名解盗プリキュア!   作:おとともの

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第16話?「真実の痛み…ライアンサー再来!」

放課後の陽が西に傾き始める頃、キュアット探偵事務所に二つの足音が戻ってきた。

 

事務所の奥、壁一面に広がる大きな地図と散りばめられたメモの前——ジェットの定位置であるデスクの上に、見慣れた二つのアイテムが並べて置かれていた。プリキットミラールーペ。ハート型の手鏡にルーペを内蔵した、名探偵プリキュアの伝説のプリキット。あんなのものとみくるのもの、二つが揃って差し出されるように置かれている。

 

「無理のない範囲で出力を強化してみた」

 

デスクの向こう側に立つジェットが、咥えていたキャンディを取り出しながら言った。ゴーグルの下のエメラルドの瞳が、デスクの反対側に立つあんなとみくるを見ている。

 

二人はそれぞれのミラールーペを手に取り、まじまじと見つめた。ポチタンが小さな羽をぱたぱたと動かしながら浮き上がり、好奇心いっぱいの瞳でミラールーペを覗き込んでいる。

 

「出力?」みくるが首を傾げて疑問の声を上げる。

 

「ミラールーペは隠された証拠を見つけ出す。嘘を見破り、真実を映し出す力を持ってるって事だ」

 

ジェットはキャンディの棒を指で弄びながら、淡々と説明を続けた。

 

「その力を高めたんだよ」

 

その言葉を聞いた瞬間、二人の表情がぱあっと明るくなった。あんなとみくるが同時に顔を見合わせ、同じ結論に飛びつく。

 

「それってつまり——」みくるが身を乗り出すようにして声を弾ませた。「どちらかが嘘の力に包まれても、元に戻せるってこと!?」

 

ライアンサー。ミステイク。あの忌まわしい嘘のプリキュアに変えられた時、相棒を取り戻すための力になる。二人の目に希望の光が灯る。

 

しかし、返ってきたのは沈黙だった。

 

ジェットはキャンディに目線を向けながら、バツの悪そうに空いた手で後頭部を掻いた。次の言葉までに、少し間があった。

 

「嘘の力にどれだけ効果があるかは……未知数って所だな」と、不服そうに口にする。

 

天才博士を自称するジェットにとって、不完全な成果を他人に渡すというのは本意ではないのだろう。普段の斜に構えた態度の奥に、自分の力不足を認めなければならない苦さのようなものが滲んでいた。

 

「え……?」

 

あんなとみくるの表情から、一気に光が引いた。二人して同じように肩を落とす。

 

「ハンニンダーを浄化するのも、ミラールーペの力を引き出すのも、プリキュアに変身しないとできないだろ?」

 

その言葉に二人は黙って頷く。

 

「プリキュアについて分かる事が何もない以上、その力を再現する事も出来ない」

 

ジェットが文献を漁ってプリキュアの事を調べていたのをあんなもみくるも知っている。伝説と伝聞ばかりで、技術的に解析できるような情報はほとんどなかったのだ。自称天才博士の手にも余る、それが「プリキュア」という存在だった。

 

「……そうだよね」

 

あんなが小さく呟き、みくるも俯いた。二人とも、ジェットの言葉に納得しようとしていた。仕方のない事だと、自分達に言い聞かせるように。しかし、ジェットはそこで言葉を止めなかった。

 

「ただ、気休めにもならないが、分かった事もある」

 

ジェットの声は静かだった。いつもの皮肉混じりでもなく、突き放したような調子でもなく——ただ誠実に、自分が辿り着いた答えを伝えようとする声だった。二人が再び顔を上げる。

 

「嘘の力に対抗出来るのは、真実の心だけだって事だ」

 

言い切ったジェットの瞳が、真っ直ぐに二人を見据えていた。

 

「ウソノワールと初めて対峙した時、あんなが嘘の力に抗ったのも……キュアライアンサーやキュアミステイクの作り出した嘘の真実を打ち破ったのも。あんなとみくるの、真実に向き合おうとする意思だった」

 

ジェットはデスクから回り込んで二人の前に出た。

 

「だから、二人の……嘘に立ち向かい、真実を明らかにしようという意思だけが、ウソノワールの嘘に立ち向かうための力になるはずだ」

 

気休めにもならない、とジェットが言うのも当然だろう。証拠やロジックを頼りにする探偵の、その中でも実態を重視するジェットが、意思という曖昧なものを頼りにしている。しかし不本意そうな態度の一方で、その口調は強い確信と二人への信頼を感じさせるものだった。

 

あんなとみくるは神妙な面持ちになった。ジェットの言葉が、これまでの戦いの記憶を呼び起こしていく。

 

児童館で、ライアンサーの嘘に包まれたあんなを、みくるが取り戻した。郷土資料館で、ミステイクに歪められたみくるを、あんなが取り戻した。

 

あの時お互いを取り戻させたのものは、強化された道具でも、特別な技術でもなかった。ただ、相手の中にある真実を、信じて見つけ出そうとした心だった。

 

そして、二人は自然にお互いを見る。

 

「みくるが嘘に包まれたとしても」あんなが言った。まっすぐな声だった。

 

「あんなが嘘に覆われたとしても」みくるが応えた。凛とした声だった。

 

そして、二人の声が重なる。

 

「「絶対に、真実を見つけ出す」」

 

「ポチィ!」

 

ポチタンが二人の間に飛び込むようにして、小さな翼を広げて力強く鳴いた。三人が、しっかりと頷き合う。

 

それは決意だった。不確かな未来に対して、唯一確かなものとして握り締められる誓い。ライアンサー、ミステイク——それぞれが嘘のプリキュアに変えられた時、お互いの真実の心を見つけ出したという経験から来る、確かな想いだった。

 

不安の影が消えたわけではない。ミラールーペの強化が嘘の力にどこまで通じるかは分からない。次にあの闇が訪れた時、今度こそ抗えなくなるかもしれない。その恐れは、三人の胸の奥にひっそりと横たわっている。

 

けれど、まるでその先行きを照らすように、事務所の窓から差し込む夕方の光が、皆を柔らかく照らしていた。

 

 

---

 

 

別の日の昼下がり。

 

夏の空気がまだ柔らかい午後の事だった。あんなは商店街からの帰り道を、鼻歌混じりに歩いていた。

 

買い出しを終えたはずなのに、その両手には何も持っていない。荷物はおろか、袋一つぶら下げている様子がなかった。買い物帰りにはとても見えない。

 

「ポチタンのおかげで、買い物も楽ちんだね!」

 

あんなはポチタンを抱え上げ、にっこりと笑いかけた。ポチタンの物品を収納する能力のおかげで、買い物した品々はすべてポチタンの中に仕舞い込まれている。重い荷物を持つ必要もなければ、袋の中身を気にする事もない。あんなにとってはこの上なくありがたい相棒の力だった。

 

「らくちん!」

 

ポチタンはあんなの言葉に応えるように元気よく鳴き、小さな翼をぱたぱたと動かした。穏やかな午後の一幕。事件もなく、ファントムの影もなく、ただの中学生とそのパートナーの帰り道——。

 

「探偵さん」

 

その声に、あんなの足がぴたりと止まった。

 

聞き覚えのある、けれど日常の中で聞く事は滅多にない声だった。淡々として抑揚が少なく、けれどどこか耳に残る静かな響き。

 

振り返ると、道沿いのベンチに一人の少女が座っていた。

 

淡いベージュ色の髪。黒を基調としたシックなスカートとケープ。その紫の瞳は、あんなをまっすぐに見ていた。腰のあたりには猫のような妖精のマシュタンが、くつろいだ様子で座っている。そして彼女の手には、いつもの三段重ねのアイスがあった。一番上の段をゆっくりと舐めながら、こちらを見上げている。

 

「アルカナシャドウ!」

 

反射的に声を上げたあんなだったが、すぐに「あっ、そうだ」と思い直し、改めて口を開いた。

 

「……えっと、茂蘭(もらん)るなさん」

 

ロンドンの本部から届いたあの調査報告書に記されていた名前。まことみらい市のキュアット探偵事務所で助手をしていた一般人『茂蘭るな』。それがあんなの知る彼女の本名だった。

 

くすくす、とマシュタンが小さく笑う。

 

「ふふ。茂蘭るなですって」

 

その笑いを聞いたるな……いやるるかが、一瞬だけ真顔になった。アイスを舐める舌が止まり、目を僅かに細める。

 

「……アルカナシャドウでいい」

 

淡々とした声だった。感情の色が薄い、いつもの口調。

 

「え、でも……」

 

あんなが戸惑いの声を上げる。しかし。

 

「面倒だから」

 

きっぱりと、るるかは言い切った。

 

あんなは首をひねった。面倒とは、自分の本名を言われる事だろうか。奇妙に思えたが、彼女は怪盗団ファントムの一員として活動している身だ。本名を口にされたくないのは当然かもしれない。あんなは内心でそう納得し、小さく頷いた。

 

改めて彼女の方を見る。正直な所、あんなにとって目の前の少女は、どう対応したらいいか迷う相手だった。怪盗団ファントムの一員。それは間違いない。対峙した事も何度かある。マコトジュエルを狙い、自分達の前に立ちはだかった敵。

 

だが、ウソノワールとの戦いの時、彼女はウソノワールの攻撃を止めてくれた。本人は「新しい予言が出たから」と素っ気なく言っていたが、あの時は自分達を助けてくれたのだと、あんなはそう感じていた。

 

それに、CDショップでの一件。マコトジュエルのためだと言いながら、失恋して傷ついていた女の子の気持ちに寄り添おうとしていた。ミサンガに込められた願いを否定せず、「あなたの願いに寄り添い続けてくれていた」と。あの言葉は、マコトジュエルのためだけに出てくる言葉ではないと、あんなは思っていた。

 

だから、敵意も疑惑もなく——純粋に、この不思議な少女の事をもっと知りたいと思った。あんなは柔らかい笑顔を浮かべて、何か質問をしようと口を開きかけた。しかし。

 

「……あなたは、探偵よね?」

 

るるかの言葉が、それを遮った。

 

あんなは口を閉じ、少し首を傾げた。質問の意図がわからない。

 

「うん。キュアット探偵事務所の、探偵」

 

あんなが戸惑いながらも答えると、るるかはアイスの二段目に舌を移しながら、ぽつりと続けた。

 

「探偵の仕事は、真実を見つけ出す仕事」

 

当たり前の事を言っているようで、その声にはどこか確認するような響きがあった。

 

「……時に、探偵は誰かにとって不都合な真実を見つけ出してしまう事がある」

 

そこで言葉を切った。アイスを舐める手が止まり、目線をあんなに向ける。感情の色が薄く、冷たい視線。けれどその奥に——あんなは確かに、真剣さを感じ取った。ふざけている目ではなかった。試している目でもなかった。ただ、答えを聞きたいと——本気で問うている目だった。

 

「求められていない真実を見つけてしまった時、あなたは……その真実の重みに耐えられる?」

 

静かな問いかけが、夏の午後の空気に沈んでいった。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

マシュタンが面倒そうに欠伸をしているのが視界の端に映ったが、あんなの意識はるるかの言葉だけに向いていた。

 

——真実の重みに、耐えられるか。

 

その質問は、あんなの心の深い所に触れた。

 

児童館の事件を思い出す。紙芝居台が消えた事件。真相を解き明かす事が、あの場にいた皆の幸せに繋がるのかわからなくなり、その迷いから、自分は嘘の力に捕らわれ、キュアライアンサーになってしまった。嘘の真実を作り出して、皆を偽りの笑顔で包もうとした。

 

でも、みくるが真実を見つけてくれた。ライアンサーの嘘を打ち破り、自分の中に眠っていた本当の気持ちを掘り起こしてくれた。そして結果として、皆が幸せになる結末を迎える事が出来たのだ。

 

あんなはるるかの目をまっすぐに見据えた。その瞳に迷いはなかった。

 

「うん」

 

前向きな表情で、答えを返す。

 

「だって、真実を解き明かすのが探偵の仕事だから」

 

簡潔で、飾りのない言葉だった。

 

るるかはその目を見つめたまま、しばらく何の反応も見せなかった。アイスが少しだけ溶け始めている事にも気づいていないように、じっとあんなの顔を見ていた。

 

「……そう」

 

どれくらいの間そうしていただろうか。不意にるるかが口を開き、ベンチから立ち上がった。声は相変わらず淡々としている。マシュタンもるるかの動きに合わせて、ひょいと肩に飛び移る。

 

「……それなら、いい」

 

そう言って、あんなに背を向けた。

 

「あっ、待っ——」

 

あんなは思わず手を伸ばしかけた。まだ聞きたい事がたくさんあった。彼女の事を、もっと知りたかった。キュアット探偵事務所にいたという過去の事。ファントムにいる理由。あの時助けてくれた本当の理由——。

 

けれどるるかは振り返らなかった。背を向けたまま、ぽつりと言葉を落とした。

 

「星まつり、もうすぐでしょ」

 

「……え?」

 

あんなは伸ばしかけた手を止めた。唐突な話題の転換に、一瞬思考が追いつかない。

 

「……大切な行事。人が集まる。そして、人の想いも……集まる」

 

それだけ言って、るるかは歩き出した。黒いケープの裾がふわりと揺れ、淡いベージュの髪が夏の風にそよぐ。マシュタンが肩の上であんなの方をちらりと見て、何か言いたげに口を開きかけたが、何も言わずにそっぽを向いた。

 

あんなはその場に立ち尽くしたまま、るるかの背中が通りの角に消えていくのを見つめていた。

 

星まつり、人の想いが集まる。それはつまり、マコトジュエルが宿るような、人々の想いが集まる物がそこに存在するという事だろうか。

 

(これって……予告状の代わり?)

 

彼女の言葉が、「星まつりの現場でマコトジュエルが現れる」という意味であるならば、ファントムも必ずその場所にマコトジュエルを狙ってやって来るはずだ。それをあえて言うという事は、マコトジュエルを盗む予告と言う事になる。あるいは、もっと別の意図があるのか。

 

考えている内に、るるかの姿はもう見えなくなっていた。

 

あんなはしばらくその場で考え込んでいたが、やがて小さく首を振った。今ここで悩んでいても、答えは出ない。腕の中でポチタンがきょとんとした顔であんなを見上げている。その愛くるしい顔を見て、あんなの表情がふっと和らいだ。

 

「みんなも待ってるし、帰ろっか」

 

ポチタンに笑いかけて、あんなは踵を返した。

 

「ポチィ!」

 

ポチタンの元気な返事を聞きながら、あんなは来た道を戻り始める。西に傾きかけた陽射しが、二つの影を長く伸ばしていた。

 

 

---

 

 

バス停「星見台入口」で降りた二人の前に、桜並木の坂道が伸びていた。

 

夏の盛りを迎えた桜の葉が、道の両側から天蓋のように重なり合い、木漏れ日が足元でちらちらと揺れている。坂を登る足取りに合わせて、蝉時雨が耳の奥に響いた。

 

やがて桜並木の坂道が途切れ、視界が開ける。丘の頂上部に広がる芝生の広場、その中央やや奥に、白い二階建ての建物と、その上に載る銀色のドームが、夏空を背景にくっきりと浮かんでいた。

 

「あれが星見台天文台……」

 

あんなが思わず足を止める。

 

天文台自体は、想像していたよりもずっと小ぢんまりとした建物だった。本格的な研究施設というよりは、どこか温かみのある、地域に根ざした施設の佇まい。低木の植え込みが敷地を緩やかに囲み、建物の壁には経年の味わいが滲んでいる。けれどドームの銀色だけは夏の陽を受けて眩しく光っていて、それが丘の上に立つ天文台の姿に、不思議な威厳を添えていた。

 

しかし、あんなとみくるの目を引いたのは、建物そのものよりも、その周辺のにぎやかな光景だった。

 

芝生の広場にはいくつものテントが張られ、天文グッズの販売ブースや子ども向けの天体工作教室、天文クイズラリーの受付が並んでいる。焼きそばやかき氷の出店からは、甘い匂いと油の香りが入り混じって流れてきていた。子ども達のはしゃぐ声、保護者の呼びかけ、スタッフの案内のアナウンスが重なり合い、お祭りの楽しげな雰囲気が漂っている。

 

「星まつり……」みくるがパンフレットの表紙に視線を落とした。

 

『星見台天文台 星まつり』。そう記されたパンフレットを、みくるはあらかじめ手に入れていた。天文学の権威・星野光一郎が毎年続けてきた夏の恒例行事で、日中の展示やワークショップから夜の天体観望会まで一日がかりで行われる催し。地域の夏の風物詩として長く親しまれてきたイベントだと、パンフレットには記されていた。

 

みくるがページをめくる。プログラムの欄には、広場でのイベントや展示室での天体写真展、講義室でのミニ講演、そして夜の観望会——望遠鏡で月や惑星を覗いたり、外での星空観察が予定されている事が書かれている。

 

「へぇ、楽しそう! 望遠鏡で星を見られるんだ」

 

あんなが横から覗き込んで目を輝かせたが、みくるの表情はやや硬かった。

 

あんなもすぐにその理由を理解した。周囲を見渡すと、子ども連れの家族や若い天文ファンに混じって、壮年の人々の姿がやけに目立つ。白髪交じりの男性や、品のある身なりの女性。高い年齢層の人間が妙に多い。

 

そして、更に気になるのはマスコミの存在だった。テレビカメラを担いだクルーが天文台の正面で撮影の準備をしている。新聞記者らしき人物がメモ帳を開いてスタッフに質問を投げかけている。地方の小さな天文台の夏祭りにしては、明らかに不釣り合いな規模の報道陣だった。

 

「なんだか、星まつりっていうには、妙に人が多いね」

 

あんなが小声で囁いた。みくるはこくりと頷き、再びパンフレットに目を落とす。

 

『星見台天文台の設立者であり、星野彗星の発見者として世界的に知られる天文学者・星野光一郎先生が昨年急逝されました。今年の星まつりは、先生への追悼と感謝を込めた特別回として開催いたします。』

 

プログラム欄の冒頭に、その一文が記されていた。

 

「星野光一郎さん……去年、亡くなったんだ」

 

みくるが静かに呟いた。パンフレットの内側には、穏やかな笑みを浮かべた老紳士の写真が掲載されていた。白髪の、品のある顔立ち。その写真の下に——「追悼特別回 星野光一郎先生の功績を振り返る」という企画の案内が記されている。

 

集まった人の数に圧倒されながら、二人がきょろきょろと広場を見回しながら歩いていると、柔らかな声がかかった。

 

「あら、どうしたの?」

 

振り向くと、ボランティアスタッフの腕章をつけた若い女性が、にこにこと微笑みながらこちらを見ていた。ショートカットの髪に、快活で人懐こい印象の顔立ち。パンフレットを片手にうろうろしていた二人の様子を見て、何かを察したらしい。

 

「もしかして、星まつりは初めて?」

 

あ、そうなんです、とあんなが答えると、女性は一層笑顔を広げた。

 

「私は篠原あきほ。ボランティアスタッフをやってるの。よかったら案内するよ」

 

篠原はテントの一つに二人を招き入れるようにして、天文台の方を仰いだ。

 

「この天文台はね、星野光一郎先生が建てたものなの」

 

篠原の声には、敬意と親しみが自然に混じり合っていた。

 

「星野先生は若い頃から天文学の普及活動をしていて、この丘の上で近所の子ども達に星を教えていたんだって。それで、先生が発見した彗星があるの。星野彗星。聞いた事ある?」

 

あんなとみくるはやや申し訳なさそうに首を横に振った。しかし、篠原は残念がるどころか、むしろ嬉しそうに頷いた。

 

「星野彗星はね、先生が観測で見つけた長周期の彗星で、先生の名前がそのまま付けられたの。その発見で名声を得た先生が、私財を投じてこの天文台を建てて、星まつりも毎年続けてきた。もう何十年も、ずっと」

 

篠原はそこで少し照れくさそうに視線を落とした。

 

「実は私も……星まつりで初めて星を見た夜が、天文学を志したきっかけなんだ。先生が望遠鏡を覗かせてくれて、『星はいつでもそこにあるんだよ。ただ見上げればいい』って言ってくれて。あの時の感動は、今でも忘れられない」

 

頬にうっすらと赤みが差していた。自分の原点を他人に語るのは、やはり少し気恥ずかしいのだろう。

 

「……今年は、追悼イベントでもあって、趣が少し違うけど」

 

篠原の表情に寂しさが浮かぶ。笑みの形を保ったまま、目の奥だけが陰りを見せる。その表情だけで、星野が彼女にとってどれだけ大きな存在かが察せられる。

 

「これだけ沢山の人が集まるって事は、星野さんは本当に色んな人に慕われていたんですね」

 

あんなが、広場に集まった人々を見渡しながら言った。年齢も職業もばらばらな人々が、一つの天文台を中心にして寄り集まっている。その光景が、一人の人間が残した影響の大きさを静かに物語っていた。

 

篠原は深く頷いた。

 

「うん。星野先生の影響を受けて天文学を志した人は、私以外にも沢山いると思うよ。先生はね、誰に対しても同じように星の事を語ってくれる人だったから。偉い学者にも、小さな子どもにも」

 

その言葉に感動しながらも、みくるは思考を意識的に切り替えた。真剣な目をして、篠原に向き直る。

 

「あの、この天文台や星まつりに、何か特別な物とか……大切にされている展示品とかって、ありますか?」

 

唐突な質問。みくるは探偵としての冷静な口調になっていた。怪盗団やマコトジュエルの事は、もちろん口にしない。

 

篠原はうーんと首を傾げた。

 

「特別な物……天文台は基本的に星空を見るための場所だから、展示品っていうと天体写真のパネルとか隕石の標本とか……大事なものっていったら、天文台そのもの、かなぁ?」

 

桜の樹にマコトジュエルが宿っていた事例もある。天文台そのものに想いが宿っている可能性は、否定できない。みくるは言葉を選ぶようにして、もう一歩踏み込んだ。

 

「みんなが大切にしているもの、とか……毎年の星まつりで、欠かせないもの、とか」

 

篠原はしばらく考え込んでいたが、不意に目を見開いた。

 

「ああ、それなら!」

 

何かを思い出したように、声が弾んだ。

 

「星野先生が星野彗星の発見を記録した観測記録帳。先生が一番大切にしていた物だよ。星まつりの時は毎年、開会式で記録帳の『星野彗星発見』のページを開いて皆に掲げて、星野先生が星を観測する事への想いを語るのが恒例行事だったの」

 

篠原が続ける。その声に、懐かしさが滲んでいる。

 

「先生はいつもあのノートを持ち歩いていてね。自宅でも、外出先でも、肌身離さずっていう感じだった。星まつりの時も毎回ご自分で持って来て、あのページを開く時だけは特別な顔をしていたなぁ。記録帳を大事そうに両手で持って、まるで宝物を見せるみたいに……先生が亡くなってからは、遺族の方から天文台に寄贈されたんだけどね」

 

あんなとみくるの視線が一瞬だけ交わった。

 

星野光一郎が生涯大切にし、毎年の星まつりで人々の前に掲げ続けた観測記録帳。そこに込められた星野の想い、そしてそれを見守り続けてきた人々の想い。マコトジュエルが宿るに十分な代物だ。

 

「なるほど、そりゃマコトジュエルが宿っていてもおかしくない代物だなぁ」

 

そこに別の声が割り込んだ。

 

あんなとみくるが弾かれたように顔を上げると、テントの柱に片肘をつくようにして、大柄な男が腕を組んでうんうんと頷いていた。銀色の歌舞伎のような髪型。顔に描かれた隈取り。左目を覆う紫のマスク。右目の下の黒い十字星。肩から羽織った灰色の法被。その足元からは、一本歯の下駄がのぞいている。

 

「「ゴウエモン!」」

 

あんなとみくるが同時に叫んだ。ポチタンが腕の中で警戒の表情を向ける。

 

「いやぁ、祭りごとってのは賑やかでいいねぇ」

 

ゴウエモンは平然としたものだった。広場の喧騒を見渡しながら、のんびりとした口調で言う。この格好で堂々と入り込んでいた事に、あんなもみくるも呆れたらいいのか驚けばいいのか分からない。

 

戸惑っているのは篠原も同じだった。突然現れた異様な出で立ちの大男に目を丸くして固まっている篠原に向かって、ゴウエモンは無遠慮に声を飛ばした。

 

「星野先生は亡くなっちまったが、その観測記録帳は今年も持ち込まれてるんだろ?」

 

「え……は、はい。今年も慣例に倣って、台長が開会式でページを開いて、星野先生への追悼と感謝の言葉を述べるという形になっていますけど……」

 

篠原はゴウエモンの圧に押されながらも、律儀に答えた。

 

「じゃあ、その台長が観測記録帳を持ってるって事だな?」

 

「え、ええ……でも、今は天文台の所蔵品として、資料室のガラスケースの中で保管されているはずですが……」

 

あんな達がまずい、と思った時にはもう遅かった。

 

「ありがとさん!」

 

その一言を残して、ゴウエモンは弾丸のように駆け出した。広場の人混みを縫うように、天文台の建物に向かって一直線に走っていく。

 

「ポチィッ!」

 

ポチタンが甲高く叫んだ。

 

「ゴウエモン、待ちなさい!」

 

みくるが叫ぶ。あんなはポチタンを抱え直し、みくると共に全力で駆け出した。篠原は一瞬呆然としていたが、すぐに我に返る。

 

「あっ、今は関係者以外立ち入り禁止ですよ!」

 

篠原も二人の後を追って走り出す。テントの下で準備をしていたボランティアスタッフが何事かと振り返る中、奇妙な追走劇が天文台の正面玄関へと向かっていった。

 

天文台の正面玄関を潜り抜けたゴウエモンの下駄が、エントランスホールの床に高い音を立てた。

 

小さな受付カウンター。壁に掲げられた星野光一郎の写真と天文台の歴史を紹介するパネル。スリッパ棚と傘立て——それらの間を、銀髪の大男がものともせずに駆け抜けていく。

 

「どこだ……? あっちか!」

 

ゴウエモンは何かを感じ取ったのか、右手の廊下へ踏み込んでいく。下駄の音が軽快に鳴り響く。廊下の奥にあるドアの一つを見つけたゴウエモンが、勢いよくそれを押し開けた。

 

資料室だった。窓のない部屋に、スチール製の棚が壁面を埋め尽くすように並んでいる。その中に、一人の男が立っていた。五十代ほどの、温厚そうだが神経質な面差しの男。宮沢修一。天文台の台長だった。

 

突然扉を蹴り開けるようにして飛び込んできた異様な格好の大男と、その背後から雪崩れ込んでくる少女二人を見て、宮沢は目を白黒させる。

 

「な、何ですか、あなた達は!?」

 

篠原が息を切らせて追いついた。

 

「す、すみません宮沢台長、この人達が急に……!」

 

ドアの枠に手をかけ、肩で息をしながら篠原が頭を下げる。

 

ゴウエモンは宮沢の事など構わず、部屋の中を見回していた。棚の隙間、資料の山、そして壁面に据え付けられたガラスケースに目を留めた。

 

しかし、ガラスケースの内部は空。

 

何かが収められていた痕跡はある。内部に敷かれた布の上に、長方形の物体が置かれていた事を示すわずかな凹み。しかし、今そこには何もない。からっぽの空間が、蛍光灯の光を素通しに反射しているだけだった。

 

「おいおい」

 

ゴウエモンが目を細めた。ガラスケースの前に立ち、腕を組んだまま宮沢を振り返る。

 

「あんた、観測記録帳を持ってんのかい?」

 

「い、いや……」

 

宮沢は口を濁らせた。視線が泳ぎ、額に脂汗が浮いている。その手は資料室の引き出しの取っ手を握ったまま止まっていて——よく見れば、部屋のあちこちで引き出しや収納スペースが開きっぱなしになっていた。棚の上の書類が乱れ、段ボールの蓋が半開きになっている箇所もある。明らかに、宮沢自身が何かを探して漁った痕跡だった。

 

「観測記録帳が……見当たらないんだ」

 

言葉にした瞬間、宮沢の顔が更に青ざめた。自分の口から出た言葉の重みに、自分自身が打ちのめされたような様子だった。

 

「ガラスケースに入れていたはずなのに。開会式の準備で確認しようとしたら……中が空だった。慌てて資料室の中を探しているんだが、どこにも……」

 

「ええっ——!?」

 

篠原の悲鳴に近い声が、窓のない資料室の中に響く。

 

「そんな……星野先生の、観測記録帳が……!?」

 

篠原の顔から血の気が引いていく。追悼特別回の星まつり。星野光一郎への感謝と別れを込めた、特別な一日。その核となるはずの観測記録帳が——消えた。

 

開きっぱなしの引き出し、乱れた書類、半開きの段ボール。宮沢が一人で必死に探し回った痕跡が、事態の深刻さを無言で物語っていた。

 

 

---

 

 

宮沢は開きっぱなしになっていた引き出しを一つ一つ戻しながら、震える声で状況を説明した。

 

「開会式の準備で……記録帳を持ち出そうと思って資料室に行ったんです。そうしたら、ガラスケースが既に開いていた」

 

かちゃりと音を立てて、引き出しを押し込む。

 

「朝来た時はあった。鍵はかけていたはずなのに……中身だけが、消えていた。慌ててこの資料室にも探しに来たんですが、どこにも——」

 

あんなとみくるは、即座にゴウエモンに詰め寄る。

 

「ゴウエモン! もう盗み出してたの!?」

 

みくるの鋭い視線が突き刺さる。しかしゴウエモンは両手を振って後ずさった。

 

「おいおい待て待て! 俺はさっき来たばかりだぜ!? 嬢ちゃん達と一緒に入って来ただろうがよ!」

 

焦りの滲んだ声だった。芝居がかった大袈裟さはいつものゴウエモンだが、動揺の色は本物に見える。

 

「どうかしたんですか? 騒がしいようだが……」

 

資料室の入口に、新たな人影が現れた。落ち着いた低い声。皆が振り返ると、白髪交じりの壮年の男性が、廊下からこちらを覗き込んでいた。穏やかだが芯のある目元、日に焼けた肌。

 

篠原が男性の姿を認め、すがるように声を上げた。

 

「野々村先生……! 観測記録帳が……星野先生の観測記録帳が、消えてしまったんです」

 

「——先生の記録帳が……!?」

 

野々村と呼ばれたその男の声が掠れた。穏やかだった表情が崩れ、その目に衝撃と動揺が走るのが見て取れる。

 

「どうしましょう……開会式の時間も迫っているのに……」

 

篠原が不安げに腕時計を見やった。イベントは既に動き始めている。取材陣も準備を整えている。この状況で、追悼の核である観測記録帳が消えたという事実はあまりにも重かった。

 

野々村は資料室の惨状を見渡し、静かに口を開いた。

 

「……仕方がない。今日は特別なイベントだ。天文台の中は出入り出来ないようにして、外のプログラムは出来る範囲で進行するしか——」

 

その言葉が終わるか終わらないかの所で、宮沢の声が狭い資料室に鋭く響いた。

 

「駄目です!」

 

それまで蒼白な顔で引き出しを戻していた台長が、野々村の方を鋭く見つめている。その声量に、篠原も野々村も、あんなとみくるも、ゴウエモンさえもぴくりと動きを止めた。

 

「今日は……今日は星野先生の追悼を兼ねたイベントなんです。先生が生涯大切にされていた観測記録帳。あの記録帳が行方不明のままイベントを行うなんて、そんな事は出来ません」

 

「しかし宮沢君」

 

野々村は声を抑え、しかし切迫した現実を突きつけるように言った。

 

「今年は確かに、いつもとは違う特別なイベントだ。例年より遥かに多くの人が来ている。マスコミの人間もこれだけ集まっている。何の説明もなく中断するわけにはいかないだろう」

 

「だから、イベント内容自体は外で出来る範囲のものを続けてもらって、開会式だけ時間をずらしてもらえませんか。その間に、何としても観測記録帳を探します」

 

宮沢の提案に、しかし篠原が不安そうに声を漏らした。

 

「見つからなかったら……」

 

その一言が、資料室の空気を重くした。見つからなかった場合、追悼特別回は核を失ったまま行われる事になる。あるいは、中止。どちらにせよ、星野光一郎に最後の感謝を伝えるはずだったこの日が、取り返しのつかない形で損なわれる。

 

三人の間に沈黙が落ちた。蛍光灯の微かな唸りだけが、窓のない部屋に響いている。

 

「「あの!」」

 

沈黙を破ったのは、二つの声だった。

 

宮沢と野々村と篠原が振り返る。そこには、まっすぐな目をした二人の少女が立っていた。

 

「わたし達に、任せてもらえませんか」

 

あんなが一歩前に出た。その隣で、みくるが静かに、けれど揺るぎない表情で頷いている。

 

「君達は一体……?」

 

宮沢が困惑した目で二人を見る。あんなは胸の前でぎゅっと拳を作った。

 

「どんな謎もはなまる解決!」

 

みくるが凛とした声で続ける。

 

「キュアット探偵事務所にお任せを!」

 

三人の目が丸くなる。篠原が驚きと困惑の入り混じった表情で口を開きかけた。

 

「あなた達、探偵って——」

 

「怪盗より先に盗み出すとはふてぇ野郎もいたもんだぜ!」

 

ゴウエモンが扇子を手の中でくるりと回しながら、感心とも悔しさとも取れる声を上げた。空のガラスケースに一瞥をくれ、にやりと笑みを浮かべる。

 

「よぉ名探偵、どっちが先に記録帳を見つけ出せるか勝負だな!」

 

言うが早いか、ゴウエモンは身を翻した。一本歯の下駄が床を蹴り、法被の裾を翻して資料室の入口を飛び出していく。廊下に響く軽快な下駄の音が遠ざかっていく。

 

「あっ、ゴウエモン!」

 

あんなが反射的に追いかけようとした腕を、みくるがそっと掴んだ。

 

「待って、あんな」

 

みくるの声は落ち着いていた。ゴウエモンが去った廊下の方をちらりと見やりつつも、視線をあんなに戻す。

 

「ゴウエモンは気になるけど……まず、みんなの証言を聞いてからにしましょう」

 

あんなは一瞬、廊下の方を見た。ゴウエモンの下駄の音はもう聞こえない。追いたい気持ちはある。けれど——

 

あんなは踏み出しかけた足を戻し、こくりと頷いた。

 

「うん、そうだね」

 

それから二人は、まだ困惑の色が抜けきらない宮沢と野々村と篠原の方へ、改めて向き直った。

 

 

---

 

 

みくるは資料室の壁際に据え付けられたガラスケースの前に立ち、手帳を開いた。

 

「整理しましょう」

 

落ち着いた声だった。宮沢と篠原と野々村の視線が、自然とみくるに集まる。

 

「観測記録帳は、星野光一郎先生が星野彗星の発見を記録した物。先生が生涯大切にされていて、星まつりの開会式で毎年そのページを開いて掲げるのが恒例だった。ここまでは、先ほど篠原さんから伺った通りですね」

 

篠原が頷いた。みくるはペンの先を手帳の上に走らせながら続けた。

 

「星野先生がお亡くなりになった後、ご遺族から天文台に寄贈されて——今の台長の宮沢さんが引き継いだ、という事でいいですか?」

 

みくるの視線が宮沢に向いた。宮沢は深く頷く。

 

「え、ええ……あの記録帳は、先生の発見に関する記録が残された、大切なものなんです」

 

その声は低く、表情は暗かった。恩師から託された大切な物を、自分の手の中から失ってしまった——その事実が、台長の肩に重くのしかかっているのが見て取れた。

 

「次に、保管状態について確認させてください」

 

みくるとあんなが二人でガラスケースの前に立ち、細部を観察する。

 

ケースは資料室の壁面に据え付けられた堅牢な造りで、観音開きのガラス扉に小さな錠前がついている。あんなが扉の縁を指先でなぞり、みくるが錠前の周辺を目を凝らして見つめた。

 

「傷はない……無理やりこじ開けたような形跡もないですね」

 

みくるが呟いた。あんなも同意するように首を縦に振る。

 

「鍵は誰が管理しているんですか?」

 

あんなが宮沢に尋ねた。宮沢はポケットから小さな鍵を取り出した。

 

「今は私が持っています。開会式のために記録帳を取り出しに来たので……。普段は事務室の鍵管理ボードにかけてあります」

 

「普段は事務室に……」

 

みくるが手帳に書き込みながら復唱した。

 

「事務室を確認させてください」

 

「ええ、私が案内するわ」

 

みくるの言葉に篠原が応じる。宮沢は空のガラスケースに目を落とし、低い声で言った。

 

「私はもう少しここを探します。資料室の棚で、まだ確認していない範囲がある。もしかしたら混ざり込んでいるかもしれない」

 

「私も別の場所を探してみよう」

 

野々村も続けて言った。二人はそれぞれの方向に足を向け、あんなとみくるは篠原に続いて事務室へと向かう。

 

事務室はエントランスから右手に進んだ先にあった。デスクが二つ並び、書類棚やコピー機が壁際に収まっている。こぢんまりとした部屋だが、日中の人の出入りを物語るように、ドアは開け放たれたままだった。

 

壁の一角に、鍵管理ボードがある。木製のボードにフックが並び、それぞれに小さな札が下がっている。「ガラスケース」「資料室」「ドーム」——鍵の用途が手書きで記されている。「ガラスケース」のフックは、今は宮沢が持ち出しているために空となっている。

 

みくるはボードの周囲を観察した。施錠されたキャビネットの中にある訳でもなく、暗証番号が必要な訳でもない。壁にかかったボードに、鍵がそのまま下がっているだけ。

 

「特別厳重に管理されている訳では……ないんですね」

 

みくるが慎重に言葉を選んだ。篠原は申し訳なさそうに肩を竦める。

 

「うん……天文台って、元々そういう場所じゃないから。普段は人の出入りが多い訳でもないし」

 

つまり、ボランティアスタッフを含む天文台の関係者であれば、鍵を持ち出す事自体は難しくない。みくるは手帳にその旨を書き留める。

 

その時、事務室の扉から別の人物が入ってきた。

 

「篠原さん、ここにいたの。広場のマイクの調整、確認してもらいたいんだけど——」

 

声と共に入ってきたのは、眼鏡をかけた若い女性だった。すっきりとした身のこなしに、理知的な目元。ボランティアスタッフの腕章をつけているが、篠原とは違う、どこか学究的な雰囲気を纏っている。

 

「桐島さん」

 

篠原がその名を呼んだ。桐島と呼ばれた女性は、事務室に見慣れない少女が二人いる事に目を留め、わずかに首を傾げた。

 

「あの、実は……観測記録帳が盗まれたみたいなんです」

 

篠原の声が沈んだ。桐島の表情が変わる。

 

「……盗まれた?」

 

復唱する声に、僅かな震えが混じっていた。

 

「あの記録帳は、とても大事な資料なのに……」

 

桐島は眼鏡のブリッジを指先で押し上げながら呟いた。「大事な資料」。その言い方は、感情的な思い入れというよりも、学術的な価値を重んじる人間の口ぶりだ。

 

「そういえば桐島さん」

 

篠原がふと思い出したように口を開く。

 

「宮沢台長と観測記録帳の事で、何か話していませんでしたか? 前に、記録帳について相談してるのを見かけた気がするんだけど……」

 

桐島は一瞬だけ間を置いた。それから、隠す気のない率直さで答えた。

 

「ええ。宮沢台長に、記録帳の全ページを撮影させてほしいと依頼した事があります」

 

「全ページを?」

 

みくるが顔を上げた。桐島はみくるの方を向き、淡々と説明を続ける。

 

「私は天文学史の論文を書いているんです。星野彗星の発見経緯を正確に記述するには、一次資料——つまり記録帳の原本の写真が不可欠なの。記録帳の内容を、そのまま論文に掲載して裏付けにする必要がある」

 

理路整然とした説明だった。学術研究に携わる人間の、至極当然な要求。

 

「……断られてしまいましたが」

 

そこだけ、わずかに口調が硬くなった。不服、とまでは言わないが、納得しきれていない色がちらりと覗く。

 

「貴重な資料であるのと同時に、星野先生の私物でもあるので、まだ表に出す準備が出来ていない、と。研究目的であっても、今は慎重にさせてほしいと言われました」

 

その言葉を聞き終えて、あんなが半歩前に出た。

 

「桐島さんは、昨日は天文台に来ていましたか? 何か変わった事とか、気になる事はなかったですか?」

 

桐島はあんなの方を見た。見知らぬ少女達に質問されている事に対して疑問に思ったのか、一瞬だけ眉が動いたが、それ以上は追及せず素直に答えた。

 

「昨日は遅くまで星まつりの準備作業をしていました。展示パネルの配置調整や、解説文の最終確認で。でも、怪しい人物は見かけていません。作業に集中していましたし」

 

みくるは手帳にペンを走らせながら、内心で桐島の証言を反芻していた。

 

——記録帳の全ページ撮影を依頼して、断られた。そして、昨日は遅くまで天文台に残っていた。

 

二つの事実が、みくるの頭の中で隣り合わせに並ぶ。それだけで何かを断定する事は出来ない。しかし、記録帳への強い関心と、事件の直前に天文台に長く滞在していたという事実は、記憶に留めておくべきだとみくるは考えた。

 

「……私も探してみます」

 

桐島はそう言い残して、事務室を出て行った。足音が廊下の奥へと遠ざかっていく。

 

残されたのは、あんなとみくる、そして篠原の三人だった。みくるは窓の外に目を向けた。広場の賑わいが、ガラス越しにぼんやりと見える。

 

「鍵の管理状況を見る限り、盗み出す事自体はそう難しくなさそう……」

 

考え込むようにして呟いた。手帳のページを繰り、これまでの情報を目で追う。

 

「ケースに破壊の痕跡がない事から鍵を使って開けられた可能性が高い。鍵は事務室で誰でも持ち出せる状態。だとすると、観測記録帳はもう天文台の外に——」

 

「ポチィ!」

 

不意に、あんなのショルダーバッグ……いやストラップで肩から提げられているポチタンが鳴いた。小さな翼がばたばたと動き、胸のハートのブローチがちかちかと明滅していた。

 

篠原が目を丸くする。

 

「え——今の……バッグが鳴いた!?」

 

「あ、あはは! け、携帯の通知音です!」

 

あんなが慌てて笑い飛ばし、みくるも「最近流行ってるんです、動物の鳴き声の着信音」と早口で取り繕い、ぎこちない笑顔を張り付けたまま、篠原の注意を引くようにパンフレットを広げて見せる。

 

「そ、それよりも篠原さん、展示室のレイアウトについてもう少し——」

 

篠原は不思議そうな顔をしていたが、話題が逸れた事で深追いはしなかった。その隙にあんなは二人に背を向け、ポチタンに顔を寄せた。

 

「ポチタン、マコトジュエルの反応が近くにあるの?」

 

ポチタンが真っ直ぐにあんなを見つめ、小さな頭が、こくりと上下した。あんなは振り返って、二人の方を向く。

 

「篠原さん」

 

「う、うん?」

 

まだ戸惑っている様子の篠原に、あんなはまっすぐな声で言った。

 

「観測記録帳は、まだ天文台の中にあると思います」

 

篠原が目を瞬かせた。みくるも一瞬驚いた顔をしたが、すぐにあんなの意図を察して口を引き結んだ。ポチタンが反応したという事は、マコトジュエルの気配が近くにある。つまり、記録帳はまだここから持ち出されていない。

 

「どうして……そんな事が分かるの?」

 

篠原の戸惑った声に、あんなは一瞬言葉に詰まる。

 

「そ、それは……探偵の、勘……」

 

苦し紛れに絞り出した言葉に、篠原の困惑が深まる。みくるが焦った表情で横から割り込んだ。

 

「いえ! ここまで調べた情報から導き出されたロジックです!」

 

声がやや上擦っていた。みくるは咳払いを一つして、少しでも説得力を持たせるように早口で付け加えた。

 

「記録帳は朝まではケースの中にありました。ケースの破壊痕がない事、鍵の管理体制、そして犯行の時間的制約。それらを総合的に考慮すると、外部に持ち出すにはリスクが大きすぎます。今日はイベントで人の出入りが多い。記録帳を抱えて天文台の外に出れば、誰かの目に留まる可能性が高い。だとすれば、まだ中に隠されていると考えるのが合理的です」

 

理屈は通っている——ように聞こえなくもない。少なくとも篠原を納得させるには十分だったようで、篠原はゆっくりと目を丸くした。

 

「そんな事まで分かってしまうのね……」

 

感心と驚きが入り混じった声だった。二人が探偵だという事実を、まだ完全には受け入れきれていないのかもしれないが、この状況で、藁にもすがりたい気持ちがあるのだろう。

 

篠原は二人の前に立ち、真剣な表情になった。先ほどまでの戸惑いが消えている。

 

「あの観測記録帳には、星野先生の想いが詰まっているの」

 

篠原の声が、静かに、しかし確かな重みを持って響いた。

 

「先生が星を追い続けた日々の記録。そして、先生から天文学への想いを受け継いだ、沢山の人達の想いも。私も、野々村先生も、宮沢台長も……この天文台に関わってきた全ての人にとって、あの記録帳は——ただの資料じゃない」

 

篠原の目が潤んでいた。色んな人々の想いが、その瞳に集約されている。

 

「お願い。見つけ出して」

 

その言葉が、二人の胸に真っ直ぐ届いた。あんなとみくるは顔を見合わせる。二人の間に、言葉は要らなかった。同時に、篠原に向き直る。

 

「「任せてください!」」

 

二つの声が、事務室の中に力強く響いた。

 

 

---

 

 

捜査は一階から始まった。

 

あんなとみくるは篠原に案内されながら、資料室と事務室を除く各部屋を一つずつ確認していった。二人の手には、それぞれのプリキットミラールーペが握られている。一見すればただの可愛らしい小物だが、隠された証拠を映し出す力を宿した探偵の道具。

 

展示室。壁面に並ぶ天体写真のパネル、惑星の模型、隕石の標本。追悼展示のために準備途中の年表パネルや機材の展示が半ば組み上がった状態で置かれている。みくるがミラールーペをかざすと、床面にうっすらと残る足跡の痕跡が浮かび上がった。複数の人間が行き交った跡。しかし、展示ケースや棚の裏に不自然な動線は見当たらない。

 

講義室。折りたたみ椅子が並べられた二十人ほどのレクチャールーム。スクリーンの裏、プロジェクターの台座の下、椅子の収納スペース。あんながミラールーペで棚の表面を照らすと、手が触れた跡が薄く光って浮かぶ。しかしそれは準備作業で椅子を出し入れした際のものと判断できる痕跡で、記録帳大の物を隠した形跡ではなかった。

 

湯沸かし室。戸棚の中、シンクの下。二階の観測準備室。望遠鏡の付属機材の隙間、赤色ライトの収納箱の中。休憩スペース。椅子の下、小さなバルコニーに面した窓際。

 

一つ一つ、的確に、しかし確実に可能性を潰していく。ミラールーペが映し出す痕跡を読み取り、不自然な動線や新しい接触の跡がないかを確認し、なければ次へ。二人の間に無駄な言葉はなく、視線と頷きだけで連携が取れていた。

 

二階の廊下を移動する途中、みくるが窓の外にふと目を留めた。

 

「あんな、見て」

 

窓の向こうに広がる芝生の広場で、銀髪の大男が走り回っていた。

 

ゴウエモンだった。出店のテントの間を縫うようにして駆け、すれ違う来場者に片っ端から声をかけている。その様子は二階からでもよく見えた。

 

「ノートみたいなモンを持ってる奴はいねぇか!? こんぐらいの大きさのヤツだ!」

 

両手で記録帳の大きさを示しながら叫ぶゴウエモンの声が、窓ガラス越しにかすかに届く。来場者達は異様な格好の大男に面食らいながらも首を振り、ゴウエモンは舌打ちをしてまた次の人間に走り寄っていく。

 

「ゴウエモン、外で探し回ってるね……」

 

あんなが呟いた。誰かが記録帳を持ち出して天文台の外に出たと考えているのだろう。ポチタンの反応が示す通り、観測記録帳はまだ建物の中にある可能性が高い。外を探しているうちは鉢合わせる心配はないが——

 

「でも、外で見つからないと分かったら、中を調べに来るかもしれない」

 

みくるが窓から目を離し、表情を引き締めた。

 

「急ぎましょう」

 

あんなが頷き、二人は階段を駆け下りた。

 

 

---

 

 

一階のエントランスホールに戻った時、入口付近がざわついているのに気付く。

 

正面玄関のガラス扉の向こうに、報道陣の姿が見えた。テレビカメラを肩に担いだクルー、メモ帳を手にした記者——その集団が、野々村を取り囲んでいる。

 

「開会式の予定時刻はとっくに過ぎていますが、一体いつ始まるんですか?」

 

「追悼イベントに何かトラブルがあったんですか? コメントをいただけますか」

 

矢継ぎ早に飛ぶ質問を、野々村は両手を広げるようにして押し留めていた。

 

「いえ、ちょっとした準備の手違いがありまして。内容に変更はございません。もうしばらくお待ちいただけますか」

 

穏やかだがしっかりとした口調だった。記者達は納得しきれていない様子だったが、野々村の堂々とした態度に気圧されたのか、ひとまず引き下がっていった。

 

ようやく報道陣の包囲から解放された野々村が、額の汗を拭いながら二人の方へ歩いて来る。

 

「やれやれ……マスコミの人達も、追悼の取材で来てくれているんだから、あまり待たせたくはないんだがね」

 

疲労の色が滲んでいたが、二人の顔を見ると穏やかな表情を作った。

 

「探偵さん達。まだ見つからなそうかい?」

 

あんなとみくるは顔を見合わせ、申し訳なさそうに答えた。

 

「まだ……すみません」

 

「ただ」みくるが付け加えた。「記録帳はまだ天文台の外には持ち出されていない様子なんです。建物の中のどこかにあるはずなので、もう少し時間をいただければ」

 

「そうなのか。それなら、まだ……」

 

野々村の表情に、わずかに安堵の色が差した。外に持ち出されていないのなら、まだ取り返せる可能性がある。張り詰めていた肩の力が、ほんの少しだけ抜けるのが見て取れる。

 

みくるは手帳を開いた。

 

「野々村さん、昨日の事をお聞きしてもいいですか? 星まつりの準備で、天文台にいらしていたんですよね」

 

「ああ、いたよ。事務室で長い事作業をしていた。追悼の辞の原稿を直したり、プログラムの最終確認をしたり……結局、夕方過ぎまでかかってしまった」

 

「最後に天文台を出たのは、野々村さんですか?」

 

「いや、最後に帰ったのは、多分桐島さんか宮沢君じゃないかな。私が出る時、桐島さんはまだ展示パネルの調整をしていたし、宮沢君も作業が残っていると言っていた」

 

みくるは手帳にペンを走らせた。桐島の証言とも一致している。

 

「もう一つ伺いたいんですが」

 

みくるがパンフレットを取り出し、あるページを開いて見せた。企画の概要が記された欄の一角に、小さな文字で「企画・監修 野々村剛」と記されている。

 

「今回の追悼イベントを企画されたのは、野々村さんなんですよね」

 

野々村はパンフレットの自分の名前を見て、少し照れくさそうに頷いた。

 

「ええ、そうです。私が言い出しっぺでね」

 

そこで一度言葉を切り、エントランスの壁に掲げられた星野光一郎の写真に目を向けた。穏やかな笑みを湛えた老紳士の写真。その前に立つ野々村の目に、懐かしさと敬意が溶け合って揺れていた。

 

「星野先生とは、もう随分長い付き合いなんですよ。まだ天文台もない頃、先生が丘の上で近所の子ども達に星を教えていた時代に、私はその教え子の一人だった」

 

野々村の声が柔らかくなった。

 

「少年だった私に、先生は望遠鏡を覗かせてくれた。星の名前を教えてくれた。宇宙の広さと、それを見上げる人間の小ささと——けれどその小ささの中にも、星を探し求める心がある事を教えてくれた」

 

窓の外から、子ども達のはしゃぐ声が届いている。かつて野々村自身がそうであったように、星に目を輝かせる子ども達の声。

 

「あの夜がなければ、私は理科の教師にはなっていなかったでしょう。定年まで教壇に立ち続けられたのも、教え子達に星を見せ続けられたのも……全て、星野先生がくれたあの一夜から始まったんです」

 

野々村の表情はとても温かかった。

 

「先生が急逝された時は……正直に言って、途方に暮れました」

 

声がわずかに揺れた。しかし、すぐに持ち直す。

 

「けれど、先生が遺してくれたものは消えない。この天文台も、星まつりも、先生の教えを受けた人達の中に生き続けている星への想いも。だから、先生の功績をきちんと形にして残さなければと思ったんです。今回のイベントは、その一つなんですよ」

 

あんなとみくるは黙って聞いていた。

 

「星野先生がいなければ今の自分はありません」

 

その表情はとても温かだった。星を見せてくれた恩師。その恩師の想いを受け継ぎ、次の世代に伝え続けた教え子。そして今、恩師の最後の星まつりを飾ろうとしている。

 

星野光一郎がどれだけ深く慕われていたか。篠原の言葉、宮沢の必死さ、野々村の温かな表情——その全てが、一人の天文学者が残した影響の大きさを物語っている。あの観測記録帳に宿った想いの深さを、二人は改めて感じていた。

 

だからこそ、見つけ出さなければならない。

 

「必ず見つけます」

 

あんなが強い意思で言う一方、みくるの胸の中では疑問が強くなっていた。

 

篠原も、桐島も、宮沢も、野々村も。全員が星野光一郎を慕い、観測記録帳を大切に思っている。

 

では一体、誰が記録帳を持ち出したのだろうか。

 

 

---

 

 

天文台の内部は、大まかには調べ終えた。ミラールーペで痕跡を確認し、可能性のある場所は一通り潰した。しかし、記録帳は見つからない。

 

「中にないなら……建物の外なのかも」

 

みくるが呟いた。天文台の敷地内、つまり建物の外周や付属の施設。まだ確認していない範囲はある。二人は正面玄関から出て、天文台の建物に沿って外周を歩き始めた。

 

市街地とは反対側。雑木林と農地が広がる方向で、広場の喧騒からも距離があった。建物の裏手には小さな物置小屋とコンクリートで舗装された屋外観測スペースが見えたが、それらの更に奥、雑木林に向かって、細い小道がひっそりと伸びているのに気がついた。

 

みくるが何気なくミラールーペを向けると、ハート型のレンズの表面に、淡い光の塊が浮かび上がった。足跡の痕跡。地面の土を踏んだ跡が、ミラールーペの力で可視化されている。そしてそれは古いものではなかった。ごく最近、この小道を誰かが通った痕跡。

 

「一応、確認してみましょう」

 

みくるの声に、あんなが頷く。二人は小道に足を踏み入れた。

 

雑木林の木立が両側から覆いかぶさるようにして、細い道に影を落としている。広場の賑わいが嘘のように遠い。小道を少し下った先に、ベンチが一つ置かれていた。

 

それが見えるか見えないかの段階で、話し声が二人の耳に飛び込んだ。咄嗟に足を止める。

 

「何故今更呼び出したんだ。もう何十年も前の事だろう」

 

低い、しかし芯のある声。枯れた声の中に、長い年月を経た人間だけが持つ重みがあった。

 

ベンチの傍に、二人の人物が立っている。一人は初めて見る男性。かなりの年齢に見える。白髪で、深い皺が刻まれた顔。落ち着いているが、どこか冷めきったような表情。

 

そしてもう一方の男は……宮沢だった。

 

「あの記録帳を読んだんです」

 

宮沢の声は切迫していた。資料室で見せていた様子よりも、焦りや必死さはより強いように見える。

 

「どうしても確かめなくてはいけない事が——」

 

その時、初老の男がふと視線を動かす。木立の間から覗いているあんなとみくるの姿を捉えたのだ。

 

宮沢がそれに気づき、ハッとなって振り返った。

 

「宮沢さん……?」

 

あんなが戸惑いの声を上げた。みくるも隣で同じ表情を浮かべている。

 

宮沢の顔に、明らかな動揺が走った。しかし次の瞬間、それを押し隠すようにして、取り繕った笑みを作った。

 

「や、やあ……君達か。それで、記録帳は見つかったかい……?」

 

声が不自然に明るかった。話題をすり替えようとする意図が透けて見える。

 

「いえ、まだ見つからなくて……」

 

あんなが答えたが、その声も歯切れが悪かった。みくるも手帳を持つ手が止まったまま、宮沢ともう一人の男を交互に見ている。

 

沈黙が落ちかけた時、初老の男が口を開いた。

 

「観測記録帳が行方不明なんだろう?」

 

乾いた声だった。感情を抑えた、冷静で、どこか突き放したような言葉。

 

「探しに行った方がいい」

 

「そ、そうですね……」

 

宮沢は俯くように頷き、あんな達の脇を足早に通り過ぎて小道を戻っていった。その背中がすぐに木立の向こうに消える。

 

残された初老の男もベンチから離れ、小道を去ろうとした。

 

「あの——」

 

あんなが一歩踏み出して引き止めた。

 

「あなたは……?」

 

男は足を止めた。振り返った横顔に、何の感情も浮かんでいなかった。

 

「倉田だ」

 

短く名乗った。

 

「昔、星野先生に教えを受けていた。それだけだ」

 

それ以上は何も言わなかった。問いかけを受け付けない静かな壁のような沈黙を残して、倉田は小道の先へと歩き去っていった。雑木林の影に溶けるように、その姿が見えなくなる。

 

あんなとみくるは、二人きりで取り残された。

 

「宮沢さん、こんな時に人に会いに……」

 

あんなが困惑した声で呟く。

 

みくるの脳裏に、先ほどの場面が蘇る。資料室で引き出しを漁りながら蒼白な顔で「見当たらないんだ」と訴えた宮沢。「記録帳が行方不明のままイベントを行う事なんて出来ません」と必死に野々村に食い下がった宮沢。あの切迫した姿は、今の状況と重ならない。

 

記録帳を探す事より、倉田という人物に会う事を優先していた。

 

そして、宮沢が口にしかけた言葉。「あの記録帳を読んだんです。どうしても確かめなくてはいけない事が」。記録帳を読んで、確かめなくてはいけない事。それは一体、何なのか。

 

答えの出ない問いを抱えたまま、二人は小道を戻っていく。

 

 

---

 

 

天文台内に戻った二人は、一階の廊下で、桐島とすれ違う。

 

「桐島さん」

 

みくるが声をかけた。桐島が足を止め、眼鏡の奥の目をこちらに向ける。

 

「倉田さんという方をご存知ですか?」

 

桐島は少し首を傾げた。すぐにはピンと来ていない様子で、視線が宙を泳ぐ。

 

「倉田……?」

 

数秒の間があった。記憶の奥を手探りしているような沈黙。

 

「ああ……そういえば、星野先生がごく初期の頃に一緒に研究していた方が、そういう名前だったような気がします」

 

思い出すというよりは、文献の隅に書かれていた名前を辛うじて拾い上げたような口ぶりだった。

 

「大昔に研究から離れ、その後は特に名前を聞いた事はありません。どうしてその名前を?」

 

「いえ、少し、気になっただけです」

 

みくるは曖昧に答えた。桐島は一瞬だけ怪訝そうな表情を浮かべたが、深追いはせず、彼女もまた別の場所を探しに向かったようだった。

 

 

---

 

 

エントランス近くの階段の前で、別の話し声が聞こえた。

 

「宮沢君、そろそろ限界だよ」

 

野々村の声だ。落ち着いてはいるが、その奥に切迫した色が滲んでいる。

 

「お客さん達にも疑問が広がり始めている。開会式がいつまでも始まらない事を不審に思う声が出てきた。こうなってくると、マスコミも嗅ぎつけるかもしれない」

 

宮沢の顔が強張った。集まった報道陣がトラブルの内容を聞きつければ、話は一気に広がってしまうだろう。イベントに汚点がつくのは避けられない。

 

「分かっています……」

 

宮沢は額の汗を拭い、拳を握り締めた。焦りが滲んでいたが、その目にはまだ諦めの色はなかった。

 

「自分が何とか説得してみますから……」

 

そう言い残して、宮沢はエントランスの方へ足早に去ってく。その背中が正面玄関の方に消えるのを、あんなとみくるはエントランスの隅から見ていた。

 

 

---

 

 

廊下を並んで歩きながら、みくるが口を開く。

 

「あんな」

 

戸惑いがちな声だった。どう切り出せばいいか決めかねているような。

 

「みくる、わたしも今——」

 

二人の目が合った。互いの表情を見た瞬間、同じ事を考えていたのだと分かった。

 

「宮沢さんの事……だよね」

 

あんなが小さく頷く。

 

記録帳が消えたと分かった時、宮沢は誰よりも必死だった。野々村が「外のプログラムだけ進行しよう」と提案した時、「駄目です」と声を荒らげて反対した。星野先生の追悼イベントで、大事な記録帳が行方不明のままなんて出来ない——あの切迫した顔を、あんなもみくるも鮮明に覚えている。

 

なのに、記録帳を探す時間を使って、倉田という人物と密かに会っていた。

 

「記録帳が無ければイベントは出来ないって、あれだけ必死に言っていたのに」

 

みくるの声が低くなった。

 

「人に会う事を……優先していた」

 

あんなの眉が寄った。そして、あの場で聞こえた宮沢の言葉が、二人の記憶の中で同時に蘇る。

 

——あの記録帳を読んだんです。どうしても確かめなくてはいけない事が。

 

二人は足を止めた。廊下の蛍光灯が、白い光を落としている。

 

「記録帳は……盗み出されたんじゃなくて」

 

あんなが、恐る恐るという響きで言った。

 

「……宮沢さん自身が、隠した」

 

みくるが言葉を引き継いだ。

 

「もし、記録帳がまだ天文台の中にあるとしたら。宮沢さんが記録帳を隠したとしたら、その場所は……」

 

みくるの思考が加速する。ポチタンの反応は建物から離れていない事を示している。外に持ち出した訳ではない。

 

宮沢と最初に会った時の事を思い出す。あの時、宮沢は資料室の中で引き出しや棚を漁っていた。

 

「一番最初に可能性が除外される場所」

 

二人は顔を見合わせた。無言で踵を返し、事務室を抜けて資料室へ向かう。

 

資料室。宮沢が既に探したからという理由で、あんな達が最初に確認対象から外した部屋。

 

ドアを開けると、蛍光灯の白い光が窓のない部屋を照らしていた。

 

壁面を埋め尽くすスチール棚。棚の間は人ひとりがやっと通れる程度の狭さで、天文資料、過去の観測記録、写真のネガ、天文台の運営記録が所狭しと詰め込まれている。星野光一郎が収集し、記録し、積み上げてきた膨大な資料の山。この中に一冊のノートを紛れ込ませていたとしたら、まともに探して見つけ出すのは気の遠くなるような作業になるだろう。

 

だが二人に迷いはない。あんなとみくるは、それぞれのプリキットミラールーペを構えた。

 

レンズを通して資料室を見た瞬間、部屋の景色が一変する。

 

無数の光の痕跡が浮かび上がっていた。床に残る足跡。棚の表面に付いた手の跡。引き出しの取っ手に重なる指の痕。資料室という場所柄、長い年月にわたって沢山の人間が出入りし、資料に手を触れてきた履歴が——光の層となって折り重なっている。

 

「すごい量……」

 

あんなが息を呑んだ。光の痕跡が多すぎて、個々の動きを追うのが難しい。

 

「古い痕跡は無視して、真新しい反応だけに集中しましょう」

 

ミラールーペの焦点を調整する。古い痕跡が薄れ、新しいものだけが鮮明に浮かび上がった。

 

入口から近い位置に、いくつかの明確な痕跡が見えた。足跡が床の上に点々と残り、引き出しの取っ手や棚の端に手が触れた跡が光っている。おそらく宮沢が”探している”様子を見せていた時に付けた痕跡だ。

 

みくるが注意深く観察すると、やはり痕跡におかしい点がある事に気付く。

 

「資料室をもっと詳しく探すって言っていたのに、痕跡が手前側に偏ってる。奥の棚にはほとんど触れた形跡がない」

 

本気で記録帳を探すなら、棚の奥まで満遍なく手を伸ばすはずだが、残された痕跡は手前側を散漫に触れた程度のものだった。

 

二人は痕跡のある場所を重点的に調べた。引き出しの中、棚の上、段ボールの隙間。宮沢の手が触れた箇所を一つ一つ確認していく。しかし、それらしいものは見当たらなかった。

 

思い違いだったのだろうかと、二人の間に僅かな揺らぎが生じかけた時、床に向けたレンズにあるものが映し出されている事にあんなが気付く。

 

「足跡の他に……指の跡がある」

 

みくるがしゃがみ込んで確認する。床面に、足跡とは別の痕跡が光っていた。指先が床に触れた跡。しかもそれは単に物を拾った程度のものではなく、地面に手をついたような、体重をかけた痕だった。

 

あんなはその手の位置に合わせるようにして、同じ姿勢を取った。両膝を床につき、片手を床に置く。自然と、視線が低くなる。

 

棚の底面と床の間の、ほんの数センチの隙間。普通に立っていたら決して目に入らない、細い暗がり。そこに、茶色い封筒の端が見えた。

 

「……あった」

 

身体を限界まで低くして腕を伸ばす。指先が封筒の角にかかった。爪が封筒の表面を滑り、二度、三度と掴み直して——ようやく、ずるりと引き摺り出す事ができた。

 

茶色の事務封筒。何かが入っている厚み。あんなが封筒を持ち上げた瞬間、封筒の口から何かが床に滑り落ちる。封筒が下を向いている事に気付いていなかったのだ。

 

「あっ!」

 

しまった、とあんなが感じるよりも早く、床の上に一冊のノートが落ちた。黒い表紙。年月を経て角が丸くなり、背が少し膨らんでいる。表紙には薄れかけた文字で「観測記録」と書かれていた。

 

二人が息を呑む。

 

「これって、やっぱり……」

 

みくるが手を伸ばした。ノートを拾い上げようと掴んだ時、指先から滑った中のページがぱらぱらとめくれた。

 

びっしりと何かが書き記されたページが、次々と目の前を流れていく。数字の羅列、天体の座標、日付と署名。おそらく観測記録だろう。几帳面な筆致で書かれた記録が、何十ページも続いている。

 

だが、みくるの目に焼き付いたのは、それらのびっしりと埋められた研究のページではなく、ほんの一瞬だけ見えた、明らかに異質な一ページ。空白の中に浮かぶ小さな一文。

 

記録帳を持ち上げたみくるはその光景を求め、後半のページをめくっていく。観測記録が途切れた後の、ほとんど空白のページにそれはあった。罫線だけが走る白い紙面の中央付近に、たった一行だけ文字が書かれていた。

 

震えるような筆致だった。インクの色が他のページとは違い、文字の線は細く、不揃いで——書いた人間の手が、文字通り震えていた事を物語っている。

 

みくるがその一文を、声に出して読んだ。

 

「——『私は教え子の全てを奪ってしまった』」

 

資料室の空気が、凍りつく。蛍光灯の微かな唸りだけが、窓のない部屋に響いている。

 

「これって……」

 

あんなの声がわずかに震えていた。

 

みくるはノートを両手で持ったまま、ページをぱらぱらとめくり始めた。最初のページに戻り、一枚ずつ確認するように進んでいく。

 

観測記録の内容そのものは、二人には分からない。天文学の専門的な記述と数値が並ぶページが続く。意味のない確認作業のように思えた。しかし、めくる手が突然止まった。

 

前のページに戻る。もう一度、先のページに進む。また戻る。特定の箇所で、みくるの指が行ったり来たりしていた。

 

「みくる、どうしたの?」

 

「筆跡が……途中で、変わってる」

 

みくるの掠れた声に、あんなの目が見開かれた。

 

みくるの手が二つのページを確認するように行き来させる。前半のあるページまでの記述と、その次のページ以降の記述。同じノートに書かれた、同じ観測記録のはずなのに、良く観察すると文字の形が違う。

 

二人は無言のまま、そのノートを見つめた。

 

今日一日の出来事が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。

 

記録帳が無くなったと慌てた様子で言っていた宮沢。しかし実際には、彼自身が記録帳を隠していた。

 

かつての星野の教え子だったという倉田。大昔に研究から離れたという人物。そんな彼と密かに会っていた宮沢。

 

そして、宮沢が倉田に向けた言葉。

 

——あの記録帳を読んだんです。どうしても確かめなくてはいけない事が。

 

それらの出来事と、このノートの記述が示す真実。

 

「星野彗星の発見は——星野先生のものじゃなかった……?」

 

みくるの震える声。あんなの唇が微かに動いたが、言葉にならなかった。

 

みくるの手の中で、ノートの重さが変わったように感じられた。紙とインクの重さではない。それは、何十年もの間、このページの間に閉じ込められてきた真実の重さだった。

 

資料室の蛍光灯が、白く、冷たく、二人を照らしていた。

 

 

---

 

 

「どうすればいいんだろう」

 

あんなの声が、資料室の冷たい空気に溶けた。二人とも、ノートを前にして途方に暮れている。

 

篠原が語った星野光一郎の姿。星を教え、人を育て、天文台を建て、何十年も星まつりを続けてきた天文学者。皆に慕われていた。皆が、星野光一郎という人間を敬い、その功績に誇りを持ち、その遺志を受け継ごうとしていた。

 

しかし——その功績と名声が、他人の発見を盗んだ結果のものだとしたら。

 

怪盗団ファントムは、大切な物を盗む。嘘で人を欺き、マコトジュエルの宿った物品を奪っていく。けれど星野がやった事は——それよりも遥かに罪深い行為かもしれない。物を盗んだのではない。人の発見を、人の功績を……—人の人生そのものを奪ったのだから。倉田という人物は天文学の世界から姿を消し、以来何十年も、誰にも知られずに生きてきた。星野彗星の発見者という栄誉の影で、本当の発見者が全てを失った。

 

みくるはノートを静かに閉じた。

 

「……今重要なのは、マコトジュエルを守る事よ」

 

自分に言い聞かせるような声だった。ノートの黒い表紙を両手で挟んだまま、みくるの頭の中では探偵としての思考が動いている。

 

ゴウエモンも記録帳を探している。外で見つからなければ、いずれ建物の中を調べに来るだろう。このまま元の場所に隠しておくべきか。それとも、自分達で別の場所に移動させるべきか。

 

その思考を、あんなの声が遮った。

 

「宮沢さん、この事を……公表するつもりなのかな」

 

不意に出てきた言葉だった。推理ではなく、あんなの中で自然に湧き上がった問いかけ。

 

「え——」

 

みくるがあんなの方に顔を向ける。先ほど、裏手の小道での宮沢と倉田のやり取りが脳裏に蘇る。どうしても確かめなくてはいけない事。倉田という人物に会って、確かめようとしていた事。

 

みくるの頭の中で、今日聞いた情報が一つの線になって繋がり始めた。

 

星野は生前、ノートを個人で持ち歩いていた。星まつりの時だけ天文台に持参し、発見のページを開いて見せるのが恒例だった。それ以外の時は、誰もノートの全ページを通読する機会がなかった。星野の死後、遺族から天文台に寄贈されて初めて、ここに常置されるようになった。桐島が全ページの撮影を申し出た時、宮沢は断っている。星野の私物だから、まだ表には出せないと。

 

ノートの内容を知っているのは、おそらく宮沢だけだ。

 

そして宮沢はノートを隠し、追悼イベントの最中に、密かに倉田と会って真相を確かめようとした。

 

「宮沢さん自身も、ノートの中身を知ったのはつい最近なんだわ……」

 

追悼特別回の準備のために、初めてノートを通読した。そこで筆跡の変化と、最終ページの懺悔に気づいた。衝撃を受けた宮沢は、突発的にノートを隠し、倉田を呼び出して、何が起きたのかを確かめようとした。

 

師が行った不正を——明らかにするために。

 

しかし、そこまで考えて、みくるは首を横に振った。

 

「これは、私たちがどうこう出来る問題じゃない」

 

みくるの声は静かだったが、そこには明確な線引きの意思があった。

 

記録帳は見つけた。マコトジュエルと記録帳はゴウエモンから死守しなければいけないが、星野光一郎の過去の不正をどうするかは、宮沢や倉田、この天文台に関わる人々が向き合うべき問題だ。自分達が踏み込んでいい領域ではない。

 

「そう……だよね」

 

あんなは戸惑いながらも同意した。声に力がなかった。頭では分かっている。分かっているのに——心の中に芽生えた感情が、うまく収まってくれなかった。

 

無理やり押し込めようとする。これは自分達の問題じゃない。マコトジュエルを守る事に集中しなくちゃ。

 

意識的に気持ちを切り替えようとした。自分の迷いを心の奥に押し込もうとした。しかし、あんなは思い出してしまった。

 

篠原の声が耳に蘇る。『星まつりで初めて星を見た夜が、天文学を志したきっかけなんだ』

 

あの時、照れくさそうに頬を赤らめていた篠原の顔。

 

野々村の温かな表情が浮かぶ。『星野先生がいなければ今の自分はありません』

 

恩師への敬意と感謝に満ちた、あの穏やかな目。

 

そして——広場に集まっていた沢山の人々。星野光一郎に星を教わり、天文学を志し、人生の方向を変えられた人達。追悼のために各地から集まってきた、かつての教え子達。

 

あの人達の想い。星野を慕い、敬い、感謝している、あの全てが。嘘の功績の上に成り立っているのだとしたら。

 

その嘘が暴かれた時、あの人達は——篠原は、野々村は、宮沢は——どんな風に想ってしまうのだろう。

 

あの温かな笑顔が、崩れる。

 

あの敬意が、裏切りに変わる。

 

あの感謝が——。

 

みくるがノートを封筒に戻し、立ち上がった。

 

「まず、このノートをどうするか決めましょう。……そうだ、マコトジュエルだけでも取り出す事が出来れば——」

 

ポチタンの力なら、マコトジュエルを記録帳から引き出せるかもしれない……そう思い至ったみくるが顔を上げた時、あんなの声が耳に届いた。

 

「本当は……真実を、明かすべきじゃないのかもしれない」

 

ぽつりと。独り言のような言葉。みくるが振り返った時には、もう遅かった。

 

あんなの瞳に赤い光が宿っている。

 

瞳の中心から、血のように赤い色が滲み出している。まるで瞳の奥で何かが燃えているかのように、ゆっくりと、しかし確実に、本来の色を塗り潰していく。

 

あんなの表情が消えていた。無表情で、虚空を見つめている。

 

「あんな、駄目!」

 

みくるの叫びが資料室に響いた。駆け寄り、あんなの両肩を掴んで揺さぶる。

 

「あんな! しっかりして! あんなっ!」

 

ポチタンが身体から伸びるストラップを消し、宙に浮かんだ。小さな翼を必死ではためかせ、あんなの顔の前に回り込む。

 

「あんな、あんな!」

 

ポチタンのたどたどしい、甲高い声。

 

しかし、あんなは一切反応を示さなかった。みくるの手が肩を掴んでいる事も、ポチタンが目の前で鳴いている事も、何も届いていないかのように——赤く染まった瞳が、どこでもない場所を見つめ続けていた。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

あんなには二人の声は聞こえていない。聞こえていたのは、別の声だった。

 

虚空から。どこからともなく。あんなの心の最も深い場所に、直接響いてくる声。

 

『嘘よ覆え』

 

冷たく、底の知れない声。

 

『ファントムのしもべよ』

 

闇が、あんなの心を包んでいく。真実を知る事で生まれた迷い。明かすべきではないという想い。あの人達を傷つけたくないという願い——その全てが、闇の中で一つの形を結んでいく。

 

『都合の悪い真実は、全て覆い隠す。お前自身の嘘で。それがお前のやり方だ』

 

あんなの口元が、微かに動いた。抗おうとしていたのかもしれない。だが、その唇は何の言葉も紡がなかった。

 

次の瞬間、あんなの身体から赤いオーラが噴き出す。

 

「きゃあっ!」

 

みくるの手が弾き飛ばされた。赤い光の奔流がみくるとポチタンを同時に吹き飛ばし、二人は資料棚に叩きつけられた。棚の上から書類が雪崩れ落ち、写真のネガが散乱する。

 

「ぐっ——」

 

みくるが背中の痛みに顔を歪めながら、床に腰を落とした。ポチタンがぐったりとみくるの膝の上に落ちる。

 

あんなの首から下がっていた白い懐中時計が、赤黒い光に包まれて変質していく。白い表面が黒く染まり、文字盤が反転する。フェイクキュアウォッチ。嘘の力の変身アイテム。

 

心に宿るマコトジュエルが濁り、黒ずんでいく。マガイジュエルへと変貌したそれが、フェイクキュアウォッチに吸い込まれるようにセットされた。

 

赤いオーラがあんなの全身を覆い尽くし、その姿を変貌させていく。

 

髪が伸びる。瞳の色が完全に濁った深紅に変わり、左目に翼のような黒い仮面が現れ、右目の下に黒い十字星のペイントが刻まれる。蝙蝠を彷彿させるような衣装が身体に纏わりつくように形成される。

 

光が収まった時、資料室の蛍光灯の下に立っていたのは、もうあんなではなかった。

 

嘘の力のプリキュア——キュアライアンサーが、ゆっくりと目を開いた。

 

 

---

 

 

天文台の正面玄関前は、もはや取り繕える状況ではなくなっていた。

 

「宮沢台長、さっきから天文台の中がバタバタしてますよね」

 

「何かを探しているように見えましたが、もしかして、観測記録帳が無くなったんじゃないですか?」

 

記者の一人が、メモ帳を片手に鋭く切り込んだ。その一言で、周囲の報道陣の空気が変わった。カメラマンがレンズの向きを調整し、他の記者達もペンを構える。

 

宮沢の顔から血の気が引いた。

 

「い、いえ、そんな事は。ちょっとした手違いがあっただけで——」

 

「でしたら、なぜ開会式が始まらないんですか? 予定時刻から相当過ぎていますが」

 

「それは……プログラムの調整に少し手間取っているだけで——」

 

言葉が空回りしていた。宮沢の声は震えており、額には汗が浮かんでいる。

 

エントランスのガラス扉の向こう側では、野々村と篠原と桐島が、不安げに宮沢の姿を見つめていた。

 

広場では一般の来場者達も異変を感じ取っていた。テントの合間からこちらを覗き込む親子連れ、出店の手を止めて遠巻きに見守るボランティアスタッフ。追悼の場に相応しくない緊迫した空気が、じわじわと広がっている。

 

その群衆の端、他の来場者達とは離れた位置に、倉田がぽつんと一人で立っていた。白髪の老人は騒ぐでもなく、ただ冷淡な表情で正面玄関の騒ぎを見つめていた。

 

「宮沢台長、追悼の取材で来ている我々に対しても説明責任があると思いますが——」

 

記者が更に一歩詰め寄った、その時だった。

 

——カツ、カツ、カツ。

 

ヒールの音が響いた。硬質な、けれどどこか軽やかな足音が、エントランスの奥から近づいてくる。

 

妙に大きく響くその足音に、人々の視線が、一斉にそちらに向いた。

 

暗紫色のコスチューム。蝙蝠の翼のような構造のケープ。左目に黒い仮面、右目の下に黒い十字星のペイント。濁った深紅の瞳が、夏の陽光の中で異様な輝きを放っていた。

 

場が静まり返る。

 

報道陣のカメラが向きを変え、記者達の口が止まった。来場者達が足を止め、子ども達が親の後ろに隠れた。篠原は突如現れた奇妙な人物に対し、一歩前に出て、困惑した声を絞り出した。

 

「あの、あなたは……?」

 

ライアンサーは篠原の方をちらりと見て、軽く首を傾げた。目が細められ、唇の端に笑みが浮かぶ。

 

「わたしはキュアライアンサー。そんな事より——」

 

名乗りを軽く流して、ライアンサーは正面玄関の前に進み出た。報道陣も来場者も、異様な姿の少女の登場に呑まれたように動けずにいる。

 

「皆さんのために、はなまるな解答を用意して来たの」

 

明るい声だった。あんなの声と同じ音色で、けれどその奥に何か別のものが潜んでいる。周囲の困惑をものともせず、ライアンサーは場を掌握するように語り始めた。

 

「星まつりの開会式では、星野先生の観測記録帳を開いて開始を宣言するのがお約束なんでしょう?」

 

篠原や野々村が反射的に頷きかける。ライアンサーは一拍置いて、微笑んだまま続けた。

 

「でも——観測記録帳はないの」

 

その一言が、空気を裂いた。

 

宮沢の顔が蒼白になった。篠原が息を呑み、野々村が鋭い目をライアンサーに向ける。桐島の眼鏡の奥の目が見開かれた。

 

報道陣が堰を切ったように声を上げる。

 

「やはり観測記録帳が無くなったのか!」

 

「宮沢台長、さっきの説明は嘘だったんですか!?」

 

「追悼イベントの目玉が消失。これは重大なニュースですよ!」

 

カメラのシャッター音。マイクが突き出される。宮沢が為す術もなく後退りする。場が一気に混乱に傾きかけた、その瞬間——

 

「違う」

 

ライアンサーの発した澄んだ一音が騒ぎを断ち切った。

 

「そうじゃないの」

 

全員の動きが止まる。ライアンサーは微笑みを崩さないまま、一冊の黒いノートを取り出した。

 

観測記録帳ではない。それはライアンサーのファントムブック。

 

表紙に怪盗団を思わせるマスクのマークが描かれた、禍々しいノート。ライアンサーはそのページを開き、ペンを取り出した。すらすらと、嘘の真実を書き記していく。

 

『星野光一郎の観測記録帳は、遺族が形見として大切に保管している。天文台には寄贈されていない』

 

書き終えた文字の上に、ペン先がくるりと円を描いた。通常とは逆向きの、逆回転の花丸マーク。すると、ファントムブックのページから、赤い光が放たれる。

 

「観測記録帳は、最初から無かったんだよ」

 

ライアンサーが人々に向き直った。

 

「遺族の方が、そのまま形見として持っているんだから。宮沢さんも、受け取る事は出来ないって、そう言って返したんだよね?」

 

ファントムブックを中心に、赤い光が波紋のように広がっていく。篠原の瞳に、一瞬だけ赤い光が灯った。

 

「そう……だった、かな……」

 

困惑の声。記憶が揺らいでいる。ほんの少し前に「消えてしまった」と悲鳴を上げた事実が、霞のように遠くなっていく。

 

野々村の目にも赤い光が走った。

 

「言われてみれば……記録帳は、確かご遺族が……」

 

あれだけ動揺していた表情が、曖昧な納得に塗り替えられていく。桐島も、報道陣も、来場者達も。赤い光が触れた瞬間、ファントムブックに書かれた嘘が真実として心に刻まれていく。

 

宮沢の瞳が揺れていた。

 

「いや、そんな事は……私は確かに……」

 

嘘の記憶に抗おうとする宮沢にライアンサーが歩み寄る。

 

「大丈夫」

 

正面から、まっすぐに、宮沢の目を見つめた。あんなと同じ顔。けれどその微笑みの奥から、深い闇が覗いている。

 

「記録帳がなくても、星まつりは出来るよ。星野先生の思い出は記録帳じゃなくて、みんなの心の中にあるんだから」

 

優しい言葉だった。

 

「宮沢さんが星野先生への想いを告げて、イベントを始めよう。そしてみんなで星野先生を偲びましょう。これではなまる解決!」

 

ライアンサーはそう言い切ると、宮沢の耳元に顔を寄せる。囁くように。明るく——しかし、氷のように冷たく。

 

「そうすれば、誰も傷つかない。みんな幸せになれる。あなたが何も知らなければ」

 

宮沢の瞳が、一層強く赤く輝いた。

 

抗っていた力が、音を立てて崩れるのが見えた。記憶の中で確かだったものが溶け、ファントムブックの嘘に置き換えられていく。ノートの内容も。倉田の名前も。あの震える一文も。全てが——霧の中に沈んでいく。

 

「そう、か……私は、観測記録帳を……持っていない」

 

宮沢の声から力が抜け、赤い光が瞳の奥で安定する。

 

「……何も、見ていなかったんだ」

 

ライアンサーが満足げに微笑んだ。宮沢の目から迷いの色が消え、穏やかな、しかし空虚な表情が浮かぶ。

 

群衆の遠く離れた場所で、倉田がその一部始終を見ていた。

 

感情のない表情。いや——感情を殺した表情、と言うべきだったかもしれない。何十年もの間そうしてきたように、嘘が真実を塗り潰していく光景を、彼はただ見つめ続けていた。その瞳は、周囲の人間とは違い、赤い嘘の輝きを放ってはいなかった。

 

「遅かった……!」

 

エントランスの奥から、みくるがよろめく足でやってくる。腕の中にはぐったりとしたポチタンを抱え、背中を打ちつけた痛みで顔を歪めている。

 

周囲の人々の瞳に宿る赤い光。曖昧な表情で頷き合う篠原と野々村。虚ろな目をした宮沢。報道陣のカメラが降ろされ、「記録帳はもともと遺族が持っていた」という嘘の合意が、静かに場を満たしていく。

 

真実が、嘘に覆われている。

 

記録帳の存在が有耶無耶にされ、開会式を始めようという空気が——まるで最初からそうだったかのように——自然に生まれ始めていた。

 

ライアンサーがみくるの方をちらりと振り返った。

 

「ふふ」

 

小さく笑うと、ライアンサーはケープの裾を翻し、天文台の裏手の方向へ歩き出した。ヒールの音が軽やかに響く。まるで全てが片付いたとでも言うように、迷いのない足取りで。

 

「待って!」

 

みくるが叫んだ。ポチタンを抱え直し、痛む身体を押して走り出す。

 

 

---

 

 

天文台の裏手。屋外観測スペースを越えた先の、雑木林の手前。広場の喧騒が届かない場所で、みくるはようやくライアンサーに追いついた。

 

暗紫色のケープが風に揺れ、ライアンサーはゆっくりと振り返った。手には資料室から持ち出した観測記録帳が握られている。

 

「またつまらない"真実"だとかを暴きに来たの? みくる」

 

挑発的な声だった。あんなの声なのに、あんなとは違う響き。深紅の瞳がみくるを見据え、唇の端が皮肉げに持ち上がっている。

 

「ここには、真実を必要としている人なんて一人もいないよ」

 

笑顔の仮面が剥がれ落ちた。エントランスで人々に見せていた愛想の良い表情が消え、その下にある冷たさが剥き出しになる。

 

「真実を暴いた所で、一体何のためになるっていうの?」

 

その問いが、みくるの足を止めた。

 

「それは——」

 

みくるの口からは、否定の言葉がすぐに出てこなかった。

 

ライアンサーの言葉を、はっきりと否定できない自分がいた。なぜなら、ライアンサーが口にしている事は、あんなが感じてしまった恐れそのものであり、その恐れはみくる自身が想っていた事でもあったからだ。

 

星野光一郎の不正が公表されたら。

 

篠原の笑顔が崩れる。野々村の温かな表情が裏切りに歪む。宮沢が恩師として敬ってきた全てが瓦解する。星野に星を教わり、人生の方向を変えられた何十人もの教え子達が——自分の原点を失う。

 

多くの人が望まない真実。多くの人が傷つくかもしれない真実。それを暴く事が、本当に正しいのか。みくるには、何が正しいかなんて、はっきりと答える事が出来なかった。

 

でも、だからこそ。

 

「何が正しいかなんて、私たちが決めていい事じゃない!」

 

みくるの声が、雑木林の静寂を破った。

 

「それも、嘘で都合のいい結末を勝手に作るなんて……!」

 

ライアンサーは冷たく笑う。

 

「いいんだよ。わたしの作る真実の方がいいに決まってる」

 

穏やかな声だった。

 

「わたしの力があれば、みんなにとってはなまるな解答を真実に出来るんだから」

 

それは、ある種の信念だった。歪んでいたが、それはあんなの中にある「みんなを幸せにしたい」という想いが、嘘の力で捻じ曲げられた結果の、悪意のない独善。

 

ライアンサーは手の中の記録帳を持ち上げた。

 

「だから、こんなノートはもう必要ない。誰にも発見されちゃいけないの」

 

「ノートを処分するつもりなの!?」

 

みくるが食って掛かる。しかしライアンサーは首を横に振り、笑った。

 

「そんな事しないよ。これにはマコトジュエルが宿ってる。だからゴウエモンに——」

 

そこで、ぴたりと言葉を止めた。わざとらしく目を見開き。口元に手を当て、大袈裟に「あっ」という表情を作る。

 

「えっ……ゴウエモン……?」

 

みくるが困惑した声を上げた。何故ここでゴウエモンの名前が?

 

「バレちゃった」

 

ライアンサーはくすりと笑い、みくるに振り返った。深紅の瞳が愉しげに光っている。

 

「ごめんねみくる。ずっと黙ってたけど」

 

ライアンサーは両手を背中の後ろで組み、小首を傾げた。まるで些細な秘密を打ち明けるような、軽やかな口調で。

 

「わたし、怪盗団ファントムの一員なの」

 

「何を言ってるの……?」

 

みくるの声から、抑揚が消える。

 

「まだ分からないの?」

 

ライアンサーの声に、小馬鹿にしたような色が滲んだ。

 

「ずっと嘘をついてたんだよ。わたしは最初からファントムの一員として、みくるに近づいたの」

 

みくるの頭の中で、警報が鳴った。これはライアンサーの嘘だ。あんなの心を歪めた嘘の力が作り上げた虚構だ。惑わされてはいけないと。

 

「あんなは未来から来たって——」

 

「そう!」

 

みくるの言葉に被せるように、ライアンサーが弾んだ声で叫んだ。

 

「そもそもわたし、ファントムに召集されて未来からやって来たの!」

 

楽しげに。まるで種明かしをする手品師のように。

 

「ウソノワール様の命令で、2027年から呼び出されて、この時代に来たの。キュアット探偵事務所に潜り込んで、マコトジュエルの情報を探るために、ね」

 

みくるは首を振った。そんなはずはない。みくるはあんなから聞いた話を、あんなの言葉を、必死で思い出す。

 

「マコトミライタウンに住んでたんでしょ、開発予定地だって……」

 

「開発予定地!」

 

ライアンサーが指を一本立てて、わざとらしく頷いた。

 

「都合がいいよね。未来の事だから、なんとでも言える」

 

みくるの心臓が痛いほどに跳ねた。

 

「誕生日会の途中だったって。お母さんが……待ってるんでしょ」

 

「わたしのお母さん!」

 

ライアンサーが首を傾げ、人差し指を頬に当てた。まるで可愛らしく悩む女の子のように。

 

「みくるは会った事あるんだっけ?」

 

——ない。

 

あんなの母親に、会った事はない。あんなの家族を知らない。あんながどこに住んでいたかも、どんな学校に通っていたかも、どんな友達がいたかも——全て、あんなの口から聞いただけだ。

 

何故なら。あんなは未来から来た人間だから。

 

「ねぇ、みくる」

 

ライアンサーが近づいてきた。意地悪そうな顔。その瞳が、みくるの目を真っ直ぐに覗き込む。

 

「わたしがファントムの人間じゃないって、わたしがどんな人間だったかなんて……そんな事を証明できる証拠がどこにあるの?」

 

——証拠。

 

その言葉を聞いた瞬間、みくるの背筋にぞくりと冷たいものが走った。

 

証拠。探偵にとって最も重要な、真実を裏付けるもの。

 

この世界に生きる人間には全て、この世界で生きてきた痕跡がある。出生届。戸籍。血縁関係者。通った学校、住んでいた場所、関わった人々。どんな人間にも必ず、それまでに生きてきた足跡を示すもの——どんな人間だったかを証明する手がかりが、どこかに存在している。

 

しかし。

 

みくるの脳裏に、あんなの姿が浮かんだ。

 

オレンジがかった茶髪のお団子ヘア。明るい緑の瞳。跳ね毛とベレー帽。いつもまっすぐで、嘘がつけなくて、困っている人を見過ごせない——みくるが知っている、明智あんな。

 

その輪郭が歪んだ。あんなの姿がにじんで、色と形を失っていく。

 

あんなは未来から来た人間。2027年から1999年にタイムスリップしてきた。この1999年という時代には——明智あんなという人間が存在していた事を示す証拠が、どこにもない。出生届もない。戸籍もない。家族も、友人も、住んでいた場所も。全てが28年先の未来にあって、今ここには何も存在しない。

 

あんなが語った事の全てを、裏付ける証拠が——この時代には、存在しないのだ。

 

「2027年って言ってたけど」

 

ライアンサーが愉快そうに言った。

 

「実は2012年から来てたんだ。……あれっ? 2041年だったかな?」

 

くすくすと笑い、みくるの顔を覗き込む。

 

「ねぇ、みくるはどっちだと思う?」

 

みくるの膝から、力が抜けた。

 

ゆっくりと、その場に崩れ落ちる。コンクリートの地面に膝をつき、両手が力なく垂れ下がる。

 

ポチタンが心配そうにみくるを見上げ、「ポチィ……?」と小さく鳴いた。ポチタンが見つめるみくるの表情が、壊れかけている。

 

目が見開かれ、焦点が定まらない。唇が微かに震え、肌から血の気が引いている。信じていたものの土台が、音を立てて崩れていく感覚。探偵が拠り所にする証拠と論理が、最も大切な相手との関係を、何一つ証明してくれない。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

「名探偵になれるって……言ってくれた……」

 

振り絞るような声だった。

 

「だから一緒に……探偵事務所で……」

 

みくるが震える顔で、ライアンサーを見上げる。

 

「うん、探偵の近くに居た方が都合が良かったからね。だから一緒に"探偵ごっこ"する事にしたの」

 

ライアンサーがしゃがみ込み、いやらしい笑顔でみくるの顔を覗き込んだ。

 

「今までずっと、信じてたでしょ?」

 

「一緒に——」

 

みくるの声が震えていた。

 

「一緒に探偵として事件を解決した! 一緒に考えて、笑い合って……あんなと一緒に居た時間、あんなのあの笑顔は、絶対に嘘なんかじゃない!」

 

弱々しい自分の声を上書きするように、必死に叫ぶ。自分の中の迷いや恐れを払拭するために。

 

ライアンサーの笑みが、冷え切った。

 

「それは、みくるにとって”都合のいいあんな”を信じてるだけでしょ?」

 

立ち上がり、みくるを見下ろす。

 

「名探偵になれるって応援してくれて、いつも一緒に居てくれて……自分を裏切らない、最高に"都合のいい相手"」

 

鼻で笑った。

 

「みんな同じだよ。真実なんてどうでもいいの。自分の信じたいものを信じてるだけ」

 

星野光一郎を慕っている人々と同じだと。証拠も確かめずに、信じたいものだけを信じている——探偵のくせに。ライアンサーはそう言っている。

 

みくるは頭を抱えた。

 

「違う……違う……」

 

呟き続けていた。しかしその声は、もはや反論の形をしていなかった。ただ繰り返すだけの、祈りのような言葉。

 

ライアンサーの表情が変わった。冷たさが消え、代わりに優しい笑顔が浮かんだ。しゃがみ込んで、みくるに寄り添うように。

 

「ねぇ。みくるが信じたければ、これからも"最高のはなまる名探偵コンビ"を続けてもいいよ?」

 

優しい声。温かい声。あんなが普段みくるにかける声と、同じ温度の声。

 

「わたしがファントムだって事は秘密にして、今まで通り楽しくやろう? みくるが信じたい方を選んでいいから」

 

その甘い毒が、みくるの心に染み込んでいく。

 

「私……私は……」

 

みくるの頭の中はぐちゃぐちゃだった。何を信じればいいのか分からない。何が嘘で何が真実なのか。あんなの事を信じていた。無条件に。けれどそれが——自分にとって都合のいいものを見ているだけだとしたら。証拠も論理も、あんなとの関係を証明してくれないのなら。

 

探偵としての全てが、みくるを裏切っている。

 

折れかけていた。あと一押しで、みくるの心が、嘘の優しさに呑まれる所だった。

 

その時。

 

ピンク色の小さな影が、ふわりと宙に舞い上がった。

 

ポチタンがライアンサーの前に飛び上がった。小さな翼を精一杯に広げ、瞳をまっすぐにライアンサーに向けて——その小さな身体で、みくるを守るように立ちはだかった。

 

ライアンサーが顔をしかめた。

 

「邪魔しないで」

 

「あんな、ちがう」

 

その声に、ライアンサーの言葉が止まった。

 

みくるが顔を上げた。

 

ポチタンが喋っていた。赤ちゃん化して少し前までは言葉を話せなかったポチタン。そんなポチタンが、たどたどしい、けれど確かな意思を持った言葉を紡いでいる。

 

「ポチタン、よんだ、あんな……みらいから!」

 

小さな身体が震えていた。言葉を発する事自体が、途方もない力を振り絞る行為なのだ。それでも、ポチタンは声を出し続けた。

 

「ほんとの、あんな……やさしい」

 

ポチタンの瞳から、涙が零れた。

 

「ファントム、ちがう!」

 

「余計な事を言わないで!」

 

ライアンサーが苛立ちを隠さずに吐き捨てた。表情に動揺が走っている。

 

みくるの中で、何かが弾けた。

 

「——そうか!」

 

声が出た。まだ震えていたが、さっきまでとは違う、光を見つけた声だった。

 

あんなを未来から連れてきたのはポチタンだ。2027年の、あんなの部屋に現れて、あんなと共にこの1999年にタイムスリップしてきたと、あんなは言っていた。

 

「ポチタンは……この1999年の時代で……」

 

みくるの脳裏で、歪んで形を失っていたあんなの姿が輪郭を取り戻し始めた。ぼやけていた表情が鮮明になる。まっすぐな笑顔。困っている人を見たら、考えるよりも先に手を差し伸べる——みくるのよく知るあんな。

 

「あんなの存在を……あんなの真実を証明できる——唯一の"証言者"なんだ!」

 

ポチタンは未来から来た。あんなと共に。あんながどこから来て、どんな人間で、何故ここにいるのか——それを知っている存在が、ここに一人だけいる。あんなの真実を知っている証人が。

 

「何を言ったって無駄よ! 証拠なんてどこにも——」

 

ライアンサーが叫んだ。しかしその声には、先ほどまでの余裕がなかった。

 

みくるが立ち上がる。膝はまだ震えていた。目元は涙で濡れていた。けれど——その瞳に、光が戻っていた。

 

「証拠も、ある!」

 

みくるは胸のペンダントを掴んだ。白い懐中時計。それを、ライアンサーに向ける。

 

「このペンダントは、ずっと前におばあちゃんから貰ったもの」

 

声が力を取り戻していた。

 

「あなたがファントムに召集されて未来からやって来たっていうのなら——全く同じペンダントを、未来に居た時点で用意したって事になる」

 

ライアンサーの表情が強張った。

 

「でも、そんな事はあり得ない!」

 

みくるの声が叫びに近くなった。みくるの懐中時計が、夏の陽光を受けて光を返している。

 

「ジェット先輩が言ってたって。私たちは運命の——奇跡の二人」

 

真っ直ぐに、ライアンサーの目を見据える。

 

「私たちの出会いは、絶対に、ファントムに仕組まれたものなんかじゃない!」

 

ライアンサーの顔が歪んだ。

 

嘘で包んでいた余裕の笑みが崩れていく。瞳が揺れ、唇が引き攣り、完璧だった仮面にひびが入っていくのが見えた。

 

みくるはすかさずプリキットミラールーペを構えた。ハート型のミラーをライアンサーに向け、レンズを覗き込む。

 

ジェットが強化してくれたミラールーペ。ジェットの言うように、嘘の力にどこまで効くかは未知数だ。

 

(お願い——)

 

みくるは祈るように念じた。

 

一瞬、レンズ越しに見えるライアンサーの姿が揺らいだ。暗紫色のコスチュームの輪郭が滲み、その奥に——別の姿が浮かび上がった。本物の、あんなの姿。

 

「こ、これは……何が……」

 

ライアンサーが両手で頭を抱えた。苦しそうに身を捩り、目線がぐらぐらと揺れる。嘘の力と真実の光が、ライアンサーの中でぶつかり合っている。

 

しかし、レンズの中のあんなの姿は、次の瞬間、ぼやけて消えた。ライアンサーの姿だけが、再びレンズの中に残る。

 

(やっぱり、これじゃダメなの……?)

 

みくるの胸に、冷たい失望が走った。ミラールーペの力だけでは、嘘を完全に打ち破る事は出来ない。

 

だが、ライアンサーは苦しんでいた。一瞬とはいえ、真実の光に照らされた衝撃で、膝が折れかけている。

 

「ポチタン!」

 

みくるが叫ぶ。ポチタンはそれだけで理解した。小さな身体が矢のように飛び、ライアンサーの手から観測記録帳を掠め取った。

 

「あっ……!」

 

ライアンサーが手を伸ばしたが、間に合わなかった。

 

ポチタンが記録帳を抱えたままみくるの元に戻る。みくるは黒いノートを受け取り、振り返って走り出した。

 

「待ちなさい……!」

 

ライアンサーの声が背後から追いかけてきた。しかし、立ち上がろうとした身体がよろめき、膝がコンクリートに落ちた。真実の光に灼かれた痛みが全身を縛っていた。

 

「くっ……身体が……動かない……?」

 

両手を地面について、歯を食いしばる。ライアンサーはその場にうずくまった。

 

その場からみくるの足音が遠ざかっていく。

 

 

---

 

 

天文台の正面。

 

広場にはいつの間にか簡素なステージが組まれ、開会式の準備が粛々と進められていた。折りたたみ椅子が並べられ、マイクスタンドが立てられ、ボランティアスタッフが手際よく動いている。

 

しかし——その全てが、どこか虚ろだった。

 

スタッフの目は焦点が定まらず、来場者達は穏やかだが中身のない笑みを浮かべ、記者達はカメラを降ろしたまま漫然とステージの前に立っている。ほんの数十分前まで「開会式はいつ始まるんだ」と詰め寄っていた鋭さは、影も形もなかった。

 

嘘の力に呑まれている。全員が。

 

みくるは広場の端で足を止め、その光景を見渡した。腕の中のポチタンが小さく「ポチィ……」と不安げに鳴く。手には黒い表紙の観測記録帳を握り締めている。

 

このままライアンサーの作った嘘の解答が正しいまま進んでしまったら取り返しのつかない事になる。記録帳は「最初から無かった」事にされ、星野光一郎の過去は永遠に闇に葬られ、宮沢が知ってしまった真実も嘘の霧の中に沈む。そしてあんなは——ライアンサーのまま。

 

「待って下さい!」

 

声が広場に響き渡った。準備の手が止まり、人々の視線がみくるに集まる。

 

「観測記録帳が見つかりました! ここにあります!」

 

みくるは記録帳を両手で頭上に持ち上げ、全員に見えるようにした。黒い表紙。薄れかけた「観測記録」の文字。星野光一郎が生涯大切にした、あの一冊。

 

しかし——反応が、おかしかった。

 

篠原が首を傾げた。「観測記録帳……?」。その声に、記憶を手繰り寄せるような響きはなかった。ただ純粋に、何の事を言っているのか分からない、という困惑。

 

野々村が腕を組んだまま呟いた。「そんなもの、どこにあるんだ。記録帳は遺族が持っているはずだが」

 

報道陣の一人がメモ帳を見て、「開会式のプログラムには記録帳の件は入ってないですね」と隣の記者に確認している。

 

桐島が眼鏡のブリッジを押し上げ、みくるを怪訝そうに見ている。

 

宮沢は、ステージの脇で、赤い光の宿った瞳のまま、ぼんやりとみくるの方を見ていた。

 

誰も。記録帳の事を覚えていない。紛失騒ぎなど、最初から無かったかのように。みくるの手の中にある記録帳が、まるで見えていないかのように。

 

「そんな……」

 

みくるの声が震えた。

 

前回、児童館の事件でライアンサーが現れた時とは違う。あの時は物証を見つけ出した事で、ライアンサーの嘘は崩れた。真実の証拠が目の前に現れれば、嘘の力は解ける。そう思っていた。

 

しかし今回は違った。記録帳という物証を突きつけても、誰も反応しない。嘘が人々の認識そのものを書き換えてしまっている。記録帳の存在自体が、彼らの世界から消えているのだ。

 

ライアンサーの嘘の力が——前回より、強くなっている。

 

開会式の準備が再び動き始めた。ステージのマイクが調整され、宮沢がふらりとした足取りでステージに向かおうとしている。記録帳のない追悼イベントが、嘘の上に成り立った空虚な式典として、このまま始まろうとしている。

 

みくるは記録帳を胸に抱え、考えた。皆を覆う嘘の力を消し去り、あんなを元に戻すためには、ライアンサーの嘘の解答を覆すしかない。物証だけでは足りない。なら、もっと直接的に、嘘の骨格そのものを崩す必要がある。

 

そう——真実を暴くしかない。

 

みくるは息を深く吸い込んだ。そして、人々の前に歩み出た。

 

「皆さん、聞いて下さい」

 

探偵としての声だった。震えはまだあったが、その奥に、覚悟が宿っていた。

 

「今日、宮沢さんが観測記録帳を開会式のために持ち出そうとした時、ケースの中から記録帳が無くなっている事に気付きました。スタッフの皆さんが慌てて探し始め、私たちも捜索に加わりました」

 

みくるの言葉を、人々が無言で見ていた。

 

「記録帳は天文台の中にあるはずなのに、建物内を調べても見つかりませんでした。外部に持ち出された形跡もない」

 

みくるは記録帳を掲げた。

 

「この記録帳は資料室にありました。棚の下の、普通なら誰も見ない隙間に差し込まれていた。宮沢さんが探しているはずだった資料室に、最初からあったんです」

 

そこで一拍置いた。

 

「宮沢さんが資料室の中を満遍なく探した形跡はありませんでした。手前側を散漫に触れただけ——探しているように見せかけていただけだった。記録帳は……宮沢さん自身の手によって、隠されていたんです」

 

沈黙が落ち、そして——反応が返ってきた。

 

報道陣の一人が声を上げた。「宮沢台長がそんな事をする理由がないでしょう。自分で管理している物を、自分で隠す?」

 

篠原が困惑の声を上げた。「盗まれたっていうならまだ分かるけど……隠すなんて、おかしいよ」

 

桐島が眼鏡の奥の目を細めて言った。「宮沢さんは記録帳をいつでも確認出来る立場にあったのですから、そんな事をする必要がないはずです」

 

「そ、それは……」

 

みくるは口ごもった。記録帳の存在を皆が認識し始めている。嘘の力に穴が開きつつある。しかし同時に、みくるの主張を否定する声が勢いを増していた。

 

今求められているのは——動機だ。

 

宮沢が記録帳を隠した理由。それを説明しなければ、推理は完成しない。しかし、それを明かすという事は。

 

『私は教え子の全てを奪ってしまった』

 

最終ページに記された震える文字。それを、ここで、皆の前で口にするという事は。篠原の想いを。野々村の温かな表情を。星野を慕う全ての人々の心を——。

 

みくるが躊躇している間に、群衆の中から声が上がった。

 

「観測記録帳なんて、やっぱりなかったんだ」

 

その一言を皮切りに、人々がみくるから背を向け始めた。一人、また一人と視線が外れ、開会式の準備に意識が戻っていく。嘘の力が再び広がっていくのを、みくるは肌で感じた。

 

駄目だ。この流れを途切れさせてしまっては。嘘が真実を覆い隠したまま、二度と剥がせなくなる。

 

みくるは唇を噛んだ。

 

「宮沢さんは——」

 

「やめなさい……!」

 

振り返ると、天文台の裏手からライアンサーがふらつきながら現れた。表情が苦痛に歪み、腰のケープの裾が地面を擦っている。

 

「待って……」

 

それでもみくるを止めようと、必死に手を伸ばしていた。

 

「……ダメぇ!」

 

叫びだった。嘘のプリキュアとしての冷たさが剥がれ落ち、その下にあるあんなの切実な想いが、声に滲んでいた。

 

しかし、みくるは止まらなかった。

 

「宮沢さんは、記録帳を必死に探しているように見えて、本当は、人に会う事を優先していました」

 

言葉が、一つ一つ、石を積むように場に置かれていく。

 

「かつて星野先生と共に研究していた人物と、天文台の裏手で密かに会っていたんです」

 

野々村の表情が変わった。篠原が息を呑んだ。

 

「記録帳には、不審な点があります。宮沢さんは記録帳を隠す事で時間を稼ぎ、その間にその人物に確かめたい事があった」

 

みくるの声が震えていた。これを口にしたら、もう戻れない。

 

「そう——星野先生の記録帳に記された、星野先生の研究について……不正があるのではないかと考えて——」

 

宮沢の瞳から、赤い光が砕けた。虚ろだった目に正気の色が戻り、そして、その目に苦悩が浮かぶ。

 

「そうだ——記録帳は……私が、自分で、自分で隠したんだ……!」

 

その言葉が、決定的だった。

 

ライアンサーの嘘の解答が、音を立てて崩壊した。人々の目から赤い光が消えていく。篠原が、野々村が、桐島が、報道陣が——一斉に、何かから目が覚めたように瞬きをする。

 

ライアンサーの手の中のファントムブックが、勝手にページを開く。先ほど書き記された嘘の解答が、逆回転の花丸マークごと紙面から消えていく。

 

しかし、嘘が消えた結果としてそこに広がったのは、晴れやかな空気ではなかった。児童館の事件の時は、関係者の真実を求める気持ちが嘘を破った。しかし今回は違う。

 

ライアンサーの嘘に亀裂を入れたのは——疑念だった。

 

「不正って……どういう事だ?」

 

報道陣がざわつき始めた。メモ帳を取り出す記者。カメラが再び持ち上げられる。

 

「星野先生の研究に不正があったって……?」

 

「追悼イベントの裏で、そんな事が?」

 

篠原の顔が蒼白になっていた。

 

「星野先生が、不正を……?」

 

野々村は何も言わなかった。ただ、立ち尽くしていた。あの温かな表情が消え、刻まれた皺の一つ一つに、恐れと困惑が染み込んでいた。

 

真相を明かしたみくる自身も、その表情は苦かった。自分が踏み込んでいい領域ではなかったのだ。これは自分達がどうこう出来る問題じゃないと。だが、他に嘘を破る方法がなかった。

 

みくるの背後から足音が聞こえる。よろめく音ではなかった。確かな、一歩一歩を踏みしめる足音。

 

振り返ると、ライアンサーが歩いてきている。先ほどまでの苦痛に歪んだ姿ではない。身体の周囲に赤いオーラが脈打つように纏わりつき、瞳が暗い炎のように燃えている。

 

「真実なんて……必要なかった」

 

怒りに震えている低い声。

 

「わたしの解答なら……みんな、はなまるで……幸せになれたのに!」

 

ライアンサーの身体から、赤いオーラが爆発的に広がった。

 

波紋のように地面を走り、広場を覆い、人々の姿を包み込んでいく。来場者が、報道陣が、ボランティアスタッフが、篠原が、野々村が、桐島が、宮沢が——赤い光に触れた瞬間、その場から消えていった。煙のように、最初からそこにいなかったかのように。

 

気がつけば、天文台の前に残されていたのは、みくるとポチタン、そしてライアンサーの三者だけだった。

 

周囲の景色が歪んでいる。空の色が不自然に暗く、遠くの風景が滲んで見える。現実から切り離された、密室空間。

 

「!?……記録帳が!」

 

周囲が密室空間に包まれるのと同時に、みくるの手元にあった観測記録帳が赤い炎のようなオーラに包まれて姿を消す。みくるは視線を手元からライアンサーへと向けた。

 

ライアンサーの表情は、明らかに苛立っている。唇を噛み、眉を吊り上げ、瞳を怒りに燃やして。しかしみくるには、その奥にあるものが見えていた。

 

考えるまでもなく、分かる。怒りの下に押し込まれた、苦悩。そして、悲しみ。

 

誰も傷つけたくなかった。みんなを幸せにしたかった。嘘でもいいから、誰も泣かない結末を作りたかった。それが叶わなかった事への、激しい悲しみ。

 

ライアンサーのポーチが淡く光った。中に収まったフェイクキュアウォッチが浮かび上がり、セットされたマガイジュエルの表面に細い亀裂が走る。

 

それと同時に、みくるの脳裏に像が浮かんだ。あんなの姿。けれどそれは、普段の明るく弾けるような笑顔ではなかった。

 

みくるが見たのは、他人の痛みに寄り添おうとするあんなの姿だった。困っている人の隣にしゃがみ込み、自分も一緒に辛い顔をして、その痛みを分かってあげようと必死になるあんな。そして、今のライアンサーが抱えているのと同じ。真実によって傷つく人がいるのを前にして、どうすればいいのか分からなくて、苦悩する表情。

 

イメージの中のあんなの瞳が揺れている。答えが見つからなくて、それでも誰かのために何かをしたくて。それが今のあんなの偽りなき姿。

 

「これが、あんなの本当の心」

 

みくるの声は静かだった。

 

ライアンサーの奥にある苦悩や悲しみや、あんなの本当の気持ちだ。その優しさが行き場を失い、嘘の力に絡め取られた結果が今の姿。

 

「私は、向き合わなきゃいけない」

 

みくるの胸のペンダントが光った。

 

白い懐中時計が浮かび上がり、光に包まれて変化していく。白い表面がさらに輝きを増し、文字盤にマコトジュエルの接続部が現れた。ジュエルキュアウォッチ。

 

「プリキュア、メイクアップタイム!」

 

文字盤の針に指をかけ、回す。「サン!」針が三の位置を指す。「ロク!」六の位置へ。「キュー!」九の位置へ。そして最後に、針を一回転させ、文字盤全体が虹色の光を放った。

 

時を刻む音と共に、みくるの姿が段階的に変化していく。髪型と髪の色が変わり、衣装が変わり、装飾品が装着されていく。

 

「重ねた推理で笑顔にジャンプ! 名探偵、キュアミスティック!」

 

光が収まり、キュアミスティックの姿が、密室空間の中に凛と立った。

 

「私の答え、見せてあげます!」

 

 

---

 

 

「やっぱりわたしの邪魔をするんだね、ミスティック」

 

ライアンサーの声は低く、抑えられていた。その目には、先ほどまでの苦悩の残滓は消え、代わりに冷たい決意が凝り固まっている。

 

「だったら、ミスティックの存在が嘘になっちゃえばいいんだよ」

 

ライアンサーがファントムブックを出現させる。黒い表紙を開き、ペンを走らせ始めた。禍々しい赤黒い文字が、白いページの上に浮かび上がっていく。

 

——そうはさせない。

 

「オープン! プリキットミラールーペ!」

 

掛け声と共にミラールーペが本来の大きさに展開し、ミスティックの手の中でハート型のミラーが輝きを放った。ミラー部分を開いてルーペ状態に変形させ、ライアンサーのファントムブックに焦点を合わせる。

 

レンズの中に、黒い表紙の奥に隠されたページに記された文字が映し出される。

 

『キュアミスティックは攻撃できない』

 

ミラールーペに浮かぶ赤黒い文字列が端からほどけるように砕け、散り、消えていった。

 

「くっ」

 

ライアンサーが奥歯を噛み締めた。ペンが止まる。ファントムブックに書きかけていた文字が、書いた先から薄れて消えていく。

 

「よしっ……!」

 

ミスティックの口から、確かな声が出た。ジェット先輩がミラールーペの力を高めてくれたおかげだ。前回のように、ファントムブックで好きなように嘘を書き込ませはしない。

 

「……だったら」

 

ライアンサーの目が据わった。閉じたファントムブックが姿を消し、その手が別のアイテムを取り出した。キーホルダーサイズの、小さなアイテム。先ほどミスティックが取り出したものと同じだった。

 

ミスティックの目が見開かれる。

 

「クローズ! ファントムミラールーペ!」

 

声と共に本来の大きさへと戻ったそれはミスティックの持つミラールーペと瓜二つの形状だったが、色が違う。

 

薄桃色だったはずのボディは黒く染まり、ミラー部を囲む金の縁飾りは艶めかしい紫色に輝いている。鏡面に映るのは密室空間の歪んだ景色と、それを手にするライアンサーの冷たい笑み。光を映すのではなく、光を吸い込むような、暗い輝き。

 

それを見たミスティックは胸が締めつけられるような気持ちだった。ミラールーペはただの武器や道具ではない。

 

あんなとみくるの間にすれ違いが生まれた過去の事件。ぶつかり合って、それでも互いを信じようとした時、呼応するようにミラールーペは力を貸してくれた。ジェットの技術だけではない。二人の間に生まれた絆が、ミラールーペに命を吹き込んでいた。二人の絆の証。

 

それが、嘘の力に包まれた。

 

ライアンサーがファントムミラールーペを構えると、暗い紫のオーラが噴き出す。ミラールーペの周囲を渦巻くように纏わりつき、凝縮し、形を成していく。オーラがミラールーペの先端から伸び、濃密なエネルギーの刃を作り出した。重厚な大型の長剣。刃の表面を紫の光脈が走り、禍々しい脈動を放っている。

 

ライアンサーが剣となったミラールーペを両手で握り、振りかぶった。

 

「——!」

 

ミスティックの身体が反射的に動く。自身のミラールーペを構え、意志を込める。赤いオーラが湧き上がり、ミラールーペに細い刃とアームガードが形成された。レイピア型の武器となったミラールーペ。それを正面に突き出し、迎え撃つ。

 

振り下ろされるライアンサーの刃。ミスティックのレイピアがその一撃を受け止め、金属が打ち合うような衝撃音が密室空間に響き渡る。しかし、大型長剣の重量が、細剣の受けを圧倒した。刃の接触面から紫と赤の火花が散り、重量を受けきれなかったミスティックが後ろに弾かれた。

 

足が後ろに滑り、よろめく。辛うじて転倒はしなかったものの、反撃に転じる事は出来ない。

 

 

 

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「邪魔、邪魔、邪魔……!」

 

ライアンサーの攻撃は止まらなかった。踏み込む。長剣を横薙ぎに振るう。ミスティックはレイピアの刃で受け流すが、衝撃で腕が痺れ、半歩退く。すかさずライアンサーが詰め、次の斬撃を叩きつけた。

 

「わたしの解答を、わたしのはなまるを否定する相手は——」

 

斬り上げ。袈裟斬り。突き。長剣のリーチと重量を存分に活かし、鬼気迫る勢いで踏み込んでくる。

 

「みんな消してやる!」

 

ミスティックは細剣の繊細な動きで斬撃を逸らし、受け流し、いなす。正面から受け止めるのではなく、刃の角度で威力を横に散らし、体捌きで致命的な一撃を避ける。

 

しかし、受け流すだけで押し返す事が出来ない。受ける度に身体が押され、後ろにステップを刻むしかなかった。攻撃の間隔が短い。一撃一撃が重い。息をつく暇もなく、反撃に転じる隙もない。防戦一方だった。

 

気がつけば、背後に木がある所まで追い詰められている。

 

ライアンサーの瞳が光った。好機と見て、長剣を大きく振りかぶる。全力の一撃が、上段から振り下ろされようとしたその時、ミスティックは地面を蹴った。

 

跳躍。高く、真上に飛び上がる。振り抜いた長剣が空を切った。ライアンサーの剣が木の幹に深々と食い込み、樹皮が弾け飛ぶ。しかし手応えのなさに、ライアンサーは即座に反応した。

 

素早く頭上を見上げる。そして、ファントムミラールーペのミラー部分を展開し、空中のミスティックをレンズに収める。

 

レンズの中に、空中のミスティックの姿が拡大されて映し出された次の瞬間には、ミスティックの眼前に、ライアンサーがいた。

 

「——!?」

 

瞬間移動。空中という逃げ場のない空間で、ライアンサーが長剣を振りかぶっている。ミスティックはレイピアを構える腕が間に合わない。剣での防御体勢を取る前に、ライアンサーの長剣がミスティックの身体を捉えた。

 

衝撃と共にミスティックは叩き落とされた。重力と斬撃の威力が重なり、ミスティックの身体が地面に向かって急降下する。受身を取る余裕もなく背中から叩きつけられ、衝撃で息が詰まった。土煙が舞い上がり、地面にひびが走る。

 

ダメージが身体を軋ませる中、ミスティックは歯を食いしばって身を起こした。片膝をつき、レイピアを杖のように地面に突き立てて、辛うじて上体を支える。一方のライアンサーは余裕の姿勢で着地した。長剣を肩に担ぐように持ち、もう片方の手を腰に当てて、ミスティックを見下ろしている。

 

少し離れた場所で、ポチタンが不安そうに宙に浮かんでいる。小さな翼をぱたぱたと動かしながら、二人の間を行き来するように飛び回っている。「ポチィ……」と、今にも泣き出しそうな声を漏らしていた。

 

ライアンサーが再びルーペ正面に構えた。ミスティックは咄嗟に防御姿勢を取るが、次の瞬間にはもうライアンサーの姿は目の前にあった。文字通りの一瞬で間合いを詰めてくる。瞬間移動の開始から攻撃の完了までが、あまりにも短い。長剣の一閃がミスティックの防御を叩き割った。弾き飛ばされ、地面を転がる。

 

立ち上がる。ルーペの光がまた瞬く。

 

間合いが一瞬で消える。斬撃。

 

またルーペが光る。

 

また目の前にライアンサーがいる。

 

また斬られる。

 

繰り返しだった。ルーペで位置を捕捉し、瞬間移動で一瞬にして間合いを詰め、長剣の重い一撃を叩き込む。離れる間もなく、次の捕捉が来る。ミスティックに許されるのは、予測不能の攻撃をぎりぎりの防御で受けてダメージを僅かながらに軽減する事だけだった。

 

よろめくミスティックに対し、ライアンサーは長剣を降ろして余裕の態度を見せ始める。

 

「あ~あ。みくるの事はいい友達だと思ってたのに」

 

笑みを浮かべ、声が弾ませている。しかし、すぐにスッと表情が冷たくなる。目の温度が消えた。

 

「わたしのはなまるの邪魔をするのがいけないんだよ」

 

長剣を正眼に構え直した。紫のオーラが刃に沿って脈打つ。

 

「真実なんて何の価値もない」

 

ライアンサーの声が、陶酔するように揺れた。

 

「わたしはみんなに、幸せなはなまる解答をあげるんだ」

 

目を細め、どこか夢見るような表情で呟く。自分の言葉に酔っている——いや、自分の言葉を信じ込もうとしている。嘘で自分自身を覆い尽くそうとする、痛々しい祈り。

 

ミスティックはよろめきながらも、レイピアを構えた。刃先が僅かに震えている。

 

「あんな……」

 

声が掠れた。一度、唾を飲み込んで、もう一度。

 

「あんなの気持ちは、分かるよ……」

 

ライアンサーの眉が僅かに動いた。

 

「私も、今回の事件、どうすればいいのか分からなかった」

 

みくるの脳裏に、観測記録帳の最終ページ時の事が蘇る。『私は教え子の全てを奪ってしまった』——あの震える文字を読んだ時の、全身の力が抜け落ちるような感覚。それを皆の前で口にしなければならなかった時の、心臓を握りつぶされるような痛み。

 

「全部……隠してしまった方がいいんじゃないかって……一瞬、考えちゃった」

 

正直な言葉。あんなと同じように、みくるも真実から目をそらしたくなる気持ちがあった。

 

「でも……」

 

レイピアを握る手に、力が戻った。微かに、けれど確かに。

 

「やっぱり、このままじゃ、駄目だよ……」

 

顔を上げる。ミスティックの瞳に、再び光が宿った。

 

「みんなが、前に進むためにも……真実は……取り戻さないと、いけない」

 

ライアンサーが顔を歪める。

 

「みんなのために、その真実が邪魔だって言ってるんだよ!」

 

苛立ちが声を尖らせた。ファントムミラールーペを跳ね上げ、レンズをミスティックに向ける。瞬間移動。そのまま一撃で終わらせる——。

 

その動きにミスティックが咄嗟の防御姿勢を取る。レイピアを正面に構え直す、その動作の中で、手に持っていたミラールーペの鏡面が、ライアンサーの覗き込んだレンズに真正面から映り込んだ。

 

「——!?」

 

レンズの中に、鏡が映った。鏡面にはライアンサー自身の姿が——覗き込んだレンズの中に跳ね返されて映し出される。

 

ファントムミラールーペの能力、レンズで覗いた位置への瞬間移動。

 

しかし、鏡面に反射した像は実体の位置ではない。虚像だ。レンズが捉えたのは、ミスティックの実在する座標ではなく、鏡が作り出した反射の幻。位置情報が特定されなかった一瞬、瞬間移動の照準が揺らいだ。

 

ライアンサーの姿がミスティックの目の前に現れる。しかし、移動のタイミングがずれていた。それだけではない。ミスティックの言葉に苛立ち、感情のまま踏み込んだその動作にも、わずかな乱れがあった。瞬間移動の精度のズレと、攻撃を仕掛ける身体のリズムのズレ。その二つが重なり合い、攻撃のタイミングがワンテンポ遅れた。

 

長剣を振りかぶる腕が、まだ上がりきっていない。無防備な姿勢のまま、ミスティックの間合いの中に現れてしまった。

 

その一瞬をミスティックは見逃さなかった。

 

「やあああぁぁぁぁぁっ!」

 

全ての力を、右腕に集める。赤い光を纏った細剣が、鋭く前方に突き出される。エネルギーの剣閃が一筋の光跡を描き、バランスを崩して無防備だったライアンサーに、その一撃がまともに入る。

 

ミスティックは止まらなかった。

 

連続で繰り出す。突き、薙ぎ、斬り上げ——精密かつ苛烈な連続斬撃がライアンサーの身体を捉え続けた。一撃ごとにライアンサーの体勢が崩れ、紫のオーラに亀裂が走る。

 

最後の一閃が深く切り裂いた瞬間、ライアンサーの手からファントムミラールーペが弾き飛ばされた。宙を回転し、地面に落ちて転がる。ライアンサーの身体も勢いのまま吹き飛ばされ、密室空間の地面を滑っていく。

 

「ポチタン!」

 

ミスティックが叫ぶと、「ポチィ!」というポチタンの掛け声と共に、光の中からマコトジュエルが出現。それをミスティックはミラールーペにセットする。

 

中央の宝石部を回転させていくと、ミラールーペの光が強まっていく。鏡面にミスティックの顔が映し出される。傷だらけの、けれど揺るがない瞳。

 

「キュアミスティックが解決!」

 

ミラールーペが輝きを増し、エネルギーで構成された刃に更なる力が宿る。

 

「プリキュア! ミスティックストライク!」

 

跳躍した。地面を蹴り、空へ。剣をライアンサーに向けて真っ直ぐに突き出し、赤い流星のように落下していく。

 

起き上がったライアンサーは、地面に転がったファントムミラールーペを掴み直していた。黒い鏡面から紫のオーラが再び噴き出し、長剣を形成する。

 

「リバースはなまるソード!」

 

ライアンサーが叫び、長剣を迎え撃つように振りかぶった。落下してくるミスティックに向かって、全力で剣を振るう。

 

二つの剣が、ぶつかり合う。

 

衝突の瞬間、密室空間全体が震えた。真実の力と嘘の力。二つのエネルギーが打ち消し合い、激しい奔流となって空間を駆け巡る。紫の光と赤の光が螺旋を描きながら絡み合い、弾け、また衝突する。

 

「いらない……いらない……」

 

ライアンサーの声が震えていた。

 

「真実なんて、必要ない!」

 

震える腕と同じように、震えるような叫び。

 

「……わたしの、わたしのはなまるの方がいい!」

 

その言葉は——もはや悲鳴だった。

 

怒りでも、冷酷さでも、陶酔でもなかった。むき出しの苦痛だった。ただ——痛みに耐えきれない子どもの叫び。

 

ミスティックの胸にも、その言葉が響く。

 

痛いほど分かる。あんなの気持ちが。真実を明かした時に広がった、あの苦い空気。篠原の蒼白な顔。野々村の凍りついた表情。報道陣のざわめき。宮沢の苦悩。あれを見て、自分だって苦しかった。

 

でも。その痛みが分かるからこそ——嘘に隠されたあんなの心を取り戻さなければいけない。

 

「はあああああああ!」

 

ミスティックが、最後の力を込めた。

 

レイピアに集中させた全てのエネルギーが赤い光となって爆発的に膨張し、ミスティックの身体ごと、一条の赤い光と化した。長剣の紫の刃を突き破り、ライアンサーの胸を真っ直ぐに貫く。

 

光が、ライアンサーの身体を駆け抜けた。

 

背後で実体化したミスティックが、振り抜いたレイピアを一閃させた。赤い軌跡が空中に弧を描く。

 

「キュアっと解決!」

 

密室空間にミスティックの声が響き渡るのと同時に、ライアンサーの身体を、浄化の光が包んだ。

 

「あ——ああああっ……!」

 

暗紫色のコスチュームの輪郭が滲んでいく。深紅の瞳の色が薄れ、蝙蝠の翼を模したケープが光に溶ける。左目の黒い仮面が砕け散り、右目の下の十字星のペイントが光の粒子となって舞い上がった。

 

ライアンサーの姿が光に溶け、その奥から、あんなの姿が浮かび上がる。

 

意識のないあんなの膝が折れ、身体が前のめりに倒れていく。力を失った身体が、密室空間の地面に向かって崩れ落ちる。

 

受け止めようと、ミスティックは無意識に足を踏み出そうとした。

 

だが、前に出そうとした足が、まるで地面に縫い止められたように動かない。膝が震え、力が抜けていく。ライアンサーとの戦闘で受けたダメージと、必殺技に全てを注ぎ込んだ消耗により、ミスティックも限界を迎えていた。

 

震える膝が前に折れ、ミスティックもまた、その場に倒れ込んだ。膝と手が地面につき、そのままうつ伏せに崩れる。身体を包んでいた赤い光が薄れ、キュアミスティックのコスチュームが解けていく。みくるもまた、力を失って本来の姿に戻ってしまっている。

 

「あ、あんな……」

 

腕を伸ばす。あんなの方へ。指先が地面を掻き、少しでも近づこうとする。けれど身体はもう、ほんの数センチすら前に進まなかった。

 

「あんなっ、みくるっ!」

 

ポチタンの声が、悲痛に響いた。小さな翼を必死にはばたかせ、二人の周りを飛び回る。あんなの顔の前に降りて頬をつつき、みくるの傍に飛んで腕に触れ、また飛び上がって二人の間を往復する。

 

密室空間の空に細い亀裂が蜘蛛の巣のように広がり、空間の端から歪みが崩壊していく。嘘の力が消えた事で、この空間を維持する力も失われつつあった。

 

密室空間が、崩れ去ろうとしていた。

 

 

---

 

 

密室空間の壁が、ガラスが砕けるように崩れ落ちた。

 

歪んだ空の色が剥がれ、不自然に暗かった光が消え、代わりに夏の午後の日差しが一気に流れ込んでくる。天文台の白い壁と銀色のドームが、元通りの姿で目の前に立っている。

 

みくるはあんなの腕を自分の肩に回し、もう片方の手であんなの腰を支えながら、よろめく足取りで歩いていた。足が地面を踏むたびに膝が震え、視界がぐらりと揺れる。自分の身体を支えるだけでも精一杯だった。

 

あんなの方も、意識が朦朧としている様子だった。目は半ば閉じられ、時折薄く開く瞳の焦点は合っていない。

 

ポチタンが二人の頭上を低く飛びながら、「ポチィ……ポチィ……」と不安げに鳴き続けている。

 

広場の人々は、投げかけられた疑念と、そこから生まれる不安を抱えながら、しかしそれを払しょくする術もなく戸惑っている。

 

その時、何もない宙空に、一冊のノートが現れた。

 

黒い表紙。薄れかけた「観測記録」の文字。密室空間が形成された時に消え去っていた星野光一郎の観測記録帳が、嘘の空間の消滅と共に実体を取り戻し、そのまま重力に引かれて、ぱさり、と芝生の上に落ちた。

 

最初にそれに気づいたのは、篠原だった。一瞬の硬直の後、弾かれたように駆け寄り、しゃがみ込んで両手で持ち上げる。

 

「これ……観測記録帳……」

 

宮沢が「あっ——」と口を開きかけた。手を伸ばし、何かを言おうとした。

 

しかし、それよりも早く、報道陣が動いた。

 

「記録帳だ!」

 

一人が駆け出すと、それが引き金になった。カメラを持った記者、メモ帳を開いたジャーナリスト、マイクを掲げた放送記者。彼らが宮沢を押しのけるようにして、篠原の周りに殺到した。

 

本来であれば——篠原は、星野の遺品であるこのノートを勝手に開こうとは思わなかっただろう。星野先生の功績と想い出が詰まった大切な記録帳。篠原にとっては、星を志すきっかけをくれた恩師の、神聖な遺産だった。

 

しかし、みくるの言葉が、真実を解き明かすために打ち込まれた疑念が、篠原の中に刺さったまま残っていた。

 

ページを開く。几帳面な筆跡で日付と天候と観測データが書き連ねられている。篠原の目がそれを辿っていく。次のページ。また次のページ。

 

「何かおかしな所はありませんか?」

 

報道陣の一人が、肩越しに覗き込みながら声をかけたが、篠原は答えなかった。ページをめくる手が止まらない。

 

やがて、あるページを超えたあたりで、篠原の目の色が変わった。

 

指が止まり、数ページ前に戻り、もう一度読み直し、再びめくって先に進み、また戻る。特定のページの間を行ったり来たりする指の動きが、次第に速くなっていく。あの時のみくると全く同じ動作。篠原の表情から血の気が引いていくのが、周囲からもはっきりと見て取れた。

 

ページをめくる手が早くなった。否定したい結論が、ページを追うごとに補強されていく。その事実から逃れるように、けれど目を逸らす事も出来ずに、篠原の指は次のページへ、次のページへと進んでいった。

 

そして——最後のページに、辿り着いた。

 

震える筆跡。他のページの几帳面さとは明らかに異なる、揺れた文字。書いた人間の手が、心が、どれほど動揺していたかが伝わってくる一行。

 

その一文を、篠原が震える声で読む。

 

「『私は……教え子の全てを、奪ってしまった』……」

 

声は、ほとんど聞こえないほど小さかった。けれど、周囲に群がった報道陣の耳には、確かに届いていた。

 

「星野先生の発見、星野彗星の発見は……他人のものを、奪ったものだった……?」

 

篠原の手から、力が抜けた。

 

観測記録帳がするりと指の間を抜け落ち、芝生の上に落ちた。ページが開かれたまま。「私は教え子の全てを奪ってしまった」という文字が、夏の日差しの下にさらされている。篠原はその場にへたり込み、膝を地面につけたまま、落ちた記録帳を見下ろしていた。

 

報道陣がざわついた。

 

「星野彗星の発見が盗まれたものだった……?」

 

「教え子から、研究成果を横取りしたって事か!?」

 

声が重なり合い、波紋のように広がっていく。そして、その波紋の向かう先は一つ。報道陣が一斉に振り返った。宮沢の方を。

 

「一体どういう事なんですか!」一人が詰め寄った。

 

「あなたは知ってたんですか!?」もう一人が叫んだ。

 

「何故記録帳を隠すなんて真似をしたんですか!」三人目が詰め寄った。

 

質問が次々と投げかけられ、宮沢の周囲を報道陣が取り囲んでいく。マイクが突き出され、カメラのシャッター音が連なる。

 

宮沢は蒼白な顔で、けれど正面を向いたまま、報道陣の前に逃げずに立っていた。

 

「……今回の星まつりの準備の際に」

 

絞り出されるような声。

 

「記録帳を初めて通読しました。……その時に、気付いたんです。星野先生が行った……恐ろしい行為に」

 

一度、言葉を切った。唾を飲み込む音が聞こえるほどの沈黙。

 

「確かめる時間が欲しかった。……真実を確かめて、その上で、正式に発表をするつもりでした」

 

宮沢の手が、無意識にネクタイの結び目に触れた。

 

「記録帳を隠すなんて……自分でも、馬鹿げた事をしたと思います」

 

苦い、自嘲するような声だった。

 

「でも……記録帳を見て生まれた疑惑が事実だとしたら。星野先生の功績を讃えるイベントを……そのまま続けるなんていう事は、私にはどうしても出来なかった」

 

その言葉に、宮沢の全てが込められていた。恩師への敬意と、真実を知ってしまった者の苦悩。しかし、報道陣はそれで納得した様子はなかった。

 

「あんたは星野の一番弟子だろ!」

 

怒号が飛んだ。

 

「最初から知ってたんじゃないのか!」

 

「仲間達とグルになって隠蔽していたんじゃないのか!」

 

「記録帳を隠したのも、本当は証拠隠滅のためだろう!」

 

一つ一つが突き刺すような声だった。質問ではなく、もはや糾弾だった。宮沢は何か答えようと口を開くが、次の怒声に遮られ、言葉が完成しない。

 

「皆さん、違うんです!」

 

みくるが声を上げた。精一杯の声で。

 

「宮沢さんは本当に、真実を確かめて公表しようとして——」

 

しかし、その声に誰も振り向かなかった。みくるの声は怒号の渦の中にかき消される。少女の真実を語ろうとする必死な言葉は、大人達の激昂の前ではあまりに小さかった。

 

人だかりの外で、倉田が踵を返した。無言で、静かに、群衆から離れようとしていた。

 

「倉田さん!」

 

宮沢が思わず声を上げた。報道陣の壁を透かすようにして、去りゆく倉田の背中を見つめ、引き留めようと手を伸ばした。

 

その声と動作が、報道陣の一部の注意を引いてしまう。

 

「おい——あの人、宮沢台長と天文台の裏手に回っているのを見たぞ!」

 

報道陣の一人が、倉田の姿を認めて声を上げた。その一言で、記者達の一部が倉田に向かって走り出した。数人が、いや十数人が、倉田の周りに集まっていく。

 

「あなたはもしや、星野先生に発見を奪われた研究者の方では?」

 

「今回の事、どう思われますか?」

 

「星野先生に対する気持ちは?」

 

「宮沢台長に口止めされたんですか?」

 

質問が矢のように浴びせかけられた。

 

倉田は一瞬、足を止めた。皆に背を向けたまま、立ち止まっている。

 

「星野先生を……恨んでいた」

 

ぽつりと、言葉が零れた。

 

「でも、あの人は恩師でもあり……同じ夢を抱きながら、空を見上げた仲間でもあった」

 

その声は、決して報道陣に向けられたものではなかった。

 

「……今更、こんな形で明かして欲しくは無かった」

 

それだけ言って、倉田は歩き出した。

 

宮沢はもう引き留める事は出来なかった。報道陣の壁の向こうで、伸ばしかけた手がゆっくりと下ろされる。

 

記者達がしつこく質問を投げかけながら倉田の後を追った。しかし、倉田はもう何も言わなかった。問いかけに反応する素振りすら見せず、やがてその背中は、桜並木の坂道の向こうへと消えていった。

 

広場に残された光景は悲惨なものだった。

 

怒号のような質問に押しつぶされそうな宮沢が、報道陣の中心に立ち尽くしている。その周囲を取り囲むカメラとマイクの群れ。

 

そして、それとは対照的に、その光景を取り巻く人々の空気は、冷たく凍りついていた。

 

篠原は崩れ落ちたままだった。芝生の上に膝をつき、両手を膝の上に置いたまま、地面に開かれた記録帳を見つめている。

 

野々村は、ステージの端に立ったまま動けずにいた。

 

「星野先生が……」

 

呆然とした声だった。星野先生がいなければ今の自分はない——あの温かな表情で語っていた人間が、今は石像のように動かない。恩師の裏切りという真実の前で、何十年もかけて積み上げてきた敬意と感謝が、足元から崩れていく音を聞いているかのように。

 

「私は教え子の全てを奪ってしまった」という言葉を曝け出したままの、地面に開かれた記録帳から淡い光が滲み出した。

 

淡い光がノートの紙面から立ち昇り、宙に集まっていく。小さな塊を形成するかのように凝縮し——。

 

そして、弾けた。

 

人々の想いが引き裂かれ、信頼が崩壊し、怒りと困惑と悲嘆が渦巻くこの空間で、マコトジュエルは、真実の力は霧散して消えた。

 

「ポチィ……」

 

ポチタンがそんな様子を見て、悲しい声を漏らす。

 

天文台の屋根の上に立つ、別の影。ゴウエモンが、銀色のドームの縁に片足をかけ、腕を組んで広場を見下ろしていた。

 

普段の派手好きな男の愉快そうな顔はそこにはなく、隈取りの施された顔に神妙な表情が浮かんでいる。

 

「マコトジュエルが……消えちまった」

 

見下ろしながら、その呟きは、誰にも聞こえない声量だった。

 

「……もう、ここには要はねえな」

 

いつもの華やかさはなかった。一本歯の下駄がカラリと物悲しい音を立てるのみ。ゴウエモンは屋根の上で踵を返し、ドームの向こう側へと静かに姿を消した。

 

広場の隅で、あんなは立ち尽くしていた。

 

みくるの肩から離れて自分の足で立っている。まだ体はふらつき、視界もぼやけている。けれど、目の前で起きている事は、はっきりと見えていた。

 

宮沢に浴びせられる怒号。篠原の凍りついた背中。野々村の呆然とした横顔。倉田が去っていった坂道。光を失った記録帳。

 

真実は明らかにされた。記録帳の秘密は暴かれ、宮沢の行為の理由も明かされた。嘘は取り払われた。全てが、真実の光の下にさらされた。

 

その結果として——この光景が、生み出された。

 

あんなの頭の中に、もう一人の自分の顔が浮かんだ。

 

「真実なんて、誰も求めてない」

 

キュアライサンサー。その嘲笑うような言葉が、ずっとあんなの頭の中に響き続けていた。

 

 

---

 

 

キュアット探偵事務所の室内。いつもと変わらないように見えて、重苦しい空気がその空間を別のものに変えているようだった。

 

テレビから、ニュースの映像と音声が流れている。

 

画面には、記者会見場のテーブルの前に座る宮沢修一の姿が映し出されていた。蛍光灯の白い光の下、フラッシュが絶え間なく焚かれる中で、宮沢は正面のカメラを真っ直ぐに見据えていた。

 

星野光一郎の観測記録帳に記された内容が、正式に説明されていく。星野彗星の発見に至る過程における研究の不正。かつての教え子の成果、倉田の成果を、自らのものとして発表した事実。宮沢の声は掠れ、時折言葉に詰まりながらも、一つ一つの事実を隠す事なく語っていた。

 

そして、倉田の名誉を回復するために全力を尽くす、と。何度も頭を下げながら、必死に訴えていた。

 

あまりにもショッキングな内容だった。あの日以来、この件は連日報道され続けている。星野光一郎の名を冠した彗星。その発見が元になった天文台。長年にわたる星まつり。それら全てに影を落とす疑惑として、テレビも新聞も、繰り返しこの話題を取り上げていた。

 

プチッと音が鳴ってテレビの画面が暗くなった。宮沢の声が途切れ、事務所に沈黙が戻る。

 

ジェットはリモコンを置き、事務デスクの椅子から立ち上がった。その瞳が、リモコンを置いた手元から、部屋の中を見渡すように動いた。

 

「嘘をつく人間がいるのは……誰かにとって都合の悪い真実っていうものが存在するからだ」

 

ジェットの声は真剣そのものだ。静かに、言葉を選ぶように続ける。

 

「探偵が真実を追い求める存在である以上、誰かにとって都合の悪い真実を暴く事もある」

 

その言葉が、静かな室内に染み込んでいく。

 

「でも……事件がどんな終わり方をしたとしても、皆、前に進まなきゃいけない」

 

声が僅かに低くなった。

 

「探偵も……依頼人も……関係者も、みんな……」

 

言い終わって、ジェットはあんなとみくるの方を見た。二人とも、心ここにあらず、といった様子だった。

 

ジェットの言葉が届いている気配すらなかった。あんなはジェットの方を見ていないし、みくるは振り返りもしない。

 

その反応は、ジェットにも分かり切った事だった。今この言葉を投げかけて、二人の心が軽くなるなどと思ってはいない。傷が癒えるには、時間がかかる事も分かっている。それでも何か言わずにはいられなかったのだ。二人を見守る立場にいる自分が、沈黙だけを選ぶ訳にはいかなかった。

 

ジェットは小さく息を吐き、デスクに片手をつく。

 

 

---

 

 

ソファの上で、あんなは身体を丸めるようにして座っていた。

 

背もたれに背中を預けるのではなく、前かがみに、腰を深く沈み込ませ、膝の上に肘を乗せて、組んだ両手に額を預けている。俯いたまま、何も言わない。何も見ていない。目は開いているのに、その視線はソファの前のローテーブルの表面を通り抜けて、どこにも届いていなかった。

 

——全部、自分のせいだ。

 

自分が、事件の中で迷いを抱えて、嘘の誘惑に抗えなかったから。宮沢が記録帳を隠した理由を知った時、真実を明かす事が本当に正しいのか分からなくなった。その迷いにつけ込まれて、嘘の力に捕らわれた。キュアライアンサーとなり、嘘の解答で全てを覆い隠そうとした。

 

最終的にはみくるがライアンサーの嘘を打ち破り、真実を暴いてくれた。

 

——その結果が、あれだった。

 

テレビに映っていた宮沢の姿が、まぶたの裏に焼きついている。フラッシュに照らされながら、何度も頭を下げる姿。宮沢は今、真実を公表し、倉田の名誉を取り戻そうとしている。

 

だが、しかし。

 

倉田自身が、それを望むのだろうか。あの背中を思い出す。報道陣を振り切って歩き去った、倉田の小さな背中。「今更、こんな形で明かして欲しくは無かった」——あの言葉が、ずっと耳の奥に残っている。

 

この事件の結果が、一体、誰のためになったというのか。

 

宮沢は矢面に立たされた。篠原は恩師への信頼を粉々にされた。野々村は言葉を失った。そして倉田は、名誉が回復されたとしても、奪われた年月は戻らない。そして、本人はそれを望んですらいなかった。

 

ポチタンがソファの上で、あんなの隣にぴったりと寄り添っていた。小さな身体をあんなの腕に押しつけるようにして、心配そうにあんなの横顔を見上げている。温かな体毛の感触が、あんなの腕に触れていたが、今のあんなの体と心を、その温もりは暖めてはくれなかった。

 

——求められていない真実を見つけてしまった時、あなたは、その真実の重みに、耐えられる?

 

アルカナシャドウの言葉。あの時、あんなは迷わなかった。「だって、真実を解き明かすのが探偵の仕事だから」と。胸を張って、真っ直ぐに答えた。

 

今、もう一度同じ言葉を投げかけられたら。

 

何と答えればいいのか——分からない。

 

あんなの指が、組んだ手の中で、きゅっと握り締められた。

 

 

---

 

 

傷ついていたのは、あんなだけではなかった。

 

部屋の外側に出っ張った部分、アーチ型の大きな窓の傍に、みくるは立っていた。窓枠に手をかけ、ただ真っ直ぐに立って、窓の外を見つめ続けている。

 

外には、事務所から続く道の先が見えているはずだった。行き交う人々。夏の日差し。いつもの風景。しかし、みくるの瞳は、その景色を何も見ていない。ただただ、自分の無力さを痛感している。

 

宮沢台長は——真実を公表しようとしていた。

 

記録帳を隠すという行為自体は正しくなかったかもしれない。けれど宮沢は、自分にとっても不都合な真実と正面から向き合い、自分なりの方法で、正しい結末を目指そうとしていたのだ。事実を確かめ、証拠を揃え、然るべき手順を踏んで発表する。一番弟子として、天文台の台長として、恩師の過ちに決着をつけようとしていた。

 

それなのに。今回のような結果を生んでしまったのは……自分の、探偵としての未熟さのせいだ。

 

もっと別の調査の仕方をしていれば。宮沢が何をしようとしていたのか、もっと早く気づいていれば。ライアンサーの嘘を暴く時だって、もっといいやり方があったのではないか。人々を傷つけずに嘘を打ち破る方法は、本当に無かったのか。

 

この事件は、もっと、いい解決の仕方があったはずではないのか。

 

みくるの脳裏にある光景と、ある人物の姿が浮かび上がる。

 

事件の前でどうする事も出来なかった自分の前に現れた人。颯爽と現れ、事件を解決してくれた名探偵の姿。眩しくて、強くて、優しくて——自分が憧れた名探偵。

 

”自分とは違う”本物の名探偵。あの人だったら、こんな風にはならなかったはずだ。

 

あの人だったら、より良い真実の届け方を見つける事が出来た。もっとみんなを幸せに出来る結末を、きっと見つけられた。

 

あんながこんな風に傷つく事も、なかった。

 

あの人だったら——あの人だったら——

 

そんな想いが、ずっと心の中を渦巻いている。窓の外を見つめるみくるの瞳に、あの日の名探偵の残像が重なっては消え、消えては重なる。

 

——あの人みたいにならないといけない。あの人みたいな、本物の名探偵に。

 

強い想いだった。真っ直ぐな想いだった。名探偵に憧れてこの事務所に来た日から、ずっと抱き続けてきた、みくるの原点とも言える想い。

 

しかし。その気持ちは——みくるの心を、わずかに、ほんのわずかに、軋ませていた。

 

小さな軋み。自分自身でも気づかないほどの、微かな音。けれど確かにそこにある、何かが歪み始める予兆のような。

 

事務所の中を、沈黙が支配していた。

 

テレビの消えた画面。デスクに手をついたまま二人を見守るジェット。ソファに沈み込むあんなと、寄り添うポチタン。窓辺に立ち尽くすみくる。

 

四つの影が、午後の曖昧な光の中に、静かに佇んでいた。

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