巴マミと最初に出会った時、彼女は何もかもに怯えている、防衛能力を持たない小動物のような少女であった。このまま手を伸ばして、力を込めて握ってしまえば――それか、敵意を全力で向けて睨めばそれだけで息絶えてしまいそうな、あまりにも弱く、儚く、頼りない少女だった。
僕は人類史と同じくらいの期間、魔法少女の管理という職をこなしてきた。その際に数多の魔法少女の面倒を見てきたものだけど、巴はその中でも指折りに手のかかる娘だったと思う。とりあえず、記憶には残るくらい。
「なはとさん。私、恐いんです」
彼女が自発的に僕に言葉を掛けたのは、それが最初だった。
「自分の命が恐いんです。周りの人間が恐いんです。家が恐いんです。食事が怖いんです。お風呂が恐いんです。眠るのが恐いんです。刃物が恐いんです。液体が恐いんです。学校が恐いんです。友達が恐いんです。先生が恐いんです。授業が恐いんです。帰り道が恐いんです。車が恐いんです。魔法が恐いんです。私が恐いんです」
「そうか。僕は恐いか?」
「いいえ、なはとさんは恐くないです。恐くないから、恐いです」
「何だよ、それ。変な奴だ。――余裕を持つといい」
「そんなの、無理よ」
「無理なら振りでいい。演技だよ、巴。余裕のある振り、強い振り、賢い振り、格好付け。あとはボロが出ないように、精々気を張ってな」
「格好付ける……ですか」
「ああ、格好付けろ。目撃者が格好良いと思うような、そんな振る舞い――そんな戦いをやってみるといい。そうだな、必殺技なんてどうだ? ほら、さっきやって見せた、銃口の巨大化。あれなんてなかなかいいじゃないか。必殺技名を考えようぜ」
「……じゃあ、テレビの魔法少女みたいなのがいいわ」
その夜、巴は初めて魔女と戦った。『暗闇の魔女』。もちろん手こずったし、怪我もした。だが彼女をグリーフシードに還すまでに掛かったタイムは、わずか七十秒。最後には魔女の頭部を『ティロ・フィナーレ』で打ち貫くことによって、巴マミは対魔女の初戦闘を勝利で飾ったのであった。
「よくやった」
「つ、使い魔と、全然違う……!」
「何だ、そういう表情もできるじゃないか――可愛い笑顔だぜ、弟子ちゃん」
「……なはとさん、お願いがあるんです」
「言ってみろ。初勝利記念だ、何でも聞いてやるぜ」
魔法少女になる際の望みを、巴の場合は掻き消されたも等しいのだ。『何でも聞いてやる』くらい、僕にだって出来るだろう。
「私のこと、抱いてくれませんか?」
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「意外だな、なはとさんもこういうところに寄るんだ」
僕と巴は、チェーン経営のカフェを訪れていた。難解で多数のメニューから僕はブレンドコーヒー、巴は季節もののドリンクを注文する。この時間帯は少し混んでいて、ようやく腰を落ち着けた席はテラスの、妙に目立つ席だった。
「あまり選り好みはしない方でな。こういうオープンカフェなんか、人波が見渡せてなかなか面白いじゃないか」
「柔軟なのね」
「こだわらない性質でな。何でもいいいんだよ、僕は」
自虐的に言って、コーヒーに口をつけた。缶コーヒーと大した遜色のない、ただのコーヒーの味。別にこの店のブレンドが安っぽいわけではなく、僕の舌がポンコツなだけだ。
「それで? 今日は何の話かしら。なはとさんから誘ってくれるなんて、よほどの用事なんでしょう?」
「――まあ、な。あのさ、巴」
「マミ、でいいわよ」
ふうん。今日はそこにこだわるのか。
……そういう雰囲気でもないのに。なんで?
「マミ。そろそろさよならにしよう」
「嫌」
顔色は、変わってなかった。
巴はいつものように笑みを湛えていたし、何なら気取ったようにドリンクを口にしていた。無理した様子も、気取った様子も見えない――否。もはや、巴マミは常に余裕のある振り、強い振り、賢い振りをしているのだ。呼吸のように、当たり前。病気のように、染み着いている。
「……マミ」
「分かっているわ、あなたは魔法少女を管理する者。魔法少女に魔法を教える者。あなたがいなければ、事実上システムは円滑に作用しない。指南書があるのとないのでは、機械の働きも違うでしょう」
そこまで理解しているくせに。
「それでも、嫌。あなたが私のところから離れるなんて、許さない」
お前は、拒むのか。
「我儘だって分かっているわ。でも、あなたが悪いのよ。あなたは私に優しくし過ぎた。私はあなたがいないと生きていけない自信がある。あなたを手放したくないの、なはとさん。あなたを失うことが――何よりも、『恐いんです』」
「……美樹と鹿目が魔法少女になったとしても、お前の渇望は収まらないのか」
「確かにあの時、私の心には『穴』があった。それを埋めてくれたのがなはとさん、あなたなのだけれど……サイズ大きかったのね」
結果として。
僕の優しさは、彼女の『穴』を満たせども同時に、押し広げたのだ。
「あの二人じゃ足りない。三人でも、四人でも、百人だって埋めることはできないわ。もうあなたじゃないと無理。中毒なの――ねえ、なはとさん。酷いと思わない? 人のことを『こんな風』にしておいて、今更になって棄てようなんて」
「ああ――そうだな、まったく酷い話だ」
どうして、そうなってしまったんだ。
確かに僕の所為なのだろう。僕がやってしまった、僕の過失だ。罪だ。最初から僕と巴は擦れ違っていたのだ。好きと嫌い。恋慕と嫌悪。愛情と無情。
「責任、取ってよね」
全面的に、彼女の言う通りだと感じた。思えば、現在の巴マミを精製したのは他でもない、僕自身なのだ。僕が産んだ『化物』だ。故に責任が発生する――
「……そうだな」
それが僕の罰ならば。愚かな僕の罰ならば。巴のその要求を、受け入れる義務がある。
「嬉しいよ、巴。正直、ここできみが無理ににやついて、『しょうがないわね、分かりました』なんて納得したらどうしようかと思っていた――納得した振りをしやがったら、どうしようかと思った。だけどきみは正直だな、僕の前では正直でいてくれるんだな。おかげでよっぽど楽に、都合よく、物事が進む」
「……どういうこと?」
首を傾げる巴マミに、僕は笑顔を浮かべて応えた。
「分からねえか? そういうところが可愛いぜ、弟子ちゃん。だから好きなんだ」
立ち上がって。
テーブル越しに、巴を無理矢理立たせるようにして、抱き締める。
強く、優しく、抱き締める。人目も憚らず抱き締める。
コーヒーが倒れる。テーブルに広がる。黒い、黒い、液体が。闇のように宇宙のように、広がっていく。
そして僕は巴マミにキスをした。
「…………!」
驚愕に体を強張らせながらも、巴はそれを享受し身を任せる。呑むように彼女の唇を覆いながら、僕は唱えた。
「『忘れてしまう魔法』」
さようなら、巴マミ。
お前が僕を忘れても、僕はお前を忘れない。
「――マミさん!」
オープンカフェのテラス席に掛け、一人で呆然とする巴マミを現実の世界に連れ戻したのは、鹿目まどかの悲鳴にも似たコールであった。
「か……鹿目さん? えっと――どう、したの?」
「病院に魔女が……さやかちゃんが残ってて……!」
「落ち着いて。分かったわ、すぐに向うから、道中で詳しく教えてくれる?」
立ち上がった巴は、どこか不安そうにあたりを見渡す。
『違和感』。まるで自分の生きている今現在が、別の世界のような――もしくは先ほどまで別の世界にいてしまっていたような。そんな膨大な『違和感』が、彼女を襲っていた。
見渡す途中で巴は、カフェ店内で新しいブレンドコーヒーを傾ける僕と眼が合う。合ったのは一瞬、すぐに離れる。
「マミさん?」
「……何でもないわ。行きましょう、鹿目さん」
当たり前だ。もう、巴マミは僕のことなんて憶えていないのだ。
魔法少女の管理人、『なはと』なんて知らないのだ。
「もしもし」
僕は携帯電話に語りかける。
「なあ、お前にこんなことを頼むのは筋違いなんだろうが――それでも、さ。どうにかしてやってほしいんだ。やり方は任せる」
結局、僕は巴に情が湧いてしまっているのだ。だから、こうやってチャンスを与えてしまっている。未来を決める、分岐点を。
「勝手、か。その通りだ。だからこれは、きみへの一つの貸しだ。だから――」
魔法少女たちを救うか否かの、分岐点。結末を決定づけるギャンブル。
「巴を助けてやってくれ、ほむら」
『もう向かっているわ』
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シャルロッテは飢えている。チーズを求めて飢えている。彼女は今日もお菓子を作る。チーズは作れない。チーズケーキは作れない。他のお菓子なら何でも作れるのに、チーズケーキだけは作れない。それでもシャルロッテはお菓子を作る。百江なぎさの成れの果ては、今日もチーズケーキに『執着』する。
「簡単な話、魔法少女の強さと魔女の強さは比例する。強さとは想い。願望とイマジネーションが、その魔法少女の力を決める。とりわけシャルロッテは強力な魔女である。それはひとえに、百江なぎさの想いが、願いが、強かったことに起因する――」
緩慢に歩く間に、僕は清潔で広大な病院に辿り着いた。組み合わされた複雑な鉄の塊――自転車が駐輪されている中、壁面に結界への入口があった。躊躇することなく、踏み入れる。幾何学的で芸術的で哲学的な異空間。周囲にはお菓子が死体のように散乱している。医療器具も混ざって、いよいよ意味不明である。
「巴マミが絶対にシャルロッテに勝利できないとは、断言しない。しかしそれこそ奇跡だろうな。特に今のあいつでは、僕を忘れたあいつでは、その弾丸が届くことはない。チーズケーキを持っているのなら、話は別だが……ふん、戯言だ」
勝てるとしたら、それは時間を司る魔法少女である奴くらいだ。だから僕は奴をここに向かわせた。シャルロッテを倒すだけの力を持つ――
「……暁美?」
その時間を司る魔法少女が、道中で拘束されていた。
深紅のリボンで縛り付けられ、無気力的にぶら下がっている。さながら見世物のようだ。だらしなく頭を垂れていた暁美ほむらは、僕に気付くと溜息を吐いて目を逸らした。
「笑いなさいよ」
「ごめん、本当に面白い」
「くっ……!」
「くっ、じゃねえよ。まったく、何をどうやったらそんなことになるんだか……。今解いてやるから、じっとしてろ」
まさか、この状況で彼女に頭を下げさせるほど鬼畜ではない。滅多にないチャンスではあるものの、状況が状況である。僕は普通に、暁美ほむらを助けてあげることにした。
「……ん?」
暁美の背後に回った瞬間、僕は『それ』に気が付いた。
気付いてしまった。
「――どうしたの?」
「いや、別に……んん?」
これはもしかして。
僕、負けた?」
「えい」
確信した僕が手を伸ばした先は、魔法のリボンではなく暁美ほむらのスカートだった。中身を視認するために、捲る。
「きゃあああああっ!?」
反射的に彼女は悲鳴を上げ、身を捩る。同時に魔法のリボンが作用して、暁美の身体をきつく締め上げた。絶息して、やがて暁美ほむらは項垂れ、そしてこちらに向き直った。
「何を……してるの……!」
「意外と可愛い悲鳴を上げるんだな」
「こんなことをしている場合ではないわ! 馬鹿なことやってないで、さっさとこの縄を解いて! でないと……!」
「黙れよ」
僕が発すると、暁美ほむらは途端に口を塞いだ。やれやれ、泣き叫びたいのはこちらの方だ。まさか、まさかまさか、こんなことになろうなんて――いや、予想はしていたさ。だけどどこかで信じていた。それが、裏切られた。
「ショックだぜ、ほむら」
僕は暁美ほむらに『説教』するため、彼女の正面に移動する。
「もうこんなことにならないだろうと、信じていたのにさ」
「……何の話よ」
「いやさ、この拘束――魔女のものじゃないだろ?」
近寄って理解した。被拘束者をアクションに応じて締め付ける性能。
「魔法少女によるものだ」
この街には二人の魔法少女がいる。目の前で縛り付けられているこの出来損ないと、僕のことを憶えていない哀れな少女。
「だったら何だっていうの」
「開き直ってんじゃねえ」
手を出してみた。
殴るのは少し憚られたので、その顔を頬から挟むように掴むだけにしておいた。変な顔だ。これでもう、喋ることはできないだろう。
「僕はお前に、巴を助けろと頼んだ。巴と協力して、シャルロッテを倒せと言ったつもりだったんだ。もちろんそれは命令ではない。懇願だ。お前を見込んでの頼みだったんだ」
なのに、暁美ほむらはそれをやれなかった。やらなかったのではなく、やれなかった。
「役立たずが」
「………………」
「お前はいつになっても、どうなっても弱いんだな。変わることも化けることもできやしない。無力な暁美ほむらちゃんのままだ。シャルロッテ。『お菓子の魔女』くらい、お前の実力だったら楽勝だろうに。どうして戦う間でに辿り着けないんだ、なあ」
「………………」
「大方、巴に『自分が戦うから引っ込んでなさい』みたいなことでも言ったんだろう。学習能力が無いのか、馬鹿め。愚かという言葉の立場が無えよ。僕はお前の頭の悪さがほとほと不思議だ。どうしてそこまで、『駄目』なんだ」
「………………」
「――ふん」
手を離して、一歩弾いて、暁美の表情を眺めてみる。どうやら泣いてはいないようだ。しっかりと双眸で眼前の僕を見据えている。ここまで罵倒されて涙を見せないのは普通に成長と喜んでいいのだろうか。しかし、残念ながら暁美ほむらは震えていた。
瞳も、指も、爪先も、まるで犯されたかのように痙攣している。そこにあるのは原初の階層に刻まれた、純粋な『恐怖』だった。
「……だったらあなたが行って」
「……はあ?」
「あなたが、巴マミのところに行って、シャルロッテを倒して」
「何で僕がそんなことをしなきゃならないんだ」
激情したのか、暁美は身を乗り出す。当然のようにリボンが彼女を締め付けるが、少し呻いて、しかし構わずに暁美は続ける。
「あの人が死ぬかもしれないのよ!」
「なんだ、お前は鹿目まどかのことくらいしか考えてないかと思ったが――ふん、どうしてここで巴を引き合いに出す?」
「巴マミが死んだら、この拘束が解ける。その時、私が急げばどうにかまどかと美樹さやかを助けるだけの時間はあるわ。でも、巴マミは別でしょう?」
そりゃそうだ。暁美ほむらの活動可能イコール、巴マミの死なのだ。つまり、巴を助けることができる者は暫定的に、僕しかいない。
「嫌だよ」
しかし、拒んだ。暁美の驚愕に目を見開いた表情が、面白かった。
「いくら何でも僕らにだって『決まり』というものがある。分かるかい、ルールだ。僕にできるのはあくまでも魔法少女の管理、育成、補佐であって、助けてやるようなことはしちゃならない。ここで僕が奴を助けたら、同じだけの救済措置を他の魔法少女すべてに行わなければならない。そうなったら崩れるだろう? 秩序ってやつがさ」
「……あなたには情というものはないの」
「あるわけないだろ。元来、我々に『心』はない。巴マミは確かに可哀想だよなあ、せっかく願いによって助かった命。こんなところで再び失うことになろうなんて――」
それもこれも、すべて。
「お前の所為だよ」
「っ……わた、しの……?」
「巴の説得に失敗したお前の失態だ。僕には何一つとして非は無い」
「やめて」
「この『ルート』はお前が招いた道だ。分岐点を誤ったんだ」
「や、めて」」
「巴マミを殺したのはお前だよ、時間遡行者暁美ほむら」
「やめて!」
魔女の空間に、悲鳴のような叫びが木霊した。暁美がここまで感情を露わにするなど、なかなか珍しい――思惑とは別に、珍しさで僕は言葉を止めてみた。彼女はもはや僕に目線をくれていない。ただ真下の地面に俯いて、妖しい色の床を見つめている。
「……もう」
一瞬の沈黙の後、再び彼女が口を開く。俯いた姿勢のままだ。
「もう――あなたが恐い」
「そうか」
「………………」
「それだけか?」
もはや、暁美は何も言わなかった。肯定と受け取って、僕は踵を返して歩き出す。まさか、道の先ではない。さっき来た道を戻ったのだ。
「そんなことで、鹿目を救うなんて夢物語だな! もうちょっとしっかりしな、ほむら。僕という敵がいるってことを、忘れることなかれ、ってな」
「……巴マミは、あなたを愛していた」
「誰だっけ、それ」
そんな会話を最後に、僕と暁美は別れた。自動販売機でコーヒーを買って、それを口に運びながら図書館を目指す。書籍を吟味している内に、やがて魔女の気配は消えてしまった。
巴マミは、死んだそうだ。