霞む世界の先に見えるもの 作:雪白
序章 霧の少年
かつて存在した小国に“霧の民”と呼ばれる部族がいた。
彼らは深い霧が立ち込める険しい山岳地帯に住まい、その厳しく過酷な環境は彼らの身体をより屈強に、足腰を頑強なものへと変化させた。
山々を駆け、岩場を自在に飛び回る姿は“獣”のようだったという。
しかし、祖国が滅びると共に歴史の表舞台から姿を消し、その血は絶えたとされる。
………少なくとも、そう信じられていた。
紀元前245年、秦国某所
先頭を歩く少年の先導のもと、隊商の行列が険しい山道を進んでいく。
「!」
だが、少年は目を鋭く細めると、立ち止まり、後ろの隊列を手で制する。
次の瞬間、岩陰から現れたのは十数人の野盗の集団。
山道は狭く、横は断崖絶壁。後ろにも引くことができず、逃げ道を完全に塞がれた商人たちは恐怖に顔を青くし、足を竦ませる。
他の護衛の者達も脂汗を浮かべ、武器を手に取る。
だが、先頭を歩く少年・秋嵐(しゅうらん)は表情を一切変えることなく、背負っていた弓を手に取る。
「殺せ!荷を奪え!!」
一斉に飛びかかってくる男達。
ヒュッ_____
トンと放たれた矢は先頭を走る男の眉間を真っ直ぐに貫く。
秋嵐は流れるような動作で矢を番え、飛びかかってきた男達の急所に次々に命中させる。
だが、矢筒へ伸ばした手は空を切った。
「矢切れだ!もらったァ!」
野盗の頭領は秋嵐目掛けて、剣を振りかぶる。
だが、刹那、秋嵐の姿がフッと“霧”のようにブレた。
「なっ……」
次の瞬間、消えたはずの秋嵐が眼下に迫る。
その手には一本の山刀が握られており、秋嵐は一切躊躇うことなく男の首を掻き切った。
「ガハッ……」
首筋から血を噴き出し、男は地面へ倒れ込む。
一瞬のことに呆然とする野盗達。
だが、この少年には敵わないと判断し、やがて蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「……終わったぞ」
「あ、ああ……」
再び、隊商の行列が動き始める。
「……」
隊商の最後尾にいた老兵は、秋嵐が先程まで立っていた場所へ視線を落とした。
そこには踏み荒らした
脳裏に浮かぶのは、かつて秦が滅ぼした小国に存在したという屈強な山民族……。
(先程のあれは……。まさかな……)
*
仕事を終え、報酬を受け取った秋嵐が街道沿いの安宿に転がり込んだのは、日が落ちてからのことだった。
片隅の席に腰を下ろすと、ほど無くして注文した椀が運ばれてきた。
椀の中身は薄い粟粥だったが、どうせ何を食べても変わらない。
文句を言う気にもなれず、とりあえず啜る。
すると、頭上に影が落ちた。
「……隣、いいか」
声をかけたのは白髪混じりの壮年の男だった。
その老兵には見覚えがあった。今日の仕事で護衛を務めていた男達の一人だった。
「……好きにしろ」
老兵は静かに腰を下ろし、注文した酒をあおる。
秋嵐も何も言わず、黙々と匙を口に運ぶ。
先に口を開いたのは老兵だった。
「先程の戦い、見事だった」
「……」
「…隊商護衛、山の案内、用心棒。何でもやるんだな」
「……選り好みできる立場じゃないんでね」
「隊商の主人から腕は確かだと聞いた。あれほどの踏み込みをしておきながら、地面に跡一つ残さぬあの剣技……お前“霧の民”だな」
「……人違いじゃないか。俺はしがない案内屋だ」
再び沈黙が訪れる。
「………お前の腕と足を買って、秦国大王の護衛を頼みたい」
「断る」
「理由を聞かせてもらえるか」
「秦の大王だろう」
秋嵐の声は静かだったが、そこには冷たく嘲るような色が滲んでいた。
二年前、戦に敗れたこの国の兵士たちが自分達に何をしたか。
腰に下がったもう一本の剣……かつて父が腰に佩いていたそれの柄を握る手に力が籠る。
老兵は責めるでも言い訳するでもなく、ただ静かに続けた。
「…お前が一生食うに困らない程度には報酬は弾む」
「金の話じゃない」
「わかっている」
老兵は静かに盃を置く。
真っ直ぐに秋嵐を見つめて、頭を下げる。
「……それでも頼む。他に頼める人間がいないのだ」
老兵の瞳は揺らぐことはなく、そこには主君を守り抜くという強い意志が浮かんでいた。
「……。大王とやらは今どんな状況だ」
「王弟が反乱を起こし、命を狙われている。守れる人間が足りない」
「…軍はどうした」
「信用できる人間が少ない。だからお前のような国との間にしがらみを持たない人間を探していた」
(……しがらみを持たない人間、か)
目の前の男はきっと知らないのだ。
2年前、この国が俺から全てを奪っていったことを。
だが、表情には全く出さずに淡々と告げる。
「報酬は?」
「引き受けてくれるのか?」
「勘違いするな。仕事の話をしているだけだ」
「成功すれば、お前が一生食うに困らない程度の報酬を約束する。前金も払う」
「……」
「土地を買ってもいい。家を建ててもいい」
(家……)
父の大きな背中。
母の温もり。
妹の純粋無垢な眼差し。
かつて、冷たい谷底にあった暖かな陽だまり。
……もう、帰る場所など存在しないというのに。
チクリと心の奥に棘が刺さり、思わず口元が歪む。
「…?何がおかしい」
「いや…。俺には持て余す代物だなと思っただけだ」
秋嵐は小さく息を吐く。
「…依頼についてだが、わかった。……引き受けよう」
「!本当か」
「……ただし、条件がある。…アンタらの王とやらは護るに値する人物か?」
「それについては保証する。あの方ほど王の器として相応しい方はおらん」
老兵の目は真っ直ぐでどこか熱を帯びており、嘘偽りはなさそうだった。
「……。もし、命を懸ける価値もないような人間だった時は前金だけ貰って途中で降りさせてもらうぞ」
「…構わん。無論そのようなことはないと思うがな」
「…フン」
「そういえば、お前の名前を聞いていなかったな」
「……秋嵐だ」
「俺は胡山(こさん)だ。よろしく頼む」
(確かめてやるよ。この国の頂点に立つ男がどれほどの器なのかをな……)