名解盗プリキュア!   作:おとともの

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第17話?「名探偵の檻!再びミステイク!」

 

「財布、見つかりましたよ」

 

みくるが差し出した革の二つ折り財布を見て、若い男性の顔がぱっと明るくなった。

 

「マジか! ありがとう!」

 

勢いよく受け取り、中身を確認するように開いたり閉じたりしている。カード類も紙幣もそのまま。安堵の息をついた男は、しかしすぐに拳を握って前のめりになった。

 

「じゃあ、犯人も捕まえてくれたんだな!」

 

「犯人って」あんなが言いかけるのを遮るように、男は早口でまくしたてる。

 

「言っただろ、道でぶつかった奴がいたって。やっぱりあいつが……」

 

苛立ちの混じった声だった。みくるはそれを穏やかに受け止めて、首を横に振った。

 

「いえ、違いますよ」

 

きっぱりと、しかし責めるような響きは一切なく。男が面食らったように口をつぐむと、みくるは一歩だけ距離を詰めた。

 

「最後に財布を取り出した時、電話があったって言ってましたよね?」

 

「ああ、買い物が終わった後……」

 

「本当に、買い物が終わった後でしたか?」

 

問いかけは柔らかかった。問い詰めるのではなく、一緒に記憶をたどろうとするような声。

 

「買い物をして、財布を戻そうとしたところで電話がかかってきたんじゃありませんか?」

 

男の眉間の皺がゆるんだ。怒りが戸惑いに変わり、視線が宙をさまよう。

 

「……言われてみると、そんな気も」

 

みくるは小さくうなずいた。

 

「買い物の荷物が多いこと、買い物のあとに電話がかかってきたという話を聞いて、思ったんです」

 

男の両手には今も大きな買い物袋が二つ下がっている。みくるはそこにちらりと視線を落とした。

 

「財布をしまおうとしたところで電話がかかってきて、荷物も多かったものだから、つい財布を近くに置いてしまって……しまい忘れたんじゃないかな、って」

 

言われて、男は自分の両手を見下ろした。男は何も言えなくなっているが、みくるは先を急かさなかった。

 

「無意識の行動っていうのは、記憶に残りにくいもの。……財布は、店員さんが保管してくれてました」

 

みくるが明るい声で締めくくる。

 

「……はは」

 

男は照れくさそうに頭を掻いた。さっきまでの剣幕はどこへやら、耳の先まで赤くなっている。

 

「盗まれたって決めつけて、大声出しちまって……恥ずかしいな」

 

「いえ」みくるは首を振った。「一度疑い始めると、なんでも怪しく見えてしまうものですから」

 

それは諭すというより、ただの事実を述べているだけのような口調だった。けれどその言葉に、男の肩から力が抜けるのがわかった。

 

「本当にありがとう。助かったよ」

 

深く頭を下げて、男は大きな買い物袋を揺らしながら歩いていった。その背中がビルの角に消えるまで見送って、あんなはみくるに笑顔を向けた。

 

「やったね、みくる」

 

みくるは「えへへ」と照れたように笑った。それと同時に、あんなはみくるの手元にあるものに気がつく。

 

「それって……」

 

「調査してる途中で見かけたから、貰ってきちゃった」

 

みくるが広げていたのは一枚のチラシだった。コピー用紙に印刷された、少しかすれた写真。茶色い毛並みで、垂れ耳の小さな犬。

 

それは迷い犬の捜索願だった。

 

「次の事件はこれで決まりね。プリキットグミを使って……」

 

「ええっ」あんなは目を丸くした。「解決したばかりなのに、もう次の事件!?」

 

みくるは笑って、ちょっと考えるような顔をした。

 

「そっか、今日も一日中事件を追ってたし、疲れちゃったよね」

 

申し訳なさそうに、しかし同時に明るい様子で。みくるはあんなの肩をぽんと叩いた。

 

「あんなは先に帰って待ってて」

 

「でも……」

 

「どのみち今日は本格的な捜査はできないし、少し聞き込みするだけにするから。私もすぐ帰るよ」

 

尚も躊躇している様子のあんなにみくるは付け加える。

 

「あ、ジェット先輩に今日の事件の報告、しておいてくれる?」

 

あんなはみくるの顔をじっと見た。西日がみくるの横顔を照らしている。

 

「みくる……」

 

不安そうなあんなを見て、みくるは片腕をぐっと曲げて、力こぶを作るようなポーズをとった。

 

「心配しないで。最近の私、絶好調でしょ?」

 

頼りがいのある、自信に満ちた笑顔を見せる。あんなは少し躊躇してから、ふっと表情をゆるめた。

 

「うん。分かった。……でも、捜査は二人一緒にだよ?」

 

「もちろん!」

 

みくるは迷いのない笑顔で返した。

 

手を振って、二人は別れる。あんなが反対方向の角を曲がるのを確認してから、みくるは歩き出した。チラシを丁寧に四つ折りにして、ポケットにしまう。

 

夕暮れの商店街は、帰路を急ぐ人々でざわめいている。みくるはその流れに逆らうように、一人、街の奥へ向かって歩いていく。

 

(どんな小さな事件であっても、依頼人にとっては大事なもの)

 

胸の中で、言葉を噛みしめる。

 

(それを一つ一つ積み重ねていって、本物の探偵になるんだ)

 

夕日を背に受けて、みくるの影が長く前へと伸びていた。

 

 

---

 

 

聞き込みは、思うようには進まなかった。

 

チラシの写真を見せながら商店街を一軒ずつ回ったが、「犬? さあ、見かけないねえ」という反応がほとんどだった。当然といえば当然だ。小さな茶色い犬が一匹、どこかの路地を横切ったところで、いちいち覚えている人間はそうはいない。

 

それでもみくるは徒労感を見せない。ありがとうございます、と言って踵を返す。次の店へ……と足を向けかけたところで。

 

「精が出るわね」

 

みくるが背後からの声に振り返ると、夕暮れの歩道に一人の少女が立っていた。

 

長い黒髪。端正な顔立ち。感情の読めない瞳。その腕に妖精のマシュタンをぬいぐるみのように抱えている。

 

みくるの体がわずかに強張った。

 

「あなたは……アルカナシャドウ!」

 

るるかは答えなかった。ただ静かに、そこに立っている。

 

行き交う人々は二人の間を何も気づかず通り過ぎていく。夕方の商店街のざわめきの中に、二人だけの沈黙が落ちた。

 

みくるは相手を見据えた。これまでの出来事が脳裏をよぎる。今までの戦いで、助けてくれたように見えた時もあった。けれど、彼女が怪盗団ファントムの一員であることに変わりはない。その行動の真意はいつだって霧の向こうだ。味方とも敵とも言い切れない。何を考えているのか、まるで分からない。

 

「一体、何の用?」

 

みくるは声を低くした。警戒を隠さない声。

 

るるかはすぐには答えなかった。まるで言葉を選んでいるように。あるいは、言うべきかどうか迷っているのか。その平坦な表情からは読み取れない。

 

「あなたに一つ、言っておくことがある」

 

静かな声だった。抑揚のない、いつも通りの声。そしてまた沈黙。商店街のスピーカーから流れる閉店セールの案内が、ひどく遠い場所の音に聞こえた。

 

そしてるるかは、ぽつりと言った。

 

「……探偵は、神様じゃない」

 

「えっ?」みくるが目を見開いた。

 

「全ての物事を知ることができる人間なんていない」

 

るるかの視線はまっすぐにみくるを射ている。その瞳には嘲りも悪意もなく、ただ、何かを伝えようとする意志だけがあった。

 

「全ての真相を解き明かすことができるなんて考える探偵は」

 

一拍の間。

 

「……時に怪盗よりも、傲慢」

 

言葉が落ちた。夕日の中に、音もなく。

 

みくるは黙ったまま、その言葉を反芻した。探偵は神様じゃない。全てを知ることはできない。なぜ今、唐突に現れて、こんなことを言うのか。

 

探偵を目指して前に進もうとしている自分に、まるで立ちはだかるような言葉。ようやく手応えを感じ始めたこのタイミングで。さっきだって、あの男の人の事件をちゃんと解いてみせた。一つ一つ、確実に積み上げている。

 

思考が巡る。言葉の裏にある意図を読み解こうとする。怪盗がわざわざ探偵にかける言葉の意味を。

 

そして、みくるが出した答えは。

 

「随分と……怪盗に都合のいい話ね」

 

るるかの目が、ごくわずかに細くなった。その変化は瞬きほどのものだった。けれどみくるはそれに気づかなかった。自分の中で燃え上がるものに意識を奪われていたから。

 

「どうせ探偵になんて真相は分からないって、そう言いたいの!?」

 

声が鋭くなった。自分でも驚くほどに。

 

るるかは答えない。

 

その沈黙がみくるにはなおさら腹立たしかった。何も言い返さない事が、見下されているようで。こちらの言葉を受け止める価値もないと言われているようで。

 

「……それとも」

 

みくるの声が震えた。明らかに苛立っているのが、態度に見える。

 

「探偵として未熟な私のことを、嗤ってるの!?」

 

 

【挿絵表示】

 

 

言葉が空気を裂いた。通りすがりの主婦がちらりと振り返り、何でもないと判断して歩き去っていく。

 

沈黙が戻った。前の沈黙とは質の違う、重たい静けさだった。

 

るるかの表情は冷たかった。

 

いつもの無感情、とは少し違う。感情がないのではなく、その奥に確かな、鋭い何かがある。苛立っているみくるの顔と対になるように、るるかの顔は凍てついた水面のように静まり返っていた。

 

やがて、るるかが口を開いた。

 

「……そう」

 

たった一言。踵を返す。長い髪が弧を描いて揺れた。

 

「そう思いたいのなら、思っていればいい」

 

そしてみくるに一度だけ目を向けた後、歩き出した。

 

その視線に何が込められていたのか、みくるには読み取れなかった。

 

遠ざかるるるかの背中。腕の中のマシュタンが、ちょこんと顔を持ち上げた。

 

「るるかってお節介ねぇ」

 

小さな声。軽口めいた、砕けた調子。

 

「……別に」

 

そっけない返事だった。いつものるるからしい淡泊な態度。けれど、普段よりもどこか棘があった。マシュタンを抱く腕に、ほんの少しだけ力がこもっているように見えた。

 

二人の姿が雑踏に紛れて消え、みくるは一人取り残されていた。

 

手の中のチラシが、夕風にはためいている。迷い犬の写真が、ばたばたと音を立てる。

 

——探偵は、神様じゃない。

 

るるかの言葉が、耳の奥で反響していた。

 

「……何よ」

 

小さく呟いて、みくるはチラシを握り直した。唇をきつく結んで、次の聞き込み先へ向かって歩き出す。

 

 

---

 

 

「いやー、見つかって本当に良かったね!」

 

みくるが額の汗を手の甲で拭いながら言った。真夏の陽射しが容赦なく降り注いでいる。舗道の上に落ちた二人の影は、足元に短く縮こまっていた。

 

「うん。飼い主さん、すごく喜んでたね」

 

あんなも汗だくだった。前髪が額に張り付いている。それでも、口元には充実感の滲む笑みが浮かんでいる。

 

午前いっぱいかけて聞き込みと捜索を続けた甲斐があった。プリキットグミで動物の証言を得て、公園の植え込みの奥、茂みの影でうずくまっていた茶色い垂れ耳の小さな犬を保護に成功した。チラシの連絡先に電話をかけた時の飼い主の声が、まだ耳に残っている。

 

「じゃあ、今日はもう事務所に戻って」あんなが言いかけた時だった。

 

「ポチィ!」

 

肩からストラップで下がっていたポチタンが、突然、弾けるように飛び上がった。小さな翼がばたばたと広がり、あんなの身体をぐいっと前方に引っ張る。

 

「わわっ!?」

 

あんながつんのめりかけ、みくるも驚いて目を丸くする。しかし、それは見慣れた光景でもあった。

 

「マコトジュエルの反応だ!」

 

ポチタンに導かれるまま住宅街の角を曲がり、交差点を渡り、緩い坂道を登っていく。いつものような常識外れの速度ではなかったが、真夏の陽射しの下を全力で走るのは別の意味で過酷だった。じりじりと肌を焼く日差しと、アスファルトから立ち上る熱気。みるみるうちに二人の額から汗が噴き出していく。

 

やがてポチタンの勢いが弱まり、ある建物の前で止まった。

 

「ポチタン、ここなの?」

 

あんなが息を切らしながら問いかけると、ポチタンはやや不安げに「ポチ……」と小さく鳴いて頷いた。どういう訳か、普段よりも元気がないように見える。

 

みくるは汗を拭いながら、建物の塀に取り付けられたプレートに目をやった。

 

『まことみらい市民活動センター』。白い外壁に横長の窓が並ぶ、二階建ての公共施設。見た目は学校の体育館を少し小さくしたような、実用的な造りだった。エントランスの自動ドアの上に、利用案内と施設の名前が掲示されている。多目的な貸出施設——音楽や演劇、ダンスなど、市民団体の活動を支援するための施設らしい。

 

二人が自動ドアをくぐって中に踏み込んだ瞬間、ひんやりとした空気が全身を包み込んだ。外の灼熱とは別世界のような涼しさに、二人とも思わず「はぁ……」と同時に息を吐く。空調の効いたエントランスは、小さなロビーに受付カウンターの小窓がある簡素な造りだった。

 

小窓の向こうに、一人の女性スタッフが座っていた。どこか浮かない顔をしているように見える。

 

「あの……何かありましたか?」

 

あんなが遠慮がちに声をかけると、スタッフの女性は少し戸惑ったような表情を見せた。こんな年齢の子に話していいものかどうか迷っているようだったが、我慢できなかったのか、ぽつりと口を開いた。

 

「ええ、ちょっと……利用者の方の持ち物が、なくなってしまったみたいなの」

 

あんなとみくるは顔を見合わせる。もう既に、事件は起きている。

 

 

---

 

 

廊下を進み、案内された中規模のホールに足を踏み入れると、ざわめきが二人を出迎えた。

 

二十人ほどの男女が集まっている。年齢も性別もまちまちで、しかし全員が同じ種類の不安を顔に浮かべている。小声で言葉を交わす者、腕を組んで黙り込む者、落ち着きなく部屋の中を見回す者。室内の空気は重く、空調の冷たさとは別の冷え冷えとしたものが漂っていた。

 

その中の一人が、二人に気づいて近づいてくる。四十代後半ほどの男性だった。温厚そうな顔立ちだが、今は眉間に深い皺が刻まれている。

 

「君たちは?」

 

あんなとみくるは、揃ってポケットから名刺を取り出した。

 

「キュアット探偵事務所の、明智あんなです」

 

「同じく、小林みくるです」

 

差し出された小さな名刺を受け取り、男は困惑した目でそれを見下ろした。

 

「キュアット探偵事務所……?」

 

聞き慣れない名前に戸惑いを見せている。しかし、二人の真剣な眼差しに何かを感じ取ったのか、男は名刺をポケットにしまうと、自らも名乗った。

 

「私は岡田浩介(みやもと こうすけ)。この合唱団、まことみらいハーモニーの団長をしています」

 

岡田は二人を部屋の隅に促しながら、簡潔に事情を説明してくれた。

 

まことみらいハーモニーは団員約二十五名の市民合唱団で、この施設を定期的に使って練習をしていること。そして今日の練習のために岡田が楽譜を譜面台に広げたあと、ほんの数分席を外した隙に楽譜が消えてしまったこと。

 

「ただの楽譜じゃないんです」

 

岡田の声が低くなった。

 

「前の団長が……亡くなった先代が、この合唱団のために書き下ろしてくれた、手書きのオリジナル曲の楽譜なんです。世界に一つしかない」

 

言葉の端が震えていた。手書きの楽譜。先代が遺したたった一つのもの。それがなくなった。

 

「公演が近いのにこんなことになるなんて……」

 

背後で団員の誰かが呟いた。その声を聞いた他の団員たちの間にも、薄い悲しみの波紋が広がっていく。岡田もまた目を伏せた。

 

あんなは何かを口にしようとしたが、言葉が出てこなかった。

 

喉の奥で声がしぼんでいく。代わりに胸の奥から、振り払えない記憶が這い上がってくる。

 

星見台天文台の、あの事件。先代が遺した大切なもの。マコトジュエルが宿った記録帳。そして——

 

あの時自分が見た真実の重さ。星野光一郎という人間が遺した光の裏側にあった影。己が犯した過ち。今度もまた同じような結果になってしまったら。

 

「あんな」

 

顔を上げると、みくるがいた。まっすぐにこちらを見ている。その瞳に迷いはなかった。

 

「マコトジュエルは……私たちが守らないといけない」

 

静かだけれど、揺るぎのない声だった。

 

「大丈夫だよ。一緒に……事件を解決しよう」

 

みくるが、力強く頷いた。

 

あんなは息を吸い込む。胸の奥にわだかまっていたものが、深く吸い込んだ空気と一緒に薄まっていく気がした。

 

あんなが頷くと、二人は同時に、岡田の方を向いた。

 

「「この事件、キュアット探偵事務所にお任せを!」」

 

二つの声がぴたりと重なって、ホールに響いた。

 

 

---

 

 

岡田は団員たちの方を振り返り、落ち着いた声で告げた。

 

「楽譜はこちらで探しておくから、皆は練習を続けていてくれ」

 

動揺が広がりかけていたホールに、団長の声が静かに響いた。団員たちは互いに顔を見合わせたものの、やがてぽつぽつと頷き、練習室の方へ戻り始める。

 

岡田の指示で他の団員に練習を進めるよう促し、二人は岡田と共に廊下へ出た。練習室から漏れ聞こえる発声練習の声が遠ざかっていく中、三人は向かい合う。

 

みくるが手帳を開いた。

 

「岡田さん、いくつか状況を確認させてください。オリジナルの楽譜は、普段は岡田さんが持ち歩いているんですか?」

 

真剣な目で言うみくるに、岡田は真っ直ぐ頷いた。

 

「ええ。先代がこの合唱団のために書き下ろしてくださった、一点ものですから。練習日に自分で持ってきて、終わったら必ず持ち帰っています」

 

岡田はそこで一度言葉を切った。楽譜の事を語る時だけ、この温厚な人の目の奥に、特別な光が灯るのが見えた。

 

「先代は……私に指揮者としての全てを教えてくれた人です。音楽の技術だけじゃない。合唱団というものは、一人一人の声が集まって初めて一つの音楽になるんだという事。その事を、言葉ではなく背中で見せてくれた人でした」

 

岡田の視線が、練習室の方へ向いた。扉の向こうから、団員たちの発声練習の声がかすかに聞こえている。

 

「あの楽譜は、先代が最後に書いてくださったものなんです。体調を崩されて、指揮台に立てなくなった後も、病室で一音一音書き続けてくださった。この団の声を、この団の仲間たちを思い浮かべながら——一人一人の声域に合わせて、一人一人のために書かれた楽譜です」

 

岡田の声は穏やかだったが、その奥に深い感情が流れていた。

 

「だから私にとっては、ただの紙じゃないんです。先代の……最後の指揮なんです、あの楽譜は」

 

みくるのペンが、止まっていた。

 

あんなは唇を結んでいた。岡田の言葉が胸に響いている。亡くなった人が、最後の力を振り絞って遺したもの。それを受け継いで、十年間守り続けてきた人。

 

みくるが顔を上げた。その目には、さっきまでとは違う光が宿っていた。調査のための冷静な目ではなく、絶対にこの人の大切なものを取り戻すのだという、決意の光。

 

みくるは小さく息を吸い、ペンを握り直した。

 

「練習の時は、他のメンバーより早く入って一人で準備されるのが習慣だと」

 

「そうです。いつもそうしています。練習室を整えて、譜面台に楽譜を広げて……皆が来る前に練習をしています」

 

みくるはペンを走らせながら、一つ確認を挟んだ。

 

「その習慣は、他の団員の方も知っているんですね?」

 

「ええ、そうですが……」

 

岡田は少し怪訝そうな顔をした。その質問の意図を測りかねているらしい。みくるは表情を変えずにペンを動かし続けた。

 

団長が一人で楽譜を準備する事は周知されている。そこを狙った可能性はある。内心でそう考えながら、みくるは次の質問に移った。

 

「それで、今日は何か普段と違う事があったんですか?」

 

岡田の表情が曇った。

 

「いつも通り楽譜を広げて、一人で練習を始めようとしていた所で……施設のスタッフさんに呼び出されたんです」

 

「呼び出し? 何の呼び出しだったんですか?」

 

あんなが首を傾げた。

 

岡田は困惑した様子で額に手を当てる。

 

「それが……よく分からないんです。まことみらいハーモニー宛の荷物が届いた、という事で、エントランスまで行ったんですが」

 

あんなとみくるが同時に眉をひそめた。

 

「こちらには全く身に覚えがなくて。宛名は確かにうちの合唱団名になっていたんですが、差出人は知らない名前だし、他の団員からもそんな手配をしたとは聞いていない」

 

岡田は首を振りながら続けた。

 

「その荷物は今どうなっているんですか?」

 

「とりあえず受付で預かってもらっています。中身も分からないのに開ける訳にもいかなくて……副団長の根岸くんにも電話してみたんですが、その時は出られなかったようでね」

 

岡田は当時の状況を思い出すように視線を宙に向けた。

 

「他のメンバーにも何人か電話をしてみました。その頃にはぽつぽつ団員も到着し始めていたので、近くにいた者にも直接聞いてみたんですが……皆、知らないと」

 

そこで岡田は、はたと気づいたように言った。

 

「そういえば、楽譜の事があったせいで、結局全員には確認が出来ていないな」

 

みくるは手帳に荷物の件を書き留める。不審な荷物。気になる要素ではある。けれど今、最も急がなければならないのは——

 

「それで、戻った時には譜面台から楽譜が消えていたと」

 

みくるの言葉に、岡田は重い表情で頷いた。

 

「離れていたのはどのくらいの時間ですか?」

 

「荷物の事で少しもたついてしまって……十分程度だと思いますが」

 

十分。決して長い時間ではない。しかし楽譜を持ち去るには十分すぎる時間だ。

 

みくるは手帳を閉じ、あんなと目を合わせた。二人がこの施設に到着したのは、楽譜がなくなったと騒ぎになってからしばらく経った後だ。時間は経過している。しかし。

 

「もし誰かに盗まれたのなら、まだ犯人は遠くに行っていないかもしれない」

 

あんなの言葉に、みくるも頷いた。

 

「岡田さん、エントランスに行きましょう」

 

 

---

 

 

エントランスに戻ると、受付の小窓の向こうに先ほどのスタッフの女性が変わらず座っていた。あんなたちの姿を認めると、心配そうな面持ちで身を乗り出した。

 

「やはり楽譜は見つかっていないんでしょうか」

 

岡田は申し訳なさそうに頷いた。

 

「ええ、どういう訳か見当たらなくて……」

 

あんなが受付カウンターに手をかけて少し背伸びをした。

 

「あの、最近何か、怪しい人がこの施設から出ていくのを見たりしませんでしたか?」

 

みくるも続ける。「楽譜がなくなった時間帯の前後で、普段見かけないような人とか」

 

スタッフの女性は困ったように首を傾げた。

 

「うーん……業務は他にもあるから、常に入口を見ていた訳ではないのよ。受付を離れている時間もあるし……少なくとも、私が見ている範囲で怪しい人はいなかったと思うけど」

 

「そういえば」あんなが岡田の方を向いた。「岡田さんは荷物を受け取りに来てたんですよね。このあたりで怪しい人は見かけませんでしたか?」

 

岡田は額を押さえた。

 

「正直なところ、荷物の件で混乱していて……それに電話で他の団員に連絡もとっていたものだから、周りをほとんど気にしていなかったんです。電話が一通り終わった後で、うちの団員が何人か入ってきているのには気づきましたが、それくらいで……」

 

手がかりが見つからない。あんなが小さく唇を噛んだ、その時だった。

 

「私、怪しい人を見たわよ」

 

声は受付ではなく、一同の横から聞こえた。

 

あんなたちが来た方向とは反対側、もう一つの区画に繋がる廊下から、別のスタッフの女性がこちらに歩いてきていた。たまたま会話を聞いていたのだろう、少し気まずそうな笑みを浮かべていた。

 

「怪しい人!?」あんなとみくるが同時に反応した。「どんな人でしたか!?」

 

二人の食いつきに、点検スタッフの女性は少し面食らった様子だった。そして自分で切り出しておきながら、急に歯切れが悪くなる。

 

「でも、あれは……」

 

言い淀んだ彼女に、みくるが一歩近づいた。

 

「どんな些細な事でも構いません。教えていただけませんか」

 

真剣な眼差し。点検スタッフは少し迷ったが、「じゃあ」と口を開いた。

 

「私は施設内の設備点検を担当していて、今もまことみらいハーモニーさんが使っている練習室側の区画を回ってたんだけど」

 

彼女は廊下のある方向を指差した。

 

「その区画の廊下で、端の曲がり角のところを——」

 

一瞬、自分の言葉を確かめるように間を置いた。

 

「シルクハットと、マントを着た人が、角の向こうに消えていくのが見えたの!」

 

沈黙が落ちた。受付のスタッフが困惑した顔で点検スタッフを見ている。岡田も目を丸くしたまま、言葉が出ない様子だった。

 

「でも、そんな人いる訳ないし」

 

点検スタッフは気恥ずかしそうに肩をすくめた。

 

「廊下の角の向こうを一瞬見ただけで、すぐに見えなくなったし……見間違いだと思うけど」

 

岡田とスタッフたちが戸惑いの表情を浮かべる中、あんなとみくるは、息を呑んでいた。

 

「それって……」二人の声が重なった。

 

日本の街中でそうそう見かける格好ではない。シルクハットにマント。普通なら奇異に映るだけの風体だが、あんなとみくるにとって、その姿はあまりにも見慣れたものだった。

 

思い浮かぶ姿は、怪盗団ファントムの一味。ニジー。

 

「それは、怪盗団ファントムの怪盗です」あんなが一歩前に出る。

 

「怪盗団?」岡田が目を丸くした。

 

「そういえば……」受付スタッフが声を上げた。「聞いた事があるかも。最近、まことみらい市のあちこちで盗難事件を起こしてるっていう……」

 

宝生美術館の一件はニュースでも大きく報じられている。あれ以降も断続的に事件は続いていて、「怪盗団」という言葉を噂として耳にした事がある市民も増えているはずだ。

 

「まさか、うちの楽譜を……怪盗団が?」

 

「あの、その人物を見かけたのはいつですか?」

 

あんなが質問すると、目撃したスタッフは少し考える様子を見せ、「う~ん、まことみらいハーモニーさんが入るより少し前だったかしら」と答える。

 

二人は岡田たちに背を向け、顔を寄せ合った。

 

「やっぱり」みくるが囁いた。「マコトジュエルを狙って、ファントムも来てたんだ」

 

「でも、もう盗まれちゃったんだとしたら……」

 

あんなが不安を口にしかけて、その言葉がふいに止まった。ぶら下がっているポチタンに目を向ける。

 

「ポチタン」小声で呼びかけると、ポチタンがあんなを見上げた。その目は真剣だった。

 

「じゅえる、ある」小さいけれど確かな声で、こくりと頷く。

 

あんなの目が僅かに見えた希望に輝いた。

 

「マコトジュエルは、まだ持ち出されていない」

 

みくるはその言葉を受けて、すっと顔を上げる。視線の先は、エントランスの壁に掲示された施設の案内図。

 

案内図はこの施設の全体像を一枚の絵にまとめていた。エントランスを中心に、二つの区画が左右に伸びている。あんなたちが通ってきた練習室側の区画と、もう一方の区画。二つの区画はエントランスのロビーを介して繋がっている。

 

みくるの目が、練習室側の区画のルートを追った。廊下が奥へ続いて、その先に記されているのは、「非常口」と「搬入口」の文字だけ。それ以外に外部へ繋がる出口はない。

 

みくるは岡田たちの方に向き直った。

 

「すみません、搬入口の出入りについて教えていただけますか」

 

受付スタッフが答えた。

 

「搬入口は、大きな荷物の搬入が必要な時に、私たちスタッフが鍵で開錠と施錠を行っているの。普段は施錠されていて、開ける事は出来ないわ」

 

「今日は?」

 

「今日は午前に練習室を使っていた団体さんが搬入口を利用していたけど、その撤収が済んだ後にこちらで施錠したの。それ以降は開いてないと思うわ」

 

あんながその言葉を受けて、もう一つの確認をした。

 

「非常口は開いていないですよね?」

 

「非常口を勝手に開いたら警報が鳴るはずよ」

 

スタッフの言葉に、あんなとみくるは再び、スタッフらに背を向けるようにして顔を寄せた。

 

「奥側からは逃げられない、って事は……」

 

あんなが囁いた。

 

「楽譜を盗み出して逃げようとしたけれど、他の人に見つかりそうになって……団員の誰かに化けて、潜んでいるんだわ」

 

みくるの声は低いが、そこには確信があった。これまでに何度となくあったパターンだ。

 

みくるは岡田に向き直った。

 

「岡田さん。楽譜は、まだこの施設の中にあります」

 

「どうして……そんな事が分かるんですか?」

 

岡田が不思議そうに二人を見る。

 

「私たちが施設に来た時には、施設から怪しい人物が出ていく姿は見ていません」

 

みくるは案内図を指差しながら説明した。

 

「そしてこの区画の奥側、搬入口は施錠されていて、非常口を使えば警報が鳴る。怪しい人物の目撃証言は今の所ありませんし、犯人はまだこの施設の中に隠れている可能性が高いです」

 

マコトジュエルについての説明が出来ないので曖昧な部分はあるが、みくるの力強い言葉に、岡田は納得した様子だった。

 

「なるほど……まだ、施設の中に」

 

その声には、小さな希望が灯っていた。楽譜がまだ手の届く範囲にあるかもしれないという希望。

 

あんなとみくるは一度目を合わせ、決意を新たにする。

 

楽譜はまだ失われていない。ニジーが施設内に潜伏しているなら、まだやりようはある。次にすべき事は二つ。楽譜の行方を追う事と、関係者の一人一人から話を聞く事だ。

 

 

---

 

 

練習室側の区画に戻ってきた三人の足音が、ひんやりとした廊下に小さく反響した。みくるは手帳を胸の前に構えたまま、岡田に向き直る。

 

「岡田さん、団員の皆さんから順番に、詳しくお話を聞かせていただきたいんです」

 

「ええ、構いませんよ」

 

岡田はすぐに頷いた。しかし、みくるはそこで一拍置いて、少し申し訳なさそうな顔になった。

 

「それと……皆さんの荷物も、調べさせてもらいたいんです」

 

岡田の表情が変わった。「それは、まさか……」

 

声が低くなる。みくるの言葉の意味を察しているのだろう。みくるは声を落とした。

 

「混乱を生むので、皆さんには言わないでいただきたいのですが——」

 

一呼吸置いて、まっすぐに岡田の目を見た。

 

「怪盗団は変装の達人なんです。団員の誰かに化けて、潜んでいる可能性が高いと考えています」

 

岡田は口を開きかけ、閉じた。にわかには信じがたいという表情。しかし岡田は、二人をしばらく見つめてから、静かに言った。

 

「……君たちは、どうも怪盗団について詳しいみたいだね」

 

責めるような口調ではない。むしろ、この小さな探偵たちが普通の子供ではない事に確信を持ったようだった。

 

「その話が本当なら、団員の誰かが知らぬ間に利用されているという事にもなる」

 

岡田の表情が引き締まる。

 

「上手く話を合わせてみるよ」

 

「ありがとうございます!」

 

二人の声が揃った。岡田はかすかに笑って頷くと、練習室の扉に手をかける。

 

「皆に説明してくるから、楽屋の方で待っていてください」

 

そう言って、練習室の中に入っていく。二人は廊下を挟んで練習室の反対側にある楽屋へ向かう。みくるが扉のノブに手をかけようとした時——

 

「あれ」あんなが足を止めた。「話し声?」

 

みくるもあんなと一緒に耳を澄ませた。楽屋の方向ではない。声は廊下の奥の方から聞こえてくる。

 

周囲を見回すが、一見すると廊下には誰もいない。奥の方には搬入口に続く通路が見え、その手前で廊下が曲がり角になっている。

 

二人は足音を殺して廊下の角に近づいた。壁に手を添えて、そろりと覗き込む。

 

角の向こう、搬入口へ続く薄暗い通路の奥で、男が一人、携帯電話を耳に当てていた。こちらに背中を向け、壁際に身を寄せるようにして、小声で話している。

 

「……まだ気づいてないから大丈夫」

 

断片的な言葉に、みくるの耳がぴくりと動いた。

 

「……予定が狂っちゃったけど」

 

あんなが息をのんだ。

 

「……また連絡する、そっちは手筈通りに」

 

ピッ、と通話を切る電子音。男が携帯電話を耳から離し、ポケットにしまう動作。そして、振り返りかけた男の目が、角から覗いている二つの視線と交わる。

 

「あっ」

 

男と、あんなとみくるが同時に声を上げた。気まずい沈黙が、薄暗い通路に落ちる。

 

「す、すみません、盗み聞きしちゃって……」

 

あんなが慌てて謝った。みくるも頭を下げる。

 

「ああ……いいよ」

 

男はぎこちなく答えた。四十代前半ほどの、真面目そうな風貌。しかし今は明らかに落ち着かない様子で、二人から視線を逸らすようにして、奥まった位置にあるドアのノブを回す。大きなドアがぎぃ、と音を立てて開き、男はその向こうに消えた。

 

みくるは頭の中でエントランスの案内図を思い描いた。今男が入ったのは練習室へ続く扉だ。搬入口から荷物を運び入れる際、この通路を通って、あのドアから練習室の中に搬入する——そういう動線になっている。

 

「行こうか」とあんなが促し、楽屋へと足を向ける。たまたま聞こえた電話の内容が頭の中で反響する。「まだ気づいてない」「予定が狂った」「手筈通りに」

 

みくるは手帳にメモを走らせてから、楽屋へと歩き出す。

 

 

---

 

 

楽屋は練習室よりも小さな部屋で、長机と折りたたみ椅子がいくつか並んでいた。壁際のパイプハンガーに団員たちの荷物が掛けられている。

 

あんなとみくるは長机に並んで座り、聞き込みの準備を整えた。二人それぞれプリキットブックとペンを持つ。

 

岡田が団員を一人ずつ楽屋に送り込んでくれる手筈だ。やがて、最初の一人が扉を開けて入ってきた。

 

 

---

 

 

藤原律子(ふじわら りつこ)。

 

五十代前後の女性だった。髪をきちんとまとめ上げ、姿勢が良い。物腰に落ち着きがあり、合唱団の中でもベテランであろう事が佇まいから窺えた。椅子に腰を下ろし、背筋を伸ばしたまま二人の方を向いた。

 

「藤原さんは、今日は何時頃こちらに到着されましたか?」

 

みくるの問いに、藤原は少し考えてから答えた。

 

「団長以外では一番早かったと思うわ。楽屋に誰もいなかったし、置いてあったのもたぶん、団長の荷物だけだったはずですし」

 

「楽屋に入ってから、楽譜がなくなったという騒ぎまでの間は、ずっと楽屋にいらっしゃいましたか?」

 

「ええ。私が入ってすぐ後に相川くんが楽屋に来たのだけれど、荷物を降ろしたらすぐ出て行ったわね。それから他のメンバーも順番にやって来て……騒ぎになるまで、私も他の皆も楽屋からは出ていなかったわよ」

 

みくるはペンを走らせながら頷いた。藤原の証言が正しければ、楽屋は団員たちのアリバイを互いに証明し合う空間になっている。

 

「藤原さん、楽譜を狙うような人物や、狙う理由について何か心当たりはありますか?」

 

藤原は僅かに首を傾げた。

 

「楽譜は団員にとってはとても思い入れの強いものよ。前団長が私たちのために書いてくださったものだから」

 

藤原の口調が、僅かに柔らかくなった。ベテランらしい落ち着きの奥に、温かいものが覗いている。

 

「私は前団長の頃からこの合唱団にいるの。だから、あの楽譜が出来上がっていく過程も見ていたわ。練習のたびに少しずつ書き加えられていって……あの人は私たちの声を聴きながら、一音ずつ音を選んでくれていたのよね」

 

一瞬、藤原の視線が宙をさまよった。遠い記憶を見つめるような目だった。しかしすぐに落ち着きを取り戻し、言葉を選ぶように間を置いた。

 

「でも、譜面自体はコピーが全員に配られているの。わざわざ盗む意味があるとは思えないのだけれど……」

 

確かに、演奏という実用面だけで言えばコピーがあれば事足りる。直筆の楽譜は一点ものとはいえ、金銭的価値が高い訳でもないようだ。

 

「ありがとうございます、藤原さん」

 

藤原は「お役に立てたかしら」と小さく微笑んで、楽屋を出て行った。

 

 

---

 

 

相川拓也(あいかわ たくや)。

 

二十代半ばの青年が、軽い足取りで楽屋に入ってきた。人懐こい笑顔を浮かべながら、椅子にすとんと腰を下ろす。藤原の証言に出ていた名前だ。

 

「相川さんは、今日は藤原さんのすぐ後に到着されたんですよね」

 

「うん、そうだね。でも僕、楽屋には荷物を置いただけですぐ出ちゃったんだよ」

 

あっけらかんとした口調だった。

 

「出て、どちらに?」

 

「いやぁ、もうさ、外があんまり暑くて」

 

相川は思い出すだけで暑そうに首筋を撫でた。

 

「汗だくだったもんだから、エントランスからこっちに来る途中にある自販機スペースで、ドリンクを買って涼んでたんだよね。そしたらちょうど他のメンバーが来てさ、そこでずっと喋ってた」

 

「ずっと?」

 

「うん。楽譜がなくなったって団長が言い始めるまで、ずっとそこにいたよ」

 

自販機スペースはエントランスと練習室区画の間に位置している。そこにいれば、廊下を行き来する人間の姿は自然と目に入るはずだ。

 

「その間に怪しい人は見かけませんでしたか?」

 

あんなが身を乗り出して訊ねた。相川は顎に手を当てて考え込んだ。

 

「んー、会話はしてたけど、通る人は視界に入ってたよ。怪しい人はいなかったなぁ」

 

みくるがさらに掘り下げた。

 

「他のメンバーが通っていくのは見えていましたか?」

 

「うん。皆順々に楽屋の方に入っていったよ。でも、出ていく人はいなかったね」

 

みくるはその証言を手帳に書き留めた。自販機スペースからの視界は、区画内の人の出入りを見張る一種のチェックポイントになっている。そこにいた相川が「出ていく人はいなかった」と証言するならば、楽譜はやはり、まだこの区画内にある可能性が高い。

 

「相川さんにも伺いますが、楽譜が狙われる心当たりは何かありますか?」

 

「あの楽譜が大事にされてるのは知ってるよ。でも僕、わりと新しいメンバーだからさ、前団長のこともそこまで詳しくないんだよね」

 

若い団員ならではの距離感だった。思い入れがない訳ではないが、古参の団員たちが楽譜に込める感情の深さとは温度差がある。

 

「そうですか……」

 

二人が次の質問に移ろうとした時、相川がふと思い出したように口を開いた。

 

「楽譜と言えば……」

 

あんながその言葉に食いついた。「何かあるんですか?」

 

相川は少し躊躇するような間を置いた。しかし楽譜が消えたという事態の深刻さが、その躊躇を上回ったようだ。

 

「いやね……副団長と団長が、例の楽譜のことでもめてたんだよ」

 

「もめていた? 一体どうしてですか?」

 

あんなの問いに、相川は膝の上で手を組んだ。

 

「あの楽譜の内容ってさ、前団長が存命の頃のメンバーに合わせて書いたものなんだよね。だから今のメンバー構成だと、パート分けで無理が出てくる部分があるんだ。テノールが足りないとか、アルトの音域がきついとか」

 

なるほど、とみくるが頷いた。合唱団のメンバー構成は年月とともに変わる。かつてのメンバーに最適化された楽譜が、現在の編成にそのまま適合するとは限らない。

 

「それに難易度もかなり高くてさ。新しく入った人が練習についていけなくて辞めちゃうこともあったみたいで。新規メンバーが定着しにくくなってるんじゃないかって、副団長はかなり強く団長に言ってたんだよ」

 

「それを相川さんは直接聞いたんですか?」

 

「たまたまね。忘れ物をして練習場に戻った時に、二人が話してるのが聞こえちゃったんだ」

 

相川は肩をすくめた。

 

あんなとみくるは思いを巡らせる。楽譜をめぐる意見の対立。団長は先代から受け継いだ楽譜を大切に守ろうとし、副団長はそれが合唱団の未来を圧迫していると感じている。今回の事と、何か関係があるのだろうか。

 

「ありがとうございます、相川さん」

 

相川は「役に立つといいけどね」と軽く言って、楽屋を出て行った。

 

 

---

 

 

根岸孝夫(ねぎし たかお)。

 

扉を開けて入ってきた男が自己紹介したのを聞いた時、あんなとみくるの中で二つの点が繋がった。先ほど搬入口近くの薄暗い通路で電話をしていた人物。そして相川の証言に出てきた副団長。

 

根岸は真面目そうな顔立ちの四十代前半の男性で、眼鏡の奥の目に誠実な光を宿していた。椅子に座ると背筋を正し、二人の方を真っ直ぐに向いた。

 

「根岸さんは、今日は何時頃に到着されましたか?」

 

「今日は……団員の中では一番遅かったと思うよ。来た時にはもう、楽譜がなくなったという事で騒ぎになっていたから」

 

「入って来る時に、怪しい人は見かけませんでしたか?」

 

あんなが訊ねた。

 

「いや、騒ぎになっている練習室に入るまで、誰も見なかったよ」

 

みくるはペンを止めて、少し言いにくそうな声を出した。

 

「根岸さん、お荷物を確認させてもらってもいいですか?」

 

根岸は一瞬だけ眉を動かしたが、すぐに楽屋に置かれた自分の荷物を持ってくる。手提げ鞄と、もう一つ、大きめの紙袋。

 

「この手提げは普段の荷物だよ。こっちの紙袋は……」

 

みくるの視線が紙袋に留まっているのに気づき、根岸は少し困ったような顔をした。

 

「……娘へのプレゼントなんだよ」

 

照れくさそうに目を逸らしている根岸の姿に、みくるは躊躇しつつも、口を開いた。

 

「一応……中を見せていただいても、いいですか?」

 

根岸の表情にわずかな抵抗が走った。しかし、小さく息をつくと紙袋をみくるの方に差し出した。

 

「中身を傷つけないようにだけ、お願いするよ」

 

「はい、もちろんです」

 

みくるは丁寧に紙袋の中を確認していく。

 

小さな封筒。リボンの飾りがついていて、綺麗に封がされている。楽譜が入るようなサイズではない。それから平たい包装紙で包まれた箱。こちらも丁寧にラッピングされていて、テープの端まで几帳面に折り込まれている。楽譜を急いで押し込んで隠したような乱れは、どこにもなかった。

 

「ありがとうございます、大丈夫です」

 

紙袋を返すと、根岸はほっとした様子でプレゼントを足元に戻した。

 

みくるは手帳に目を落としながら、話題を変えた。

 

「もう一つ確認させてください。団長の岡田さんが、身に覚えのない荷物が届いたという件で根岸さんにお電話されたそうですが」

 

根岸の表情が、また居心地悪そうに曇った。

 

「ああ、それは……自分宛の荷物なんだよ」

 

「根岸さんの?」

 

「どうしても今日中に受け取らなければいけないものがあってね。個人名で施設に届けてもらう訳にもいかないから、まことみらいハーモニーの名前を使ってしまったんだ」

 

そこで根岸は申し訳なさそうに目を伏せた。

 

「本来は自分で受け取りに来るはずだったんだけど、色々とごたごたしてしまって到着が遅れてしまった。結果的に団長に迷惑をかけてしまったよ」

 

荷物の件には一応の納得が生まれる。あんなはまたも躊躇するような話題である事を理解しながらも、次の質問を口にした。

 

「あの……根岸さん、団長の岡田さんと、楽譜のことで意見が分かれた事があったと聞いたんですけど」

 

「え、ああ」

 

一瞬の間があった。こんな話を聞かれるとは思っていなかったのだろう。しかし根岸は取り乱す事なく、眼鏡のブリッジを指先で押し上げてから、静かに話し始めた。

 

「……この合唱団もかなり変わってきたからね」

 

声は淡々としていた。怒りでもなく、弁解でもなく。

 

「メンバーの入れ替わりもあったし、技術的な水準も昔とは違う。あの楽譜の内容が今のメンバーに本当に合っているのかどうか。今までのままで続けるのが本当にいいのかって、思い始めてね」

 

そこで根岸は一度言葉を切り、少し考えるような間を置いた。

 

「……誤解しないでほしいんだけど、私もあの楽譜には特別な想いがあるんだよ」

 

あんなは少し意外そうな顔をする。

 

「私がこの合唱団に入った時にはまだ前団長がご存命でね。指揮台に立つ姿も見ているし、あの楽譜を託された時の団長の顔も覚えている。だから……大切にしたい気持ちは、私だって同じなんだ」

 

穏やかだが、複雑そうな表情だった。

 

「ただ、大切にするという事と、変わらずにいるという事は、同じではないと思ってね。前団長が本当に望んでいたのは、楽譜をそのまま守る事じゃなくて、この合唱団がずっと続いていく事なんじゃないかって……そう思った時期があったんだよ」

 

言葉を切った。そして、眼鏡の奥の目が、穏やかな光を帯びた。

 

「でも、団長のあの楽譜への想いを聞いて、考え直したんだ」

 

その声にわだかまりの痕跡はなかった。少なくとも二人にはそう聞こえた。前団長が遺した楽譜を守ろうとする岡田の想い。それと正面から向き合った上で、根岸は自分の中で折り合いをつけたのだろう。

 

「ありがとうございます、根岸さん」

 

根岸は静かに頷き、椅子から立ち上がって楽屋を出て行った。

 

 

---

 

 

扉が閉まり、楽屋に静けさが戻った。

 

みくるは手帳を広げ、これまでの証言を時系列に並べ直した。あんなが隣から手帳を覗き込む。二人の頭の中で、同じ情報が組み立てられていく。

 

「整理しよう」

 

みくるがペンの先で手帳の上をなぞった。

 

「まず、団長の岡田さんが一人で練習室に入り、楽譜を譜面台に広げた。それからスタッフに呼び出されて、エントランスへ向かった。この時点で練習室は無人になる」

 

あんなが頷く。

 

「次に藤原さんが到着して、楽屋に入った。団長以外では最初の到着。その直後くらいに相川さんがやって来て、荷物を楽屋に置いてすぐ出て行き、自販機スペースへ。他の団員は順次到着して楽屋へ。根岸さんだけは一番遅くて、来た時にはもう騒ぎになっていた」

 

みくるはペンを止め、手帳の余白に簡単な図を描いた。

 

「藤原さんと相川さんには楽譜を盗み出すタイミングがある。二人とも団長がいない間に施設に入っているから。でも——」

 

「相川さんはずっと自販機スペースにいた」あんなが引き継いだ。

 

「うん。相川さんはあの場所から、区画の廊下を通る人が見えていたと言っていた。団員が入っていくのは見たけど、出ていく人はいなかったって」

 

みくるはペンで自販機スペースの位置に丸をつけた。

 

「他の団員は入ってから事件発覚まで楽屋を出ていない。藤原さんの証言と他の人の証言に矛盾はない。そして根岸さんは事件発覚のタイミングで到着していて、入る時に誰も見ていない」

 

情報が整理されるほどに、ある疑問が浮き彫りになってくる。

 

「ねえ、ニジーは先に建物の中に入ってたんだよね?」

 

あんなが確認するように言う。

 

「うん」みくるは頷いた。「点検スタッフさんの目撃証言は、まことみらいハーモニーの団員が来る前の時間帯。だからニジーは先に建物内に侵入して潜伏して、団長が楽譜から離れたタイミングを狙って盗もうとした……」

 

「でも」あんなはポチタンと目を合わせた。ポチタンは小さく「ポチ」と頷く。

 

「楽譜は、持ち出されてないんだよね」

 

そこが核心だった。楽譜はまだ施設の中にある。ニジーは盗み出す事に成功していない。

 

「エントランスのスタッフさんは、常に入口を見ていた訳じゃないって言っていたけど……ニジーが楽譜を盗み出そうとした時には、ちょうど監視の目があったんじゃないかな。出るに出られなかった」

 

みくるの言葉に、あんなが続きを察した。

 

「だから、団員の誰かに化けて——」

 

「そう。変装した状態で楽屋の中に入って来るだけなら、目立たないし何の違和感もない。他の団員と一緒にいれば、怪しまれる事もない」

 

「でも……」

 

あんなが漏らした声は小さかった。みくるも同じ懸念を抱いている事は、その表情を見れば分かった。

 

聞き込みと同時に、岡田の協力のもとで団員全員の荷物の確認も行っている。「楽譜が荷物に紛れ込んでいるかもしれないから」という岡田の説明で、団員たちは多少の戸惑いを見せながらも応じてくれた。

 

しかし結果は空振り。そもそも合唱団の練習に大荷物で来る人は少ない。ほとんどの団員が小さなバッグ一つか、手ぶらに近い軽装。楽譜の紙束を隠せるような大きさの荷物を持っている人間はいなかった。

 

服の中に隠す可能性も考えた。けれど今日は猛暑日だ。団員たちは皆、薄手のシャツやブラウスに涼しげなボトムスという軽装で来ている。紙束を身体に巻きつけたり、服の下に潜ませたりすれば、不自然な膨らみや汗染みですぐに分かるはずだ。

 

「別の可能性も考えてみよう」

 

みくるが手帳の新しいページを開いた。

 

「団長が楽譜から離れてから、藤原さんがやって来るまでの間。ここに空白の時間帯がある」

 

「うん。エントランスのスタッフさんも、岡田さんも、その時間帯に出入りした人がいたかどうかは、はっきりしてない」

 

「そのタイミングで、楽譜を盗み出せた可能性はある。ニジーが、あるいは別の誰かが。でも……」

 

「ポチィ……」

 

ポチタンが困ったような声を上げた。結局のところ、楽譜は施設内にあるのだ。空白のタイミングで外部に持ち去った人間がいるなら、ポチタンの反応はこの建物を指さない。

 

「やっぱり」みくるが手帳を閉じた。「盗み出そうとしたニジーが、楽譜をどこかに隠して潜伏している可能性が一番高い」

 

声には確信があった。消去法ではあるが、他の可能性を一つ一つ潰した上での結論だ。楽譜は施設内にある。ニジーは団員に化けている。そして楽譜は団員の荷物や身体には隠されていない。つまり、施設のどこかに、別の場所に隠されている。

 

 

---

 

 

そこへ、楽屋の扉が開き、岡田が顔を覗かせた。こちらの話し合いが一段落したタイミングを見計らっていたのかもしれない。

 

「一通り話は聞けたかい?」

 

「はい、ありがとうございます」

 

みくるが立ち上がった。岡田は二人の顔を見て、少し言いにくそうに口を開いた。

 

「正直なところ……おかしい様子の団員はいなかったように思うんだがね。本当に、変装した人間が紛れ込んでいるんだろうか」

 

半信半疑。それは当然の反応だろう。岡田にとって団員たちは長年一緒に歌ってきた仲間だ。その中の一人が偽物だといきなり言われても、簡単に受け入れられるものではない。

 

みくるは言葉を選びながら答えた。

 

「お気持ちは分かります。でも、状況的にはやはり犯人が潜んでいる可能性が高そうなんです」

 

岡田は「う~む、しかし……」と腕を組んで唸った。

 

「岡田さん、私たちは館内も探してみます。だから岡田さんは、他の団員の皆さんと一緒に練習を続けていただけませんか」

 

少し怪訝な表情をする岡田に、みくるは少し申し訳なさそうな声を出した。

 

「もし中に隠れている怪盗が逃げ出そうとしても、岡田さんがいれば分かると思うんです。練習室にいれば、区画の動きも見えますから」

 

直接的に「見張っていて欲しい」とは言わなかったが、意味は伝わったようだった。岡田は渋い顔をしたものの、やがて小さく頷いた。

 

「……分かったよ。何かあったら声をかけてくれ」

 

 

---

 

 

まず向かったのは練習室だった。

 

岡田が中に入り、団員たちに「練習を再開しましょう」と声をかけている間に、あんなとみくるは室内の隅々を見て回った。

 

入り口近くの壁際に折り畳み机が配置されており、壁際には据え付けられた棚がいくつかある。他にも予備の椅子が積まれている。棚の上、棚の中、椅子の下。みくるがミラールーペをかざしてみるが、真新しい痕跡は見当たらなかった。

 

「ここは楽譜がなくなった時に真っ先に探されてるはずだよね」

 

あんなが小声で言った。みくるも頷く。岡田や団員たちが練習室内をくまなく探した後だ。その時に見つからなかったものが、今になって出てくるとは考えにくい。

 

一通り確認した後、二人は練習室を出て、次の場所へ向かった。

 

 

---

 

 

搬入口近く。

 

先ほど根岸が電話をしていた、練習室と繋がる通路の付近。廊下の蛍光灯の光が届ききらず、奥に行くほど薄暗くなっている。搬入口のシャッターは閉じたままで、その手前に荷物を一時的に置いておくためのスペースが広がっていた。

 

折りたたまれた台車が壁に立てかけられている。段ボールが数箱、隅に積まれている。備品用と思しきスチールラックには、イベント用の看板や養生テープ、延長コードなどが雑然と置かれていた。

 

あんなが段ボール箱を一つ一つ持ち上げて確認する。みくるはスチールラックの棚をミラールーペで照らした。台車の裏、段ボールの隙間、ラックの奥。

 

楽譜が隠されているような様子は、ない。

 

 

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楽屋は、聞き込みの合間に既に調べていた。

 

パイプハンガーの裏、長机の下、折りたたみ椅子の収納棚の奥。団員たちの荷物を預かっている場所だけに丁寧に見て回ったが、楽譜は見つからなかった。

 

楽屋には窓が一つある。二人はそちらも確認した。しかし窓は完全に開くタイプではなく、上部が僅かに傾く内倒し式で、人が通り抜ける事は到底出来ない。みくるが窓から身を乗り出すようにして外を覗いたが、建物の外壁とフェンスの間の狭い隙間に、何かが投げ落とされた形跡もなかった。

 

 

---

 

 

「おかしい……」

 

廊下を歩くみくるの声は低く、表情には明らかな困惑の色が浮かんでいた。

 

練習室の区画はくまなく調べた。練習室自体はかなり大きな部屋だったが、構造は複雑ではない。壁際の棚と机、譜面台の裏、積まれた椅子の隙間——隠せる場所は限られていて、そのすべてを確認した。これまでの事件の教訓を活かして、天井や棚の下面、見落としがちな死角になりそうな場所も念入りにチェックしている。楽屋にも隠された気配はなかった。搬入口はスタッフの手で施錠されている。団員は外に出られる状況ではなかったはず。

 

楽譜は施設内にある。ポチタンがそう告げている。なのに姿を消した。

 

顎に片手を当て、みくるは苦しそうに考え込んでいた。眉間に深い皺が刻まれている。さっきまでの確信に満ちた探偵の顔は崩れ始めている。

 

あんなはその横顔を、心配そうに見つめていた。

 

 

---

 

 

自販機スペースにやってきた。

 

エントランスと練習室区画のちょうど中間に位置する、開けた空間だった。壁に沿って自動販売機が三台並び、その向かいに休憩用のベンチが置かれている。相川がここに座って涼みながら、区画の動線を眺めていた場所。

 

みくるはベンチの下を覗き込み、自販機と壁の隙間に手を差し入れた。自販機の下の僅かな空間にもミラールーペの光を当てる。何もない。

 

「う~ん……」

 

あんながミラールーペを覗きながら声を上げた。

 

「足跡は、すごくいっぱいあるんだけど……」

 

自販機スペースは人の出入りが多い。床には無数の足跡が重なり合っている。しかし、何か不審な動きを感じさせる痕跡は見当たらなかった。

 

それは、今まで調べたエリアも同じ。練習室も、搬入口付近も、楽屋も。どこにも、楽譜を隠す行為の痕跡が残されていない。

 

「何か見落としているはず……でも、それが何なのか……」

 

みくるが眉間の皺をさらに深くしたその時だった。

 

エントランス側の廊下から、ゆっくりとした足取りで一人の女性が歩いてくる。作業着姿で、手にはモップとバケツ。清掃員のようだ。

 

みくるの目が、その姿を捉えた瞬間、絞られていた表情が緩む。清掃員。建物全体を移動する立場の人間。

 

「すみません!」

 

二人は小走りで清掃員に駆け寄る。突然声をかけられて清掃員は驚いている。

 

「あの、無くなった楽譜を探してるんです」

 

あんなが息を切らしながら言った。みくるがすぐに続ける。

 

「こちらの区画で、清掃を行いましたか?」

 

清掃員は目をぱちくりとさせた。突然の質問に困惑しながらも、口を開く。

 

「ええ、午前の利用者さんがいなくなった後に清掃に入ったけど……」

 

午前の団体が撤収した後。つまり、楽譜が消えた問題の時間帯に、この区画に出入りしていた人物。

 

「清掃の中で……怪しい人を見ませんでしたか?」

 

みくるが問いかけに、清掃員は首を傾げた。

 

「怪しい人、って言われても……。分からないわねぇ」

 

清掃員という仕事柄、施設内のあちこちを回り、さまざまな利用客とすれ違う。だからこそ逆に、一人一人の印象は薄まるのだろう。通り過ぎる顔の一つ一つを覚えてはいられない。

 

「じゃあ」あんなはダメ元で尋ねた。「わたし達、楽譜を探してるんです。清掃の時に見ていませんか?」

 

「楽譜?」

 

清掃員が首を傾げる。やはり、そんな都合よくはいかない。そう二人が落胆しかけた時。

 

「ああ、そういえば」

 

清掃員が、思い出したように声を上げた。二人の目が、同時に清掃員に釘付けになる。

 

「こっちの練習室を清掃してる時に、紙の束が落ちてたわね」

 

「紙の束!」

 

「もしかして、あれが楽譜だったのかしら」

 

あんなとみくるは目を丸くした。

 

「それ、一体どこに!?」

 

「え? パイプ椅子の下に落ちてたから、午前に使ってた団体さんの忘れ物だと思って——エントランスの忘れ物ボックスに入れておいたわよ」

 

二人の勢いに清掃員がたじろいだ様子で答える。

 

「ありがとうございます!」

 

二人は深く頭を下げると、弾かれたようにエントランスへ向かって走り出した。清掃員はそんな様子を不思議そうに見送った。

 

 

---

 

 

エントランスに飛び込んだ二人は、周囲を見回す。

 

受付カウンターの向かい側。チラシや施設のパンフレットが並べられたラックの隣に、来館者向けの記入用紙や利用案内が置かれた机があった。その机の端に、プラスチック製のボックスが二つ並んでいる。

 

一つには「忘れ物」、もう一つには「長期保管品(廃棄予定)」と手書きのラベルが貼られていた。

 

「まさか、こんな簡単な話だったなんて」

 

みくるが呟いた。忘れ物ボックスに手を伸ばす。中を覗くと、清掃員の言った通り、白い紙の束が入っている。

 

安堵が二人の顔に広がった。みくるがその紙束をそっと持ち上げ、中を確認するために少しめくると。

 

みくるの表情が、変わった。

 

安堵が消え、代わりに浮かんだのは困惑だった。

 

紙面に記されていたのは、五線譜の上に踊る音符ではなかった。整然と並べられた文字列。台詞を示す括弧。ト書き。場面の指示。

 

「これって……劇の台本?」

 

あんなが覗き込んで、残念そうな声を出した。

 

みくるは紙束を手にしたまま、数秒間動けなかった。それから、静かに口を開く。

 

「清掃員の人は、午前の団体が撤収した後に清掃に入ったと言っていた。だから、これはその団体が忘れていったもの」

 

冷静な分析だった。論理は正確に機能している。けれどその声には、隠しきれない落胆が滲んでいた。紙束の向きを変えて、表紙を見る。

 

『朧影綺譚(おぼろかげきたん)』

 

達筆な筆文字でタイトルが書かれている。ページをめくると、最初の方に「古い屋敷に集まった者たちが、一夜のうちに怪異と遭遇する怪談噺」というあらすじが記されていた。

 

「怪談話かぁ……夏らしい演目だね」

 

あんなが言った。何とか場の空気を取り持とうとする言葉だったが、声の温度が追いついていなかった。

 

「そうだね……」

 

みくるの返事も空虚だった。二つの言葉が蛍光灯の下の空気に溶けて、消えた。

 

忘れ物ボックスの中には他にも細々としたものが入っていた。ペン、ハンカチ、小さなポーチ。けれど紙束のようなものは、この台本以外にはない。隣の廃棄予定ボックスは空だった。

 

みくるは黙って、台本を忘れ物ボックスに戻す。エントランスの空調が、低い音を立てて回っている。

 

 

---

 

 

みくるはエントランスの壁にかけられた時計を見上げた。

 

秒針が、一定のリズムで文字盤を刻んでいく。その音が、やけに大きく聞こえる。

 

まことみらいハーモニーの面々はずっとここにいられる訳ではない。施設の利用時間が終われば、撤収しなければならない。そうなれば団員たちは散り散りに帰路につく。ニジーが化けている誰かも、その流れに紛れて姿を消す。

 

楽譜を持ったまま。二度と、取り戻す事は出来なくなる。

 

後から調査したところでどうにもならない。ニジーの変装が解ければ、偽物だった団員の不在に気づく者はいるだろう。だが楽譜の行方は分からないままだ。マコトジュエルも失われる。

 

早く。なんとかしないと。

 

みくるは奥歯を噛んだ。時計の文字盤を睨みつけた。秒針が動くたびに、胸の奥が締めつけられる。

 

あんなはみくるのそんな姿を見ながらも、声をかけられずにいた。

 

 

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みくるの視線が、受付カウンターの奥に向く。

 

小窓の向こうに、事務室の扉が見えている。受付スタッフが業務をしている部屋。練習室側の区画からエントランスに向かう動線の途上にある部屋だ。可能性は低いのは分かっている。しかし、まだ調べていない場所なのは確かだ。

 

みくるは受付の小窓に近づいた。

 

「あの、奥の事務室も、調べさせてもらえませんか」

 

受付スタッフが困った顔をした。

 

「さすがに、ここにはないと思うけど……」

 

当然の反応だった。業務用の部屋で、いつスタッフが出入りしてもおかしくない。わざわざここに楽譜を隠す必要性がない。

 

「怪盗団はどんな手を使うか分からない相手なんです。お願いします!」

 

みくるは深く頭を下げた。ロジックがあまりにも弱い事は自分でも分かっている。だが、どうしても可能性は潰さないといけない。

 

「お願いします!」隣で、あんなも頭を下げた。

 

スタッフは二人を見比べ、それから小さく息をついた。

 

「……仕方ないわね」

 

 

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事務室は狭かった。

 

デスクが二つ。ファイルキャビネット。書類棚。壁に貼られたシフト表とカレンダー。施設の運営に必要な書類が所狭しと積まれていて、紙の量だけなら練習室側の区画よりもよほど多い。

 

二人はミラールーペを使い、つい最近触れた跡のある場所を重点的に調べた。キャビネットの引き出しを一段ずつ開け、ミラールーペのレンズで痕跡を追う。デスクの上の書類の山。棚に並ぶファイルの間。ゴミ箱の中。デスクの裏。

 

新しい指紋や接触痕にもやはり怪しいものはない。楽譜も見当たらない。みくるはミラールーペをゆっくりと閉じた。

 

根岸が受け取る予定だったまことみらいハーモニー宛の荷物も置いてあったが、しっかり梱包され開かれた形跡は全くない。状態を確認した後元の場所に戻す。

 

事務室の入口で腕を組んでいた受付スタッフが、怪訝な表情で二人を見ている。その目線が突き刺さるようにみくるは感じた。

 

「……失礼しました」

 

みくるが小さく頭を下げ、あんなも同じように「ありがとうございました」と続く。

 

スタッフに見送られながら事務室を出る。背中に、視線を感じた。

 

 

---

 

 

エントランスに戻った二人の間に、重い沈黙が落ちる。

 

「どうして……」みくるの声が零れた。「犯人はいるはずなのに……楽譜もあるはずなのに……」

 

練習室側の区画はくまなく調べた。事務室まで調べた。団員の荷物も確認した。施設のどの場所にも楽譜は見つからない。

 

もしかして、さっきの清掃員の人が?

 

思考が藁をも掴もうとする。施設内を自由に移動できる立場。誰の目にも留まらない存在。楽譜を持ち運べそうな物は所持していなかったが、清掃員の作業着なら、最悪、楽譜を下に隠す事も——

 

みくるはポチタンに向き直った。

 

「マコトジュエルは……」

 

ポチタンは悲しそうに「ポチィ」と鳴いて、小さく頷いた。

 

条件は変わらない。楽譜は存在する。この施設の中に。

 

その前提が、全てを封じてしまう。清掃員はさっきエントランス側からやって来た。もし清掃員が犯人なら、楽譜が消えたタイミングで持ち出しているはずだ。とっくに施設の外に逃げ出しているはず。この施設にマコトジュエルの反応があるはずはない。

 

犯人はニジー。ニジーは団員に化けている。楽譜は施設内に隠されている。しかし、どちらも見つからない。

 

みくるの思考が、同じ回廊を巡り始めた。犯人がいる。楽譜はある。でも見つからない。犯人がいる。楽譜はある。でも見つからない。推理が空転する。歯車が噛み合わない機械のように、カラカラと同じ場所を無意味に回り続ける。

 

やがて思考の歯車がきしみ、ばらばらに崩れていった。整理されていたはずの事件の情報が散り散りになって、みくるの頭の中を飛び交う。岡田の困惑した顔。藤原の落ち着いた声。相川の気さくな笑顔。根岸の電話。搬入口の暗がり。シルクハットとマント。忘れ物ボックスの台本。五線譜ではない紙の束。事務室のスタッフの怪訝な目。時計の秒針。ポチタンの悲しい目。

 

——私には。

 

思考の渦の中で、一つの声が浮かび上がった。

 

——私には……出来ないの?

 

あの人みたいになるなんて。あの人のような名探偵に。どんな事件も解決してみせる、”本物の”探偵。

 

「みくる……焦らないで……」

 

あんなの声が、渦の外から聞こえた。

 

みくるは思わず振り返った。勢いのある動作で。

 

「焦ってなんかない!」

 

あんながその鋭い声に少しのけ反る。けれどみくるの口は止まらなかった。

 

「依頼人の大切なものが、奪われそうになってるの!」

 

胸の奥で渦巻いていた感情が、言葉になって溢れ出す。

 

「今、取り戻せるのは私たちだけ。解決できなかったら——何のための探偵なのか分からないわ!」

 

最後の言葉が廊下にこだました。空調の音だけが、その余韻を静かに吸い込んでいく。

 

「あ……」

 

自分の声の残響が収まるのに並行して、みくるの中の熱が、急速に引いていった。

 

「ごめん……こんなつもりじゃ……」

 

声が萎んだ。視線が下がる。

 

あんなは僅かに笑って、首を振った。

 

「いいよ。気にしてない。……みくるの気持ちは、よく分かるから」

 

穏やかな声でそう言って、あんなはみくるの目を見た。

 

「でも、無理しないでね……」

 

みくるの事を案じている。それだけの、温かい言葉だった。なのに、その言葉が、みくるの心に刺さった。

 

——無理。

 

その二文字だけが、あんなの言葉から切り離されて、胸の奥に突き立った。

 

自分には、事件の解決は、無理なのか。

 

みくるは頭を振った。あんなが心配してくれた言葉を、こんなふうに受け取るなんて。自己嫌悪が、腹の底から沸き上がってきた。

 

あんなをもう傷つけたくなかった。あんなにもう苦しい想いをさせたくなかった。だから名探偵になるって決意したのに。あんなが安心して隣にいられる、頼れる相棒になるって誓ったのに。

 

自分は何をやっているのか?

 

「まだ……」

 

声を絞り出した。

 

フロア案内図を見上げる。練習室側の区画は調べ尽くした。けれど反対側の区画もある。

 

「探していない場所は、ある……」

 

その言葉には、もう捜査を始めた頃のような力はなかった。

 

 

---

 

 

藁にもすがる思いで、反対側の区画を調べ始めた。

 

一つ目の部屋。会議室。長机と椅子が整然と並んでいる。棚の中、机の下、カーテンの裏。ミラールーペの光を当てる。気になる痕跡も楽譜もなかった。

 

二つ目の部屋。小さな和室。畳の上に座卓が一つ。押入れを開けた。座布団が積まれているだけ。隠せるような場所は、ない。

 

三つ目の部屋。多目的ルーム。ホワイトボードとプロジェクターの台。ここにも何もない。

 

時が刻一刻と消耗されていく。時計の針は止まってくれない。

 

調べるのに時間をかければタイムリミットが来てしまう。ミラールーペで検出される足跡の痕跡や、扉の開閉の形跡を頼りに調べる場所を絞る。

 

しかし、それは正しいのか。みくるは迷った。簡略的な調べ方のせいで何かを見落としたら。でも全てをしっかり調べていたら時間が——

 

四つ目の部屋。扉を開けた時、みくるは一瞬、自分が何を探しているのか分からなくなった。

 

集中力が欠けている。理屈から考えて——こちら側の区画に楽譜が持ち出されたとは思えない。相川が自販機スペースにいた。出ていく人は見ていないと言った。エントランスを経由してこちら側に楽譜を運ぶには、相川やスタッフの目をかいくぐらなければならない。そもそもこちら側に持ち出せるなら、いくらでも逃げる機会がある。

 

こちら側を調べている暇があるのか。元の区画で見落としがないか、もう一度調べるべきではないのか。団員にもう一度証言を聞くべきではないのか。

 

疑念が頭を塞ぎ、目の前の部屋が霞んで見えた。

 

次の部屋。次の部屋。また次の部屋。

 

扉を開けて、中を見て、何も見つけられず、閉める。その繰り返しが、みくるの中で意味を失い始めていた。

 

そして——こちら側の区画の、最後の部屋を調べ終えた。

 

楽譜は見つからない。

 

 

---

 

 

みくるがふらふらと廊下に歩み出た。

 

推理が繋がらない。証拠が見つからない。タイムリミットが迫っている。三つの事実が頭の中で渦を巻き、焦燥となって全身を焼いていた。

 

頭の中で、何者かの声が響いている。誰の声だ? ……自分の声。みくるが、自分自身に課した使命感。

 

——事件を解決しろ。

 

みくるの胸の中で、何かが軋んでいる。

 

——解決できなければ、名探偵はおろか、探偵を名乗る資格もない。

 

「みくる……」

 

あんなの声がひどく遠くに聞こえた。

 

みくるは返事をしなかった。唇が何かを呟いている。自分でも何を言っているのか分からなかった。証言の断片と推理の破片が、言葉にならない言葉になって溢れ出していた。

 

「みくる、大丈夫?」

 

あんなの手が、みくるの手を掴んだ。温かい手。

 

みくるはその手を、無造作に振りほどいた。

 

「大丈夫よ」

 

声は冷静だった。あまりにも冷静で、あまりにも冷たい温度を放っている。

 

あんなの手が、宙に止まった。振り払われた指先が、行き場を失って空を掴む。

 

そしてあんなは、みくるの横顔を見て、言葉を失った。

 

振り払った動きで露わになったみくるの横顔。その見開かれた目に——赤い光が、宿っていた。

 

「ええ……大丈夫よ」

 

みくるの声が響いた。平坦な、感情のない声。

 

「何も問題はない」

 

ゆっくりと振り返った。見開かれた目は焦点が定まらず、どこか遠い場所を見ているようだった。口元に、薄く虚ろな笑みが浮かんでいる。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「……私には、全ての真相が見えたから」

 

「みくる!」

 

あんなが駆け寄ろうとした。手を伸ばした。

 

その瞬間、みくるの全身から、赤いオーラが噴出する。

 

衝撃波があんなの身体を捉え、吹き飛ばした。あんなは廊下の壁に叩きつけられ崩れ落ちる。「あんな!」ポチタンが悲鳴のような声を上げる。

 

みくるの頭の中に、声が響いている。

 

先ほどまで響いていた、自分自身の声に重なるように、覆い隠すように、その囁きはみくるの中で大きくなっていく。

 

『嘘よ覆え』

 

ペンダントの懐中時計が、みくるの胸元からふわりと浮かび上がった。

 

『真相は名探偵であるお前が決める』

 

懐中時計の文字盤が歪み、形を変えていく。ペンダントは赤黒い光を放ちながら姿を変え、フェイクキュアウォッチへと変貌した。

 

『誰もがお前の推理を信じ、お前を称賛する』

 

みくるの胸元からマコトジュエルが出現する。透き通った輝きが濁り、内側から赤黒い筋が走った。光が歪み、色が変わり、マガイジュエルに変貌して、フェイクキュアウォッチにセットされた。

 

赤黒いオーラがみくるの身体を包みこみ、その中で、みくるの姿が——心が——変容していく。

 

廊下の蛍光灯が、明滅した。

 

 

---

 

 

練習室の空気は重かった。

 

まことみらいハーモニーの団員たちは、練習の合間の休憩時間を過ごしている。しかし誰も口を開こうとしない。消えた楽譜の事が、部屋の隅々にまで影を落としている。パイプ椅子に腰かけたまま手持ち無沙汰に膝の上を見つめる者。壁に背を預けて腕を組み、黙り込む者。ペットボトルを手にしたまま、一口も飲まずにいる者。居心地の悪さが空気を満たし、誰もそこから抜け出す方法を持っていなかった。

 

その時、練習室の扉が、優雅に開いた。

 

音は静かだった。しかしその動作に込められた確信めいた力が、部屋中の視線を一斉に引き寄せる。

 

扉の向こうに立っていたのは少女だった。

 

特徴的なツインテールが、歩みに合わせてゆるやかに揺れている。マスクの奥から覗く目が、怪しい光を放っていた。見覚えのない服装。見覚えのない佇まい。

 

岡田が椅子から立ち上がった。

 

「あなたは……誰ですか?」

 

少女——キュアミステイクは、その問いに薄く笑った。

 

「ふふ、何を仰っているんですか。この難事件を解決するために調査を依頼された、名探偵ですよ」

 

声は涼やかだった。場の緊張を楽しんでいるような余裕すら漂っている。

 

「名探偵、ミス・テイク」

 

その言葉が落ちた瞬間、団員たちの目が一斉に赤く輝いた。ほんの一瞬。瞬きの間にも満たない閃光。それが消えた時、部屋の空気は変わっていた。

 

「ああ、そ、そうでしたね……」

 

岡田が困惑したように、しかし納得したように頷く。彼女の存在を疑問に思う人間は、もうこの部屋にはいなかった。

 

その直後、扉が再び開き、あんなが飛び込んできた。

 

「みくる! 駄目だよ!」

 

息を切らしている。さっきの衝撃で打った背中が痛むのか、僅かに身体が傾いでいた。それでも真っ直ぐにミステイクを見つめ、必死の声を上げている。

 

ミステイクは振り返った。冷たい目線。

 

「黙りなさい。名探偵が真相を解明する場よ」

 

その言葉に、団員たちの意識がミステイクに集中した。

 

「真相?」

 

「楽譜が見つかったのか?」

 

期待と不安が混じった声がざわめきとなって広がっていく。ミステイクはそれを聞き届けるように一瞬目を閉じ、そして、ゆっくりと目を開いた。

 

まるでスポットライトを浴びる舞台女優のように、"観客"からの視線を全身で受け止めていた。優雅な所作で半歩前に出て、部屋の中央に立つ。団員たちの視線が、磁石に引き寄せられるようにその動きを追った。

 

「残念ながら、楽譜は見つかっていません」

 

落胆の溜息が漏れかけた。しかしミステイクは言葉を続けた。

 

「ですが、犯人は、分かっています」

 

ざわめきが止んだ。犯人という言葉が、空気を凍らせる。団員たちの顔に、困惑と不安が浮かんでいる。互いの顔を見回す者。視線を逸らす者。息を詰める者。

 

ミステイクは、ゆっくりと——劇のような間を置いて——片腕を上げた。

 

人差し指が、一人の人間を指し示す。

 

「犯人はあなたです……根岸副団長」

 

全員の視線が、一斉に根岸に集中した。根岸は信じられないといった様子だ。眼鏡の奥の目が見開かれ、口がわずかに開いている。色を失った顔で、根岸は声を絞り出した。

 

「そ、そんな……違います!」

 

相川が、椅子から身を乗り出した。

 

「ちょっと待ってよ。副団長は騒ぎになった後にやって来たんだよ? 犯人からは一番遠いんじゃないの?」

 

岡田も眉をひそめた。

 

「先ほど、怪盗団が犯人だと言っていましたが……まさか彼が怪盗団の変装だと?」

 

ミステイクは、その疑問を待っていたかのように微笑んだ。

 

「そう見せかけているだけだとしたら?」

 

「どういうこと……?」

 

あんなが小さく呟いた。ミステイクが何を言い出すつもりなのか、その不安が、声を震わせていた。

 

「全ては見せかけだったんですよ。根岸副団長の到着も、怪盗団も」

 

ミステイクは言葉と共に一歩、歩いた。舞台の主演女優のように、空間を支配する歩き方だった。

 

「あなた方がこの施設に入る前、午前の時間帯は別の団体がこちらの区画を利用していました。そして彼らは搬入口を使って荷物を移動させていた。利用中は、搬入口は開いていたのです」

 

団員たちの間にざわめきが走った。ミステイクはそれを遮るように続けた。

 

「おそらく、午前の団体の荷物の運び出しが終わり、スタッフに施錠を依頼しに行ったタイミングでしょうね——根岸副団長は、搬入口から忍び込み、そのまま施設内で隠れ潜んでいたのです。楽譜を盗み出すタイミングを狙ってね」

 

根岸は何か反論を口にしようとしていたようだったが、ミステイクの推理は止まらない。

 

「そして、タイミングを見計らってマントとシルクハットを着込み、施設のスタッフに姿を目撃させた」

 

ミステイクの口元に、薄い笑みが浮かんだ。

 

「自分の犯行を、怪盗団ファントムの仕業に見せかけるために」

 

「ファントムの犯行に、見せかけるため!?」

 

あんなが思わず声を上げた。

 

「これには私も騙されましたよ」

 

ミステイクが感心したような表情で根岸を見た。その目は冷徹に光っている。

 

「怪盗団の犯行に見せかければ、団員である自分が疑われる事はない。逆に……怪盗団に詳しい人間であれば、楽譜を盗み出した直後に他の人間に変装して潜伏したはずだと考えますからね。最後に来た自分に疑いはかからない。二重のカモフラージュ」

 

今度はしてやったりといった風に、ミステイクはにやりと笑った。

 

「実際には、変装した怪盗などいなかった。根岸副団長自身が、最初から潜伏していたのです」

 

ミステイクが搬入口の方角を指差した。

 

「搬入口から練習室へと繋がる移動スペース。搬入口が閉まっている以上、あそこに人が来る事はまずありません。潜伏場所としてはうってつけでしょう」

 

あんなは根岸が電話をしていた時の事を思い出す。声が聞こえたのにどこに居たのか最初は全く分からなかった。

 

ミステイクの言葉が畳みかけるように続く。

 

「そして、団長が荷物の確認でエントランスに移動したタイミングで楽譜を盗んだ。それによって騒ぎになれば、団員は皆練習室に集まる。その混乱に乗じて、後から来た風を装い、合流した」

 

部屋が静まり返った。誰も、言葉を挟めなかった。ミステイクの推理は精密な歯車のように噛み合い、反論の隙間を与えなかった。

 

岡田がようやく声を発する。

 

「しかし、楽譜はどこに? 荷物も調べたが、誰も持っている様子はなかった」

 

ミステイクは岡田をまっすぐに見た。

 

「楽譜は既に持ち去られています」

 

「でも……」藤原が冷静な声で疑問を投げかけた。「今のお話では、楽譜を持ち出すタイミングがないのでは?」

 

ミステイクは待ち構えていたかのようにその質問に切り返す。

 

「共犯者がいたのですよ。根岸副団長がこっそり電話で話している所を、私は見てしまいましてね」

 

ミステイクは歩きながら語った。

 

「電話の内容は、明らかに共犯者と示し合わせるための会話でした」

 

あんなもその場面を覚えている。搬入口近くの薄暗い通路で、携帯電話を耳に当てていた根岸の姿。「まだ気づいてない」「手筈通りに」——確かに、あの言葉は怪しかった。しかし——

 

「楽譜が消えたという混乱の中、根岸副団長は廊下を突っ切ってエントランス近くまで移動した。そこで密かに共犯者と合流し、楽譜と変装用の衣装を引き渡したのです」

 

推理が、完成しようとしていた。精巧に組み上げられた嘘の建築。一つ一つの部材はもっともらしく、しかし土台から歪んでいる。

 

あんなはついに我慢できなくなった。

 

「待ってよ、みくる! 楽譜はまだここにある! 持ち出されてはいないはずだよ!」

 

両手で抱えているポチタンをそれとなく見せつけるように持ち上げる。

 

ミステイクの目が、冷たくあんなを射抜いた。

 

「はて、何の事やら」

 

そして、嘲るような口調で、言った。

 

「まさか、そのぬいぐるみが楽譜の場所を教えてくれるとでも?」

 

「嘘、でしょ……?」

 

あんなの声が震えている。

 

"そのぬいぐるみ"。ミステイクは、全てを分かった上で言っている。

 

ポチタンの能力でマコトジュエルの存在を感知できる事を知っている。楽譜がまだ施設内にある事も理解している。その上で、そんな事実はどうでもいいと切り捨てている。

 

更に。妖精であるポチタンの事を、マコトジュエルの事を、あんなが団員たちの前で証拠として主張する事が出来ないという事まで計算している。

 

あんなはそれを理解してしまった。あまりにも冷徹で、歪んだ論理。だが、それを認める訳にはいかない。

 

「でも、楽譜がもう施設内に存在しないって言うなら、団長が練習室から移動して、藤原さんが入ってくるまでの空白期間に、誰かが入って来て盗んだ可能性だって否定できないよ!」

 

必死の主張だった。ミステイクが無視した事実によって生まれた穴。その推理の穴を広げようとする。

 

ミステイクは、ふぅ、と溜息をついた。

 

呆れたような、憐れむような。生徒の間違いを正す教師のような態度。

 

「楽譜はコピーが存在する。手書きの原本だといっても、所詮は紙切れです。そこに価値を見出すのは、ここの団員だけ。外部の犯行者がわざわざ盗む理由がない」

 

淡々と語る。

 

「それに、怪盗団の仕業に見せかける必要があったのも、団員の中にいる自分に疑いを向けさせないためですよ。外部犯なら、そもそもそんな偽装は必要ないでしょう?」

 

論理で、論理を塞いでいく。真実ではない推理が、真実よりも精密に組み上げられていく。

 

「でも……」

 

あんなが食い下がった。まだ諦めていない。まだ——

 

「証拠をお見せしましょう」

 

ミステイクの手が、ケープの下に差し入れられた。取り出したのは、ファントムライト。

 

ペンライトに似た形状の、不気味な光を放つ道具。ミステイクがそれを根岸の手元に向けると、紅い光が根岸の指を照らし出した。思わず腕を上げる根岸。

 

光に照らされた指先から、指紋が——光の粒子となって浮かび上がった。宙に漂う指紋の光が、ミステイクがもう片方の手でポーチから取り出した白い紙に吸い寄せられていく。

 

紙の上にはいくつかの指紋が既に並んでいた。根岸の指紋は、その中の一つの横にすっと定着する。

 

「一致しますね。これは搬入口で採取した指紋です。あなたの指紋が残っていました」

 

ミステイクが紙面を掲げて見せた。

 

「まことみらいハーモニーは搬入口を使っていない。あなたの指紋が残っているのは——おかしいですよね?」

 

「そんな馬鹿な……」

 

根岸が呻いた。搬入口に触れた覚えはない。しかし目の前で、自分の指紋が証拠として突きつけられている。

 

部屋の誰も、この異様な光景に疑問を呈する事が出来なかった。ミステイクの周囲に漂う空気が疑念そのものを封じている。

 

「更に」

 

ミステイクがもう一つの道具を取り出した。黒い妖精のような姿をした、小さな機械。ファントムボイスメモ。

 

ミステイクが再生ボタンを押すと、練習室に、声が響く。

 

『——私が盗んだ事にはまだ気づいてないから大丈夫』

 

根岸の声だった。

 

『——少し予定が狂っちゃったけど』

 

『——また連絡する、そっちは手筈通りに楽譜と衣装を処分してくれ』

 

ホールに広がる根岸の言葉。根岸が椅子から立ち上がる。

 

「こ、こんな事、言ってません! 私は——」

 

ミステイクが別のボタンを押した。キュルキュルとノイズ音が走る。巻き戻しの音。ボタンを離すと、また別の音声が再生された。

 

『——前から団長には不満があったんだ』

 

根岸の声。しかし、先ほどの落ち着いた口調とは全く異なる、怒りの籠った声。

 

『——あんな楽譜にいつまでもこだわって』

 

語気が荒い。感情が剥き出しになっている。

 

『——こっちの言い分なんて聞こうともしない!』

 

声が途切れると、沈黙が練習室を満たした。

 

「根岸くん、そんな、まさか……!」

 

岡田が信じられないように根岸を見る。

 

「違います!」

 

根岸は叫んだ。声が裏返っていた。

 

「私はこんな事……こんな事、言ってません!」

 

必死の弁明。しかし焦りによって発せられたその声は、先ほど再生された怒りの声と重なって聞こえる。

 

団員たちの目が、一人また一人と根岸に集まっていく。困惑。疑念。失望。信じたいのに信じきれない。そんな表情が、皆の顔に浮かんでいた。

 

 

---

 

 

「皆さん、違います!」

 

あんなの声に、全員の視線が集まる。ミステイクの視線も。

 

「調査している時に、搬入口の指紋の採取なんてしていません! 廊下で聞いた電話の会話も、あんな内容じゃなかった!」

 

自分とみくるは一緒にいた。一緒に調査をしていた。ミラールーペで痕跡は調べたが、指紋の採取など行っていない。電話の内容も記憶と違う上、全く聞いた事のない声まで入っていた。

 

「騙されないでください! これらの証拠は捏造されたものです! 根岸さんを——」

 

声が、急に細くなる。

 

「お、陥れるために……」

 

最後の言葉が、喉にひっかかってしぼんだ。

 

嘘で覆われた姿。あれは本当のみくるではない。みくるの本当の意思ではない。それでも、親友がこんな事をしているのだと、自分の口で主張しなければならない苦しさが、胸を締めつけた。

 

ミステイクが前回現れた時の言葉が、あんなの脳裏に蘇る。

 

『大事なのは私が事件を解決したという結果だけ』

 

『誰が捕まろうが知った事じゃないわ』

 

ミステイクの思考が、推理の意図が、分かってしまう。

 

犯人を外部の人間にする事だって出来たはずだ。怪盗団が持ち去ったという結論にする事も出来た。なのにミステイクは捏造してまで根岸を犯人に仕立て上げている。「自分が犯人を捕まえた」という結果を——名探偵としての実績を——作るために。

 

自分の功績のために、無実の人を犯人に仕立て上げる。例え嘘の姿であっても、そんなみくるの姿を見るのは、とてつもなく苦しい。

 

「捏造? それって本当なのか?」

 

団員の一人が声を上げた。ざわめきが広がる。

 

「副団長が、そんな事するかな……」

 

「でも、証拠が……」

 

「証拠が作り物だって言ってるじゃないか」

 

動揺が部屋を満たしていた。しかし、根岸に対する信頼が、ミステイクの主張に疑念を投げかけている。長年一緒に活動してきた仲間だ。突然現れた「名探偵」の言葉と、積み重ねてきた信頼と。その天秤が、まだ揺れている。

 

「捏造した証拠というのは本当なのですか?」

 

岡田が声を上げた。団長として、その問いを発する責任があると感じたのだろう。ミステイクを真っ直ぐに見ている。

 

「根岸くんを犯人に仕立て上げようなどと……」

 

ミステイクの顔が、露骨に不快そうに歪む。すると、その目に赤い光が灯った。

 

「素人のあなた達に何が分かるというのですか?」

 

低い声だった。静かだが、有無を言わさぬ圧が込められている。赤い光を宿した目が、一同を睨め付けた。

 

「数々の難事件を解決してきた——この名探偵ミス・テイクの推理を、疑うと?」

 

その言葉と共に、団員たちの目に再び赤い光が走った。そして、あんなの目にも一瞬怪しい輝きが移る。

 

「——っ」

 

脳裏に映像が浮かび上がった。いや、映像ではない。"記憶"だった。自分が実際に体験したかのように、鮮明に、生々しく、頭の中に刻み込まれていく。

 

テレビのニュース画面。キャスターが興奮気味に伝えている。「名探偵ミス・テイクがまたも難事件を解決!」その映像の中のミステイクは、警察署の前でマイクを向けられていた。記者たちが群がり、カメラのフラッシュが焚かれている。警察幹部が彼女と握手を交わし、「今後もぜひ協力をお願いしたい」と頭を下げていた。

 

別の記憶が重なる。宝生美術館の事件。浮かび上がる記憶の中では——オーナー自身がミステイクを護衛に指名し、彼女は怪盗団から宝石を守り抜いた事になっている。それだけではない。美術館が贋作を展示しているという事実まで暴き出し、オーナーの不正すらも明らかにした——と、その記憶の中ではそうなっている。

 

「な、なに、これ……?」

 

頭がくらくらした。自分の記憶と、植え付けられた記憶が混濁する。どちらが本当なのか一瞬分からなくなる。

 

しかし、周囲の団員たちには、もう抗う力がなかった。

 

「あの名探偵ミス・テイクが言うんだったら……」

 

「間違いな訳もないか……」

 

次々と頷き始める団員たち。証拠の捏造に対する疑惑は霧散していた。そもそもそんな疑問があった事すら、忘れかけている。

 

ミステイクはそんな様子を満足そうに見届けると、根岸の方を向き、手のひらを掲げた。

 

優雅な仕草で指を折り、数え上げていく。

 

「一つ。今回のトリックを使えるのはあなただけです。楽譜が盗まれた混乱の中で最後に来たのがあなたである事は、皆が証言している。他の団員が同じように外部の人間に荷物を渡した場合、犯人か共犯者を、あなた自身が目撃していないとおかしい」

 

一本目の指が折れた。

 

「二つ。団長が受け取った身に覚えのない荷物。本来はあなた宛てのものでしたね? 団長が楽譜から離れる原因となったのは、この荷物です。偶然ではなく、あなたの計画的犯行である事を示している」

 

二本目。

 

「三つ。怪盗団の衣装を隠して持ち運べたのは、大きな紙袋を持っていたあなただけ」

 

三本目。

 

「四つ。あなたは団長と揉めていた。動機がある。特に——楽譜に対する動機が」

 

四本目。

 

「五つ。搬入口を使ったという物的証拠」

 

五本目。

 

ミステイクは握った拳を反転させ、花が開くような動きで指を広げながら、その手を優雅に根岸の方へ向けた。

 

「何か、言う事はありますか?」

 

根岸は椅子に座ったまま、苦しそうな表情を浮かべている。顔は蒼白で、額に薄く汗が浮いている。眼鏡の奥の目が揺れている。何かを言おうとして、言葉が出ない。口が動いては止まり、動いては止まる。

 

やがて。

 

「違うんです、私は……」

 

声は掠れていた。躊躇するように視線がさまよった。しかし、覚悟を決めたように、ゆっくりと顔を上げた。

 

「私は、ただ今日の練習終わりに、団長へのサプライズパーティを企画していただけなんです」

 

岡田が小さく驚いた表情を見せる。

 

「サプライズ……パーティ?」

 

根岸は頷いた。絞り出すように、しかし一つ一つの言葉に嘘がない事を証明するように、語り始めた。

 

「今年は、団長が指揮者となってちょうど十年目の節目の年です。それに……楽譜の件で揉めてしまった事もありましたから。あれに区切りをつける意味もあって。団長を、皆で祝おうと思って、裏で動いていたんです」

 

根岸の声は静かだった。追い詰められた人間の弁解ではない。

 

「紙袋に入れていたのはプレゼントの品です。そして、施設に届いた荷物は、団長と、亡くなった前団長との特別製のフォトプレートでした」

 

岡田が息を呑んだ。

 

「受け取りがどうしても今日になってしまって。本来なら自分で受け取りに行くはずだったのですが、他の準備で手間取ってしまって遅れてしまった。そのせいで団長にご迷惑をかけてしまいました」

 

根岸の目が、まっすぐに岡田を見た。

 

「電話していた相手も、かつてまことみらいハーモニーに所属していた……中西さんです。団長の事を一緒に祝いたいという話になって、会場の予約やケーキの手配をお願いしていたんです」

 

隠しごとをしていた後ろめたさが消えたためか、根岸の声に力が戻って来ていた。

 

「決して犯罪に加担させるような事はしていません。あんな言葉、団長への不満の言葉も言っていません!」

 

最後の言葉は叫びに近かった。しかしそれは怒りではなく、真実を訴えようとする真剣さから生まれるものだった。

 

根岸が口にした中西という名前を聞いて、岡田が声を上げた。

 

「彼女が……」

 

驚きの後に、合点がいったような表情が浮かんでいる。藤原は立ち上がった。

 

「本当です。根岸副団長は嘘は言っていません」

 

落ち着いた声だったが、揺るぎない確信がそこにはあった。他にも数人の団員が頷き、「私も聞いています」「準備の事は知っていました」と口を開く。サプライズの計画を知っていた団員たちのようだ。

 

岡田は根岸を見つめた。その目から疑念が消えていくのが見える。

 

「そうだったのか……」

 

部屋の空気が、僅かに柔らかくなった。氷が溶け始めるような温かさが広がったように見える。

 

「なるほど、なるほど」

 

しかしミステイクの声が、その空気を断ち切った。

 

感心したような口調だった。拍手でもしそうな、芝居がかった態度で根岸に近づく。

 

「根岸副団長、あなたは本当に素晴らしい」

 

根岸は一瞬、何を言っているのか分からなかったようだ。柔らかくなりかけた空気の中で、その言葉は場違いな賛辞に聞こえた。

 

「本当に——素晴らしい犯人ですよ」

 

溶けかけていた空気が、再び凍りつく。

 

「サプライズパーティを裏で企画する事で、感動的なストーリーを演出する。見事なカバーストーリーです」

 

ミステイクの声は淡々としていた。感情を無視した、冷たい論理の刃。

 

「裏でそういう計画をしているという事にしておけば、怪しい行動をとっていても言い訳が可能となる」

 

根岸が言葉を失った。自分の真実が、目の前で別の意味に変換されていく。

 

「合唱団を辞めた人物が協力者。根岸副団長。あなたは例の楽譜へのこだわりのせいで、新規の団員が定着しないと言っていましたね?」

 

ミステイクが更に別の角度から切り込む。

 

「その人物も、団長の楽譜へのこだわりのせいで辞めてしまった一人だったのではないですか? だからあなたと共謀して、こんな事をした」

 

ミステイクの目が細くなった。

 

「恨み募る楽譜ですからね。元々処分する事が前提になっていたのでしょう」

 

「私も彼女も、そんな馬鹿な事はしない!」

 

根岸が叫んだ。しかしミステイクは聞いていなかった。根岸の言葉が空気に溶けるのを待つまでもなく、結論を告げる。

 

「証拠とロジックは揃っています。あなたが犯人なのは間違いない」

 

そして、薄く笑った。

 

「さて。あなたと、その共謀した人物を調べれば、もっと有力な証拠も"見つかる"事でしょうね」

 

"見つかる"。

 

その言葉の意味を、あんなだけが正確に理解していた。見つかるのではない。作られるのだ。ファントムライトで。ファントムボイスメモで。ミステイクの能力で。調べれば調べるほど、捏造された証拠が積み上がっていく。

 

ミステイクの展開する推理と、「名探偵」という植え付けられた権威。その二つに押し潰されて、もはや誰も口答えできなかった。

 

一人を除いて。

 

「違う、違うよ!」

 

あんなだった。練習室の中で、たった一人、ミステイクに立ち向かっている。

 

「こんなやり方、間違ってる!」

 

ミステイクに向かって叫んだ。

 

「こんな風に事件を解決したって、みくるの憧れるような名探偵になんてなれないよ!」

 

みくるが目指していたもの。みくるが追いかけていたもの。どんな小さな事件でも依頼人の大切なものを守る、本物の探偵。あんなの知っているみくるは——こんな事をする人間じゃない。

 

ミステイクの顔が、不快そうに歪み、そして、小さな声で、ぽつりとこぼした。

 

「鬱陶しい……」

 

「え……」

 

ミステイクの冷ややかな目が、戸惑うあんなを射抜いた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

「いつもいつも、くだらない感情論ばかり」

 

声は静かだった。静かで、そして冷たかった。

 

「いい? あなたのその感情だけの捜査を、私が証拠とロジックで纏める事で事件を解決してきたの」

 

一語一語が、鋭利な刃のように放たれた。

 

「あなたは所詮——私のおまけでしかない」

 

間。

 

「身の程をわきまえなさい」

 

言葉が、あんなの胸に突き刺さった。

 

「みくる……」

 

ミステイクはあんなに背を向けている。あんなの声は、もう届かなかった。

 

ミステイクがやっている事は間違っている。根岸は犯人ではない。証拠は捏造されたものだ。事件は解決なんてしていない。全てが嘘で塗り固められている。

 

分かっている。

 

分かっているのに——何も出来ない。

 

反論は、嘘によって塗りたくられた証拠で潰される。様々な事件を解決してきた名探偵という虚像が、人々の心を支配して、それを覆す事が出来ない。

 

このままでは、無実の人が犯人にされてしまう。

 

それだけじゃない。このまま事件が「解決」されてしまったら——みくるが取り返しのつかない罪を背負う事になる。無実の人を犯人に仕立て上げるという、探偵には絶対に許されない罪を。

 

それを防げなければ、嘘の壁を破らなければ。

 

だがあんなもまた、みくると同じ壁にぶつかっていた。

 

楽譜が見つからない。だから犯人も断定できない。事件の真相に辿り着けない。怪盗団はこの中の誰かに化けて、この混乱を嗤っているのだろうか。

 

「ポチィ」

 

腕の中のポチタンが、小さな顔をあんなに向けた。

 

「あきらめ、ないで」

 

たどたどしい言葉だった。短い音節を一つずつ、大切に紡ぐような声。

 

その言葉に、焦りが、ほんの少しだけ弱まった。今、この状況をなんとか出来るのは、自分しかいない。

 

しかし、どうすれば。一歩踏み出そうにも、踏み出す先が——

 

そう迷うあんなの脳裏に、声が響いた。みくるの声。

 

『行き詰まったら初めから考える。これ、探偵の鉄則』

 

あの日の事を思い出す。キュアット探偵事務所に初めて現れた依頼人。あの時、一つの推理で真相に辿り着けなかった時、みくるのその言葉で捜査を考え直し、そして思い込みによる推理のズレを正す事に成功した。

 

今回も、もしかしたら。大きな思い違いをしているのではないか。

 

あんなは目を閉じた。今日の事を、最初から思い出す。

 

楽譜がなくなっている事を知った。岡田団長から説明を受けた。その後、エントランスで……そう、エントランスで。

 

そこで捜査と推理の方針を決定づけた大きな証言があった。点検スタッフの目撃証言。マントとシルクハットの人物。

 

けれど、あの人の証言には曖昧な部分があった。「廊下の角を一瞬見ただけで、すぐに見えなくなった」「見間違いかもしれない」。

 

もしかしたら。

 

あんなは練習室を振り返った。ミステイクはまだ根岸の方を向いている。あんなの事はもう眼中にない。

 

あんなは静かに練習室を出た。

 

 

---

 

 

エントランスに一人でやってきたあんな。

 

受付の小窓から、先ほどのスタッフの女性が顔を覗かせている。あんなは小窓に駆け寄った。

 

「あの、さっきの設備点検のスタッフさんはいませんか?」

 

「どうかしたの?」

 

声と共に、受付の奥から声がして、作業着姿の点検スタッフが同じように小窓から顔を出した。

 

「さっき話してくれた、マントとシルクハットの人を目撃した件なんですけど。もう少し詳しく聞かせてもらえませんか。何か他に覚えている事はありませんか?」

 

点検スタッフは首を傾げた。

 

「うーん……本当に一瞬だったから……。角の向こうに消えていくところを見ただけで、顔とか体格とかは全然分からなかったのよね」

 

同じ答え。新しい情報は出てこない。あんなは唇を噛んだ。別の角度で聞いてみる。

 

「あの、合唱団の人たちが施設に入る直前に見たんですよね?」

 

「直前?」

 

点検スタッフが、また少し考え込んだ。記憶を辿るように、視線が宙をさまよう。

 

「確かに……直前だったと思うけど。その前の……劇団が撤収した後だったと思うし……」

 

「あれ、ちょっと待って」

 

点検スタッフの言葉に、受付スタッフが口を挟んだ。

 

「確かに劇団の人たちはほとんどいなくなってたけど」受付スタッフは記憶を辿りながら言った。「あなたが点検に入ったのは、まだ劇団の人たちの撤収が終わる前じゃない? あなたが作業に入った後に搬入口を締めてくださいって私が呼ばれたはずだから」

 

点検スタッフが目を丸くした。

 

「あれ? そうでしたっけ?」

 

あんなはその内容を噛みしめる。些細な話だが……ずれがある。マントとシルクハットの人物が目撃されたのは、自分たちが思っていたより前だ。

 

合唱団が入る直前ではない。劇団の人たちがまだ撤収作業をしているタイミング。搬入口がまだ開いている時間帯。

 

ミステイクの推理では、根岸が搬入口から侵入したという事になっていた。だからこの新事実はミステイクの推理を覆す内容ではない。しかし、あんなの中で、別の可能性が芽吹いた。

 

劇団の人たちがまだいるタイミングで目撃されたシルクハットとマント。もしかすると、劇団の関係者なのでは?

 

あんなは受付スタッフに向き直った。

 

「あの、午前に利用してた劇団の方と、連絡を取る事って出来ませんか?」

 

スタッフは困った顔をした。

 

「いや、それは……利用者の連絡先を勝手に教える訳には……」

 

「お願いします! 大事な事なんです! もう時間も限られてて……!」

 

あんなは深く頭を下げた。ほんの少しでもいい。何か手がかりが掴めれば。

 

受付スタッフはあんなの顔をじっと見た。必死な様子に何かを感じ取ったのか、表情が柔らかくなる。

 

「……分かったわ。代表の方に連絡してあげる」

 

あんなの顔が、ぱっと明るくなった。

 

「ありがとうございます!」

 

 

---

 

 

受付スタッフが事務室の固定電話で番号を押している。呼び出し音が鳴り、やがて繋がる。スタッフが事情を手短に説明し、「話をしたいという方がいて」とやり取りした後、受話器をあんなに渡した。

 

受話器の向こうから、気さくそうな男の声が聞こえてきた。

 

『僕たちに何か用があるんだって?』

 

あんなは深呼吸した。おかしな話だという自覚はある。だが確認しなければ。

 

「あの、突然すみません。お聞きしたいんですけど……劇団の中に、マントとシルクハットを着ている人はいませんか……?」

 

『はあ? マントにシルクハット?』

 

驚きの声。何を言っているんだという声。しかし、男はすぐに何かを思い出したようだった。

 

『……ああ、でも劇でそういう衣装は使ってたっけ』

 

あんなの心臓が、跳ねた。

 

劇で使っている衣装。納得しそうになって、直後に困惑が浮かぶ。

 

「あの、劇って怪談話ですよね。古いお屋敷で、難しい漢字のタイトルの……」

 

相手が少し嬉しそうな声を出した。

 

『そうそう! 「朧影綺譚(おぼろかげきたん)」。明治後期が舞台でね、洋館に集まった人間たちの前に、紳士風の男が現れて色んな怪奇現象を起こすって話でさ……』

 

あんなは目を見開いた。

 

忘れ物ボックスで見つけた台本。「古い屋敷に集まった者たちが、一夜のうちに怪異と遭遇する怪談噺」そのあらすじの中の「怪異を起こす存在」が、紳士風の男。シルクハットとマントを着た——

 

「その衣装って、今日も練習場に持ち込んでたんですよね? もしかして搬入口で出し入れしてたとか……」

 

相手は思い出すように間を置いた。

 

『ああ、搬入口は小道具とかを運び入れるために使ってたんだけど、衣装とかもまとめてハンガーラックにかけて搬入口から出し入れしてたんだよ』

 

ハンガーラックにかけられたマントとシルクハット。

 

間違いない。

 

廊下の角を一瞬だけ横切った「マントとシルクハットの人物」。それは人間ではなかった。ハンガーラックに掛けられた衣装が運ばれていく姿を、一瞬だけ角の向こうに見た。薄暗い廊下で、一瞬だけ。それを点検スタッフは「人」だと認識した。

 

あんなは胸の中で、パズルのピースがカチリと嵌まる音を聞いた。ニジーではない。怪盗団は最初から来ていなかった。

 

しかし、それだけでは何も進展しない。楽譜は依然として見つかっていない。怪盗団がいないとすれば、一体誰が盗んだのか?

 

あんなは再び質問した。

 

「あの、施設を利用してた時や、撤収作業の中で、何かおかしな事はありませんでしたか?」

 

『え~、そんな事言われてもなあ……』

 

相手は困った声を出した。漠然とした質問から必要な情報を引き出すのは難しい。あんなは言葉を選んだ。

 

「えっと、例えば……撤収作業をしている時に、変な事をしてる人がいたとか……」

 

『ああ、そういえば——撤収作業が終わって送迎バスにみんなが乗り込んだ時に、台本を忘れたって騒いで戻った奴がいたなぁ』

 

台本。あんなの脳裏に、忘れ物ボックスの中のあの紙束がよぎった。「朧影綺譚」と書かれた表紙。

 

『しかも彼、二回も戻ってたし』

 

何かがあんなの中で引っかかった。忘れ物を取りに一度戻るのは分かる。でも二回?

 

「あの、その人と話す事って出来ませんか?」

 

『ん? 彼と? え~っと……』

 

受話器の向こうで周囲を確認する気配。

 

『あ、まだ残ってた。ちょっと待っててよ』

 

何かやり取りがあったような声が遠くに聞こえた。やがて、受話器が別の手に渡されたらしく、少し緊張した男の声が聞こえてきた。

 

『……えっと、話って何でしょうか』

 

若い声だった。先ほどの代表とは違い、少しおずおずとした調子。

 

あんなは出来るだけ優しい声で聞いた。

 

「台本を忘れて戻ったって聞いたんですけど、施設に戻った時に何かおかしな事とかはありませんでしたか?」

 

『変な事と言うか……』

 

男はどこか気恥ずかしそうに話す。

 

『練習場に戻ったら、すぐ横のテーブルに台本があったから、それを持って急いでバスに戻ったんだけど』

 

「はい」

 

『バスでよく見てみたら、全然台本じゃなくて』

 

あんなの呼吸が、止まった。

 

『楽譜だったんだよ、中身が』

 

呼吸の後は、世界が止まったように感じた。

 

台本だと思って持って行ったら——楽譜だった。紙の束。同じような見た目。急いでいて、よく確認しなかった。

 

あんなの頭の中で、全てが繋がっていった。練習室で楽譜が消えたのは盗まれたからじゃない。劇団の団員が、自分の台本と間違えて持って行ってしまったのだ。

 

「そ、その楽譜、どうしたんですか!?」

 

声が裏返った。自分でも驚くほど大きな声で、電話の向こうの相手も戸惑っている様子だ。

 

『え、えっと……バスがもう出そうだったから、エントランスの忘れ物ボックスに入れておいたんだよ』

 

あんながみくると共に調べた、あのボックス。

 

『……あの、ゴメン。もしかしてキミのだった……?』

 

あんなはその質問には答えなかった。

 

「え、でも……忘れ物ボックスにはあなたの忘れた台本しか入ってなかったですよ」

 

『えっ、俺の? いや、そんなはずは……確かにあれは楽譜だったし……』

 

「本当に、忘れ物ボックスに置いたんですか?」

 

『確かに置いたはずなんだけど……でも急いでたからなぁ……』

 

あんなの脳裏に、エントランスの机の上の光景が浮かんだ。同じ見た目のプラスチック製ボックスが、二つ並んでいた。一つは「忘れ物」。もう一つは——

 

「長期保管品(廃棄予定)」。

 

急いでいた彼は、間違えて、隣のボックスに入れたのだ。

 

あんなは受話器から耳を離し、受付スタッフに振り返った。

 

「忘れ物の長期保管品って、その後どうなるんですか?」

 

その質問に受付スタッフが答えた。

 

「焼却炉で処分する事になるわね」

 

あんながあまり耳馴染みのない言葉に困惑する。

 

「しょ、焼却炉?」

 

スタッフは少し気まずそうな顔をした。

 

「ああ、最近色々問題になってるものね。でも、まだ処分方法をどう変えるか決まってなくて……」

 

『最近色々問題になってる』、あんなにはその言葉の意味までは理解できなかったが、一つだけ確認しなければならない事があった。

 

「えっと、もしかして、ゴミをこの施設の中で燃やすって事ですか?」

 

スタッフが頷いた。

 

「廃棄予定のボックスは、空になってましたけど」あんなの声が震えた。「もしかして……」

 

「ああ、随分溜まってたみたいだから、纏めて持っていくって言ってたわね」

 

あんなの全身から血の気が引いた。

 

楽譜は廃棄予定のボックスに入れられた。そしてそのボックスはもう空になっている。中身は焼却炉に運ばれた。

 

「焼却炉はどこにあるんですか!?」

 

叫ぶような声だった。スタッフが驚いて後ずさりしかけた。

 

「廊下の奥の扉から——」

 

スタッフが指差した方向と、頭の中のフロア案内図を照らし合わせる。廊下の奥まった位置。焼却炉は案内図には記載されていなかった。客には関係のない設備だからだ。

 

あんなは受話器を耳に戻した。

 

「ありがとうございます!」

 

相手が何か言いかけたが、あんなはもう受話器を置いていた。

 

「すみません!」それだけ言って、事務室を飛び出した。

 

 

---

 

 

ポチタンが浮かび上がる。小さな翼を広げ、ストラップであんなの身体を引っ張った。

 

「ポチィ!」

 

その声は悲鳴にも似ていた。マコトジュエルの反応——危機を感じ取っているのだ。

 

二人は廊下を駆けた。あんなの足は全力以上だった。ポチタンのアシストで信じられないような速度で走る。角を曲がり、真っ直ぐな廊下を突き抜け、廊下の突き当たりの扉へと。

 

あんなは勢い任せに扉を開け放った。熱気が顔を打つ。

 

建物の裏手に繋がる狭い空間。コンクリートの壁と天井。換気扇が回る低い唸り。その奥に、焼却設備の投入口が口を開けていた。

 

男の従業員が、黒い袋を持ち上げていた。投入口に向かって——

 

「待ってください!」

 

あんなは走った。全速力で。男の腕にしがみついた。

 

「お、おい! 危ないじゃないか!」

 

男が驚いて身を引いた。黒い袋が床に落ちる。

 

あんなは肩で息をしながら、必死に言葉を絞り出した。

 

「お願いします……待ってください! この中に、大事なものが、あるかもしれないんです!」

 

「ええっ?」

 

男は面食らった顔をしたが、あんなの真剣な様子に気圧されたように一歩引いた。

 

あんなは床に落ちた黒い袋に手を伸ばした。口を開く。中身を探る。ノートの切れ端、古いチラシ、壊れたボールペン——紙束はない。

 

次の袋。口を開ける。手を突っ込む。ビニール袋、使い古しの名札ケース、丸まったポスター——これでもない。

 

次。また次。黒い袋を一つ一つ開けていく。指先が震えている。焼却炉の余熱で空気が熱い。汗が額から顎に伝い落ちる。

 

これじゃない。ここにもない。これでもない。

 

——間に合わなかったのか。

 

そう思いかけた時。

 

漁っていた手が、カサッ、と何かに触れた。束ねられた紙の感触。乾いた、薄い紙が重なり合う手応え。

 

あんなはそれを握り、引き抜いた。

 

やや古びた紙束。日焼けした縁。そして——五線譜の上に踊る、手書きの音符たち。

 

「あった……!」

 

声が震えた。涙がにじんだ。

 

楽譜だった。前団長が、まことみらいハーモニーのために書き下ろした、世界に一つだけの楽譜。汚れはついていない。廃棄物の中で奇跡的に、無傷のまま残っていた。

 

あんなは楽譜を胸に抱きしめた。

 

「良かった……!」

 

その声は焼却室の狭い空間に反響して、あんな自身に返ってきた。ポチタンが「ポチィ!」と嬉しそうに翼をばたつかせ、あんなの頬に小さな体をすり寄せた。

 

従業員の男が、訳が分からないという顔であんなを見ている。

 

 

---

 

 

練習室の空気は、もう動かなくなっていた。

 

根岸は尚も弁明を続けていた。しかしその声はだんだんと弱くなっている。言葉を重ねるたびに、誰にも届いていないという事実が根岸自身にのしかかっていく。

 

壁の時計が、容赦なく時を刻んでいる。撤収時間まで、もう残りは僅かだ。

 

"名探偵"が言う推理なら——仕方ないのか。

 

その空気が、部屋を満たしていた。諦めと、居心地の悪さと、自分では何も判断できないという無力感。団員たちは俯き、互いの目を見ないようにしていた。

 

そんな空気を、扉が勢いよく開かれる音が破った。

 

「ありました……」

 

膝に手をつき、肩で息をしている少女の姿。あんなだった。

 

汗で髪が額に張りつき、服のあちこちに埃や汚れがついている。全力で走ってきた事は誰の目にも明らかだった。荒い呼吸を整えながら、あんなは顔を上げる。

 

「ありました! 楽譜が——見つかったんです!」

 

胸に抱えていた楽譜を持ち上げて掲げる。声が練習室を駈け抜けた。

 

全員の目が、あんなに向いた。あんなの腕の中の紙束に。根岸が椅子から立ち上がりかけた。藤原が口元に手を当てた。相川が息を呑んだ。

 

ミステイクの目が、鋭く細くなる。

 

「一体どこに……」岡田が、掠れた声で尋ねた。

 

あんなは息を整えながら答える。

 

「廃棄予定の忘れ物に紛れてて……焼却炉で燃やされそうな、一歩手前だったんです」

 

「なんだって……!」岡田の驚愕の表情。

 

ミステイクが、フン、と鼻を鳴らした。

 

「やはり、根岸副団長は楽譜を処分しようとしていたようですね。共犯者が焼却予定のゴミに紛れ込ませたのか、それとも自分で運んだ後に施設の中に入ったのですか?」

 

ミステイクの冷たい言葉に、根岸が「ち……違う!」と叫んだ。

 

「違うよ、みくる」

 

あんなが一歩前に出る。声は穏やかだった。先ほどまでの恐れはない。

 

「楽譜は、誰かが盗んだわけじゃない。……犯人なんて、いなかったんだよ」

 

「……なんですって?」ミステイクの表情が、明確に変わった。

 

あんなは楽譜を胸に抱えたまま、絡み合った状況の糸を、一本ずつ丁寧にほどき始める。

 

「まず、マントとシルクハットの人物。これは、午前の時間帯にこの施設を使っていた劇団の衣装でした」

 

静かなざわめきが起きる。

 

「劇団の演目は『朧影綺譚』っていう怪談話で、その中に紳士風の男が出てくるんです。シルクハットにマント。その衣装をハンガーラックにかけて、搬入口から出し入れしていた。それが廊下の曲がり角を一瞬横切るのを、点検スタッフの方が見たんです」

 

あんなは手振りで、角の向こうに何かが消えていく様子を示した。

 

「薄暗い廊下で、一瞬だけ。ラックに掛けられた衣装のシルエットを人だと思った。怪盗団でも、根岸さんの変装でもない。ただの衣装だったんです」

 

沈黙が落ちた。しかしそれは先ほどまでの重い沈黙とは違う、疑問や思考を飲み込むための時間。

 

「じゃあ、いったいどうして楽譜は……?」

 

岡田が問いかけにあんなは頷いた。

 

「劇団のメンバーの中に、劇の台本を忘れた人がいたんです」

 

ここからが本題だった。あんなは言葉を選びながら、一つずつ要素を積み上げていく。

 

「岡田団長が楽譜を譜面台に広げて、練習を始めようとした。でもその時、スタッフに呼ばれて荷物の対応に向かった。藤原さんと相川さんが入るまで、エントランス周りをずっと見ていた人はいない。ここが空白の時間です。その合間に、劇団の人は施設に出入りしたんだと思います」

 

あんなは一度言葉を切り、続けた。

 

「楽譜を見つけた後、清掃員の方にも改めて確認しました」

 

 

---

 

 

あんなが再び訪ねた時、清掃員は驚いた顔をしていた。

 

「え、楽譜? だから、忘れ物のボックスに入れて……」

 

あんなは首を振る。

 

「いえ、あれは劇の台本でした。練習室には、譜面台に楽譜が乗せられていたはずなんです」

 

清掃員は「う~ん」と深く考え込んだ。記憶の奥を手探りするような表情。

 

やがて——

 

「ああ、確かに。譜面台が清掃の邪魔になっちゃうから、一旦脇に寄せたのよね」

 

あんなはその先の状況を追った。

 

「そして、譜面台から楽譜をテーブルに移動させた?」

 

清掃員は一瞬きょとんとした。しかしすぐに、何か思い当たったような顔になった。

 

「ああ、確かに、譜面台を動かそうとしたら楽譜が落ちそうになったから、テーブルの上に置いた気がするわ」

 

 

---

 

 

「清掃する時に物を一旦動かすって、自然な事ですよね。だから清掃員の方はほとんど意識していなかった。そして、その後に劇団の人が忘れた台本を忘れ物ボックスに入れるっていう行動があったせいで——"紙の束"に対する記憶が、そっちの出来事で上書きされてしまったんです」

 

あんなの声は落ち着いていた。一つ一つの言葉を、事実を確かめるように発している。

 

「台本を忘れた劇団の人は、練習室に戻ってきて、見ると入口のすぐ横のテーブルに紙の束が置いてあった。急いでいたからよく確認しないで、自分の台本だと思って持ち出してしまった」

 

あんなは広い練習室を見回した。

 

「この練習室は広いから。劇団の人は、奥まで入らずにすぐ出て行ったし、清掃員の方は部屋の別の場所で作業をしていて、その出入りに気づかなかったんです」

 

つなげていく。一つ一つの偶然を。一つ一つの行き違いを。

 

「だけど結局、バスの中で、持ち出したものが自分の台本じゃなくて楽譜だって気づいたその人は、時間がないからエントランスの忘れ物ボックスに楽譜を置いていった……つもりだった」

 

あんなの声が、僅かに沈んだ。

 

「でも、バスが出発間近で慌てていたせいで、隣の廃棄予定のボックスの方に入れてしまった。そして、溜まっていた廃棄予定品と一緒に、ゴミ袋に詰め込まれて、焼却炉まで運ばれてしまったんです」

 

そして、最後の言葉を、丁寧に置いた。

 

「これは、事件なんかじゃありません。たまたま偶然が重なった結果、事件のような状況が出来上がってしまっただけだったんです」

 

練習室が、しんと静まり返った。

 

誰も声を発しない。あんなの推理が——推理というより、出来事の再現が——部屋の隅々にまで浸透していく時間。

 

やがて、少しずつ、団員たちの表情が変わっていった。

 

「そうだったんだ……」

 

誰かが呟いた。

 

「良かった……犯人なんて、いないのね」

 

藤原の声だった。その落ち着いた声にも、安堵の色がにじんでいた。

 

相川が「はぁーっ」と大きく息を吐いた。張り詰めていたものが一気に緩んだような顔。

 

根岸の目に、光が戻っていた。隣に座った団員が小さく肩を叩いている。

 

岡田があんなの方を見て、深く頷いた。温厚な顔に、やわらかな笑みが戻りつつあった。

 

納得の空気が広がっていく。

 

——唯一人を除いて。

 

ミステイクの顔が、歪んでいる。口元がひくりと震え、目が鋭く研ぎ澄まされている。優雅さも冷静さも消え失せ、剥き出しの感情が顔面に張りついていた。

 

「たまたま偶然が重なったから事件のような状況が出来上がった、ですってぇ……?」

 

先ほどまでの舞台女優のような所作はなかった。

 

「そんな馬鹿な話があるわけないでしょう! これは事件よ! 犯人がいるの!」

 

激しい身振りであんなの方を指差し、体ごとぶつけるように言葉を叩きつけた。

 

あんなは動じる事なく穏やかに微笑んだ。

 

「みくる。わたし達はずっと——檻の中にいたんだよ」

 

ミステイクの動きが、一瞬止まった。

 

「ニジーがいる。犯人がいる。楽譜は盗まれたに違いない。そうやって自分達を、自分自身で"事件"っていう檻に閉じ込めちゃってただけなんだよ」

 

あんなはポチタンを少し持ち上げて見せた。ポチタンは笑顔だった。小さな翼をぱたぱたと動かしている。

 

「ポチタンがマコトジュエルの反応をキャッチしたから、いつもみたいに盗まれたんだって思ってた。でも、きっとポチタンは、楽譜が処分される危機に反応しただけ。"こうに違いない"って決めつけてたのは——わたし達自身」

 

ミステイクが頭を抱えた。

 

両手で側頭部を押さえ、目を逸らした。あんなの顔を見ていられないかのように。

 

「あり得ない……こんな馬鹿な事が……こんな……素人同然の探偵なんかに、私が負けるなどと……!」

 

呻くような声だった。マスクの奥で唇が歪んでいる。

 

「あなた……あなたなんかに、この私が——!」

 

再びあんなを睨みつけようとしたその目が、驚愕に見開かれた。

 

ポチタンを胸に抱えて佇むあんなの姿。

 

服は汚れている。腕にも顔にも、焼却炉のゴミ袋を漁った跡がついている。髪は乱れ、汗で張りついた前髪の下の顔は紅潮している。全力で走った疲労で膝が僅かに震えている。

 

優雅さなど、どこにもなかった。

 

なのに——

 

ミステイクの目に映るあんなの姿が、ゆらりと揺れた。

 

重なっている。泥だらけのあんなの姿の向こうに——あの人の姿が。

 

憧れの、名探偵。

 

人々の注目を一身に集め、その推理には誰もが平伏する。完璧で、気高く、優雅で——

 

目の前の存在は、その対極にいるはずだった。泥臭くて、不格好で、論理よりも感情で動いて、みっともなく駆けずり回って。

 

なのに。

 

あんなの中に、あの名探偵の姿が見える。オーバーラップするように——記憶の中の姿と、目の前の少女の姿が重なる。どんな事件にも諦めずに立ち向かう。依頼人の大切なものを守るために、自分の身を顧みずに走る。その在り方が——

 

「な、なに……何なの、これは……」

 

ミステイクが後ずさった。

 

「ち、違う……こんなものは……」

 

頭を抱えた。爪が額に食い込むほど強く。

 

「……何もかも、何もかもが間違っている!」

 

「みくる!」

 

あんなが声を上げ、手を伸ばそうとしたが、それよりも早く。

 

ミステイクが己の迷いを振り払うかのように腕を降ろし、赤いオーラが周囲に噴出した。

 

空間が歪む。

 

練習室の壁が、天井が、床が——赤黒い色に包まれる。現実の色彩が溶け落ちるように消えていき、歪んだ世界が構築されていく。密室空間。ミステイクの力が生み出す、閉じた世界。

 

団員たちの姿が消えた。岡田も、根岸も、藤原も、相川も——全ての人間が、一人残らず。歪んだ色を映し出す練習室に残されたのは、ミステイクとあんな、そしてポチタンだけだった。

 

あんなの腕の中で、楽譜が赤い光に包まれた。光が膨らみ、楽譜の姿が消えた。

 

「楽譜が!」

 

あんなは空になった両腕を見下ろした。必死に探し出した楽譜。焼却炉の寸前で救い出した楽譜。それが跡形もない。

 

ミステイクは片手を額に当てたまま、苦悩の表情を浮かべていた。

 

「私は……名探偵に、なる…………ち、違う! 私は、名探偵なのよ……!」

 

自分に言い聞かせるような声だった。自分自身を説得しようとする、切迫した声。

 

「あの人のように……賞賛されて……どんな事件も解決できる……!」

 

ミステイクのポーチからフェイクキュアウォッチが浮かび上がり、マガイジュエルに一筋のヒビが入った。ミステイクはその事に気付いてもいない様子で、視線が虚空を泳いでいる。

 

あんなの脳裏に、みくるの姿が浮かび上がった。嘘で覆われた姿ではない、本当のみくる。

 

苦悩の表情を浮かべている。

 

あんなはその表情を知っていた。初めて会った時。初めて二人で事件に挑んだ時。あの時もみくるはこんな顔をしていた。事件を解決できない。名探偵になんてなれない。自分には無理だ。一歩を踏み出す事を恐れていた。

 

みくるの名探偵への想い。

 

それは夢であると同時に、呪いでもあった。届かないほど高い場所に掲げた理想が、一歩進むたびに自分の不足を突きつけてくる。今日だって、楽譜が見つからないという壁にぶつかった時、みくるを追い詰めたのは敵ではなく、みくる自身の「名探偵でなければならない」という枷だった。

 

そして。あんなは分かっていた。今のみくるの苦悩が、自分のせいでもある事を。

 

天文台の一件。自分が真実の重さに傷ついた事で、みくるは己を責めた。あの時から、みくるはずっと無理をしていた。分かっていたはずなのに、あんなにはどうする事も出来なかった。

 

「みくるの心と——向き合わないと」

 

あんなは呟いた。

 

胸元のペンダントが、光を放つ。

 

白い。純白の輝き。歪んだ密室空間の中で、その光だけが真っ直ぐだった。ペンダントの形が変わっていく。ジュエルキュアウォッチ。

 

あんなは出現したマコトジュエルをジュエルキュアウォッチにセットし、そして叫ぶ。

 

「プリキュア、メイクアップタイム!」

 

ウォッチの針に指を添え、回す。

 

「サン!」「ロク!」「キュー!」長針を順番に回していき、最後に一回転。光の空間で、あんなの全身が変化していく。

 

光が弾けた。

 

「どんな謎でもはなまる解決! 名探偵、キュアアンサー!」

 

キュアアンサーは、まっすぐにミステイクを見据えた。

 

「わたしの答え、見せてあげる!」

 

 

---

 

 

ミステイクは腕を降ろしていた。

 

不快そうな表情はそのままだったが、何かが変わっていた。目の奥にあった焦燥が消え、代わりに冷たい確信が宿っている。ミステイクの中で結論が出たのだ。歪んだ結論が。

 

「そうよ……簡単なロジックだわ。邪魔な推理も証拠も、全部消してしまえばいい……」

 

ミステイクの手がファントムライトを掲げた。深紅の光が足元を照らす。赤い靄がミステイクの足元から立ち上った。つま先から、膝から、腰から——靄が全身を覆っていく。輪郭が揺らぎ、透明に溶けていく。前回と同じだ。

 

「そうはさせない!」

 

アンサーが叫んだ。

 

「オープン! プリキットミラールーペ!」

 

手の中のミラールーペが本来のサイズに展開した。ミラー部を開き、レンズをかざす。透明なレンズ越しに、消えかかったミステイクの姿を捉えた。

 

霧が朝日に溶かされるように、ミステイクの輪郭が鮮明さを取り戻していく。消えかかっていた姿が、くっきりと歪んだ空間に刻まれ直した。

 

「くっ!」ミステイクが顔を歪めた。

 

前回のようにはいかない。あの時は姿を消す能力で苦しめられたが、今回は……

 

「クローズ! ファントムミラールーペ!」

 

掛け声と共に、ミステイクの掌に何かが出現し、アンサーは思わずミラールーペを下げる。

 

それはアンサーが持っているのと同じ、ミラールーペだった。しかし色が違う。黒いボディ。鏡面を覆う紫の光沢。前回、ライアンサーが使ったものと同じ。嘘の力で染まったミラールーペ。

 

「名探偵の道具……私にこそふさわしい!」

 

ミステイクがファントムミラールーペを掲げた。赤黒い光が噴き出し、ミラールーペの先端からエネルギーの刃が伸びていく。光が収束し、形を成す。ファントムミラールーペが、レイピアへと変貌した。

 

更にそれだけでは終わらなかった。ミステイクはミラー部を自分自身に向ける。

 

鏡面に、不敵な笑みを浮かべるミステイクの姿が映る。その鏡面が、怪しい光を放った。

 

ミステイクの隣に、赤い光の輪郭が浮かび上がった。人の形をした光が凝縮し、色を帯び、ディテールを得て——ミステイクと全く同じ姿で固定された。

 

「なっ」アンサーが思わず声を上げる。

 

二体目。三体目。次々と光の輪郭が形作られ、ミステイクの姿が増殖していく。部屋の中に同じ顔、同じ姿の少女たちが並んでいく。

 

プリキットミラールーペには物体の複製機能がある。だが生物のコピーは不可能なはずだ。これだけの数を一度に生み出す事も、本来は出来ない。嘘の力が、ミラールーペの機能を歪めて拡張している。

 

最終的に、十三体のミステイクが、偽りの練習室に並び立った。同じツインテール、同じマスク、同じ赤い目——十三対の目がアンサーを見つめている。

 

「さあ……」

 

一体目が口を開いた。

 

「あなたに」

 

二体目が続けた。

 

「真相が解き明かせるかしら?」

 

三体目が締めくくった。

 

バラバラに発せられた言葉が一つの問いかけを形成する。そして十三体の内の数体が一斉にアンサーに向かって走り出した。

 

アンサーはミラールーペから刃を生成した。光のエネルギーが収束し、剣の形を取る。

 

一体目のミステイクが斬りかかってきた。レイピアの鋭い斬撃。アンサーは剣でそれを受け止め、弾き返した。光と光が反発する高い音が響く。

 

二体目が横から襲い掛かる。アンサーは身を翻し、横薙ぎに剣を振るった。

 

刃がミステイクの胴を捉え、その身体が、両断された。

 

アンサーは一瞬ぎょっとした。しかし、斬られたミステイクの身体は血も流さず、揺らめいて光の粒子に分解され消える。

 

幻だ。ミラールーペが作り出した偽物。

 

アンサーは一瞬安堵するが、次の瞬間には背後から鋭い衝撃が走った。

 

「くっ……!」

 

別のミステイクのレイピアがアンサーの背を捉えていた。前のめりによろけながらも、ミラールーペのミラー部を展開した。レンズをかざし、近くのミステイクを映す。

 

レンズの中のミステイクの姿が揺らめいた。輪郭が崩れ、色が抜け、消えた。偽物。次のミステイクも同様に消える。その次も。

 

しかし、レンズで一体を暴いている間に背後はがら空きになる。鋭い衝撃が肩を走った。振り返りざまにミラールーペの刃を振るい、そのミステイクを切り裂く。消滅する。

 

気づけば練習室の中央で、無数のミステイクに囲まれていた。何体かは消したはずなのに、数が減っていない。消した端から新しい分身が生まれている。

 

 

【挿絵表示】

 

 

包囲するミステイクたちが、それぞれ口を開いた。

 

「私は天才探偵」

 

目の前のミステイクが。

 

「天才探偵はどんな真相だって作り出す事が出来る!」

 

背後のミステイクが。

 

「証拠がないなら作ればいい」

 

右手側のミステイクが。

 

「犯人がいないなら指名すればいい」

 

視界の端に映るミステイクが。

 

「それが名探偵の力!」

 

声が四方から降り注ぐ。同じ声が微妙にずれて重なり、反響のように空間を埋め尽くしていく。

 

一体のミステイクが、一歩前に出た。

 

「今度はあなたを——犯人に指名してあげましょうか!?」

 

その声を合図に、包囲するミステイクが一斉に動いた。

 

アンサーは囲みの一角に向かって走った。立ちふさがるミステイクに剣を叩き込む。幻の身体が砕け散る。その残光が消える前に次を切り裂き、扉に手をかけ、廊下に飛び出した。

 

背後から”ミステイクの群れ”が殺到してくる。

 

しかし練習室の広い空間と違い、廊下は狭い。幾ら数が多くとも、正面から向かってこられるのは一体か二体が限度だ。これは直感的な行動だったが、廊下でなら、一体一体相手に出来る。

 

「所詮素人の浅知恵ね」

 

一体目が走り込んできた。アンサーはミラールーペの刃で斬り伏せる。

 

「あなたを追い詰めるための証拠や証言は」

 

二体目。正面からの打ち込みを受け止め、鍔迫り合いになる。力で弾き返し、よろけた相手をレンズで捉え消滅させる。

 

「いくらでも作り出せるわ!」

 

三体目。フェイントからの鋭い突きが肩をかすめた。痛みが走る。怯まず踏み込み、反撃で斬る。

 

次から次へと襲い掛かるミステイクの幻影を迎え撃つ。分身だからだろうか、一体一体のダメージは小さい。しかし確実に蓄積していく。腕が重くなる。呼吸が乱れる。足が鈍くなる。

 

そして、ミステイクの群れは途切れる気配がない。

 

少しずつ後退していく。大きく弾かれてステップで距離を取り、体勢を立て直し、また押される。それを繰り返すうちに、自販機スペースまで後退していた。

 

廊下の入口をキープしようとした。しかし一体の猛攻を受けて押し込まれてしまい、隙間が空いた瞬間にミステイクたちがなだれ込んできた。

 

再び囲まれる。波状攻撃。前から、横から、後ろから。反撃で幻を消す。大きく横薙ぎに振って数体まとめて切り裂く。しかしどれも偽物。本物の手応えがない。

 

大振りの隙を狙われた。レイピアの切っ先が胸を捉え、アンサーは床に叩きつけられた。

 

天井が見えた。歪んだ天井。そして、十二体のミステイクが見下ろしている。

 

追撃のレイピアが振り下ろされる。倒れたまま蹴り上げ、ミステイクを弾き飛ばして消滅させる。蹴り上げた脚を振り下ろし、その勢いで立ち上がる。一瞬生まれた空間を突いて包囲を抜けようとした。しかしミステイクの囲いは素早く詰まり、壁際に背をつける事が精一杯だった。

 

数が減らない。変わらず十二体が、弧を描いて取り囲んでいる。

 

このままではじり貧だ。幻をいくら消しても終わらない。本体に攻撃しなければ——

 

そう考えた時、アンサーの思考に何かが引っかかった。目の前の光景に対する違和感。

 

「まさか……」

 

「さあ……名探偵の力の前に跪きなさい!」

 

一体のミステイクが宣言すると、取り囲むミステイクたちが次々と襲い掛かった。

 

アンサーは剣を構え、殺到する攻撃を受け止めた。一撃。二撃。三撃。防ぎきれない攻撃が肩に、脇腹に入る。痛みが走る。

 

最後に飛び込んできた一体をなんとか迎撃し、消滅させた。

 

「ふふ……いくらやった所で無駄よ」

 

ミステイクの一体が嘲笑したが、アンサーはその声には関心を向けなかった。視線が素早く周囲を確認していた。攻撃は続いていたが、ダメージを受けても気にせず周囲の確認だけに集中する。

 

ミステイクの分身が、新たに具現化した。光が凝集し、輪郭が形作られ、一体のミステイクが出現する。

 

アンサーは見逃さなかった。その光が生まれた空中の一点。

 

「そこだっ!」

 

アンサーはミラールーペの剣を勢いよく投げ飛ばす。

 

剣が回転しながら飛翔し、軌道上にいたミステイクの幻影を切り裂き、何もないはずの空間で、ガキンと、硬い、確かな手応えの音を発する。

 

アンサーの剣が弾かれて回転し、床に突き刺さった。

 

同時に、反対方向へ、赤黒い剣が弾き飛ばされた。何もない空間から出現したファントムミラールーペのレイピアが宙を舞い、壁に突き刺さる。

 

周囲のミステイクたちが一斉に揺らめいた。色が抜け、輪郭が崩れ、十二体全てが光の粒子となって消滅していく。

 

そして、剣がぶつかった場所の空間が揺らめいた。

 

透明だったものに色が戻る。ファントムライトの隠蔽が剥がれ落ち、本物のミステイクが、そこに現れた。

 

右腕が震えている。姿を消していた油断のために、投げつけられた剣の衝撃をまともに食らったのだ。ファントムミラールーペが手から弾かれた事で能力が解除され、全ての分身が消えた。

 

「ぐ……わ、私の……分身が……」

 

アンサーの思考に生まれた違和感。目の前には十二体のミステイク。自販機スペースで最初に倒れた時も、壁際に追い詰められた時も、アンサーを囲んでいたのは常に十二体だった。それ以上は増えず、減らない。つまりそれが分身の最大数。

 

しかし、最初に分身を生み出した時、練習室に並んだのは十三体だった。つまり最初の十三体の中には本体がいたが、それ以降は本体は戦闘に参加していなかった。ファントムライトで姿を消し、安全な位置から分身だけを操って攻撃させていたのだ。

 

だが分身を新たに生み出す時、本体はその近くにいなければならない。光が生み出される一点——それが、見えない本体の位置を示す目印だった。

 

「こんの……素人探偵がっ!」

 

ミステイクが壁に突き刺さったファントムミラールーペに向かって走った。

 

アンサーも既に動いている。床に突き刺さった剣に飛びつき、引き抜く。

 

「ポチタン!」アンサーの合図と共に、ポチタンが「ポチィ!」と飛び出す。

 

ポチタンのペンダントから飛び出したマコトジュエルを、ミラールーペにセットする。中央の宝石部に指を添え、回転させていく。光が増幅し、鏡面にアンサーの顔が映し出された。

 

「キュアアンサーが解決!」

 

跳躍した。光を纏った剣を頭上に掲げ、ミステイクに向かって落下する。

 

「プリキュア! アンサーはなまるソード!」

 

壁からファントムミラールーペを引き抜いたミステイクが、振り返りざまに閃光を放つ突きを繰り出した。

 

「ミスリードストライク!」

 

振り下ろされる刃と、鋭い切っ先が正面から激突する。

 

光が爆ぜた。真実の力と嘘の力が反発し、衝撃波が歪んだ空間を揺さぶった。二つの刃が押し合い、火花のような光の粒が四方に撒き散らされる。

 

「私は……」

 

鍔迫り合いの向こうで、ミステイクが声を絞り出している。

 

「私に間違いなどない……名探偵は失敗などしない!」

 

声が震えていた。

 

「私は……私は、名探偵なのよっ!」

 

その叫びはもう冷徹な名探偵のものではなかった。駄々っ子のように。泣きじゃくる子供のように。名探偵になりたかった少女の、剥き出しの慟哭だった。

 

アンサーはその声に胸が痛んだ。

 

これは、みくるの苦悩だ。名探偵になりたいという夢が、この苦悩を生んでいる。

 

(これは、みくるの苦悩。……でも、この姿は、本当のみくるじゃない!)

 

「はああああああああっ!」

 

全身の力と想いを刃に込める。

 

ファントムミラールーペのレイピアの切っ先が砕け、オーラで形成された刃が先端から亀裂を走らせ、ガラス細工のように粉々に崩れていく。

 

はなまるソードの刃が突き進み、そして一閃。

 

ミステイクの身体を通り抜け、アンサーはその背後に着地した。

 

「キュアット解決!」

 

宙に残っていた刃の軌跡が、光の線が弧を描き、花丸マークを形作った。同時に地面から吹き出す光がミステイクの身体を包み込んでいく。

 

「あ——ああああああっ!」

 

ミステイクが叫び。赤黒い衣装が光に溶けていく。ツインテールが解け、マスクが剥がれ、フェイクキュアウォッチの紛い物の姿が剥がれ落ち、偽りの姿が一枚ずつめくれ落ちていく。

 

そして光の中から小林みくるの本来の姿が現れた。

 

意識を失った少女が、ゆっくりと膝を折り、倒れ込んでいく。

 

「みくる!」

 

アンサーが一歩踏み出した。

 

その瞬間、疲労が一気に噴き出し全身を襲った。がくりと膝が落ちる。アンサーの身体が光に包まれ、変身が解けていく。紫の髪と衣装が消え、汚れだらけの姿の、明智あんなの姿に戻った。

 

あんなはほとんど倒れ込むようにして、みくるの身体に手を伸ばした。両腕で抱き止める。

 

二人とも、心も身体も限界だった。けれど——ようやく。

 

事件は、解決した。

 

歪んだ空間にヒビが入る。赤黒い色彩がヒビ割れ、その隙間から現実の白い光が差し込んでくる。嘘で塗り固められた世界が、ばらばらに砕けていく。

 

 

---

 

 

全てが終わって。

 

施設の利用時間の終了を告げる館内放送が流れた時、まことみらいハーモニーの団員たちはエントランスに集まっていた。

 

根岸副団長が連絡を取っていた元団員の女性、中西も合流していた。古い仲間たちと笑顔で言葉を交わしている。岡田団長はその輪の中心にいて、照れくさそうに、しかし嬉しそうに周囲の声を受け止めていた。

 

「十年ですよ、団長。十年」

 

「まだまだこれからですよ」

 

和やかな空気がエントランスに満ちていた。この後、根岸が手配した祝賀パーティの会場に向かうらしい。

 

あんなとみくるは、その輪から少し離れた場所に立って様子を見守っている。

 

岡田が周囲に一言断りを入れてから、二人のもとに歩いてきた。その手には、あんなが取り戻した楽譜が、大切そうに抱えられていた。

 

「ありがとう。君たちのおかげで、憂いなく皆に祝ってもらえるよ」

 

岡田は楽譜を少し持ち上げて見せた。温厚な顔に、深い感謝の色が浮かんでいる。

 

「あっ、はい」

 

あんなが少しぎこちなく答えた。感謝を、どこか素直に受け止めきれない。

 

みくるは複雑な表情のまま、何も言えないでいた。

 

岡田は頷いて、団員たちの輪に戻っていった。楽譜を胸に抱いて。

 

 

---

 

 

エントランスの片隅。チラシのラックと、忘れ物ボックスが並んだ机のそば。様々な誤解が交差した場所。そこに二人立っている。

 

みくるが、ぽつりと口を開いた。

 

「また……私、無実の人を犯人にしそうになってたんだね」

 

声は小さかったが、後悔が、一語一語に滲んでいた。

 

「みくる……」

 

あんなの表情も苦しそうだった。

 

みくるは顔を上げた。目が少し赤くなっている。

 

「本当に、ありがとう。あんなが居てくれなかったら、私……」

 

言葉の先は、声にならなかった。もし、あんながいなかったら。根岸は犯人にされていた。楽譜は焼却炉で灰になっていた。そして自分は——自分が何をしたのかも知らないまま、偽りの「解決」を手にしていた。

 

「それは、わたしもだよ」あんなは首を横に振った。「それに……」

 

あんなの声が、少し震えた。

 

「わたしのせいで、みくるが苦しんでたのも……分かるから」

 

天文台の事件。あの事件が終わってから、二人ともどこかぎくしゃくしていた。あんなは自分を責め、そんなあんなを見てみくるは自分を責めた。それが今回の事件の歪みを生んだ一因でもある。

 

みくるが何かを言おうとして口が動いた。しかし言葉にならなかった。

 

必死な想いが今回の事件で多くの間違いを生んだ。それを簡単に飲み込む事は今のみくるには出来ない。

 

今はただ、あんなの言葉を噛みしめる。

 

二人の間に、沈黙が落ちた。痛みを伴う沈黙だったが、それは二人の間の壁ではなかった。同じ痛みを、それぞれの側から感じている。そういう沈黙だった。

 

 

---

 

 

団員たちの笑い声が、エントランスに響く。

 

事件は全て丸く収まった。楽譜は戻り、犯人はいなかった。偶然が重なっただけの出来事に、悪意は存在しなかった。岡田団長は笑顔で祝福を受け、根岸副団長のサプライズは無事に明かされ、元団員との再会も果たされた。

 

全てが丸く収まった——ように見えた。

 

団員たちの輪の中に、根岸孝夫の姿があった。笑顔を浮かべる皆と共に岡田を囲っている。

 

しかし。

 

根岸は、どこか一歩引いたような立ち位置にいる。そして、その表情に僅かな陰りがある事に、その場の誰も気づかなかった。

 

 

---

 

 

怪盗団ファントムのアジト。

 

暗い劇場を模した空間に、五つの影が揃っていた。

 

舞台の最奥、巨大な幕に映し出されていた映像を、ウソノワールがオペラグラスを掲げて見つめていた。偽りのプリキュアと真実のプリキュアが刃を交える光景。赤黒いオーラと紫の光がぶつかり合う。やがて——浄化の光がミステイクの姿を解き、偽りの衣装が剥がれ落ちていく。全てが丸く収まった施設のエントランス。

 

映像が途切れた。赤いビロードの布は本来の色に戻り、劇場が静寂に包まれる。

 

ウソノワールがオペラグラスを下ろした。仮面に覆われた顔から、感情は読めない。

 

静寂の中、最初に声を上げたのはニジーだった。

 

客席に相当する自分の定位置から、身を乗り出すようにしてウソノワールを見上げた。ウソノワールに心酔し、その命令ならばどんな任務でも厭わないニジー。しかし今、その声には明確な抗議の意図が含まれていた。

 

「ウソノワール様! 何故私にマコトジュエルを奪うよう命じてくださらなかったのですか!」

 

シルクハットの下で、ニジーの目が揺れている。マコトジュエルの予言は出ていた。なのにウソノワールは動くなと指示を出し、怪盗団はただ指をくわえて見ているだけだったのだ。

 

珍しく、アゲセーヌがニジーに同調した。

 

「そうそう~、アゲに任せてくれちゃったら、確実にマコトジュエルを盗って来たのにぃ~」

 

軽い調子ではあったが、不満は本物らしかった。つま先でとんとんと床を叩きながら、頬を膨らませている。

 

ゴウエモンは何も言わなかった。腕を組み、目を閉じたまま壁に寄りかかっている。しかしその沈黙は同意の沈黙ではなく、ウソノワールが指示を出さなかった事に、何か思う所がある様子だった。

 

ウソノワールの仮面が、ゆっくりと動く。

 

舞台全体を見下ろすように。客席の端から端まで、その仮面の視線が、一人一人の配下を舐めるように通り過ぎた。

 

鋭い緊張が走る。

 

ニジーの口が閉じた。アゲセーヌの足が止まった。ゴウエモンの組んだ腕に僅かに力が入った。言葉はなかったが、仮面が向けられただけで、この空間の支配者が誰であるかを、全員の身体が思い出した。

 

ウソノワールの視線が、書見台の上の書物に移る。未来自由(ミラージュ)の書。

 

開かれたページに記された予言の文字を、ウソノワールは朗々と読み上げた。

 

「声集いし館にて 亡き師の遺せし 一葉の調べ 光を宿す」

 

マコトジュエルを宿す楽譜の情報。合唱の声が集う施設。亡き前団長が遺した手書きの楽譜。予言はマコトジュエルの在り処を指し示している。

 

しかしそこには、更なる文が付け加わっていた。

 

「されど これを求めて 真実を追う者 己が檻に囚われ 出口を見失わん」

 

ウソノワールの仮面の奥で、声が響いた。

 

「思った通りだ」声には満足の色が滲んでいる。

 

「探偵は己が道を見失い——嘘の力に引き寄せられた」

 

ニジーはそれを聞いてもなお、納得しきれない様子だった。

 

「しかし、結局マコトジュエルは回収されてしまい……」

 

ウソノワールの仮面がニジーに向けられると、ニジーの抗議の声は途切れた。

 

仮面で覆われた表情は分からない。怒っているのか、呆れているのか、笑っているのか。何も読めない。しかし——その仮面の視線を向けられるだけで、凄まじい威圧感が空間を満たした。

 

ニジーはそれ以上何も言えず、椅子に座り直した。背筋が伸び、顎が引かれる。

 

ニジーの言葉に同意して首を縦に振っていたアゲセーヌも、身体を縮こまらせて口を閉じた。

 

静寂が戻った劇場の中で、ウソノワールが立ち上がった。まるで自らが演者であるかのように。舞台の中央に歩み出るように。その声が、劇場全体に響いた。

 

「嘘とは、種なのだ」

 

一語一語が、空間に刻まれていく。

 

「一つの嘘は、更なる嘘を生む」

 

マントの裾が揺れた。

 

「己の心の偽りに気づいた者は、真実に目を向けられなくなる」

 

ウソノワールの仮面が、舞台幕を見つめた。その向こうに——もう映し出されていない二人の少女の姿を見ているかのように。

 

「あの二人に植え付けられた嘘の種は、やがて」

 

仮面の下で、声が低く響いた。

 

「芽吹く時が来る」

 

ニジーは首を傾げていた。アゲセーヌも同様に理解していない様子だ。「種ぇ~?」と小さく呟いたが、それ以上の理解には至っていない。

 

ゴウエモンは目を開けてウソノワールを見つめていたが、やがて再び目を閉じた。

 

三人の配下は、主の言葉の真意を掴めないまま、それぞれの場所に佇んでいた。

 

ただ一人。その真意を探る者がいた。

 

自身の席に座るるるかの表情はいつもの無感情な仮面に覆われていたが、その目だけが違った。

 

ウソノワールの言葉の真意を鋭く見ていた。

 

ウソノワールの言葉の意味。そして、これから名探偵プリキュアの二人に待ち構えているものを、彼女は……かつての名探偵は、見抜いているのかもしれなかった。

 

 

---

 

 

チャリリン。と、キュアット探偵事務所の扉についた小さな鈴が、澄んだ音を立てた。

 

扉を開けて入ってきたのはみくるだった。

 

「みくる、どこに行ってたの?」

 

あんなが部屋の中から出迎える。宙に浮かぶポチタンも「ポチィ?」と首を傾げている。みくるが一人で出かけていた事に、二人とも少し心配していたらしい。

 

みくるの表情は暗かった。

 

「……岡田さんに、会いに行ってたの」

 

あんなが首を傾げた。「岡田さんって……まことみらいハーモニーの団長さん?」

 

楽譜の消失事件。あの一件から、一週間ほどが経っていた。

 

みくるは黙ったままソファに歩いていき、腰を下ろした。あんなは小テーブルを挟んだ反対側のソファに座った。ポチタンがあんなの膝にそっと降りてくる。

 

沈黙が落ちた。みくるは俯いたまま、言葉を口に出す事を恐れているかのように、長い間、躊躇していた。

 

そして。

 

「根岸副団長、合唱団を辞めたんだって」

 

「えっ!?」あんなが思わず腰を浮かせた。

 

「どうして……最後はみんな、あんなに明るかったのに……」

 

あの日のエントランスの光景が蘇った。笑い声。祝福の言葉。岡田団長を囲む和やかな輪。根岸もその中にいたはずなのに。

 

みくるが服の下のホルダーから一つのアイテム……ジェットの姿を象った通信アイテム、プリキットボイスメモを取り出し、自分の前のテーブルの上に置いた。

 

「……ファントムボイスメモ」

 

声が震えた。

 

「本来は存在しない、根岸副団長の恨みの声を——」

 

みくるの表情が歪んだ。偽りの自分の姿の記憶を思い出しているのだ。マスクの奥から冷たい目で根岸を見下ろし、捏造された音声を再生した、あの瞬間。

 

「——ミステイクが……いや、私が作って、皆に聞かせた。そのせいで」

 

あんなはソファに座り直した。

 

「でも、嘘の証拠は消えたはずじゃ……」

 

ミステイクが浄化され、嘘の力が消えた結果、ファントムライトの指紋や、植え付けられた「名探偵ミス・テイク」の記憶は消えたはずだ。団員たちの目に赤い光を宿した、あの偽りの力は残っていないはず。これまでもそうだったのだから。

 

「岡田さんが話してる時に、言ってたの」

 

みくるの声が低くなる。

 

「『私に不満があるだなんて、あんな言葉、信じてないのに』って」

 

岡田の言葉を再現するその内容に、あんなの息が詰まった。

 

「それって……」

 

「指紋の証拠は消えたかもしれない。でも」

 

みくるの手が、テーブルの上のボイスメモに触れた。指先が微かに震えている。

 

「ファントムボイスメモで流された根岸副団長の偽の言葉。あれを聞いたという事実は、消えてなかったんだ……」

 

練習室で再生された声。「前から団長には不満があったんだ」「あんな楽譜にいつまでもこだわって」「こっちの言い分なんて聞こうともしない!」——実際には根岸が言ってもいない、怒りに満ちた声。

 

「ミステイクの嘘の力が強まっていたから」

 

みくるの声は苦しそうだった。

 

「私が……嘘の力の誘惑に、負けたから」

 

あんなは何か言おうとして、言葉が見つからなかった。そのままみくるが続ける。

 

「根岸副団長は……嘘であっても、あの不満の声が皆に聞かれたせいで、いたたまれない気持ちになったんだと思う」

 

俯いたまま、言葉を一つずつ絞り出していく。

 

「岡田さんは気にしてないって言ってくれても。他の団員全員がどう思っているかなんて、分からない。皆の視線を感じて。本当は疑ってるんじゃないかって、想像して。それで……」

 

「みくる」あんなが口を開いた。みくるの言葉を止めようとする。

 

「そんなの、本当はどうだったかなんて、分からないよ!」

 

声に力を込めた。根岸が辞めた理由は、あの事件だけが原因とは限らない。他にも事情があったのかもしれない。もしかしたら、前から考えていた事なのかもしれない。

 

そう想像して、自分で発した言葉に説得力がない事を、あんなは感じていた。

 

団長を祝おうとサプライズパーティを企画し、プレゼントを準備し、元団員にまで声をかけていた副団長が。十年の節目を皆で祝おうとしていた人間が。急にこのタイミングで辞めるなんて。

 

そのきっかけがあるとしたら——

 

「探偵として……取り返しのつかない事をしちゃった……」

 

みくるの声が掠れていた。

 

あんなはソファの上で身を乗り出す。

 

「あれは……みくるじゃなかったんだよ。みくるがやった事じゃない」

 

ミステイクだ。嘘の力に歪められた姿だ。みくるの意思じゃない。

 

あんなのその主張に、みくるはゆっくりと頭を振った。

 

「私は、あの事件で、ずっと必死だった。事件を解決しなきゃ。解決できなかったら、依頼人の役に立てないんだったら、名探偵なんかじゃないって——焦ってた」

 

膝の上で、手を握り締める。

 

「存在しもしない犯人を、必死になって捜してた」

 

少しの間。

 

「……もし、キュアミステイクにならなかったとしても」

 

みくるの声は、もうほとんど聞こえないほど小さかった。

 

「無実の人を——犯人だって、言っていたかもしれない」

 

「そんな……そんな事、みくるがそんな事するはずないよ!」

 

あんなは言い切った。信じている。みくるはそんな人間じゃない。

 

しかしみくるは、もう何も答えなかった。否定も、肯定もせず、ただ俯いたまま、沈黙していた。

 

テーブルの上のプリキットボイスメモが、蛍光灯の光を受けて静かに光っていた。あんなの言葉が部屋の空気に溶けて消え、沈黙だけが残った。

 

あんなに続いて——みくるにも。

 

明確な傷が一つ、深く、刻まれた。

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