名解盗プリキュア!   作:おとともの

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第15話?「完璧な推理のワナ!キュアミステイク!」

夕暮れの残光が窓に細く差し込む、キュアット探偵事務所。

 

アーチ窓の向こうに広がる空は茜色から群青へと色を移しかけており、室内は天井の蛍光灯の光が照らす。キュアット探偵事務所の一階、ソファスペース。ピンク色のソファにあんなとみくるが並んで腰を下ろし、あんなはソファの上で膝を寄せ、ポチタンを胸に抱くようにして抱えていた。

 

「キュアライアンサーだって?」

 

奥のデスクから歩いてきたジェットが、白衣の裾を翻しながら聞き返した。口にしていた棒付きキャンディを抜き取り、目を細める。

 

「うん……」あんなが頷いた。視線を落としたまま、言葉を探すように、ぽつりぽつりと話し始める。「……誰かの声が聞こえたの。心の底から響くような……すごく深い声で。それを聞いたら、急に何も考えられなくなって」

 

声が掠れた。ポチタンの小さな身体をぎゅっと抱き寄せる。

 

「いつの間にか——嘘の事を、本当にしようとしている自分が居た」

 

ジェットは無言で聞いている。みくるもソファの隣で唇を結び、あんなの横顔を見つめていた。

 

「あの時のわたしは……」

 

あんなの体が、わなわなと震えた。ポチタンの温もりを抱きしめながら、なお止まらない。

 

「周りの人を……みくるを、嘘で騙して——」

 

声が詰まった。一度唇を噛んで、息を呑んでから、あんなは続けた。

 

「心の中で……嘲笑ってた。見下して、馬鹿にして……それが当然で、当たり前だって——そう想ってた」

 

言葉が震えている。ただ事実を述べているだけなのに、それを口にするたび自分自身の内側を抉っているようだった。あの記憶はぼんやりとしている。けれど、感触は残っている。嘘で人を操り、真実を塗り潰す快感。他人の信頼を利用する事への、あの底知れない愉悦。あれが自分の中から出てきたものだという事実が、何よりも恐ろしかった。

 

「あの時のわたしは、本気で——」

 

その言葉を遮るように、あんなの目の前にマグカップが差し出された。

 

白い湯気が立ち上っている。温かなミルクの甘い匂い。見上げると、ジェットが立っていた。もう一つのマグカップをみくるの方にも差し出している。

 

「帰ってきたばかりだろ。体を温めて、落ち着いて——何か考えるのはそれからにしろよ」

 

あんなはマグカップを受け取った。両手で包むと、じんわりと熱が掌に伝わってくる。一口含むと、甘いホットミルクの温もりが喉を滑り落ちて、胸の奥の冷たくこわばっていたものを、少しだけ溶かした。みくるも黙ってマグカップを受け取り、両手で口元に持っていく。湯気の向こうに覗く緑の瞳が、ほんの僅かだけ和らいだ。

 

「……ありがとう、ジェット先輩」

 

みくるが小さく礼を言うと、ジェットは「ん」と短く応えた。

 

 

---

 

 

温かいホットミルクが二人の緊張を少しずつ解きほぐし、あんなとみくるは事件の一部始終をジェットに語った。

 

児童館での紙芝居舞台の消失事件。捜査の中であんなに降りかかった異変——キュアライアンサーへの変身。嘘の力で現実を塗り替え、偽りの真相を「真実」として人々に信じ込ませた事。みくるがキュアミスティックに変身して戦い、あんなを取り戻したこと。

 

全てを聞き終えたジェットは、しばらく黙ってキャンディの棒を口の端で転がしていた。

 

「……ウソノワールの嘘の力って事か」

 

低い声で呟いた。

 

「プリキュアの変身を嘘の力で書き換えて、別の姿に変えてしまう……それも、あんなの心の隙を突いて」

 

分析の言葉は冷静だったが、その口調の奥には動揺がにじんでいた。

 

「……まさか、ウソノワールがそこまでの力を持っているなんて」

 

嘘で現実を一時的に上書きする能力は、プリキュアの二人と共にジェットも目撃している。しかしあの時は嘘のプリキュアを生み出すなどという芸当は見せていない。

 

ソファスペースの空気が、重く沈んだ。

 

みくるがマグカップの中のホットミルクの水面を見つめながら、ぽつりと呟いた。

 

「一体どうしたら……」

 

言葉の先は続かなかった。けれど、その呟きが意味するものは、ここにいる全員が分かっていた。

 

——もう一度、同じ事が起こったら。

 

誰もはっきりとは口にしない。けれど、その懸念は頭から排除する事ができなかった。今回はみくるが戦い、あんなを取り戻す事ができた。だが次も同じように出来るとは限らない。また同じような事が起こったら。そう考え始めると、暗い想像は際限なく広がっていく。

 

沈黙が、ソファスペースに降り積もっていった。

 

——と。

 

あんなの腕の中のポチタンが、もぞりと動いた。

 

小さなピンクの身体がふわりと浮かび上がり、あんなの顔の正面に来るように位置を変える。丸い瞳がまっすぐにあんなの目を覗き込む。

 

「あんな、だいじょぶ」

 

たどたどしい声だった。赤ちゃん言葉のたった一言。けれどその短い言葉に、ポチタンの全部が詰まっていた。小さな丸い手が、あんなの頬にちょこんと触れる。

 

あんなの震えていた身体が、止まった。

 

「ポチタン……」

 

あんなの声から、先ほどまでの強ばりが消えた。目の奥にじわりと温かいものが滲む。

 

「……励ましてくれるんだね」

 

ポチタンが「ポチィ!」と力強く鳴いた。小さな手をぐっと握って、精一杯の応援のつもりなのだろう。あんなはポチタンの気持ちを受け取って、胸の底に蟠っていた恐怖を、まるごとではないけれど、少しだけ脇に押しやった。

 

気持ちを、切り替える。

 

「ごめんねポチタン、心配させちゃって」

 

あんながポチタンをそっと抱き直し、丸い頭を指先で撫でた。ポチタンが目を細めて「ポチ~」と甘えた声で鳴く。

 

みくるがそのやり取りを見て、硬かった表情をほんの少し和らげた。ジェットも口元に微かな笑みを浮かべ、けれどすぐに、真剣な表情に戻った。

 

「……ウソノワールの嘘の力もそうだが」

 

ジェットがキャンディを咥え直し、考え込む。

 

「プリキュアの方も謎が多いんだよな。何せ伝説的な存在で、資料もほとんど残っていない。正直、僕にも分からない事だらけだ」

 

白衣のポケットに手を突っ込み、ジェットはため息混じりにぼやいた。

 

「調べて何か分かるといいんだけどな……」

 

その呟きは、誰に向けたものでもなかった。ジェットの瞳が、いつにない憂いを帯び、しかし同時に、答えを探す者特有の意志の光が、その奥に静かに灯っていた。

 

窓の外ではすっかり日が落ちて、夜の帳がまことみらい市を包み始めている。キュアット探偵事務所の灯りが、夜の闇に漏れ出していた。

 

 

---

 

 

怪盗団ファントムのアジト。

 

舞台ホールから外れた、一本の廊下。

 

磨き上げられた床は深い藍色を帯び、微かな光を受けて水面のように揺らめいて見える。両側には太い柱が等間隔に聳え立ち、その間の壁面には菱形のランタンが嵌め込まれている。ランタンの放つ紫色の灯火が、柱の輪郭を青白く縁取り、天井の高みへと淡い光を投げかけていた。

 

間接照明が作り出す仄かな青紫の明るさは空間を幻想的に染め上げるばかりで、前方も後方も薄闇に溶けて果てが見えない。アジトと外の空間を繋ぐ移動路——劇場の楽屋裏のような無機質さと、柱とランタンが延々と繰り返されるどこまでも同じ景色は、まるで無限の回廊のようだった。

 

その中を、一つの足音だけが規則正しく響いている。

 

森亜るるかが、マシュタンを腕に抱えて歩いていた。黒いケープの裾が歩調に合わせて静かに揺れる。紫の瞳は真っ直ぐ前を向いたまま、表情は読めない。

 

「まさか、嘘の力のプリキュアなんて、驚いたわ」

 

腕の中のマシュタンがるるかの顔を見上げながら口を開いた。

 

アジトの舞台——あの幕に映し出された映像で、一部始終は見ていた。明智あんなが嘘の力に呑まれ、キュアライアンサーへと変貌した事。偽りの真相で人々を操り、相棒であるはずのキュアミスティックと対峙した姿。

 

「でも変ね」

 

マシュタンが首を傾げた。

 

「ウソノワールの力はまだ不完全。長時間維持し続ける事は出来ないはず。現実を書き換えてもすぐに綻びが出る。そのはずよね?」

 

それは的確な指摘だった。ウソノワールの「真実改変」は強大な能力だが、現時点ではごく短い間しか効果が持続しない。だからこそマコトジュエルの力を求めている。

 

「それなのに、まさか、プリキュアの力を上書きするだなんて」

 

マシュタンの疑問が、無限の廊下に反響して消えていく。柱と柱の間を抜け、ランタンの紫光を一つ、また一つと通り過ぎていく。

 

るるかの足音が、一拍だけ遅れた。

 

「……それは」

 

ぽつりと、呟くように。

 

ランタンの光が、るるかの横顔を青紫に照らしては影に沈める。数歩分の沈黙。柱を二本通り過ぎて——るるかは、続きを口にした。

 

「……あの二人の存在が、"嘘"だから」

 

静かな声だった。感情の起伏はほとんどない。けれどその言葉の重さは、無限に続く廊下の空気を一瞬、冷たくした。

 

「えっ、どういうこと?」

 

マシュタンが身を起こし、るるかの顔を覗き込んだ。しかし、るるかは答えなかった。

 

マシュタンは答えを待った。五歩分、十歩分。ランタンの紫光がいくつも後ろに流れていく。やがてマシュタンは、るるかがこの問いに答えるつもりがない事を悟り、小さく「……ふうん」と唸って、るるかの腕の中に丸まり直した。

 

無限に続く廊下の中を、二つの影が歩いていく。その足音は、薄闇の向こうに静かに溶けて消えた。

 

 

---

 

 

正午の陽光がアーチ窓から差し込み、キュアット探偵事務所の一階を明るく照らしていた。磨かれたテーブルの上の地球儀が柔らかな光を受けて輝いている。壁一面に貼られたまことみらい市の地図や、その周囲にピン留めされた数々のメモ書きも、陽の光の下ではどこか朗らかに見えた。

 

事務デスクの前で、ジェットは分厚い革装丁の文献を広げていた。ボサボサの金髪の上に乗せたゴーグルが蛍光灯の光を弾く。傍らではポチタンがデスクの端にちょこんと座り、ジェットがページをめくるたびに瞳をきょろきょろと動かしている。

 

「……やっぱり、プリキュアに関する文献はほとんど残ってないな」

 

ジェットが独り言のように呟き、ペンでページの余白に何か書き込もうとしたその時だった。

 

ちりりん。

 

一階の玄関ドアに付けられた鈴が、澄んだ音を鳴らした。続いて廊下に繋がる部屋のドアが開き——

 

「ヤギメェ~ル」

 

間延びした、のどかな声が響いた。

 

廊下から姿を現したのは、郵便配達員の紺色の制服と帽子をきちんと身に着けた、丸っこい二足歩行のヤギだった。妖精間で特別な郵便物がある時に届けてくれる存在、ヤギメールだ。

 

「ヤギメールさん、こんにちは!」

 

ジェットが文献から顔を上げ、片手を軽く挙げた。ポチタンも「ポチィ!」と元気よく鳴いて挨拶する。

 

ヤギメールは短い脚でのそのそとデスクの前まで歩いてくると、肩から下げたバッグに手を突っ込み、蹄のような手で中を探った。

 

「こんにちは! ロンドンからお手紙です」

 

取り出された一通の封筒が、ジェットに差し出された。少し厚みのある上質な紙の封筒で、角がわずかに擦れているのは長い旅路の証だろう。

 

「ありがと」

 

ジェットが受け取ると、ヤギメールは「それでは」と帽子のつばに蹄を当て、くるりと身を翻して廊下へと戻っていった。ちりりん、と再び鈴の音が鳴り、玄関のドアが閉まる気配がする。

 

ジェットは封筒を手の中で裏返した。表面にはロンドンのキュアット探偵事務所本部の住所が端正な筆記体で記されている。そして封の部分——蝋で押されたシーリングスタンプには、キュアット探偵事務所を示す「C」のマークが刻まれていた。

 

「……来たか」

 

声が低くなった。エメラルドの瞳が鋭さを帯びる。

 

これは、ジェットが待ちわびていた返信だった。キュアアルカナ・シャドウ——怪盗団ファントムに属しながら、プリキュアに変身する能力を持つ謎の少女。森亜るるか。彼女の正体について、ロンドン本部に依頼していた調査への返答。

 

ジェットが手紙を見つめていたその時。廊下の奥から、にぎやかな声が近づいてきた。

 

「ポチタンー! ジェット先輩! ただいまー!」

 

ドアが勢いよく開いて、あんなが飛び込んできた。髪のお団子が弾むように揺れ、瞳がきらきらと輝いている。後ろからみくるも入ってくる。こちらも普段の落ち着いた様子とは打って変わって、頬を紅潮させて活き活きとしている。

 

「おかえり」

 

ジェットは封筒をそっとデスクの上に置き、二人に向き直る。そして、軽く眉を上げた。

 

「おいおい、今度は急に元気だな」

 

先日の、あの重苦しい空気の中でホットミルクを啜っていた二人と同一人物とは思えない。ジェットはちょっと困ったような、呆れたような顔をしたが、口元にはキャンディの棒越しに微かな笑みが浮かんでいた。

 

「それがね、ジェット先輩!」

 

あんなが前置きするように両手を合わせ、それからデスクの端に座っていたポチタンを抱き上げて、ぎゅっと胸に抱き締めた。

 

「生徒会長に相談したら、申請書を出せばポチタンも学校に連れていけるかもしれないって!」

 

声が弾んでいた。ポチタンを高く掲げるようにして、あんなは満面の笑みを浮かべる。

 

「ポチタン、いっしょ!」

 

ポチタンが小さな手をぱたぱたと振りながら嬉しそうに叫んだ。みくるも頷いて、嬉しそうに付け加えた。

 

「生徒会長、怖がってる人も多いみたいだけど、すっごくいい人だったよね!」

 

この前はあれだけ落ち込んでたのに——ジェットは心の中で呟いた。少々呆れつつも、一方で内心では安心している自分がいる。やはりこの二人にあの暗い雰囲気は似合わない。

 

「そうだ、丁度さっきロンドンから……」

 

ジェットがデスクの上の封筒に手を伸ばしかけた、その刹那。

 

ヒュンッ。

 

窓の外から何かが空気を切り裂いて飛んできた。

 

あんなとみくるが目を見開いたのと、その何かが事務デスクの中央に突き刺さったのは、ほとんど同時だった。乾いた音と共に、木の天板に薄い何かが垂直に刺さっている。

 

「うわっ、なんだ!?」

 

ジェットが椅子ごと仰け反った。ポチタンがあんなの腕の中で「ポッチィ!」と驚きの声を上げる。

 

刺さっていたのは、一枚のカードだった。裏面には見覚えのある黒いマスクのマーク。

 

みくるが素早くカードを引き抜き、表面を確認した。綺麗なフォントで、こう記されていた。

 

『本日、まことみらい市立郷土資料館にてマコトジュエルを頂きに参上 怪盗団ファントム』

 

「ファントムの予告状!?」

 

あんなが声を上げた。

 

みくるの表情が一瞬で引き締まる。キュアアルカナ・シャドウと初めて対峙した事件でも使われた予告状だ。

 

あの時は美術館のオーナーに予告状が届いた。しかし今回は——。

 

「探偵事務所に、直接……!」

 

みくるが窓に駆け寄り、身を乗り出して外を確認した。アーチ窓の向こうに広がるのは、正午の穏やかな街並みだけ。怪しい影は見当たらない。カードを投げ込んだ何者かは、既に姿を消している。

 

「しかも予告は今日だ……!」

 

ジェットが立ち上がり、壁に貼られたまことみらい市の大きな地図に目を走らせた。指先が地図上を素早く辿っていく。

 

「まことみらい市立郷土資料館。ここだ。市の中心部から東、旧市街のはずれ」

 

地図上の一点を指で叩いて示す。明治時代の洋館を改装した小さな施設。あんなとみくるが覗き込む。

 

「急がなきゃ!」

 

あんなが振り返り、みくると目を合わせた。みくるが力強く頷く。

 

「行こう、あんな!」

 

「うん!」

 

あんながポチタンを抱え直し、みくると共に廊下へ駆け出した。ばたばたと廊下を走る音が響き、ちりりんと玄関の鈴が鳴り、二つの足音が外へと遠ざかっていく。

 

事務所内に静けさが戻った。

 

アーチ窓から差し込む陽光の中、ジェットは一人、デスクの前に立っていた。先ほどのカードが突き刺さった跡が、天板に薄い傷を残している。

 

視線が傍らに落ちた。デスクの上に置かれた、封筒。

 

「……そうだった」

 

ジェットは封筒を手に取り、Cのマークが押されたシーリングスタンプを指でなぞった。ロンドンからの返信。アルカナシャドウの正体に関する調査結果。

 

「中を確認するのは、皆が戻ってからだな」

 

呟いて、封筒をデスクの引き出しではなく、デスクの上——手紙や文献が積まれた一角に、すぐに取り出せるように置いた。

 

それから、ジェットは事務所の中を見回した。窓は開いたまま。カードが飛び込んできた窓だ。

 

「……プリティホリックの開店準備もしないとな」

 

独り言を呟きながら、ジェットは窓の錠前を一つ一つ確認し、閉めていった。それから部屋のドアの鍵も掛け、階段を上がって二階のプリティホリック——コスメショップの準備へと向かう。白衣の裾が階段の角に消えて、一階は完全に無人になった。

 

正午の陽光だけが、静まり返った部屋を照らしている。

 

それからどれほどの時間が経っただろうか。

 

音も立てず、部屋の扉が開いた。

 

鍵が掛かっていたはずのドアが、何の抵抗もなく、まるで最初から開いていたかのように、静かに内側へ開く。

 

中に入ってきたのは、ジェットではなかった。あんなでも、みくるでもなかった。

 

黒いケープの裾が、磨かれた床の上を音もなく滑る。淡いベージュ色のセミロングの髪。表情の読めない紫の瞳。

 

森亜るるかだった。

 

マシュタンの姿はない。一人きりだった。

 

るるかは扉を後ろ手で閉め、迷いなく事務デスクへと向かった。

 

彼女はかつてのこの建物の主。間取りも構造も、全てを知っている。そしていざという時のために、建物の合鍵を用意していた。

 

彼女が今ここにいるのは——「いざという時」が来た、という事だ。

 

デスクの前に立ったるるかの視線が、積まれた文献や手紙の一角に留まる。

 

封筒。

 

上質な紙。角がわずかに擦れた、長い旅路の痕跡。そして封に押された、Cのマークのシーリングスタンプ。

 

るるかは細い指でその封筒を取り上げた。差出人の住所を確認する。ロンドン、キュアット探偵事務所本部。表書きの宛先は、まことみらい市キュアット探偵事務所のジェット宛。

 

るるかは黒いケープの内側に手を差し入れた。懐から、もう一通の封筒を取り出す。

 

その封筒はデスクの上のものと瓜二つだった。

 

同じ上質な紙。同じ厚み。封には同じCのマークのシーリングスタンプ。記載されている差出人の住所も、宛先も、寸分の違いもない。

 

るるかはデスクの上の封筒、ロンドンから届いた本物の手紙を、ケープの内側に仕舞った。代わりに、手元の封筒をデスクの同じ場所に、同じ角度で置く。

 

「……あなた達は、迷宮で彷徨っていなさい」

 

静かな声だった。感情の起伏はほとんどない。黒いケープを翻し、るるかは来た時と同じように、音を立てずに部屋を出た。扉が静かに閉まる。

 

正午の陽光だけが、何事もなかったかのように、キュアット探偵事務所の一階を照らし続けていた。

 

 

---

 

 

まことみらい市の旧市街。車通りの少ない並木道を抜けた先に、その建物はあった。

 

「ここだ……!」

 

あんなが足を止め、目の前の建物を見上げた。まことみらい市立郷土資料館。年季の入った洋館といったその佇まいは、白い外壁に鎧戸、煉瓦の基壇というクラシカルな装いで、時代の重みを纏いながらも手入れの行き届いた端正さがある。ただ、こじんまりとしていた。美術館やギャラリーといった華やかさとは無縁の、地域に根差した小さな施設という趣だ。

 

「思ったより小さいね」

 

あんなが外観を見て感想を漏らす。ポチタンはあんなの胸元でストラップ状態のまま、ぬいぐるみのフリをしている。だが、マコトジュエルの気配を感じ取っているのか、小さな身体がかすかに震えていた。

 

正面玄関の重い木製のドアを押し開けて、二人は中に入った。

 

エントランスホールは天井が高く、磨かれた木の床は落ち着いた雰囲気を感じさせる。しかし今日は、その雰囲気とは裏腹に、館内は妙に雑然としていた。廊下の奥から電動ドライバーの高い駆動音が断続的に響き、壁に立て掛けられた大判のパネルや、養生テープが貼られた床の一角が、何かの準備の真っ最中である事を物語っている。

 

あんなとみくるがエントランスであちらこちらに視線を走らせていると、穏やかな声が掛けられた。

 

「あら、学生さん?」

 

振り向くと、エントランスの奥から一人の女性が歩いてきた。六十代ほどだろうか、きちんとアイロンの掛かったブラウスにカーディガンを羽織り、首から職員証を下げている。銀混じりの髪を後ろで一つに纏め、眼鏡の奥の目元には穏やかさと同時に、この施設を預かる者としての芯の強さが窺えた。

 

「館長の早川です。見学に来てくれたのかしら」

 

まことみらい市立郷土資料館の館長、早川典子は二人を見て微笑み、それからちょっと申し訳なさそうに眉を下げた。

 

「ごめんなさいね、今ちょうど企画展の準備中で。『まことみらい市の歩み展』っていうのをやるんだけど、展示室の半分は施工が入っていて、見られる範囲が少なくて……」

 

手振りで館内の様子を示しながら、早川は丁寧に説明した。勉強熱心な学生が資料館を訪ねてきた——そう思ったのだろう。

 

あんなとみくるは顔を見合わせた。みくるが一歩前に出て、背筋を伸ばし、丁寧な口調で切り出す。

 

「あの、早川館長。私たちは見学ではなくて——」

 

あんなが鞄から一枚のカードを取り出した。表面の綺麗なフォントが、エントランスの照明を受けて鈍く光る。

 

「これを見てください。怪盗団が、この資料館を狙っています」

 

早川は差し出されたカードを受け取り、眼鏡を直して文面を読んだ。

 

「『本日、まことみらい市立郷土資料館にてマコトジュエルを頂きに参上 怪盗団ファントム』——」

 

読み上げた声が、途中で止まった。早川の表情から穏やかさが消え、眉間に皺が寄る。

 

「怪盗団ですって……?」

 

予告状を持つ手が微かに震えていた。先日、宝生美術館に怪盗団の予告状が届いた一件は、地元のテレビ局でも大きく報道されていた。美術品が盗まれかけた事件として、まことみらい市の住民なら誰でも記憶に新しいはずだ。早川もあの報道を見ていたのだろう、顔色が目に見えて変わっていた。

 

「でも……マコトジュエル? この資料館に宝石の類は無かったと思うけど……古文書や絵図がほとんどで、金銭的な価値が高いものは——」

 

早川はカードの文面に目を戻し、困惑を滲ませた。

 

「あ、それは暗号のようなものなんです!」

 

あんなが慌てて手を振った。みくるも続けて補足する。

 

「彼らが狙っているのは宝石そのものではなくて……この資料館で一番大切にされているもの、一番重要なものを標的にしていると考えてください」

 

早川は二人の顔を交互に見つめた。にわかには信じがたい話だ。しかし予告状の作りは精巧で、あの美術館事件の報道で映されたものと酷似している。何より、二人の目は真剣そのものだった。

 

早川の表情が、何かに思い至ったように変わった。

 

「一番大切なもの」

 

その時、展示室へ繋がる扉が開き、若い女性が姿を現した。二十代半ばほどで、作業用のエプロンを着け、手には資料の束を抱えている。

 

「沢木さん」

 

早川がすかさず呼び止めた。「ちょっといいかしら」

 

「はい、何でしょう」

 

その女性……学芸員の沢木遥が小走りに近づいてきた。真面目そうな顔立ちに、額にうっすらと汗が滲んでいる。企画展の準備に追われているのだろう、エプロンのポケットには付箋やペンが何本も差し込まれていた。

 

「まことみらい村絵図を確認しなくてはいけないの。すぐに鍵を持ってきてくれる?」

 

「えっ、絵図を? 何かあったんですか?」

 

「説明は後で。急いで」

 

早川の声音が普段と違う事を察したのか、沢木は一瞬目を瞬かせた後、「分かりました」と資料の束をエントランスの台に置き、事務室の方へ小走りに去っていった。

 

程なくして鍵を手にした沢木が戻ると、早川は二人を促して展示室への扉を開けた。

 

「こちらよ。展示準備室は奥になるわ」

 

展示室に足を踏み入れた瞬間、電動ドライバーの音がぐんと近くなった。

 

壁面では、作業着姿の男が、解説文の書かれた用紙が張られたパネルを壁にビスで固定している最中だった。片手に電動ドライバー、腰のベルトにはスペーサーやビスの入った工具袋をぶら下げ、壁に向かった背中が淡々と仕事をこなしている。一行が通りかかると、ちらりとこちらに視線を向けたが、すぐに作業に戻った。

 

展示室の反対側では、大型のカメラを三脚に据えた若い男が、設置途中の展示品や準備風景を撮影していた。シャッター音が小気味よく響く。一行が通ると、カメラから顔を上げ、「あ、館長。ここ撮っても大丈夫ですか?」と声を掛けてきた。

 

「ええ、構わないわ。ただ、今ちょっと立て込んでいるから、後で改めて説明させてね」

 

早川が足を止めずに答えた。彼は「分かりました」と頷き、再びファインダーを覗き込んだ。

 

展示室を抜け、奥の扉を開けると、そこには展示準備室があった。

 

窓のない部屋。蛍光灯の白い光に照らされた室内には、展示用のアクリルケースや梱包材、台座に使う布が雑然と並んでいる。その中央の作業台で、四十代ほどの男が椅子に腰掛け、キャプションボードの校正に赤ペンを走らせていた。

 

「ああ、早川さん。キャプションの文言で一箇所修正を入れたんですが、確認を——」

 

その男は顔を上げかけて、あんなとみくるの姿を認めた途端に表情を変えた。

 

「なんだ君たちは」

 

低い声に苛立ちが混じっていた。赤ペンをキャプションの上に置き、眉間に深い皺を刻んで二人を見据える。

 

「展示準備室は関係者以外立入禁止だ。早川さん、学生の見学は展示室までにしてもらわないと困りますよ。こちらは学術資料を扱っているんですから」

 

苛立った態度を隠そうともしない。みくるが何か言い返しそうな気配を見せたが、早川が間に入った。

 

「堀内先生、申し訳ありませんが今はそれどころではないんです。すみませんが少しだけ」

 

早川は堀内と呼ばれた男をなだめるように片手を上げ、部屋の奥へと進んだ。そこには、木製の棚の上に木箱が置かれていた。

 

先に箱の前に来ていた沢木が声を上げる。

 

「……開いてる」

 

鍵穴に触れた指先が、そのまま凍り付いたように止まっている。沢木は呆然と錠前を見つめていた。木箱を封じていた錠前は、鍵を差し込むまでもなく——開いた状態になっていた。

 

皆が息を呑んで見つめる中、沢木がゆっくりと、蓋を持ち上げる。

 

軸箱の中は空だった。

 

『まことみらい村絵図』。それが収められているはずの場所には、何も無い。底の布張りだけが、蛍光灯の光を虚しく受けていた。

 

「そんな」

 

早川の顔から血の気が引いていく。

 

「昨日、確認した時には確かにあったはず。……沢木さん、昨日の夕方にこの箱を収蔵室から運んだ時、中身は確認したわよね?」

 

沢木は箱の縁に手を掛けたまま、身動き一つしなかった。目が虚ろに宙を彷徨っている。

 

「沢木さん」

 

早川がもう一度、はっきりした声で呼んだ。

 

「は、はい」

 

ようやく沢木が我に返ったように瞬きをし、かろうじて返事をした。

 

「……はい。昨日の夕方、館長と一緒に中身を確認しました。確かに、絵図はありました」

 

声が掠れていた。視線が錠前と箱の中を何度も行き来する。

 

「馬鹿な」

 

堀内が椅子から立ち上がった。赤ペンが作業台の上を転がり、床に落ちる。

 

「あれは企画展の目玉だぞ。あの絵図がなかったら……一体どうするんだ!」

 

堀内の声が準備室の壁に反響した。沢木が肩を竦める。早川は唇を結んだまま、空の木箱を見つめていた。

 

そこに——二つの声が、重なった。

 

あんなとみくるが一歩前に踏み出し、顔を見合わせ、互いに頷く。

 

「「この事件、キュアット探偵事務所にお任せを!」」

 

 

---

 

 

展示準備室での動揺が収まるのを待って、みくるは全員を展示室に集めた。

 

設営中の展示室。作業台代わりに使われていた長テーブルを囲むように、早川と沢木、堀内、施工作業をしていた男、カメラ撮影をしていた男、そしてあんなとみくるが立っている。

 

「状況を整理させてください」

 

落ち着いた、丁寧な声だった。普段の年相応の話し方とは少し違う、推理の場に立った時のみくるの声。

 

「盗まれたのは、『まことみらい村絵図』。まことみらい市がまだ小さな集落だった時代に、村の有力者・日向誠一郎が描かせた鳥瞰絵図です。和紙に肉筆で描かれた一点物で、当時の信仰対象や私塾の位置が記されており、地域史研究において非常に貴重な資料」

 

みくるはプリキットブックを開き、聞き込みで得た情報を手早く確認しながら続けた。

 

「この絵図は普段、丸めた状態で木製の軸箱に収められ、収蔵室に保管されていました。企画展で展示するために、昨日の夕方、沢木さんが収蔵室から展示準備室に運び入れた。そしてその場で、早川館長と沢木さんのお二人で中身を確認した」

 

みくるは早川と沢木に視線を向けた。

 

「間違いないですね?」

 

早川が真っ先に頷いた。

 

「ええ、間違いないわ。昨日の夕方、沢木さんと二人で箱を開けて確認したの。絵図は確かにそこにあった。巻かれた状態を少しだけ広げて、状態も確認して……。それから施錠して——」

 

そこで早川は沢木の方を向いた。

 

「沢木さんがちゃんと鍵をかけてくれたわよね?」

 

同意を求めるのと同時に確認を兼ねた言葉だった。

 

沢木は一瞬、言葉に詰まった。

 

視線が僅かに泳いだ。唇が開きかけて、閉じて、もう一度開く。ほんの一拍か二拍。けれどその躊躇は、注意深く見ていれば気づくほどの、はっきりとした間だった。

 

「え、ええ。間違いありません。私が施錠しました」

 

沢木は頷いた。声の調子は平静を装っていたが、視線はまだ少しだけ定まっていない。

 

あんなはその様子を見ていた。沢木の一瞬の躊躇い。何かを飲み込むようなその間が、あんなの中に小さく引っ掛かった。

 

みくるは頷いて、続けた。

 

「そして今朝。早川館長、沢木さん、堀内先生の三名は早い時間から資料館に来て、企画展の準備作業をされていた」

 

みくるの視線が堀内に向く。

 

「堀内先生は展示準備室でずっと作業をされていたと伺いました。キャプションの校閲作業ですね」

 

堀内は腕を組んだまま、ふん、と鼻を鳴らした。あからさまに不服そうだ。

 

「そうだ。朝から展示準備室でキャプションボードの校正をしていた。学術的な正確性に関わる作業だからな、集中して取り組んでいたんだ」

 

まことみらい大学准教授、堀内義明。企画展の監修を担当する立場。その口調には「だからどうした」とでも言いたげな苛立ちが滲んでいた。角縁の眼鏡の奥の目が、あんなとみくるを値踏みするように見ている。

 

「本当に、一度もお部屋から離れなかったんですか?」

 

堀内の言葉を聞いて、あんなが口を開いた。

 

「何かおかしな事はなかったですか? 物音とか、誰かが入ってきたとか——」

 

「私を疑っているのか!」

 

堀内の声が展示室に響いた。腕を組んだ姿勢のまま身を乗り出すようにして、あんなを睨みつける。

 

「一度も離れていないと言っているだろう! 朝から展示準備室に入って、ずっとあの部屋で作業をしていたんだ。間違いない!」

 

声量に気圧されて、あんなが半歩後ずさった。

 

「そ、そそ、そんなに怒らなくても……」

 

あんなが両手を上げて宥めるような仕草を見せた。責めるつもりはなかったのだが、堀内の剣幕に押されて一歩後ずさる。ポチタンがあんなの胸元でぬいぐるみのフリをしたまま、僅かに身じろぎした。

 

みくるが、こほん、小さく咳払いをして、空気を仕切り直した。堀内がまだ不満げな顔をしているが、みくるは構わずに続ける。

 

「整理すると……前日の夕方に中身を確認し、施錠した。そして今朝から現在に至るまで、展示準備室には堀内先生がずっといらっしゃった。つまり、最後に確認した後に鍵がかかっていて、しかも今朝からずっと監視の目があった事になります」

 

みくるは顎に指を当て、思案するように視線を宙に向けた。

 

「……かなり不可解な状況ね」

 

呟くような声だった。鍵がかかった箱から、人の目がある部屋で、大判の絵図が消えている。状況的に持ち出せるものではない。それなのに、消えた。

 

みくるは一度プリキットブックを閉じ、早川に向き直った。

 

「早川館長、絵図のサイズについて改めて確認させてください。どのくらいの大きさですか?」

 

「A1サイズくらいの大判よ。和紙に描かれた肉筆画だから、丸める時もあまりきつく巻けないの。ある程度の太さになるわ」

 

みくるの眉が僅かに寄った。

 

「A1……丸めた状態でも、かなりの長さと太さになりますね。そのまま持ち歩けば相当目立つはず。ポケットや鞄に忍ばせられるようなサイズではない」

 

あんなも頷いた。確かにそうだ。それだけの大きさのものを、人目につかずにこの建物の中から持ち出すのは容易ではない。

 

みくるは視線を作業服の男の方に移した。

 

「中村さん。あなたは今日、展示会の設営で来られたんですよね」

 

「ええ、はい」

 

中村……施工業者の中村隆二が頷く。

 

「展示物の施工です。パーテーションの固定とか、展示パネルの設置とか。配置を展示品のレイアウトに合わせなきゃいけないので、展示準備室に運び込まれた展示品を確認させてもらう事もありました」

 

「つまり、展示室と展示準備室を行き来していた?」

 

「はい。展示品の配置を擦り合わせる必要がありますから、堀内先生にも何度か確認を取らせていただいて——」

 

「一度説明した事を何度も何度も確認しに来てな」

 

堀内が遮るように言い放った。腕を組んだまま、苛立ちを隠す気もない。

 

「作業に集中したいのに、五分と経たないうちにまた来る。いい加減にしてもらいたいものだ」

 

中村は肩をすくめるようにして、困ったような愛想笑いを浮かべた。

 

「すみません、解説の内容と展示物の配置がズレると大変なものですから……」

 

愛想笑いを浮かべた中村の態度は恐縮そのものだったが、それを受ける堀内の表情は和らがなかった。みくるはそのやり取りを黙って観察し、今度はカメラを持った男の方に向き直った。

 

「岸本さんは、まことみらい新聞の記者さんですね。今日はどういった目的で?」

 

「企画展の事前取材だよ」

 

岸本と呼ばれた男……まことみらい新聞の記者、岸本拓海。彼はカメラのストラップを指で弾くようにしながら答えた。二十代らしい気さくな口調だった。

 

「『まことみらい市の歩み展』の開催について、設営風景や関係者のインタビューを撮らせてもらってたんだ。早川館長にもお話を伺ったし、展示室や他の部屋も回って準備の様子を撮影してた」

 

「展示準備室には?」

 

「いや、あそこには近づいてないね。堀内先生が作業中だって聞いてたし、関係者以外は遠慮した方がいいかと思って」

 

岸本がさらりと答えた。みくるが堀内と中村に確認の視線を向けると、堀内が「取材の人間が準備室に来た記憶はない」と短く言い、中村も「僕も、岸本さんが準備室に入ってくるのは見ていませんね」と同調した。

 

あんなは聞き込みの内容を頭に入れながら、ふと、岸本の肩から斜めに掛けられたバッグに目が留まった。黒い長尺のショルダーバッグ。肩から斜めに掛けられた黒い筒状のバッグで、細長い形状をしている。カメラ本体はそのバッグとは別に首からぶら下げているから、バッグの中身は別のものだ。

 

「岸本さん、そのバッグ……」

 

あんなが指を差しかけると、岸本は「ああ、これかい?」と気さくに応じた。ショルダーバッグのファスナーを開き、中を見せる。

 

「三脚だよ。カメラ用の。展示室で撮影する時に使うんだ」

 

岸本が三脚の一部を引き出して見せた。あんなは「なるほど」と素直に頷いたが、隣のみくるの視線がバッグの内部にじっと注がれていた。

 

細長い筒状の形。三脚を出せば、中には空間ができる。ちょうど丸めた大判の紙を入れて持ち運べそうな形状。

 

みくるはその考えを口にはしなかった。プリキットブックのページに、小さくバッグの形状をスケッチして、視線を落としたまま、次の質問を組み立て始めていた。

 

 

---

 

 

「そうだ。入り口に監視カメラがありましたよね」

 

みくるがふと顔を上げた。資料館の正面玄関の上部に、小さなカメラが一台。到着した時にちらりと目に入っていたのだ。

 

「早川館長、カメラの映像を確認させていただけますか?」

 

「ええ、事務室にモニターがあるわ」

 

早川の案内で、あんなとみくるは事務室へ向かう。事務室は展示準備室の隣にある、質素な小部屋だった。古い事務デスクの上に小型のモニターが置かれ、監視カメラの映像が映し出されている。正面玄関を上方から見下ろすアングルで、出入りする人物の姿がはっきりと確認できた。

 

「今日の映像を朝から見てみましょう」

 

みくるが映像を早送りにしながら確認していく。早川が出勤し、沢木が続き、堀内が来館する。中村が工具箱や資材を台車で運び入れている姿が映り、岸本がカメラバッグを肩に入ってくる。そして最後に、あんなとみくるが駆け込んでくる姿。

 

入ってきた人間の記録は、それで全てだった。

 

「ここまでね。入った人は全員確認できた」

 

みくるが映像を現在時刻まで進めた。画面の中で、正面玄関から出ていった人物は一人もいなかった。

 

「出ていった人間はいない」

 

あんなが呟いた。

 

「全員、まだ館内にいるって事だね」

 

みくるは頷き、念のため前日の映像にまで巻き戻した。早川と沢木、他の従業員が退館する様子が映っている。沢木は小さなバッグ一つだけを肩に掛けており、大判の絵図を持ち出せるような荷物は見当たらない。早川や他の従業員も同様だった。それ以前の時間帯も確認したが、従業員以外に出入りした人物は見受けられなかった。

 

「前日も、怪しい人物の出入りはなし……」

 

みくるがプリキットブックにメモを書き込みながら呟いた。

 

 

---

 

 

展示準備室に戻ると、沢木が一人で部屋の中を探し回っていた。棚の裏や作業台の下、段ボール箱の隙間を一つ一つ確認している。あんな達が戻ってきた事に気づき、顔を上げた。

 

「見つかりましたか?」

 

「いいえ、監視カメラを確認してきたけど、出入りに不審な点はなかったわ」

 

早川が首を横に振った。

 

「こっちでも探してみたんですけど……やっぱり、ないです」

 

沢木の声は沈んでいた。あんなとみくるも加わって、四人で改めて展示準備室の隅々を調べていく。棚を一段ずつ、箱を一つずつ。しかし、どこにも「まことみらい村絵図」の姿は見つからなかった。

 

あんなが部屋の反対側を探している時、ふとみくるは沢木の方に目をやった。

 

沢木はあの錠前のついた軸箱の前に屈み込んでいた。空の箱の中を覗き込むように……いや、何かをしているように見えた。身体に隠れて見えないが、手元を動かしているような動き。

 

みくるの視線が一瞬そこに留まったが、すぐにあんなの声に呼ばれて意識が逸れた。

 

「みくる、こっちにはないよ」

 

「うん……こっちも」

 

みくるは展示準備室の中を見回した。この部屋から絵図を持ち出すには、展示室を通らなければならない。展示室には中村と岸本がいて、堀内も展示準備室に詰めていた。人目につかずに大判の絵図を運び出すのは、どう考えても困難だ。

 

展示室を通らなければ持ち出せないはずなのに、一体どうやって?

 

その思考がぐるりと一周しかけた時、みくるの目が、ある一点で止まった。

 

展示準備室の壁面。展示室へのドアとは反対側、部屋の奥まった位置に、もう一つのドアがあった。壁と同じ色に塗装されているせいか、意識しなければ見落としてしまいそうだ。

 

「……あのドア、何ですか?」

 

沢木が振り返り、みくるの視線の先を追った。

 

「ああ、これは……」

 

沢木は言いながらドアに歩み寄り、取っ手に手をかけた。

 

その向こうに現れたのは、やや圧迫感のある狭い部屋だった。二畳あるかないかの空間に、小さな木製の机が一つ。その上に書類が何重にも重なっている。窓はなく、天井の蛍光灯だけが白い光を落としていた。

 

「状態調書を作る作業部屋として使っていました」

 

沢木が机の上の書類の束に手を添えた。

 

「展示物の状態を確認して、傷や劣化の具合を一点一点記録していく作業で……この部屋だと外の音が聞こえないので、集中できるんです」

 

「この建物は明治時代に建てられたものだから、元々の設計が残っている場所もあるの。ここは資料館になる以前、貴重品保管庫として使われていた部屋なのよ。だから壁が厚くて、防音性も高いの」

 

早川が補足する。

 

「貴重品保管庫……!」

 

あんなの目が輝いた。身を乗り出して、壁をこんこんと叩いてみる。確かに、分厚い壁が音を吸い込むように鈍い手応えを返した。

 

「もしかして、ここに秘密の抜け道があったりして! 壁の向こうに隠し部屋があって、そこに繋がる通路が……!」

 

「保管庫なのに抜け道があったらダメでしょ」

 

みくるが間髪入れずにツッコんだ。

 

「あ……そっか」

 

あんなが頭を掻いて苦笑した。早川も小さく微笑んだが、その笑みはすぐに不安の表情に戻った。

 

部屋の中を一通り確認したが、絵図が隠されている様子はなかった。机の上の書類は状態調書の束であり、その下にA1サイズの和紙を忍ばせられるような隙間もない。壁にも床にも異常は見当たらなかった。

 

 

---

 

 

展示室も改めて調べた。しかし、展示品を見せるために設計された開けた空間で、大きな棚や死角になるような構造物はほとんどない。壁面にはパネルが並び、ガラスケースが等間隔に配置されている。どこかに大判の絵図を隠すような場所は見当たらなかった。

 

あんなとみくるは早川と共に、展示室を出て館内の他の場所も巡っていった。エントランスのロビー、トイレ、物置として使われている小部屋。古い洋館特有の複雑な間取りを一つ一つ確認していくが、絵図の姿はどこにもない。

 

やがて三人は、建物の裏手に位置する行き止まりの通路にたどり着いた。

 

通路の突き当たりに、古びた木製のドアが一つ。しかしその手前は、段ボール箱がいくつも積み上げられていて、ドアの半分近くを塞いでいる。

 

「ここは裏口ですか?」

 

みくるが早川に尋ねた。

 

「ええ、そうよ。でも普段はほとんど使っていないの。見ての通り、今は荷物が置いてあるから通り抜けるのも難しいわね」

 

みくるの視線がドアの錠前を確認する。鍵はかかったままだ。

 

「裏口の鍵はどなたが管理されているんですか?」

 

みくるが尋ねると、早川は事務室の方に目を向けた。

 

「日中は事務室の鍵管理ボードに掛けてあるわ。正面玄関の鍵も裏口の鍵も、全部あそこに。でも閉館の時は私が全ての鍵をボードから回収して、自宅に持ち帰る事にしているの。小さな施設だから、夜間はそれが一番確実ですからね」

 

次に、みくるは詰まれた荷物に目を向ける。

 

「この荷物は何なんですか?」

 

「ああ、それはね」

 

早川が少し恥ずかしそうに説明した。

 

「企画展の準備で、収蔵室から色々な資料や絵図を持ち出したの。展示に使うかどうかを検討して、結局使わない事になったものを収蔵室に戻す予定なんだけど……一時的にここに運んでもらっているのよ。何せ従業員も少ないものだから、戻す作業がまだ追いつかなくて」

 

確かに、通路の先に、地下へ続くと思われる階段がぽっかりと口を開けていた。収蔵室はあの階段の先にあるのだろう。

 

あんなの目が、段ボールの中身に留まった。

 

布や紙筒に包まれた円筒状のものが、数本まとめて段ボールの中に差し込まれている。丸められた古地図や絵図の類だろう。

 

「まさか、ここに紛れ込んでたりしないよね……」

 

あんなが段ボールの縁に手をかけた。早川も「確認してみましょう」と頷き、三人で一つ一つ中身を取り出していく。布に包まれた巻物を慎重に広げて確認し、紙筒のラベルを読み、段ボールの底まで探っていく。

 

しかし、やはり「まことみらい村絵図」は見当たらなかった。

 

「ここにもない……」

 

あんなが手を膝について、ため息をついた。

 

みくるが裏口のドアに目を向けた。

 

「念のため、外も確認してみましょう」

 

「私、収蔵室の方も確認してくるわ。まさかとは思うけれど、何かの手違いで戻されていないとも限らないから」

 

早川はそう言うと、二人と別れて地下への階段を降りていく。あんなとみくるは裏口の扉を開けた。

 

裏手はこじんまりとした空き地になっていた。雑草がまばらに生え、ゴミの集積所らしい区画が見える。塀の向こうには隣接する住宅の屋根が見えた。

 

あんなとみくるは周囲を見回した。物を隠せそうな茂みや物陰はほとんどない。

 

「何もないね……」

 

あんなが振り返ると、みくるも首を横に振った。

 

「監視カメラで確認した限り、正面玄関から出た人はいない。裏口から一時的に外に出た可能性はゼロとは言えないけど……ここに何かを隠せるような場所も見当たらないわ」

 

——そもそも。

 

みくるは眉を寄せた。

 

——絵図を持ち出せるタイミングが、誰にもなかったはずなのに。

 

鍵がかかっていた箱。展示準備室にいた堀内。展示室にいた中村と岸本。大判の絵図を人目につかず運び出す事は、物理的にほぼ不可能。その根本的な問題が、どこを調べても解消されないまま残っている。

 

「ここを調べても何もないみたい」

 

あんなが裏口のドアノブに手をかけながら、みくるを振り返った。

 

「早川さんのいる収蔵室、見に行こうよ」

 

「……うん。先に行ってて」

 

みくるの返事は、少し遅れた。

 

「みくる?」あんなが首を傾げる。

 

「もうちょっとだけ、調べてみたい事があるの」

 

みくるは裏口の周辺を見回しながら言った。あんなは一瞬迷ったが、みくるの真剣な表情を見て頷いた。

 

「分かった。後で合流しよう」

 

あんながポチタンを抱えて館内に戻っていく。足音が遠ざかり、裏口の周辺に静寂が戻る。

 

一人になったみくるは、制服の裏に仕舞っていたプリキットの一つに手を伸ばした。

 

「オープン! プリキットミラールーペ!」

 

掛け声と共に、キーホルダーサイズだったそれが光に包まれ、本来の大きさに変化する。みくるはルーペを展開し、裏口のドア周辺に向けた。

 

レンズの中に、肉眼では見えないものが浮かび上がっていく。

 

まず地面。裏口を出てすぐの、舗装された地面。レンズの中に、うっすらとした足跡の反応が浮かんだ。

 

「……これは」

 

次にドアノブ。裏口のドアの内側のノブに、レンズを向ける。レンズの表面に、淡く光る紋様が浮かんだ。指紋だ。

 

自分やあんなの指紋ではない。別の第三の痕跡が残っている事をミラールーペは色の変化で教えている。

 

みくるはルーペを下ろした。

 

普段使われていないはずの裏口。ほとんど人が通らないはずの場所。なのに、足跡と指紋が残っている。

 

「……普段使われてないはずなのに」

 

みくるが小さく呟いた。眉が寄り、目が鋭くなる。

 

「痕跡が、残ってる……?」

 

風が裏手の空き地を抜けて、みくるの髪を揺らした。ルーペを手にしたまま、みくるは裏口のドアノブを見つめ続けていた。

 

 

---

 

 

裏口の前で、みくるは顎に手を当てて考えていた。

 

監視カメラの映像。施錠された箱。堀内の証言。裏口の痕跡。それぞれの関係者の言動。一つ一つの情報を並べ直し、論理の糸で繋いでいく。

 

みくるの中で、一つの像が形を結び始めていた。あの人の挙動は明らかに不自然だった。言葉の端々に滲む違和感。そして、絵図を持ち出す事も——不可能ではない。

 

しかし。

 

みくるは眉を寄せた。推理の筋は通っている。通っているはずなのに、どこかが落ち着かない。ファントムの予告状の件もある。何故あのタイミングで予告状が届いたのか。それに決定的な証拠がある訳ではない。

 

考えが堂々巡りを始めている事に気づいて、みくるは一度思考を止めた。

 

——あんなにも意見を聞いてみよう。

 

あんなの直感は、みくるの論理が見落としているものを拾い上げる事がある。今のこの引っかかりも、あんなと一緒に考えれば何か見えてくるかもしれない。

 

みくるは一歩を踏み出そうとした……その時だった。

 

空間が、揺れた。

 

視界の端にノイズのような乱れが走る。蛍光灯の光がちらつき、薄暗い廊下の輪郭が一瞬歪んだ。

 

そして、声が響いた。

 

『嘘よ覆え』

 

深い、底知れない声。それは空気を伝って耳に届いたのではなく、頭の内側に直接流し込まれたかのようだった。

 

みくるは踏み出しかけた足のまま、硬直した。

 

目が見開かれた。息が止まる。廊下の空気が急速に冷えていくのを、肌が感じ取っている。

 

空間に赤い靄のようなものが滲み出していた。壁と天井の境目から、あるいは空間そのものの裂け目から。靄はゆっくりと凝集し、その中から何かが伸びた。

 

甲冑に覆われた腕が、赤い靄の中からみくるに向かって差し伸べられている。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「あ——う……」

 

みくるの唇が動いた。声を出そうとしていた。助けを呼ぼうとしていたのか、それとも目の前の異常を拒絶しようとしていたのか。しかし、その声は言葉にならなかった。

 

頭の中に、何かが入り込んでくる。

 

自分の思考ではない何かが。みくるの意識の隙間を縫うように、染み込むように、広がっていく。

 

『お前は名探偵』

 

声が、頭の中を埋めていく。

 

『あらゆる事件を解決できる』

 

みくるの中の何かが抵抗しようとした。しかしその声は既に遠く、弱かった。既に頭の中は、別の何かの思考で覆われ始めている。

 

『お前の推理が間違う事はない』

 

瞳の色が変わり始めていた。緑の瞳の中心から赤い光が滲み出し、虹彩を侵食していく。

 

『その推理を——誰も否定する事など出来ない』

 

みくるの両目が、赤く発光した。

 

首から下げたペンダント、白い懐中時計が、禍々しい光を放ち始める。形が大きく変わる。白い外装が黒く染まり、文字盤が鏡写しのように反転していく。ジュエルキュアウォッチを反転させたような見た目の、フェイクキュアウォッチ。

 

そして、みくるの胸の奥から、桃色の小さな光が浮かび上がった。みくるの心に宿るマコトジュエル。

 

光は一瞬だけ、純粋な桃色の輝きを放った。けれどすぐに、色が淀んだ。透明だった光が濁り、毒々しい色へと変貌する。マガイジュエル。

 

マガイジュエルがフェイクキュアウォッチに吸い込まれるようにセットされた。

 

嘘の力が、みくるの身体を包み込んでいく。

 

髪の色が変わり始めた。衣服の輪郭が揺らぎ、別の形を取ろうとしている。みくるだったものが、みくるではない何かに。

 

薄暗い廊下の奥で、変容は静かに、しかし確かに、進行していた。

 

 

---

 

 

展示室に戻ってきた時、空気はひどく重かった。

 

あんなと早川が扉を開けると、蛍光灯の白い光に照らされた展示室には全員が揃っていた。沢木がアクリルケースの横に立ち、堀内が壁際で腕を組み、中村が工具袋を腰に下げたまま解説パネルの前に、岸本がカメラのレンズキャップを弄りながら。

 

「他の部屋も探しましたが、やはり見つかりませんでした」

 

早川が眼鏡を押し上げながら告げた。声は平静を保っていたが、指先が微かに震えている。沢木が小さく首を横に振り、堀内は無言のまま、険しい表情を壁に預けている。

 

あんなは展示室の中央に立ち、唇を結んだ。

 

正面玄関からは誰も出ていない。裏口は施錠されていた。収蔵室も施錠されていて、隠し場所にはなり得ない。手がかりの糸は、どこを引いてもするりとすり抜ける。

 

——みくる。

 

あんなは視線を巡らせた。裏口で別れてから、みくるの姿を見ていない。一度お互いの考えをすり合わせたかった。みくるの推理があれば、この行き詰まりにも突破口が見えるかもしれない。

 

しかし、みくるは戻ってこない。

 

胸元で、ポチタンが小さく身じろぎした。丸い瞳があんなを見上げている。その奥に、不安の色が浮かんでいた。

 

——嫌な予感がする。

 

それが何なのかは分からない。ただ、胸の奥で誰かが囁いている。

 

あんながみくるを探しに行こうと一歩踏み出した、その時だった。

 

展示室のエントランス側の扉が、ゆっくりと開いた。急いでいる者の乱暴さはなく、まるで舞台の幕が上がるように、計算された緩やかさで。

 

「皆さん、お揃いのようですね」

 

澄んだ声だった。丁寧で理知的で、どこか冷ややかな響き。聞き覚えのある声。けれど、温度が違う。

 

扉の向こうから踏み出した人影を見て、あんなの目が見開かれた。

 

その姿。ワインレッドの三つ編みツインテール。切り揃えられた前髪。深い紅色を基調としたビスチェ型のワンピースに、堅く刺々しいケープ。腰からは蝙蝠の羽のようなウェイストケープが広がっている。

 

 

【挿絵表示】

 

 

キュアミスティックによく似ているが、全く別の存在だった。

 

左目を囲う翼のような黒い仮面。右目の下に描かれた黒い十字星のペイント。そして何より——その瞳。濁った紫色の瞳が、展示室の一同をゆっくりと見渡している。その視線には、観察する者の冷徹さと、既に答えを知っている者の余裕が同居していた。

 

早川が一歩前に出た。

 

「あの……あなたは、どなたですか」

 

当然の問いだった。突然現れた見慣れぬ人物に対し、警戒と困惑が入り混じった表情を向ける。

 

その者は、首を僅かに傾けた。まるで、なぜそんな事を訊くのかが分からない、とでも言いたげな仕草で。

 

「何を仰っているんですか。この事件の解決を依頼された名探偵ですよ」

薄い笑みが浮かんだ。

「キュアミステイク。名探偵ミス・テイクです」

 

その言葉が展示室の空気に響いた瞬間、早川の、沢木の、堀内の、中村の、岸本の、その場にいる全ての人間の瞳が、一瞬だけ赤く輝いた。

 

「そう……そうでしたわね」

 

早川が言った。先ほどまでの困惑が嘘のように、穏やかな、それでいてどこか虚ろな声で。眼鏡の奥の瞳からは、さっきまで確かにあった警戒の色が消えていた。

 

沢木も小さく頷いた。堀内すら、あれだけ探偵を名乗る者に露骨な嫌悪を見せていたのに、腕を組んだまま黙って受け入れている。中村も、岸本も。誰一人として違和感を示さない。

 

あんなの背筋を、冷たいものが走った。

 

——今度はみくるが。

 

「待って!」

 

あんなはミステイクに駆け寄った。展示台の間を縫い、ほとんど転びそうになりながら、その深い紅色の衣装の前に立ち塞がる。

 

「みくる! 今のみくるは——」

 

言葉が途切れた。ミステイクの瞳が、あんなを見下すように見つめている。

 

そこに浮かぶ感情は、あんなの知っている小林みくるのものではなかった。温かさも、不器用なまっすぐさも、何一つ残っていない。代わりにそこにあるのは、氷のような冷淡さだった。

 

「……静かに。今は私が真相を解き明かす時間。あなたは引っ込んでいて」

突き放すような一言。あんなを見る目は、邪魔な障害物を見るそれだった。ミステイクはあんなの脇をすり抜けるように前に進み出た。ケープが冷たく揺れる。

 

「真相を……?」

 

堀内が呟いた。一同の視線が、ミステイクに集まっている。

 

ミステイクは関係者達をぐるりと見渡した。早川。沢木。堀内。中村。岸本。一人一人の顔を確かめるように。

 

「まことみらい村絵図盗難事件」

 

声は静かだったが、展示室の隅々にまで届いた。

 

「この事件の犯人は——」

 

視線の動きが止まった。ある人物の所で、ぴたりと。

 

人差し指がまっすぐに伸びた。

 

「沢木遥さん。……あなたです」

 

「そ、そんな……」

 

沢木の顔が凍りついた。一歩後退り、背中がアクリルケースにぶつかる。がたん、と小さな音が展示室に響いた。

 

「しかし、一体どうやって?」

 

堀内が前に出た。朝からずっと展示準備室にいた彼は、絵図が持ち出せなかった事を誰よりもよく知っている。

 

「簡単な話ですよ」

 

ミステイクは堀内の問いに、薄い笑みを返した。言葉を切って、一度だけ瞬きをした。それから、まるで教壇に立つ教師のように、滑らかに語り始めた。

 

「最後に絵図を確認し、そして施錠を行ったのは沢木さん。彼女は早川館長と絵図を確認した後……仕舞うフリをして盗み出したのです」

 

言葉が、冷たい刃のように展示室を切り裂いた。

 

「その翌日に、展示準備室が実質的な密室状態になってしまったのは、大きな計算違いだったようですね」

 

ミステイクの口調は論理的だった。整然として、隙がない。けれどその裏側に、相手を追い詰める事を楽しんでいるような、薄暗い愉悦がにじんでいた。

 

「待ってください」

 

早川が声を上げた。眼鏡の奥の瞳が鋭くなっている。

 

「沢木さんは前日の退館時、小さなハンドバッグしか持っていませんでした。あの大きさの絵図を入れられるような鞄ではありません。それは私もこの目で確認していますし、正面の監視カメラにも映っています」

 

早川は言葉を続けた。

 

「それに、前日の作業中も。私はずっと展示室と展示準備室を行き来していましたが、沢木さんが絵図を持ち運んでいる様子は一度も見ていません」

 

「そうだよ」

 

あんなが早川の横に立った。「監視カメラの映像で確認したよね。沢木さんが大きなものを持ち出した記録は残ってない」

 

ミステイクは二人の反論を聞き終えても、表情を変えなかった。

 

「それが犯人の狡猾な所なのです」

 

声のトーンが、一段低くなる。

 

「裏口の近くに、収蔵室に戻す予定の物品が集められていましたね?」

 

早川が頷いた。「ええ。企画展に使わなかった資料を、纏めて収蔵室に戻す予定で——」

 

「あの中に」

 

ミステイクが言葉を被せる。

 

「紙筒に入った古地図や、丸められた絵図を纏めた箱がありました。沢木さんは館長に施錠を頼まれた後、密かに絵図を木箱から取り出し、丸めた状態であの箱の中に紛れ込ませた。その状態で裏口近くに運ぶ事で、絵図を目立たない場所に一時的に隠しておいたのです」

 

一拍の間。

 

「つまり、絵図は施錠の前に、既に木箱から抜き取られていた。収納箱の中身は最初から空だったという事です」

 

沢木の顔が蒼白になっていく。唇が微かに動いているが、声にならない。

 

ミステイクの推理は止まらなかった。

 

「沢木さんはその日の終業と共に、正面から堂々と資料館を出た。小さなハンドバッグだけを提げて。監視カメラにも潔白の証拠を残す形で」

 

足を一歩踏み出す。靴音が展示室の床に冷たく響いた。

 

「閉館後は早川館長が全ての鍵を自宅に持ち帰るのがこの資料館のルール。つまり、夜になってからでは盗み出す事はできない。だから沢木さんは、あらかじめ準備をしておく必要があった」

 

ミステイクが薄っすらと笑う。

 

「館長より先に退館すると見せかけて、建物の裏手に廻り込み、あらかじめ内側から開錠しておいた裏口を開け、返却予定の資料の山に紛れ込ませておいた絵図を外に持ち出した。従業員であれば、裏口の鍵を開けておく事も、簡単にできますからね」

 

言葉が落ちるたびに、展示室の空気が冷えていく。

 

皆の視線が、沢木に集中した。早川が口元を手で押さえている。堀内が沢木を凝視している。中村と岸本も、顔を強張らせたまま沢木の方を見ていた。

 

「ち、違います!」

 

沢木がようやく声を絞り出した。首を左右に振り、両手を身体の前で握り締める。

 

「私はそんな事……絵図を盗むなんて、していません!」

 

しかし、その声にはどこか自信がなかった。否定の言葉を発しているのに、声の芯が揺れている。

 

ミステイクは沢木の動揺を見透かすように、一歩距離を詰めた。

 

「裏口の扉に、最近つけられた指紋を発見しました」

 

ミステイクはポーチから一枚の紙を取り出す。そこには指紋の紋様が描かれていた。続けて、右手が別のものを取り出す。

 

細長い、禍々しい形状のアイテム。プリキットライトに似ている。しかし、あんなの知るプリキットライトとは全く違う。装飾が刺々しく、黒く鋭い意匠が施されている。真っ赤なライト部が、蛍光灯の光の中でもなお不気味に輝いていた。

 

ミステイクはその『ファントムライト』を手元でくるりと廻した。指先で弄ぶように一回転。そして赤い光が沢木の手元に向けられる。

 

「えっ」

 

ファントムライトの光が沢木の指先を照らした瞬間、指紋の紋様が赤く発光して浮かび上がった。光の筋が空中に滲み出すように、指の表面から紋様が持ち上がる。

 

浮かび上がった指紋が、ミステイクの手に持つ紙の方へ、引き寄せられるように移動した。紙の表面に先に描かれていた指紋の隣に、吸い付くように定着する。

 

ミステイクは紙を掲げ、二つの指紋を並べて確認した。

 

「やはり。一致するようですね」

 

「これは、一体……」

 

早川が目を瞬かせた。堀内も腕を組み直し、理解の及ばない光景を前に眉間に深い皺を刻んでいる。

 

「探偵の調査道具ですよ、真犯人を追い詰めるための、ね」

 

ミステイクの有無を言わせぬ迫力に、早川達はそれ以上何も言えなかった。

 

「沢木さん。あなたは昨日、裏口を使いましたね」

 

ミステイクが再び沢木に向き直る。

 

「……確かに、昨日、裏口を使いました。ゴミ出しのために」

 

沢木が掠れた声で認めた。

 

「普段使っていない裏口を、昨日に限って使ったんですか?」

 

すかさず追及が飛ぶ。

 

「いつもより量が多かったので、ゴミ捨て場に近い裏口を使おうと——」

 

「ゴミ捨て場までの距離は正面玄関側と裏口側でさほど変わらないはずですが?」

 

ミステイクの指摘に、沢木が言葉に詰まった。

 

「あらかじめそういう言い訳をするために、ゴミ出しという名目を作っておいたのでしょう」

 

追い詰める声は静かだった。怒鳴るでもなく、声を荒らげるでもない。ただ淡々と、相手の逃げ道を一つずつ塞いでいく。

 

「そんな事は……」

 

沢木が否定しようとした瞬間、ミステイクが被せるように言った。

 

「あなたのものと思われる足跡の痕跡が、"外の道まで続いている"のを確認しました。ゴミ出しだけなら、そこまで続いているはずがありませんよね」

 

「そ、そんなはずありません!」

 

沢木が声を上げた。それまでの怯えた否定とは違う、切迫した声色だった。

しかしミステイクは構わない。ポーチの中から二つの小さな透明な袋を取り出す。中にはそれぞれ、目を凝らさなければ分からないほどの微細な紙片が入っていた。

 

「片方は……絵図が収められていた木箱の中に残されていた紙片」

 

袋の一つを示す。

 

「もう片方は……裏口近くに纏められていた、紙筒の箱に付着していた紙片」

 

もう一方の袋を並べる。

 

「これらは同じものです。絵図は古いものですから、むき出しで入れていたがために、一部が削れてしまっていたのでしょう。絵図が木箱から紙筒の箱へ移された、その痕跡です」

 

あんなの心臓が跳ねた。

 

みくると一緒に、あの木箱を調べた。裏口近くの段ボールも確認した。一本一本、中身を取り出して調べた。しかし、みくるがそんなものを見つけたとは一言も言っていない。

 

「そんな証拠、なかったはずだよ!」

 

あんなが前に出た。

 

「わたしもみくると一緒にあの箱を調べたもん。みくるがそんなもの見つけたなんて、一度も言ってなかった!」

 

ミステイクの視線が、ゆっくりとあんなに向いた。面倒なものを見るような表情で。

 

「言わなかっただけです。証拠を先に明かせば犯人が隠蔽工作をする。それくらいの判断、探偵なら当然の事でしょう」

 

抑揚のない声で、ミステイクは言い放つ。

 

ミステイクは再び沢木に向き直った。

 

「裏口の指紋。足跡の痕跡。そして紙片の証拠」

 

指を折りながら、一つ一つを数え上げていく。

 

「犯行が可能だったのは、あなただけです。前日に絵図の前で一人になれた時間がある。施錠を任された立場にある。裏口の鍵を開けられる。裏口にはあなたの指紋と足跡の痕跡のみが残されている」

 

ミステイクが、不敵な笑みを浮かべた。

 

「もう、言い逃れは出来ませんね」

 

沢木の膝が震えていた。顔面は真っ青だ。

 

「違う……違います」

 

沢木が叫んだ。両手を握り締め、身体を震わせている。

 

「私はやっていません……! 信じてください……!」

 

すがるような目が早川に向けられ、堀内に向けられ、そしてあんなに向けられた。

 

あんなはその目を真正面から受け止めた。沢木の瞳に浮かぶもの。恐怖。絶望。そして冤罪への、声なき抗議。

 

あんなは沢木から目を逸らさなかった。この視線を受け止めなければならないと、そう感じていた。

 

 

---

 

 

ミステイクは沢木の前に立ち、冷たい表情で顔を覗き込んだ。

 

「さて、絵図はどこにやったんですか?」

 

声は穏やかだった。けれどその穏やかさは、獲物を前にした者の余裕だった。

 

沢木は壁際まで後退り、背中を展示室の壁面に預けるようにして立っている。唇が震えている。言葉を探しているのか、それとも言葉そのものが出てこないのか。口が何度も開きかけては、閉じる。

 

「計画的な犯行のようですから、昨日の間にもうどこかのルートで売却できるよう手配していたかもしれませんね?」

 

ミステイクが首を僅かに傾けた。濁った紫色の瞳の奥に、不敵な光が灯る。

 

「ですが、どうあったとしても、証拠は必ず"見つかります"よ」

 

沢木はもう弁明の言葉すら出せなかった。両手で自分の腕を抱くようにして、身を縮めている。顔は蒼白で、目の縁が赤い。

 

あんなは、その姿から目を逸らさなかった。いや、逸らせなかった。

 

沢木の態度におかしな所があるとは、あんな自身も思っていた。施錠について聞かれた時の、あの間。言葉に自信がなかった事。何かを隠しているような気配。それは確かにあった。

 

しかし。

 

今のこの沢木の怯え方は、追い詰められた犯人のそれとは、違う。

 

「待ってよ、みくる!」

 

あんなが声を上げた。展示台の間を抜けて、ミステイクと沢木の間に割り込むように立つ。

 

「沢木さん、怖がってるよ! この怖がり方は、犯人のものには見えない!」

 

「そうです」

 

早川が一歩前に出た。

 

「沢木さんの事は私が一番よく知っています。彼女がこんな事をするとは、どうしても思えません」

 

ミステイクの視線が早川からあんなへ、そしてまた沢木へと移る。その表情は冷ややかで、何一つ動じていない。

 

「証拠とロジックが全てを物語っています。感情論で捜査を捻じ曲げるのはやめてください」

 

静かに、しかし有無を言わせない声だった。

 

「でも、沢木さん、こんなに苦しそうで……」

 

あんなが食い下がる。

 

「犯人が苦しむのは当然でしょう」

 

ミステイクが、あんなの言葉を断ち切るように言った。

 

「罪を認めたくないから苦しんでいるだけです」

 

容赦のない一言だった。展示室の空気がまた一段、冷え込む。

 

あんなは唇を噛んだ。何か、何か言わなければ。このままでは沢木が——

 

あんながもう一度口を開きかけた瞬間、ミステイクの動作がそれを遮った。

 

すっ、と人差し指が掲げられる。顔の横で、まるで指揮者がタクトを構えるように。

 

「ケース・クローズド」

 

宣言だった。事件は終わった。犯人は沢木遥。推理は完璧。証拠も揃っている。名探偵ミス・テイクの答えに、間違いはないのだと。

 

展示室の空気が固まった。堀内も中村も岸本も、誰一人としてその宣言に異を唱えなかった。嘘の力に染められた瞳が、ミステイクの言葉を真実として受け入れている。

 

あんなの胸の中で、焦りが渦を巻いていた。

 

自分がライアンサーとして嘘を作り出した時と同じだ。

 

空間には嘘の力が蔓延している。人々はそれに呑まれて、偽りの真相を真実だと信じ込んでいる。このままでは沢木が犯人にされてしまう。無実の人間が、嘘の推理によって。

 

だけど。とあんなの中の迷いが、抵抗する想いを塞ぐように囁く。

 

沢木以外に、絵図を持ち出すチャンスが無かったのは事実だ。施錠された箱。堀内の監視。監視カメラの映像。閉館後は館長が鍵を持ち帰るから、夜に忍び込む事もできない。裏口に痕跡を残したのも沢木のみ。全ての条件を満たせるのは、前日に絵図の前で一人になれた沢木だけ。ミステイクの推理は、論理的には筋が通っている。

 

本当は。ミステイクの推理が——正しいのだろうか。

 

あんなの気持ちが、しぼんでいく。まるで空気の抜けていく風船のように。反論したい。だけど、論理で返す言葉がない。みくるのような推理力が自分にあれば、とあんなは思う。でもそのみくるは、嘘の力に囚われている。

 

「ポチィィ!」

 

あんなが反論を諦めかけた時、胸元のポチタンが、悲鳴のような声を上げた。

 

小さなピンク色の身体が光を放つ。一瞬、ほんの刹那。白い光があんなの視界を満たし、周囲の展示室の光景を押し流した。

 

光の中でみくるの姿が浮かぶ。紛い物の姿ではない。不器用で、真っ直ぐで、頑張り屋さんの、本物の小林みくる。

 

『私も、助けられたから』

 

あの日の事を思い出す。みくるがどうして名探偵になりたいのか——あんなが訊ねた時の事を。

 

『今度は、私が名探偵になって、みんなを助けたい!』

 

その言葉を口にした時のみくるの姿。あの時のみくるも、今のあんなのように、推理が真相に届かず、迷い、恐れていた。だけど、名探偵への想いを語るみくるの目には、揺るがない確かな意思が宿っていた。

 

みくるにとっての名探偵は、依頼人に寄り添って、誰かの助けになれる人。

 

こんな風に冷たく相手を追い詰めて、怯える人間を見下して、切り捨てるようなやり方は……やっぱり、みくるらしくない。

 

光が消えた。あんなの目に、展示室の蛍光灯の白い光が戻る。胸元のポチタンが、小さく息を切らしている。小さな手が、あんなの服をきゅっと掴んでいた。

 

「やっぱり、違う」

 

あんなの言葉に、ミステイクが振り返る。堀内が、中村が、岸本が、早川が、あんなを見た。

 

「まだ終わっちゃだめだよ。この事件、まだ何か隠されてる!」

 

ミステイクの表情が変わる。それは侮蔑と呆れが入り混じった嘲笑だった。

 

「いつもの勘頼り? あなたも探偵なら、もう少し頭を使ったらどう?」

 

みくるの声で発せられる、見下した言葉。それはあんなの胸の奥に鋭く刺さる。

 

けれど。

 

——この前のみくるも、きっとこんな気持ちだったんだ。

 

あの時。ライアンサーが嘘の真相を振り撒いて、人々がそれを信じ込んだあの時。みくるは、一人で踏み止まった。怖かったはずだ。辛かったはずだ。相棒の顔をした嘘に、突き放されて。

 

それでもみくるは、諦めなかった。……なら、自分も、ここで折れるわけにはいかない。

 

あんなは身を翻し、壁際で崩れ落ちそうになっている沢木に駆け寄った。

 

「沢木さん。……まだ、話してない事があるんじゃないですか」

 

あんなの声は柔らかかった。問い詰めるのではなく、手を差し伸べるような声。

 

「沢木さんが怖がっているのは、犯人だって言われたからじゃない。沢木さんは最初から……最初からずっと、何かに怯えていました。それのせいなんじゃないですか」

 

沢木の唇が震える。目が泳ぎ、視線があんなから逸れる。

 

「でも……今更……」

 

声が途切れた。自分の腕を抱いた手に、力がこもっている。

 

「教えてください。あなたの力になりたいんです」

 

あんなが、真っ直ぐに言った。その声には、駆け引きも、計算もなかった。純粋で、まっすぐな一言。

 

「鍵が……」

 

ぽつりと。掠れた声が漏れる。

 

「……かかっていなかったかもしれないんです」

 

あんなは黙って、その先を待った。

 

「今日、木箱を確認しようとして……鍵が開いているのを見た時、急に思い出したんです。前の日に、施錠した時の感触が妙だった事を」

 

沢木の指が、僅かに動いていた。自分の記憶の中の感触を確かめようとしているのかもしれない。

 

「鍵をかけた時はなんとも思わなかったんです。でも絵図が無くなった後、部屋を調べてるときにこっそり確認したら……あの錠前、古くなっていて、かなりしっかり奥に押し込まないと、ちゃんと鍵がかからないんです」

 

声が小さくなっていく。

 

「自分がちゃんと鍵をかけなかったせいで、あの大事な絵図が盗まれたんだって思ったら、怖くて……言い出せなかった」

 

沢木が両手で顔を覆った。声が手の隙間から漏れる。

 

「それに、確認した時にはもう開いていたから……自分がかけ損ねたのか、犯人が鍵で開けたのかも、分からなくなってしまって」

 

「そうだったんですね……教えてくれて、ありがとうございます」

 

慰めるように、静かに。沢木がずっと一人で抱えていた重さが、今やっと、ほんの少しだけ軽くなったように見えた。

 

「なるほど」

 

ミステイクの声が、冷水のように降りかかる。

 

「自分以外の犯行の可能性を広げようという考えですか」

 

感心したような声色。しかしその中身は、嘲りだった。

 

「しかし、どちらにしろこの犯行はあなたにしか不可能です。絵図を持ち出せるタイミングがあったのはあなただけなんですから。鍵が開いていたかどうかは問題じゃありません」

 

余裕の態度。ミステイクの推理の構造は揺らいでいない。絵図を持ち出せるタイミングが他になかった……その前提が崩れない限り、当日の出来事はどうあれ結論は変わらない。

 

これだけじゃ不十分だ。鍵が実際に開ける状態だったとしても、ミステイクの推理は覆らない。何かもう一つ。もう一つ、何かが……

 

——そうだ。あんなは思い至る。

 

話を聞いた時、もう一人様子がおかしかった人がいた。質問に対して急にムキになって、必要以上に声を荒らげた人。

 

あんなの視線が動いた。展示室の壁際に立つその人物へ。

 

視線を受けた堀内義明は、どこかバツの悪そうな表情を浮かべていた。腕を組んだ姿勢はそのままだが、目線が微妙に泳いでいる。

 

「堀内さん」

 

あんなの声は落ち着いていた。

 

「本当に、来てから一度も部屋を出ていないんですか?」

 

堀内の眉が跳ね上がった。

 

「だから、出ていないと言っているだろう!」

 

声が大きくなる。苛立ちが前面に出ている。けれどあんなは、今度は動じなかった。

 

あんなは堀内の目を、澄んだ瞳で真っ直ぐに見つめる。

 

「お願いします。もう一度、よく思い出してください」

 

声に、懇願があった。だが同時に、退かない意志が込められている。

 

「無実の人が、罪を被るかもしれないんです」

 

堀内の表情が揺れた。あんなの真っ直ぐな瞳が、堀内の怒りの仮面の奥の何かを突いていた。

 

堀内の目線が、あんなから逸れた。床に落ち、壁に泳ぎ、天井に向かい、そしてどこにも落ち着かないまま彷徨い続ける。

 

やがて、堀内の組んだ腕が、ゆっくりとほどけた。

 

「電話が……あったんだ」

 

低い声だった。

 

早川が「えっ」と声を上げた。沢木が顔から手を離し、中村が目を瞬かせる。

 

「午前中に、電話が入った。それを受けるために、少しだけ、離席した」

 

あんなが中村の方を振り返ると、「こ、こっちには来てませんでしたよ!」と中村が慌てたように手を振った。

 

「旧保管庫だ」

 

堀内は苦い表情で答えた。

 

「展示室は施工の音がうるさかったんでな。沢木さんが"静かに作業できる"と言っていたのを思い出して、旧保管庫で電話に出ていたんだ。あの部屋なら電話の内容も漏れない」

 

あの窓のない、石造りの小部屋。確かにあの壁の厚さなら、電話の声が外に漏れる事はないだろう。

 

「どうして最初から話してくれなかったんですか?」

 

あんなの声に責める響きはない。ただ、純粋に疑問を口にした。

 

堀内の表情が、また険しくなった。しかし今度は苛立ちではなく、決まりの悪さを隠そうとする険しさだった。唇が動き、止まり、また動く。

 

「……共同研究者からの抗議の電話だ」

 

どうやらもう隠し通せないと観念したようで、堀内は乱暴に眼鏡を外し、レンズを白衣の裾で拭きながら、吐き捨てるように言った。

 

「この企画展の解説文章は全て私が監修している。ところが今朝になって、共同研究者の一人から」

 

堀内の声が、だんだん早くなっていく。怒りが蘇っているのだ。電話をしていた時の怒りが。

 

「記述内容の見解に根拠が弱いだの、こちらの研究内容の無断引用ではないのかだの、散々難癖をつけてきおって。挙げ句の果てに"このまま公開するなら学会に報告する"などと脅しまがいの事まで!」

 

眼鏡をかけ直す手が震えている。

 

「電話の事を話したら、何の電話だったのかと聞かれるに決まっている。こんな話が外に漏れたら、准教授としての面目が立たん。だから話さなかったんだ」

 

堀内の言葉が途切れるのを見計らって、早川が一歩前に出て来る。

 

「堀内先生……あなたは、そんな理由で嘘をついたんですか!」

 

「嘘だと!? 離れていたと言っても、たかだか五分程度だ。話さなかったとしても大した問題じゃない。五分で何が出来るというんだ」

 

堀内の自己中心的な言い分に早川の目が厳しくなったが、そこにミステイクの声が割って入った。

 

「やれやれ、下らない嘘を」

 

失笑だった。本当につまらないものを見る目で、堀内を一瞥してから、ミステイクは肩を竦める。

 

「まあ、大した問題ではありません。どちらにしろ沢木さんの犯行は間違いないのですから。犯行は前日に行われている。今更、堀内先生が多少離席していた事が分かった所で関係ない事です」

 

余裕の態度。ミステイクの推理は崩れていない。少なくとも彼女自身はそう考えている。

 

いや——違う。

 

あんなは展示室の中央に立ったまま、心の中で糸を手繰った。

 

『鍵は確実にかけられていた』

 

沢木の嘘。本当は……かけ損ねたかもしれない。つまり、鍵を持たない人間でも木箱を開けられた可能性がある。

 

『朝から一度も離席しなかった』

 

堀内の嘘。本当は……五分間、席を外していた。つまり、堀内の目がなかった時間帯が存在する。

 

二つの嘘が作り出していた"時間的な密室"。鍵が掛かっていたから鍵を持てる人間しか犯行は不可能だと、堀内がずっと監視していたから当日の犯行は不可能だと。その二つの壁が同時に崩れ、五分間の空白が生まれた。

 

答えは必ず、ここにある。

 

これまで見聞きした情報が頭の中を駆け巡る。

 

展示準備室と展示室を出入りしてた人物。展示準備室に居座っていた堀内。展示室で施工作業をしていた中村。展示室周辺で撮影や取材をしていた岸本。

 

あんなの目が、大きく見開かれた。

 

「ピンと来た!」

 

 

---

 

 

あんなは腰のポーチに手を伸ばした。

 

「オープン! プリキットミラールーペ!」

 

光と共にキーホルダーサイズのミラールーペが本来の大きさに変化する。ハート形の手鏡を開き、ルーペ面を展開した。

 

あんなはルーペを掲げ、壁面パネルを端から順に確認し始めた。解説文を印刷したもの、展示品の写真を拡大したもの、年表や地図を掲載したもの。それらが固定用パネル張り付けられている。中村が今日の作業で固定したパネルと、以前から設置されていたパネルが混在していた。

 

一枚目。レンズの中に、パネル表面の指の跡が淡い光の筋となって浮かび上がる。作業者が取り付ける際に触れた痕跡は均等で、規則的。

 

二枚目。同様の反応。指の配置が似ている。同じ人物が同じ手順で取り付けた事がわかる。

 

三枚目、四枚目。変わらない。丁寧な施工の痕跡。

 

五枚目。

 

あんなのルーペを持つ手が止まった。

 

このパネルは二枚の別々のボードに挟まれた位置にあったが、ルーペの中に映し出された指の跡が、左右のものと明らかに違った。

 

他のパネルでは均等で規則的だった指の痕跡が、このパネルだけは無秩序に散らばっている。パネルの端だけでなく、中央付近にも、上部にも、下部にも。何度も持ち直したかのように、指の跡が重なり合っていた。

 

あんなは更によく観察した。他のパネルではビスがボードにぴったりと沈み込み、パネルが壁面に密着している。しかしこのパネルは固定部分が一部浮いていた。ビスの締め込みが甘く、パネルと壁の間にごく僅かな隙間が生じている。

 

まるで、その部分だけ慌てて作業したかのように。

 

あんなはルーペを下ろし、振り返った。

 

「中村さん、このパネル、外してもらえますか」

 

展示室の隅に立つ中村が、あんなの声に顔を上げる。

 

「え……どうして? せっかく取り付けたのに」

 

声には戸惑いがあった。しかしそれ以上に、僅かな焦りのような気配が見え隠れしている。

 

「お願いします」

 

中村は、あんなの真っすぐな視線を受けて数秒間動かなかった。それから、観念したように口を開く。

 

「……分かりましたよ」

 

中村は工具袋から電動ドライバーを取り出し、パネルの前に立った。縁のカバーをずらし、ドライバーの先端をビスの頭に当て、逆回転で回し始める。ギュイン、ギュイン、と金属の擦れる音が展示室に響く。

 

一本目のビスが外れた。二本目。三本目。パネルを支える固定が次々と解除されていく。

 

最後のビスが外れた瞬間、中村がパネルの端を両手で持ち、壁から引き離した。

 

パネルの裏側が、一同の目に晒された時、一枚の古めかしい紙が仮止めテープで固定されている様がその場の全員の目に入る。

 

和紙の黄ばんだ色。丸めた跡のある、大判の紙。その表面に描かれた鳥瞰の構図。小さな集落の家屋、畦道、社の屋根、私塾のような建物。肉筆の、繊細な線。

 

まことみらい村絵図。

 

「絵図が……!」

 

早川が声を上げた。眼鏡の奥の目が見開かれている。沢木が壁に手をついて身を乗り出す。さきほどまで蒼白だった顔に血色が戻り始めていた。

 

堀内が言葉を失って立ち尽くし、岸本がカメラを構えかけて、しかしシャッターを切る事を忘れたまま固まっている。

 

あんなはパネルの裏の絵図を見つめ、それから一同に向き直った。

 

「館内を探しても見つからなかったのは、"盗み出したのだから、持ち出せる状態にしているはずだ"って、みんなが思っていたからです」

 

その声は落ち着いていた。

 

「でも実際には、固定されて動かせない位置に隠されていました。壁の一部になっていたんです。展示の解説パネルとして」

 

あんなの視線が堀内に向く。

 

「中村さん、何度も展示準備室に確認に来たって言ってましたよね?」

 

「ああ……何度もしつこく聞きに来るから、こっちは校閲に集中したいのに迷惑だと……」

 

話している途中で堀内の目が大きく見開かれた。

 

「まさか……!」

 

あんなは頷き、再び中村に向き直る。パネルを両手に持ったまま立つ中村の顔は、もうあの愛想のいい笑みを浮かべてはいなかった。

 

「展示準備室に何度も顔を出したのは、配置を確認するためじゃなかった。まことみらい村絵図に近づくチャンスを狙っていたからですね」

 

中村は無言だった。パネルを持つ手が、微かに強張っている。

 

「そしてそのチャンスがやってきた。堀内さんが電話で隣の部屋に移動したタイミング。沢木さんも展示室の外に出ていた。展示準備室は無人になる」

 

言葉を区切る。

 

「鍵がちゃんとかかっていなかった事は沢木さんしか……ううん、沢木さんすらもその時は知らなかった。中村さんも偶然、錠前が開けられる事に気づいたんだと思います。だからきっと、これは突発的な犯行」

 

中村はもはや焦りや恐れすらも表情に見せていない。感情が、少しずつ冷たくなって表情から抜け落ちていく。

 

「チャンスと見て絵図を持ち出そうとしたけれど、展示室側で誰かが戻ってくる気配がした。あの大きさの絵図を隠し持つ事も、外に運び出す事も出来ない。だから、次に壁に固定する予定だったパネルの裏に絵図を重ねて、そのまま壁にビスで留めた。パネルの施工作業そのものが、隠蔽工作」

 

中村の表情から、最後の感情が消えた。

 

「きっと、後になって"デザインに修正が入ったから差し替えたい"というような名目で再訪して、パネルごと絵図を持ち出すつもりだったんです」

 

展示室に、長い沈黙が落ちた。

 

中村はパネルを手にしたまま、微動だにしない。やがて、その口元が歪んだ。

 

作業着の男が衣服に手をかけ引っ張ると、次の瞬間にはその体格が全く別のものになっていた。身長や身体のラインも小さくなり、大きく外に跳ねたオレンジの長髪が現れた。頭頂部でパイナップルのように結い上げられた髪、左目の紫の目出しマスク、右目の下の黒い十字星のペイント。

 

怪盗団ファントム、アゲセーヌがそこにいた。

 

「マ~ジ信じらんない!」

 

アゲセーヌは片手を腰に当て、もう片方の手でパネルを地面に立てた。

 

「鍵が開けられるって気づいた時はちょ~ラッキーって思ったのに! 持ち出そうと思ったらちょうど別のヤツが帰ってくるし、探偵までやって来るし、マジ計画台無しなんですけど!」

 

不満を並べ立てながら、髪をかき上げる。

 

「マ~ジチョベリバ~!」

 

叫ぶと同時に、アゲセーヌの手がパネルの裏から絵図を剥がし取った。もう片方の手から、一輪のハイビスカスの花を取り出す。

 

「こうなったら力ずくっしょ! 嘘よ覆え! チョベリグにしちゃって~! ハン——」

 

ハンニンダーの名を呼ぶ声は、最後まで紡がれなかった。手の中から、絵図が消えていたからだ。

 

「……はぁっ!?」

 

アゲセーヌが素っ頓狂な声を上げた。空になった両手を見つめ、それから慌てて周囲を見回す。

 

絵図を手にしていたのはミステイクだった。

 

展示室の中央。蛍光灯の白い光の下で、ミステイクは左手に掴んだ絵図を垂らし、身体を震わせている。仮面の奥の表情は怒りで歪んでいた。

 

「あり得ない……」

 

低い声が、唇の隙間から漏れる。

 

「私の推理が間違っているなどと……そんな事……」

 

握りしめた絵図が、僅かに皺を寄せた。

 

「あってはならない!」

 

叫びだった。その感情に呼応するように、空間が歪み始める。

 

床の境界線がぼやけ、壁の輪郭が揺らぎ、天井の蛍光灯が一つ、また一つと消えていく。展示室の空間そのものが変質していく。早川が、沢木が、堀内が、岸本が、アゲセーヌが、その姿が薄れ、霞のように溶けて消えていった。

 

残されたのは、ミステイク。あんな。そして、あんなの胸元のポチタンの三人。

 

密室空間。ハンニンダーが生み出すのと同じ、特定の人間のみを閉じ込める特殊な空間。先日、キュアライアンサーがやったのと同じ芸当だ。

 

「みくる!」

 

あんなが声を張り上げた。

 

「目を覚まして! 絵図は見つかったよ! 事件は解決したの!」

 

ミステイクは、あんなの言葉を聞いていなかった。いや、聞こえていても届いていなかった。

 

「事件を解決するのは、私のような名探偵の役目なのよ!」

 

ミステイクがムキになって叫ぶ。右手がケープの内側に伸び、ファントムライトを引き抜いた。真っ赤なライト部が、密室空間の暗がりの中で脈動するように明滅している。

 

赤い光が絵図に向けられた。

 

光が触れた瞬間、絵図の表面に暗い靄のようなものが滲み出す。和紙の黄ばんだ色が闇に沈み、靄が絵図全体を包み込み、やがてミステイクの手の中から絵図が姿を消した。

 

「この証拠を消せば、私の推理は正しいまま」

 

ミステイクの声が、密室空間に冷たく響いた。

 

「名探偵の推理は覆らない。覆させない!」

 

あんなの表情が、悲しく曇った。

 

怒りではなかった。悔しさでもなかった。ただ、悲しかった。

 

「それが……それが、みくるにとっての名探偵なの……!?」

 

あんなの振るえる声。ミステイクが、あんなを見る。

 

「誰かを悲しませて、罪を被せて、それで事件を解決するのが、みくるの目指した名探偵なの!?」

 

あんなの声が、密室空間の暗闇を貫く。しかし、ミステイクはその問いかけに平然と答えた。

 

「ええ、そうよ」

 

声には、迷いの欠片もなかった。

 

「重要なのは私が解決したという事実だけ。誰が悲しもうが、捕まろうが、関係ないわ」

 

吐き捨てるような一言だった。

 

「違う」

 

あんなは、ミステイクの言葉を真正面から受け止め、そしてはっきりと言い切った。

 

「みくるは、自分を助けてくれた人に憧れて、自分も名探偵になろうって思った」

 

あんなが一歩踏み出す。

 

「みくるを助けてくれた人は、みくるに寄り添ってくれた。誰かを踏みにじって事件を解決するような人じゃなかった。だからみくるは憧れたんでしょ?」

 

もう一歩。

 

「だったら、みくるが誰かを傷つけるような事を平気でするわけがない! みくるは、そんな探偵にはならない!」

 

あんなの声が、密室空間の闇を震わせる。ミステイクの表情が、僅かに揺らいだ。

 

怪訝そうに眉を寄せ、あんなの顔を見つめている。

 

「何を言って……」

 

声に、初めて戸惑いが混じった。

 

「私の憧れた名探偵は……」

 

言葉が途切れた。

 

ミステイクの濁った瞳が、一瞬焦点を失う。脳裏に、何かが浮かんでいる。

 

憧れの名探偵の姿。自分を助けてくれた、あの人。あの時の事。

 

権威と名声。そう、私はあの人の権威に憧れたのだ。あの人のように、誰もが認める天才探偵に。……そう思ったはずだった。

 

なのに、頭に浮かぶ姿は、それと大きく異なっていた。

 

怯えている自分に、手を差し伸べてくれた人。真実に向き合って自分を助けてくれた。名声のためでも、実績のためでもなく、ただ助けたいから助けてくれた人。

 

そう、自分が憧れたのは、そんな——。

 

「違う……そんなはずは……」

 

ミステイクの声が、掠れた。両手で頭を押さえ、仮面の下の瞳が揺れている。

 

「私は……私にとっての名探偵は……」

 

混乱がミステイクの全身に広がっていく。確固たるものだったはずの足元が、自分自身の記憶によって揺らいでいる。

 

その時、ミステイクの腰のポーチがひとりでに開いた。

 

中から浮かび上がったのは、フェイクキュアウォッチ。黒い外装、反転した文字盤が暗い紫色の光を放っている。セットされたマガイジュエルが毒々しい色を放っていた。しかし……

 

ピシッ。

 

マガイジュエルの表面に、亀裂が走った。

 

小さな罅が、宝石の中心から放射状に広がっていく。嘘の力で塗り固められた殻に、真実が内側から拳を打ちつけている。

 

同時に、あんなの胸元で光が弾けた。

 

首から下げたペンダントの懐中時計が、白い光を放っている。嘘の力に染まる事のない、純粋な真実の光。

 

あんなは目を閉じる。光の中にみくるの姿が浮かんだ。

 

不器用に、けれど一生懸命にメモを取る姿。推理を組み立てる時の、真剣な横顔。行き詰まった時に眉を寄せて、それでも諦めずに考え続ける姿。依頼人の前で「キュアット探偵事務所にお任せを!」と胸を張る時の、あの少しだけ照れくさそうな笑顔。

 

あんなの目が開かれた。その瞳に、確かな光が宿っている。

 

「感じたよ——みくるの本当の心!」

 

あんなの手が、胸元のペンダントを掴んだ。白い懐中時計を両手で包み込む。

 

「オープン!」

 

掛け声と共に懐中時計が光を放ち、変化した。

 

白い光の中から姿を現したのは、大型の時計型変身アイテム。赤い短針が文字盤の1を指し、紫の長針が12を指している。

 

「ジュエルキュアウォッチ!」

 

あんなの胸の奥から、桃色の光が浮かび上がった。あんなの心に宿るマコトジュエル。それをジュエルキュアウォッチの接続部にセットする。

 

「プリキュア、メイクアップタイム!」

 

密室空間の闇を切り裂くように、光が広がり、あんなの姿が変化し始める。

 

「サン!」

 

長針を3の位置に動かすと、あんなの髪が光に包まれ、オレンジの茶髪が紫色のロングツインテールに変わっていく。

 

「ロク!」

 

長針を6の位置へ。光の中で衣服の輪郭が変わり、紫色のビスチェ型ワンピースが姿を現す。

 

「キュー!」

 

長針を9の位置に。白いオーバーニーソックスが両足を包み、リボンの付いた紫色のパンプスが足元に現れた。白いオープンフィンガーグローブが両手を覆い、薄紫のマニキュアが爪先を彩る。

 

そして最後に、長針を一回転。

 

髪飾り、ブローチ、ケープ。残りのパーツが光と共に形成されていく。

 

右手の人差し指で、宙に花丸の形を描いた。指先が光の軌跡を残し、宙に花丸マークが浮かび上がる。そして人差し指を額に当てるポーズ。

 

「どんな謎でもはなまる解決! 名探偵、キュアアンサー!」

 

密室空間に声が響き渡った。闇を押し退けるように、声が、光が、広がっていく。

 

アンサーは正面を、ミステイクを真っ直ぐに見据え、指を突きつける。

 

「わたしの答え、見せてあげる!」

 

 

---

 

 

紛い物の空間に形成された郷土資料館の天井が、砕けた。

 

衝撃波が屋根瓦を吹き飛ばし、木材の破片と埃が夜空に撒き散らされる。その中を二つの影が弾き出された。紫の光の尾を引くキュアアンサーと、深紅の軌跡を残すキュアミステイク。互いの拳がぶつかり合った反動で、二人は別々の方向へと弧を描いて飛ばされ——路上に着地した。

 

アンサーは体勢を立て直し、片膝をついた状態からゆっくりと立ち上がった。向かい合うようにして、二十メートルほど先にミステイクが立っている。密室空間が作り出した偽りの街並みに、人の気配はない。

 

崩れた資料館の屋根から、小さなピンクの影がふわりと飛び出してきた。ポチタンだ。紫の瞳が心配そうに二人を見比べ、小さな手をぎゅっと握りしめている。

 

ミステイクは、ふん、と小さく笑った。唇の端だけで作る、冷たい笑み。仮面の奥の瞳が、アンサーを値踏みするように見ている。

 

それから、ミステイクの手がケープの内側に伸びた。取り出したのは……ファントムライト。黒く刺々しい形状の先端から、真っ赤な発光部が覗いている。

 

ミステイクはそのライトを、自分自身に向けた。

 

赤い光が足先を照らす。そこから這い上がるように、ゆっくりと、ミステイクは光を自分の身体に沿わせていく。脛、膝、腰、胸、首。光が通り過ぎた箇所から、絵図がそうであったように、暗い靄が滲み出していく。

 

足先が消えた。膝から下が闇に溶けた。腰が、胸が。ミステイクの身体が下から順に靄に包まれ、薄れ、消えていく。

 

最後に残った顔、薄い笑みを浮かべてアンサーを見つめる顔が消え、遂に全身が完全に消えた。

 

「な——っ!」

 

アンサーが息を呑んだ。目の前には何もない。さっきまで確かにそこに立っていた紅い姿が、跡形もない。

 

気配を探った。左右、前方、後方。密室空間の偽りの街並みは静まり返っている。ポチタンがアンサーの頭上できょろきょろと辺りを不安そうに見回している。

 

——背中に、殺気。はっと振り向いた瞬間、背中に強烈な衝撃が叩き込まれた。

 

「ぐっ——!」

 

前のめりに吹き飛ばされたアンサーは、咄嗟に両手を路面につき、受け身を取って転がった。すぐに足を踏ん張って立ち上がる。振り返っても、そこには誰もいない。

 

次の瞬間には脇腹に蹴りが突き刺さった。体がくの字に折れ、横方向に弾き飛ばされる。街灯のポールに背中を打ちつけ、金属が悲鳴を上げた。

 

立ち上がろうとした瞬間、頭上から踵落とし。右肩に直撃、膝が崩れる。正面から腹部への掌底。後ろに吹き飛ばされかけた所へ、背中に回し蹴り。

 

方向が掴めない。攻撃が来る方向に法則がない。

 

正面から、右から、左から、背後から。四方八方から、見えない攻撃が叩きつけられる。アンサーは防御に両腕を上げるが、攻撃は防いだ腕の隙間を縫うように的確に、何度も何度も、容赦なく打ち込まれる。

 

「あらあら、あなたに私の足取りが掴めるかしら?」

 

嘲るような声が降ってきた。頭上の、おそらく屋根の上から。

 

しかし、声が聞こえた時にはもうそこにいないはずだ。アンサーは歯を食い縛り、痛む身体を叱咤して、思考を切り替えた。

 

視覚に頼れないのなら。

 

アンサーは目を瞑った。耳に、全ての意識を注ぐ。

 

闇の中で、聴覚が研ぎ澄まされていく。密室空間の静寂の中に、微かな音を拾い始める。

 

足音。

 

旋回するように、アンサーの周囲を巡る足音。コツ、コツ、コツ。一定のリズムで弧を描いている。距離が縮まっていく。

 

そして、足音が地面を蹴った。踏み切りの音。跳躍。右斜め前方から。

 

「そこだっ!」

 

アンサーが目を開き、全身のバネを使って右足を振り抜いた。渾身の回し蹴りが、空気を切り裂いて——そのまま空を切った。

 

「えっ?」

 

驚きに固まったその一瞬の隙を、背後からの一撃が穿つ。首の付け根への正確な打撃。視界が白く弾ける。両膝が崩れ、アンサーは路面に叩きつけられるように倒れた。

 

冷たいアスファルトの感触が頬に触れる。全身が痛みで軋む。それでも顔を上げようとした時、ミステイクの声が聞こえた。

 

「残念ね」

 

右から。

 

「今のは私の『ファントムボイスメモ』が作り出した偽りの足音よ」

 

左から。同時に。

 

アンサーは震える腕で上半身を起こした。片膝をつき、顔を上げる。

 

次の声は今度は四方から、全く同時に響いた。

 

「私にかかれば証拠も証言も思いのまま。あなたは私という真相に辿り着く事は絶対に出来ない」

 

ミステイクの声が、密室空間の中で反響する。

 

証拠も証言も思いのまま。その言葉が、アンサーの脳裏で特に強く響いた。

 

沢木が否定していた、外へ向かう足跡。一緒に調査した時は無かったはずなのに、突然現れたあの紙片。存在しないはずの証拠。

 

「まさか……証拠を捏造したの!?」

 

アンサーの声が掠れていた。

 

沈黙は一拍だけだった。四方向から同時に、ミステイクの声が返ってくる。

 

「捏造だなんて人聞きの悪い」

 

笑いを含んだ声だった。

 

「私の推理を揺るぎないものにするための一押しを用意しただけよ」

 

ミステイクが嗤っている。その笑い声が密室空間の路上に反響し、折り重なり、あらゆる方向から押し寄せてくる。足音も混じった。一つ、二つ、四つ、八つ——偽りの音が空間を埋め尽くしていく。

 

右から走る足音。左からの笑い声。背後から囁き。頭上から嘲笑。

 

音の洪水がアンサーの平衡感覚を狂わせる。どこに立っているのかも分からなくなる。

 

しかし、アンサーはそんな事を気にしていなかった。

 

身体の痛みも。方向の喪失も。見えない敵の恐怖も。今、アンサーの胸を焼いているのは、もっと別のものだった。

 

激しい怒り。

 

ミステイクに対してではない。

 

みくるが憧れた名探偵——証拠を積み重ね、真実を見つけ出し、困っている人を助ける存在。みくるの夢が。みくるの想いが。みくるの名探偵への憧れが、『証拠を捏造し、無実の人間に罪を着せる探偵』という虚像によって汚された事に、アンサーは怒っていた。

 

「オープン! プリキットミラールーペ!」

 

腰のポーチからミラールーペを取り出し、ハート形のミラーを開いてルーペ面を展開した。

 

ルーペを掲げ、周囲を確認する。レンズの中に、路面に残されたミステイクの足跡が薄く光る残像となって浮かび上がった。動きの軌跡を追うように視線を走らせると、ちらりと、ぼやけたシルエットがレンズの端を横切った。

 

アンサーは素早くルーペで追いかけた。一瞬だけ、輪郭が見える。特徴的なツインテールが揺れる様。しかしルーペの視野は限られている。映し出せる範囲が狭く、高速で移動するミステイクの姿は視界からすぐに逃げてしまう。

 

「そんなもので私を捕まえられると思った?」

 

声は真横から聞こえた。強烈な蹴り上げがミラールーペを直撃し、ミラールーペはくるくると回転しながら宙を舞い、遠くの路面に落ちて跳ねる。

 

「う——っ!」

 

間髪入れず、脇腹への肘打ち。アンサーは横方向に吹き飛ばされ、アスファルトの上を転がった。

 

身体中が痛む。ダメージが蓄積している。それでもアンサーは腕を突いて身を起こそうとした。

 

ミステイクの声と足音が、再びあらゆる方向から押し寄せてくる。

 

「事件を解決するのは私のような名探偵にのみ許された特権!」

 

背後から。

 

「あなたのような邪魔な証言者には消えてもらうわ」

 

右から。

 

「これであなたは——」

 

正面から、左から、頭上から、足元から。全方向から同時に、宣告が迫る。

 

「——永遠に迷宮入りよ!」

 

無数の足音が、四方八方から一斉に収束してくる。

 

——その瞬間。アンサーの拳が、虚空を打った。確信を持って。迷いなく。

 

アンサーの正拳突きが"何もない空間"に突き刺さった瞬間、手応えが返ってきた。確かに何かに当たった衝撃が、拳から腕を伝って肩に響く。

 

「なっ……」

 

堪えきれない呻き声と共に、姿の見えない何かがよろめく気配がした。後ずさりする足音。これは本物の足音だった。

 

ミステイクの側からすれば、奇襲を仕掛けたはずが逆に完全な不意打ちを受けた形だ。こちらは完全に空間に溶け込んでいたはず。足音も偽装していた。それなのに、あの拳は寸分の狂いなく自分を捉えた。

 

理由を探ろうとした目が、自分の身体を見下ろした時、ミステイクは気づく。

 

完全に周囲に溶け込んでいるはずの身体が、ぼやけた輪郭となって浮かび上がっている。空間の中に、自分のシルエットが揺らめく蜃気楼のように滲み出していた。

 

「な、なぜ……!?」

 

ミステイクが周囲を見回した。ファントムライトの効力は健在のはず。ならば何が、と周囲を見渡した時に気付く。

 

先ほどアンサーの手から蹴り飛ばした、あのプリキットミラールーペが、落ちたはずの路面にない。

 

はっと、頭上を見上げると、小さなピンクの影が自分を見下ろしている。

 

ポチタンが、両手でミラールーペを抱えていた。ルーペのレンズが下を向いて、真っ直ぐにミステイクを捉えている。

 

真実を映すルーペのレンズはミステイクの姿を明確に映している。そして、アンサーの前に立つ実在のミステイクの身体も、空間の歪みのような輪郭から徐々に色を取り戻していく。深紅のコスチューム。仮面の奥の、驚愕に見開かれた瞳。完全に実体化が進み、ファントムライトの偽装が消え去っていく。

 

 

【挿絵表示】

 

 

ミステイクがポチタンの存在に気付いたその瞬間、アンサーは、もう動いていた。腰のポーチからジュエルキュアウォッチを取り出す。針を一回転させるのと同時に紫色の光が溢れ、アンサーの右拳に収束していく。光が渦を巻き、拳の周囲にエネルギーの奔流が纏わりつく。

 

「アンサーアタック!」

 

踏み込みと同時に放たれた一撃が、ミステイクの胸元を打ち貫く。

 

咄嗟に腕を交差させて防御したミステイクだったが、エネルギーを纏った拳の力を受けきれなかった。ガードの上から衝撃が全身を突き抜け、ミステイクの身体が後方に吹き飛ぶ。

 

手にしていたファントムライトが指から離れ、弧を描いて路面に転がった。同じく、黒い妖精の見た目をしたファントムボイスメモが地面を跳ね、街灯の根元に転がって止まる。

 

「ポチタン! ありがとう!」

 

アンサーが頭上を見上げ、声を弾ませた。ポチタンが「ポチィ!」と力強く応え、ミラールーペを放り投げる。

 

弧を描いて落下するミラールーペをアンサーの手がしっかりと掴み取り、構え直す。

 

「ポチタン!」

 

ポチタンの「ポチィ!」という声に合わせ、ポチタンの胸のペンダントが光を放った。輝きの中から、マコトジュエルが飛び出す。

 

「マコトジュエル!」

 

アンサーがマコトジュエルをミラールーペにセットした。宝石がセットされた瞬間、ミラールーペ全体が白い光に包まれる。

 

中央部の宝石状のパーツに指をかけ、回転させていく。回すたびに光が強くなり、密室空間の闇を押し退けていく。ミラー面に揺るぎない意志を湛えたアンサーの顔が映し出される。

 

「キュアアンサーが解決!」

 

ミラールーペの先端から、光が収束し始めた。薄紫色のエネルギーが形を成し、伸び、研ぎ澄まされ——一振りの大剣の輪郭を描き出す。

 

「プリキュア! アンサーはなまるソード!」

 

エネルギーの大剣が完全に実体化した。アンサーは両手で柄を握り、はなまるソードをミステイクに構える。

 

光の大剣を振りかぶり、ミステイクに向かって跳躍。路面から身を起こしていたミステイクが顔を上げた。仮面の奥の濁った瞳に、アンサーの姿が映る。

 

一閃。

 

大剣がミステイクの輪郭をすり抜ける。だが、その刃が切り裂いたのは、目の前に居た相手ではなく、みくるという真実を覆い隠している虚像。

 

アンサーがミステイクの背後に着地した。振り抜いた剣の軌跡が、宙に光の線を残している。その光が円状になり、花丸マークを描き出す。

 

「キュアっと解決!」

 

アンサーの声が響いた瞬間、光が弾け、エネルギーが溢れ出し、ミステイクを包み込んでいく。足元から這い上がるように、暖かな浄化の光が全身に広がっていく。

 

「——あっ……あああああっ!」

 

ミステイクが叫んだ。深紅のコスチュームが光に溶けていく。仮面が砕ける。蝙蝠の翼のような装飾が、黒い十字星のペイントが、偽りの名探偵の全てが——光の中に消えていく。

 

キュアミステイクという嘘の姿が溶けて、光が消えた後に立っていたのは——小林みくるだった。

 

みくるの足元から力が抜けていく。膝が崩れ、前に倒れかけた身体を、駆け寄ったアンサーの腕が、しっかりと受け止めた。

 

「みくる!」

 

アンサーがみくるの肩を抱き、崩れる身体を支える。みくるの頭がアンサーの胸元に預けられた。目は閉じられているが、微かに唇が動き、細い呼吸が漏れている。

 

歪んだ密室空間の中で、アンサーはみくるを抱き締めたまま、動かなかった。

 

 

---

 

 

不完全に残った密室空間は、浄化の余波で空間の境界が曖昧になり、黒かった空が薄い灰色に明るみ始めている。ひび割れた空の隙間から、現実の夕暮れの光が細く差し込んでいた。

 

アンサーの腕の中で、みくるの睫毛が震えた。

 

「……ん……」

 

小さな呻きと共に、緑の瞳がゆっくりと開く。焦点が定まらない目が、しばらくの間ぼんやりと宙を彷徨った。視界に映るのは、紫色のツインテール。緑がかったアクアブルーの瞳。自分を抱き支える白いグローブの手。

 

「あん……な……?」

 

掠れた声だった。

 

「みくる! 気がついた!?」

 

アンサーの声に、みくるの意識が少しずつ輪郭を取り戻していく。記憶は靄がかかったようにおぼろげだった。だが、その時点でみくるは何があったかを察し始めていた。みくるは前回、あんながライアンサーに変化し、そして浄化される様を目にしていたからだ。

 

意識してもはっきりした記憶は浮かんでこない。しかし、断片は残っている。

 

関係者を集めて推理を披露した事。沢木を犯人だと断じた事。証拠を——捏造した事。あんなの言葉を跳ね除け、嘲り、見下した事。

 

みくるの目に、涙が滲んだ。

 

「ごめん……私……」

 

声が震える。アンサーの腕の中で身を起こそうとして、うまく力が入らず、また支えられる。

 

「あんなにすごく酷い事言ったよね……」

 

涙が一筋、頬を伝った。

 

「それに、無実の人を犯人に仕立て上げようとして……」

 

言葉が途切れた。涙声の奥にあるのは、罪悪感と、そしてそれ以上に、自分自身への恐怖だった。

 

アンサーは、みくるの顔を覗き込み、そして朗らかに、笑った。

 

「お互い様だよ」

 

その笑顔には影も翳りもなかった。当たり前の事をしただけだと。

 

「この前はみくるがわたしを助けてくれたんだから。今度はわたしの番。それだけの事でしょ?」

 

みくるは濡れた目でアンサーの顔を見上げ、何か言おうとして、しかし言葉にならず、唇を結んだ。

 

ふわり、と。小さなピンクの影がみくるの傍に降りてきた。ポチタンが、みくるの膝の上にちょこんと着地する。

 

「ポチタンも、ごめん……大変だったよね」

 

みくるが涙を拭いながら、もう片方の手でポチタンの頭にそっと触れる。すると、ポチタンは首を小さく横に振った。

 

「ごめん、ちがう」

 

たどたどしい声だった。赤ちゃん言葉で、舌足らずで、けれどはっきりと。

 

みくるとアンサーが顔を見合わせた。ポチタンはみくるの顔を見上げたまま、小さな口を懸命に動かして、一つの言葉を紡いだ。

 

「ありがと」

 

みくるの瞳が、大きく見開かれた。涙の跡はまだ頬に残っている。けれど、その顔がゆっくりと柔らかく、ほどけた。

 

「……そうだよね」

 

みくるはアンサーとポチタンを順番に見る。

 

「あんな、ポチタン。——ありがとう」

 

アンサーが嬉しそうに目を細めた瞬間、空間の一角が揺らいだ。

 

薄い灰色の空気の中に、靄のようなものがふわりと浮かび上がった。漂う靄が渦を巻き、凝縮し、平たい形を成していく。輪郭が鮮明になり、色が戻る。和紙の黄ばんだ色合い。まことみらい村絵図が、宙に浮かぶようにして姿を現した。

 

「あっ!」

 

二人の声が重なった。アンサーがみくるの体を支えながら立ち上がり、みくるも足に力を入れて、ふらつきながらも自分の足で立った。二人で駆け寄り、ゆっくりと降りてくる絵図を、四つの手で受け止める。

 

指先に触れる和紙の質感。確かな重み。本物だった。

 

アンサーが絵図を持ち上げ、みくると目を合わせて、笑った。

 

「これで、事件解決だね」

 

 

---

 

 

みくるが沢木の前に立ち、深く頭を下げた。

 

「ごめんなさい!」

 

沢木が目をぱちくりさせた。

 

「犯人だなんて疑いをかけてしまって……苦しい想いをさせてしまって、本当にごめんなさい」

 

下げた頭を上げられないまま、みくるは言葉を続けた。声が震えていた。心からの謝罪だった。

 

しかし、沢木の反応は予想と違っていた。

 

「犯人って……どういう事?」

 

きょとんとした顔で、沢木がみくるを見ている。

 

みくるが困惑して顔を上げた。隣のあんなも、意外そうな表情を浮かべている。

 

「そういえば……」

 

沢木が眉を寄せ、記憶を手繰るように視線を宙に彷徨わせた。

 

「確かに、誰かに犯人だって言われたような気が……するような、しないような……」

 

首を傾げる。あれほど追い詰められていたのに。ミステイクに名指しで犯人扱いされ、ファントムライトで捏造された証拠を突きつけられ、顔を真っ青にして震えていたのに。その記憶が、沢木の中では霞がかかったように曖昧になっていた。

 

あんなとみくるが顔を見合わせる。

 

「もしかしてこれって……嘘の力が消えたから?」

 

あんなが小声で呟いた。みくるが同じく声を潜めて頷く。

 

「キュアミステイクは嘘の力で生み出された存在だから……その嘘が暴かれた事で、周りの人にとっては、起こった事自体が嘘になってしまったのかも」

 

そういえば、とあんなが思い出す。前回、ライアンサーの事件の後も同じだった。児童館の人達は、事件が終わった後、ライアンサーと一連の出来事についてほとんど触れていなかったのだ。

 

その時、早川が二人の前に歩み出てきた。

 

「絵図を見つけ出してくれてありがとう」

 

早川は二人に向かって穏やかに微笑んだ。

 

「あなた達がいてくれて良かったわ。小さな探偵さん達」

 

「いえ、そんな……」

 

みくるの表情には陰がある。沢木が疑われた事を忘れているのは、みくるにとって救いではなかった。嘘の力に呑まれていたとはいえ、あの言葉を口にしたのは自分だ。沢木が覚えていなくても、自分がやった事は消えない。

 

今度は沢木が早川に頭を下げた。

 

「館長、申し訳ありませんでした。私がちゃんと施錠していれば、こんな事には……」

 

「沢木さん」

 

早川がその言葉を遮った。厳しい声ではなかったが、けれど曖昧な色も見せず。

 

「鍵の管理を怠っていたのは、あなた個人の責任じゃないわ。管理体制そのものを見直さなければいけなかった。資料館全体の問題よ」

 

沢木が顔を上げ、早川と目を合わせた。まだ自責の念が消えたわけではなかったが、館長の言葉に、強張っていた肩の力が少しだけ抜けた。

 

丸く収まりそうな空気が流れかけた所で、早川が「ただ……」と付け加えた。

 

「企画展は延期になるかもしれないわね」

 

視線が堀内と岸本の方を向いた。展示室の入口付近で、岸本がカメラを片手に堀内に何かを話しかけている。

 

「堀内先生、先ほどの共同研究者とのお電話の件なんですが、もう少し詳しくお聞かせいただけませんか。記事にする際、学術的な見解の相違という点は読者にとっても——」

 

「誰が受けるか! 取材なら広報を通せ!」

 

堀内が眼鏡を押し上げながら足早に立ち去ろうとするが、岸本は臆する様子もなく食い下がる。

 

「そう言わずお願いしますよ、先生。ほんの五分で構いませんから——」

 

「だから受けんと言っている!」

 

廊下の奥まで響く堀内の怒声と、それに負けない岸本の粘り強い声。その騒がしいやり取りを見て、あんなとみくるが顔を見合わせ、思わず吹き出した。早川も口元を手で覆い、沢木もつられるように困った笑いを浮かべる。

 

夕暮れの柔らかな光が、資料館のロビーに差し込んでいた。

 

 

---

 

 

夕暮れの残光が窓から細く差し込む、キュアット探偵事務所。

 

「あんなに続いてみくるまで、か……」

 

ジェットの声は低かった。キャンディの棒を指先で弄びながら、ソファに座る二人を見下ろしている。

 

キュアライアンサーに続いて、キュアミステイク。あんなが嘘の力で変えられたのだから、みくるにも同じ事が起こり得る——その可能性は、ジェットの中では想定していたものだった。しかし、頭の中で想像する事と、実際に目の前で起こる事とでは、天と地ほどの差がある。

 

「一応、こっちに持ち込んでいた資料には目を通したんだが」

 

ジェットが事務デスクの上に積まれた革装丁の文献に目を向けた。

 

「書いてある内容があやふやで具体性がないんだ。有益なものはほとんどなかった」

 

ため息混じりに、天井を見上げる。

 

「ウソノワールは、僕たちの知らないプリキュアの秘密を、知っているのか……」

 

独り言のような呟きだった。嘘の力でプリキュアの変身そのものを書き換えてしまう、そんな芸当が可能であるという事は、ウソノワールがプリキュアについて、こちらの知らない何かを把握しているという事なのか。

 

「ロンドンの事務所からも資料を取り寄せてみるけど、たぶんあまり期待は——」

 

言いかけて、ちらっと二人を見た。

 

あんなもみくるも、神妙な面持ちで黙り込んでいる。ポチタンもあんなの膝の上で、いつもの元気がない。

 

ジェットは「ふう」と短く息を吐いた。

 

沈んだ空気をこのまま引きずっても仕方がない。ジェットは意識的にトーンを変え、口調を軽くした。

 

「ロンドンの事務所と言えば、今日ようやくあれが届いたんだ」

 

「あれって?」

 

あんなとみくるが顔を上げた。ジェットが事務デスクに置かれていた封筒を持ち上げて見せる。上質な紙の封筒。封には「C」のマークのシーリングスタンプが押されている。

 

「言ってただろ? キュアアルカナ・シャドウについて、ロンドンのキュアット探偵事務所に調査をお願いしたって」

 

二人の目が変わった。キュアアルカナ・シャドウ——怪盗団ファントムに属しながらプリキュアに変身する、あの謎めいた少女の正体。それは二人にとっても、ずっと気になっていた案件だった。

 

あんなとみくるがソファから立ち上がり、事務デスクに集まる。ポチタンもあんなの肩にしがみついて身を乗り出した。四つの視線が、封筒に集まった。

 

「開けるぞ……」

 

ジェットがデスクの引き出しからレターオープナーを取り出し、封筒の端に刃を当てた。紙を切る小さな音が、静まった部屋に響く。封を開き、中から数枚の紙を引き出した。

 

キュアット探偵事務所本部の便箋に、調査報告書が添えられている。ジェットが報告書を広げ、四人で覗き込んだ。

 

---

 

沈黙が流れた。期待が、静かにしぼんでいく。

 

報告書の内容は簡潔だった。キュアアルカナ・シャドウ——まことみらい市のキュアット探偵事務所に元居た人物。ただし探偵ではなく、あくまで探偵助手として在籍していた一般人。名前は「茂蘭(もらん)るな」。在籍中に不審な点は確認されず、それ以上の詳細なデータは見つからなかった、と。

 

「プリキュアに変身出来るから、てっきり元は探偵だったんだと思ってたんだけど」

 

みくるが眉を寄せて頭を捻る。

 

「怪盗団に入る前は普通の子だったんだね。元居た探偵さんと何かあったのかな……」

 

あんなが報告書を見下ろしながら呟いた。しかし報告書にはそれ以上の手がかりはない。

 

「ロンドンの本部が調べて分からなかったんじゃ、これ以上調べようがないな」

 

ジェットが報告書をデスクに置き、腕を組んだ。

 

先ほどまでの重苦しさに比べれば、空気はいくらかほぐれていた。けれど、小さな不安は消えてはいなかった。

 

キュアアルカナ・シャドウの正体には、辿り着けなかった。偽りの報告書が、真実を覆い隠している事にも気付けないまま。そして、キュアライアンサーとキュアミステイク。二つの嘘のプリキュアが、もう一度現れないという保証はどこにもない。

 

迷宮の中を彷徨い歩いているような感覚が、キュアット探偵事務所の面々を包んでいた。

 

夕暮れが夜に変わり、アーチ窓の向こうに星が一つ、二つと灯り始める。事務所の蛍光灯が部屋を照らし、四つの影を壁に映していた。

 

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