霞む世界の先に見えるもの 作:雪白
鬱蒼とした獣道を四人はひたすら駆け抜ける。
嬴政と共に先頭を行く秋嵐は、背後の気配に耳を澄ませていた。
(……限界だな)
背後から聞こえてくる信の呼吸音は荒く、足音も重くなっている。
その時だった。
「!?」
貂が足を滑らせ、前方へと転がり出す。
小さな身体はそのまま太い木の幹に激突し、鈍い音を立てて止まった。
それをきっかけに、全員の足が止まる。
信は近くの木に手をつき、肩で大きく息をしている。
(……すさまじい執念だが、あのままじゃいずれ倒れる)
秋嵐は信を一瞥し、隣に立つ嬴政へと視線を向けた。
政は静かに、だがはっきりと告げる。
「……少し休憩にしよう」
*
秋嵐は来た道を引き返していた。
足跡を消し、折れた枝を戻す。踏み荒らした草を整える。
幼い頃から身体に染み付いた習慣だった。
(こんなところで役に立つとは思わなかったがな……)
『ねえ父様。どうして歩いた痕を隠さなきゃいけないの?』
ふと、父との会話が脳裏をよぎる。
『昔、我らの祖先は戦士として恐れられ、戦になれば各国は我らを求め、武功を立てれば褒賞を与えた。……だがな、人は力を持つものを畏怖し、それは時に恐怖へ変わる』
『役に立つ間は歓迎される。だが、用済みになれば脅威となり警戒される』
『この村にいるのは俺たち霧の民だけではない。戦から逃げた兵もいる。故郷を追われた者もいる。皆それぞれ事情を抱え、この谷へ流れ着いた。……だからこそ、この平和を守らねばならん』
『余所者に村への道を見せるな……。それがこの村の掟だ』
『人は道を見つければ辿る。……1人が来れば2人来る。2人来れば10人来る』
『…商人が来れば、そのうち役人が来るようになる。兵が来る。………そして争いが来る』
深い霧と絶壁に守られた谷底の隠れ里。
外界から閉ざされたその場所で、人々は寄り添うように暮らしていた。
秋嵐にとっては唯一の故郷であり、父がいて、母がいて、妹がいた場所。
……何よりも大切な、守るべき帰る場所だった。
(……帰る場所、か)
ふと脳裏に嬴政の顔が浮かぶ。
玉座を追われ、命を狙われながらも真っ直ぐに前を向いて歩く少年王。
あの男にも守ろうとしている場所があるのだろうか。
胡山は言った。
『あの方ほど王に相応しい方はおらん』
だが、それは胡山の評価だ。自分の目で確かめたわけではない。
『どうせ戸籍もねぇ山猿みたいな連中だ』
『殺したって罪にはならねぇ』
村を焼き、家族や村人を殺した連中の言葉が脳裏を掠める。
「あの王様はそんなことを言うようには見えなかったな……」
*
秋嵐が休憩場所に近づくと、騒がしい声が聞こえてきた。
あの少年と子供……信と河了貂だろう。
「……大きな声を出すな。刺客に見つかったらどうする」
「秋嵐…」
政が鋭い視線を向ける先で、秋嵐は手についた泥を払いながら頷いた。
今のところ、すぐに迫ってくる気配はないが、決して安全な状況ではない。長居は無用だった。
一行が歩き出そうとした時だった。
ふらり、と信の体が大きく傾いた。
「信!?」
「……脈はしっかりしている」
秋嵐は信の首に指を当て、脈を確かめる。
「おそらく心身疲労の限界に達したのだろう。……無理もない。一晩のうちに友を失い、敵を討ち、休まずにここまできたのだ」
「まだ出発は無理だよ。しばらく休ませないと!」
貂が慌てたように声を上げる。
嬴政は倒れた信から視線を外し、秋嵐へと顔を向けた。
「秋嵐。追手はどれくらいで追いつく」
「……足跡は消してきた。だがこいつの血の匂いが厄介だ。鼻の利く奴や犬を連れた追手がいれば二日。早ければ明日には嗅ぎつけてくるだろう」
「………ダメだ。そんな暇はない」
嬴政は結論を下す。
「え!?でも信がっ……!」
秋嵐は小さくため息をつくと、信の傍へ歩み寄り、その身体を抱え上げようと手を伸ばす。
だが、途中で政が信の腕を取った。
「俺が運ぶ。お前は自分の仕事をこなせ」
秋嵐は思わず息を呑む。
王が自ら下僕を背負うというのか。
その瞳には打算も保身もなく、何があろうと決して歩みを止めないという覚悟が宿っていた。
(変な王だ……)
……だが、嫌いじゃない。
胸の奥にふつふつと湧き上がる感情。
(……危ない。引き込まれるな)
真っ直ぐな光を宿した瞳から逃れるように、サッと背を向ける。
…目の前の男はただの護衛対象に過ぎない。依頼主と合流し金を受け取ったらそれで終わりだ。
「…行くぞ」
嬴政の一声と共に秋嵐は口元を引き結び、再び地面を蹴った。