
「少将も来たのか」
「少しな」
アーリィは少し意外そうにした。
ジィッドは苦笑する。
「俺だって騎士だぞ」
「市政官かと思っていた」
「撃つぞ」
「撤退戦中だ。弾を節約しろ」
ジィッドは鼻で笑った。
それから、少しだけ声を落とす。
「俺は、ああいう言葉を言えない」
「言いたいのか」
「言える立場なら、一度くらいは言ってみたいだろ。部下に向かって、俺の誇りに命を預けろ、なんてな」
ラドが遠くで咳き込んだ。
ノエルが露骨に目を逸らした。
ジィッドは二人を見た。
「聞こえてるぞ」
ラドが慌てて書類へ目を戻す。
「聞いてません」
「嘘をつくな」
アーリィが、少しだけ面白そうに言う。
「なんだったら、部下に聞いてみろ、か」
ジィッドは頷いた。
「そうだな」
そして、ラドへ声をかけた。
「ラド」
「はい」
「男ってのはロマンチストなんだよな?」
ラドは、戦術記録板を抱えたまま固まった。
ノエルが横で小さく噴き出す。
「ほら、答えろ」
ラドは諦めたように肩を落とした。
「……否定はしません」
「だそうだ」
ジィッドはアーリィを見る。
アーリィはラドを見る。
「本当にそうなのか」
ラドは、少し困った顔で言った。
「騎士としては、あれは効きます」
「効く?」
「はい」
ラドは、遠くの空に残るフィルモアの紋章を見た。
「若い皇帝が、自分の命を長くないと言って、それでも誇りを掲げて、ナカカラを守れと命じる。しかも全星団に向けて。あれを聞いて、血が騒がない騎士は少ないと思います」
ノエルも、小さく頷いた。
「敵ですよ。敵なんですけどね」
「敵だから余計に腹が立つ」
ジィッドが言った。
「格好いい敵は、味方より腹が立つ」
アーリィが僅かに笑った。
「分かる気がする」
「だろ」
「だが、羨ましいというのは?」
ジィッドはカップを見下ろした。
冷めかけた珈琲に、自分の顔がぼんやり映っている。
「俺が部下に言えるのは、せいぜいこうだ」
彼は少し声を変えた。
「撃破数はいらん。撤退路を開け。深追いするな。酒場を壊すな。税収輸送路を守れ。産院付近では戦うな。帳簿を汚すな」
ラドが笑いを堪えきれずに吹き出した。
ノエルも肩を震わせる。
アーリィは真面目な顔で聞いていたが、やがて少しだけ口元を緩めた。
「それはそれで、命を預けるには悪くない」
ジィッドは目を瞬かせた。
「そうか?」
「少なくとも、死にに行けとは言っていない」
アーリィは遠くの戦場を見た。
「残れ、と言っている」
ジィッドは黙った。
アーリィは続ける。
「ダイ・グ皇帝は、誇りを掲げて騎士を前へ進ませた。少将は、残せるものを残すために後ろへ引かせる。どちらも騎士は痺れるかもしれない」
「撤退命令で痺れる騎士は、だいぶ変態だぞ」
「銀月にはいるのでは?」
ラドが即座に言った。
「否定しきれないのが嫌ですね」
ノエルも頷く。
「団長の撤退命令は、たまに妙な説得力があります」
「お前ら、褒めてるのか?」
「軍務上の評価です」
「逃げるな」
短い笑いが起きた。
ほんの少しだけ。
撤退戦の途中、死んだ者と戻れない者の名前をまだ数えきれていない場所で、それでも笑いが起きた。
ジィッドは、その笑いが消えるのを待ってから、静かに言った。
「でもな、アーリィ」
「何だ」
「俺はやっぱり、少し羨ましい」
アーリィは答えなかった。
ジィッドは、空の紋章を見た。
「理想を語って、騎士を奮い立たせて、戦場をひっくり返す。そんなものは、できる人間が限られている。俺には無理だ」
「少将は、違うものをひっくり返す」
「何を」
「敗走を、撤退に変えた」
その言葉に、ラドもノエルも黙った。
ジィッドは、少しだけ嫌そうな顔をした。
「そういう褒め方をするな」
「嫌なのか」
「嫌だな」
「なら覚えておく」
「おい」
アーリィは、ようやく少し笑った。
それは若い顔だった。
戦場で固まっていた表情が、ほんの少しだけ年相応に戻る。
ジィッドはカップの残りを飲み干した。
まずい。
最後までまずい。
「休憩は終わりだ」
ラドが即座に顔を上げる。
「追撃ですか」
「まだ来る。フィルモアは勢いづいている。ブーレイも裏返ったばかりで止まらない。こちらが止まれば、追いつかれる」
ノエルが通信板を確認する。
「銀月、再展開可能です」
アーリィも黒豹の通信を開く。
「黒豹、追撃線監視を継続。次の稜線で再度脅しをかける」
ジィッドは頷いた。
「銀月は撤退路の左を取る。黒豹は右を脅せ。ロッゾと西部連合をもう一段抜く」
「了解」
アーリィが短く答える。
ジィッドはデムザンバラへ歩き出した。
その背中に、ラドが小さく言う。
「団長」
「なんだ」
「部下に命を預けろ、って言わなくても」
ラドは少しだけ笑った。
「俺たち、もう預けてますよ」
ジィッドは足を止めなかった。
止めたら、顔を見られる。
だから、そのまま歩きながら言った。
「重いことを言うな」
ノエルが続けた。
「軍務ですので」
「その言葉は俺のだ」
ジィッドはデムザンバラの昇降架へ足をかけた。
白銀の騎体が、低く唸る。
空にはまだ、フィルモアの紋章が残っている。
若い皇帝の戯言。
甘い理想。
だが、その言葉は戦場をひっくり返した。
ジィッドには、それは言えない。
言えないから、別の言葉を選ぶ。
「銀月騎士団、再展開」
通信が開く。
「生きて抜けるぞ」
五十八騎の声が返った。
「了解!」
黒豹七十二騎も動き出す。
撤退戦は、まだ終わらない。
だが、敗走にはしない。
ジィッド・マトリアは、そう決めていた。