霞む世界の先に見えるもの 作:雪白
幼少編
かつて存在した小国に“霧の民”と呼ばれる部族がいた。
彼らは霧が立ち込める険しい山岳地帯に住まい、その厳しく過酷な生活は彼らの身体をより屈強に、足腰を頑強なものへと変化させた。山々を駆け巡り、岩場を跳ぶ様子はまるで獣のようだったという。
特にしなやかで強靭な足腰のバネによって編み出された独自の剣術は戦場では猛威を振るった。
生活の糧となるものが少なかった彼らにとって、戦は褒賞を得る重要な場であり、戦が始まると山から降り、敵将を屠る様子は各国の兵達を恐怖に陥れた。
だが、国の滅亡と共に彼らは居住地を追われ、平地で暮らす者、他国に渡る者、あるいは野盗に成り果てる者と様々だったという。
そんな中、霧の民の子供、秋雷(しゅうらい)は家族と共に山を降り、他の部族の者と共に村を形成した。
やがて、霧の民は平地の民と混ざるようになり、紀元前260年、秋嵐(しゅうらん)は霧の民の末裔である秋雨(しゅうう)と霧の民と平地の民の血を引く母親の元で産声を上げた。
子宝に恵まれなかった秋夫妻にとって、それは長く待ち望んだ悲願の赤子であった。加えて一族の血を色濃く受け継ぐ「男子」の誕生。秋嵐は周囲からのありったけの祝福と愛情を一身に受けてこの世に生を受けた。
その名の通り、秋嵐は秋の山を包み込む靄のように、穏やかな愛情に包まれながら育っていった。
幼い頃から村を囲む険しい山々を泥だらけになって駆け回り、七つ八つになる頃には父から狩りの手ほどきを受けるようになっていた。
「ほら嵐、足元ばかりを見るな。風の通り道を肌で感じ、そこを目で追うんだ」
霧が立ち込める薄暗い獣道。猟師である父の大きな背中を秋嵐は必死に追いかけていた。鍛え抜かれた兵士でさえ息を切らすような岩場や斜面を、父は軽々と駆け抜けていく。
秋嵐もまた、父お手製の小さな「弓」を背中に結びつけ、持ち前の強靭な足腰を使って岩から岩へと必死に跳躍した。
「こう?父さま」
「そうだ。もっと重心を低く、着地の音を消せ。獲物に気づかれる前に、お前自身が山の霧になるんだ」
振り向いた秋雨の顔は優しいが、その目は村一と呼ばれる猟師のそれだ。父は息子に狩りの術と共に、かつて山々を支配した霧の民の「歩法」を叩き込んだ。
そして山から下りれば、今度はかつて猛将として恐れられた祖父・秋雷の容赦ない剣の特訓が待っている。
「踏み込みが遅いぞ、嵐!」
庭先で鋭い喝が飛ぶ。秋雷の手には、湾曲した形の「霧の民」の剣を模した木剣が握られていた。
「我ら『霧の民』の剣は、静から動への一瞬にすべてを懸ける。足腰のバネを極限まで縮め、解き放つと同時に敵の懐へ潜るのだ! 相手の槍が届く前に、刃を首筋に叩き込め!」
「はい、爺さま!」
秋嵐は息を弾ませながら、独自の極端に低い姿勢から一気に跳ね上がり、祖父へ向かって踏み込んだ。緩やかな歩みから、ふっと姿がブレるほどの急加速。まだ子供とはいえ、その動きには確かに一族の恐るべき剣術の片鱗が宿っている。
しかし、秋雷はその一撃をあっさりと木剣の峰で受け流し、勢い余った秋嵐は地面にころんと転がった。
「……今の踏み込みは悪くなかった。だが、勢いに振り回されて足が地についておらん。それでは罠に向かって突進する猪の仔と同じだぞ。
踏み込んだ先で大地に根を張るようにぴたりと止まれねば、本物の獲物は狩れんぞ」
「……はい! 僕、もっと強くなるよ。父さまみたいにたくさん獲物を獲って、爺さまみたいに強くなるんだ!」
泥だらけの顔で無邪気に笑う孫を見て、秋雷は厳しい表情を崩し、その大きな手で秋嵐の頭をガシガシと乱暴に撫でた。目尻には隠しきれない喜びと誇りの皺が深く刻まれている。
「…嵐よ。我ら『霧の民』にとって、この剣が何を意味するか知っているか?」
「うん。強い戦士の証、でしょ?」
「そうだ。15を迎え、相応の技と覚悟を示した者だけが、一族から剣を授かり、戦士と認められ大人の仲間入りを果たす。……そしてな」
秋雷は視線を遠くの山へ向けた。そこには、狩りに出ている父・秋雨がいるはずだった。
「家長となったら、前の家長からその剣を受け継ぐ。かつて儂が振るったあの剣は、今はお前の父の腰にある。それが我らの血と誇りを次代へ繋ぐという何よりの誓いなのだ」
「父さまの剣……」
「嵐、お前は天に恵まれ、剣の才もある。いつかお前が誰よりも立派な戦士に育ち、我ら一族の誇りである『剣』を受け継ぐ日を……楽しみにしているぞ」
ごつごつとした大きな手が、秋嵐の頭を優しく、力強く撫でる。
秋嵐は満面の笑みを浮かべ、えっへんと誇らしげに胸を張った。
「うん! 僕、もっといっぱい特訓して、絶対に父さまの剣をもらうよ! 爺さまと父さまがびっくりするくらい、強くてかっこいい戦士になるんだから!」
「はっはっは! そうか、ならば明日はもっと厳しくいくぞ。覚悟しておけ!」
祖父の豪快な笑い声と、孫の無邪気な声が秋の空に溶けていく。
この時、秋雷の瞳には代々伝わる剣を腰に下げ、山野を駆け巡る未来の孫の姿がはっきりと映っていた。
この数年後。予期せぬ、あまりにも悲惨な形で「父の剣」を受け継ぐことになるとは、まだ誰も知る由もなかった。
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