名解盗プリキュア!   作:おとともの

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第18話?「嘘と過ち、名解盗プリキュア誕生」

カーテンの隙間から漏れる朝の光が、薄い筋になって天井を横切っている。

 

あんなの意識がまどろみから浮上したのは、温もりの不在からだった。

 

いつもなら隣にあるはずの、小さくて柔らかい感触。眠りの中でも無意識に感じ取っていたその温もりが、今朝はどこにもない。

 

「ポチタン……?」

 

掠れた声で名前を呼びながら、あんなは顔を起こした。枕元を手で探る。シーツの上を、ベッドの端を。指先に触れるのは布の感触ばかりで、ピンク色の小さな身体はどこにもなかった。

 

身体を起こして部屋を見回す。窓際のカーテンが朝風にかすかに揺れている。デスクの上も、椅子の座面も、部屋の隅も。ポチタンの姿はなかった。

 

あんなはベッドから降り、部屋の扉を開けた。

 

キュアット探偵事務所の離れの居住エリア。向かいの扉はみくるの部屋だ。まだこの時間なら寝ているだろうか。夜の間にポチタンがみくるの部屋に移動したとは考えづらい――ポチタンはいつも、あんなの隣で丸くなって眠りにつく。それが二人の当たり前で、あんなにとっては一日の終わりに安心を確かめる大切な時間でもあった。

 

足音を忍ばせて廊下を進み、豪華な庭を通り抜ける。本館の事務室兼客間――普段あんなとみくる、ジェット、ポチタンの四人が集まる場所に、人の気配はなかった。壁一面の地図とメモ書きが、朝の薄い光の中で静かに佇んでいる。

 

玄関に手をかけると、鍵が開いていた。

 

まさか、外に? あんなは靴を履き、扉を押し開けて外へ足を踏み出した。

 

早朝のまことみらい市は、まだ眠りの中にあった。通りに人の姿はなく、商店のシャッターは下りたまま。夜の余韻を残す空気が冷たく頬に触れ、どこか遠くで鳥の声がする以外は、あんなの足音だけが路面に響いている。

 

普段であれば、隣にみくるがいる。肩からはポチタンがぶら下がっている。三人の足音と声で、どんな通りも賑やかになる。けれど今、あんなの周りには誰もいなかった。

 

――寂しい、と思った。

 

その感情を認めた瞬間、普段は押し込めている気持ちが、水面に浮かぶ泡のように一つ、また一つと上がってきた。自分は、ここに居るべき人間ではない。

 

2027年の未来からやって来た人間。この1999年という時代にとって、存在しないはずの人間。みくると一緒にいる時は気にならない。事件を追いかけている時も、ポチタンを抱きしめている時も。けれど、こうして一人きりで立ち止まると、足元の地面が自分のものではないような居心地の悪さが、いつも静かに這い上がってくる。

 

――ここに居るのに、居ない。

 

あんなは歩きながら、記憶の中の姿を思い浮かべた。……お母さん。

 

朝、玄関で「いってらっしゃい」と送り出してくれる笑顔。通学路の桜並木。マコトミライタウンの高層ビルの間を抜ける風。瞼の裏にはっきりと浮かぶのに、手を伸ばしても届かない。触れようとすると、指の先をすり抜けていく。

 

このまま、この時代に居続けたら。心に刻まれたあの笑顔さえも、少しずつ薄れて、やがて輪郭を失ってしまうのではないか。そんな想像が胸を締めつけて、あんなは記憶の中の母の姿を必死で手繰り寄せようとする。声を、匂いを、あの温かい手のひらの感触を。

 

けれど、やはり手は届かなかった。

 

記憶は鮮明なのに、そこに自分はいない。あの時間は、ここからでは触れられない場所にある。足を止めかけた、その時。

 

「ポチィ」

 

聞き慣れた声が、正面からわずかに響いた。

 

あんなが顔を上げると、朝の街並みを背景にして、ピンク色の小さな影がこちらに向かって飛んでくるのが見えた。小さな翼をぱたぱたと動かしながら、探偵事務所の方角へ戻ろうとしていたらしい。

 

「ポチタン!」

 

あんなが声を上げると、ポチタンも気づいた。小さな瞳がぱっと開いて、真っ直ぐにあんなの元へ飛んでくる。

 

「ポチィ!」

 

小さな身体が、あんなの胸に飛び込んできた。柔らかくて温かい、いつもの感触。あんなは両腕でポチタンを受け止め、ぎゅっと抱きしめた。

 

「ポチタン、どこに行ってたの? 心配したんだよ」

 

ポチタンは「ポチィ……」と浮かない声で鳴いた。何かを伝えたそうに、けれどうまく言葉にできないように、丸い瞳があんなを見上げている。

 

あんなはポチタンの頭をそっと撫でた。何があったのかは分からない。でも、こうして戻ってきてくれた。それだけで、先ほどまで胸に広がっていた冷たいものが、少しずつ溶けていくのを感じる。

 

「帰ろう、ポチタン」

 

元来た道を引き返す。ポチタンを胸に抱いて歩く足取りは、さっきよりずっと軽かった。

 

キュアット探偵事務所の玄関が見えてきた時、ちょうど扉が内側から開く。既に普段着に着替えていたみくるが、半ば駆けるようにして出てくる。あんなの姿を認めた瞬間、安堵と心配が入り混じった表情で駆け寄ってきた。

 

「あんな! どこ行ってたの、心配したんだから」

 

「ごめんごめん、ポチタンを探してて……」

 

あんなが腕の中のポチタンを見せると、みくるは不思議そうに目を瞬かせた。

 

「ポチタンが? 一人で外に出てたの?」

 

ポチタンに視線を向けるみくる。ポチタンは「ポチィ」と短く鳴いて、あんなの腕の中に顔を埋めた。

 

「なんだ、帰ってたのか。人騒がせだな、まったく……」

 

みくるに続いて、ジェットが玄関から姿を現した。ボサボサの金髪を片手で掻きながら、面倒くさそうに軽くあくびをしている。口では面倒そうに言いながら、着替えて外まで出てきたという事は――おそらく、みくると一緒にいなくなったあんな達を探しに行こうとしていたのだろう。

 

あんなの表情が、ほころんだ。

 

ポチタン。みくる。ジェット先輩。キュアット探偵事務所の、みんながいる。

 

先ほどまで胸の底に沈んでいた孤独感が、三人の顔を見た途端に薄らいでいった。ここに居るべきではない人間かもしれない。それでも今、自分の帰る場所はここにあって、待っていてくれる人がいる。その事実が、あんなの足元をそっと支えていた。

 

「二人とも、今日は例の日だろ? あんなも、早く着替えて来いよ」

 

ジェットの言葉に、あんなは一瞬きょとんとして、それから、はっと目を見開いた。

 

「ああ、そうだった!」

 

慌てた声を上げて、あんなは玄関に駆け込んでいく。ばたばたと廊下を走る足音が遠ざかっていった。みくるが小さく吹き出し、ジェットがやれやれと肩をすくめる。二人は顔を見合わせて、事務所の中に戻っていった。

 

---

 

「ジェット先輩! 行ってきます!」

 

着替えを済ませたあんなが、玄関先で元気よく声を上げた。隣にはみくる。あんなの肩からは、ストラップを伸ばしたポチタンがぶら下がっている。ぬいぐるみに見えるその姿で、ポチタンも小さく「ポチィ!」と鳴いた。

 

三人の声が重なって、朝の探偵事務所に響く。

 

「おう。気をつけてな」

 

ジェットは玄関に寄りかかり、片手を軽く上げて見送った。三人が並んで通りへ歩き出していく。その後ろ姿を、ジェットはしばらく見つめていた。最近はあまり見られなかった明るさが、その背中にはある。

 

嘘のプリキュア――キュアライアンサー、キュアミステイク。あの力に翻弄され、傷つき、傷つけられた記憶は、二人の中に深く残っている。事件が解決するたびに笑顔は戻るけれど、その笑顔のどこかに影が差していた。ふとした瞬間に黙り込むあんな。一人で考え込むみくる。そういう姿を、ジェットは何度も見ていた。

 

今朝の二人には、その影がまだ完全には消えていない。消えるようなものではないと、ジェットも分かっている。けれど、あの足取りの軽さは――少なくとも、前を向こうとしている証拠に見えた。

 

「二人とも、少しは元気になってくれるといいんだがな」

 

遠ざかっていく三つの背中を見送りながら、ジェットは呟いた。

 

期待と不安が入り混じる。いつもならキャンディの棒を弄ぶ指が、今朝は白衣のポケットの中で、静かに握られていた。

 

 

---

 

 

潮凪地区に近づくにつれ、空気が変わった。

 

商店街の喧騒が遠ざかり、車の往来も疎らになる。代わりに、微かな潮の香りが風に混じり始めた。建物の密度がまばらになり、空が広くなる。かつて漁業で栄えたこの一帯は、今は再開発の波を前にして、過去と未来の間で息を潜めているような静けさを湛えていた。

 

その建物が見えたのは、緩やかな坂を下りきった先だった。

 

漁協会館を改装したという潮凪港湾会館。白い外壁はところどころ潮風に晒された跡を残しているが、正面には真新しい立て看板が据えられ、「マコトミライタウン開発計画 住民説明展覧会」の文字が整然と並んでいる。

 

建物の後ろ側に、海が広がっていた。

 

会館の屋根の向こうに、水平線が一本の線を引いている。六月の陽光を受けて鈍く光る海面。港湾施設の名残である防波堤が海に向かって腕を伸ばし、その先で小さな灯台が白く佇んでいる。潮の匂いはここまで来るとはっきりと濃くなり、風が吹く度に二人の髪を揺らす。

 

あんなの肩にぶら下がったポチタンが、潮風に小さな翼をぱたぱたとはためかせた。

 

建物の前では、きっちりとスーツを着こなした男性が作業員に指示を出していた。施設内から運び出されたらしい備品が次々とトラックの荷台に積み込まれている。もう使われなくなったものを片付けているのか、あるいはこれから使うもののための場所を空けているのか。いずれにせよ、この場所が大きな変化の只中にあるのだという事を、その慌ただしさが物語っていた。

 

あんなとみくるは、立て看板の前で足を止める。

 

「……行こう」

 

みくるが小さく言って、先に歩き出す。あんなも頷いて、その隣に並んだ。

 

会館の中に一歩踏み入れると、外の寂れた佇まいとは打って変わった空間が広がっていた。壁面には開発計画の概要を記したパネルが整然と並び、地区の歴史を辿る写真や、再開発の意義を説く解説文が、来場者の視線を誘導するように配置されている。漁協会館としての歴史、地域経済の現状と活性化の展望、環境への配慮。丁寧に作り込まれた資料の一つ一つが、この計画の規模の大きさを伝えている。

 

休日という事もあってか、館内にはちらほらと来場者の姿があった。小さな子供の手を引いた親子連れが模型の前で立ち止まり、年配の夫婦が解説パネルを読み込んでいる。地元の住民だろうか、知り合い同士で立ち話をしている人々の声が、天井の高い空間にぼんやりと反響していた。

 

しかし、そうした展示の中で、一際目を引くものが一つ。

 

会場の中央に鎮座する大型のガラスケース。その中に収められた完成予想図の模型は、二人の足を釘付けにした。

 

海辺から都市部にかけて広がる広大なジオラマ。ウォーターフロントに並ぶ近代的な商業施設。内陸側にそびえる高層マンション群。整備された遊歩道と緑地帯。ミニチュアの街路樹が等間隔に植えられ、小さな人形たちが歩道を行き交っている。現在の潮凪地区の姿からは想像もつかない、洗練された都市の未来像がそこにある。

 

二人は模型の前に並んで立ち、しばらく言葉を失っていた。

 

みくるの胸に去来していたのは、不思議な感慨。目の前に広がるこの街並みは、まだ存在しない。これから何年もかけて、少しずつ形作られていく未来の姿。けれどこの模型の向こう側には――あんなが生まれ、育ち、暮らしていた時間がある。ガラスケースの中の精巧なミニチュアの一つ一つが、あんなにとっては見慣れた日常の景色なのだ。

 

一方のあんなが見つめていたのは、別のものだった。

 

未来ではない。あんなにとってこの模型が映し出しているのは、「これから来るもの」ではない。自分が居た場所。自分が暮らしていた街。通学路を歩き、友達と笑い、お母さんの「いってらっしゃい」を背中に受けて駆け出していた、あの日常。それが今、ガラスケースの向こうに、手のひらに収まるほどの大きさで横たわっている。

 

未来がここにある――のではなく、自分の"今"がここに閉じ込められている。そんな感覚だった。

 

「ここから……あんなの未来に繋がっていくんだね」

 

みくるがガラスケースに目を向けたまま、静かに言った。

 

「……うん」

 

あんなも模型を見つめたまま応える。声は穏やかだったけれど、その短い返事の中に、みくるにはすくい取れない何かが沈んでいた。しばらく二人の間に沈黙が流れる。周囲の来場者の話し声や、子供がはしゃぐ声が、遠い波の音のように聞こえている。

 

やがて、みくるが唇を開いた。

 

「約束……忘れてないから」

 

その言葉に「えっ?」とあんなが顔を上げる。

 

みくるはまだ模型の方を向いていた。その横顔には、何かを切り出す前の覚悟のようなものが滲んでいる。一拍の間を置いて、みくるはゆっくりとあんなに向き直った。

 

「私の最初の依頼人は、あんな。あんなを未来に返すのが……私の、探偵としての最初の依頼」

 

そこで、みくるの表情がわずかに曇った。視線が一瞬だけ揺れ、唇が結ばれる。

 

「私は……名探偵じゃないけど」

 

声がかすかに低くなる。嘘のプリキュアに変えられた記憶。無実の人間を犯人に仕立てかけた記憶。自分の推理に酔いしれ、真実を歪め、あんなを傷つけた記憶。それらが今もみくるの中に重く横たわっている事が、その短い沈黙から伝わってきた。

 

「でも、あんなを未来に返すって、最初の依頼……その約束だけは、絶対に守るから」

 

暗く、堅い表情だった。けれどその奥に、折れかけた何かを必死に握り直そうとする強さがあった。探偵としての自分に迷いながら、それでもこの一点だけは手放すまいとする決意が。

 

あんなは、そんなみくるの目を見つめていた。

 

今日この場所に来たのは、みくるの誘いだった。「潮凪地区で開発計画の説明展覧会やってるんだって」――そう切り出した時のみくるの声を、あんなは覚えている。いつもの落ち着いた口調ではなく、どこかぎこちなく、言葉を選ぶように。

 

これまでの戦いで、二人の間には小さな棘のようなものが残っていた。お互いを傷つけ、傷つけられた記憶。普段通りに振る舞おうとしても、ふとした瞬間に言葉が止まる。目が合って、すぐに逸らしてしまう。そういう事が、何度かあった。

 

その中で、みくるはこの場所にあんなを連れ出した。あんなの未来と繋がるこの場所へと。探偵としての迷いを抱えながら、それでも最初の約束を確かめるために。

 

あんなは、みくるの中にある苦悩と、自分に向けられた誠意を受け取って、笑った。そしてゆっくりと、首を横に振った。

 

「違うよ、みくる」

 

みくるの目が丸くなる。「えっ?」

 

「名探偵に、"なる"、だよ」

 

あんなはみくるを正面から見据えた。

 

「わたしもみくるも、今は名探偵じゃないかもしれない。でも、これからなっていけばいいんだよ、名探偵に」

 

声に迷いはなかった。お互いに、未熟な探偵。それでも力を合わせて前に進んでいこうという、みくるの誠実な想いに対する、あんなの誠実な答え。

 

「二人で、一緒に」

 

みくるの瞳が揺れた。強張っていた表情の輪郭が、少しずつほどけていく。堅く結ばれていた唇が緩み、眉の力が抜け、そしてみくるの顔に、笑顔が咲く。

 

「うん!」力強い頷きだった。さっきまでの暗さを振り払うような、前を向く意思を込めた声。

 

二人の間をすり抜けるようにして、ポチタンがふわりと浮かび上がった。あんなとみくるの顔を交互に見上げるポチタンを、あんなが優しく抱え上げる。

 

「ポチィ!」

 

その一声に三人の笑い声が重なり、ガラスケースの前に小さな温かい空気が生まれた。周囲の来場者が何事かとちらりとこちらを見たが、三人はそんな事には気づかない。

 

あんなは笑いの余韻を胸に残したまま、再び完成予想図の模型に視線を戻した。

 

名探偵プリキュアとして、事件を解決していく。怪盗団ファントムの野望を砕き、マコトジュエルを揃える。その先にこの光景がある。自分の居た未来が、待っている。そう考えていた時だった。

 

「……あれっ?」あんなが急に声を上げる。

 

「あんな、どうかした?」

 

みくるが隣から顔を覗き込む。あんなは視線を模型に固定したまま、数秒間動かなかった。それからみくるの方を向いて、表情を取り繕うように笑顔を浮かべる。

 

「ううん、なんでもない」

 

平静を装ったその声が、自分でも少しだけ不自然に聞こえた。改めて模型に目を向ける。

 

あんなは未来のマコトミライタウンに住んでいた。毎日その街を歩いていた。けれど自分の住む街を、こうして上から俯瞰した事はない。だから模型を見た最初の瞬間は、漠然とした感慨しか覚えなかった。

 

違和感に気づいたのは、無意識のうちに普段の道順を辿ろうとした時だった。

 

家を出て、通りを左に曲がって、あのビルの角を右に折れて、学校へ向かう――頭の中ではそう辿れるのに、模型の上では道が繋がらない。通れるはずの場所に建物がある。思ったのと違う方向に道が伸びている。家族と住んでいた高層マンションの周囲に見覚えのあるビルの並びを探しても、記憶と一致しない。

 

――なにかが、おかしい。

 

言い知れない不安が、あんなの思考の端に忍び寄った。

 

(まだ、完成予想図だもんね)

 

心の中で、自分に言い聞かせる。そう、あくまで予想図。実際に完成するまでには何度も設計が変わるだろう。それに、上から見下ろす視点と、地上を歩く視点では、同じ街でもまるで違って見えるのは当たり前のこと。自分の記憶違いかもしれない。

 

そう結論づけて、あんなは模型から目を離した。

 

 

---

 

 

展示を見て回りながら、みくるは持参していたパンフレットに目を落とした。

 

「今日は住民の皆さんへの説明会があるんだけど、その前に……タイムカプセルの開封式があるみたいね」

 

「タイムカプセル!?」

 

あんなの声が、一段跳ね上がった。目がきらきらと輝いている。

 

みくるはパンフレットのページを指でなぞりながら説明した。三十年前、当時の港湾整備事業の完成を記念して、住民と市が合同で海浜公園に埋設したものらしい。中には当時の子供たちの手紙や、町の写真、漁師たちの寄せ書きなどが収められているという。再開発計画の立ち上げに伴う造成工事で掘り起こされ、今日の説明会に合わせて開封式が行われる事が決まったと、パンフレットには記されていた。

 

「三十年前かぁ……」

 

あんなが感嘆の声を漏らす。三十年前の人々が未来に向けて託した想い。時を超えて、今この時代に届こうとしている。

 

あんなはポチタンの方にちらりと目をやる。時間を超えるという点では、ポチタンとあんな自身も同じだ。2027年から1999年へ。タイムカプセルは三十年前からこの時代へ。形は違えど、どちらも時間を跨いで今ここに在る。

 

「中にどんなものが入ってるのか、見てみたいね!」

 

あんなが弾んだ声で言うと、みくるも「うん、楽しみだね」と微笑んだ。ポチタンも「ポチィ!」と期待に満ちた声を上げる。

 

開封式まではまだ時間がある。二人は残りの展示パネルを見ながら会場内をゆっくりと巡っていた。再開発後の地区に計画されている交通網の図面や、商業施設の完成予想イラスト。明るい未来を描いた資料を見て回っていると、にわかに外が騒がしくなった。

 

人の声が重なり合う響き。穏やかではない空気が、閉じた窓越しにも伝わってくる。あんなとみくるは顔を見合わせ、展示を離れて入口の方へ向かった。

 

---

 

建物の外に出ると、物々しい光景が広がっていた。

 

先ほど作業員に指示を出していたスーツ姿の男性が、正面入口の前に立っている。その向かいに、大勢の人々が詰めかけていた。

 

ラフな格好の近隣住民たち。タスキを肩に掛けた者、ハチマキを巻いた者、プラカードを掲げた者。手書きの文字が目に飛び込んでくる。「海を守れ」「住民の声を聞け」「再開発計画の見直しを」。年配の男女を中心に、その数は三十人ほどだろうか。整然としたスーツの男性と、生活の匂いを纏った住民たちの対比が、この場の緊張をそのまま映し出していた。

 

その人たちが、開発計画に反対する集まりだと察した事で、あんなの表情が曇る。

 

マコトミライタウン。自分が暮らしていた街。あんなにとって再開発計画は、自分の居た世界そのものに繋がる道だ。この工事が進み、この土地が変わり、あの街並みが生まれる。けれど、その道の上に、こうして立ちはだかっている人たちがいる。自分の未来のために、誰かの今が押しのけられようとしている。その構図が、あんなの胸に重く沈んだ。

 

住民たちの先頭に立っていたのは、白髪交じりの頑丈そうな老人だった。日焼けした肌と太い腕。海の男、という言葉がそのまま当てはまるような風格。老人はスーツの男に向かって、低い声で切り出した。

 

「葛西さんよう、あんたに一つ聞きたい。再開発計画で、海はどうなっちまうんだ」

 

葛西と呼ばれた男は――五十代だろうか、銀縁の眼鏡の奥に穏やかな目をした、落ち着いた印象の人物だった。住民たちの勢いに臆する様子もなく、丁寧な口調で応じた。

 

「海側のエリアは、ウォーターフロント型の商業区画として整備する計画です。これにより地域の活性化が見込まれ、雇用の創出や観光資源の拡充など、住民の皆様にも大きな恩恵が生まれるものと考えております」

 

よどみのない説明。こうした問いを何度も受けてきた人間の、手慣れた対応。しかし、浜口の顔は険しいままだった。

 

「商業区画だと? あの海を、店で埋めるってのか」

 

浜口の声が低く唸る。背後の住民たちからも声が上がった。

 

「海浜公園はどうなるの? 子供たちの遊び場なのに」

 

「漁師町で育った人間にとって、海は生活そのものだよ。それを潰して商業施設なんて……」

 

口々に訴える住民たちの言葉には、長年この土地で暮らしてきた人間の切実さが滲んでいた。数字や計画書では測れない、暮らしの手触りのようなもの。葛西は困ったような表情を浮かべつつも、丁寧な姿勢を崩さなかった。

 

「皆様のお気持ちは理解しております。だからこそ本日の説明会で、計画の詳細をお伝えし、ご納得いただけるよう努めたいと考えておりますので……」

 

「なにが説明会だ」

 

浜口がぴしゃりと遮った。温和さを保っていた声に、はっきりとした怒気が混じる。

 

「タイムカプセルの開封式をダシに人を集めて、都合のいい説明を聞かせようって腹じゃねえのか」

 

葛西の表情が一瞬だけ強張ったが、すぐに平静を取り戻す。「それは誤解です。開封式と説明会は――」

 

「それによ」浜口は葛西の弁明を待たず、さらに言葉を被せた。「海辺の地域は住民の公共の場として残すって約束があったはずだ。三十年前の港湾整備の時に交わした覚書が残ってるだろう」

 

その言葉に、周囲の住民たちが頷く。「そうだそうだ」「覚書を出せ」と声が飛ぶ。しかし葛西は片手を軽く上げ、場を落ち着けるような仕草を見せた。

 

「何度も申し上げておりますが、そのような文書は確認できておりません」

 

声はあくまでも穏やかだった。

 

「おそらく記憶違いではないかと思われます。もちろん、今後も資料の調査は続けてまいりますが……」

 

浜口の目が細くなった。顎が引かれ、唇がきつく結ばれる。何かを言い返そうとして、しかし、周囲の住民の手前もあるのか、辛うじて堪えている。

 

あんなは少し離れた場所からその光景を見つめていたが、内心は複雑だった。胸の内側が、相反する感情で押し合っている。

 

あんなは、知っている。再開発計画は実行される。この一帯は近代的な都市に生まれ変わり、やがてあんなの知るマコトミライタウンになる。浜口たちがどれだけ抗議を続けても、それが覆る事はないのだと。

 

けれど、目の前で声を上げている人たちの切実さは、嘘ではなかった。海と共に生きてきた人々が、自分たちの暮らしの土台を奪われようとしている。その痛みは本物で、自分の未来が彼らの犠牲の上に成り立っているのだという事実が、あんなの喉元にせり上がってくる。

 

みくるがあんなの方をちらりと見た。あんなの表情に浮かんだ翳りに気づいたのか、何か声をかけようとした、その時だった。背後から、あんなとみくるの間を駆け抜けるようにして、一人の人影が飛び出してくる。

 

スーツ姿の若い男性。建物の中から走り出てきたらしく、息を切らせて肩を上下させている。男は真っ直ぐに葛西の元へ駆け寄った。

 

「か、葛西さん……大変です、タイムカプセルが……」

 

声が上擦っている。荒い呼吸の合間に言葉を絞り出そうとして、うまく続かない。

 

「落ち着きなさい。一体どうしたんです」

 

葛西が眉をひそめ、後を促す。しかし若い男が言葉を継ぐ前に、建物の入口からさらに二人の人物が現れた。五十代と思しき女性と、同年代の男性。女性は神妙な面持ちで、男性の方が若い男に代わって口を開いた。

 

「タイムカプセルが……無くなってしまったんです」

 

その場の空気が、一瞬で凍りついた。葛西の目が見開かれる。浜口を含む住民たちの間にもどよめきが走り、あちこちで「なんだって」「タイムカプセルが?」と声が上がる。

 

女性の方が唇を引き結びながら、搾り出すように付け加えた。

 

「確かに……昨日までは保管庫にあったはずなのに」

 

あんなとみくるの全身に、緊張が走った。二人の脳裏に、嫌でも浮かぶ名前がある。

 

「もしかして……またファントムが?」

 

みくるが声を潜めて呟いた。人々の想いが籠ったタイムカプセル。マコトジュエルが宿っていてもおかしくはない。二人共がその可能性に思い至ったその時、あんなの頭の中に、声が響いた。

 

『この場所で昔、タイムカプセルが盗まれる事件があってね……』

 

聞き覚えのある声。あんなは一瞬、みくるが話しかけたのかと思った。

 

「えっ? みくる、何か言った?」

 

あんなが振り向いた。みくるは怪訝な顔で首を傾げる。

 

「え、だから……ファントムが盗んだのかもって……」

 

「あ……うん、そうだよね」

 

あんなは曖昧に頷いた。何かが引っかかっている。記憶の底で、何かがかすかに光って、すぐに沈んでいった。目の前では、タイムカプセル消失の報せを受けた人々が、困惑と動揺の渦の中にいる。

 

 

---

 

 

施設内の広い会議スペースに人々が集まっていた。

 

推進派と反対派。本来なら説明会で向かい合うはずだった両者が、タイムカプセル消失という予想外の事態を前に、ぎこちない距離感で同じ空間にいる。パイプ椅子が無秩序に並べられたその場所で、関係者が事態の説明を行っていた。

 

あんなとみくるは人垣の端、少し離れた位置に立っていた。二人はパンフレットや先ほどの展示パネルで得た情報と照らし合わせながら、関係者たちの顔と名前を頭の中に整理していた。

 

タイムカプセルが消えた経緯を説明しているのは、磯部康子(いそべ やすこ)。五十代の女性で、潮凪港湾会館の管理人だ。元漁協職員という経歴が示す通り、地区の住民と長い付き合いがあるらしく、推進派にも反対派にも分け隔てなく言葉を向けている。その隣で事実関係の補足を行っているのは真鍋克之(まなべ かつゆき)。市の港湾整備課長で、行政側の立場から説明会の運営に関わっている人物。

 

先ほど外で反対派に対応していた葛西亮輔(かさい りょうすけ)は、ミライアーバン開発の事業部長。再開発計画の実質的な責任者であり、推進派の顔だ。先ほど慌てて飛び出してきた若い男、土屋章(つちや あきら)はその部下にあたる。そして、反対派の中心にいた白髪の老人が浜口源蔵(はまぐち げんぞう)。開発に反対する住民の集まりである「潮凪の海を守る会」のまとめ役。

 

磯部が、できるだけ落ち着いた声で状況を説明している。

 

「再開発の造成工事で掘り起こされたタイムカプセルは、開封式に備えて施設内の保管庫に運び込んでいました。昨日の段階では確かに保管庫の中にありましたが、ところが今朝、開封式のために取り出そうとした所……」

 

磯部の言葉が一瞬途切れた。

 

「保管庫の鍵が開いていて、タイムカプセルが無くなっていたんです」

 

会場にどよめきが広がった。その中から、浜口の太い声が切り裂くように飛んだ。

 

「葛西! タイムカプセルを開封するなんて言っておいて、俺達の思い出ごと全部消し去るつもりか!」

 

声は怒りに満ちた声で、浜口は葛西を睨む。反対派の住民たちからも、口々に怒りの声が上がる。反対派達の声に真っ先に反応したのは、土屋だった。

 

「我々がタイムカプセルを隠す理由なんてありません! 説明会を妨害するために、あんた達がやったんじゃないんですか!」

 

若さゆえか、抑えが利いていない様子で、反対派に食って掛かる。

 

「土屋くん、やめなさい」

 

葛西が鋭い声で制したが、火は既についていた。住民側からも「俺達を犯人扱いする気か!」「開発会社の方が怪しいだろう!」と声が飛び、土屋も引き下がらない。推進派と反対派の言い争いが、磯部と真鍋のなだめる声を飲み込むようにして激しくなっていく。

 

あんなとみくるは、その嵐のような言い争いに背を向け、声を潜めて話し始める。

 

「ポチタン」

 

あんなは肩から下ろしたポチタンを両手で包むように持ち上げ、そっと耳元で囁いた。

 

「マコトジュエルの反応、ある?」

 

ポチタンは丸い瞳であんなを見上げ、困ったように小さく首を振った。あんなの視線が、言い争いを続ける住民たちの方に向く。

 

「マコトジュエルの反応がないって事は……やっぱり、この争いのせい?」

 

タイムカプセルはこの土地に根差した人々の想いが籠ったもの。再開発計画に絡んだ動機があってもおかしくはない。

 

「いや、でも……」

 

みくるの目が思考の深まりを示すように細くなる。

 

「今日来た時にはもうなかった、って事は……深夜のうちに盗まれていた可能性がある。だとしたら、ここに反応がないのは当然かも。既に持ち出されているなら」

 

その言葉に、あんなの中で何かが繋がり、ポチタンの顔を覗き込む。

 

「ポチタン。もしかして、今朝一人で外に出てたのって……マコトジュエルの反応があったから?」

 

ポチタンは「ポチ……」と曖昧な声を出した。肯定とも否定ともつかない、歯切れの悪い反応。

 

「もう、危ないよポチタン。一人で出て行っちゃダメだからね」

 

あんなが心配そうにポチタンを抱き寄せる。そのやり取りを見たみくるは腕を組み、神妙な面持ちで呟いた。

 

「だとすると、やっぱりマコトジュエルの事件の可能性はあるよね……」

 

「でも、もし盗まれた後だとしたら……」

 

あんなの声が沈む。マコトジュエルが既に持ち出されているなら、追跡の手がかりは限られる。ポチタンの感知範囲からも外れているかもしれない。

 

困った顔のあんなに、みくるが向き直る。その目は、真剣だった。

 

「それでも、事件を前にして放っておけない」

 

迷いのない声。先ほど模型の前で「名探偵じゃないけど」と呟いていた時とは、明らかに違う響きを持っていた。事件がある。困っている人がいる。その事実の前で、自分の足を止める訳にはいかない――みくるの表情が、そう語っていた。

 

あんなは一瞬みくるの目を見つめ、そして、自らの表情を引き締めた。

 

「……うん」

 

短い頷き。それだけで十分だった。

 

---

 

磯部と真鍋が両者の間に立ち、必死に場を収めようとしていた。葛西は苦い顔で沈黙し、土屋は葛西に窘められた事で口を噤んでいるが、不満の色は隠せていない。浜口は腕を組んだまま、怒りを堪えるように唇を引き結んでいる。

 

「あの、すみません」

 

みくるが磯部に声をかけながら前に出た。あんなもその隣に並ぶ。

 

振り返った磯部と真鍋に対し、みくるとあんなの二人は小さなケースから名刺を取り出し、磯部に差し出した。

 

「今回の事件……私達に調査させてくれませんか」

 

名刺には「キュアット探偵事務所」の文字。磯部が受け取り、真鍋が横から覗き込む。

 

「君達が……探偵?」

 

真鍋の声には、隠しきれない戸惑いがあった。目の前にいるのは、どう見ても中学生くらいの少女が二人。探偵事務所の名刺を差し出されたところで、すぐに信頼を置ける相手には見えないだろう。しかし、名刺を手にした磯部の反応は違った。

 

「そういえば……聞いた事がある。星見台天文台で不正を暴いた探偵がいたって」

 

その名前を聞いた瞬間、あんなとみくるの表情が強張る。

 

「あの時、大きな話題になったのよ。天文台の台長が観測記録帳を隠していた事を、探偵が突き止めたって。それがこんな名前の探偵事務所だった……あなた達が、そうだったのね」

 

磯部は感心した様子で二人を見ていたが、褒められている当の二人の顔は晴れない。

 

――星見台天文台。

 

確かに、あの事件では宮沢台長が観測記録帳を隠した事実を二人が見つけ出し、結果として真相が明らかになった。傍から見れば、探偵としての実績と言えるのかもしれない。けれど、二人にとってあの事件は、輝かしい成功の記録では決してなかった。

 

あんなの胸の奥で、暗紫色のコスチュームの残像がちらついた。キュアライアンサー。あの事件の最中に、あんなは嘘のプリキュアへと変貌し、嘘で現実を上書きし、真実の公表を妨げようとした。

 

みくるの中にも、別の痛みが蘇っていた。真実を暴くという行為そのものが持つ暴力性。星野光一郎の過去を人々の前で明かした時の、あの感覚。正しい事をしたはずなのに、胸を張れない。誰かの大切な記憶を傷つけなければ辿り着けなかった真相。

 

もし――あの時みたいに、自分達が関わったせいで、悪い結果を引き起こしてしまったら。一瞬の沈黙が、二人の間を流れた。

 

「しかし、もうすぐ警察も来るはずですし……」

 

真鍋が口を挟む。行政のイベントに関わるタイムカプセルの紛失。警察が動くのは当然の流れだ。

 

あんなとみくるは顔を見合わせる。どちらの目にも、不安の色が浮かんでいる。けれど、みくるはその不安を振り払うように言った。

 

「もし怪盗団が起こした犯行なら……警察でも捕まえられないかもしれない」

 

怪盗団ファントム。変装と嘘の力を操る彼らを、一般の捜査機関が追い詰められる保証はない。あんなも言葉を継いだ。

 

「マコトジュエルをファントムに奪われたら……嘘で覆われた未来に……」

 

あんなの声が途切れた。ファントムの最終目的。ウソノワールの力が増せば、まことみらい市が、この世界が、そしてあんなの帰るべき未来が、嘘の影に呑まれる。

 

決意を固めた二人は、前に向き直った。

 

「お願いします。お手伝いだけでも、させてください!」

 

真剣な表情で頭を下げる二人を、磯部はじっと見つめている。

 

「……分かったわ」

 

その様子に何か感じる者があったのか、磯部は静かに頷いた。

 

「キュアット探偵事務所の探偵さん。あなた達に、タイムカプセルを見つけ出して欲しい」

 

真鍋が驚いた顔で磯部を見る。あんなとみくるは顔を上げた。互いの目を見て、頷き合う。

 

「「はい!」」二つの声が揃って響く。

 

その声には不安の影も残っている。けれどそれらを押しのけて前に出るだけの決意も、同じだけ込められていた。

 

 

---

 

 

磯部に案内されて、廊下の奥へと進む。

 

潮凪港湾会館の内部は、かつて漁協会館として使われていた頃の名残を随所に留めていた。コンクリートの壁、むき出しの配管、天井に走る鉄骨。そこに後から取り付けられた蛍光灯や案内板が、用途の変遷を無言で語っている。

 

廊下の突き当たり。その右手の保管室に入ると、二人は思わず足を止めた。

 

元々は倉庫か、あるいは作業場として使われていたのだろう。思ったよりもずっと広い部屋だった。しかし整然としているとは言い難い。折り畳みテーブルや予備の椅子、段ボール箱に古い書類の束。施設で使い切れなくなった備品が雑然と積み上げられ、部屋の隅には用途不明の機材まで置かれている。

 

「タイムカプセルは、ここに仕舞われていたんですよね?」

 

みくるが磯部に確認する。

 

「ええ。このあたりの台車の上に置いてあったのよ」

 

磯部が指し示したのは、部屋の中ほどに据えられた業務用の台車だった。今はがらんとした天板の上に、何もない。磯部はそこで、「あら?」と眉を寄せた。

 

「どうかしたんですか?」

 

「タイムカプセルの上にかぶせていた布も一緒に無くなっているわね……」

 

「布?」とみくるが聞き返すと、磯部は台車の周辺を見回しながら説明した。

 

「掘り起こされたタイムカプセルが会館に運び込まれた後、私がここまで移動させたんだけど……その時に近場にあった紅白の目立つ布をかけておいたのよ。何かの式典で使った残りだったかしら」

 

「紅白の布……」

 

あんなが呟いた。タイムカプセルと布が一緒に消えている。犯人がカプセルを持ち出す時に、布ごと運んだのか。

 

「それっていつ頃の話ですか? カプセルが会館に持ち込まれたのは」

 

みくるの分析的な質問に、磯部が答える。

 

「昨日の夕方ごろよ。造成現場から業者が運んできて、私がここに移して……あの時はもう日が傾きかけていたから、五時過ぎくらいだったかしら」

 

昨日の夕方。そこからタイムカプセルが消えるまでの時間は、長く見積もっても一晩。

 

「タイムカプセルって、どれくらいの大きさなんですか?」

 

あんなが尋ねた。磯部は両手を広げてサイズ感を示した。横幅は腕を伸ばした半分ほど、高さは膝の上あたり。金属製の、ずっしりとした箱のような形状。

 

「一人で持てない事はないけれど、それなりに重いし、何より目立つでしょうね。あの紅白の布がかかった状態だったらなおさら」

 

みくるは頷き、次の質問に移った。

 

「昨日の夜まではあったっていう話でしたけど……夜に、何かおかしな事はありませんでしたか?」

 

磯部は頬に手を当て、困ったような表情を見せた。

 

「変な事は……確かにあったのよね」

 

「と、言いますと?」

 

「夜の遅い時間に、誰かが騒いでいるような声が聞こえたの。何か言い争っているような……」

 

磯部は眉を曇らせて続けた。

 

「真鍋さんと一緒にこっちに来てみたんだけど、誰もいなくて。おかしいなとは思ったんだけど」

 

「それで?」

 

「不安になったから、事務室に戻って保管室の鍵を取って来て、開けてみたの」

 

昨日の記憶をなぞるように思い出しながら、磯部は語る。

 

「その時には、タイムカプセルはあったわ。布もきちんとかぶさっていた。めくって中身を確認したから、間違いない」

 

「それがタイムカプセルを見た最後ですか?」

 

みくるの問いに、磯部は頷いた。

 

「ええ。運び込んだ後に保管室を開いたのは、夜の騒動の時と、今朝取り出そうとした時の、二回だけ」

 

みくるはプリキットブックに要点を書き留めながら、更に掘り下げた。

 

「その後は? 保管室を施錠してから」

 

「鍵を事務室に戻して、今日の説明会の準備を続けたわ。書類の確認とか、椅子の配置とか……かなり遅くまでかかったわね。それで、深夜に警備員さんが来てからは、入れ替わる形で会館を出たの」

 

「警備員が来た後は、施設内への出入りは制限される?」

 

「ええ。警備員さんが正面入口も裏口も見ているはずだから、深夜に誰かが入るのは難しいと思う」

 

みくるはペンを止め、少し考え込む。自分の中で情報を整理した後、話を続ける。

 

「もう一つだけ。朝来た時は、何か変わった事は?」

 

「朝は私と真鍋さんが早くに来て、事務室に入っていたわ。その後に葛西さんと土屋さんが来て、入口付近にまとめてあった処分品を業者に運び出すよう指示を出していたけど……」

 

「処分品?」

 

みくるが聞き返す。

 

「この会館も取り壊す予定でしょう。不要な備品を集めて、順番に処分しているのよ」

 

「そういえば、最初に来た時に葛西って人が業者の人に指示を出していたよね」

 

あんなが思い出したように言った。スーツ姿の男が作業員に荷物の移動を指示していた、あの光景を思い出す。磯部は更に付け加えた。

 

「朝来てからはずっと事務室にいたし、タイムカプセルを取り出そうと鍵を持ち出して土屋さんと一緒に保管室に行くまでは、鍵は事務室に掛かったままだったはずよ」

 

磯部の表情が曇る。

 

「それなのに、保管室は、朝開けようとした時には……鍵が開いていたの」

 

磯部の声が沈む。磯部の証言を聞き終え、内容をメモし終えた後、みくるはプリキットブックを閉じる。情報の骨格が見えてきた。

 

「整理すると……磯部さんと真鍋さんが夜にタイムカプセルを確認した後、警備員が来るまでの時間が犯行のタイミング。警備員が居る中で、あの大きさのカプセルを運び出すのはかなり厳しい」

 

「ただ……」

 

磯部がやや躊躇いがちに口を開いた。

 

「夜は何度か事務室に顔を出していたんだけど、土屋さんが事務室で仕事をしていたから……夜の間に鍵を持ち出すのも難しいと思うのだけど」

 

みくるは表情を変えず、口にも出さなかったが、それを聞いて自然に浮かぶ考えはある。鍵のそばにずっと居た人物。

 

---

 

入口付近まで戻ると、空気が変わっていた。

 

制服姿の警察官が数名、会場内に入っている。住民たちの間を巡って事情を聞いている者、保管室の方へ向かう者。警察の到着によって、先ほどまでの怒号は収まり、人々はそれぞれの場所で落ち着きを取り戻しつつあった。

 

磯部は二人に会釈して、警察の対応へと向かう。あんなとみくるは、警察の事情聴取が進む合間を縫って、関係者に話を聞いて回る事に決める。

 

---

 

真鍋克之は、パイプ椅子に腰を下ろして額の汗を拭いていた。

 

「警察のおかげで、ようやく皆さん落ち着いてくれましたよ……」

 

疲弊した声だった。眼鏡の奥の目に、消耗の色が濃い。

 

「なんとか皆さん納得してくれるといいんですがね」

 

開発側と反対派の板挟み。行政の立場として両者の間に立たされている真鍋の苦労は、想像に難くなかった。二人は同情を覚えながらも、事件について尋ねた。

 

真鍋の証言は、磯部の話と矛盾しなかった。夜に騒ぎ声を聞き、磯部と共に保管室の周辺を確認。その後、事務室で鍵を持ち出し、保管室を開けてタイムカプセルの無事を確かめた。そこまでは磯部と同じ。

 

「ただ、私はその騒動の後に会館を出て帰宅しました。残りの準備は磯部さんに任せてね……翌朝の事を考えると、少しでも休んでおきたかったので」

 

「そういえば」と、みくるが、何でもない風を装って尋ねた。

 

「皆さん、車を使って帰宅されたんですか?」

 

「車ですか? 葛西さんは車を使っていたようですが……夜残っていた人は皆車は使ってなかったようですね。自分が帰る時に駐車場を見ましたけど、車はなかったですし」

 

みくるはプリキットブックを開き、さりげなくメモを取った。

 

――磯部、真鍋、土屋。夜の時点で車なし。

 

タイムカプセルは一人でも運べるとはいえ、それなりに重量がある上、抱えれば目立つ。この建物の裏手はすぐ海が広がっており、目立たない場所を通るのも難しい。車を使って輸送したと考えるのが自然だとみくるは考えていた。

 

---

 

葛西亮輔は、会場の一角で腕を組んで佇んでいた。先ほどの浜口とのやり取りの余韻が、まだ表情に残っている。

 

「住民の皆さんのためにタイムカプセルを掘り起こしたのに、まさかこんな事になるとは……」

 

困惑した口調だった。二人は苦悩を察しながらも、葛西に、昨日の行動を尋ねる。

 

「昨日は会社の用事もありましたからね。後の事は土屋くんに任せて、タイムカプセルを会館に移動させた後、日が沈み切る前には帰りましたよ」

 

「ご自分の車でですか?」

 

みくるが聞くと、葛西は軽く頷いた。

 

「ええ。ここは駅からも遠いですからね。車がないと何かと不便で」

 

「帰る時に、他の方の車はありましたか?」

 

「いや、他の車は駐車されていなかったと思いますよ」

 

葛西は丁寧に答えた。その口調にはよどみがなく、隠し立てをしている風でもない。

 

---

 

土屋章は、廊下の壁に寄りかかるようにして立っていた。

 

「まったく、反対派の連中は……開発の邪魔ばかりして」

 

まだ不満をくすぶらせている様子だった。先ほどの浜口とのやり取りが尾を引いているのだろう。若い顔に、苛立ちが露骨に出ている。

 

二人はそれまでと同じように、昨日の事を尋ねた。

 

「昨日は仕事が残ってたんです。葛西部長を見送ってから、事務室で書類を片付けていました」

 

「かなり遅くまで?」

 

「ええ。結局、警備員さんが来るまで残っていて、磯部さんと一緒に建物を出ましたよ」

 

それを聞いて、あんなが口を開いた。

 

「夜に、誰かの騒ぎ声が聞こえたって話があるんですけど、何か聞きましたか?」

 

土屋は少し考える仕草を見せた。

 

「遠くから何か聞こえたような気はしますけど……仕事の方に集中していたので、正直よく覚えていません」

 

「事務室に保管室の鍵が掛かっていたそうですけど、夜の間に鍵に近づいた人は?」

 

みくるが聞くと、土屋は腕を組み直した。

 

「磯部さんと真鍋さんが一度取りに来て、保管室を開けたみたいですけどね。その後鍵は元に戻されて、それからは誰も触っていなかったと思いますよ。磯部さんは何度か事務室に入ってきましたけど、鍵の方には近づいていなかったし」

 

そこまで言ってから、土屋はふと表情を変えた。

 

「でも、反対派の連中が盗んだにしても……あの派手な布と一緒だったら、目立つだろうに」

 

あんなはその言葉を聞いて、磯部から聞いた紅白の布の話を思い出し、「確かに……」と同意する。

 

---

 

事件に直接関わりそうな人物への聞き込みは一通り終えた。しかし、あんなとみくるの足はまた別の人物の元に向かっていた。

 

浜口源蔵は、反対派の住民数人と何やら話し込んでいた。苛立ちを隠さない硬い表情。二人が近づくと、怒りが冷めていない鋭い視線を向けたが、あんなが差し出した名刺を受け取ると、眉間の皺を深くして文字を読んだ。

 

「キュアット探偵事務所……?」

 

訝しげな様子。みくるが真っ直ぐに浜口の目を見て言った。

 

「タイムカプセルを探すのを、手伝わせて欲しいんです」

 

浜口は少しの間、二人の顔を交互に見た。それから、何かを考えるように顎を引いた。

 

「……行政がタイムカプセルを隠そうとしてるんだとしたら、警察だって信用ならないかもしれん」

 

低い声で呟いた。それは二人に向けた言葉というよりも、自分自身の懸念を口にしただけのようだった。

 

「よし、頼む。タイムカプセルを見つけてくれ!」

 

腹を決めたような声。あんなとみくるはやや困ったような笑顔を浮かべたが、調査に協力してもらえるのであればそれに越した事はない。

 

「ありがとうございます。あの、それで……昨日の夜の事なんですけど、何か気づいた事はありませんか?」

 

「昨日の夜ねぇ……といってもなあ。昨日は反対派の会合に出てたから、泥棒が居たかどうかなんて――」

 

浜口は頭を掻いて考えていたようだったが、そこまで口にして、手が止まった。

 

「そういえば……」

 

何かを思い出した表情。あんなが身を乗り出した。

 

「何かあったんですか?」

 

「いや、昨日の夜遅く……鳴海さんが、この会館の駐車場から車で出ていくのを見たんだよ」

 

「鳴海さん?」とみくるが聞き返す。

 

「『潮凪の海を守る会』の一員だよ。ほれ、あそこにいる……」

 

浜口が指を差した先に、反対派の人々に混じって話をしている女性の姿があった。三十代くらいだろうか。活発そうな雰囲気の女性だ。

 

---

 

鳴海まどかは、二人が近づくと人懐こい笑顔を見せた。けれど、「昨日、この会館に来ていたんですか?」というみくるの問いには、即座に表情を変えた。

 

「まさか、そんな事ありませんよ!」

 

否定は明確だった。

 

「でも、浜口さんは見たって……」

 

あんなが食い下がると、鳴海は困ったように眉を下げた。

 

「会合ではお酒が出ていたでしょう? 浜口さんは結構飲んでたから、見間違えたんじゃないかしら」

 

声のトーンを落とし、浜口の方をちらちら見ながら、内緒話のような口ぶりで話す。

 

「昨日の会合ではすぐに帰りましたから。騒ぎになった頃には、もう家に居たはずですよ」

 

弁明は明瞭だった。二人は鳴海にそれ以上追及せず、礼を言ってその場を離れた。

 

「……浜口さんの見間違い、かな」

 

あんなが小声で呟いた。みくるは答えず、プリキットブックのメモに目を落としていた。視線が、いくつかの名前の間を行き来している。

 

みくるは一旦プリキットブックを閉じた。整理しきれない情報が頭の中で渦を巻いている。それでも、手がかりは確実に増えている。あとは、その一つ一つが指し示す方向を、見極めなければならない。

 

 

---

 

 

建物の外に出ると、潮風が二人の頬を撫でた。会場内の張り詰めた空気から離れ、二人は港湾会館の裏手、人気のない壁際に背を預けた。海の気配がすぐ近くにあり、塩の香りが鼻をつく。

 

みくるはプリキットブックを開いた。

 

「これまで分かった事を、整理しましょう」

 

聞き込みの中で書き留めた証言を、一つ一つ確認していく。あんなも隣からメモを覗き込みながら、記憶を照らし合わせる。

 

磯部康子……夜の騒ぎ声を聞き、真鍋と共に保管室周辺を確認。事務室から鍵を持ち出し、保管室を開けてタイムカプセルの無事を確認した。その後、深夜に警備員が到着するまで建物に残って準備を続け、警備員と入れ替わりで帰宅。翌朝は一番に来て真鍋と共に事務室に入り、タイムカプセルを取り出すまでは保管室の鍵に誰も触れていないと証言。

 

真鍋克之……磯部と共に騒ぎ声を聞いて保管室周辺を確認し、タイムカプセルの無事を確かめた。磯部の証言と合致する。また、確認後すぐに帰宅しており、帰る際に駐車場に車がない事を目にしている。翌朝は磯部の後に到着し、鍵が使われていないという磯部の証言を裏付ける立場にいる。

 

葛西亮輔……タイムカプセルを会館に移動させた後、日没前に自分の車で帰宅。帰る際、他の車は駐車場になかった。翌朝は土屋と共に到着し、処分品の搬出を業者に指示していた。

 

土屋章……葛西を見送った後、夜の間ずっと事務室で仕事をしていた。磯部と真鍋が鍵を持ち出した一回を除いて、保管室の鍵は使われていないと証言。翌朝は葛西と共に来て、磯部と共に保管室を開けた時にタイムカプセルの消失を発見。

 

浜口源蔵……反対派の会合に参加。帰りに、鳴海が会館の駐車場から車で出ていくのを目撃。

 

それ以外に、集まっていた反対派住民にも話を聞いたが、会館に行った者はおらず、反対派の会合で夜遅くに帰った人も多かったが、怪しいものを目撃した人はいなかった。

 

鳴海まどか……反対派の会合に参加後、すぐに帰宅。会館に来たことは否定しており、浜口の証言は酔っていたための見間違いだと主張。

 

それ以外に、集まっていた反対派住民にも話を聞いたが、会館に行った者はおらず、反対派の会合で夜遅くに帰った人も多かったが、怪しいものを目撃した人はいなかった。

 

「……こんなところかな」

 

みくるがペンを止め、メモ全体を見渡した。

 

「浜口さんは鳴海さんを見たって言ってるけど、本人は否定してる……」

 

「でも、酔っぱらっていたから見間違いじゃないかって、鳴海さん自身が言ってたよね」

 

あんなの言葉に、みくるは小さく頷いた。浜口の証言がどこまで信用できるかは判断が難しい。

 

「どちらにしても」みくるはメモの上をペン先でなぞりながら言った。「保管室を開けるには鍵が必要。でも、証言を並べると、鍵を持ち出せるタイミングがない」

 

土屋が事務室に居て、鍵を監視していた形になる。磯部と真鍋が一度持ち出して以降は、誰も鍵に触れていないという証言。ならば犯人はどうやって保管室に入ったのか。

 

「"おかしな事"を口走った人はいたけど……仮に鍵が使えたとしても、その後タイムカプセルを持ち出す方法が……」

 

みくるの眉間に皺が寄る。鍵の問題を仮にクリアしても、あの大きさのタイムカプセルを深夜に運び出すという問題がある。目撃者がいない以上、車で移動させた可能性が高い。しかし車を使えた人間は夕方に帰宅した葛西だけ、と証言上はそうなっている。

 

思考が堂々巡りを始めていた。メモの文字を追う目が同じ箇所を何度も行き来し、みくるの表情が次第に険しくなっていく。

 

思考が前に進まない不快感が心に浮かび始めた中、横から覗くあんなの視線に気づいて、みくるはハッと顔を上げる。

 

「あんな、私……変じゃないよね? おかしくなってない、よね?」

 

声が少し上擦っていた。考え込みすぎて思考が歪み始めているのではないか。前回も、推理に没頭するうちに視野が狭くなり、嘘の力に呑まれた。自分では気づかないうちに――。

 

あんなはみくるの顔を真っ直ぐに見て、笑った。

 

「大丈夫だよ。いつものみくるのまま!」

 

陰りのない声。あんなの笑顔に照らされるかのように、心の中の影が消えていくのをみくるは感じ、ほっと息をついた。

 

「……ありがとう」

 

思考は一旦落ち着いたが、とはいえ、答えが見えない事に変わりはない。

 

みくるは再びメモに目を落とし、顎に手を当てて考え込んだ。証言の矛盾、犯行の手段、タイミング。情報が一本の筋に繋がらない。しかし、みくるの思考に引っかかるものもあった。

 

「もし……怪盗団がタイムカプセルを盗んだとするなら、もしかすると――」

 

その言葉が耳に入った瞬間、あんなの頭の中で何かが弾けるようにある光景が浮かび上がった。今度は断片ではなく、はっきりとした映像として。

 

 

---

 

 

海辺のエリア。高く、新しいビルが遠くに見える遊歩道。今よりも小さかった自分が、母親に手を繋がれて歩いている。潮の香りと、遊歩道沿いに植えられた街路樹の影。足元のタイルが陽光を照り返している。

 

母親が、何気なく口にした。

 

『この場所で昔、タイムカプセルが盗まれる事件があってね……』

 

小さな自分が何かを言う。正確な言葉は覚えていない。驚いたのか、面白がったのか。

 

『そう、お母さんもその場所に居たの』

 

母の声。昔を懐かしむような調子。

 

『それでね、怪盗団の二人がタイムカプセルを盗んじゃったのよ』

 

 

---

 

 

「そうだ!」

 

あんなの声が、静かな裏手に響いた。

 

「ど、どうしたの急に?」

 

みくるが驚いて目を丸くする。ポチタンもぶら下がった状態でびくっと身体を震わせた。あんなはやや興奮した様子で、みくるに向き直った。

 

「昔、お母さんとこのあたりに来た事があったの」

 

「お母さんと、ここに?」

 

思いがけない言葉に、みくるは戸惑っていた。

 

「その時にお母さんが言ってた。タイムカプセルが盗まれる事件があって、お母さんもそこに居たって。……『怪盗団の二人がタイムカプセルを盗んだ』んだって」

 

「怪盗団が、二人……」

 

みくるの声が、低くなった。視線がメモの上に落ちる。

 

「そうか、やっぱり!」

 

みくるの声には確信めいた力が宿っていた。

 

「嘘つきクイズ!」みくるの言葉に、「嘘つきクイズ?」とあんなが聞き返す。みくるはメモを指差しながら説明した。

 

「そう。もしこの中に二人の嘘つきがいるんだとすれば――」

 

怪盗団の人間が二人関係者に紛れ込んでいるなら、証言された中の内の二人は嘘である可能性がある。嘘の証言を取り除けば、犯行の経路が見えてくる。あんなもみくるの言わんとする事が分かった。

 

しかし、みくるの表情が、再び険しくなった。

 

「でも、これは結局"可能だった"っていうだけの話でしかない」

 

声のトーンが沈む。

 

「犯行の可能性を示す事は出来ても、誰が嘘をついているのかを特定する証拠がない」

 

あんなも顔を曇らせた。

 

「そっか……証拠になるようなものって、何も無いもんね」

 

嘘つきが二人いるとすれば、辻褄が合う組み合わせは絞れる。けれど、それは推論でしかない。証言の矛盾を突く物的証拠がなければ、犯人を名指しする事は出来ない。二人は並んで壁に背を預け、同時にうなり声を上げた。

 

「「う~ん……」」

 

潮風が二人の髪を揺らす。ポチタンがあんなの肩からぶら下がりながら、二人の深刻そうな顔を交互に見ている。

 

しばらくの間、沈黙が続いた。みくるはメモの内容を何度も読み返し、あんなは腕を組んで宙を見上げている。

 

ふいに、みくるが口を開いた。

 

「……あ、って事は」

 

「何かいい事思いついた?」

 

パッと表情を変え、あんなが期待した様子でみくるに顔を向ける。しかし、みくるは少し恥ずかしそうに頬を掻いた。

 

「いや、そうじゃないんだけど……」

 

声色が柔らかくなる。探偵としての推理口調から、少しだけ外れた響き。

 

「タイムカプセルの事件に遭遇したんだとしたら……あんなのお母さん、今ここに来てるのかなって思って」

 

その言葉に、あんなは虚を突かれた。考えてもみなかった。けれど、言われてみれば――その通りだ。

 

反対派の住民には子連れの姿もあったし、あんな達以外にも見学に来ている子供はいた。自分の母親が、今日、この場所のどこかにいるかもしれない。あんなの胸の中で、複雑な感情が渦を巻いた。

 

自分から見たら過去の時代。自分の母親はこの世界のどこかで生きている。当然の事なのに、今の今まで考えた事がなかった。ポチタンと一緒に1999年に来てから、未来の母を想う事は何度もあった。記憶の中の姿を手繰り寄せ、声を思い出し、手の温もりを恋しいと思った。けれど、「この時代の母」――つまり、自分と同じ年頃の少女としての母の事は、想像の範疇になかった。

 

会いたい気持ちは、ある。母がまだ子供だった頃、どんな顔をして、どんな風に笑っていたのか。知りたくないと言えば嘘になる。けれど――仮に会えたとして、どんな顔をすればいいのだろう。

 

自分と同い年くらいの女の子が、見知らぬ少女に声をかけられる。その女の子は何十年後かにその見知らぬ少女を産むことになる人間で、でもそんな事は知る由もなくて。見知らぬ少女にとってはその女の子は会いたいと心の底から願っている相手で、でもそんな事は絶対に言えなくて――。

 

あんなの表情が、複雑な感情に歪んだ。みくるはその横顔を見て、あんなが何を考えているのか察したのだろう。話題を切り替えた。

 

「ところで、お母さんの事件の話……タイムカプセルがどうなったかとか、何か言ってなかった?」

 

その問いかけに、あんなは一度目を閉じた。先ほど浮かび上がった記憶をもう一度探る。母の声。遊歩道。陽光に照らされたタイル。怪盗団の二人がタイムカプセルを盗んだ、という言葉。

 

記憶の中の母の声が、もう一つの断片を浮かび上がらせる。

 

「……『タイムカプセルの中身が抜き取られていた』って」

 

あんなは目を開けて、ゆっくりと言葉にした。

 

「そう言ってた気がする。そのせいで、大騒ぎになったって」

 

「タイムカプセルの中身が……」

 

みくるが復唱した。大した事のない情報にも聞こえる。けれど、みくるの中で何かが引っかかっていた。

 

「という事は……怪盗団の目的はタイムカプセルそのものじゃなくて、その中に入っている物……?」

 

あんなは少し考え、それから頷いた。

 

「タイムカプセルってみんなの想いが詰まったものだから、それにマコトジュエルが宿るのは自然だと思ったけど……中にもっと大切な物が入っているのかも」

 

マコトジュエルがタイムカプセルの「外側」ではなく「中身」に関係しているのだとすれば、犯人の行動の意味も変わってくる。みくるはメモを見返しながら、思考を加速させた。

 

「盗まれた可能性が高い時間帯に関わっている人たちは、今日も全員ここに集まっている」

 

ペン先が名前の上を順に叩く。

 

「タイムカプセルは持ち運ぶと目立つし、開封しようと思ったら、かなり大がかりな工具が必要なはず……深夜のうちにそこまでやるのは難しい」

 

メモを追う目が細くなる。

 

「まだ必要な作業工程が残っているから、完全には逃げ出せなかった……?」

 

みくるはあんなに向き直った。

 

「犯人の行動には謎が多い。でも、目的がタイムカプセルの中身で、まだ中身を取り出していないなら……チャンスはあるかも」

 

「でも、どうするの?」

 

あんなが首を傾げる。証拠がないという問題は解決していない。

 

みくるの手が、服の内側に伸びた。取り出したのは、ジェットの妖精としての姿を模したアイテム。プリキットボイスメモ。通信や録音など、多機能な用途があるプリキットだ。

 

「犯人に、名乗り出てもらいましょう」

 

みくるの目に、探偵の光が灯っていた。

 

「なるほど!」

 

あんなの表情がぱっと明るくなった。ポチタンも「ポチィ!」と力強く鳴く。

 

二人は壁から背を離し、港湾会館の入口へ向かって歩き出した。

 

---

 

会館の外では、処分品を積んだトラックの傍で作業員が荷物を整理していた。段ボール箱や古い備品が、次々と荷台に積み上げられていく。

 

その作業員に、一人の女性が近づいた。同じように作業服に身を包んだ、落ち着いた雰囲気の女性。

 

「すみません。この備品、どこに運ぶのか教えてもらえますか?」

 

その声は、会館の中に戻っていく二人の背中には届かなかった。

 

 

---

 

 

カチャリ、と錠が外れる音がして、扉が内側に開いた。

 

港湾会館の本棟から少し離れた別棟は、既に引き払われた後のような佇まいだった。窓から差し込む光が、埃っぽい空気の中を白い筋になって横切っている。多少の荷物――折り畳まれたパイプ椅子の束や、中身の分からない段ボール、ビニールシートに覆われた何かが壁際に寄せられているが、部屋の大半は空だ。がらんとした空間に、入って来た人影の足音だけが反響する。

 

人影は、部屋の中に残されたものを一つずつ確認し始めた。段ボールの蓋を開け、壁際の荷物に手をかけ、シートが被せられた塊を引っ張り上げて中を覗く。焦りを含んだ、素早い動き。

 

その影が五つほど物色を終えたタイミングで、その影の背後で扉が開く気配がした。びくり、と肩が震え、振り返る。

 

部屋で顔を合わせたのは、二人の男女だった。先に中にいたのは土屋章。後から入ってきたのは鳴海まどか。

 

「なんで君がここに!」

 

土屋が驚き鳴海を指さした。声が裏返っている。鳴海も部屋の中に踏み込みながら、同じように動揺を隠せない。

 

「あなたの方こそ!」

 

「まさか、君も――」

 

土屋がその先を言いかけた時、閉まりかけていた扉が再び開け放たれた。

 

「やっぱり、あなた達だったんですね」

 

部屋に踊り込んできたのは、あんなとみくるだった。土屋と鳴海の顔が、同時にこわばる。

 

「や、やあ、探偵さん達。一体どういう事だか……」

 

土屋が取り繕うように笑みを浮かべたが、声は明らかに上ずっていた。

 

みくるは無言でプリキットボイスメモを掲げる。妖精を象ったアイテムの、リボン部分横の再生ボタンを押す。

 

『でも不幸中の幸いです。掘り起こされたタイムカプセルのうち、あちら側は残っていましたから。……ええ。念のため別棟の部屋に移動させてあります』

 

録音が止まる。再生された声は磯部のものだった。いや、正確には、磯部と”同じ”声。静寂が戻った部屋の中で、土屋と鳴海の表情が凍りついている。

 

「あなた達二人に聞こえるよう、この声を流していたの」

 

あんなが言った。みくるがボイスメモをしまい、二人を真っ直ぐに見据える。

 

「タイムカプセルの中身が狙いである以上、重要なカプセルが別にあると知ったら、あなた達は確かめずにはいられない」

 

偽の情報を流し、それに釣られた人間を炙り出す。二人がこの部屋に現れた事自体が、やましい目的があった事の証明になる。

 

「あなた達二人は、最初から怪しいと思っていました」

 

みくるの声に、探偵として真相を追求する鋭さが宿る。そして、土屋に向き直った。

 

「土屋さん。あなたはこう言いました。『あの派手な布と一緒だったら目立つだろうに』って。一体どういう事ですか?」

 

土屋は一瞬固まり、それから慌てたように口を開いた。

 

「え、だって、タイムカプセルには紅白の布がかかっていたでしょう、あの派手な――」

 

「それはおかしいんです」

 

あんなが遮った。みくるが言葉を継ぐ。

 

「確かにタイムカプセルには紅白の布がかかっていました。磯部さんがそう言ってましたから。『保管室に運んだ時に、自分がかけた』って」

 

みくるの視線が鋭く土屋を射る。

 

「それ以降、保管室を開けたのは磯部さんと真鍋さんの二人。その時はタイムカプセルも布も残っていた。でも、朝に開けた時には布ごと消えていた。あなたがその布を目撃できるタイミングがありません」

 

みくるは土屋をまっすぐに指差した。

 

「あなたがそれを知っていたのは……そう、盗み出した犯人だから!」

 

土屋の顔から血の気が引いた。みくるは間を置かず、今度は鳴海に向き直った。

 

「鳴海さん。あなたは浜口さんに目撃されていますよね。あの日の夜、あなたがこの建物の駐車場から車で出て行くのを。反対派の会合の後にすぐ帰ったと言うのなら、あなたがこの建物から出て来るのはおかしい」

 

鳴海が唇を開きかけた。

 

「だから、それは浜口さんが酔っぱらって――」

 

「あなたは確かにそう言っていました。……でも、もう一つ言っていた事があります。『騒ぎになった頃には、もう家に居たはず』って」

 

みくるの声が、鳴海の弁明を切り裂いた。鳴海は困惑した表情で、みくるが言わんとしている事にまだ気づいていない様子だ。

 

「磯部さんは先ほどの説明で、タイムカプセルが無くなった事しか話していません。昨日の夜に騒ぎが起こった事には触れていない。そう、昨日の夜に騒ぎが起こった事は、実際にあの場にいた人間しか知らないはず」

 

鳴海の口が開いたまま、言葉が出てこない。みくるは二人の間に立ち、声を張った。

 

「それぞれは、ちょっとした違和感でしかない。……でも!」

 

その言葉を、あんなが引き継いだ。

 

「あなた達がここに現れてくれたおかげで、確信できた!」

 

土屋と鳴海は悔しそうに顔を歪めた。互いに目を合わせ、それから観念したように――それぞれの服の襟元を掴み、引っ張った。次の一瞬。そこに立っていたのは、土屋章と鳴海まどかではなかった。

 

シルクハットに燕尾服、右目を覆う紫色のマスクと左目の下の黒い十字星。隣にはハイビスカスの花飾り、シックさと派手さの同居した衣装、そして同じように右目を覆う紫色のマスクと左目の下の黒い十字星。

 

ニジーと、アゲセーヌ。怪盗団ファントムの二人。

 

「やっぱり……」

 

あんなが呟いた。

 

「くそっ」とニジーが舌打ちする。シルクハットが影を落とす目が忌々しそうに歪む。

 

「余計な事を言ってしまったせいでバレるとはね……やけに派手な布だったから、つい口走ってしまったよ」

 

「二人とも、タイムカプセルをどこに隠したの!?」

 

あんなが一歩前に出て声を上げた。しかし、アゲセーヌが真っ先に言い返す。

 

「はぁ!? 何言っちゃってんの?」

 

「とぼけないで!」

 

みくるは怯まず推理を展開した。

 

「タイムカプセルを盗むには、事務室から鍵を持ち出す事が必要。でも夜の間は土屋さん――ニジーが事務室にいたから、外の人間が鍵に手を出す事は出来ない。もう一つ、タイムカプセルを気づかれないよう運ぶには車が必要。鳴海さん――アゲセーヌは車でこの建物に来ていた」

 

指が二人を交互に指す。

 

「つまり、二人が協力すればタイムカプセルを持ち出せる。磯部さんは事務室にずっと居た訳じゃないから、隙を見てニジーが鍵をアゲセーヌに渡し、保管室からタイムカプセルを車に運べばいい」

 

みくるの推理は明快だった。鍵へのアクセスを持つニジーと、運搬手段を持つアゲセーヌ。二人の立場を掛け合わせれば、犯行は可能になる。

 

しかし。ニジーの反応は、追い詰められた犯人のそれではなかった。

 

「な、何を言っているんだ!?」

 

困惑だった。ニジーはアゲセーヌの方を振り向き、非難するように指を突きつける。

 

「おい、ボクの見ていない時にタイムカプセルを盗み出したのか!?」

 

今度はアゲセーヌが不満そうに声を荒らげる。

 

「ハァ? 鍵に近いのはアンタだったんだから、アンタが盗んだんじゃないの!?」

 

あんなとみくるは、困惑した顔を見合わせた。

 

「な、何言ってるの? 昨日の夜に二人で協力してタイムカプセルを盗んだんじゃ……」

 

あんなの言葉に、ニジーがムキになって言い返す。

 

「協力だって!? こいつとボクが!? 協力どころか、こいつのせいでタイムカプセルを盗み損ねたんだよ!」

 

アゲセーヌを指差すニジーの声には、芝居ではない本物の苛立ちが滲んでいる。

 

「アゲだって、アンタのせいで邪魔されたし! マ~ジチョベリバ~!」

 

アゲセーヌも負けじとニジーに食ってかかる。

 

---

 

昨日の夜の事。

 

土屋章の姿をしたニジーは、磯部が事務室を離れた隙を見計らっていた。鍵管理ボードから保管室の鍵を持ち出し、足音を殺して廊下を進む。保管室の錠を外し、中に入る。

 

台車の上にはタイムカプセル。紅白の布がかかっている。ニジーは布をめくってカプセルを確認し、台車ごと廊下に押し出した。

 

(上手く鍵を持ち出す事が出来た。これでマコトジュエルを……)

 

「ちょっと、あなた!」

 

正面から現れた女性の声に、ニジーは凍りつく。ニジーはどう誤魔化すか考えを巡らせた。しかし、すぐに妙な事に気付く。目の前にいるのは知らない相手だった。職員として潜入したニジーは、ここで仕事をしていた人間の顔は一通り記憶している。

 

「あなた、ここの職員じゃないですね? 何をしているんですか?」

 

目の前に立っているのは鳴海まどかだった――ニジーは会った事がないが、反対派の住民の一人。夜のこの時間に、この場所にいる理由がない。

 

「そんな事はどうでもいいです、それより、それは私が狙って――」

 

鳴海が口を滑らせる。慌てて言葉を呑み込んだ様子だったが、遅かった。

 

「お前、まさかアゲセーヌか!?」

 

ニジーが思わず素の声を発し、鳴海――アゲセーヌも驚愕した。

 

「はぁ? じゃあアンタ、ニジー!?」

 

「何しに来たんだ、今回の任務はボクの仕事だろ!」

 

ニジーが怒りを露わにするが、アゲセーヌも引き下がらない。

 

「怪盗団は先に盗ったもん勝ちっしょ! だからそれも――」

 

口論が始まった。声が高くなる。お互いの不満を叩きつけ合うその声は、夜の建物の中に響き渡った。

 

しかし、激しい口論の中で、遠くから近づいてくる足音の響きが二人の耳に届き、即座に言葉が途切れる。顔を見合わせ、二人は慌ててその場を走り去った。

 

---

 

「二人で慌てて廊下の奥の窓から逃げたんだよ。タイムカプセルを持ち出す余裕も、隠す余裕もなかったからね……」

 

ニジーが歯がゆそうに語った。

 

「も~~! 悔しすぎるっしょ!」

 

アゲセーヌは地団太を踏んでいる。

 

「じゃ、じゃあ……あなた達が盗んだんじゃないの……?」

 

みくるの声から、先ほどまでの勢いが消えていた。

 

「だから、そう言っているだろう!」

 

ニジーは苛立ちを隠さない。その時の事を語るのはかなりの屈辱のようだった。

 

「あの後、すぐに事務室に戻って、再び鍵を持ち出せるタイミングを伺っていたが……結局、警備員が来るまでチャンスが無かったんだ! それに朝確認した時にはタイムカプセルは消えていて――盗んだ奴を探していたのに、先に正体がバレるとは……!」

 

みくるは唇を噛む。怪盗団であると正体を明かした二人が、わざわざこんな回りくどい芝居で容疑から逃れようとする必然性がない。つまり、この二人は、本当にタイムカプセルを盗んでいない。

 

それが意味する事は。

 

「わ、私……また間違えたの……」

 

みくるの声が震え、苦悩の色が浮かんだ。

 

「犯人じゃない人間を、犯人だって……」

 

相手が怪盗団であっても、この件に関しては無実。推理は間違った方向を向いていた。郷土資料館の時のように。市民活動センターの時のように。正しい方向に走っているつもりで、見当違いの場所に辿り着いてしまう。

 

しかし、その隣で、あんなの表情はさらに深刻な変化を見せていた。

 

「怪盗団の二人……タイムカプセルを……盗んでいない?」

 

脳裏に、あの声が再び響いた。

 

『それでね、怪盗団の二人がタイムカプセルを盗んじゃったのよ』

 

目の前に怪盗団は確かに二人いる。しかし、この二人はタイムカプセルを盗んでいない。母の言葉と、矛盾している。

 

その瞬間、あんなの頭の中で、二つの違和感が一本の線で繋がった。完成予想図の模型。あんなの記憶とは微妙に違っていた街並み。

 

「まさか……」

 

あんなの声が、震えた。

 

「あんな……?」

 

みくるがあんなの変化に気づいて顔を向ける。あんなの目は虚空を見つめていた。

 

あんなの頭にジェットの言葉が蘇る。

 

『未来は絶えず変わるんだ。僕たちが頑張らないと、ここもお前の時代も、嘘で覆われた世界になるかもしれない』

 

未来は、変わる。母の記憶と違う状況。自分の記憶と違う町。

 

あんなは未来から来た。この1999年に来てから、みくると一緒に名探偵プリキュアとして怪盗団ファントムの事件を幾つも解決してきた。マコトジュエルを守り、ウソノワールの野望を退けてきた。

 

けれど、もし自分がこの時代に来ていなかったら。みくるはプリキュアになっていない。キュアット探偵事務所も動き出さなかった。ファントムの事件は解決されず、マコトジュエルは奪われていたかもしれない。

 

自分がここにいる事で、本来の歴史と違う事が起こっている。その結果として、未来が変わっているのだとしたら。今の自分がいるこの世界は、自分の知っているあの未来に繋がっていないのだとしたら。

 

あんなの内側で、自分ではない自分の声が響いた。嘘で覆われたもう一人の自分の姿、キュアライアンサーだった時の、あの冷たい声が。

 

『わたしがどんな人間だったかなんて……そんな事を証明できる証拠がどこにあるの?』

 

あんなは自分の手のひらを広げて見つめた。指が震えている。掌の線が、蛍光灯の光の下でぼんやりと滲んで見える。自分の身体が、自分のものでないように感じられる。酷く希薄で、このまま空気に溶けてしまいそうな。

 

「わ、わたしは……どこから来たの……?」

 

絞り出すような声だった。

 

「わたしは……誰なの?」

 

 

 

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あんなが知っていた未来。あんなが帰る場所だと思っていた世界。その世界が、今もあの形で存在しているのか――もう、分からない。あの未来が存在しないとしたら、そこから来た自分は、一体何者なのか。

 

「あ、あんな……」

 

みくるが声をかけようとした。しかし、言葉が続かない。あんなの瞳に浮かんでいるのは、みくるがこれまで見た事のない種類の恐怖だった。嘘の力に呑まれた時とも、ウソノワールに圧倒された時とも違う。自分自身の存在の土台が揺らぐ恐怖。

 

ポチタンも、あんなを不安そうに見上げるばかりで、声をかける事が出来ない。

 

不安に飲まれていた二人の間の空気をガラガラ、という音が崩した。あんな達が顔を前に向けると、ニジーとアゲセーヌが窓を開けて足をかけている。

 

「あっ、待ちなさい!」

 

みくるが叫ぶが、二人は押し合いながら既に半ば外に身体を出している。

 

「今回はボク達の負けだが、これで終わると思うなよ!」

 

ニジーが窓の向こうから声を飛ばす。

 

「アゲは負けたつもりないし~!」

 

アゲセーヌもニジーに続いて窓の外へ飛び出した。

 

「アンタのせいだからね!」「ボクのせいだと!? お前が余計な事を――」

 

遠ざかっていく二人の声。最後まで言い合いをしながら、怪盗団の二人は去っていった。

 

みくるは窓の外に身を乗り出したが、その動作が止まる。追いかけても意味がない事は分かっている。あの二人は犯人ではないのだから。みくるが部屋に向き直ると、室内に沈黙が降りた。

 

---

 

「でも……あの二人が盗み出していないのだとしたら、タイムカプセルはどこに……」

 

あんなの声には、まだ震えが残っていた。身体の芯に走った動揺は簡単には収まらない。それでも、目の前の事件に対し必死で考えを切り替えようとしている事が、その声から伝わった。

 

みくるも、自分の中の暗い考えに意識が引きずり込まれそうになるのを堪えながら、事件について思考を巡らせ始めた。冷静さが少しずつ戻ってくると、先ほどのニジーとのやり取りの中で、何か違和感があった事に気付く。

 

何に違和感を感じたのか。記憶を巻き戻し、ニジーの言葉を一つ一つ辿る。やがて、みくるの唇がその時のニジーを再現するように動いた。

 

「――『タイムカプセルを持ち出す余裕も、隠す余裕もなかったからね』」

 

「みくる?」

 

あんなが反応し、みくるは思考を進める。

 

「磯部さんと真鍋さんが騒ぎを聞きつけて来た時、何も無かったって言っていた。つまり、廊下には何の痕跡も残っていなかったってこと。台車もタイムカプセルも、保管室の中」

 

情報を振り返り、改めて整理していく。

 

「事務室にずっといて、鍵を持ち出した人間はいなかった、というニジーの証言も……おそらく嘘じゃない。だとするなら――」

 

証言と状況の僅かなズレだったが、そこからある道筋が描き出されていく。新たな犯行の可能性。それが可能だったのは……

 

「あんな、行こう!」

 

一つの結論に達し、みくるが駆け出した。

 

「う、うん!」

 

あんなはまだ全てを理解出来てはいなかったが、みくるの背中を追った。みくるの頭の中では、嘘つきクイズの答えが新たに組み替えられていた。

 

嘘つきは二人ではなく――三人だ。

 

 

---

 

 

二人は走っていた。

 

潮凪地区の海沿いを、港湾会館から少し離れた方向へ。輸送作業員から聞き出した情報が、二人の足を導いている。会館や周辺の取り壊し予定の建物から出る廃棄品を、一時的に集積している場所、旧網倉庫。

 

漁協時代に漁網や漁具の保管に使われていた大型倉庫。老朽化で閉鎖され、港湾会館同様に解体が決まっている建物だ。

 

揺れる視界の先に倉庫が見えた。錆びたトタン壁に、日焼けした看板。入口の鉄扉は半開きになっている。二人は足を止めず、倉庫の中に駆け込んだ。

 

内部は広い単一空間だった。天井が高く、漁業時代の名残――天井を走るクレーンのレール、壁面に残るフック、コンクリートの荷揚げ台などがそのまま残っている。その中に、使われなくなった漁具や古い資材に混じって、周辺施設から出された残置物が所狭しと並べられていた。段ボール、折り畳みテーブル、看板の類。それらが雑然と積み上げられ、倉庫の奥は薄暗く沈んでいる。

 

その奥の部屋から、台車を押して出て来る人影が現れた。作業服姿の女性。台車の上には箱が一つ。知らない女性だと、一瞬そう見えた。

 

しかし、ベージュ色のその髪の女性は、どこか見覚えのある顔つきをしている。そして、台車の上の荷物に隠れるように置かれている、紫色のぬいぐるみのような姿。

 

「あなた……アルカナシャドウ!?」

 

みくるが声を上げた。女性は台車を押すのを止め、二人に顔を向けた。その表情に、驚きの色は浮かんでいない。

 

「来たのね。……ずいぶん、遅かったみたいだけど」

 

女性の身体が光に包まれた。輪郭が縮み、シルエットが変わっていく。光が解けると、そこに立っていたのはあんな達の見知った顔だった。怪盗団ファントムの一員にして、プリキュアに変身する能力を持つ謎の少女。

 

台車の上で、ぬいぐるみのフリをしていたマシュタンがふわりと浮かび上がった。

 

「こっちも、丁度いいサイズの台車を探すのに手間取っちゃったけどね」

 

マシュタンがのんびりとした口調で言った。るるかが視線だけをマシュタンに向ける。

 

「マシュタン。……余計な事は言わなくていい」

 

短い制止。マシュタンは「はいはい」と肩をすくめた。

 

「その箱の中身、タイムカプセルでしょう」

 

みくるが問いかけに、るるかは隠す素振りも見せなかった。

 

「ええ。中身を確認したから」

 

淡々とした返答。台車の上の箱の中にはタイムカプセルが入っている。

 

「タイムカプセルがここにあったって事は……やっぱりみくるの推理は正しかったんだ!」

 

あんなが声を上げ、更にみくるが一歩前に出て目の前の少女に――るるかに訴える。

 

「タイムカプセルを返して! それは、この潮凪地区の人達にとって大事なものなの!」

 

るるかの平坦な表情の瞳が、二人を見据える。

 

「……渡すつもりはない」

 

るるかの指先が、首元に下げたネックレスに繋げられたアイテムを摘み上げる。小さなアイテムが光を受けて鈍く輝くのを見て、あんなとみくるが、同時に身構えた。

 

「オープン」

 

るるかが両手でアイテムを掴み、その言葉を発すると、光が弾けた。光と共に膨張した形が手の内側から伸び、紫色の長いロッドが姿を現す。先端にカード状の装飾を持つ、優美な杖。

 

「ティアアルカナロッド」

 

るるかの衣装が紫の光に包まれ、変化を始めた。マコトジュエルをロッドの先端部の付け根にセットし、るるかが全身で回転すると、足元に魔方陣が展開する。複雑な幾何学模様が床面に光の線を走らせ、そこから立ち上る光がるるかの身体を包み込んでいく。

 

「シャッフル」

 

ロッド先端のカードを弾いて回転させる。その瞬間、髪が光に包まれた。ベージュ色から金色へ色が変化していく。

 

「リバース」

 

金髪が腰まで伸びて風になびく。ロッドから広がる光のヴェールがるるかの身体に纏わりつき、黒を基調とした衣装を構築していく。スカート、ブーツ、ケープ、後頭部のリボンから伸びるヴェール。

 

「神秘と秘密で包み込む。キュアアルカナ・シャドウ」

 

全ての衣装が完成した姿で、アルカナシャドウが一歩踏み出した。金髪が揺れ、紫の瞳が二人を捉える。

 

「さあ、迷宮に誘いましょう」

 

変身を終えたアルカナシャドウだったが、その立ち姿は力む様子もなく自然体だった。ティアアルカナロッドの石突きを床に突き、片手を添えるようにして立っている。

 

「どうするの、名探偵さん?」

 

戦うための姿に変わっても、声は静かだった。

 

「……私は、この真実を譲るつもりはない」

 

アルカナシャドウの実力は、二人にはよく分かっていた。最初に対峙した時は手も足も出ず、その時も、その後の戦いも、決着がつかなかったのは相手が本気ではなかったからだ。だが。

 

「どうするかなんて、決まってる!」

 

みくるの迷いない声が、倉庫の空間を貫いた。真相がある。盗まれたものがある。取り戻さなければならないものが、目の前にある。探偵として、立ち止まる選択肢は存在しない。

 

「タイムカプセルを、怪盗団になんて渡さない!」

 

あんなも叫んだ。身体の奥にまだ震えの残滓がある。自分が誰なのか、どこから来たのか、帰る場所は本当にあるのか。答えの出ない問いが胸の底に沈んでいる。けれど今は、目の前の事件に全てを注ぐ。

 

二人は顔を見合わせた。同時に頷く。それに呼応するように、胸元のペンダントの懐中時計が、光を放った。

 

「「オープン!」」

 

白い光の中で、懐中時計が巨大化し、形を変え、変身アイテムへと姿を変えた。

 

「「ジュエルキュアウォッチ!」」

 

二人がそれぞれのマコトジュエルをジュエルキュアウォッチにセットした。宝石をセットすると、光が周囲に広がっていく。

 

「「プリキュア! メイクアップタイム!」」

 

光が二人を包み込む。髪がほどけ、伸び、風に舞う。衣装が光の粒子となって解け、新たな形を取り始める。

 

長針を3の位置に。「「サン!」」

 

「見つける!」あんなの声。二人の髪型が変化していく。あんなの髪が絡み合う紫のツインテールに、みくるの髪が三つ編みの赤桃色のツインテールに。

 

長針を6の位置に。「「ロク!」」

 

「向き合う!」みくるの声。衣装が形を成していく。あんなには紫を基調とした、みくるには赤桃色を基調とした、華やかなプリキュアの衣装が形成される。

 

長針を9の位置に。「「キュー!」」

 

「「奇跡の二人!」」声が重なる。二人が床を鳴らすように歩くと、ブーツが光の中から編み上がるように形成され、二人が手のひらを合わせて握ると、光が弾けてグローブが出現する。

 

「クルッと回して!」あんなが。「キュートに決めるよ!」みくるが。掴んだ手を軸にそれぞれ踊るように回転。そして長針を一回転させると、髪飾り、イヤリング、ブローチ、ケープが順々に形成されていく。光の粒子に包まれて、二人の姿が完全に変わる。

 

「どんな謎でもはなまる解決! 名探偵、キュアアンサー!」

 

紫のツインテールを揺らし、指先で花丸マークを描き出し。

 

「重ねた推理で笑顔にジャンプ! 名探偵、キュアミスティック!」

 

赤桃色のツインテールをなびかせ、笑顔で飛び上がる様子を見せ。

 

そして、誕生した二人のプリキュアが、鏡写しのようにシンクロした動きで指を前に突きつける。

 

「「名探偵プリキュア!」」

 

最後に、キュアアンサーが宣言した。

 

「わたしの答え、見せてあげる!」

 

 

---

 

 

「たああああああ!」

 

アンサーとミスティックが、同時に地面を蹴る。二人の姿が左右から迫る。アンサーの拳が右から、ミスティックの拳が左から、アルカナシャドウを挟み込むように振り抜かれた。

 

アルカナシャドウは立ち位置を一切変えなかった。ティアアルカナロッドを跳ね上げ、水平に構える。その動作だけで、ロッドの一本だけで、二つの拳を同時に受け止めた。衝突音が倉庫内に轟き、衝撃波が周囲の段ボールを揺らす。

 

ロッドが回転した。絡め取るような動きで二つの拳を弾き、生まれた隙に横薙ぎの蹴りを叩き込む。鋭い弧を描いた脚が、アンサーとミスティックの両方を同時に捉え、二人の身体が左右に吹き飛んだ。

 

アンサーは空中で体勢を立て直し、廃棄品の山を蹴って着地した。間髪入れず、ジュエルキュアウォッチの長針を一回転させる。時計から紫色のオーラが噴き出し、右拳に集約されていく。

 

「アンサーアタック!」

 

オーラを纏った拳が、アルカナシャドウに向かって一直線に打ち出される。それを見たアルカナシャドウの表情が、一瞬だけ鋭くなった。ロッドを持ち上げ、石突き側を水平よりやや上に向ける。

 

「えっ!?」

 

それからの動作を、アンサーは目で追えなかった。ロッドの長い柄が上から回転するように振り下ろされ、拳の真正面ではなく側面に当たった。そのままロッドで絡めとるようにオーラを纏った拳の軌道が逸らされる。

 

アルカナシャドウ本体は、アンサーの真横へ滑るように移動していた。アンサーの突進の勢いをそのまま利用し、鋭い膝蹴りが、アンサーの腹部に突き刺さった。

 

「ぐっ!」

 

衝撃が内臓を揺らし、アンサーの身体がくの字に折れる。

 

「アンサー!」

 

ミスティックが叫んだ。アンサーがミスティックの後方に吹き飛ばされていく。

 

ミスティックがアルカナシャドウに向き直った時には、相手は既に次の動作に入っていた。ロッド先端のカードを弾いて回転させる。更にロッドを自分の足元から頭上を通るように一回転。その軌跡に沿って、黒い十字星がアルカナシャドウの正面に円形に配置された。

 

「アルカナスターレイン」

 

黒い十字星の一つ一つに、紫色の魔方陣が浮かぶと、そこから黒い閃光が放たれた。一発ではない。円形に配置された十字星から、アンサーとミスティックそれぞれに向けて、次々と黒い光の矢が降り注ぐ。

 

アンサーはダメージに耐えながら立ち上がり、黒い閃光を避けようと横に飛んだ。足元を掠めるように黒い光が床を貫く。追いかけるように次の光が飛来し、アンサーは積み上げられた廃棄品の間を縫うように走る。

 

しかし、倉庫内は物が多すぎた。足場が悪い。動ける範囲が限られている。なんとか立ち位置を探して回避を続けるが、黒い光が次々と着弾する中で、じりじりと壁際に追い詰められていく。

 

「前にも言った」

 

アルカナシャドウの冷静な声が、閃光の合間に響く。

 

「動きが単純すぎる」

 

回避しきれなかった黒い光が、アンサーの身体を直撃した。衝撃に呑まれ、アンサーの背が壁に叩きつけられる。

 

ミスティックも同じ状況だった。狭い足場の中を後退し続けるが、背後の空間がどんどんなくなっていく。ミスティックはジュエルキュアウォッチを取り出し、長針を一回転させた。

 

「ミスティックリフレクション!」

 

宝石型のオーラが正面に展開し、ミスティックの前面にシールドを形成する。迫る黒い光がシールドに命中し、火花のような閃光を残して弾け飛んだ。一撃、二撃――三撃目でシールドにひびが走る。

 

「危ない……なんとか――」

 

四撃目でミスティックリフレクションが耐えきれず弾け飛んだ。しかし、アルカナスターレインの攻撃もそこで止まっており、防ぎきったと一瞬ミスティックが安堵した瞬間。

 

「目先のものしか見えていないから、後の展開が読めない」

 

息をついたその瞬間には、声は目の前に迫っていた。攻撃の最中、既にアルカナシャドウは間合いを詰めていた。鋭い蹴りがミスティックの胴を捉える。衝撃で身体が浮き、倉庫の空間を横切るように吹き飛ばされ、アンサーの近くに落下する。

 

「アルカナスターレイン」

 

二人が体勢を立て直す間もなく、再び黒い十字星が展開した。よろめく二人に、追撃の黒い光が容赦なく降り注ぐ。回避も防御も間に合わない。連続する閃光が二人の身体を打ち据え、衝撃が重なるたびに膝が崩れていく。

 

最後の一撃が、二人を同時に地面に叩きつけた。

 

「ぐ……うう……」

 

アンサーが這いつくばった。指が床のコンクリートを掻き、身体を起こそうとして、腕が震える。隣のミスティックも同じだ。片手を床についたまま、顔を上げる力を絞り出している。

 

その二人を見下ろすように、アルカナシャドウが立っている。その表情には勝ち誇る色も、侮蔑もなかった。ただ静かに、二人を見据えていた。

 

 

 

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---

 

 

「やはり、あなた達がファントムと戦うには――」

 

倉庫の薄暗い空間に、アルカナシャドウの静かな声が落ちる。

 

「推理も、力も、そして覚悟も。何もかもが足りていない」

 

アンサーとミスティックは床の上でうめき声を上げながら、腕を引き寄せて身体を支えようとしていた。首を起こし、アルカナシャドウの方を向くのがやっとだ。

 

「そんな中途半端な力で、探偵を続けても……真相を追いかけようとしても」

 

一瞬、言葉が途切れた。

 

「……失うだけ」

 

感情の色を映さないはずの紫の瞳が、かすかに揺らいだ。それはほんの一瞬の事で、すぐに元の冷たい光を取り戻していたため、二人はその変化に気付かなかった。

 

「私は……名探偵としては、力不足かもしれないけど……」

 

ミスティックが両腕に力を込め、上半身を起こした。身体中が痛みを訴えている。それでも、声は折れていなかった。

 

「でも、だからって……目の前で起こっている事件を、困っている人たちを放ってはおけない!」

 

アンサーも続いた。

 

「そうだよ……わたし達二人で、事件を解決して……」

 

立ち上がるまでには至らない。膝立ちが精一杯。腕が震え、身体が傾きそうになる。それでも崩れまいとする意志だけが、二人を支えていた。

 

「本物の名探偵に……なるんだから!」

 

アンサーの声が倉庫の天井に反響し、消えていく。

 

アルカナシャドウは二人を見下ろしたまま、動かなかった。追撃する様子もなければ、侮る素振りもない。ただ、二人の言葉を受け止めるように、沈黙している。

 

やがて。

 

「……なら」

 

アルカナシャドウが口を開く。表情は変わらない。

 

「試してあげる」

 

アンサーとミスティックが、「え?」と同時に意外そうな声を漏らした。

 

「あなた達が本当に探偵として真相を目指しているのなら」

 

アルカナシャドウのロッドが、ゆっくりと下ろされた。戦闘の構えが解かれている。

 

「ここに辿り着いたのであれば……分かるはずよね? 事件の真相」

 

二人はアルカナシャドウの言葉の真意を測りかねていた。この質問に、何の意図が? だがアルカナシャドウは弱った二人に追撃する気配はない。そして何より、真相を究明する事は、二人にとっても重要で譲れない一点だ。

 

ミスティックが口を開いた。身体はまだ痛みに軋んでいるが、頭は動く。探偵の思考が、証拠と証言を組み上げていく。

 

「タイムカプセルがこの旧網倉庫にあった以上……真犯人は――」

 

ミスティックの視線が、台車の上の木箱に向けられる。

 

「開発推進責任者の、葛西さん」

 

「タイムカプセルは保管室に保管されていた。……鍵は持ち出せなかったはずじゃなかった?」

 

アルカナシャドウが淡々と返した。まるで試験官が解答を確認するような口調。

 

ミスティックは自分の推理を確かめるように、一つ一つ言葉を紡いだ。

 

「ニジーの証言がある。『保管室から台車でタイムカプセルを移動させた』『誰かが近づいて来たから、戻す余裕もなく逃げ出した』って。でも、磯部さんと真鍋さんは廊下にあるはずの台車を見ていない。鍵を持ってきて保管室を確認した時には、中に台車とタイムカプセルがあった」

 

アンサーがミスティックの推理を引き継ぐ。

 

「ファントムが化けていた二人は犯人じゃなかった。でも……磯部さんと真鍋さんにはタイムカプセルは盗み出せない」

 

再びミスティック。

 

「葛西さんは……車で帰ったように見せかけて、車を別の場所に停めて、港湾会館に戻って来た」

 

推理の輪郭が、鮮明になっていく。

 

「そして騒ぎの発生した時間。ニジー達がタイムカプセルを盗み出そうとしている現場に、一足早くやって来た。自分が来たおかげでニジー達は逃げたけれど、今度は磯部さん達が騒ぎを聞いてやって来た」

 

ミスティックの目が、推理の核心に辿り着く。

 

「だから葛西さんは、台車ごとタイムカプセルを保管室に戻して、中から鍵を閉めた。そして保管室の奥に……身を潜めていた」

 

磯部と真鍋が保管室を開けてタイムカプセルの無事を確認した時、葛西は同じ部屋の中にいた。広く、雑然と物が積み込まれた保管室。暗がりに身を隠す場所はいくらでもある。二人が施錠して去った後、葛西は保管室の中に取り残された形になる。しかし、内側からなら鍵は開けられる。

 

アルカナシャドウが再び口を開いた。

 

「でもそのトリックの場合、外部犯の可能性もある」

 

今度はアンサーが答えた。

 

「鍵の問題が解決できても、タイムカプセルを移動させる問題がある。持ち運ぶのは大変だし、目立つ。それに、あの夜のタイミングで車を使っていたなら……真鍋さんや、変装していたアゲセーヌ、それを目撃した浜口さん。誰かの目に留まるはず」

 

ミスティックが再び推理で状況を解体していく。

 

「タイムカプセルは、夜の間は外に持ち出されていない」

 

視線が、台車の上の木箱に向けられた。タイムカプセルが収められているとおぼしき、何の変哲もない木箱。

 

「葛西さんは、保管室の中にあった別の箱にタイムカプセルを移した。そしてその日は――外ではなく、建物内で処分用の備品を纏める場所に移動させていただけ」

 

入口付近に集められていた処分品。朝、葛西が作業員に指示を出して搬出させていた、あの荷物の中。

 

「保管室を内側から開けたから、朝には鍵が開いていた。そして葛西さんは何食わぬ顔で港湾会館にやって来て、通常業務の流れで作業員にタイムカプセルの入った箱を運ばせた。葛西さん自身が指示を行っているのだから、見知らぬ箱が混ざっている事を指摘する人もいない」

 

ミスティックが推理の終着点に辿り着く。

 

「処分予定の物は、この倉庫に集める事が決まっている。葛西さんが作業員を利用して運ばせたからこそ、タイムカプセルはここに移動されていた」

 

ミスティックが言い終えると、倉庫の中に沈黙が降りた。アンサーはミスティックの横で、推理の全体像を頭の中で反芻している。全ての辻褄が合う。証言の矛盾も、タイムカプセルの所在も、保管室の鍵が朝に開いていた理由も――全て、葛西の行動によって説明がつく。

 

真相は明かされたはずだった。しかし。

 

「……動機」

 

アルカナシャドウの一言が、沈黙を破った。

 

アンサーとミスティックが、再び「え?」と戸惑った表情を浮かべる。

 

「分かっているでしょう」

 

アルカナシャドウの声は、先ほどと変わらず静かだった。

 

「葛西はファントムの人間じゃない。マコトジュエルを狙っているはずもない。だとすれば――タイムカプセルを狙った理由、動機があるはず」

 

「そ、それは……」

 

ミスティックが言葉に詰まる。アンサーも同じだ。二人は怪盗団がマコトジュエルを狙っているという前提で動いてきた。葛西が真犯人だと判明したのはついさっきの事で、彼の行動の背景を調べる時間はなかった。

 

「動機が分からないのなら、70点。……不合格ね」

 

アルカナシャドウの声には、評価者の冷厳さがあった。

 

ミスティックは唇を噛み、拳を震わせた。言い返す材料がない。しかし、アンサーはアルカナシャドウの口ぶりから、ある事を察した。

 

「待って!……あなたは、あなたには、動機が分かっているっていうの?」

 

アンサーの問いかけを聞いて、アルカナシャドウの視線が、台車の上の木箱に向けられた。しばしの沈黙の後、アルカナシャドウが、ぽつりと言った。

 

「……再開発計画」

 

そしてまた少しの間。

 

「葛西は再開発計画の先頭に立って活動している人物。……その再開発計画に対する反対派住民には、頭を悩ませているみたいね」

 

アルカナシャドウの語りが始まった。紫の瞳が、再び二人に向けられる。

 

「そんな人物が消したいものって、なんだと思う?」

 

ミスティックは戸惑いながらも、頭に浮かんだものを順番に口にした。

 

「それは……再開発計画に、都合の悪いもの……?」

 

ミスティックの言葉を聞いて、アンサーの背筋に、冷たいものが走った。嫌な予感が膨れ上がる。この先を聞いてはいけないと、心のどこかで誰かが叫んでいる気がした。けれど、アルカナシャドウの言葉は止まらなかった。

 

「反対派代表の浜口さんが言っていたでしょう?」

 

あんな達が外で目にした、あの対峙の光景が蘇る。浜口の怒りの籠った太い声。

 

「『海辺の地域は住民の公共の場として残す約束があった』『書類だって残ってるはずだ』って」

 

アンサーとミスティックの表情が、強張っていく。

 

「ま、まさか……」

 

「書類は実在したの」

 

アルカナシャドウが感情を排した声で続けた。

 

「三十年前、港湾整備事業の際に市と漁協の間で交わされた覚書。『潮凪地区臨海部の将来的な土地利用に際しては、海浜の公共性を維持し、住民の海への自由なアクセスを恒久的に確保するものとする』という内容」

 

言葉の一つ一つが、倉庫の空気に刻まれていく。

 

「漁業者が浜を明け渡す代わりに、将来も海が住民のものであり続ける事を市が約束した文書。それには法的な拘束力がある」

 

アンサーとミスティックの脳裏に、あの完成予想図が浮かび上がった。葛西の語っていた、海辺の広場を潰して、商業施設が並ぶという計画も。

 

「葛西は、自分達の開発計画に邪魔になるその覚書を握りつぶして、処分した。……当時の事を覚えている市民が少ない事を利用して」

 

アルカナシャドウは相変わらず無表情で淡々とした口調だったが、その平坦な声に、微かに侮蔑の色が滲んだ。

 

「だけど誤算があった」

 

声色を戻し、アルカナシャドウは続ける。

 

「開発計画を進める中で、当時埋められたタイムカプセルを掘り起こす事になってしまった」

 

三十年前のタイムカプセル。港湾整備事業の完成記念。当時の人々の想いが詰まっている。だが、実際にはそれだけではなかった。

 

「葛西は思い出したの。タイムカプセルの中に、覚書のコピーが一緒に入れられていた事に。彼もその当事者だったから。若手の職員として、タイムカプセルを埋める現場に居た」

 

記念品と一緒に、覚書の写しを入れておく。深い意味はない行為だったのかもしれない。当時の市と住民達の約束を、思い出と共にタイムカプセルの中に入れたのかもしれない。それが三十年の間、地中の暗闇の中で眠り続け、誰の記憶からも消えていた。

 

「それが今になって意味を持ってきた。覚書のコピーが公になれば、開発計画は根本から覆される。葛西は、それを速やかに処分する必要に迫られた」

 

タイムカプセルを住民に開封させる訳にはいかない。中身を見られれば、全てが終わる。自分の嘘も暴かれる可能性がある。

 

「昨日の夜は細工をしに来たのか、それともそのまま盗むつもりだったのか……結局、ニジーとアゲセーヌが盗み出そうとした状況を利用する事にしたみたいね」

 

偶然の産物だった。怪盗団の二人が先に動いた事で、疑いの目は自然と彼らに向く。葛西はその混乱に紛れ、自分の犯行を巧妙に隠した。

 

「夜に現場にいた者に疑いを向けつつ、業者を利用してここにタイムカプセルを移動させた。ほとぼりが冷めたタイミングで処分するつもりだったんでしょう」

 

今度こそ、全ての真相が明らかになった。

 

倉庫の中に沈黙が満ちた。これまでより、重く、深い沈黙が。天井の高い空間に、かすかな潮風の音だけが届いている。

 

 

---

 

 

「……もし」

 

アンサーの声が震えていた。

 

「もし、覚書がある事が公表されたら……」

 

アルカナシャドウの瞳が、鋭くアンサーを射抜く。

 

「この地区は再開発計画の要。計画を推し進める代表者が、公文書の破棄と隠蔽を行っていた――などという事が世間に知られたら」

 

一拍の間。

 

「再開発計画は……白紙に戻るでしょうね」

 

アンサーの中で、断片的だった情報が繋がっていく。パズルのピースが次々と嵌まる度に、胸の底が冷えていく。

 

――怪盗団の二人がタイムカプセルを盗んだ。

 

――タイムカプセルの中には、覚書のコピーがあった。

 

――タイムカプセルの中身が抜き取られていた。

 

自分の居た未来。そこに繋がる歴史の中で――タイムカプセルの中身はファントムに盗まれた。だから覚書は世に出なかった。ファントムの二人がタイムカプセルの中身を盗み出し、覚書のコピーは闇に消え、再開発計画は何事もなかったかのように進み――あんなの知るマコトミライタウンが、生まれた。

 

「じゃあ……じゃあ……」

 

アンサーは両手を地面についた。顔を伏せる。肩が、小刻みに震えている。

 

「わたしの住んでいた町は……マコトミライタウンは…………嘘の上に……成り立ってたってこと……?」

 

住民は再開発計画に反対していた。覚書は、その主張に正しさを与える法的文書。覚書が公表されれば、再開発計画は中止になるはずだ。

 

なのに――自分の知る未来では、計画は実行された。あの街並みは完成し、あんなはそこで生まれ育った。母親と手を繋いで歩いた遊歩道。学校への通学路。高層マンションから見える空。あの全てが――嘘で塗り固められた土台の上に建っていたのだとしたら。

 

懐かしいあの光景が。温かかったあの思い出が。まるで泥水を塗りつけられたように、汚れていく。

 

「あ、アンサー……」

 

ミスティックが声をかけようとしたが、先ほどと同じように、言葉が続かない。自分の存在の根幹が嘘の上に成り立っていたという衝撃を、どんな言葉で受け止められるというのか。

 

「あなた達は、真実ではない事が嘘だと、間違っている事が嘘だと……そう思っている」

 

アルカナシャドウのその言葉は、慰めだったのか、それとも宣告だったのか。

 

「……でも、違う。真実というものは、作り出せるものなの。力ある者の手によって」

 

その言葉を聞いて、アンサーはこれまでの人生の中で、埋もれて隠されていた真実の上を土足で歩いていたのだという事に気づいた。

 

天文台の事件の事が再び呼び起こされる。あの事件の前、アルカナシャドウは自分に『求められていない真実を前にした時、その重みに耐えられるか』と問い掛けた。「真実を解き明かすのが探偵の仕事だから」と無邪気に返していた自分。だが実際には、都合の悪い真実を前にして、言葉が返せないでいる。

 

天文台の人々が隠された真実を知った時、こんな気持ちだったのだろうか。アンサーは今更ながらに、自分達が生み出した傷の痛みを、その深さを理解したような気がした。

 

「これがあなた達の求めていた、真実」

 

アルカナシャドウは全てを語り終えたようだった。

 

「……もういい? あなた達は真相にはたどり着けなかった。そして、私を止める力もない」

 

アルカナシャドウが二人に背を向けた。台車に向かって歩き出す。

 

「待って!」

 

ミスティックが叫んだ。

 

「タイムカプセルをどうするの!?」

 

その言葉に、アンサーがはっとした。

 

アルカナシャドウは歩みを止め、顔だけで振り返った。紫の瞳が、冷たくミスティックを見た。

 

「……そんな事は、あなた達には関係がない」

 

突き放すような言葉。しかしアンサーには、彼女の口にしていない意図が見えた。かつての記憶が蘇る。

 

宝生美術館。アルカナシャドウと初めて対峙した事件。あの時、アルカナシャドウは結果的にマコトジュエルを手にする事はなかった。しかし、彼女の行動の結果として、美術館に展示されていた美術品が偽物である事実が公にされた。あの事件の後、あんなとみくるは互いに思った。「アルカナシャドウの目的は、最初から美術館の不正を暴く事だったのではないか?」と。

 

あの時の行動と、今の行動が重なる。覚書の存在。葛西の嘘。彼女はそれを明確に意識しており、その裏側の全てを調べた上で、このタイムカプセルを盗み出しに来た。

 

――『真実を譲る気はない』。

 

アンサーは確信する。彼女は、覚書の存在を公表するつもりだ。葛西の嘘を暴き、住民との約束が踏みにじられた事実を、世に出す。

 

ミスティックも、アンサーと同じ結論に辿り着いていた。そして、アンサーのその感情を自分の事のように重ねていた。今、自分達が考えている通りだとしたら。

 

アルカナシャドウのその行動は――正しい。

 

葛西は自身の利益のために法に抵触する行為を行っている。覚書を処分し、住民の権利を踏みにじり、「そんな文書は存在しない」と嘘をついている。浜口の「書類があったはず」という主張は正しく、反対派の訴えは正当なものだった。それを踏み潰し、住民達の方が嘘を言っているとして、全てを闇の中に葬ろうとしている。

 

それを正せるのは、今しかない。再開発計画がまだ始まったばかりの今、覚書を公表する事でしか、この嘘は止められない。

 

――しかし。

 

アンサーの心臓が、胸を叩き割るように強く脈打った。

 

しかし――もしそうしてしまったら。

 

既に、自分の住んでいた未来への道は歪み始めている。完成予想図と記憶の齟齬。母の証言と食い違う現実。

 

もし今、真実を公表したら。再開発計画は中止になる。この潮凪地区は近代都市として生まれ変わる事なく、マコトミライタウンは――自分の居た未来は――無くなる。

 

母が消える。家が消える。通学路が消える。友達が消える。誕生日が消える。自分という存在が居た場所が、消える。

 

アルカナシャドウが台車に向かって歩き出した。その背中に向けて、声が投げかけられる。

 

「駄目……だよ……」

 

アルカナシャドウが振り返ると、キュアアンサーが立ち上がろうとしている所だった。膝に手をつき、身体を引き上げ、ふらつきながら。

 

けれどその姿には、真実に立ち向かう探偵の意志は感じられなかった。身体はよろめき、足元はおぼつかず、視線は定まっていない。

 

「お母さんが……待ってるの……」

 

その言葉は、誰に向けたものなのかも分からない。

 

「お誕生日会……わたしの、誕生日」

 

口元だけが笑みの形を作っている。目は笑っていなかった。焦点の合わない瞳の奥で、記憶の中の光景が明滅している。

 

「お母さんが、誕生日プレゼント……買ってくれるって……」

 

声は柔らかかった。今にも潰れてしまいそうなほどに。

 

アンサーは考えている。アルカナシャドウを、止めなければいけないと。その行動に、正義はない。覚書は本物で、葛西の不正は事実で、浜口たちの主張は正しい。真実は、アルカナシャドウの側にある。

 

でも。

 

「わたし、帰らないと……」

 

このまま彼女が行く事を許してしまったら。彼女が真実を公表する事を認めてしまったら。自分の帰るべきあの未来が――消える。マコトミライタウンの家。母と歩いた思い出。いや、もしかしたら、自分自身の存在さえも。

 

アルカナシャドウを、止めなければならない。未来を守るために。

 

そう、たとえ――

 

 

「約束、なの……」

 

もう一つの声が、倉庫の空気を揺らした。

 

キュアミスティックも、同じように立ち上がっていた。やはり身体をふらつかせ、片足が崩れかけるのを反対の足で支え直しながら。その瞳は、アルカナシャドウも、真実も、何も見据えていない。

 

「あんなは……私の、最初の依頼人」

 

ミスティックの脳裏に、あの日の事が呼び覚まされていた。あんなと出会い、キュアット探偵事務所を立ち上げた日。あんなを未来に返す――探偵としての、最初の依頼。

 

「だから、その約束だけは……絶対に、果たさないと」

 

失敗を重ねた。間違った推理で、無実の人を追い詰めかけた。自分は名探偵にはなれないと何度も思った。

 

でも、それでも。一歩を踏み出すきっかけをくれた親友との約束。それだけは。

 

「守らないと……いけないの」

 

探偵として未熟でも。名探偵失格でも。推理を何度間違えても。あんなを未来に返す。その約束だけは、絶対に守らなければいけない。

 

そう、たとえ――

 

 

 

――嘘で真実を覆い隠したとしても。

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

その瞬間。アンサーとミスティックの目が、同時に見開かれ、瞳の奥に、赤い光が灯った。

 

二人が背筋を伸ばす。先ほどまでのふらつきが嘘のように消え、身体がまっすぐに立ち上がる。しかし、その動きはどこか無機質だった。意志で動いているというよりも、糸で引かれた操り人形のように、生気のない動き。

 

二人の身体から、じわじわと、にじみ出るように赤いオーラが沸き上がり始めた。

 

「これって、ウソノワールの!?」

 

マシュタンが驚きの声を上げたが、アルカナシャドウは即座に否定した。

 

「違う。ウソノワールは干渉していない。二人の中から、嘘の力が溢れ出している……!」

 

アルカナシャドウの表情に、初めて明確な動揺が走った。

 

「ポチィ!」

 

ポチタンが叫び、二人の前に躍り出る。

 

「あんな! みくる! だめ!」

 

小さな身体を必死に広げ、二人の前に立ちはだかる。しかし、今の二人にポチタンの声は届かなかった。

 

赤い光が二人を包んでいく。その中で、感情を宿さない二人の唇が、同時に動く。

 

その呪いの言葉は、遠くのどこかからではなく、二人のその口から直接発せられた。

 

「「嘘よ覆え」」

 

その宣言と共に、赤いオーラが爆発するように膨れ上がり、二人の全身を呑み込んだ。

 

キュアアンサーの紫の髪が、闇を含んだ暗紫色に沈んでいく。衣装が変形し、刺々しいシルエットを作り上げていく。

 

キュアミスティックの髪もまた変色していく。赤桃色が、血のような濃い紅色へ。衣装のシルエットが鋭く変化していく。

 

二人の衣装に、黒い十字星のシンボルが刻まれた。腰からは蝙蝠の翼のようなケープが伸び、左目を囲う黒いマスクが浮かび上がるように出現する。そして右目の下には、黒い十字星のペイント。

 

開かれた瞳に、光は宿っていなかった。暗紫色の少女が、正面を見据えて口を開いた。鋭く、邪悪な目つき。薄笑いが口元に浮かんでいる。

 

「あらゆる答えをはなまる確定! 名解盗、キュアライアンサー!」

 

濃紅色の少女が、同じ薄笑いを湛えて続けた。

 

「織りなす証拠で栄誉を奪取! 名解盗、キュアミステイク!」

 

二人が鏡合わせのポーズで正面を指差した。けれどその手の形が示すのは、銃口を突きつけるような形。相手に終わりを宣告するかのように、アルカナシャドウに指が向けられている。

 

「「名解盗プリキュア!」」

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

キュアライアンサーが薄笑いを深くした。

 

「解答は、わたしが決めるよ」

 

旧網倉庫の空間に、嘘の力で覆われた二人のプリキュアが――名解盗プリキュアが、誕生した。

 

 

---

 

 

「嘘の力の……プリキュア」

 

アルカナシャドウが身構えた。ティアアルカナロッドを正面に据え、重心を低くする。先ほどまでとは違う、明確な警戒を含んだ構え。

 

目の前に立つ二人の姿は、数秒前まで地面に這いつくばっていた者達とは別人だった。傷つき、息を切らし、身体を支える事すら困難だったあの姿がまさに"嘘"であったかのように――暗紫色と濃紅色の二人は、余裕ある態度でアルカナシャドウを見据えている。

 

「タイムカプセルは、渡してもらうよ」

 

ライアンサーが一歩前に出た。キュアアンサーだった時の真っ直ぐな声は消え、口元に浮かぶ薄笑いと共に、挑発的な声が倉庫に響く。

 

「はなまるな解答に、必要だから」

 

「ええ、あなたにそれを持って行ってもらっては困るの」

 

ミステイクが並び立った。キュアミスティックの落ち着いた知性は影を潜め、代わりに浮かんでいるのは、全てを見下すような冷たい微笑。

 

アルカナシャドウの瞳が、二人を交互に捉えた。警戒はするが、揺らぎはしない。相手が誰であろうと、彼女の意思は変わらない。

 

「言ったはずよ。……真実を譲る気はないと」

 

アルカナシャドウがロッドのカードを弾いて回転させた。杖を大回りに動かし、軌跡を描いていく。黒い十字星を展開するための起動動作。

 

「アルカナスター――」

 

動作が、止まった。ロッドが描く軌跡の先に、何も生まれない。黒い十字星が展開しない。力を込めているのに、杖が応えない。

 

アルカナシャドウの視線が、ライアンサーに向けられる。ライアンサーの手には、黒い表紙の本とペンが握られていた。ファントムブック。開かれたページには、逆回転の花丸マークと共に、文字が記されている。

 

『キュアアルカナ・シャドウはアルカナスターレインを使えない』

 

「……ファントムブック」

 

アルカナシャドウはライアンサーが能力を発動した事を即座に理解するが、動揺は見せない。いたって冷静だった。

 

「そんなまやかしは、私には通用しない」

 

アルカナシャドウは知っていた。ファントムのアジト、ウソノワールの劇場で、これまでのキュアライアンサーとキュアミステイクの戦いを見ていた。その中で、ライアンサーのファントムブックの本質に気づいている。

 

あの本は、記述した内容を無条件で強制する訳ではない。言葉巧みな誘導で相手に記述内容を信じさせる事で、初めて真価を発揮する。つまり、その記述に囚われないという意思を示せば、効力は打ち破れる。

 

アルカナシャドウが改めてロッドを構え直した。

 

「少しでも隙を作れれば、それでいいのよ」

 

声は右後方から聞こえた。

 

ミステイクが姿を消している事に――ファントムライトで自身の姿を隠蔽している事に、アルカナシャドウは気づいていた。ファントムライトによるステルス能力。光を歪め、自身の姿を完全に消す。更にミステイクはファントムボイスメモによって、発する音の方角を自在にコントロール出来る。

 

今聞こえた声が右後方。だが、そこから攻撃が来るとは限らない。音の方向は操作されている。かといって、本体がどの方角にいるかを特定する手段もない。

 

一瞬の判断で、アルカナシャドウは即座にその場から跳躍した。ミステイクがどのような攻撃を狙っていたとしても、真上からの襲撃はまず有り得ない。高さを取る事で選択肢を狭める。

 

空中で、再びロッドのカードを回転させた。今度は杖を振るう動作に一切の迷いがない。決して揺るがぬ意志で、軌跡を描く。

 

「アルカナスターレイン」

 

ライアンサーのファントムブックの記述が掠れ、消えていく。拒絶された嘘が力を失う。

 

黒い十字星が展開し、それぞれから地面に向かって黒い光が降り注いだ。一条ではない。十を超える閃光が、まさに雨のように倉庫内を叩く。

 

狙う事は出来ない。相手の姿が見えないのだから。しかし、姿が見えなくても、実体としてのミステイクは必ずこの空間のどこかにいる。絨毯爆撃のように降り注ぐ黒い光が、倉庫の床を、廃棄品を、空気そのものを打ち据えていく。

 

ミステイクが慌てる気配――くっ、と短い声が漏れ、次の瞬間、攻撃が何かに命中した手応えがあった。ライアンサーも攻撃の余波を受けて後退している。

 

アルカナシャドウは敵への有効打を確信する。だが、そう思った次の瞬間、地面に広がる土煙を切り裂き、黒い一筋の光が空中のアルカナシャドウに向けて飛んできた。

 

アルカナシャドウの目が見開かれる。空中から落下し始めた現在の体勢では回避の余地がない。自身が放ったはずの黒い閃光が、自分の身体に突き刺さった。

 

「ぐっ――」

 

光が爆発となって弾け、衝撃が全身を走り抜ける。

 

「……ミステイクリフレクション」

 

土煙の下から、ミステイクの姿が浮かび上がる。空中に傘のように展開された、淀んだ色の宝石型オーラ。攻撃が命中したかに見えたミステイクは、展開した防御壁で閃光を反射していたのだ。

 

アルカナシャドウが回転しながら落下していく。反射された光線のダメージと反動によって身体の制御を奪い、着地点の計算が狂う。その落下地点に向かって、暗紫色の影が駆け込んでいた。

 

ライアンサーがフェイクキュアウォッチの長針を逆回転させ、禍々しいオーラが右拳に集約されていく。キュアアンサーのアンサーアタックと同じ動作――しかし、纏うオーラの色は禍々しく、より明確な攻撃性を宿している。

 

「ライアンサーアタック!」

 

体勢を崩しながらもアルカナシャドウは着地し、咄嗟にロッドによる防御の構えを取ろうとした。だが、持ち上げた右腕に重量が感じられない。

 

視線が走った。ティアアルカナロッドが手元にない。視線の向かう先が手から滑って床の先に。自分が着地した位置から数メートル離れた床に、ロッドが無造作に転がっている。

 

――ダメージを受けた時に落とした? そんな馬鹿な。直撃を喰らった所で、攻撃の要になる武器を手放すはずがない。アルカナシャドウの一瞬の思考。

 

『キュアアルカナ・シャドウはティアアルカナロッドを持てない』

 

ライアンサーは、攻撃に入る前にファントムブックに新たな記述を行っていた。アルカナシャドウはファントムブックの弱点を見抜いている。記述を拒絶する意思を示せば打ち破れる。しかしそれは、記述の存在を認識した上での話だ。意識の外で発動した力は、その一瞬だけは確実に効力が発揮してしまう。攻撃を受けた瞬間となれば尚更だ。

 

アルカナシャドウは瞬きするほどの一瞬でその仕掛けに気付いたが、その一瞬ですら致命的な遅延だった。アルカナシャドウが次の行動を決定する前に、ライアンサーの拳は目の前に迫っている。

 

アルカナシャドウは咄嗟に両腕を交差させ防御する。だが、その程度の防御ではほぼ直撃と変わらない。

 

「ぐぅっ――」

 

オーラがアルカナシャドウの交差する腕の中で弾け、その衝撃から来るダメージによって、明確な苦痛の声がアルカナシャドウの喉から漏れた。足が地面から浮いた。オーラの拡散と共に吹き飛ばされたアルカナシャドウは背中から壁に叩きつけられ、壁面を削りながらずり落ちていく。

 

「アルカナシャドウ!」

 

マシュタンが、普段の余裕ある態度を完全に失った声で叫ぶ。

 

アルカナシャドウは壁から崩れた破片を身体からぱらぱらとこぼしながら、壁面からかろうじて身体を起こした。全身が軋む。視界が揺れている。そんな彼女を見据えて、ライアンサーとミステイクが横並びに立った。

 

「「クローズ! ファントムミラールーペ!」」

 

その掛け声と共に、二人の手の中で光が収束した。黒い見た目に変色したミラールーペが、本来のサイズに戻ってそれぞれの掌に収まる。

 

戦いの様子を不安そうに見つめていたポチタンのペンダントがポチタンの意思と関係なく輝きを放ち、慌てるポチタンの胸元から二つの光が飛び出した。

 

「「マガイジュエル!」」

 

ポチタンが生み出したのは真実の力を宿すマコトジュエルだったはずだった。しかし、それが二人の手に収まった瞬間、宝石は淀んだ色に変質していた。偽りの宝石――マガイジュエルへと。

 

ライアンサーとミステイクがマガイジュエルをファントムミラールーペにセットする。ミラー部分を展開し、ルーペ形態へと変形させると、中央の宝石部を回転させる。回転を繰り返す度、禍々しいエネルギーが渦を巻くように高まっていく。

 

「隠して」ライアンサーが。

 

「欺き」ミステイクが。

 

「「奪い取る!」」

 

二人の声が重なる。

 

「「これが、決定された、アンサーだ!」」

 

ライアンサーが左手に、ミステイクが右手に、ファントムミラールーペを持つ。鏡写しのように並んだ二人が、ルーペを正面に構えた。

 

「「プリキュア! フォーリング・スペクター!」」

 

二つのルーペから、邪悪な波動が放たれる。赤黒いエネルギーが螺旋を描くように絡み合い、混ざり合い――黒い鳥のようなエネルギー体となって、倉庫の空間を切り裂きながら飛んでいく。翼を広げた亡霊のようなシルエットが、アルカナシャドウに向かって一直線に突き進む。

 

アルカナシャドウは何とか立ち上がった。攻撃は既に目の前に迫っている。防御や相殺のような行動は不可能。彼女は残された力を振り絞り、全力で横に飛びのく。

 

黒い鳥のエネルギーが、アルカナシャドウの身体を掠めた。一見すると回避に成功したように見えたが、強力なエネルギーが生み出す渦が彼女を確実に巻き込んでいた。エネルギーの奔流がアルカナシャドウの身体を引き込み、回転させ、圧力されたエネルギーに接触させ、そして弾き飛ばした。

 

光がアルカナシャドウを包む。衣装や髪の変化が時計を撒き戻すかのように元の形へと収束していき、地面に転がって光の粒子が弾けた後、そこに残っていたのは力なく地面に倒れるるるかの姿だった。

 

「アルカナシャドウ!」

 

マシュタンが慌ててるるかの元に飛んでいった。小さな身体でるるかの肩を揺する。

 

「ねえ、しっかりして! 起きてったら!」

 

返事はない。るるかは目を閉じたまま、動かなかった。完全に意識を失っている。息はしているが、立ち上がる気配はない。

 

「タイムカプセルは、もらっていくよ」

 

倒れたるるかを一瞥して、ライアンサーが台車のハンドルに手をかけた。薄笑いを浮かべたまま、勝ち誇ったように。

 

「私たちの"真相"のためにね」

 

ミステイクが冷たく付け加えた。

 

タイムカプセルが入れられた箱。それを乗せた台車を、ライアンサーとミステイクが倉庫の外へと押し出していく。車輪が倉庫の床を転がる、乾いた音。

 

「あんな……みくる……!」

 

ポチタンが二人の後を追おうとした。だが、二人が纏ううっすらとした赤いオーラの層、それがポチタンを拒絶するように広がり、ポチタンは一定の距離以上近づく事が出来ない。二人の事を必死で想うポチタンだったが、二人に触れる事すら許されなかった。

 

ポチタンの小さな声は、遠ざかっていく車輪の音に掻き消されるくらい小さくなっていく。

 

倉庫の入口から差し込む午後の光の中に、二つの暗い影が消えていく。残されたのは、意識を失ったるるか。そしてマシュタンとポチタンの妖精の二人だけ。

 

るるかに対するマシュタンの必死な声も、二人に向けたポチタンの悲痛な声も、そのどちらも、パートナーには届いていなかった。

 

 

---

 

 

潮凪港湾会館の内部は、停滞した空気に包まれていた。

 

一通りの事情聴取は終わったようだが、肝心のタイムカプセルの行方は依然として分からない。制服姿の警官達が入口付近で顔を突き合わせ、外への捜索について話している。関係者も住民もそれぞれの場所に留まったまま、進展を待つ以外に出来る事がない――そんな重苦しい沈黙が、会場を支配していた。

 

そんな沈黙を破るように、入口の方から、二つの影が姿を現した。

 

優雅に、しかし堂々と。まるでこの場が自分達のために用意された舞台であるかのように、迷いのない足取りで。暗紫色の衣装に身を包んだ少女と、濃紅色の衣装の少女。蝙蝠の翼のようなケープが、歩みに合わせてゆらりと揺れる。

 

人々の視線が、不思議とその二つの影に吸い寄せられた。何者なのか分からない。見た事のない姿。けれど目を逸らす事が出来ない。場を支配する不可思議な存在感。

 

キュアライアンサーと、キュアミステイク。二人の嘘のプリキュアが、そこに居たが、その手にはタイムカプセルはない。

 

「あなた達は……?」

 

磯部が戸惑いの声を上げた。警官達も異様な姿の二人組に気づき、身構えている。

 

ライアンサーが口を開いた。

 

「わたし達は、名解盗プリキュア」

 

声は柔らかかったが、その柔らかさの奥に、冷たい芯があった。ミステイクが続ける。

 

「タイムカプセル盗難事件の、真相を伝えに来ました」

 

その言葉に、会場がざわめいた。正体の知れない二人の存在に、場に居た人々は気圧され始めている。警察がいるという状況でありながら、異質な空気を纏った二人の前では、誰もが口を挟む事を躊躇している。

 

ミステイクが一歩前に出た。

 

「タイムカプセル盗難事件の犯人。それは……」

 

冷静な声。しかし、その指先は真っ直ぐに一人の人間を指し示していた。

 

「……浜口源蔵さん。あなたです」

 

会場の空気が凍りつく。浜口は一瞬驚いて目を大きくしたが、すぐにそれが細まり日焼けした顔に怒りの色が走る。

 

「いきなり、何を言い出すんだ!」

 

怒号が会場に響いた。それは当然の反応だ。彼に心当たりなどない。それに、犯行が行われたのが潮凪港湾会館である以上、彼は容疑者からは遠い位置にいるはずだった。

 

「わしはそもそも、この会館自体に来てないんだぞ!」

 

浜口の声は太く威圧的だったが、ミステイクは微動だにしなかった。

 

「あなたは会合の帰りに、鳴海さんがこの建物から出て来るのを見たと言っていましたね?」

 

淡々とした口調で返す。

 

「容疑を他人になすりつけるつもりだったのかもしれませんが、うかつでした。あなたは自分がこの会館の近くにいた事を、自ら口走ってしまった」

 

浜口の表情が僅かに揺れる。「それは……帰り道の途中で――」

 

ミステイクはその弁明を待たず、更に推理を展開した。

 

「あなたは近くを通りがかっただけではなく、密かに建物内に侵入していたんですよ。警備員が出入口を封鎖する前……職員もほとんど残っていませんでしたから、中に侵入して潜伏するのはたやすい」

 

指先が宙を切る。推理の構図を人々に示すように。

 

「警備員が出入口を封鎖した後は、確かに出入りは難しくなります。でも、中は逆に人がいなくなって自由に動ける。人の居なくなった建物内で、堂々と事務室から鍵を取り、保管室の鍵を開けた――という訳です」

 

「何を馬鹿な事を……」

 

ミステイクの推理を浜口は否定した。しかし、その声の勢いは、わずかに落ちていた。二人の語り口に気圧されているのか、それとも、展開される推理の奥にある得体のしれないものを感じ始めているのか。

 

「ですが」

 

磯部が口を挟む。

 

「鍵が持ち出せて保管室に入れたとしても、その後どうやって持ち出すのですか? あの大きさのカプセルを……」

 

その疑問に答えたのは、ライアンサーだった。

 

「浜口さんは、夜の間はずっと建物内にいたんだよ」

 

軽い口調。場違いなほど軽快で明るい語り口は、逆にある種の不気味さを纏っていたが、その言葉に人々は心を囚われていく。

 

「警備員さんが居なくなったタイミングを見計らって、裏口から外に出たの」

 

今度は真鍋が声を上げた。

 

「しかし、朝も磯部さんや私は早くに来ていたし……葛西さんの指示で作業員も外で多く動き回っていた。裏口は海側ですが、どちらにしても正面の方に出てこなければいけなかったと思いますが」

 

浜口も便乗する。「そうだ、わしの家まではここからそれなりに距離がある。朝だからって、誰かに見られてた可能性は高いだろう」

 

ミステイクが、ふふ、と笑った。軽やかな、しかし冷たい笑い。

 

「いえいえ、そんな事をする必要はないんですよ」

 

ミステイクの意味深な視線が真鍋に向けられた。

 

「"裏口は海側"……まさにそれが答えです」

 

会場が静まり返った。

 

「浜口さんは、タイムカプセルをどこかに持ち運ぶ必要なんてなかった。……裏口から海へ行き、海にタイムカプセルを投棄すればいいのですから」

 

ミステイクの声が、静寂の中に落ち、波紋が広がるように驚きの声が上がった。

 

「浜口さんはタイムカプセルをどうしても見つからないよう処分したかった。しかし海に投げ捨てても、浜に打ち上げられる可能性が存在する」

 

ミステイクは得意げに語り続け、途中で視線を浜口に向ける。

 

「しかし浜口さん、あなたは昔、漁師をしていましたね?」

 

浜口は困惑した面持ちで答えた。「あ、ああ、そうだが……」

 

「長年漁師をしていた浜口さんには、潮の流れがよく分かっている。タイムカプセルが打ち上げられて戻って来ないよう、計算して海に捨てて処理する事が……あなたになら出来る」

 

浜口という人間の背景を利用する事で、存在しない真実にもっともらしいディティールを書き加えていく。その頃にはもう、二人の偽りの名探偵の言葉を、周囲の人々が信じ始めていた。

 

頷く者がいる。目を合わせて囁き交わす者がいる。浜口の方を疑いの目で見る者がいる。積み上げられた推理と、二人の圧倒的な存在感が、人々の判断力を侵食している。

 

「わしが……わしがそんな事をして、何の意味があるっていうんだ!」

 

浜口の反論の力も衰え始めていた。声は強いが、どこか弱々しさが滲み出ている。

 

ライアンサーが浜口に向けていた顔が悲しげに変わった。同情するような、哀れむような表情。しかしそこには、慈悲を装った残酷さが隠されていた。

 

「浜口さん。『海辺の地域は住民の公共の場として残すって約束があったはず』って、主張してましたよね」

 

ライアンサーの言葉に、静観していた葛西が一瞬だけ顔を強張らせた。だが心の動揺を周囲に悟られないように表情を意識的に戻す。

 

浜口は強く頷いた。「そうだ。その約束も、覚書も、確かにあったはずだ」

 

ライアンサーは可哀想なものを見るような表情で浜口を見る。

 

「浜口さん……あなたの海を想う気持ちは、本物なんですね。漁師として、海は生活そのもの」

 

声は柔らかい。優しさすら感じさせる。だからこそ、次の言葉はより残酷に響いた。

 

「だから……そんな約束事があったなんて、嘘を言ってしまった」

 

会場の空気が変わる。動揺の声は、特に浜口の背後にいる反対派の住民たちから漏れた。浜口を信じてここに集まった人々。覚書が存在すると信じて、共に声を上げてきた人々。

 

「何を言って……」

 

浜口は困惑していた。自分に向けられている言葉の意味が、咄嗟には理解できないでいる。

 

「市との約束も、覚書も、本当は無いんでしょう?」

 

ライアンサーの声のトーンは変わらない。あくまでも同情を装ったまま。

 

「浜を守りたい一心で、嘘をついてしまった……でも、そこで問題が出てきてしまったんです」

 

ライアンサーの目が、鋭く射抜くように細くなる。

 

「タイムカプセルの存在。当時の想いを詰め込んだカプセルは、浜口さんにとっては時限爆弾だったんです」

 

浜口はライアンサーの言葉の意図が分からない様子で戸惑っている。

 

「タイムカプセルが開かれて、中に収められた当時の事情を示す記録や資料、書類や新聞が出てきてしまったら。浜口さんの主張する内容が嘘だったという事がバレてしまう危険性があった。……だから、タイムカプセルの存在そのものを、無かった事にしようとしたんです」

 

ライアンサーの言葉は事実の逆転だ。

 

本来は葛西こそが覚書を握りつぶした人間であり、タイムカプセルに覚書のコピーが入っている事を恐れてカプセルを隠した。浜口の主張は正しく、覚書は実在した。それを、完全に裏返して嘘と真実を逆転している。

 

「それに加え……開発推進派が行った事、と主張する事で、開発計画の妨害も行おうとしたんでしょうね」

 

ミステイクが付け加える。

 

ライアンサーの手元に、いつの間にか黒い本が握られていた。ファントムブックの開かれたページに、ペンが滑る。

 

『浜口源蔵は嘘の発覚を恐れてタイムカプセルを隠滅し、その罪を開発推進派になすりつけようとした』

 

ライアンサーが逆回転の花丸マークを記した直後、周囲の人々の目に、赤い光が一瞬だけ宿った。それまで積み上げられた推理と、そしてライアンサーのファントムブックによる一押しによって、人々は二人の推理を完全に信じ始めている。

 

反対派の住民達から、悲痛な声が上がった。

 

「浜口さんが……まさかそんな事を」

 

「覚書があるって、信じてたのに……」

 

信頼していた仲間への失望。裏切られたという感情。それらが浜口に集中している。

 

「違う。違うんだ」

 

浜口は必死だった。太い声が、弱々しく、悲鳴のように響きになっていた。

 

「わしは昨日は会合の後、家に帰って……」

 

「家に帰った。……それを証明できる人はいますか?」

 

ミステイクが静かに、しかし追いつめるように言った。

 

浜口が言葉に詰まる。「それは……」

 

「浜口さん、息子さんはいるけど、今は一人暮らしなんだよね」

 

ライアンサーの声は、あくまでも浜口に同情する響きを保っていた。

 

「そして……だからこそ、奥さんとの思い出がある浜を、守りたかったんだ」

 

まるで浜口の心に寄り添うかのような言葉。しかし、彼に優しさを見せているようでいて、動機を強調して浜口の犯行である事をより印象付けようとしている。

 

浜口が尚も否定しようと口を開いた時、ミステイクがポーチから一枚の紙を取り出す。そして同じように取り出したファントムライトで浜口の手元を照らした。浜口の指先から指紋が浮かび上がり、光に導かれるようにして紙の表面に刻まれた指紋パターンの一つの隣に定着する。

 

「裏口の出入口で確認された指紋。あなたのものと一致しますね」

 

ファントムライトによって作られた偽りの証拠が人々の目の前に曝け出される。更にライアンサーが、どこに隠し持っていたのか、しわしわになった紅白の布を取り出し、広げてみせた。

 

「磯部さん、タイムカプセルにかぶせた布はこれですよね」

 

磯部がはっとした表情で目を見開いた。

 

「え、ええ……確かに、この布だったわ」

 

ミステイクが自慢げに告げた。

 

「この布だけは、海に捨てられたものを回収できました。タイムカプセルが海に廃棄された、何よりの証拠です」

 

偽りの証拠による追及はまだ終わっていなかった。ミステイクの手が、ファントムボイスメモを取り出す。そして再生ボタンを押すと、部屋の中に浜口の声が響く。

 

『危うい所だったが、タイムカプセルを処分できた』『後はこれを推進派の連中のせいにしてやれば……』

 

ファントムボイスメモによって偽造された言葉。しかしその声は浜口のものと寸分違わず、彼をよく知る者ほど、彼の犯行を明確に確信させてしまう。

 

「こんな事は言っていない!」

 

浜口が叫んだ。身体を震わせ、目を見開いて周囲を見回すが、周囲の目は、もう浜口を信じていなかった。反対派の仲間も、葛西も、磯部も、真鍋も、警官達も。全ての目が、浜口源蔵を「犯人」として見ている。

 

「……以上が、事件の真相です。全ての謎は解かれ、証拠が明確に犯人を指し示している」

 

ミステイクの声が静かに響き渡る。そして、指揮者がタクトを振るうような動きで、人差し指を顔の横で立てる。

 

「ケース・クローズド」

 

推理ショーの終幕を告げるかのような宣言。そう、それはショーだった。一人の無実の人間を犯人に仕立て上げるまでを演出した、二人の偽りの名探偵が演じる、完璧な嘘の舞台。

 

犯行手順も、動機も、物的証拠も――全てが揃っている。異を唱える者は、どこにもいなかった。警察ですらもその内容に疑問を持つ事なく、浜口の前に歩み出た。

 

「浜口さん。署で話を聞かせてもらいます」

 

浜口の身体から、力が抜けていく。反論の言葉は、もう出てこなかった。浜口自身もファントムブックの嘘の光に照らされ、自分が本当に犯人なのではないかという疑念に侵食され始めていた。

 

「わしは……」

 

掠れた声が、浜口の唇から漏れた。記憶が揺らぐ。自分は本当に家に帰ったのか。覚書は本当に存在したのか。自分の主張は、本当に正しかったのか。

 

ライアンサーとミステイクは、横並びに立ったまま、その光景を見ていた。口元には薄笑いが浮かび、得意げに見えるその瞳は、どこか虚ろだった。

 

 

---

 

 

ホールの入口の隙間から、るるかは一部始終を見ていた。

 

壁に身を寄せ、肩で息をしている。戦いのダメージによる余波が全身に残っており、立っているのも辛い。壁に背を預けていなければ、そのまま崩れ落ちてしまいそうだった。

 

隙間の向こうに見えるのは、偽りの推理ショーの幕切れ。二人の嘘のプリキュアが織り上げた完璧な嘘が、一人の無実の老人を呑み込んでいく光景。

 

今のるるかに、二人の作り出す嘘を覆す力はない。変身は解除され、身体は傷つき、声を上げる事も出来ない。仮に声を上げたところで、ファントムブックの力に染められた人々の耳に、真実は届かない。

 

「そう……あなた達は、それを選んだのね」

 

声は静かだった。責めるとも、嘆くとも言えない声色。

 

「大切なものを守るために、己の信念を捻じ曲げて……」

 

最後の言葉は、二人に向けられていたようで――実際にはるるか自身の内面へ向けた言葉だった。

 

キュアアルカナ・シャドウ……森亜るるかは、探偵だった。

 

キュアット探偵事務所で活動し、数々の難事件を解決してきた。プリキュアの力を宿し、真実を探し求めてきた名探偵だった。謎という闇を払うために推理と言う光が存在し、推理の先にはいつも正しい答えがあると信じていた。

 

だが――あの日。マコトジュエルが砕かれたあの日に、るるかは全てを失い……そして、全てを捨てた。探偵である事をやめ、怪盗団ファントムの一員となった。全ては――たった一つのもののために。

 

るるかは二人の姿を見て想う。探偵としての矜持を捨て、影を名乗っている自分に、あの二人に何かを言う資格などない。

 

るるかは黙って壁から身体を離した。よろめく足で、人目のない方向へ歩き出す。背筋を伸ばそうとするが、身体が言う事を聞かない。それでも、倒れる事だけはしなかった。

 

「るるか……」

 

マシュタンが心配そうに寄り添い、その後をついていく。小さな身体がるるかの肩に触れたが、るるかは振り返らなかった。二人の影が、潮凪の午後の光の中に消えていく。

 

---

 

浜口源蔵が警察に連行された事で、タイムカプセル盗難事件は終結した。少なくとも、この場にいた全ての人間にとっては、そういう事になった。

 

人々は複雑な想いを抱えながら、一人、また一人と去っていく。反対派の住民達は重い足取りで。推進派の関係者達は安堵とも困惑ともつかない表情で。警官達は次の手続きに向けて。この結末にほくそ笑んでいる者がいるという事にも気づかずに。

 

葛西亮輔は、去っていく人々の背中を見送りながら、銀縁の眼鏡を押し上げた。その穏やかな目の奥に浮かんでいたものに、誰も気づかない。

 

まばらに散っていく反対派の住民達の姿。その様は、中心人物が不正を働いたという「事実」によって、結束が失われ、再開発への反対活動が空中分解していくのを象徴しているようだった。

 

---

 

人々が全て去った後。潮凪港湾会館の前には、二つの影だけが残されていた。

 

赤い光が二人を包み、一瞬の閃光の後に掻き消える。暗紫色と濃紅色の衣装が消え、黒いマスクが消え、髪がほどけ元の形に戻る。そこに立っていたのは、本来の二人の姿だった。

 

明智あんなと、小林みくる。嘘に包まれたプリキュアの姿ではない、真実の姿。

 

しかし、姿が同じに見えても、今日初めてここに来た時から、二人の存在は決定的に全てが変わっていた。

 

「これで、はなまるな解決だね」

 

あんなが笑顔で言った。

 

いつもの明るく元気な少女の笑顔。声のトーンも、顔の角度も、見た目だけなら何も変わらない。けれど、その笑顔のどこかが歪んでいた。目元と口元の温度が合っていない。

 

「ええ、あなたのおかげで楽に済んだわ」

 

みくるが応じた。探偵として事件を解決した後の言葉とは思えない響き。面倒ごとが片付いた、とでも言うような、軽く乾いた口調。

 

「でも……浜口さん、ちょっと可哀想だったよね」

 

あんなが首を傾げた。自分達が地獄に突き落とした相手に、何の重みもない同情を向けている。子供が道端の虫を踏んだ後に「かわいそう」と言うような、表層だけの感傷。

 

みくるはそんなあんなの口だけの同情を鼻で笑った。

 

「あなたが選んだんじゃない」

 

みくるの目が、あんなに向けられた。かつてみくるがあんなを見る時にあった温かさは、もうそこにはなかった。

 

「タイムカプセルを廃棄できるチャンスがあり、犯人に指名すれば反対派の声を封じ込められる。都合のいいスケープゴートだって」

 

己の利己的な判断をみくるから突きつけられても、あんなは平然と笑っていた。

 

「ごめんごめん、そうだったよね」

 

謝罪の言葉に、謝意はない。反省も、悔恨も、何もない。ただ形だけの音が、唇から滑り出ただけ。

 

「これで、"正しい未来"に繋がる」

 

あんなが空を見上げた。午後の空は青く、雲が流れている。その視線の先に、あんなは自分の知るマコトミライタウンの風景を思い描いていた。覚書は闇に葬られ、再開発計画は進み、海は商業施設に変わり、高層マンションが建ち並ぶ。未来の”正しい”風景に繋がる。

 

「わたし達にとって、最高のはなまる」

 

みくるはそれを聞いて、視線を遠くに投げた。

 

「私には、どうでもいいけどね」

 

再開発計画がどうなるかも。未来がどう変わるかも。みくるにとっては最初から興味の外にあった。

 

「……ただ、これで私の名探偵としての実績も、また一つ増えた」

 

事件がどういう形で終わったか。犯人として指名された人間がどうなったか。そんな事には、みくるは最初から関心がなかった。しかし、自身の手による事件の「解決」——その事実にだけは、みくるは陶酔したような表情を浮かべる。推理を展開し、証拠を突きつけ、犯人を追い詰める。その快感だけが、みくるの中で純粋に光っている。

 

真実がそこにあるかどうかなど、どうでもよかった。

 

今の二人の瞳に、かつての輝きはない。真実を解き明かそうという光も、名探偵になるという夢の熱も。暗く淀み切った瞳が、夕方に向かい始めた空を映している。

 

嘘の信念。嘘の感情。二人を覆うその全てが偽物だった。しかし、嘘の力を自ら望んだ今の二人にとっては、それらの嘘を元に構築された紛い物の信念が——間違いのない真実として定着していた。

 

嘘は真実になり、真実は嘘になった。

 

「ポチィ!」

 

小さな、しかし必死な声が、二人の間に割り込む。ポチタンがあんなの胸に飛び込んできた。嘘のプリキュアの姿が解かれ、力が弱まった事でようやく二人に触れる事が出来るようになった。ポチタンは小さな身体を震わせ、必死で何かを訴えるように声を上げている。

 

「なぁに、どうしたの、ポチタン?」

 

あんなは何てことのない様子でポチタンを抱き上げる。

 

ポチタンは必死だった。真剣な眼差しであんなの顔を見つめて、声を絞り出そうとしている。しかし、言葉が――紡がれない。

 

マコトジュエルによって力を取り戻し、たどたどしいながらも言葉を発する事が出来るようになっていたポチタン。あんなの名前を呼び、みくるの名前を呼び、少しずつ言葉を覚えていったはずだった。

 

なのに、今。二人に訴えるための言葉が、出てこない。二人に真実を伝えるための言葉が、紡がれない。ポチタンの目に涙が浮かんでいた。

 

「ポチィ……! ポチ、ポチィ……!」

 

鳴き声で必死に何かを伝えようとする。声は上がる。感情は溢れている。でも、それが言葉にならない。形にならない。意味を持った音にならない。二人に真実を届ける術を、今のポチタンは持っていなかった。

 

「どうしたのかな。今回もはなまるに解決したのに」

 

あんなは首を傾げた。ポチタンの必死さは、あんなの心には届かない。

 

「お腹でも空いてるんじゃない?」

 

みくるは興味のなさそうな口調で言った。歩き始める。

 

「……帰りましょう。私が事件を解決するためにも、ポチタンの能力は有用だからね」

 

あんなもポチタンを胸に抱えたまま、みくるの後を追った。

 

「ポチィ……ポチィ……!」

 

ポチタンは尚も二人に訴えかけ続けていたが、どれだけ訴えても、今の二人に何の言葉も想いも届く事はない。その声は、潮凪の夕暮れの中に吸い込まれていく。

 

二人の足音が遠ざかっていく。ポチタンの声が小さくなっていく。やがて、潮凪港湾会館の前には誰もいなくなった。

 

潮風が吹き、立て看板の「マコトミライタウン開発計画」の文字が、風に揺れる。

 

その向こうに広がる海を、もう見つめる者はいなかった。

 

 

---

 

 

ファントムのアジト。

 

オペラ舞台を模したホールは、落ち着いた照明の灯りに照らされていた。客席に当たる部分の正面奥にウソノワールが腰を据え、左右壁面から二つずつ飛び出すように作られたスペースの席に、ファントムのメンバーが揃っている。

 

右手前にニジー、右奥にゴウエモン。左手前にアゲセーヌ、左奥にるるか。マシュタンはるるかの膝の上で丸くなっている。

 

全員の視線が、正面の舞台に向けられていた。重い幕がゆっくりと上がっていく。舞台奥の暗がりから、二つの影が浮かび上がった。

 

そこには並んで立つ二人の少女の姿があった。明智あんなと小林みくる。

 

嘘のプリキュアの姿ではない。普段の服を着た、少女としての姿。しかし、その佇まいはこの暗い舞台の上に自然と溶け込んでいた。怪盗団のアジトに足を踏み入れた事への緊張も恐怖もなく、むしろ、ここが自分達の居場所であると言わんばかりの堂々とした態度。

 

ニジーが息を呑んだ。アゲセーヌの目が見開かれる。ゴウエモンの太い腕が、肘掛けを握りしめた。

 

あらかじめウソノワールから説明は受けていた。それでも、あの二人が――幾度となくマコトジュエルを巡って戦い、自分達の計画を阻み続けてきたあの二人が、この場に立っている。その光景を目の当たりにすれば、覚悟していたとしても息が詰まる。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

「お前たちの働きのおかげで、マコトジュエルが我が手の内に収まった」

 

ウソノワールの声が、ホールに響いた。威厳に満ちた、低く深い声。仮面の奥の表情は見えないが、その声音には明確な満足が含まれている。

 

「ご苦労だったな」

 

あんなが恭しく頭を下げた。

 

「勿体ないお言葉です、ウソノワール様」

 

そう告げてから顔を上げ、満面の笑みを浮かべた。

 

「これからも、ファントムの一員として、はなまるな解答を用意してきますね」

 

その笑顔は、普段あんなが親しい人たちに見せるそれとは、一段階か二段階温度が下がった冷たさのあるものだった。そして、その笑顔が向けられている相手は――嘘で世界を覆おうとする者だった。

 

「まあ、私の推理あってのものですが」

 

みくるが付け加えた。自身の功績を強調するその言葉に、あんながやや目を細め、みくるに視線を向ける。けれどそれも一瞬の事で、あんなはすぐに笑顔に戻った。

 

「これからもファントムの皆さんとは良いお付き合いを続けていきましょう」

 

みくるが不敵に笑った。かつてのみくるには見られなかった、挑発的で計算高い笑み。

 

「怪盗団が事件を起こし、それを元に私が事件を"解決"する。あなた方はマコトジュエルを得られて、私は名探偵としての実績を得る」

 

みくるは一拍置いた。

 

「完璧な構図ね」

 

その言葉に、仮面の奥で、ウソノワールがわずかに笑ったようだった。顎を僅かに引き、仮面の下から低い笑い声が漏れる。

 

「……これからも、ファントムのために働いてもらうぞ。――我が名探偵たち」

 

ウソノワールが一言一言に重みを乗せて語った。そして、右手を高く掲げ、宣言する。

 

「ライライサー!」

 

ファントムに忠誠を誓う者、志を同じくする者の、共通の掛け声。嘘に栄光あれ。

 

あんなが喜々とした表情で応えた。みくるもややつまらなそうな態度ではあったが、声を合わせる。

 

「「ライライサー!」」

 

二つの声が、オペラホールの天井に反響した。

 

---

 

二人は舞台袖へと姿を消していく。同時に幕がゆっくりと降ろされていく。重い布が床に触れ、舞台の上の空間が再び闇に閉ざされた。

 

沈黙が落ちる。ニジーもアゲセーヌもゴウエモンも、口を開かなかった。目の前で起こった事を処理するための時間が、それぞれに必要だった。やがて、そのむずがゆさに我慢できなくなったのか、最初に声を上げたのはアゲセーヌだった。

 

「マ~ジびっくり! あの名探偵ちゃん達が、マ~ジでファントムの一員!?」

 

席から身を乗り出し、両手を振り回しながら叫ぶ。

 

「マ~ジで信じらんないんだけど!」

 

一同は、ウソノワールから既に説明を受けていた。『名探偵の二人は、今やファントムの協力者となった』と。しかし、実際にあの二人の言動を目の当たりにしても、それが現実だとは簡単には受け入れられない。

 

「……なあ」

 

ゴウエモンが低い声で呟いた。太い腕を組み、その巨体を椅子に沈めたまま。

 

「俺達、あの二人と今までずっとマコトジュエルの奪い合いをしてたんだよな?」

 

その声には、困惑を通り越した疑念があった。自分達が戦ってきた記憶そのものが、本当に正しかったのかという疑い。あの二人がファントムの協力者としてあまりにも堂々としていたからこそ、むしろ今までの敵対関係の方が虚構だったのではないかという錯覚に陥りかけている。

 

「ウソノワール様の力があったからとはいえ、何故あそこまで……」

 

ニジーも首を傾げた。シルクハットの下の目が、訝しげに細められている。

 

ウソノワールの嘘の力が強力である事は、メンバーの誰もが知っていた。しかし同時に、その限界も理解している。嘘によって現実を塗り替える力には、まだ大きな制約がある。プリキュアを完全に嘘で塗り替えるなど、本来は不可能なはずだと。

 

「……それは」

 

ウソノワールが席から立ち上がった。一歩、舞台に向かって歩み出る。仮面の奥で、紅い光が揺らめいている。

 

「あの二人の存在そのものが"嘘"だからだ」

 

ニジー、アゲセーヌ、ゴウエモンの三人が、怪訝な顔を見合わせた。言葉の意味を理解しかねている。ウソノワールは淡々と説明を進める。

 

「名探偵プリキュアの二人は、未来自由(ミラージュ)の書の予言に記されていない。何故か? それは、明智あんなという存在が、未来からやって来た結果生まれたプリキュアだからだ」

 

未来自由の書。ウソノワールが所有する予言の書。占いの妖精達の力によって、この世界の未来の全てが記されたとされる。しかし、そこに名探偵プリキュアの二人について記述が出現した事は一度もない。

 

「あの二人のプリキュアは、本来の歴史には存在しなかった。故に、未来自由の書には記されていない」

 

ウソノワールの仮面の奥で、不敵な笑みが広がった。そして――核心を語る。

 

「……つまり! あの二人、名探偵プリキュアとは、歴史の上に上書きされた"嘘"の存在ということ」

 

ウソノワールの声が力を帯びた。

 

「だからこそ、私の嘘の力が一度入り込めば、それは深く、強く、プリキュアの力と結びつき浸透していった」

 

ニジーが「なるほど……」と感心した風に頷いた。本来ならば不可能な筈の完全な支配が成立した理由。プリキュアの存在基盤そのものが「歴史に本来存在しなかったもの」――すなわち"嘘"と同質であったからこそ、ウソノワールの嘘の力との親和性が非常に高かった。

 

ウソノワールは含み笑いを発し、両手を大きく広げた。舞台役者のように。彼はこの劇場の主であるが、それ以上に、世界の主であるかのように振舞う。

 

「『嘘を暴く名探偵』などと、それこそが真っ赤な嘘そのものよ」

 

仮面の下から、哄笑が漏れた。

 

「未来自由の書はやはり正しい。あの二人は、私がこの世界で大王として君臨するために、未来から届けられた――贈り物だったのだ」

 

ウソノワールの宣言に、戸惑いを見せていた三人の態度が変わった。

 

ニジーが薄笑いを浮かべ、シルクハットを指先で傾けた。アゲセーヌが歓声を上げ、「さすがウソノワール様~! マ~ジ最強~!」と席から飛び跳ねた。ゴウエモンも太い腕を組んだまま、重々しく頷いている。

 

三人は主の勝利、ウソノワールが世界の覇者となる事を確信し、沸き立っていた。

 

---

 

そんな中。一人だけ、冷ややかな空気を纏っている者がいた。

 

るるかは、あんなとみくるが舞台に現れた時からずっと、一言も発していなかった。無言のまま、冷たい表情を崩さない。ウソノワールの演説にも、三人の歓声にも、瞳は微動だにしなかった。

 

膝の上のマシュタンが、るるかを見上げた。小声で、他の誰にも聞こえないように話しかける。

 

「……どうするの、るるか?」

 

るるかの表情は動かなかった。

 

「……分かってるでしょ」

 

短い返答。声は低く、硬い。

 

「私には、私の目的がある」

 

それだけだった。それ以上は何も答えなかった。

 

ゆっくりと、まぶたを閉じる。暗闇の中に、二人の姿が浮かび上がった。嘘に取り込まれ、ファントムの協力者である事を平然と語った、あんなとみくるの姿。

 

かつて嘘の力に真っ向から立ち向かい、真実こそが救いになると信じていた、未熟な探偵達。いや、未熟だったからこそ、真実の力を心の底から信じていた。眩しいくらいに。

 

その輝きは、今のるるかの心を、僅かながらにも揺さぶるものがあった。それが、今は。

 

「……一度心地の良い嘘を受け入れてしまった者は、もう、二度と――」

 

その言葉は、劇場の喧騒の中に消え、誰の耳にも届かなかった。

 

 

---

 

 

キュアット探偵事務所。事務室兼客間として使われているその部屋に、午後の光が差し込んでいた。

 

事務デスクに向かったジェットが、新聞を広げている。ボサボサの金髪の下で、目が紙面を追っていた。記事の文字と内容を読み込んでいく。潮凪地区タイムカプセル盗難事件。反対派住民のリーダーが、タイムカプセルを盗み出して海に廃棄。事件は"二人の名探偵"によって解決された――。

 

「なあ、これ……」

 

ジェットが顔を上げ、ソファスペースにいるあんな達に声をかけた。言葉を受けた二人は立ち上がり、事務デスクの前までやって来ると、ジェットの広げた新聞に視線を落とした。

 

「あっ、これ……この前の!」

 

あんなが笑顔で声を上げた。

 

「私が解決した事件ね」

 

みくるが得意げに付け加えた。

 

ジェットは二人の反応を聞きながら、渋い顔で再び紙面に視線を戻した。記事の内容を追い直す。指先がインクの匂いのする紙面をなぞる。

 

「この事件、本当にこの人が犯人だったのか?」

 

独り言のように呟き、思考を広げていく。

 

「反対派のリーダーだったら、タイムカプセルの移動やアリバイ工作に協力する人間がいてもおかしくないと思うんだが……それに、タイムカプセルも見つかってないんだろ?」

 

自身の疑問を口にして、顔を上げたジェットは――その先にあった二人の表情に、一瞬、戸惑いを覚えた。

 

あんなは満面の笑み。みくるは不敵な笑み。どちらも見慣れた表情のはずだった。あんなはいつだって笑っているし、みくるが自信に満ちた顔を見せるのも珍しくない。なのに、どこかが違う。何かが引っかかる。けれど、その違和感の正体を、ジェットは掴めないでいた。

 

「ジェット先輩、疑問に思う必要なんてないですよ」

 

あんなの声は柔らかかった。優しく言い聞かせるような響き。

 

「間違いなく、あの人が犯人」

 

その言葉は、穏やかだったが、有無を言わせぬ圧力を発するものだった。

 

「私はキュアット探偵事務所始まって以来の名探偵ですよ」

 

みくるが片手を胸に当て、冷静な口調で続けた。けれどその声の底に、自分に酔っている者特有の甘い陶酔が滲んでいる。

 

「私の推理が間違ってるなんてあり得ない。……そうでしょう、ジェット先輩?」

 

ジェットの脳裏に、まことみらい市のキュアット探偵事務所に来てからの記憶が蘇る。

 

畳むはずだった探偵事務所に、颯爽と現れた二人のプリキュア。本来の所有者である名探偵が消え、静かに幕を閉じるはずだった事務所が、二人のおかげで息を吹き返した。数々の難事件を解決し、人々からの称賛の声は溢れ、警察からも信頼され、協力を求められる事もある。あんなの真っ直ぐさと、みくるの鋭い推理。あの二人がいるからこそ、この事務所は今も動いている。

 

「そう、か……」

 

ジェットは戸惑いながらも、新聞を畳んだ。

 

「それなら、いいんだ」

 

信頼する二人がそう言うのであれば――と、ジェットは疑問を引っ込めた。

 

二人の姿と、自身の記憶に、何か引っかかるものがあった。説明のつかない違和感が、喉の奥に小さな棘のように残っている。けれど、その違和感の正体には気づかない。

 

自身の記憶と、あんなとみくるの二人が、嘘によって包まれているという真実には――気づかない。

 

---

 

「ポチ……」

 

唯一、嘘に呑まれず真実を知るポチタンは、語る言葉を持たなかった。

 

ソファの隅から、三人を遠巻きに見つめている。小さな瞳に浮かぶ悲しみを受け止める者は、この部屋にはいない。

 

ポチタンは小さく、悲しげな声を出した。

 

それだけだった。

 

 

---

 

 

ジェットが広げていた新聞。

 

その中のタイムカプセル盗難事件の記事には、「反対派住民リーダーによるタイムカプセル廃棄」「二人の名探偵が事件を解決」という内容が記されている。

 

しかし――本来、そこに印刷されているはずだったのは、別の内容だった。

 

もっと大きな見出しで。もっと大々的に。同じ事件を、全く別の真相として伝えていたはずだった。

 

『怪盗団の事件の裏の暗躍、再開発計画の闇』――本来ならば、そういった文字が印象的に並んでいた。

 

『この場所で昔、タイムカプセルが盗まれる事件があってね……』

 

あんなの母親は、少女時代に確かにその事件に遭遇した。磯部や真鍋が夜中に騒ぎを聞き、朝にはタイムカプセルが消えていた。あんなとみくるが遭遇したのと同じ事件。全く同じ状況。

 

そこまでは同じだった。だがそこから先が――違った。

 

『それでね、怪盗団の二人がタイムカプセルを盗んじゃったのよ』

 

盗難騒ぎが起こった後、しばらくして。関係者の元に一枚のメッセージカードが届いた。『タイムカプセルは我々が頂いた 怪盗団ファントム』と。

 

警察の聞き込みが進む中で、あの場にいた人物のうち二人――土屋章と鳴海まどかが、本来その場にいるはずのない人間だった事が判明した。本物の土屋章は何者かからの偽りの指示を受けて出張に向かっており、鳴海まどかはその頃旅行に出ている所だった。磯部らの証言にあった夜の騒ぎの話と合わせ、「二人組の怪盗団が変装して潜入し、タイムカプセルを盗んだ」という話が定着した。

 

『タイムカプセルの中身が抜き取られていたのよ。そのせいで、大変な騒ぎになっちゃって』

 

タイムカプセルは、その後、人々の元に戻された。ただし既に開封されており、中身の”一部”が抜き取られていた。

 

市と漁協の間で交わされた覚書のコピー。それは、覚書を意図的に処分していた葛西の罪の証拠と共に、新聞社に送り付けられた。

 

葛西亮輔は公文書の隠蔽と処分の罪を糾弾され、再開発計画の責任者としての立場を追われた上で、逮捕される。浜口源蔵の「覚書があったはずだ」という主張は正しかった事が証明され、反対派住民は名誉を回復した。

 

その結果として、再開発計画は”中断”された。……しかし、”中止”にはならなかった。

 

葛西の後を引き継いだ新たな責任者が、反対派住民との交渉の席につく。根気強く、対話を重ね、推進派と反対派……対立していた二つの立場が、覚書の存在を前提にした新たな計画の下で、少しずつ歩み寄っていった。

 

交渉は長い時間を要した。何度も決裂しかけ、何度も立ち戻り、それでも言葉を交わし続け……やがて、反対派住民と開発側は和解した。お互いの納得のいく形で、再開発計画は進行する事となる。

 

そして、その結果として、マコトミライタウンが完成したのだ。

 

あんなが母親からタイムカプセルの事件を聞かされた場所。母と手を繋いで歩いたあの遊歩道。

 

元の再開発計画では、そこには大型の商業施設が並ぶはずだった。海を埋め尽くすウォーターフロント型の商業区画。住民の海を塗り潰す、あの設計図通りの光景。

 

しかし、住民との交渉の結果、かつての覚書の約束に沿う形で――その場所は「しおかぜ広場」として生まれ変わった。住民に広く開放された、海に面した公共の場。推進派と反対派の和解の象徴。浜口たちが守りたかった海への自由なアクセスと、新しい街の発展が、共存する形で実現された場所。

 

あんなはそこで、母から過去の思い出を聞いた。海を見ながら、手を繋ぎながら。怪盗団がタイムカプセルを盗んだ話を。

 

しおかぜ広場がその全ての過程の帰結のはずだった。しかし、その未来に繋がる道は――途絶えた。

 

覚書は闇に葬られた。葛西の罪は隠蔽された。反対派は瓦解し、再開発計画は元の設計のまま進行する。しおかぜ広場は生まれない。あんなが母と歩いたあの場所は、もはや未来には存在しない。

 

それは皮肉な事に、予言の書があったとしても、未来は一つに定まらない事の一つの証明。予言の書に記されていなくても、未来は変わる。人の選択によって。

 

だが、その真実を――あるはずだった未来を証明出来る者は、どこにもいない。

 

 

---

 

 

商店街の通りに、人々が集まっている。和菓子店の軒先。店主を囲むように近隣の店の人間や馴染みの客が顔を揃えている。その輪の中心で、一人の少女が古びた招き猫を店主に差し出した。

 

「招き猫、見つかりましたよ」

 

明るい笑顔で、キュアライアンサーが言う。店主の顔が綻んだ。皺の刻まれた両手で招き猫を受け取り、大事そうに持ち上げる。

 

「こいつは親友が遺してくれた、この商店街の宝なんだ。見つかって本当に良かった……」

 

声が震えている。長年の友が遺した形見。店先に置かれ、商店街の人々に愛されてきた縁起物。それが盗まれた時の店主の嘆きを、集まった人々は皆知っている。

 

しかし、喜びの涙が漏れそうになっていた所で、店主の手が止まった。

 

表情が変わる。招き猫を目の前に持ち上げ、目を細めて表面を見る。指先が陶器の肌を撫でる。長年使い込まれて年季が入っているはずの招き猫としては――妙に見た目が新しい。毎日手に取り、毎日眺めている店主だからこそ分かる、細かな傷の有無。光沢の微妙な違い。手に馴染む重さの感覚。

 

「なぁ。これ、本当にあいつの招き猫なのか……?」

 

店主が口にした時には、ライアンサーは既に手元のファントムブックに記入を終えていた。

 

『盗まれた招き猫は見つかっている』

 

逆回転の花丸マークを描く。嘘の記述の効果が、波紋のように静かに広がった。周囲の人々の目に、一瞬だけ赤い光が宿り、そして消える。

 

「よーく見てください」

 

ライアンサーが変わらず笑顔で語りかけた。

 

「大事な宝物を見間違えるなんて、良くないですよ」

 

店主は戸惑った表情を浮かべ、もう一度招き猫を見つめ直した。目に映る物は変わっていないのに、認識が書き換えられている。その認識の中では、招き猫は間違いなく”本物”だ。

 

「ああ、確かに……あいつの遺した、招き猫だ……」

 

弱々しく納得していく声。先ほどまであった違和感が、霧のように薄れていく。

 

ミステイクは少し離れた場所で、にやりと笑った。

 

マコトジュエルの宿った本物の招き猫は、既にファントムのメンバーが盗み出した後。店主に渡したのは、ファントムライトで偽造されたただの招き猫。不完全な紛い物だからこそ、店主の目には違和感として映った。当然の事だ。

 

だが、ライアンサーのファントムブックの記述と合わされば、その違和感は消える。偽物は本物として受け入れられ、疑問は忘却の底に沈む。

 

「でも、一体誰が盗んだんですか?」

 

店の従業員が声を上げた。招き猫が戻ってきた安堵の後に残る、当然の疑問。

 

ミステイクが、意味深な間を空け、それから、集まっていた人々の中に視線を走らせ――ある人物を、指差した。

 

「招き猫を盗んだ犯人は……あなたです」

 

注目が集まった。指差された先にいたのは、三十代くらいの男性だった。彼は、盗まれた招き猫を制作した職人の息子であり、弟子でもある。

 

「何を言ってるんだ」

 

男性の声には怒りがあった。しかし、その怒りの下に、かすかな怯えが混じっている。

 

「親父が親友のために作った招き猫を、俺が盗む訳ないじゃないか」

 

ミステイクは冷ややかな態度を崩さなかった。

 

「あなたは、自分の実力が父親に届かない事で苦悩していました」

 

淡々と「動機」を語り始める。

 

「そして、長年人々に愛され続ける招き猫に嫉妬していたのです。自分の作品よりも、父の遺した物がいつまでも価値があるかのように扱われている事に、苛立っていた」

 

その言葉に、男性の表情が曇る。影のかかった瞳で、言葉を返す。

 

「そりゃ……俺の実力が親父に匹敵してない事くらい、分かってるさ。それに、あの招き猫の出来栄えに嫉妬してたのも、間違ってない。でも――」

 

反論を断ち切るように、ミステイクが「真相」に続く道筋を続ける。

 

「招き猫にはあなたの真新しい指紋が残っていましたよ」

 

ファントムライトで浮かび上がらせた、偽りの指紋。

 

「犯行推定時間、商店街の防犯カメラに、和菓子店に入っていくあなたの姿が映っていましたし」

 

存在しない映像記録。

 

「目撃証言も揃っています」

 

作り出された虚構の証言。

 

ミステイクが並べる証拠の全てが捏造だった。しかし、ライアンサーは既に犯人と真相についての偽りの解答をファントムブックに書き終えている。その効力によって、男性の犯行は決定的なものと誰もが信じ始めている。

 

そして、犯人と言われた彼自身も、だんだん反論出来なくなっていく。

 

自分がやっていないはずなのに、その確信が揺らいでいく。父親への嫉妬は本当だった。招き猫を妬んだ事も、嘘ではなかった。その本物の感情が、嘘の解答による偽りの犯行動機と結びつき、自分でも何が本当なのか区別がつかなくなっていく。

 

「皆さん、彼を責めないであげてください」

 

ライアンサーが悲しそうな表情を浮かべた。声は震え、目には涙すら浮かんでいるように見える。

 

「偉大な父に及ばない苦しさから、つい魔が差してしまっただけなんです」

 

庇うような言葉だった。けれど、実際に彼を追い詰めているのは彼女自身だ。それも、真っ赤な嘘で、ありもしない犯行をでっち上げて。

 

ミステイクはどうでも良さそうな態度で肩をすくめた。

 

「招き猫は取り戻せましたからね。警察に突き出すかどうかは、あなた方に任せますよ」

 

人差し指を顔の横で上に向け、宣言する。

 

「ケース・クローズド」

 

 

---

 

 

事件は「解決」した。しかし、商店街に広がったのは歓声ではない。苦しい沈黙だった。

 

店主は複雑な表情で偽物の招き猫を抱え、男性は俯いたまま動けない。周囲の人々は男性に同情の目を向ける者もいれば、裏切りへの怒りを滲ませる者もいる。引き裂かれた人間関係の痛みが、商店街の空気に染みている。

 

その沈黙を背に、ライアンサーとミステイクは歩き出した。

 

「今回も、完璧な解答! はなまるな解決だね!」

 

元の姿に戻ったあんなが平然と笑顔で言い放つ。商店街から離れていく足取りは軽い。

 

「ええ、あなたがいると事件がスムーズに解決する。感謝しているわ」

 

同じく元の姿に戻ったみくるが澄ました顔で答えた。感謝の言葉を口にしてはいるが、あんなに向ける感情は薄い。その関心は、常に自分自身に向いている。

 

みくるは、事件を自分が解決したという充足感で満ちていた。事件関係者がどうなったかも。隣にいるあんなの事も。全てがどうでもよかった。自分が全て。自分の名誉だけが。

 

(――私は名探偵)

 

みくるの濁った瞳の中に、輝かしい自分の姿だけが映っている。

 

(――そう、私はあの人のような名探偵になった。あの人のように賞賛され、誰もが敬う存在。私の推理を疑う者など、誰もいない)

 

嘘に包まれた心が見せる、歪んだ鏡。そこに映るのは栄光だけで、自分がどれほど醜い存在になったのかという事も、自身が憧れた名探偵を汚すような行為をしている事にすらも、今の彼女は気づかない。

 

あんなは隣を歩きながら、ほくそ笑んでいた。

 

名探偵という言葉が大好きなみくるをおだてて利用すれば、怪盗団ファントムにとって都合のいい「真相」を、いくらでも作り出せる。みくるの虚栄心を刺激し、推理の快感を与え続ければ、彼女は喜んで嘘の推理ショーを演じ続ける。

 

(――これからも、最高の相棒でいようね。みくる)

 

内心で嗤いながら、あんなは歩いていた。

 

親友を。共に名探偵を目指そうと誓った相棒を。ただの駒として使い続ける。

 

今の彼女にとって大事なのは、ファントムに従い、ウソノワールに忠誠を示し、嘘で覆われた「正しい未来」を実現する事。その信念自体が既に嘘に包まれたものだという事にも気づかずに。

 

かつてあんなは言った。「二人で一緒に、名探偵になろう」と。

 

今も二人は一緒にいる。

 

けれど、そこにある姿はもう、あの言葉に込められていた想いとは――何もかもが違っていた。

 

 

---

 

 

マコトジュエルが出現する度に、事件が起こる。事件が起こる度に、二人の”名探偵”が現れる。

 

嘘の推理が展開され、嘘の証拠が突きつけられ、嘘の犯人が指名される。

 

ウソノワールの目的は、マコトジュエルを完全な状態で手にする事で、嘘の力で世界を覆う事。

 

しかし、それよりも前に、二人の作り出す嘘の真相と嘘の解答が、真実を覆い隠し、見えなくしていく。嘘が現実を覆い、嘘が真実となっていく。

 

現実とあったはずの未来が、人々が知らぬ間に書き換えられていく。

 

それを正せる者は、真実を解き明かせる者は――今は、いない。

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