名解盗プリキュア!   作:おとともの

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第14話?「嘘の花丸!?キュアライアンサー!」

朝の光がアーチ窓から差し込み、キュアット探偵事務所の室内を白く照らしていた。

 

壁一面に貼り出されたまことみらい市の地図と捜査メモ。その前に構えられた事務デスクでは、ジェットが棒付きキャンディを咥えたまま、事務作業の書類に万年筆を走らせている。ペン先がカリカリと紙の上を掻く音だけが、静かに響く。

 

反対側のソファスペースでは、あんなとみくるがローテーブルを挟んで向かい合うように座り、テーブルの上にちょこんと腰を下ろしたポチタンを中心に、沈んだ表情を浮かべていた。

 

「……あの時、ウソノワールが本気出したら、わたし達どうなってたんだろ」

 

あんなが膝の上で組んだ指にぎゅっと力を込めながら、小さな声で呟いた。あの圧倒的な戦闘力。こちらの攻撃を受け止めて微動だにせず、軽い一撃でこちらが吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。その感触が、今も身体の奥に残っている。

 

「……正直、怖かった」

 

みくるが静かに認めた。膝の上に置いた拳が微かに震えている。

 

「アルカナシャドウが止めてくれなかったら、きっと……」

 

その先の言葉を、みくるは飲み込んだ。二人の間に重たい沈黙が落ちる。ポチタンが心配そうに二人の顔を交互に見上げ、「ポチィ……」と小さく鳴いた。

 

「それにさ」あんなが顔を上げ、眉を寄せた。「未来自由(ミラージュ)の書に書いてあるっていう、あの予言……。"真(まこと)の地で、真実の石を抱くもの、大王となる"って」

 

「"そして、世界が嘘の影で覆われる"……」みくるが続きを引き取った。「予言通りなら、ウソノワールがマコトジュエルの力を手に入れて、この世界を支配するって事になる」

 

テーブルの上のポチタンが不安げに身を縮めた。胸のペンダントがかすかに光っている。ポチタンの中に蓄えられたマコトジュエルの力——ウソノワールが狙っているもの。

 

あんなは唇を噛んだ。予言の書が本物だとしたら、未来は決まっている事になる。どれだけ頑張っても、結局はウソノワールの思い通りになってしまうのか。そんな考えが頭をよぎり、胸の奥が締めつけられた。

 

「……ねえ、みくる」

 

「うん?」

 

「未来自由の書って、これから起こる事が全部書いてあるんだよね。だとしたら……わたしの居た2027年の事も、書いてあるのかな?」

 

ふと湧いた素朴な疑問だった。深い意図があったわけではない。ただ、目の前の重苦しい空気を少しでも変えたくて、頭に浮かんだ事をそのまま口にした——あんならしいやり方で。

 

「あ、確かに」みくるが目を瞬かせた。「未来の事が全部書いてあるなら、あんなの時代の事も記されているはず……気になるかも」

 

「でしょでしょ? もしかしたら、わたしがこっちに来た事とか、ポチタンと出会った事とかも——」

 

「おいおい、呑気だな」

 

奥の事務デスクから、呆れた声が飛んできた。ジェットがペンを置き、キャンディの棒をくるりと口の端で回しながら、顔を向けずにに言う。

 

「前にも言っただろ? 未来は絶えず変わる。今の僕たちが頑張らないと、今も未来も嘘の力で覆われるかもしれないって」

 

「あ……うん、覚えてるけど」

 

「だったら分かるだろ」ジェットはようやくこちらを向いた。エメラルド色の瞳が、いつもより真剣な光を帯びている。「ウソノワールは未来を知る力を持っているからこそ、その力で未来を好きに変えようとしているんだ。予言の書に書かれた未来を、自分に都合よく確定させるために動いている。つまり——」

 

ジェットはキャンディを口から抜き、あんなとみくるの目を順に見据えた。

 

「僕たちが止めなきゃ、"予言通りの未来"が現実になる」

 

厳しい言葉だった。あんなとみくるの表情が強張る。だがジェットは、そこで少しだけ口調を和らげた。

 

「だけど、あんなが元居た2027年は平和な時代で、嘘にも覆われていなかったんだろ?」ジェットの口元が綻ぶ。「ならきっと、僕たちの行動次第で、予言を覆せる可能性だってあるはずだ。お前の時代が平和だったって事実は、僕たちが頑張った先にそういう未来があり得るって証拠みたいなもんだろ」

 

言い切って、ジェットは再びキャンディを咥え、何でもない事のように書類に視線を戻した。

 

あんなは黙ってジェットの言葉を噛み締めていた。

 

——2027年。

 

自分が居たあの街並みが、ふいに瞼の裏に浮かんだ。朝日に照らされたマコトミライタウンの高層ビル群。通学路の桜並木。そして、いつも玄関で「いってらっしゃい」と送り出してくれたお母さんの笑顔。——ちょうど今くらいの時間に、毎朝見ていたあの顔。

 

もしウソノワールの思い通りになったら。

 

あの街も、あの笑顔も、全部——嘘の影に覆われて、消えてしまうのかもしれない。

 

胸の奥に冷たいものが広がった。恐怖だ。自分の帰る場所そのものが消滅するかもしれないという、底知れない恐怖。指先が震えそうになる。

 

——ダメ。こんな事考えてちゃ。

 

あんなはぐっと拳を握り、勢いよく立ち上がった。ソファのクッションが跳ねる。

 

「ファントムの好きになんてさせない! もっともっと頑張ろう!」

 

声を張った。震えそうな心を振り払うように。怖いという気持ちを、前に進む力に変えるように。それがあんなのやり方だった。考えるよりも先に、一歩を踏み出す。

 

みくるは一瞬だけ、あんなの瞳の奥にちらついた揺れを見た気がした。けれど、すぐにその目はいつもの真っ直ぐな輝きを取り戻していて——だからみくるも立ち上がった。

 

「ええ! 名探偵として、マコトジュエルは絶対に渡さない!」

 

みくるがぐっと拳を掲げると、テーブルの上のポチタンが二人を見上げ、小さな丸い手をぎゅっと握って持ち上げた。

 

「がんばぅ!」

 

あんなとみくるの顔がぱっと綻んだ。昨日の戦いでマコトジュエルを吸収して以来、ポチタンは簡単な言葉を話せるようになっていた。まだたどたどしい赤ちゃん言葉だけれど、こうして二人の言葉に応えてくれるのが嬉しくてたまらない。

 

「ポチタンも一緒に頑張ろうね!」

 

あんながポチタンの小さな手に自分の人差し指を差し出すと、ポチタンはきゅっとそれを握った。

 

「うんっ、がんばぅ!」

 

「ふふ、力強い」みくるが微笑んで、ポチタンのもう片方の手にそっと指を添えた。「私達三人で、ね」

 

「さんにん!」

 

ポチタンが得意げに胸を張る。二人の言葉を懸命に真似て返す姿に、あんなとみくるは顔を見合わせて笑った。

 

事務デスクのジェットは、その様子をちらりと横目で見て、小さくため息をついた。

 

「……やれやれ」

 

キャンディの棒を噛みながら呟く。まったく、切り替えが早いというか、呑気というか。——いや、これでいいのかもしれない。あの二人の真っ直ぐさが、きっとこの先も武器になる。そう思い直して、ジェットは視線を手元の書類に戻した。

 

——が、すぐにまたペンが止まった。

 

ジェットの脳裏に、別の影がよぎっていた。

 

キュアアルカナ・シャドウ。

 

彼女はウソノワールとの戦いの時、二人を救った。あの時は「未来自由の書に新たな記述が出た」と言ってウソノワールを退かせた。だが——。

 

ジェットは記憶を辿った。あの時だけではない。以前の戦いで、見えない所からジェット自身とポチタンを敵の攻撃から守った事があった。その事についてアルカナシャドウは「ポチタンの力に興味があったから」と説明した。しかし、あれはどう考えても——。

 

ポチタンだけならともかく、自分の事も一緒に助ける意味がない。ウソノワールの手先として動いているなら、プリキュアを助ける理由がない。しかし怪盗としてマコトジュエルを奪おうとする事もある。

 

彼女は一体、何を考えているのか。

 

ジェットはふと、あることを思い出した。キュアアルカナシャドウについてロンドンのキュアット探偵事務所本部に問い合わせの手紙を出していたのだ。ロンドン本部なら何か知っているかもしれない。

 

ジェットはデスクの上に積み重なった手紙の束に手を伸ばした。請求書、チラシ、プリティホリックの仕入れ確認——一通一通ひっくり返していくが、目当ての封筒は見当たらない。

 

「……まだ届いてないのか」

 

ジェットは小さく呟いて、積み上がった手紙の束から手を離した。

 

 

---

 

 

怪盗団ファントムのアジト——オペラ劇場を模したその空間は、いつもと変わらぬ荘厳な佇まいを見せていた。深紅のビロードが壁面を覆い、金の装飾が薄暗い照明を受けて鈍く光る。ステージ奥の大幕は静かに閉じられ、何も映し出してはいない。

 

だが、その優雅さとは裏腹に、空気は鉛のように重かった。

 

中央の巨大なボックス席で、ウソノワールが身じろぎもせずに座っている。白い仮面の黄色い双眸は、手元の書見台に広げられた未来自由の書に落とされたまま——もう、どれほどの時間が経っただろうか。先日の戦いから帰還して以来、このファントムのボスは一言も発していなかった。

 

ステージに向かって右側、ゴウエモンのバルコニー席。腕を組んで椅子にもたれかかった銀髪の大男は、一見すると平然とした様子で目を閉じている。だが、こめかみを伝い落ちる一筋の汗が、その内心を裏切っていた。ちらりと片目を開けてウソノワールの様子を窺い、すぐにまた閉じる。隣のニジーの席は空だった。任務で出ているとはいえ、この空気から逃げ出せた事をゴウエモンは羨ましく思う。

 

左側のバルコニー席では、アゲセーヌが椅子の上で居心地悪そうに姿勢を変えていた。いつもなら脚を組んで派手な仕草を見せるところだが、今は背もたれに浅く腰を下ろし、視線を泳がせている。何か喋りたい。この沈黙を破りたい。しかし、今のウソノワールに軽口を叩けるほど、アゲセーヌも馬鹿ではなかった。

 

——マ~ジ、この空気ヤバいんだけど。

 

心の中でそう叫びながらも、唇は固く結ばれたままだった。

 

その隣の席で、るるかはマシュタンを膝の上に乗せ、静かに座っていた。紫の瞳は半ば伏せられ、何を考えているのか読み取れない。マシュタンもまた主人の膝の上で大人しくしており、時折目線をウソノワールの方に向けては、すぐに逸らしていた。この二人だけが、重苦しい空気の中でも普段と変わらぬ佇まいを保っている——少なくとも、表面上は。

 

沈黙が、劇場の天井まで満ちていた。

 

ウソノワールの視線は、未来自由の書の見開きに釘付けになっていた。前回の戦いで新たに浮かび上がった予言の文字列。あの場で確認し、その通りに従った——「今はそのまま去れ」と。

 

未来自由の書に記された予言は絶対だ。

 

この書がウソノワールだけに読み解く事を許した真実。ここに記された通りに事を運べば、一九九九年七の月、真(まこと)の地で真実の石を抱くもの——すなわち自分が——大王として君臨する。世界が嘘の影で覆われる。それが、定められた未来だ。

 

だからこそ従った。書に従い、あの場を退いた。

 

だが。

 

——納得した訳ではない。

 

ウソノワールの目がわずかに細まった。

 

あの二人の名探偵プリキュア。未来自由の書に一切記されない存在。本来の歴史に含まれない異物。予言を正しく成就させるためには排除すべきノイズのはずだ。事実、あの戦いでは二人を消し去ろうとした。そしてそれは可能だった——新しい予言がなければ。

 

問題はそこだ。

 

何故、あの予言が浮かんだのか。あの二人を——異物であるはずの存在を、結果として助ける形になる予言だけが、あのタイミングで現れた。未来自由の書は未来を記すもの。そこに意思はない。感情もない。ただ、これから起こる事が記されるだけだ。

 

ならば、何故。

 

ウソノワールは書のページを指先でゆっくりとなぞった。羊皮紙の手触りが、甲冑の指先越しにかすかに伝わる。答えを求めるように。だが、文字は沈黙したまま何も応えない。これまでもそうだった。未来自由の書は問いに答える書物ではない。ただ、来たるべき未来を示すだけ。

 

——未来自由の書に記されない、未来から来た存在。

 

思考が、そこに立ち返る。あの明智あんなという少女は2027年から来たという。未来から過去へ。本来あり得ない移動。だからこそ書に記されない。記されないからこそ、予言の枠組みの外にいる。

 

予言の外にいるという事は——この先も、予言の想定しない動きをするという事だ。排除しようとしても、書がそれを許さない場合がある事は、今回証明されてしまった。ならば邪魔になり続ける可能性がある。

 

そう考えを巡らせた、その時だった。

 

ウソノワールの思考が、ある一点で止まった。”未来から来た存在”。

 

仮面の黄色い瞳が、薄っすらと輝きを放つ。書見台に置かれた手が、微かに震えた——歓喜に。散らばっていた断片が一つの形を結び、視界を覆っていた霧が晴れるように、全てが繋がった。

 

「そうか」

 

低く、静かな声だった。

 

「そういう事か……」

 

ウソノワールが口を開いた。帰還してから初めての言葉。

 

アゲセーヌがびくりと背筋を伸ばした。ゴウエモンが閉じていた目を開く。るるかの伏せられていた紫の瞳が、音もなくウソノワールの方へ向けられた。マシュタンの耳がぴくりと動く。

 

ウソノワールの肩がわずかに揺れ、劇場を満たしていた鉛の沈黙に、亀裂が入った。

 

「フッフッフ……」

 

低い笑い声が、バルコニー席から溢れ出した。それは劇場の壁に反響し、天井に昇り、ビロードの帷幕を震わせながら空間全体に広がっていく。仮面の黄色い双眸が、愉悦の光を帯びていた。

 

アゲセーヌは思わず隣のるるかの方を見た。何が起きたのか分からない。何がウソノワールの機嫌を直したのかも分からない。だが、あの笑い声は少なくとも怒りの類ではない。それだけは確かだった。

 

——よ、良かった……マジ良かった……。

 

アゲセーヌは心の中で盛大に安堵の息をつき、椅子の背もたれに深く身を預けた。張り詰めていた肩の力がようやく抜ける。理由はどうあれ、この窒息しそうな空気が終わるなら何でもいい。

 

ゴウエモンもまた、こめかみの汗を法被の袖でそっと拭った。扇子を手に取り、ぱちんと開いて口元を隠す。「ふう……」と小さく息をつく仕草の裏に、隠しきれない安堵があった。

 

るるかは沈黙を保つ。マシュタンを撫でる手は変わらず穏やかで、表情にも動揺はない。ただ——その紫の瞳がわずかに細められていた。ウソノワールの笑い声を聞きながら、まるでその奥にある思考を読み取ろうとするかのように。

 

ウソノワールの笑い声が、劇場の闇に溶けていく。未来自由の書の上に落ちた仮面の影が、かすかに揺れていた。

 

 

---

 

 

放課後のまことみらい市は、西に傾きかけた陽射しの中で穏やかな表情を見せていた。

 

通学路の並木道を、あんなとみくるが肩を並べて歩いている。あんなの右肩から胴体にかけて、小さなショルダーバッグ——に見せかけたポチタンがぶら下がり、ぬいぐるみのフリをして大人しくしていた。

 

「はぁ……やっぱり怒られちゃったね」

 

あんなが溜息混じりに呟いた。今朝の出来事を思い出しているのだ。

 

校門の前で、いつものように挨拶をしていた生徒会長——金田れいの前を通り過ぎようとした瞬間、あんなの肩からぶら下がったポチタンに、あの鋭い目が吸い寄せられた。

 

「——それ……許可は取ってますか? 鞄は学校指定の物だけ。許可のない物を持ってくるのは、違反です」

 

有無を言わせぬ、静かだけれど硬い声。生徒会長の風格が、朝の光の中でぴしりと佇んでいた。あんなは「あっ、これはその、えっと……」としどろもどろになり、みくるが横から「すみません、気をつけます!」と頭を下げてその場を切り抜けるのがやっとだった。

 

「生徒会長、校則にはすごく厳しいから」みくるが苦笑いを浮かべた。「ポチタン、ぬいぐるみに見えるとはいえ、確かに学校指定品ではないし……」

 

「うー……ごめんねポチタン」あんなが肩から下がる形のポチタンにそっと手を添えた。「明日からは、家で待ってもらわないといけないかも」

 

「ポチ……」

 

ポチタンがしゅんと耳を伏せた。小さな手があんなの手を握り、ぎゅっと身を寄せる。その仕草があまりにも寂しそうで、あんなの胸がきゅっと痛んだ。

 

「大丈夫だよ、帰ったらすぐ会えるから——」

 

言いかけた、その時だった。

 

「ポチィ!」

 

ぶら下がっていたポチタンが弾かれたように跳ね上がった。伏せていた耳がぴんと立ち、胸のペンダントがちかちかと明滅する。次の瞬間、ポチタンの小さな身体が宙に浮き上がり——。

 

「え、ちょっ——ポチタン!?」

 

ストラップがぴんと張り、あんなの身体が前のめりに引っ張られた。

 

そこからは、もはや走るというより引きずられるに近かった。ポチタンが矢のように一直線に飛んでいく。あんなは悲鳴を上げる暇もなく、凄まじい勢いで並木道を駆け抜け、角を曲がり、信号を渡り——地面を蹴る足が追いつかず、何度も転びそうになりながら、それでもポチタンに引かれるまま突き進んでいく。

 

「あんな!? ——これって、マコトジュエルの反応!?」

 

一拍遅れて事態を理解したみくるが、鞄を抱え直して全力で後を追った。だが、ポチタンの速度はみくるの全力を遥かに凌ぐ。あんなの背中はみるみる小さくなり、みくるは歯を食いしばって走り続けた。

 

 

---

 

 

「はっ……はぁっ……はぁっ……」

 

ようやくポチタンが速度を落とした時、あんなは膝に手をついて肩で息をしていた。前髪がべったりと額に張り付き、帽子が斜めにずれている。

 

「あんな……! はぁ、はぁ……追い、ついた……っ」

 

こちらも荒い息を切らしたみくるが、最後の数歩をよろめきながら追いつく。膝の上に両手を突いて、しばらく二人揃って呼吸を整えた。

 

顔を上げると、目の前に平屋建ての建物があった。クリーム色の壁に、色とりどりの切り紙細工が窓に貼られている。入口の上に掲げられた看板には——。

 

「……まことみらい児童館?」

 

あんなが息の合間に読み上げた。みくると目を見合わせる。ポチタンは児童館の方をじっと見つめたまま。

 

「ポチタンがここに反応したって事は……」みくるが目を細めた。「中に、マコトジュエルがある」

 

「うん。何か事件が起きてるかもしれない」

 

頷き合って、二人は児童館の入口をくぐった。

 

中に入ると、壁に子ども達の描いた絵がたくさん貼り出されていた。折り紙やビーズ細工が並んだ棚。積み木やボードゲームが置かれた遊戯スペース。どこか温かみのある、生活の匂いがする場所だ。だが今日は、人の姿がまばらだった。奥にホール用の椅子が並べられているのが見えるが、その前に人が集まっている様子はない。

 

「いらっしゃい」

 

受付のカウンターから、若い女性が顔を出した。エプロンの上に名札——「梶原なつみ」と書かれている。柔らかい笑顔で二人を迎え入れた。

 

「あなた達も、最後の読み聞かせ会に来てくれたの?」

 

「読み聞かせ会?」

 

あんなとみくるが同時に首を傾げた。

 

「あら、違うの?」

 

梶原は少し意外そうに目を瞬かせたが、すぐに穏やかな表情に戻って説明してくれた。

 

「辻村鉄蔵さんっていうおじいさんがね、長い間ずっとボランティアで子ども達に紙芝居の読み聞かせをしてくれていたの。もう何十年にもなるかしら。でもね、体力的にそろそろ難しいって事で、引退を決められて……今日が、最後の読み聞かせ会なの」

 

「何十年も!」あんなが目を丸くした。「すごい……それだけ長く続けてこられたんですね」

 

「ええ。鉄蔵さんの紙芝居で育ったって人が、今はお父さんお母さんになって、自分の子どもを連れて来てくれたりするのよ」

 

梶原の言葉に、みくるも感心した様子で頷いた。しかし、二人の頭の片隅ではポチタンの反応が引っかかっている。ファントムがこの場所に目をつけている可能性がある。

 

「あの、聞いてもいいですか」みくるがさりげなく切り出した。「この児童館に、何かこう……皆さんにとって大切にされている物とか、特別な物とかってありますか?」

 

「大切な物?」梶原が小首を傾げた。「うーん、子ども達の作品はどれも大切だけど……特に貴重な物って言われると、思い当たらないわね」

 

あんなとみくるは困った顔を見合わせた。ポチタンが反応している以上、マコトジュエルが宿る何かがこの近くにあるはずなのだが、「実はマコトジュエルっていう宝石が……」などと説明できるわけもなく、どう聞けばいいのか言葉に詰まっていた。

 

「えっと、何か古くから受け継がれてきた物とか……」

 

「歴史ある備品みたいな……」

 

あんなとみくるが交互にしどろもどろに言葉を継いでいると——。

 

「なつみさん!」

 

奥から切迫した声が響いた。

 

振り返ると、一人の老人が廊下の向こうから足早にやって来るところだった。薄くなった白髪を綺麗に撫でつけた、背筋のしっかりした年配の男性。しかしその顔には、明らかな狼狽が浮かんでいた。

 

「困った事になった。紙芝居舞台が……保管庫を開けたら、なくなっとるんだ」

 

「え……?」

 

なつみの顔から、さっと血の気が引いた。

 

「なくなったって……あの、紙芝居舞台が? 奥さんの——」

 

「ああ」鉄蔵が苦しげに頷いた。「ばあさんが飾りをつけてくれた、あの舞台だ。朝一番に確認した時にはちゃんとあった。それが今見たら——影も形もない」

 

老人——辻村鉄蔵は、皺の刻まれた手を握り締めていた。困惑と焦りが入り混じった目が、梶原を見つめている。

 

「鉄蔵さん、落ち着いてください。どこかに移した可能性は……」

 

「いや、わしはちゃんとあの場所に……」

 

あんなの目が、みくるの目と真っ直ぐに交わった。

 

大切な人の想いが籠った、紙芝居舞台——マコトジュエルが宿るにふさわしい品だ。ポチタンの反応の意味が、今はっきりと繋がった。

 

二人は同時に頷き、一歩前に踏み出した。

 

「あの!」

 

あんなが声を張った。鉄蔵と梶原が、驚いたように二人を見る。みくるが背筋を伸ばし、探偵としての凛とした声で宣言した。

 

「「この事件——キュアット探偵事務所にお任せを!」」

 

 

---

 

 

保管庫は、児童館の廊下を奥へ進んだ突き当たりにあった。

 

鉄蔵が先に立ち、あんなとみくるを中へ案内する。引き戸を開けると、中は六畳ほどの狭い空間に、使い込まれた備品がぎっしりと詰め込まれていた。折り畳み式のテーブル、運動会用の三角コーン、季節ごとのイベント用の飾りつけが入った段ボール箱。壁際にはパイプ椅子が何脚も重ねて立てかけられ、棚には画用紙やクレヨンの予備が雑然と並んでいる。

 

鉄蔵が、入口のすぐ右手の壁を指した。

 

「ここに、立てかけてあったんだ。布をかけて」

 

示された場所には、何かを立てかけていた跡がうっすらと埃の輪郭で残っていた。壁にもたせかけるのに丁度いい位置で、入口から一番近い。他の備品に埋もれるような場所ではなく、すぐに手が届く、目立つ場所だった。

 

「大事にされてたんですね」みくるが呟いた。

 

「ああ……」

 

鉄蔵が頷いた。皺の深い目元が、少し遠くを見るように細められる。

 

「あの舞台はな、わしが木を切って枠を組んだんだが、飾りつけは女房がやってくれたんだ。小さな木彫り細工で、一つ一つ模様を嵌め込んでな。器用な人だった」

 

言葉の端に、懐かしさと、もう会えない人への静かな想いが滲んでいた。

 

「子ども達の前に立つ時は、いつもあの舞台と一緒だった。女房が横にいてくれるような気がしてな」

 

あんなは黙って聞いていた。ポチタンが肩の上で、小さく「ポチ……」と鳴いた。

 

「あの舞台がなければ、この後の読み聞かせ会を始める事が出来ん。紙芝居だけならコピーもあるが……あの舞台は、一つしかない」

 

みくるが静かに、けれど力強く頷いた。「必ず見つけましょう」

 

「そうですよ!」あんなが拳をぎゅっと握った。「最後の読み聞かせ会ですもんね。絶対に見つけないと!」

 

励ますように言ったあんなに、鉄蔵は一瞬だけ目を伏せた。

 

「ああ……最後、だからな」

 

その言葉は、どこか歯切れが悪い。あんなは小さく首を傾げたが、それ以上は何も聞かなかった。

 

 

---

 

 

保管庫を出ると、廊下の向こうから足音が近づいてきた。

 

梶原が先導する形で、二人の人物が歩いてくる。一人は作業着姿の年配の男性、もう一人は若い女性だった。

 

「鉄蔵! 紙芝居舞台がなくなったって、本当か」

 

年配の男性が、鉄蔵の姿を認めるなり足を速めた。白髪交じりの短い髪に日焼けした肌、がっしりとした体格。モップを持ったままの手が、心配の色を隠せずにいる。

 

「本当だ、誠治。保管庫を開けたら空っぽだった」

 

鉄蔵が答えると、誠治と呼ばれた男性——園田誠治は眉間に深い皺を刻んだ。「おいおい、冗談じゃないぞ……」

 

「おじいちゃん、大丈夫?」

 

続いて若い女性が駆け寄った。大学生くらいの年頃で、鉄蔵の腕にそっと手を添えている。

 

「友里。わざわざ遠くから来てくれたのに、こんな事になってしまってすまんな」

 

「そんなの気にしないで。それより、紙芝居舞台……本当にどこにもないの?」

 

鉄蔵が重い表情で頷くのを見て、友里と呼ばれた女性——柏木友里の目に不安の影がよぎった。

 

あんなとみくるは少し離れた位置で、三人のやり取りを見守っていた。園田と鉄蔵が長年の友人同士だという事は、名前を呼び捨てにする距離感や、言葉少なでも通じ合う間合いから伝わってくる。友里が鉄蔵の孫である事も。

 

そうして一同が廊下に集まって話をしていると、少し離れた部屋のドアが開いた。

 

作業着姿の男が、アルミの脚立を抱えて出てくる。落ち着いた物腰の中年男性で、首から下げた社員証が揺れていた。

 

「なにかあったんですか?」

 

男は周囲のただならぬ空気を感じ取ったのか、脚立を壁に立てかけながら一同を見回した。

 

「鉄蔵さんの紙芝居舞台が見当たらなくなったんです」梶原が手短に説明した。「保管庫に仕舞ってあったはずなのに」

 

「紙芝居舞台……ですか」男は脚立の持ち手を握り直しながら、困惑した表情を見せ、「それは大変ですね」と穏やかに応じた。

 

みくるは何気なく、男が出てきた部屋の方に視線を送った。空調設備の点検——そういう用件で来ている業者だと梶原が補足する。三上隆、という名前だった。

 

「あの、皆さんにお聞きしたいのですが」みくるが一歩前に出た。「今日、児童館の中で怪しい人を見かけた方はいらっしゃいますか?」

 

園田が腕を組んで首を振った。「いや、特にそんな奴は見とらんなぁ」

 

「私も……」友里が唇を噛みながら答えた。

 

三上も「こちらも点検作業をしていただけなので」と淡々と首を横に振った。

 

あんなとみくるは、それぞれの顔を静かに見つめた。怪しい人物の目撃証言はない。しかし——それは、犯人が「怪しく見えない人物」だという事を示している可能性もある。

 

 

---

 

 

エントランスに戻ったあんなとみくるは、受付カウンターの梶原に向き合った。

 

「梶原さん、わたし達が来るまでの間、保管庫の方に行った人って覚えてますか?」

 

「ええ、私はずっとこの受付にいたから」梶原が記憶を辿るように視線を上げた。「怪しい人は見ていないわ。今日は読み聞かせ会があるから、子ども達や保護者の皆さんは多目的室の方に集まっていて、保管庫のある側にはほとんど人が行かなかったの」

 

児童館の構造を思い浮かべる。エントランスから左手が多目的室やホールのある賑やかな側で、右手が事務室や会議室、そして突き当たりの保管庫がある静かな側。子ども達の声は全て左手の方から聞こえてくる。

 

「保管庫側に入ったのは……」梶原が指を折りながら数えた。「園田さんと、友里ちゃんと、三上さん。そう、丁度あの三人だけね」

 

あんなとみくるは一瞬だけ目を見合わせた。

 

「園田さんは、いつも通り清掃で?」みくるが確認した。

 

「ええ。園田さんはこの児童館にもう随分長く勤めてくれていて、保管庫側の清掃もいつものルーティンなの」

 

「友里さんは?」

 

「鉄蔵さんの最後の読み聞かせ会を手伝うために、最近よく来てくれていたわ。今日も、読み聞かせ会で使う小道具を保管庫に取りに行ったと言っていたわね」

 

「三上さんは空調の点検で来てるって聞きました」

 

「そう。設備保守の業者さんで、各部屋のエアコンを見て回っていたから、保管庫側にも入ったはずよ」

 

三人の名前。三人の理由。いずれも、保管庫側にいた事自体は不自然ではない。

 

あんなとみくるは受付カウンターから少し離れた所で、声を落とした。

 

「あの三人のうちの誰か……って事になるよね」あんなが小さく言った。

 

「断定はまだ早いけど」みくるが顎に手を当てた。「でも、他に保管庫側に入った人がいないなら、可能性は高い。紙芝居舞台は小さな物じゃないはず。持ち運んだら目に付くし、受付の梶原さんの前を通って外に出すのも難しい」

 

「って事は、まだ児童館の中にある?」

 

「その可能性が高いと思う。どこかに隠されているんじゃないかしら」

 

あんなが顔を上げた。明るい緑の瞳に、決意の光が灯る。

 

「だったら、探そう! みんなで!」

 

あんなは振り返って、廊下の方にいる園田達に声をかけた。

 

「あの! 紙芝居舞台がまだ児童館の中にあるかもしれません。皆さんで手分けして探しませんか?」

 

園田が「おう、そりゃあ勿論だ」とすぐにモップを壁に立てかけた。友里も「私も探します」と頷く。三上も「お手伝いしましょう」と穏やかに申し出た。

 

「梶原さん」みくるが受付に向き直った。「お願いがあるんですけど、梶原さんにはこのまま受付にいてもらえますか? もし誰かが紙芝居舞台をこっそり外に持ち出そうとしたら、ここを通るはずですから」

 

梶原は頷いた。「分かったわ。ここでしっかり見ておくわね」

 

「ありがとうございます!」

 

あんなが笑顔で頭を下げ、みくると並んで廊下の方へ向き直った。容疑者の三人がそれぞれ散っていく背中を、二人は目で追った。

 

 

---

 

 

エントランスから再び廊下に入り、あんなとみくるは保管庫側に並ぶ部屋を一つずつ開けていった。

 

最初の部屋は小さな会議室だった。長机と椅子が並ぶだけの簡素な空間で、隠し場所になりそうな棚や収納はない。机の下を覗き込み、椅子を引いて確認するが、紙芝居舞台の影も形もなかった。

 

次の部屋は事務室。書類棚とデスクが所狭しと並んでいる。みくるがロッカーを一つずつ開けていくが、中にあるのはファイルや文房具、防災用品のたぐいばかりだった。紙芝居舞台は梶原の話では木製の枠組みで、それなりの大きさがあるはず。このサイズのロッカーに押し込めるものではなさそうだった。

 

次の部屋。折り畳みテーブルと椅子が数脚置かれただけの、小さな多目的スペースが現れた。壁際に薄い棚が一列並んでいるが、収納できるものはせいぜい書類や小道具の類だ。エアコンの室内機が見当たらず、夏場は大変そうだな、とあんなはぼんやり思いながら、棚の裏側を一通り確認した。紙芝居舞台が入り込めるような隙間はない。

 

「ここにもないね……」あんなが腰を伸ばした。

 

「次の部屋を見ましょう」

 

廊下に出ると、少し先の部屋から園田が姿を現した。

 

「園田さん、そちらは何か見つかりましたか?」

 

みくるが声をかけると、園田は首を振った。「いや、どこにも見当たらんなあ。清掃でこの辺は毎日見て回ってるが、いつもと変わった所はないように思うんだが」

 

眉間に皺が寄っている。探しているのは仕事の道具ではなく、長年の友の大切な品だ。あんなはそれとなく話題を向けた。

 

「園田さんは、鉄蔵さんと長いお付き合いなんですか?」

 

「ああ。わしがこの児童館に入った頃には、もう鉄蔵はここで紙芝居をやっていたよ」園田は腕を組んだ。「最初は奥さんと二人でやっていてな。奥さんが紙芝居の絵を描いて、鉄蔵が声を当てる。息の合った夫婦だった」

 

「奥さんが……」

 

「ああ。亡くなってからは一人でやるようになったが、それでもずっと続けていた。子ども達が楽しみにしてくれているから、ってな」

 

園田の目が少し遠くなった。

 

「あいつももっと続けるもんだと思ってたんだがなあ……。まあ、仕方ない事かもしれんが」

 

寂しさを噛み締めるような口調だった。友人として鉄蔵の決断を尊重しようとしながらも、割り切れない何かが言葉の端ににじんでいる。

 

あんなは「そうですか……」と静かに相槌を打った。

 

 

---

 

 

次の部屋のドアを開けると、友里がいた。

 

窓際に立ち、段ボール箱の中身を確認している所だった。箱の中には色画用紙で作られた花や星の飾り——読み聞かせ会の飾り付けに使うものだろう。あんな達に気づいた友里は、「こっちにも紙芝居舞台はないみたい」と首を振った。

 

「友里さんは、おじいさんの読み聞かせ会を手伝ってるんですよね」みくるが何気ない調子で言った。「紙芝居舞台は、友里さんにとっても大切な物なんですね」

 

友里の手が、段ボール箱の縁の上で止まった。

 

「……大切な」

 

友里は繰り返して、口元に曖昧な笑みを浮かべた。友里は視線を段ボールの中に落としたまま、少し考えるように間を置く。

 

「あの、正直に言うとね」声がやや小さくなる。「おじいちゃんとはずっと離れて暮らしていたから……紙芝居舞台を見るのも、今日が初めてなの」

 

「えっ、そうなんですか?」

 

あんなとみくるは顔を見合わせた。手伝いに来てくれている孫が、紙芝居舞台を初めて見る。それは鉄蔵の活動が家族の日常からは遠い場所にあった事を意味している。

 

「すみません、引き留めちゃって。他の部屋も見てきますね」

 

みくるがそう言って踵を返し、あんなもそれに続こうとした。

 

その時だった。

 

「……私のせいで……」

 

背後から、ぽつりと。

 

あんなは足を止めた。振り返ると、友里は窓の外に目を向けていた。その横顔に浮かんでいたのは、後悔に似た翳りだった。

 

視線に気づいた友里がはっと我に返る。

 

「あっ——ああ、ごめんなさい、なんでもないの!」

 

慌てて笑顔を作る友里。どこか取り繕ったような笑顔。あんなは「……うん」とだけ返して、みくるを追って部屋を後にした。

 

 

---

 

 

保管庫側の部屋を全て回り終えた二人は、エントランスに戻った。

 

「梶原さん、保管庫側には見つかりませんでした」

 

みくるが報告すると、梶原はカウンターの向こうで小さく息をついた。

 

「早く見つけ出さないと、読み聞かせ会が始められない……」あんなが唇を結んだ。「子ども達、待ってるのに」

 

梶原はその言葉を聞きながら、ゆっくりと目を伏せた。

 

「そうね……見つからなかったら……」

 

そこで、梶原の言葉が奇妙に途切れた。「見つからなかったら」の後に続くはずの——「大変」だとか「困る」だとか——そういう言葉が、出てこない。代わりに、梶原の唇がわずかに動いて、何かを言いかけては飲み込むような仕草をした。

 

あんなはまた、あの引っかかりを感じた。鉄蔵の時と同じ。園田の時と同じ。言葉の裏側に、口にしない何かがある。

 

しかし今は先を急がなければならない。

 

「念のため、多目的室の方も確認させてください」

 

みくるがそう告げ、二人はエントランスを横切って反対側——多目的室のある方へと足を向けた。

 

 

---

 

 

多目的室のドアを開けた途端、賑やかな声が二人を包んだ。

 

部屋の中には折り畳み椅子がずらりと並べられ、子ども達が椅子の上で身を乗り出したり、隣同士でおしゃべりしたり、落ち着かない様子で動き回ったりしている。その後ろでは保護者達が立ち話をしていた。

 

「ねえねえ、まだ始まんないのー?」

 

小さな男の子が、近くにいた保護者の袖を引っ張った。

 

「おじいちゃんの紙芝居、早く見たーい!」

 

「もうちょっと待ってね」保護者が困り顔でなだめるが、子ども達の期待は膨らむ一方だった。

 

あんなとみくるは顔を見合わせた。紙芝居舞台が見つからない事は、まだ伝えられない。

 

「もうすぐ始まるはずですから、もう少しだけ待っていてくださいね!」

 

あんなが明るい声で子ども達に呼びかけると、「やったー!」「はやくはやく!」と歓声が上がった。

 

「おじいちゃんの紙芝居、すっごいんだよ!」

 

「声がぜんぶ変わるの! 怖い鬼の時はこわーい声で、お姫様の時はやさしい声になるんだよ!」

 

子ども達が口々に鉄蔵の紙芝居の魅力を語り出す。目を輝かせて、身振り手振りで真似をしてみせる子もいる。あんなは自然と頬が緩んだ。この子達にとって、鉄蔵の読み聞かせ会は本当に特別な時間なのだ。

 

「でもさ」

 

不意に、一人の男の子が声を上げた。腕を組み、少し尖った口調で——子ども達の中ではやや年長の、はねっ返り者らしい雰囲気の男の子だった。

 

「今日の読み聞かせが終わったら、もう聞けなくなっちゃうんだろ!」

 

その一言が、騒がしかった多目的室の空気を一変させた。

 

はしゃいでいた子ども達の顔から、すっと笑顔が引いていく。しん、と静まり返った沈黙の中で、一人の小さな女の子が目を潤ませた。

 

「……もう、おじいちゃんのお話、聞けないの?」

 

その声を皮切りに、ぐずり始める子が出てきた。「やだ」「終わっちゃうのやだよ」という声が、小さなさざ波のように広がっていく。保護者達も困った顔で子ども達をなだめようとするが、火がついた寂しさは簡単には収まらない。

 

あんなは、立ち尽くしていた。

 

目の前で泣き出す子ども達の姿に胸が痛む。それと同時に、今日出会った人々の反応が次々と頭の中で重なっていった。

 

「最後、だからな」——そう言った鉄蔵の、歯切れの悪い声。

 

「あいつももっと続けるもんだと思ってたんだがなあ」——園田の寂しげな横顔。

 

「見つからなかったら……」——梶原の、続きを飲み込んだ言葉。

 

そして——。

 

「——私のせいで……」

 

友里がぽつりとこぼした、あの一言。

 

あんなの胸の中で、何かが引っかかった。まだ形にならない、けれど無視できない違和感。

 

「みくる!」

 

あんなが振り返った。みくるは泣き出した子ども達の間にしゃがみ込んで、なだめている最中だった。

 

「ごめん、ちょっとだけ——すぐ戻るから!」

 

言い残して、あんなは多目的室を飛び出した。

 

 

---

 

 

廊下を早足で進む。さっき友里がいた部屋——まだいるだろうか。

 

扉の隙間から中を覗くと、友里がいた。窓辺に寄りかかるようにして立ち、一人で外の景色を眺めている。その背中は、先ほどよりずっと小さく見えた。

 

「友里さん」

 

あんなが声をかけると、友里が振り返った。

 

「あら、どうしたの?」

 

穏やかに微笑む。でもその目の奥には、さっきと同じ翳りが残っていた。

 

あんなは一歩、部屋の中に踏み込んだ。

 

「さっき友里さんが言ってた事……"私のせいで"って。あれ、どういう意味なのか教えてもらえませんか」

 

友里の笑顔がかすかに揺らいだ。

 

「……聞こえちゃってたのね」

 

気まずそうに目を逸らし、窓枠に指を這わせる。しばらくの沈黙のあと、友里はぽつりと口を開いた。

 

「おじいちゃんとは……ずっと離れて暮らしてたから、読み聞かせ会の事も、子ども達にどれだけ慕われてるかも、全然知らなかったの」

 

指が窓枠をなぞる動きが止まった。

 

「……少し前に、家族で集まった事があって」

 

声は静かだった。自分自身に言い聞かせるような、慎重な語り口だった。

 

「おじいちゃん、もう七十を過ぎてるのよ。紙芝居を読むのだって、ずっと立ちっぱなしで、大きな声を出して。前に会った時、足元がふらついてるのを見ちゃって……心配になって」

 

友里は自分の手を見つめた。

 

「だから言ったの。"もう年なんだから、無理しないで"って」

 

あんなは黙って聞いていた。

 

「心配だったのは本当だよ。でも……多分、深く考えてなかった。おじいちゃんがどれだけ紙芝居に心を注いでるかとか、やめる事がどういう意味なのかとか、そういう事を全然分からないまま、軽い気持ちで言っちゃった」

 

友里の声が小さくなっていく。

 

「それから間もなく、おじいちゃんが読み聞かせ会をやめるって言い出して……。最初は、そうだよね、無理しない方がいいよねって、それでいいと思ってたの。でも、実際に最後の読み聞かせ会の手伝いで来てみたら——」

 

友里は窓の外に視線を向けた。その先には、児童館の庭で遊ぶ子ども達の姿があったのかもしれない。

 

「子ども達がね、おじいちゃんの話をする時、本当にきらきらした顔をするの。"鉄蔵のおじいちゃんの紙芝居が大好き"って。地元の人達も、"鉄蔵さんの読み聞かせで育った"って嬉しそうに語ってくれて。……ああ、おじいちゃんにとって、ここはこんなに大切な場所だったんだって、やっと分かった」

 

友里の目が潤んでいた。

 

「私があんな事言わなければ、おじいちゃんはまだ続けてたのかもしれない。……私のせいで、おじいちゃんから、大切なものを奪っちゃったんじゃないかって」

 

あんなは何も言えなかった。

 

友里の後悔は、悪意から生まれたものではない。家族を心配する気持ちから出た言葉が、思いもよらない重さを持ってしまった——そういう種類の痛みだった。それをどう受け止めればいいのか、あんなにはまだ、答えが見つからなかった。

 

窓から差し込む西日が、友里の横顔を琥珀色に染めていた。

 

 

---

 

 

友里の元を離れて、あんなは一人で廊下を歩いていた。

 

西日が窓から長い影を引き、リノリウムの床を橙色に染めている。子ども達の声は多目的室の方から微かに聞こえるが、保管庫側の廊下は静かだった。あんなに抱えられたポチタンが、あんなの顔を心配そうに見上げている。

 

友里だけじゃない——あんなは、歩きながらそう思った。

 

鉄蔵。「最後、だからな」とだけ言って、目を伏せたあの顔。

 

園田。「あいつももっと続けるもんだと思ってたんだがなあ」。寂しさを飲み込むように腕を組んでいた、あの後ろ姿。

 

梶原。「見つからなかったら……」。その先を言いかけて、口をつぐんだ時の、あの微妙な表情。

 

そして子ども達。「もう聞けなくなっちゃうんだろ!」という声に、堰を切ったように溢れ出した涙。

 

みんな——最後の読み聞かせ会が、最後になる事を望んでいない。

 

鉄蔵自身でさえ。

 

あんなの足が、ゆっくりと止まった。

 

——まさか。

 

思考が、一つの形を結びかけた。

 

紙芝居舞台が見つからなければ、最後の読み聞かせ会は開催できない。開催できなければ、「最後」という区切りは曖昧になる。引退そのものが有耶無耶になる。つまり——紙芝居舞台が消えたままの方が、みんなにとって——。

 

——いや、そんなまさか。

 

あんなは首を振った。紙芝居舞台は盗まれたのだ。犯人がいるのだ。それを見つけ出して、事件を解決するのが自分達の仕事だ。

 

……でも。

 

足が、もう一度止まった。

 

この事件は——もしかすると——解決する事を、誰も望んでいないんじゃないだろうか。

 

紙芝居舞台が見つからない方が、みんなが笑っていられる。鉄蔵は紙芝居を続けられる。園田は友を見送らなくて済む。友里は自分を責めなくて済む。梶原も子ども達も、大好きな読み聞かせ会を失わなくて済む。

 

嘘は、よくない事だ。あんなはそう信じている。嘘を暴いて真実を見つけ出す。それが探偵の使命で、自分の在り方だ。

 

でも——それが、誰かのための嘘だとしたら。

 

誰かを守るために、誰かを笑顔にするために、真実を隠す事が許されるとしたら。

 

「……こんな事、考えちゃいけないよね」

 

あんなは小さく呟いて、顔を上げた。気持ちを切り替えよう。みくるの所に戻って、もう一度捜索を——。

 

その瞬間だった。

 

あんなの周囲の空間が、一瞬だけ歪んだ。テレビの画面にノイズが走るように、廊下の景色が微かにぶれ、窓から差す西日の色が不自然に赤みを帯びた。

 

あんなの頭上に——赤い靄が滲み出していた。

 

靄の中から、ゆっくりと。甲冑に覆われた巨大な手が現れ、掴みかかるのではなく、差し伸べるように、あんなの頭上に広がった。

 

あんなは気づかない。うつむいたまま、自分の中の迷いと向き合おうとしている。だからこそ、その声は——あんなの内側から響いたように聞こえた。

 

『嘘よ覆え』

 

あんなの目が、見開かれた。

 

明るい緑の瞳から、光が消えていく。まるで水面に墨を一滴落としたように、瞳の色が濁り、表情から感情の温度が抜け落ちていく。開かれた目は虚ろに前方を見つめ、もう何も映していなかった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「…………」

 

『お前はファントムに従う者。誰もが望む真実を、お前は”解答”として作り出す事が出来る』

 

その言葉は、あんなの心の隙間に、水が砂に染み込むように浸透していった。

 

先日の戦いの中で、ウソノワールの嘘は力ずくだった。「お前は私に跪く」——意志を折り、屈服させるための嘘。だからこそあんなは抗えた。自分の中の「嫌だ」という叫びが、嘘を跳ね返す力になった。

 

だが、今回の嘘は違う。

 

あんなの中に芽生えた疑念——「解決しない方がいいのかもしれない」「嘘が誰かを救うなら」——その迷いに、ウソノワールの嘘は寄り添った。抗うべき敵としてではなく、あんな自身の願いの延長として。

 

赤い靄が、あんなの身体を覆い始めた。髪の先から、指先から、じわりと這い上がるように赤い光が滲んでいく。あんなの両目が——赤く、輝いた。

 

「あんな! あんな!」

 

ポチタンが叫んだ。小さな手であんなの頬を叩き、耳元で必死に名前を呼ぶ。最近ようやく口に出来るようになったその名前を。

 

「…………」

 

あんなは微動だにしなかった。虚ろな赤い瞳は真っ直ぐ前を見つめたまま、ポチタンの姿を映していない。

 

あんなの胸元で、白い懐中時計が微かに震えた。

 

震えは次第に大きくなり——懐中時計がひとりでに浮かび上がった。赤い光を纏いながら、別の形へと変化していく。

 

しかし変化したその姿は、ジュエルキュアウォッチではなかった。

 

白が、黒に染まっていく。表面を覆う光沢が、闇を飲み込んだ漆黒に変わる。中央の文字盤は——鏡写しのように反転していた。数字が逆向きに並び、歪な12の数字が赤い光の中でぬらりと浮かび上がる。針の回る向きも逆。全てが、裏返しになっている。

 

『フェイクキュアウォッチ』。

 

続いて、あんなの胸の奥から——光が浮かび上がった。

 

あんなの心に宿るマコトジュエル。真実の力を秘めた美しい紫の宝石が、あんなの身体を透過するようにゆっくりと姿を現す。

 

だが、その美しい紫が暗く濁り、淀んだ毒々しい色彩に沈んでいく。真実の輝きが、一片また一片と剥がれ落ちるように消えていき、後に残ったのは——嘘で覆うための力。

 

『マガイジュエル』。

 

紛い物の宝石が、フェイクキュアウォッチの文字盤の下にある接続部に、吸い寄せられるようにセットされた。

 

瞬間——。禍々しい赤光が爆発するように膨れ上がり、あんなの全身を飲み込んだ。廊下の蛍光灯がばちばちと明滅し、窓の外の西日すらも赤い光に塗り潰される。

 

光の中で、あんなのシルエットが揺らいだ。

 

髪が伸び、広がり、二つに分かれて背中を流れ落ちていく。衣服の輪郭が溶け、別の形に再構成されていく。全身を覆う赤い光の奥で、あんなとは違う何かが——立ち上がろうとしていた。

 

 

---

 

 

「あんな、どこに行っちゃったんだろう……」

 

みくるは小走りでエントランスまで戻ってきた。多目的室の子ども達はどうにかなだめたものの、あんなが「すぐ戻る」と飛び出してから随分と時間が経っている。

 

エントランスに戻ると、受付カウンターの前にちょうど全員が集まっていた。

 

鉄蔵は壁に手をついて俯き、園田がその隣で腕を組んだまま険しい表情を浮かべている。友里は祖父の背中を心配そうに見つめ、何か声をかけようとしては口をつぐんでいた。梶原は受付カウンターの上に両手を置いて、途方に暮れたように小さく溜息をついている。三上は少し離れた壁際に立ち、持ち歩いていたアルミの脚立と工具の入った鞄を壁に立てかけながら、静かに一同の様子を見守っていた。

 

「みくるちゃん、そっちも見つからなかった?」

 

梶原が声をかけてきた。みくるは唇を噛んで首を振った。

 

「はい……多目的室側にも、それらしいものは——」

 

「ポチィッ!」

 

悲痛な叫び声が、廊下の奥から飛んできた。

 

小さなピンク色の塊が、宙を切るような勢いでエントランスに突っ込んでくる。涙に濡れた紫の瞳、必死にはためく小さな翼——ポチタンだった。

 

「えっ?」

 

なつみが振り向きかけた。園田が首をひねる。友里も三上も、鉄蔵も——飛んでくる謎の物体に目を向けそうになる。

 

みくるは反射的に動いた。

 

「わっ!」

 

飛び込むようにポチタンを両腕で受け止め、自分の体で覆い隠す。腹部に抱え込んで背を丸め、何でもない風を装って振り返った。

 

「あ、あはは……ちょっとつまずいちゃって……」

 

ぎこちない笑顔を振りまきながら、みくるは身体の陰でポチタンの顔を覗き込んだ。ポチタンは全身を震わせていた。小さな手がみくるの服を掴んで離さない。

 

「ポチタン、どうしたの……?」みくるが囁いた。「あんなは? あんなはどこに——」

 

答えは、ポチタンの口からではなく、廊下の奥から届いた。

 

コツ、コツ。

 

ヒールが床を叩く、硬質な足音。

 

規則正しく、けれどどこか挑発的なリズムで、その音は近づいてきた。

 

「……誰?」

 

梶原が廊下の方に目を向けた。園田も、友里も、三上も、鉄蔵も——全員の視線がそちらに集まる。

 

西日の差す廊下の奥から、一つの影が歩み出てきた。

 

暗い紫色のロングツインテール。毛先に向かって深紅のグラデーションが広がり、その先端は鋭い棘のように尖っている。蝙蝠の羽を思わせる構造のウェイストケープが、歩くたびにゆらりと揺れる。暗紫色のワンピースの腹部には黒い十字星のマーク。紫色のヒール、オープンフィンガーグローブから覗く紫に彩られた爪。左目を囲う鳥の羽のような黒い仮面の奥で、濁った深紅の瞳がエントランスの一同を見渡した。

 

 

【挿絵表示】

 

 

口元に浮かんでいるのは、どこまでも明るい——けれど、どこか嘲るような笑み。

 

一同が息を呑んだ。見た事もない少女だった。児童館にはおよそ似つかわしくない、禍々しくも華やかな姿。

 

だが、誰よりも大きく目を見開いていたのは、みくるだった。

 

——あの顔立ち。髪型や衣装。

 

色が違う。髪も、瞳も、纏う空気も、何もかもが違う。でも——その奥にあるものを、みくるは知っている。毎日一緒にいたから。誰よりも近くで見てきたから。

 

「あなたは……?」

 

梶原が戸惑いの声を上げた。

 

「わたしはキュアライアンサー」

 

その少女は、にっこりと微笑んだ。

 

明るく、率直で、どこか歌うような声。あんなと同じ響きを持ちながら、その底に薄い刃を忍ばせたような——。

 

「キュアライアンサー……?」

 

みくるの声が掠れた。腕の中のポチタンが、ライアンサーの姿を見て身を竦ませ、みくるの胸に顔を押しつけた。

 

「あんな、なの……?」

 

ライアンサーはみくるの方をちらりと見て、ふふ、と笑った。それだけだった。その問いに答える気はないらしい。

 

「わたしが誰かなんてどうでもいいじゃないですか」

 

ライアンサーはエントランスの中央に進み出た。集まった人々の顔を一人ずつ舐めるように見渡す。梶原、園田、友里、三上、そして鉄蔵。全員の視線がこの異質な来訪者に釘付けになっていた。

 

「それより——」

 

ライアンサーは胸の前で両手を合わせ、花が開くように広げた。その顔に浮かぶのは、太陽のように明るい笑顔。

 

「みんなが求める真相を、持ってきましたよ」

 

空気が変わった。「真相」という言葉に、全員の意識がライアンサーに引き寄せられる。

 

ライアンサーがゆっくりと一歩、また一歩と歩みを進める。ヒールの音がエントランスに響く。その視線が——鉄蔵の上で、止まった。

 

「この事件、紙芝居舞台消失事件の犯人は——」

 

細い人差し指が、まっすぐに鉄蔵を指した。

 

「鉄蔵おじいちゃん。あなた自身です」

 

「なっ——!」園田が声を上げた。

 

「おじいちゃんが……?」友里が目を見開く。

 

鉄蔵は指された指先を見つめ、それからライアンサーの顔を見上げた。

 

「何を馬鹿な事を……わしが自分の紙芝居舞台を隠すわけが——」

 

「そうかな?」

 

ライアンサーは首を傾げた。あどけなさすら感じさせるその仕草は、普段のあんなの仕草とそっくりだった。だが、瞳の奥に宿る光は、あんなとは全く違う。

 

「鉄蔵おじいちゃんは引退を宣言したけど、本心ではやめたくなかったんだよね。でもそれを言い出せなくて——だから紙芝居舞台を隠して、最後の読み聞かせ会を有耶無耶にしようとした」

 

ライアンサーは一つ一つの言葉を、関係者達全員に聞かせるようにゆっくりと、明瞭に語った。

 

「本当は続けたかった。でも一度やめると言った手前、撤回するのは恥ずかしい。だから——紙芝居舞台がなくなっちゃったんだから仕方ないよね、って。そういう事でしょ?」

 

「そうだったのか、鉄蔵……?」園田が友の顔を覗き込んだ。

 

「鉄蔵さん、本当に……?」梶原も問いかける。

 

鉄蔵は首を振ろうとした。「そんな馬鹿な事は——」

 

だが、その言葉は最後まで続かなかった。

 

ライアンサーが、すっと身体を前に乗り出した。鉄蔵の顔のすぐ近くまで——老人の目と、仮面越しの深紅の瞳が、至近距離で交わる。

 

「でも、鉄蔵おじいちゃんも本当はやめたくないんだよね?」

 

甘く、柔らかく、親身に——だが、その言葉は針のように的確に、鉄蔵の心の一番柔らかい場所を突いた。

 

「そ、それは……」

 

鉄蔵の目が揺れた。その一瞬の揺らぎを、ライアンサーは見逃さなかった。

 

いつの間にか、その手に一冊の本が収まっている。黒い表紙に、怪盗団を思わせるマスクのマークが浮かぶ——ファントムブック。ライアンサーはペンを抜き、流れるような手つきで文字を走らせた。

 

『鉄蔵は読み聞かせ会が最後になるのが嫌で自ら紙芝居舞台を隠した』

 

最後にペンを回転させ、花丸マークを描く——ただし、普段とは逆回りに。逆向きの螺旋に花びらの模様が描かれると、逆花丸マークが赤く発光する。

 

瞬間、周囲の人々の目が一斉に赤く光った。

 

赤い閃光はほんの一瞬で消え、誰もそれに気づいた様子はない。だが——表情が変わっていた。

 

「そう……そうだったのね」梶原が深く頷いた。当然の事実を受け入れるように。

 

「なんだ鉄蔵、そうならそうと言えばいいのに」園田の声からは、疑念の色が消えていた。

 

友里もまた「おじいちゃん……」と安堵とも感動ともつかない目で鉄蔵を見つめている。

 

鉄蔵自身の目にも、赤い光が一瞬だけ走っていた。皺だらけの手が宙をさまよい、頭に触れる。

 

「わしが……自分で……?」

 

記憶にないはずの行為を——自分がやった事だと、受け入れかけている。嘘が真実の手触りを帯びて、老人の中に染み込んでいく。

 

「これではなまるに解決だね」

 

ライアンサーはファントムブックを閉じ、満面の笑みを浮かべた。

 

「ちょっと待って!」

 

みくるが声を上げた。ポチタンを胸に抱いたまま、一歩前に出る。

 

「そんな証拠はどこにも——」

 

ライアンサーが振り返った。

 

ライアンサーの瞳が、みくるを正面から捉える。その目に浮かんでいるのは——悲しみだった。眉が下がり、唇がわずかに震え、まるで傷つけられた子どものような表情。

 

「ねぇみくる」

 

静かな声だった。あんなの声で、あんなの口調で、けれどあんなとは違う温度で。

 

「わたし達友達だよね?」

 

「……え?」

 

「みくるは、友達のわたしの言う事、信じてくれないの……?」

 

その声に込められた悲しみは、本物のように聞こえた。友達に疑われる事がどれほど辛いか——あんなならきっとそう感じるだろうという、みくるが想像するまさにその表情と声色だった。

 

みくるの胸の奥で、何かが軋んだ。あんなの顔をした相手に、あんなの声で「信じてくれないの」と言われる。その言葉が論理ではなく感情を直接揺さぶってくる。

 

「そ、それは……」

 

反論の言葉が、喉の奥で凍りついた。

 

ライアンサーの瞳が、悲しげに潤んでいる。しかし、その奥——仮面の陰に隠れた目の、更にその奥。心の中でライアンサーはほくそ笑んでいた。

 

ファントムブックには既に、別の一文が記されている。

 

『小林みくるはキュアライアンサーの言葉を疑えない』

 

逆回りの花丸マークと共に。

 

「で、紙芝居舞台はどこに隠したんだ?」

 

園田が鉄蔵に向き直った。心配と安堵が入り混じった声。友里も「おじいちゃん、教えて?」と促す。

 

鉄蔵は額に手を当てていた。

 

「それは……それが……」

 

記憶を必死に辿っている。だが当然、見つかるはずがない。やっていないのだから。嘘の真実に上書きされた鉄蔵の中で、「やったはずだ」という意識と「覚えがない」という事実が矛盾を起こし、混乱が深まっていく。

 

「あ、あれ……わしは確かに……いや、どこに仕舞ったのか……」

 

困惑する鉄蔵に向けて、ライアンサーが軽やかに手を振った。

 

「そんなのもうどうでもいいじゃないですか」

 

あっさりと——あまりにもあっさりと、ライアンサーはその問題を切り捨てた。

 

「鉄蔵おじいちゃんはこれからも読み聞かせを続けるんです。だったら過去の思い出は忘れて、新しい紙芝居舞台を買って新鮮な気持ちで読み聞かせを始めましょう? その方がよっぽどはなまるだよ」

 

信じられない提案だった。亡き妻が飾りつけた、たった一つの紙芝居舞台。それを「もうどうでもいい」と。「新しいのを買えばいい」と。

 

だが——嘘の力に飲まれた人々の目には、それが自然な提案に映っていた。

 

「そうね……鉄蔵さんが続けてくれるなら、それが一番……」梶原がゆっくりと頷く。

 

「新品も悪くないかもな」園田が腕を組み直した。

 

友里も「うん……おじいちゃんが続けてくれるなら……」と呟いている。

 

鉄蔵でさえ、嘘の力に包まれた虚ろな表情で、「そう……かもしれんな……」と頷きかけていた。

 

みくるは唇を噛み締めていた。おかしい。明らかにおかしい。亡き妻の手作りの紙芝居舞台を——あれほど大切にしていた品を——「新しいのを買えばいい」で済ませるなんて、正気の判断ではない。反論しなければ。声を上げなければ。

 

口を開いた。言葉を探した。

 

——出てこない。

 

喉の奥に何かが詰まったように、反論の言葉が形を成さない。「信じてくれないの」というライアンサーの声が、耳の奥でこだまする。ファントムブックに記された嘘が、鎖のようにみくるの舌を縛りつけていた。

 

みくるの腕の中で、ポチタンが小さく震えていた。

 

 

---

 

 

一同のやり取りを見守りながら、その人物は内心で困惑を隠せなかった。

 

——キュアライアンサー、だって……?

 

聞き覚えのない名前だった。名探偵プリキュアの片割れ、キュアアンサーに似ているが、あのコスチューム。あの仮面。左目を覆う黒い目出しのマスクと、右目の下の十字星——まるでファントムの一員のような姿。

 

——まさか。これは、ウソノワール様の力なのか?

 

さりげなく周囲の反応を窺う。皆がライアンサーの言葉を疑いもなく受け入れている。嘘で真実を塗りつぶす。それはウソノワールの持つ力と酷似している。

 

例の紙芝居舞台を盗み出そうとして、あの探偵達がやって来た時は焦った。このままでは紙芝居舞台を持ち出す事が出来ないと。

 

だが——こうなると話は変わる。

 

皆の意識は「鉄蔵が自分で隠した」という嘘の真相に向いている。紙芝居舞台はもうどうでもいいと。新しいものを買えばいいと。誰もあの舞台の行方を追おうとしなくなっている。

 

なら——このまま有耶無耶になれば、後は騒ぎが収まった隙に持ち出すだけだ。

 

——素晴らしいショーじゃないか。

 

口元に浮かびかけた笑みを、表情の裏に押し込めた。今はまだ、ここにいる「自分」の役を演じ続けなければならない。

 

 

---

 

 

嘘の解答が、エントランスの空気を満たしていた。

 

梶原は穏やかな笑みを浮かべ、園田は安堵したように腕の力を抜き、友里は祖父の傍らで静かに頷いている。鉄蔵自身も、覚えのない行為を自分のものとして受け入れかけ、虚ろな目で宙を見つめていた。三上は壁際で黙って立っている。

 

みくるも——流されかけていた。

 

腕の中のポチタンの温もりが遠くなり、ライアンサーの声が温かい毛布のように思考を包んでいく。紙芝居舞台はもういい。鉄蔵は続ける。皆が笑っている。これで——。

 

——これで……正しいのかも……。

 

その考えが、みくるの中に静かに染み渡ろうとした瞬間だった。

 

「ポチィッ!」

 

胸元から、悲痛な叫びが弾けた。

 

ポチタンのブローチが激しく光を放った。白い光がみくるを包み、瞼の裏に——映像が浮かぶ。

 

あんなの姿だった。

 

真っ直ぐにこちらを見つめる瞳。嘘を許さない、強い光を湛えた目。

 

『違う! 嘘をついて人の物を盗るなんて、許される事じゃない!』

 

あの声。怪盗団ファントムに立ち向かう時の、凛とした表情。

 

『わたし、嘘つかないから』

 

静かに、けれど揺るぎない決意を込めて——自分に、みくるに、そう宣言した時の顔。

 

光が瞬いて消えた。みくるの目に、児童館のエントランスが戻ってくる。目の前には、ライアンサーが笑みを浮かべて立っている。あんなの顔をして、あんなとは違う表情で。

 

——あんなは、こんな事を望まない。

 

ファントムブックの嘘が、みくるの心を覆う力が、一瞬だけ——ほんの一瞬だけ——弱まった。

 

「待ってください!」

 

声が、エントランスに響いた。

 

穏やかに納得しかけていた一同の動きが止まる。ライアンサーがゆっくりとみくるの方に向き直った。深紅の瞳が、わずかに細まる。

 

「はなまるな解答が出たのに、まだなにかあるの?」

 

軽い口調だった。友達の些細な心配事に付き合うような、余裕のある声。

 

みくるは拳を握った。指先が震えている。ファントムブックの記述、みくるの口を塞ごうとする嘘の力はまだみくるを縛っている。言葉を紡ぐたびに見えない抵抗が喉を締めつけてくる。それでも——声を出した。

 

「紙芝居舞台が見つかっていません。鉄蔵さんが自分で隠したというなら、どこにあるのか分かるはずです。でも鉄蔵さん自身が思い出せない。これは——真実じゃありません」

 

ライアンサーは小首を傾げた。

 

「紙芝居舞台を最後に確認したのは鉄蔵おじいちゃん。普段管理していたのも鉄蔵おじいちゃん。鉄蔵さんなら、紙芝居舞台を好きに出来る。好きに処分する事だって出来るよね。今の時点で紙芝居舞台が見つかっていないのは、処分したから見つからないだけかもしれないよ?」

 

みくるがたじろいだ。論理としては——反論が難しい。鉄蔵が管理していた以上、その可能性を完全に否定する根拠はない。ファントムブックの力がみくるの思考に影を落とし、反論の糸口を掴もうとする手が空を切る。

 

ライアンサーが一歩近づいた。

 

「どうして疑問に思うのかな。これがみんな幸せになれる解答なのに?」

 

優しい声だった。心からみくるを心配しているかのような声。

 

みくるは目を伏せた。論理で返せない。証拠もない。ファントムブックの力が思考を鈍らせ、「もういいんじゃないか」という囁きが頭の中で何度も繰り返される。

 

それでも。

 

「私が……そうは思えないから」

 

顔を上げた。

 

論理ではなかった。証拠に基づいた推理でもなかった。ただ——そうとしか言いようのない、みくるの中の何かが、それを口にさせた。

 

説得力がないはずの、たった一言。

 

なのにその声には不思議な力が宿っていた。静かだけれど芯があり、折れない意思が響いていた。

 

ライアンサーの笑顔が、ほんの一瞬だけ——固まった。

 

「はぁ?」

 

呆れたような、苛立ったような。それまでの柔らかな態度に、初めて棘が混じった。

 

みくるはポチタンを胸に抱き直し、真っ直ぐにライアンサーを見据えた。

 

「こんな真相、私は信じられない」

 

声が、強くなっていく。

 

「あんなだって——こんな嘘で皆を丸め込もうなんて解決法、望むわけない!」

 

ファントムブックの頁の中で、『小林みくるはキュアライアンサーの言葉を疑えない』という文字が——滲むように、ぼやけ始めていた。インクが水に溶けるように、一文字、また一文字と輪郭を失っていく。

 

「だから——納得しない!」

 

ライアンサーの瞳が、不快そうに歪んだ。

 

「なにそれ。勘に頼るなんて、みくるらしくないよ」

 

吐き捨てるように。あんなの声で、あんなが絶対に言わない冷たさで。

 

みくるはライアンサーから視線を外し、鉄蔵に向き直った。

 

「鉄蔵さん!」

 

老人の虚ろな目を、真正面から見つめる。

 

「大切な奥さんとの思い出の品が——消えたままでいいんですか!?」

 

その言葉が、鉄蔵の耳に届いた。

 

「でも、鉄蔵さん自身が隠したんだから……」梶原が困惑した声で言う。

 

「そうだぞ鉄蔵、お前が自分で——」園田も嘘の力に呑まれたまま続ける。

 

だが——鉄蔵の瞳が、揺れていた。

 

虚ろだった目に、微かな光が灯る。嘘で塗り固められた「自分がやった」という偽りの記憶の奥から、本物の記憶が顔を覗かせていた。

 

——女房が、一つ一つ木片を嵌め込んで。

 

——小さな手で、器用に。

 

——「お父さんの紙芝居、もっと素敵にしなくちゃね」と笑って。

 

あの紙芝居舞台は、妻と共に作り上げたものだ。子ども達の前に立つたび、妻が隣にいるような気持ちにさせてくれた。何十年もの間、一度だって手放そうと思った事はない。

 

鉄蔵の手が、震えた。

 

ファントムブックの中で、『鉄蔵は読み聞かせ会が最後になるのが嫌で自ら紙芝居舞台を隠した』という文字列が微かに揺らいだ。

 

「余計な事は考えないで」

 

ライアンサーが素早く鉄蔵の前に立った。柔らかく、けれど有無を言わせぬ声で。

 

「この解答がみんな幸せになれる一番のはなまるなんだよ」

 

ライアンサーが鉄蔵を真っ直ぐに捉え、ファントムブックの力が再び老人を包み込んでいく。揺らぎかけていた鉄蔵の目が——再び、虚ろに沈んだ。

 

「……そう、だな……わしが……」

 

みくるは奥歯を噛み締めた。

 

一瞬だった。あと少しで鉄蔵の心に届きかけたのに、ライアンサーが即座に塗り直してしまった。このまま言葉だけで嘘を崩そうとしても、同じ事の繰り返しだ。ライアンサーの力が場を支配し続ける限り、論理も感情も塗り潰される。

 

——どうすれば。

 

焦りが胸を焼いた。みくるは考える。思考を回す。論理で覆せない。感情で訴えても塗り直される。ならば——この状況を根本から覆すには何が必要か。

 

紙芝居舞台を見つける事だ。

 

紙芝居舞台が実際に見つかれば、「鉄蔵が処分した」という嘘の前提が崩れる。物証は嘘で塗り替えられない。

 

——でも、保管庫側はもう全部探した。見つからなかった。あんなと二人で、一部屋ずつ——。

 

思考が巡る中で、みくるの目が——ふと、壁際に止まった。

 

アルミの脚立。隣に置かれた工具の入った鞄。三上が壁に立てかけていたものだ。

 

脚立。

 

最初にあんなと一緒にこの廊下を歩いた時。少し離れた部屋のドアが開いて、作業着姿の三上が脚立を抱えて出てきた。あの時、みくるは何気なくその部屋に視線を送っていた。

 

あの部屋。あんなと二人で捜索した時の記憶が蘇る。

 

二つの記憶が、重なった。

 

「皆さん!」

 

みくるの声が、エントランスに響いた。迷いのない、凛とした声だった。

 

振り返る一同——梶原、園田、友里、鉄蔵、三上。そしてライアンサー。

 

みくるは全員の顔を見渡し、力強く宣言した。

 

「一緒に来てください!」

 

 

---

 

 

みくるが皆を連れてきたのは、保管庫側の廊下の途中にある一室だった。

 

「ここは?」梶原が首を傾げた。

 

「最初にわたし達が児童館に来た時、三上さんがこの部屋から脚立を抱えて出てきたんです」

 

みくるはドアを開け、一同を中に招き入れた。小さな多目的スペースのような部屋で、折り畳みテーブルと椅子が数脚、壁際に棚がいくつか並んでいる。みくるは部屋の中をゆっくりと見回す。四方の壁を、一つ残らず。

 

エアコンが、ない。

 

「三上さん」みくるが振り返った。「あなたは空調設備の点検で来たと仰いましたよね。でも——この部屋には、空調設備が取り付けられていません」

 

沈黙が落ちた。

 

「脚立を抱えてこの部屋から出てきた時、あなたはここで何をしていたんですか?」

 

三上の表情が、ほんのわずかに強張った。それまで終始穏やかだった顔に、隠しきれない焦りの色がにじむ。

 

「あ——いや、それは……つい間違った部屋に入っちゃって」

 

三上は軽く頭を掻いた。「似たような部屋が多いもので、うっかり」

 

「えっ、三上さん、何度も来ているのに……?」

 

梶原が驚いた声を上げた。「この児童館の空調点検は定期的にお願いしてます。どの部屋にエアコンがあるか、三上さんなら分かっているはずじゃ……」

 

三上の唇が、かすかに引きつった。

 

みくるはもう三上を見ていなかった。視線は——上に向いていた。

 

天井。脚立を使わなければ届かない高さ。その天井の一角に、四角い蓋のようなものが嵌め込まれていた。天井点検口だ。

 

「梶原さん、あれは?」

 

「ああ、あれは天井裏に入るためのスペースよ。配管とか配線を通すための……ほとんど使っていないけど——」

 

梶原の言葉が途切れた。目が大きく見開かれる。

 

「まさか」

 

みくるは頷いた。

 

「園田さん!」

 

みくるの声に、園田はもう動いていた。廊下に立てかけてあった脚立を掴み、部屋に運び入れる。天井点検口の真下にがしゃんと脚立を立て、迷いなく登り始めた。年季の入った腕が天井の蓋を押し上げ、園田の上半身が天井裏の暗闇に消える。

 

数秒の沈黙。

 

「あった——あったぞ!」

 

園田の声が天井裏から響いた。

 

その声に、部屋にいた全員が息を呑んだ。園田が慎重に両手で抱え降ろしたそれは——木製の枠組みに、木の彫刻の繊細な装飾が施された、紙芝居舞台だった。

 

鉄蔵の目から虚ろな色が消えた。

 

嘘の力で霞んでいた瞳に、本来の光が戻る。老人は震える足で一歩踏み出し、園田の手から紙芝居舞台を受け取ると——そのまま、胸に抱き締めた。

 

「……あった……」

 

掠れた声だった。寄木細工の装飾を皺だらけの指がなぞる。妻の手が一つ一つ嵌め込んだ、木片の温もりを確かめるように。鉄蔵の目尻に光るものが浮かんだ。

 

その姿を見て、梶原が小さく唇を噛んだ。その目にも涙が滲んでいたが、それ以上に——何かを悟ったような表情が浮かんでいた。鉄蔵がどれほどこの紙芝居舞台を大切にしているか。「新しいのを買えばいい」などという解答が、どれほど的外れだったか。

 

友里も、園田も、黙ってその光景を見つめていた。

 

ライアンサーのファントムブックの中で、嘘の解答の文字列が水に浸されたように滲み、崩れ、消えていった。

 

みくるは三上に向き直る。

 

「紙芝居舞台は天井裏に隠されていました。脚立がなければ届かない場所です」

 

静かだが、揺るぎのない声。

 

「整備業者の方が、天井裏に紙芝居舞台を隠す理由がありません。つまり——あなたの正体は」

 

三上は——笑った。

 

焦りの色が消え、代わりに浮かんだのは不敵な笑み。作業着姿の平凡な中年男性の輪郭がぐにゃりと歪み、緑色の煙が渦を巻く。煙が晴れた時、そこに立っていたのは淡いエメラルドの波打った長髪に黒いスーツとマント、薔薇のついたシルクハットを被った男だった。左目の紫のマスク、右目の下の黒い十字星。

 

「やってくれたねベイビー」

 

ニジーは気取った仕草でシルクハットの鍔に指を添えたが、その声には隠しきれない苛立ちが混じっていた。

 

「もうちょっとで紙芝居舞台を手に入れられたのに。探偵ごっこも侮れないもんだ」

 

ニジーの指が一輪の薔薇を取り出した。深紅の花弁が薄暗い部屋の中でぬらりと光る。

 

「こうなったら力づくさ。嘘よ覆え! いでよ、ハンニン——」

 

薔薇を紙芝居舞台に向かって投げようと腕を振りかぶった瞬間。

 

「あれっ?」

 

ニジーが素っ頓狂な声を上げた。

 

鉄蔵の腕の中から——紙芝居舞台が忽然と消えていた。

 

「な……!?」鉄蔵が自分の空になった両腕を見つめる。「紙芝居舞台が……!」

 

「どこに消えた!?」園田が叫ぶ。

 

ニジーもまた目を見開いている。薔薇を投げる先が消えた。一体何が——。

 

ライアンサーが、わなわなと肩を震わせている。

 

手に持ったファントムブックが開かれている。そこに新たな文字列が記されていた。『紙芝居舞台は見つかっていない』と。逆回りの花丸マークと共に——。

 

「こんな解決認めない」

 

ライアンサーの声が震えていた。あの余裕のある笑顔は消え失せ、深紅の瞳が怒りと焦りに揺れている。

 

「わたしの真相の方がよっぽどはなまるな解答だよ!」

 

その叫びと同時に、世界が変わった。

 

部屋の壁が、床が、天井が——赤く染まっていく。色が剥がれ落ちるように現実の景色が消え、赤黒い靄に覆われた異質な空間が姿を現す。ニジーも、鉄蔵も、園田も、友里も、梶原も——人々の姿が靄に溶けるように消えていった。

 

残されたのは、みくると、腕の中のポチタンと——目の前に立つキュアライアンサーだけだった。

 

「これは……ハンニンダーの密室空間!?」

 

みくるが周囲を見回した。赤黒い靄が渦巻く閉ざされた異空間。ハンニンダーが戦闘時に作り出すものと同じ——いや、ハンニンダーはいない。ライアンサーが、自らの力で密室空間を生成していた。

 

「みんなが幸せになれる解答をわたしが作ってあげたのに!」

 

ライアンサーが叫んだ。ファントムブックを胸に抱き、表情を振るわせている。

 

「みくるが余計な事をするから……!」

 

声が裏返った。先ほどまでの巧みな話術も、人の心の隙に滑り込む狡猾さも、今は崩れ去っていた。その奥から剥き出しになったのは——追い詰められた怒りだった。

 

「誰も真実なんて求めてないの! みくるは自分の推理を見せびらかしたいだけでしょ? みんなのためじゃない、自分のためにやってるんだ!」

 

その言葉が、赤い空間に反響した。

 

みくるは一瞬だけ、息を呑んだ。あんなの声で投げつけられた言葉は鋭く、みくるの胸を抉るように刺さった。だが——みくるは目を逸らさなかった。

 

「嘘で騙った偽りの真相を作っても、そんなの上手く行く訳ない!」

 

みくるの声は、震えながらも折れなかった。

 

「いつものあんなだったら——真相を追求した上で、みんなに寄り添えるはなまるな解答を目指したはず。嘘で真実を覆い隠すんじゃなくて、本当の事と向き合って、その上でみんなが笑顔になれる道を探す——それがあんなのやり方でしょ!」

 

「はなまるな……解答……」

 

ライアンサーの口から、呟きが漏れた。

 

深紅の瞳が一瞬だけ揺らいだ。ほんの刹那、その奥にあんなの——本来のあんなの目の色が、影のように明滅した。

 

同時に、ライアンサーの腰のポーチから、フェイクキュアウォッチがひとりでに浮かび上がった。

 

「えっ——」

 

ライアンサーが驚愕の声を上げた。フェイクキュアウォッチの漆黒のボディが震え、反転した文字盤が赤い光を放つ。そこにセットされたマガイジュエル——毒々しく淀んだ色の宝石に……

 

ピシッ。

 

亀裂が走った。

 

小さな、しかし確かなひび。嘘の力を宿す紛い物の宝石に、真実の光が差し込むように、細い線が一筋刻まれた。

 

その瞬間——みくるの胸元で、ペンダントの懐中時計が光を放った。

 

みくるの脳裏にあんなの顔が浮かんだ。嘘に染まった紛い物の笑顔ではなく、あの快活な笑顔。「はなまる!」と無邪気に叫ぶ声。一緒に事件を解決してきた日々。手を取り合って変身した時の、あの繋がりの感覚——。

 

「繋がった……あんなの本当の心!」

 

みくるの目が見開かれた。あんなはまだそこにいる。嘘で包まれた姿の奥で、本当のあんなが——みくるに応えてくれた。

 

みくるは懐中時計を掴み、高く掲げた。

 

「オープン!」

 

白い懐中時計が光に包まれ、形を変えていく。

 

「ジュエルキュアウォッチ!」

 

みくるの胸から、紫色に輝くマコトジュエルが浮かび上がった。小さな宝石をジュエルキュアウォッチにセットする。

 

「プリキュア、メイクアップタイム!」

 

光が弾けた。みくるの全身を虹色の輝きが包み込む。

 

「サン!」

 

長針を3の位置に動かす。髪が伸び、ピンク色に染まり、三つ編みのツインテールに編み上がっていく。

 

「ロク!」

 

長針を6の位置に。ピンクのワンピースが身体を包む。

 

「キュー!」

 

長針を9の位置に。白いオーバーニーソックスと薄ピンクのパンプスが現れ、フィンガーレスグローブが両手を覆う。

 

長針を一回転。光の奔流の中で、リボンの髪飾り、ケープ、ブローチが次々と出現し、変身が完成していく。

 

光が晴れた。

 

赤黒い密室空間の中に、ピンクの光を纏った姿が立っている。両手で段を積み重ねるジェスチャーと、親指と人差し指の間に顎に乗せるポーズの後、その名を宣言する。

 

「重ねた推理で笑顔にジャンプ! 名探偵、キュアミスティック!」

 

ケープが翻る。ミスティックはライアンサーを真っ直ぐに見据え、宣言した。

 

「私の答え、見せてあげます!」

 

 

---

 

 

赤い密室空間の中に再現された偽りの児童館。その壁を突き破って、ピンクの影が宙に弾き出された。ミスティックは空中で一回転し、足裏で地面を滑りながら着地する。ケープとスカートが激しくはためき、両足で踏みしめた床面にひび割れが走った。

 

「……っ!」

 

ミスティックは顔を上げた。壁に空いた大穴の向こうに、ライアンサーが佇んでいる。蝙蝠の羽を模したケープの裾をゆらりと揺らし、こちらを見据えている。

 

——あんなと、戦わなきゃいけないなんて。

 

胸の奥が軋む。あの姿の下にいるのは、毎日一緒に過ごしてきた親友だ。肩を並べて事件に挑み、手を取り合って変身してきた、かけがえのない友達。

 

でも——だからこそ。

 

ミスティックは拳を握った。あんなを助けるために。嘘の殻を打ち砕いて、本当のあんなを取り戻すために。

 

「たあぁぁっ!」

 

地面を蹴り、ミスティックはライアンサーに向かって一直線に駆けた。渾身の力を込めた右拳を、ライアンサーの顔面めがけて突き出す。

 

——しかし。

 

拳が、完全に空を切った。

 

「えっ——!?」

 

ライアンサーはそこにいる。一歩も動いていない。なのに、拳がその身体に届かなかった。まるで見えない壁に弾かれたように、腕の軌道がライアンサーの輪郭を避けるように逸れたのだ。

 

着地点で足元がよろめく。ミスティックは体勢を立て直しながら即座に身体を回転させ、回し蹴りを放った。

 

かすりもしない。

 

足がライアンサーの身体のすぐ横を通過し、空気だけを裂く。ミスティックの三つ編みが遠心力で広がり、着地した靴底がきゅっと床を鳴らした。

 

距離を取る。二歩、三歩と後退して呼吸を整える。

 

ライアンサーは微動だにしていなかった。愉快そうに——本当に楽しそうに、深紅の瞳を細めている。

 

「ミスティックは優しいなあ」

 

あんなの声で、あんなの口調で。けれどその底に嘲りを忍ばせた声で。

 

「やっぱり友達の事を攻撃なんて出来ないんだね」

 

——違う。

 

ミスティックは奥歯を噛んだ。

 

躊躇がなかったと言えば嘘になる。あんなの顔に拳を向ける時、一瞬だけ心が震えたのは確かだ。だが——さっきの攻撃は確実にライアンサーを捉えていた。狙いは正確だった。なのに、拳も蹴りも、ライアンサーの身体に到達する直前で軌道が曲がった。まるで磁石の同じ極が反発するように、攻撃そのものが相手の輪郭を避けるように逸れた。

 

——まさか。

 

視線が、ライアンサーの手元に走った。黒い表紙のノート——ファントムブック。そしてペン。先ほどもあの本に何かを書き込んだ途端、皆の目が赤く光り、嘘を信じ始めた。

 

ライアンサーのファントムブックには、既に新しい”解答”が記されていた。

 

『キュアミスティックはキュアライアンサーに攻撃できない』

 

逆回りの花丸マークと共に。

 

ファントムブックが閉じられ、ライアンサーの手の中で消えた。代わりに腰のポーチからフェイクキュアウォッチが取り出される。

 

漆黒のボディ、鏡写しに反転した文字盤。ライアンサーの指が長針を掴み、ぐるりと一回転させた——反転した文字盤上を、反時計回りに。

 

「ライアンサーアタック!」

 

フェイクキュアウォッチから禍々しいオーラが噴き出し、ライアンサーの右腕に凝縮していく。暗紫色の光を纏った拳が、地を蹴る勢いと共にミスティックに迫った。

 

ミスティックは反射的にジュエルキュアウォッチを構え、長針を時計回りに一回転させた。宙に四角い軌跡を描くと、赤い宝石型の結界が眼前に展開される。

 

「ミスティックリフレクション!」

 

拳と障壁が激突した。

 

接触点から白い閃光が爆ぜ、衝撃波が同心円状に広がって偽りの児童館の床を割り、壁を震わせた。二人の身体が同時に吹き飛ばされ、それぞれ反対方向に弾かれて着地する。

 

ミスティックは膝をついて滑り、壁際で止まった。顔を上げると、向こう側でライアンサーも着地を決めている。互角——いや、攻撃が封じられている以上、防御でしか対抗できないミスティックが不利だ。

 

そしてライアンサーは、それを分かっている。ライアンサーの手元に再びファントムブックが現れた。

 

「さすがだね、ミスティック。じゃあ次は——」

 

ペンを走らせ、逆回りの花丸を描き——

 

「『キュアミスティックはミスティックリフレクションを使えない』っと」

 

そして、にっこりと笑った。

 

「あはっ、はなまるでしょ?」

 

「そんな……」

 

ミスティックは愕然とした。攻撃は封じられた。そして今、防御手段も。理屈で考えれば——勝ち目は、ない。

 

足が後ずさりしかけた。紫の瞳が揺れ、思考が冷えていく。どうすれば。何をすれば。論理を回しても、答えが見つからない。

 

その時——。

 

『————』

 

不意に。あんなの声が、聞こえた気がした。

 

耳ではなく、もっと深い場所で。胸の奥で、穏やかで、しかし力強い声が。

 

ミスティックの後退が、止まった。

 

「……そうだ」

 

呟いて——飛んだ。

 

思考を振り切るように地面を蹴り、ライアンサーに向かって真っ直ぐに跳躍した。

 

「無駄だよ」

 

ライアンサーは余裕の笑みで立っている。一歩も動かない。ファントムブックの力がある限り、ミスティックの攻撃は絶対に当たらない。

 

拳。逸れる。

 

蹴り。逸れる。

 

肘打ち。逸れる。

 

回し蹴り。逸れる。

 

ミスティックがどれだけ攻撃を繰り出しても、その全てがライアンサーの輪郭を避けていく。ライアンサーは微動だにせず、ミスティックの必死の連撃を涼しい顔で眺めている。

 

「もう、無駄な事をして——」

 

笑いかけたその時。

 

ミスティックの右拳が、ライアンサーの頬をかすめた。

 

「——っ!?」

 

ライアンサーの目が見開かれた。その瞳に、初めて——明確な動揺が走る。かすった程度だ。ダメージはない。だが、ファントムブックの力で「攻撃できない」はずの拳が、確かに頬の皮膚を掠めた。

 

ミスティック自身も驚いていた。今の感触——拳が逸れなかった。ライアンサーの輪郭を避けようとする力が、一瞬だけ弱まった。

 

ライアンサーは慌ててファントムブックを開いた。

 

『キュアミスティックはキュアライアンサーに攻撃できない』

 

その文字列が、揺らいでいた。インクが水面のように波打ち、文字の輪郭がぶれている。

 

「ま、またわたしの解答が……」

 

ミスティックは間髪入れずに踏み込んだ。

 

右拳。さっきよりも近い。

 

左蹴り。ライアンサーの腕をかすめる。

 

連続の突き。一撃ごとに、ファントムブックの力が薄れていく。届かなかった攻撃が、少しずつ、確実に、ライアンサーの身体に迫っていく。

 

ライアンサーは後退した。初めて、自ら足を動かして距離を取った。余裕の笑みは消え、その瞳が激しく揺れている。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「ど、どういう事!? わたしのファントムブックの弱点を見つけたっていうの!?」

 

ミスティックは構えを解かないまま、静かに首を振った。

 

「違う」

 

一言。そして——。

 

「あんなが、後押ししてくれたんだよ」

 

ライアンサーの動きが止まった。

 

「『悩んでるだけじゃ始まらないよ。一歩踏み出せば、答えはついて来る!』」

 

みくるがあんなと初めて出会った時。初めて一緒に事件に挑んだ時。自信のないみくるの背中を、あんなが押してくれた言葉。

 

「私はあの時、これじゃ名探偵になんてなれないって、前に進めなかった。真相が分からなくて、自分なんかが探偵を名乗っていいのかって、足がすくんでいた」

 

ミスティックの瞳が真っ直ぐにライアンサーを見つめている。

 

「そんな私に後押ししてくれたのが、あんな。あんなの言葉で一歩前に踏み出せたから——今の私がいる」

 

ミスティックが一歩前に出た。ライアンサーが一歩後退る。

 

「だから、今もその言葉を信じて——前に進む」

 

ミスティックの紫色の瞳に、迷いはなかった。

 

「本当のあんなを、取り戻すために!」

 

ライアンサーは後退りながら、ファントムブックを握りしめた。その表情が恐怖と怒りで燃え上がる。

 

「う、うるさい——」

 

ペンがページの上を滑る。文字が刻まれる。逆回りの花丸が描かれる。

 

「うるさいうるさいうるさい!」

 

『キュアミスティックは動けない』

 

赤い光がミスティックの両足を縛る。

 

『キュアミスティックは喋れない』

 

赤い光がミスティックの喉を締めつける。

 

『キュアミスティックは抵抗できない』

 

赤い光がミスティックの全身を覆い、とてつもない重量が天から降りかかったかのように、ミスティックの身体を地面に押しつけた。

 

膝が折れ、両手が地面についた。立ち上がろうとしても、指一本持ち上がらない。声を出そうとしても、喉から音が出ない。まるで身体の全てが自分のものではなくなったかのように、一切の抵抗を許さない力がミスティックを拘束していた。

 

「これで……」

 

ライアンサーが荒い息をつきながら呟いた。ファントムブックを胸に抱き、ミスティックを見下ろす。

 

だが——その表情は勝利者のものではなかった。安堵でもなかった。瞳の奥に、怯えにも似た光が揺れている。

 

手の中のファントムブックが——震え始めた。

 

今しがた書き殴った文字列が、一行、また一行と激しくぶれ始める。滲むのでもない。揺らぐのでもない。まるで外側から何かの力がページを叩いているかのように、文字そのものが跳ね上がっている。

 

「な、なに……?」

 

ライアンサーが困惑の声を上げた。ファントムブックを両手で押さえつけるが、震動は収まらない。

 

 

---

 

 

密室空間の外。

 

児童館のエントランスには、茫然とした顔の人々が立ち尽くしていた。

 

紙芝居舞台が消え、二人の少女が赤い光と共に姿が見えなくなった。あの変装の男もいつの間にか姿を消している。何が起きたのか、誰にも分からなかった。

 

静まり返ったエントランスで、最初に口を開いたのは梶原だった。

 

「……私は、間違っていました」

 

皆が梶原を見た。

 

「心のどこかで……紙芝居舞台が見つからない事を、期待していたかもしれない」

 

梶原の声は小さかったが、震えてはいなかった。自分の中の本音を、一つずつ掘り起こすように言葉を選んでいる。

 

「見つからなければ、最後の読み聞かせ会は出来ない。出来なければ——鉄蔵さんがやめないでくれるんじゃないかって。そう思っていた自分が、いたんだと思います」

 

園田が腕を解いた。視線を落とし、自分の手を見つめる。

 

「……俺もだ。ちゃんと探したつもりだったが……本気で見つけようとしてたかと聞かれたら、正直なところ自信がない」

 

友里が俯いた。

 

「私も……」

 

三人の告白が、エントランスの空気を変えていた。

 

「でも」

 

梶原が続けた。その目に、先ほどまでとは違う光が宿っている。

 

「鉄蔵さんが紙芝居舞台を見つけた時の——あの顔を見て、思ったんです」

 

鉄蔵が紙芝居舞台を胸に抱き締めた、あの瞬間。妻の作った飾りを指でなぞり、涙を浮かべた、あの表情。

 

「見つからないまま有耶無耶にするなんて、駄目です。ちゃんと紙芝居舞台を見つけて——ちゃんと最後の読み聞かせ会を、終わらせないと」

 

梶原の声が、静かに力を帯びていく。鉄蔵への敬意と、自分自身の過ちへの率直な反省と、それでも前に進もうとする意志が、一つの言葉に凝縮されていた。

 

「でも、紙芝居舞台は……」園田が苦い声で言った。「また消えちまった。一体どうすりゃ……」

 

「大丈夫」

 

梶原がエントランスの奥——二人が消えた場所を見つめた。

 

「あの探偵さん達が……きっと……」

 

 

---

 

 

密室空間の中。

 

ファントムブックが激しく震動し、ライアンサーが押さえつける手ごと揺さぶられていた。

 

書き殴られた嘘の記述が一つ、また一つと弾け飛んでいく。文字が紙面から浮き上がり、火花のように散って消える。

 

そして——偽りの解答を切り裂くように、ファントムブックのページに、新たな文字が浮かび上がった。

 

ライアンサー自身が書いたのではない。ペンが触れたのでもない。ファントムブック自体の紙面に、内側から染み出すように——光る文字が刻まれていく。

 

地面に押しつけられたミスティックの脳裏にも、その言葉が同時に響いた。

 

 

『依頼人は事件の解決を望んでいる』

 

 

——梶原さん。

 

ミスティックには分かった。嘘の力に一度は呑まれた依頼人が、自らの意思で真実を求め直した。その想いが、真実を抑えつけようとする嘘の力を内側から打ち砕いたのだと。

 

嘘の記述が全て消え失せた。ミスティックの全身を縛りつけていた赤い光が——霧散した。

 

指が動く。声が出る。身体が、自分のものに戻る。ミスティックは立ち上がった。

 

チャンスは——今しかない。

 

「オープン! プリキットミラールーペ!」

 

取り出したハート形の手鏡が、光を纏って本来の大きさに変化した。ミスティックがそれを構え、声を張る。

 

「ポチタン!」

 

ミスティックの後ろから飛び出したポチタンが「ポチィ!」と叫んだ。胸のペンダントが眩い光を放ち、その中から金の本体に桃色のハートマークがあしらわれたマコトジュエルが浮かび上がる。

 

「マコトジュエル!」

 

宝石がミラールーペの中央にセットされた。ミスティックの指が宝石状の中央部を回転させていく。加速するたびに光が強くなり、ミラーの表面にミスティック自身の顔が映し出された。紫の瞳に、揺るぎない決意の光。

 

「キュアミスティックが解決!」

 

叫んだ瞬間、ミラールーペが姿を変えた。鏡面の縁から細長い光の刃が伸び、握りの周囲にはエネルギーで編まれたアームガードがミスティックの前腕を覆う。優美にして鋭利、一振りのレイピアが、その手の中に完成していた。

 

「プリキュア! ミスティックストライク!」

 

ミスティックの脚が地面を蹴った。跳躍。ライアンサーの頭上まで舞い上がった身体が、頂点で反転する。レイピアの切っ先がライアンサーを捉えた。

 

急降下するミスティックが一条の赤い光となり、ライアンサーを包む嘘のヴェールを突き破る。あんなという真実を覆う偽りの膜が、その一突きによって切り裂かれた。

 

赤い光がミスティックの姿に戻りライアンサーの背後に着地。突き抜けたエネルギーの余波がハートの輪郭を作り出し、ミスティックが刃を振るって降ろす。

 

その瞬間、ライアンサーの内側からエネルギーが溢れ出した。亀裂から零れる光のように、暗紫色の衣装から白い輝きが噴き出していく。

 

「キュアっと解決!」

 

「ああ、あああああっ——!」

 

ミスティックの声が響いた後、ライアンサーが叫んだ。内側から溢れる浄化の光がその全身を包み、暗紫色の衣装が光の粒子に分解されていく。暗い紫色に染まっていた髪が色を失い、濁った瞳から赤が抜け落ちていく。マガイジュエルの淀みが消え、フェイクキュアウォッチが元の懐中時計に戻る。蝙蝠の羽のケープが、黒い仮面が、逆回りの花丸が描かれたファントムブックが——全てが光に溶けて散っていく。

 

キュアライアンサーという嘘の姿が消えていく。

 

その奥から——別の姿が浮かび上がった。

 

明るいオレンジがかった茶髪のお団子ヘア。制服姿の——明智あんな。

 

あんなの身体から力が抜けた。目を閉じたまま、前のめりに倒れていく。

 

ミスティックが駆けた。あんなの身体を両腕で抱き止める。

 

「あんな……!」

 

みくるの腕の中で、あんなの顔は穏やかだった。

 

 

---

 

 

赤黒い靄の残滓が漂う空間の中で、あんなの瞼がゆっくりと開いた。

 

ぼんやりとした視界に、心配そうに覗き込む二つの顔が映る。

 

「あんな! 気がついた!?」

 

「ポチィ……!」

 

ミスティックとポチタンの声が、遠くから近づいてくるように聞こえた。あんなは目を何度か瞬かせ、自分がみくるの腕の中にいる事を認識する。

 

「みくる……? ポチタン……?」

 

声が掠れていた。頭の中が靄がかかったように重い。記憶の断片が、順序を失ってばらばらに浮かんでは沈む。

 

「わたし……調査をしてて……友里さんの話を聞いて……それから……」

 

あんなの目が、ふいに大きく見開かれた。

 

「わたし、みんなに嘘を……」

 

息が詰まる。断片的な映像が脳裏をよぎる。エントランスに立つ自分。手に持った黒い本。鉄蔵を指さして「犯人はあなたです」と言う自分の声。みくるに「信じてくれないの」と問いかける自分。「はなまるに解決だね」と笑う——。

 

「それで、それで……わたし……」

 

ライアンサーとして行動していた時の記憶は、夢の中の出来事のようにぼやけていた。はっきりとは思い出せない。だが、嘘で人々を操った事だけは、胸の奥に重く沈んでいる。

 

みくるがあんなを抱き締めた。変身が解けたみくるの腕が、あんなの背中をしっかりと包む。

 

「大丈夫。本当のあんなを隠してた嘘は、全部消えたよ」

 

静かだけれど、力強い声だった。あんなの耳元で、みくるが穏やかに言う。

 

「あんなは何も悪くない。あんなはあんなのままだから」

 

あんなの目に涙が浮かんだ。何か言おうとしたが、言葉にならなかった。ただ、みくるの肩口にぎゅっと顔を押しつけた。

 

「ほら」

 

みくるがそっとあんなの身体を離し、宙の一点を指さした。

 

残響のように漂っていた赤黒い靄が薄れていく中で——光の粒子が集まり始めていた。ファントムブックの「紙芝居舞台は見つかっていない」という記述が消えた事で、嘘の力で隠されていた紙芝居舞台が、再びこの世界に姿を現す。

 

木製の枠組み。寄木細工の繊細な装飾。光の中から浮かび上がったそれは、ゆっくりと床の上に降り立った。

 

「あれ、鉄蔵さんの!」

 

あんなが叫び、三人は紙芝居舞台に駆け寄った。あんなが木枠に触れた瞬間、寄木細工の装飾が虹色に輝き——紙芝居舞台の中心から、小さな宝石が浮かび上がった。

 

マコトジュエル。真実の力を秘めた、紫色に輝く宝石。長年の想いと、人々の絆が凝縮された光。

 

「ポチポチキュアキュア〜」

 

ポチタンが胸のペンダントを差し出すと、マコトジュエルは吸い込まれるようにペンダントの中に収まった。柔らかな光が一瞬だけ弾け、ポチタンの身体を温かく包む。

 

密室空間の最後の残滓が消え去り、児童館の廊下が完全に元の姿を取り戻した。西日が三人を橙色に照らしている。

 

あんなとみくるは顔を見合わせ——笑った。

 

 

---

 

 

多目的室には、たくさんの人が集まっていた。

 

折り畳み椅子にはもう空席がない。子ども達が前の方に詰め合って座り、その後ろに保護者達が立ち見で並んでいる。梶原が入口で案内をし、園田が子ども達の間を回って椅子の位置を整えている。友里はステージ横で紙芝居の準備を手伝いながら、祖父の横顔を見守っていた。

 

あんなとみくるは、子ども達に混じって椅子に座っていた。ポチタンはあんなの膝の上で大人しくしている。

 

ステージの前に、紙芝居舞台が置かれていた。寄木細工の装飾が照明の光を受けて柔らかく輝き、長い年月を経てなお美しい木目の温もりを放っている。

 

鉄蔵がその前に立った。

 

「それでは——始めますよ」

 

老人の声が、静かに多目的室に響いた。子ども達がわっと歓声を上げ、それから期待に満ちた目でしんと静まる。

 

紙芝居の一枚目が引き抜かれた。

 

「むかしむかし、あるところに——」

 

鉄蔵の声が変わった。穏やかな老人の声が、物語の語り手の声に。場面が変われば勇ましい侍の声になり、次の瞬間には泣き虫の子狐の声になる。喜怒哀楽の全てが、この老人の喉一つから生まれてくる。

 

子ども達の目が輝いた。身を乗り出す子、口を半開きにして聞き入る子、隣の友達の腕を掴んで「すごい!」と囁く子。物語が佳境に入ると、誰一人として身じろぎしなくなった。

 

あんなも、気づけば夢中になっていた。鉄蔵の声に引き込まれ、紙芝居の絵の中に入り込んだような感覚。物語の中のキャラクター達が本当に動いて、本当に喋っているように感じる。これが、何十年もかけて磨き上げた技術と、子ども達への愛情の結晶なのだと——理屈ではなく、肌で分かった。

 

「——おしまい」

 

鉄蔵が最後の一枚を引き抜き、穏やかな笑顔で一礼した。

 

一瞬の静寂。

 

そして——多目的室が割れるような拍手に包まれた。

 

子ども達が立ち上がって手を叩き、保護者達も惜しみない拍手を送る。園田が目頭を押さえながら手を叩き、梶原が涙を拭っている。友里はステージ横で両手を胸の前に合わせ、祖父の姿を見つめていた。

 

あんなも力いっぱい拍手していた。隣のみくるも、膝の上のポチタンも。

 

けれど——拍手をしながら、あんなの胸にちくりとした痛みが走った。

 

——でも、これで最後なんだよね。

 

笑顔の奥で、寂しさが滲む。こんなに素晴らしい読み聞かせが、今日で終わってしまう。子ども達の中にも、同じ事を感じている子がいた。さっきまで大はしゃぎだった男の子が、拍手をしながら唇を噛んでいる。小さな女の子が、隣のお母さんの手を握って「もうおしまい……?」と小さな声で聞いていた。

 

拍手が収まり、鉄蔵が皆の前に立った。

 

「今日は……こんなにたくさん集まってくださって、ありがとうございます」

 

老人の声は穏やかだったが、どこか緊張を含んでいた。

 

「最後の読み聞かせ会を——こんなに立派に準備してくれた、なつみさん。誠治。友里。皆さんに、心から感謝しています」

 

鉄蔵は一人一人の顔を見ながら頭を下げた。そして——少しだけ気恥ずかしそうに、顎を引いた。

 

「引退する、と決めました。……いや、そのつもりでした」

 

多目的室が静まった。子ども達も、保護者も、全員が鉄蔵の言葉を待っている。

 

鉄蔵の皺だらけの手が、紙芝居舞台の木枠にそっと触れた。妻の彫刻をなぞるように。

 

「でも……本当は、まだ続けたい気持ちがあるんです」

 

声が震えた。恥ずかしさと、正直に言えた安堵と、それでも言ってしまった後ろめたさが混じった、不器用な告白だった。

 

「皆さんが最後の会だと準備してくれたのに、こんな事を言うのは——」

 

「続けるべきだよ、おじいちゃん!」

 

鉄蔵の言葉を遮ったのは、友里だった。

 

椅子から立ち上がり、真っ直ぐに祖父を見つめている。その目には涙が浮かんでいたが、声は力強かった。

 

鉄蔵が目を丸くした。反対していたはずの孫娘が——「もう年なんだから無理しないで」と言っていたはずの友里が。

 

「前に私が言った事……間違ってた。おじいちゃんの読み聞かせがどれだけ大切なものか、ここに来て初めて分かったの。大変かもしれないけど——これからは私も手伝いに来るから!」

 

「おじいちゃん、やめないでー!」

 

子ども達から声が上がった。小さな手が次々と挙がり、「まだ聞きたい!」「次はいつ!?」「約束だよ!」と口々に叫ぶ。

 

保護者達も「ぜひ続けてください」「子ども達の楽しみを奪わないでやってくださいよ」と口元を綻ばせた。

 

「鉄蔵さん、無理のない範囲で全然いいんです」梶原が目を赤くしながら笑った。「児童館としても、これからもよろしくお願いしますね」

 

「お前が居なくなったら、この児童館は寂しくなっちまうよ」園田が鼻をすすりながら、ぶっきらぼうに言った。

 

鉄蔵は紙芝居舞台の前に立ったまま、皆の顔を見回していた。唇が震え、目尻に光るものが伝い落ちる。皺だらけの手で涙を拭い、何度か口を開いては閉じ——やがて、深く頭を下げた。

 

「……ありがとうございます」

 

掠れた声だった。

 

「この身体が続く限りは——これからも、読み聞かせを続けさせてください」

 

多目的室が、もう一度大きな拍手に包まれた。今度の拍手は、さっきよりもずっと温かかった。

 

 

---

 

 

拍手の中で、みくるがあんなの方を向いた。

 

「これで本当に、はなまるな解決だね」

 

その言葉はみくるの口から出たものだった。あんなは一瞬きょとんとして——それから、満面の笑みを浮かべた。

 

「うん、本当に良かった!」

 

あんなの声にはいつもの明るさが戻っていた。隣のみくるも柔らかく笑い、膝の上でポチタンが「ポチィ!」と嬉しそうに鳴いた。多目的室の温かな空気に包まれて、二人は並んで座っていた。

 

全ては、綺麗に解決したように見えた。

 

鉄蔵は続ける事を決めた。友里は祖父を支える事を選んだ。子ども達は笑い、大人達は安堵し、紙芝居舞台は元の場所に戻った。マコトジュエルも守り抜いた。はなまるな結末。

 

——けれど。

 

キュアライアンサー。

 

あんなは自分の手を見つめた。ライアンサーとしての記憶はぼんやりとしている。だが、その残像は確かにある。嘘の解答を語った自分の姿。自分の嘘を、人々が信じ、真実が……嘘で塗り潰されそうになった。

 

自分ではない自分への恐怖。もしみくるが助けてくれなかったら、一体どうなっていたんだろう。自分は。そしてこの児童館のみんなは。あんなの心に影が落ちる。

 

みくるの方も、心の底から笑えたわけではない。大切な親友であり、相棒であるあんなが敵となる恐ろしさ。今回は運よく解決できたが、もし真相を取り逃していたら……

 

西の空が茜色に染まり、建物から伸びる影が闇を作り始める。穏やかな午後の終わりに、振り払えない影が——ぽたりと、インクの一滴のように落ちて、染みを作っていた。

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