放送事故ではありません。 作:宇宙きのこ(ヴァーチャル)
全てに目を通しており、今後の創作の励みとさせていただいております。
待機画面は数分を稼ぐための蓋にすぎなかった。
その下に隠された光景が滲み出ようと足掻いている。
ハルトのマンションに彼女がつくまでの時間稼ぎとしては優秀だったが、これで解決にはならない応急処置であった。
視聴者側に表示されているのは白い背景に事務所のロゴと「しばらくお待ちください」という短い文言だけだ。
チャット欄は既に閉じられ、公開範囲は絞られている。
加えて年齢制限と最上位メンバー限定の二重の壁によって、大半の視線は配信から弾き出されていた。
けれど、ライブ枠そのものはまだ生きている。
管理画面のステータスは、相変わらず配信中を示していた。
終了ボタンは処理済みの顔をして、そのくせ何度押してもライブを終わらせない。
視聴者数は激減し、コメントの流れも途絶えた。
だが、ゼロではない。
画面の向こうには、まだ何人かの視線が残っている。
しかも、その人達は軽い視聴者ではなかった。
最上位のメンバー限定へ落としても残った者───筋金入りのファンだ。
深夜に通知を見てやってきた彼らからすると今はどう映っているのだろうか?
こんな風にいきなり公開範囲が変わり、年齢制限が入っている時点で異常だ。
それに加えてチャットは唐突に閉じられ、待機画面に切り替わるなどという異変が起きている。
明らかに表には出せないナニカが裏で動いていると思うのは人間のサガだ。
彼らは心配してハルトの無事を祈っているのかもしれない。
あるいは、何か決定的なものを見届けたいと思っているのかもしれない。
だが、ここまでやっても残る以上はもう絶対に離れないだろう。
それでも何とか視聴者の絶対数はここまで削れた。
だが、視線の濃度はむしろ上がっている。
彼女はハルトのマンションへ向かう車内でハンドルを握りしめながら社用端末の画面を見た。
待機画面のプレビューには何も映っていない。
……映っていないはずだった。
白いロゴに案内文。
そして配信状態の表示。
それだけでなければならない。
それなのに画面の白が、時折内側から濁る。
紙の裏に墨を落とした時のように、薄い染みが広がり、すぐに消える。
これらは視線を向けるとただの圧縮ノイズに見えた。
しかし見続けると、何かがそこにいるような気がしてくる。
だから彼女は言われたとおりにもう何も見なかった。
運転に集中する。
端末は音声だけに切り替え、通話の向こうにいる怜司と配信管理担当の声に対して応答する。
「待機画面に入りました。視聴者数も落ちています。
でも、ライブ状態は変わらず続いています」
『はい。ここまでは予定通りです』
怜司の声はどこまでも静かだった。
呼吸も乱れていない。
だが、その奥に、ごく薄い疲労が混じっていることに彼女は気づいた。
彼もまた、何もしていないわけではないし、何も感じていないわけでもない。
『次は、映像と音を壊してしまいましょう』
「壊す?」
『配信ソフト側です。こちらから触れる部分は限られますが、
事務所側のリモート保守が入っているなら、画質設定へ入れるはずです』
『配信枠側ではなく、出力側を弄るんです。解像度にビットレート。
更にはフレームレートや音声ビットレート等々を下げられるところまで下げてください』
配信管理担当が、通話の向こうで息を呑んだ。
『OBS側ですか? ハルトさんの端末へリモート接続します。ただ、本人側の許可が……』
「緊急保守権限で入れます。事前登録はあるはずです」
彼女は即答した。
普通は配信者の自宅環境に事務所が完全な管理権限を持つわけがない。
だが、夜坂ハルトのように企業所属で、しかも自宅から大型案件等を行う配信者の場合は変わってくる。
そういう配信用PCには最低限のリモートサポート環境が入っている。
機材トラブル時に音声設定や映像設定をスタッフが確認できるようにするためだ。
もちろん、通常なら本人の同意を取る。
だが今はその通常が意味をもたない異常事態だ。
少しの間の後に管理者が端末を操作しだした。
『接続要求を投げます。……承認が返りません』
「もう一度」
『返りません。端末はオンライン扱いですが、応答がありません。
保守ツール側では接続待ちのままです』
怜司が短く言った。
『本人は画面を見ていますが操作はしていません。
応答を待たない方法はありますか?』
『緊急管理モードがあります。ただ……使うとログが残ります』
「構いません。後で私が説明します」
彼女は自分でも驚くほど迷わずにそう言った。
さきほどから何度も同じ言葉を口にしている気がする。
後で説明する。後で責任を取る。後で怒られる。後で報告書を書く。
後があるなら、それでいい。
少なくともあとで説明するのが上司やハルトならば何時間だって彼女は付き合おう。
彼の遺族に説明することになるよりはずっとずっとマシだ。
今必要なのは、夜坂ハルトを配信から切り離すことだった。
『緊急管理モードで入ります。
……入りました。OBS起動中。配信状態はアクティブ。プレビューは待機画面になっています』
『ただ、ソース側にハルトさんのカメラとキャプチャが残っています』
「出力設定へ」
『開きます。出力、映像……』
『ぁ……』
管理担当の声が止まり、小さな息を飲む様子が伝わる。
ざわざわと物音がその奥から聞こえた。
それも複数の。
彼女はすぐに察した。
「表示が変ですか」
『……はい』
怜司が言う。
『読まないでください。項目の位置だけを見て操作してください』
『設定項目の名前が、全部……』
『言わないで』
強い声ではなかった。
けれど、管理担当の言葉はそこで止まった。
ガタンという音がその奥から聞こえた。
遠隔操作の画面には見慣れた設定欄が並んでいるはずだった。
出力モード、映像ビットレート、エンコーダ、音声ビットレート、録画設定。
映像タブには基本解像度、出力解像度、縮小フィルタ、FPS。
どれも技術スタッフなら何度も触っている項目だ。
だが今、その文字列の端に別の単語が滲み出ている。
許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して
許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して
許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して
許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して
許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して許して
彼女は直接見ていない。
けれど、管理担当の浅い呼吸だけで分かった。
怜司の側でまた鈴が鳴った。
今度は一度ではない。
ちりん、ちりん、と短く二度。
続いて、紙を折るような乾いた音が通話に混じった。
その奥でナニカがドンドンと扉を叩いたり、ずっとぼそぼそと何かを呟いている。
しかし彼は全くそれらを相手にしていなかった。
『操作権限はそちらにあります。画面が何を言っても、設定値は変えられます』
怜司はそう言った。
ハリボテを引きはがし、あくまでも主導権はこっちにあるのだと判らせるために。
『綺麗に映さないでください。
何かに見えるなら、見えないくらいまで画質を潰してください。
声に聞こえるなら、聞こえないくらいまでにbpsを下げてしまいましょう』
管理担当が息を整える。
一度だけ振替し、確認を取ってから戻る。
指示を反復し心を整えながら指だけを動かす。
『基本解像度はそのまま。出力解像度を落とします。
フレームレートを十五に設定。
ビットレート、下げます。音声も……最低値まで落とします』
『保存します』
画面の反応が遅れた。
数秒。
また数秒。
その間、待機画面の白が薄く濁る。
ロゴの輪郭がぶれて文字が縦に揺れる。
彼女は端末を見ないようにしながらも、視界の端でそれを感じてしまう。
白い画面の奥に、暗い廊下の如き黒い画像の端がチラチラ見えている。
怜司の声がさらに低くなる。
『保存は通ります。もう一度』
『一度戻されました。もう一回入れます』
管理担当の声に、焦りと怒りが混じり始めていた。
恐怖だけなら手が止まるのだが、怒りは人間を動かす。
こんなものに仕事の画面を勝手に触られているという、実務担当者としての苛立ちが彼の指を再びボタンへ向かわせていた。
ハルトは今まで頑張ってきていた。
彼だけじゃない。
会社の全員がずっとずっと努力してきた。
その努力を台無しにしようとしてくるナニカに対して恐怖と同時に憤りを感じ始めていたのだ。
カチ、カチ、カチという音はまるでハサミの音のように鳴り渡った。
『保存。……通りました』
その瞬間、配信プレビューの品質が崩れた。
おおよそ絶対に有ってはいけない程に放送画面がぐちゃぐちゃに破壊される。
これは怪奇現象ではなく、純粋な設定の変更によるものだった。
白い待機画面の輪郭が粗くなり、文字の縁が滲む。
ロゴの滑らかな線は無茶苦茶に砕け、映像の奥で何かが動いたとしてもそれはノイズの黒い塊にしか見えなくなった。
音声もかすかに残っていた声のようなものが、薄い水音のように潰れていく。
画質と音声の封鎖はこうやって完了した。
これで最低限の拡散に対する処理は完了である。
「……落ちた」
マネージャーはようやく少しだけ安堵した。
一歩ずつ進んでいる。
少なくとも前の様な一方的にやられるわけではなくなりつつある。
管理担当が震える声で言った。
『画質、かなり落ちています。
音声も潰れました。何か言っていても、もう聞き取れません』
さすがにbpsを8まで落とせばもう意味も何もあったものではない。
彼女はようやく、ほんの少し息を吐いた。
漫画の様な戦いではない。
アニメやゲームに出てくるような呪文や、結界、光る札もここにはない。
出力解像度とビットレートと音声圧縮という何ともつまらない操作の羅列だ。
あまりにも現代的で、あまりにも滑稽で、そして、今の彼女にはそれが救いだった。
『これで時間が稼げます』
怜司が言った。
『ですが、本人はまだ画面の前にいます。急いでください』
「もう着きます」
彼女は曲がり角を抜け、ハルトのマンションの前へ車を寄せた。
夜のマンションは、外から見れば何も変わらなかった。
エントランスの照明は穏やかで、自動ドアのガラスには彼女の疲れた顔が映っている。
深夜とはいえ、都市部の集合住宅らしく完全な無音ではない。
遠くで車が走る音がし、どこかの部屋から微かな生活音が漏れている。
普通の場所だった。
少なくとも外から見た限りでは。
彼女はインターホンを押した。
反応はない。
もう一度押す。やはり何もない。
電話をかけるが通話は繋がらない。
ハルトの部屋の中から着信音が聞こえるかと耳を澄ませたが、外からでは何も分からなかった。
彼女は会社との通話を繋ぎ直し、緊急入室の手順を確認した。
事前に上層部の承認は取っている。
体調不良中の所属タレントが予定外の配信を開始し、会話が成立しなくなった場合は担当者が安否確認のため入室できる。
法務的に完全かと問われれば、後で議論はあるだろう。
だが、今はその後で議論するためにも、本人を生きて戻さなければならない。
合鍵を取り出す指が震えた。
彼女は一度だけ目を閉じ、前に言われた言葉を思い出す。
“次に一人で配信を始めたら、かなり危険です。”
危険だと分かっていた。
だからここに来た。
彼女は鍵を回した。
玄関の扉が開くと、湿気を帯びた空気が重かった。
部屋の照明はついている。
廊下も、リビングも、見える範囲は普通だった。
靴も揃っており、床に物が散乱しているわけでもない。
争った痕跡もなく、深夜に住人が体調不良で配信をしているだけのよく片づいた部屋だった。
しかし奥から風の音が聞こえた。
エアコンや換気扇でもない。
もっと広い場所を通り抜ける、低く湿った風の音だった。
生暖かく、そして奇妙な……カビと埃の臭い。
彼女はその音を知っている。
あの時、心霊スポットの廊下で聞いた音に似ていた。
宿泊棟の奥、開かないはずの扉の前で、壁の中を空気が動くように鳴っていた、あの遠い反響。
そしてこの臭いも。
かつ、こつ、こつ、こつ。
足音のようなものが聞こえる。
屋内で誰かが歩いている。
足音は部屋の中で木魂し、やがてドン、ドン、ドンという騒音となっていく。
彼女は靴を脱ぐ余裕もなく奥へ進んだ。
通話は繋ぎっぱなしにし、その上で怜司と管理者に現場が判りやすいようにビデオ通話状態に設定。
耳元では怜司の呼吸がかすかに聞こえ、別回線では配信管理担当がライブ状態とビデオを確認し続けている。
『視聴者数さらに減っています。
ただ……ライブ状態だけは残っています』
他の設定は変更できるのに配信だけは止まらない。
まるでそこだけ徹底的に守られているように。
「ハルトさん。部屋に入りますよ」
彼女は短く告げた。
配信部屋のドアは開いていて、ハルトはPCの前に座っていた。
ヘッドセットをつけたまま背筋を少し曲げ、モニターを見つめている。
机の上には飲みかけのペットボトル、体温計、薬の袋、携帯ゲームなどがあった。
照明は冷たく輝いており、部屋の中はしっかりと灯りに満ちている。
だがその光の中で、彼の背中だけがひどく冷えているようだ。
いや、実際部屋の中はとても冷たい。
エアコンが強すぎるかどうかは判らないが、とにかく部屋はひんやりとしていた。
そして変わらずモニターには待機画面が出ている。
白いロゴと「しばらくお待ちください」の文字は変わらない。
だが、直接見ると分かった。
その奥で何かが動いていることが。
低画質化で映像は崩れているはずだった。
視聴者側には、粗い待機画面しか見えていないはずだ。
けれどモニターをよく見れば布の向こうから光が強い透けてくるように待機画面の奥に別の映像がじんわりと映っていた。
スピーカーからは何処かの風が吹き抜ける環境音がずっと響いている。
カツ、カツ、コツ、コツという足音がずっと遠くから呼んでいた。
更には白い画面の中央に、わずかな黒いシミが滲んでいた。
ハルトが呟いた。
彼の視線はずっと画面を見ている。
「帰らないと」
彼女は足を止めた。
「かえらないと」
ハルトの声は、配信中のものとは違っていた。
視聴者へ向ける明るさも、場を保つための軽口もない。
寝言に近い、意識の底から漏れているような声だった。
彼は頭を左右にゆっくりと揺らしながら続ける。
「あそこに」
「ハルトさん」
彼女はできるだけ静かに呼んだ。
「こっちを見てください」
反応はない。
「配信は終わっています。もう見なくていいです」
終わってはいない。
正確には、まだライブは続いている。
それでも彼女はそう言った。
彼の中では、まず終わったことにしなければならなかった。
配信者としての夜坂ハルトに向かってではなく、そこにいる生身の人間へ向かって彼女は話しかけたのだ。
返事はなく、彼は腕だけを動かす。
ハルトの指がマウスの上でわずかに動く。
無機質なクリック音がした。
待機画面を彼は解除しようとしている。
マネージャーはマウスを奪い去り、PCから引き抜いた。
ハルトはゆっくりとマウスを取り返し、何度もカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ
「待ってて」
彼が誰に向けて言ったのかは誰にもわからないし知る必要もない。
ただ接続が途絶えたマウスをひたすら操作しカチカチという音を響かせている。
目線はずっと画面に向いており、口は半開きだった。
怜司の声が耳元で響く。
『物理遮断に入ってください。まず回線』
彼女は机の下へ屈み込み、LANケーブルを抜いた。
配信用PCの背面から伸びている有線ケーブルだ。
普通はコレを抜けばもうインターネットとの接続が切れて終わる。
抜く際に指先が震えて、最初は爪がコネクタに引っかからなかった。
二度目で爪を押し込み、引き抜く。
プラグが外れる音は小さく乾いていた。
画面は消えないしまだ動いている。
『回線切断確認……のはずですが、ライブ状態変わりません』
管理担当の声が遠く、息も荒い。
次に彼女はWi-Fiルーターへ向かった。
電源を抜けばもちろんランプが消える。
部屋の中の通信機器が一つずつ沈黙していく。
それでもモニターは光っている。
待機画面はまだそこにあり、映っていた。
「配信ソフトを閉じます」
彼女はPCの前に戻り、もう一度プラグを接続したマウスを握った。
ハルトの手はいまだにクリックしようとしていたから退ける。
その手は生きている人間の手なのに、かつて見知った親族の亡骸の様な冷たさだった。
彼女はマウスを動かす。
カーソルが遅く、まるでフリーズしたかのようだ。
配信ソフトのウィンドウには待機画面のプレビューが表示されている。
終了ボタン、設定、ソース一覧、音声ミキサー。
見慣れた画面のはずなのに、どれも文字の端が滲んでいる。
彼女は何も読まなかった。
終了ボタンだけを見て、押す。
反応しない。
もう一度押す。
確認ダイアログが出る。
終了しますか。
はい。
押す。
待機画面は続いている。
「駄目です。配信ソフト、終了できません」
『PCをシャットダウンしてください』
スタートメニュー。
電源。シャットダウン。
画面は一瞬暗くなり、すぐに戻った。
何事もなかったように待機画面が表示される。
「電源ボタン長押し」
彼女は本体の電源ボタンを押し続けた。
五秒、十秒。ファンの音が止まる。電源ランプが消える。
モニターはまだ光っている。
彼女の背筋に、冷たいものが走った。
さっきとは違いこうして直接見ると中々に恐ろしいものがある。
『PC側、オフラインになりました』
管理担当の声が震える。
意味が判らない判定を前に混乱しているのかもしれない。
だってそうだろう? PCを落とし、ルーターを切り、回線も抜いた。
終了なんて何回も押している。
それなのに配信は動き続けている。
これは絶対に言い訳の出来ないあり得ない事なのだから。
『でも、ライブ状態は続いています……映像も来て……待機画面のまま……』
歯を微かに鳴らしながら現状を説明する。
何度もしきりに後ろを振り向いているのか椅子が軋み、布がこすれる音がした。
「電源ケーブルを抜きます」
構わず彼女はPC本体の背面から電源ケーブルを引き抜いた。
続けてモニターの電源ケーブルも抜く。
更にはオーディオインターフェース、カメラ、照明、マイクも徹底的に電源から潰すのだ。
机の下へ潜り込み、電源タップごと切り、コンセントを抜く。
部屋の照明だけが残る。
それでもモニターは、淡く光っていた。
液晶が、電源も映像信号も失ったはずの黒い板が、内側から青白く光っている。
画面には、粗く潰れた待機画面が残っている。
その中央にある黒いシミは更に濃くなっており、環境音は変わらずだ。
通話の向こうで誰かが小さく呟いた。
管理者ではなかった。
ずっと彼の後ろで状況を見守っていた人物───あの会議に出ていた役員だった。
騒ぎを聞きつけ先ほどから管理者の後ろで見ていたのだ。
それも一人ではなく何人かだ。
彼らは彼女の持つ端末から送られてくるビデオをじっと見ていた。
電源も回線も繋がってないのに動いている画面を。
風が呻く様な環境音に、こつ、こつとうるさい足音。
更には画面に時折映る不気味な文字列さえも見てしまっていた。
『電源……抜いたんですよね』
『回線だってさっき切ってたのに、どうして』
別の声が続く。
彼らは口々に会話をしているようだった。
『映像がまだ来ています』
『ライブ状態です』
『回線も落ちてます』
『そんな……ありえない』
その声は▲▲▲▲社の管理担当と上層部の誰かのものだった。
彼らは初めて、言葉を失っていた。
演出ではない。
機材トラブルでもない。
配信者の疲労だけでも片付けられない。
説明できないものが配信として続いている。
その事実が今、社内の何人かの前に突きつけられていた。
ハルトが椅子から立ち上がりかけた。
「おれ、帰らないと」
彼女は振り返る。
ハルトの目は、モニターに釘づけになっていた。
瞳孔が開き、焦点が合っていない。
頬には汗が伝い、唇は乾いている。
腕は細かく震えているのに、画面へ伸ばす指だけが妙に確かだった。
「ハルトさん!」
彼女が肩を掴むと、彼の身体は驚くほど冷たかった。
シャツは汗で湿っている。呼吸は浅く、短い。
生きているのに、身体の表面だけが冷蔵庫の中へ置かれたようだった。
彼は彼女を見なかった。
「みんな、待ってる」
「誰も待っていません。こっちを見てください」
「ごめ――」
彼女の手が反射的に動いてハルトの口を塞いでいた。
自分でも驚くほど強い力だった。
彼の言葉を押し込めるように、片手で口元を覆い、もう片方の手で肩を掴む。
彼は抵抗した。強い力ではない。
だが、画面から引き剥がされることだけを拒むように、首と目だけがモニターへ戻ろうとする。
「言わないでください」
彼女の声が震えた。
「謝らないでください。何も、絶対に、言わないでください!」
怜司が前に言っていた事だ。
謝罪は相手を上に置く行為だ。
許す側と許される側の関係を作る。
視聴者の前でやれば、何万という見届け人ができる。
今はもうコメント欄は閉じている。視聴者数も削り、画質も見れたモノじゃない程に潰した上にダメ押しに待機画面も被せた。
だが、ここでハルト本人が口にしてしまえばその言葉はまだ届く。
配信が完全に死んでいない以上、どこかへの誓いとなってしまう。
彼女は口を塞いだまま彼を椅子から引き剥がした。
ハルトの膝が崩れる。
身体が床へ沈みかけるれば彼女は支えきれず、ほとんど一緒に倒れ込むようにして彼を机から離した。
彼の手がまだ画面へ伸びる。
彼女はその手を掴み、引き戻した。
「駄目です!」
声が部屋に響いた。
「こっちを見て!」
ハルトは返事をしない。
ただ、閉じられた口の奥で、何かを言おうとしている。
唇が彼女の手のひらの中で動き、湿った息が指の間をかすめる。
ご
め
ん
と言おうとしている。
彼女は涙が出そうになるのを噛み殺した。
彼女は霊能者ではなく、相手の正体も知らない。
画面の奥に何がいるのかも、ハルトがどこへ帰ろうとしているのかも分からない。
だが、担当タレントを画面から剥がすことはできる。
それだけは、彼女にも今できる事だった。
『ブレーカーを落としてください』
怜司の声がした。
『部屋ごと電気を全て落とします。
それでも画面が残るなら、次に入ります』
彼女はハルトを床へ座らせ、片手で彼の肩を押さえたまま、もう一方の手で端末を探った。
部屋の間取りは事前に確認してある。分電盤は玄関側の壁にあるはずだ。
「ハルトさん、ここにいてください。動かないで」
彼は返事をしなかった。
彼女は彼の口元から手を離すのが怖かったが、いつまでも塞いだままでは動けない。
彼の顎を軽く押さえ、視線を画面から外すように床へ向けさせる。
そして立ち上がった瞬間、ハルトがまた顔を上げた。
「かえ――」
彼女は戻って、思い切り彼の頬を叩いた。
乾いた音が鳴った。
自分の手のひらが熱くなり、ハルトの顔が横へ向く。
彼女の胸が痛んだ。
叩きたかったわけではない。
ましてや傷つけたいわけでもない。
けれど、その一音で彼の口は止まった。
「何も言わないでください」
彼女は、もう一度言った。
今度は泣きそうな声だった。
「お願いですから、何も言わないでください」
念を押すようにもう一声かける。
ハルトは目を揺らした。
一瞬だけ、焦点がこちらへ戻りかけた気がした。
その隙に、彼女は廊下へ走った。
分電盤の蓋を開け主幹ブレーカーへ手をかける。
それを落とすだけの動作が、ひどく重かった。
一息だけ彼女は吐いた。
「落とします」
『はい』
怜司の声が返る。
彼女はブレーカーを下げた。
部屋の照明が一斉に消えた。
エアコンの低い音も止まり、冷蔵庫の駆動音さえ遠くなる。
マンションの廊下から漏れる微かな光だけが、玄関先に薄く残った。
普通ならそれで終わる。
PCもモニターも、ルーターも照明も、すべて沈黙するはずだった。
マネージャーは振り返り唇を戦慄かせた。
これでまだダメなのか、と。
配信部屋の奥からまだ青白い光が漏れている。
彼女は廊下に立ったまま、しばらく動けなかった。
やれることは全てやったのに、どうすればいいのか。
モニターの光は電気ではなかった。
少なくとも今この部屋の配線から来ているものではない。
配信部屋へ戻ると、モニターだけが淡く光っていた。
電源ケーブルも映像ケーブルも抜かれている。部屋のブレーカーも落ちている。
にもかかわらず、画面の中央に粗く潰れた待機画面が浮いていて、黒く濁っている。
その中央の黒い染みが、少し大きくなっていた。
ガビガビに壊れた映像なのに、その奥にあの廊下が映っていると判ってしまう。
風が吹き抜ける音とかび臭い臭いが部屋に満ちていく。
つられるようにハルトが床から身を起こそうとした。
「いかないと」
彼女は戻って彼の肩を掴んだ。
「駄目です」
彼は今度はわずかに抵抗した。
画面の方へ膝を立て、手を伸ばす。
体力は残っていないはずなのに、その動きだけが妙に力強い。
彼女は彼の前に回り込み、両腕で抱え込むようにして押さえた。
『画面を物理的に隠してください』
怜司の声がした。
そこには、これまでより明確な疲労が滲んでいた。
ここまでやってまだ離れないとは、しつこい、うんざりするという感情を滲ませながら指示をする。
『布でも上着でもいいからそれでモニターを覆ってください。
最悪は玄関前にモニターを投げ捨てても構いません』
『そして……彼には活動名ではなく、彼の本当の名前で声をかけてください』
夜坂ハルト。
それは配信名でありvtuberとしての名前だ。
もちろん彼の本当の名前ではない。
この名前はそういうものと繋がっている存在の名前だ。
夜坂ハルトが謝罪し、夜坂ハルトが持ち帰った。
数万人が見届けた降伏も夜坂ハルトがしたことであり、本来の彼ではない。
だから彼女は、その名前を呼ばなかった。
普段、裏でスタッフとして呼ぶ時の本当の名前を口にした。
「──さん。聞こえますか。こっちです。ここにいます」
彼の本名を読者へ聞かせる必要はなかった。
ただ、彼女は配信名ではない呼び方で、繰り返し声をかけた。
「ここです。私の声を聞いてください」
ハルト……いや、彼の目がわずかに揺れた。
彼女は片手で彼を押さえたまま、床に脱いでいた上着を掴んで持ち上げようとして抵抗を感じた。
上着を下から誰かが掴んでいる。
恐ろしい程の力で掴まれており、持ち上がる気配はない。
衣服の下には床しかなく、もちろん誰かが入る隙間などないというのに、
『なにも居ません。早く上着でモニターを隠してください』
怜司が断言すればふっとその力は消え去った。
彼女は上着をモニターへかけた。
布越しに青白い光が滲む。
完全には隠れず、ソレはまだそこにいる。
『こちらを見ないでください』
怜司の声が、遠くから聞こえた。
『貴方は見ることを許されていない』
株式会社〇〇〇〇の管理室で鳥越怜司は白い紙を押さえていた。
机の上には何も書かれていない紙が一枚。小さな鈴。古い守り札。安い日本酒の小瓶にナイフが一本、
どれも派手な儀式に見えるほどのものではない。
会社の片隅で広げるには、むしろ地味すぎる道具だった。
だが、その白紙の上で黒いものが蠢いていた。
墨に似ているがもっと粘性を帯びており、同時にガスの様にもやもやとした安定しないものだ。
ソレはのたうち、絶えず姿を変えている。
窶懊■繧?▲縺ィ縺?¢隧ア縺吮?
窶懆か窶?窶懊>繧銀?
窶懆ィア縺励※窶?窶懷クー繧峨↑縺?→窶?
窶懊■繧?▲縺ィ縺?¢隧ア縺吮?
窶懆か窶?窶懊>繧銀?
窶懆ィア縺励※窶?窶懷クー繧峨↑縺?→窶?
̴̡͈̳̱̠̥̯̘̪窶̴̨̫̙̟͈̜̯̝̗͍̜͎懊̴̰̞̯͢
̝͍͈̤͔̠͔͚͓■̷̧̥̣͈̝̭̝͖̠͉͔͔͓̫̥繧̵̳̫͍͉̦̬̣̮͓͓̫͢?̵̮̤̘̯̱̳̲͎͈̖̗͜▲҈̰̮̝̖͙̟͍̤̮̰͜縺҉̩̗̙͎̠̰͔̣̙͇̤̥͇͢ͅィ̶̢͖͙̝̜͕͓̝͚̪縺҉̨̫͕͓̬͎̠̦̗͖͓?҉̢̗͙͍̜͎̘͉̰¢҉̳̘͈̱̘̖͕͇̖͢ͅ隧̷̡͖͙͙̩̰̗̦̰ͅア̶̢̭̠̗͕̠̬̘͔̩̝̩縺̶̡̘͓̩̲̪̘̞̝̬͉͎̜͈͚̝ͅ吮̶̞̜̝̟̮̥̭̱͢?̴̧̠̦̖̪̳̤̩̮͕̟̣͎͇͚ͅ
̷̨̣̠͚͓͎̗̤͇̟͓̱̮̪͓̲̲窶҉̨̗̮͍̝͙̦͎ͅ懆҉̡̟͍̰̤͕̰̲̩͙̫ͅか̷̢̤̰̠͔̬̤͎̠͕̳ͅ窶҉̨̳̟͙͇͙̤̣͉̖͚͉͍̲̲̩ͅ?̴̮̱͚̪̯̥̤̘͙͍͢窶̸̨͈͙̳͉̳̦͙̥͈͕̞̞̝̣̜ͅ懊̷̯̞͚͔̟̘̪̠͢≯̨̠̳̣͇̠̳̤̖̩ͅͅ繧̸̠̟̙͉̟͎̘͍͓̠͎̲͕͖͜銀̷͓̙͓̬̙̤̗͉̬̤̫̟̥̦͇͢ͅ?҈̧͓̲̙̘̲̮̗͖̗̫
̸̢̖̯͚̩̬̯̗̥͖̪̤̳̙̮ͅ
ナニカの文字/メッセージとして読めそうになる。
もちろん怜司は読まなかった。
「読みません」
彼は低く言った。
「貴方に名前はない」
「名前のない者は存在しない」
「いない」
鈴を鳴らす。
ちりん、と小さな音が落ちる。
黒い筋が紙の端へ逃げようとする。
まるでコメント欄の流速に乗って画面の外へ出ようとするように、細く伸び、別の文字へ変わろうとする。
怜司は紙を折った。折り目で黒い筋を挟み込む。
もぞもぞと動こうとするソレをナイフで突き刺して縫い留める。
遠くの現場でマネージャーがモニターを上着で隠した瞬間、紙の上の黒い筋が大きく跳ねた。
怜司は指先で押さえる。
熱くはなく、冷たい。
濡れた髪を掴んだ時のような、嫌な湿り気だけが指の腹へ移る。
「そこは居場所ではない」
誰に聞かせるでもなく、彼は言った。
「見られる場所ではない。語られる場所ではない。許される場所でも、帰る場所でもない」
黒い筋が震える。
鈴が、再び触れていないのに鳴った。
その音が通話を通じて現場にも届いたのかもしれない。
彼女の呼吸が、わずかに落ち着く。
怜司は紙をさらに折る。
二つ折り、四つ折り。
書かれていない紙の中に、書かれようとしたものを閉じ込める。
派手な光はない。
叫び声もない。
悪霊とのもっともらしい会話もない。
ただ、配信として広がろうとしたモノを、現場の管理操作と物理遮断と合わせて一つずつ折りつぶしていく。
怜司の額には薄く汗が浮いていた。
彼はそれを拭わず、通話へ声を落とす。
「そのまま画面を隠していてください」
『はい』
彼女の声が返る。
震えてはいるが、心は折れてはいない。
『彼のこともそのままで』
「分かっています」
『もう少しです』
その言葉を口にした瞬間、紙の中の黒いものが最後に大きく暴れた。
怜司は守り札を紙の上へ重ね、文字の上からナイフの刃先でなぞる。
ちりん、と澄んだ音が落ちた。
遠く、ハルトの部屋で上着の下から漏れていた青白い光がわずかに弱まった。
だが、まだ消えない。
現場の部屋は、完全な暗闇ではなかった。
ブレーカーを落としたため照明は消えている。
だが、廊下から漏れる光と、上着をかけたモニターから滲む青白い光が部屋の輪郭をかろうじて浮かび上がらせている。
チカ、チカっとモニターが点滅を繰り返し、部屋の中は明滅した。
その中でハルトは床に座り込んでいた。
マネージャーはその横で彼の肩を押さえ続けている。
彼の呼吸は浅く、時折、喉の奥で何か言葉になりかける音がする。
そのたびに彼女は、配信名ではない呼び方で彼を呼んだ。
「配信はもう終わっています。戻ってきてください」
本当は、まだ終わっていない。
管理画面のライブ状態は残っている。
視聴者数はわずかだがゼロではない。
モニターの光も完全には消えていない。
それでも彼女は終わったと言い続けた。
こんな事、早く終わらせなくてはならないからだ。
通話の向こうで管理担当が言った。
『視聴者数、さらに減っています。0から3の間を推移』
怜司が続ける。
『終わりが近い。あと少しです』
ハルトの手が震えながらまたモニターへ伸びた。
彼女はそれを掴み、自分の方へ引き戻す。
前よりハルトの腕に込められていた力は弱くなっていた。
「駄目です」
彼は、目を閉じたまま呟いた。
「みせて」
「見せません」
彼女は答えた。
自分でも意外なほど、強い声だった。
恐怖はまだあるが、同時に怒りもそこには込められていた。
「もう、貴方には何も見せません」
その言葉に反応したように、モニターの上着が内側からわずかに膨らんだ。
エアコンが堕ちている今は部屋に風などない。
それなのに、青白い光が一瞬強くなり、布の中央に丸い盛り上がりが現れた。
彼女は見なかった。
見れば、形を補ってしまう。
怜司の声がした。
『そのまま見ないで。もちろん触らない』
どんどん膨らんでいく上着を彼女は無視する。
ゆっくりと上着がズレていくが、まだ画面は隠れている。
「はい」
彼女はハルトの肩を抱え、画面に背を向けさせるように身体を動かした。
彼は抵抗したが、やはりもう先ほどほどの力はない。
膝が震え、首が落ち、ヘッドセットがずれて床に当たる。
その瞬間、スピーカーの電源もないはずの部屋に、かすかな音が響いた。
遠い廊下の風。
こつ、こつ、という足音。
そして、かすれた呼吸。
アアアアアアぁああああああああああああああああァアアアアアあああああああああぁああぁ
次にモニターから声が聞こえる。
かすれたようなものではない、はっきりとした声だった。
あの収録の時、ハルトが暗闇に向けてはなった挨拶がそっくりそのまま帰ってきていた。
夜坂ハルト夜坂ハルト夜坂ハルト夜坂ハルト夜坂ハルト夜坂ハルト夜坂ハルト夜坂ハルト夜坂ハルト。
夜坂ハルト夜坂ハルト夜坂ハルト夜坂ハルト夜坂ハルト夜坂ハルト夜坂ハルト夜坂ハルト。
「おーい!」「おーい!」「おーい!」「おーい!」
「おーい!」「おーい!」「おーい!」「おーい!」
「おーい!」「おーい!」「おーい!」「おーい!」
「おーい!」「おーい!」「おーい!」「おーい!」
「おーい!」「おーい!」「おーい!」「おーい!」
「おーい!」「おーい!」「おーい!」「おーい!」
ハルトの身体が跳ねた。
「かえ――」
彼女は彼の口を塞いだ。
今度は叩かなかった。
両手で包むように、けれど確実に塞ぐ。
「言わないで」
彼女の声が闇の中で「おーい!」「おーい!」「おーい!」夜坂ハルト夜坂ハルト「おーい!」
「おーい!」「おーい!」「おーい!」「おーい!」夜坂ハルト夜坂ハルト
「おーい!」「おーい!」夜坂ハルト夜坂ハルト夜坂ハルト「おーい!」「おーい!」震える。
「お願いです……言わないで」
ハルトの目から、涙が一筋こぼれた。
それが恐怖なのか、苦しさなのか、少しだけ戻ってきた意識なのか、彼女には分からない。
でも、彼はそれ以上言わなかった。
怜司の側で、鈴が一度だけ大きく鳴った。
紙を折る音。
何かが燃えるような乾いた音。
低く息を吐く声。
『切ります』
怜司が言った。
『そのまま、押さえていてください』
彼女は頷いた。
誰にも見えていないのに、ただ頷いた。
数秒。
十秒。
もっと長かったかもしれない。
「おーい!」「おーい!」「おーい!」「おーい!」
「おーい!」「おー……い!」「お……い」「おー……」
「お……」「……い」「……」「おーい!」
上着の下から漏れていた青白い光が、ゆっくりと弱まっていく。
最初はほとんど分からないほどだった。だが、確かに暗くなっている。
布の中央に浮かんでいた黒い染みが、周囲の暗闇に溶けるように薄れていく。
画面から現れていた盛り上がりも音を立てて凹んでいった。
通話の向こうで管理担当がかすれた声を出した。
『ライブ表示、変わりました』
誰もすぐには反応できなかった。
『ライブ配信は終了しました、って……出ています』
その無機質な言葉が、部屋の空気を変えた。
現場では、モニターの光が完全に消えた。
上着の下にあった青白い滲みと膨らみが消え、部屋は廊下からの薄明かりだけになった。
その瞬間、ハルトの身体から力が抜けた。
糸が切れたように、彼は彼女の腕の中へ崩れ落ちた。
彼女は慌てて支える。肩を抱え、床へ横たえ、頬に手を当てる。
冷たい。
けれど、さっきよりは暖かい。
「ハル……」
思わず配信名で呼びかけそうになり、彼女は寸前で止めた。
普段の配信外の呼び方で、もう一度呼ぶ。
「──さん。聞こえますか。大丈夫ですか」
返事はない。
彼女は首筋に指を当てた。
落ち着けと自分に言い聞かせながら脈を探す。
しかし自分の指が震えすぎて、一瞬分からない。
もう一度、落ち着けと自分に言い聞かせる。
脈はあった。
弱いが心臓は動いている。
呼吸は浅い。
だが息絶えてはいない。
怜司の声がした。
『彼は生きていますか』
彼女は、喉の奥が詰まりそうになりながら答えた。
「息はあります」
声が震えた。
「脈も……あります」
通話の向こうで、怜司が初めて少しだけ息を吐いた。
『判りました』
その言葉を聞いた瞬間、彼女の膝から力が抜けそうになった。
けれど、まだ終わりではない。
救急を呼んで会社へ報告する。
現場を保全し機材には触らない。
ログを一人で見ない。誰にも、今見たものを面白がって語りはしない。
外部の視聴者たちに見せるカバーストーリーの準備もある。
やることは山ほど残っている。
彼女は救急へ電話をかけた。
説明は、体調不良と意識混濁。
配信中に様子がおかしくなり、安否確認のため入室したというテイだ。
結果、部屋の中でハルトは倒れており、それをマネージャーが発見し通報という話にする。
発見時の彼は息はあり、脈もあった。
しかし発熱があり、事前に睡眠不足も訴えていたということも付け加える。
嘘ではない。
少なくとも、表向きにはそれで通るし、通す。
電話を切った後、彼女は暗い部屋の中でハルトのそばに座り込んだ。
ブレーカーを落とした部屋は静かで、先ほどまで聞こえていた風の音も、足音も、もうない。
上着をかけられたモニターはただの黒い板に戻っていた。
電源も回線もない沈黙した機械だった。
彼女は、それでもモニターを見なかった。
怜司が言う。
こういうのは残心が大事なのだ。
最後の悪あがきをかまされるかもしれない。
『救急が来るまで彼を画面から離したままにしてください。機材には触らない。
上着もそのままでいい。誰かが来ても、モニターは見せないでください』
「分かりました」
『それと……よく止めました』
その言葉に、彼女の喉が震えた。
褒められている場合ではないし泣いている場合でもない。
彼はまだ意識を失っているし、救急も来ていない。
会社はこの後、地獄のような説明に追われるのは明らかだ。
切り抜きも、録画も、憶測も、完全には止められない。
それでも、今だけは少しだけ安心してもいいし、誇ってもいいだろう。
彼女はハルトの呼吸を確かめながら暗い部屋で小さく頷いた。
こうして彼のライブ配信は終了した。
救急隊が到着した時、部屋はまだ暗かった。
ブレーカーは落とされたままで、廊下から差し込む薄い明かりと
開け放たれた玄関の非常灯だけが室内の輪郭をかろうじて浮かび上がらせていた。
配信部屋の奥では上着を被せられたモニターが黒い沈黙に戻っている。
さっきまで布越しに滲んでいた青白い光はもうなく、電源も回線も失った機械はようやく本来のただの物体に戻っていた。
彼女は床に膝をつき、ハルトの肩を支えていた。彼の呼吸は浅いが続いている。
汗で湿ったシャツは冷え、頬にはまだ血の気が戻りきっていなかったが、胸は小さく上下していた。
脈もある。何度確認してもその度に彼女の喉の奥がわずかに震えた。
「配信中に体調が悪化しました。
前から発熱と睡眠不足があって、配信を止めようとしたところで意識が朦朧として……」
救急隊員へそう説明する声は、自分でも驚くほど業務的だった。
嘘ではない。少なくとも、表向きには何も間違っていない。
配信中に体調不良を起こした。
ある収録から強いストレスがあり、発熱もあった。
強い睡眠不足と脱水も疑われ、意識混濁の状態で彼は座り込んでいた為、安否確認に入ったマネージャーが救急要請した。
そういう前提で話は進んでいた。
確かにこれなら深夜の芸能事務所トラブルとしては十分に現実の範囲に収まる。
ただ、救急隊員の一人が部屋の奥へ視線を向けた時、彼女は反射的に身体を動かしてさりげなく視線を遮った。
黒いモニターにはまだ上着がかかったままだったが、それでも見られたくなかった。
何も映っていないしもう光ってもいない。
それでも、あれを「確認」されること自体が嫌だった。
イヤホンの向こうで怜司の声が低く続いた。
『機材はその場で触らないでください。明日、複数人で確認してください。
一人でログを見ず、録画も巻き戻さない。何が映っていたかを言い合わない』
彼女は小さく頷いた。
「わかりました」
『救急隊には、体調不良と意識混濁で通してください。
機材は会社管理の確認対象として、そのまま処理する。誰にも一人で見せないでください』
「はい」
彼女はもう、その意味を理解していた。
見ない。語らない。名前にしない。
配信者として、事務所として、何が起きたのかを知りたくなる衝動はある。
だが、その衝動が一番まずいのだ。
あのモニターがなぜ電源もなく光っていたのか、なぜ回線を切ってもライブ状態が続いたのか。
なぜブレーカーを落としても配信が終わらなかったのか。
それを話し合いああでもない、こうでもないと推察し物語性を与えるとあれは形を取り戻す。
担架に乗せられる時、ハルトは一瞬だけまぶたを震わせた。
意識が戻ったわけではない。
ただ、何かに反応したように、唇が小さく動いた。
彼女は身を屈め、彼の口元へ耳を寄せたが、言葉になる前に彼はまた力を失った。
貴方は悪くない。
彼女は声には出さず胸の中でそう繰り返した。
救急隊がハルトを運び出し、廊下の奥へ消えていく。
マンションの静かな空気の中に、担架の車輪が立てる小さな音だけが残った。
彼女はしばらくその背中を見送っていたが、やがて部屋へ戻り、配信機材の前に立った。
モニターには、まだ上着がかかっている。
PCは電源ケーブルを抜かれ、ルーターも沈黙し、オーディオインターフェースも床に置かれていた。
ケーブルの束は乱れ、引っかけたマウスが横倒しになっている。
普通の機材トラブルの現場ならここから原因確認が始まる。
ログを見て、録画を確認し、設定を洗い、再現性を探すものだ。
だが彼女は何もしなかった。
ただ、部屋の入り口に立ったまま会社へ連絡を入れた。
「本人は搬送されました。
後日、今回の配信記録は確認せずに削除します。絶対に中は見ないでください」
相手の返事は遅れた。
おそらく管理担当も上層部も、まだ何を言えばいいのか分かっていないのだろう。
彼らもまた見ていた。
終了操作をしても終わらない管理画面を、公開設定を変えるたびに歪む文字を。
回線も電源も失ったはずの配信が続く状態を。
だからこそ、今までなら過剰に聞き返されたはずの彼女の指示に誰も反論しなかった。
『了解しました』
その返事を聞いて、彼女はようやく少しだけ息を吐いた。
ただし、安堵は来なかった。
胸の奥に残っているのは、濡れた布のように重い疲労だった。
翌朝、▲▲▲▲社は予想通り対応に追われた。
夜坂ハルトの深夜配信は、すでにSNS上で話題になり始めていた。
通常公開だったはずの枠が突然限定公開になり
年齢制限が入り、チャットがいきなり閉じられ、さらに最上位メンバー限定へ切り替わった。
途中からは休憩画面になり、画質は極端に落ち、音声は潰れ、最後にはほとんど何が起きていたのか分からないまま終了した。
当然というべきか、視聴者は混乱していた。
掲示板では無数の憶測や噂や悪意が飛び交う。
『運営何した?』
『ハルトくん倒れた?』
『途中で許してって言ってなかった?』
『録画してた人いる?』
『途中から画質やばすぎて何も分からん』
『なんかいきなりメン限に飛ばされたんだけど』
『演出じゃないよね?』
『公式の発表を待つしかない』
彼女はその画面を見ながら何度も怜司の言葉を思い出した。
物語にさせず、語らず、アレはああいうものだという名前を与えない。
実際、今回の対応は悪くはなかった。
ギリギリの瀬戸際であったが、緊急として全てをシャットアウトしあちら側の嫌なことをとにかく行うことができた。
早い段階で新規流入を止め、年齢制限をかけ、チャットを閉じた。
メンバー限定へ移し、待機画面を挟み、画質も音声も潰した。
録画していた者はいるだろう。
だが、決定的な映像は残っていない。
もちろんハルトの肩に何かがいたように見えたと言う者はいるだろう。
許してと聞こえたと言う者もいる。
だが、それはどれも粗い映像と途切れた音声の中で、そう見えた、そう聞こえた、という程度に留まっていた。
こういったオカルトやスピリチュアルな存在というのはあくまでも現代においては半信半疑であり、娯楽の一種でしかないのだ。
誰もが本気で居るとは思ってはいないし、あれらは文明の下に埋もれた影でしかない。
彼女はそれが救いだと思った。
それでも、完全には消せない。
切り抜き許諾は停止された。
録画を上げたアカウントには削除依頼が飛び、検証動画を作ろうとしていた者にも連絡が入った。
心霊スポットの場所特定、施設名の拡散、過去の噂との結びつけにも削除要請が出された。
もちろんすべてを消すことはできないが、それでも権利者が「やめろ」と言えばそれは絶大な力となる。
権限を使えば言葉が広がる前に見出しを潰し、サムネイルを削り、検証の手を鈍らせることはできる。
忘れてはいけない。
切り抜きやら手書きやらといったそういうものはあくまでも権利者が黙認しているから存在できるのだということを。
その一方で、公式発表の文面は徹底して退屈に整えられた。
夜坂ハルトは配信中に体調不良を起こし、現在は医師の診察を受けている。
命に別状はないが、数日前から発熱、睡眠不足、強いストレス反応があった。
医師の判断により、しばらく活動を休止する。
配信中の公開範囲変更、年齢制限、メンバー限定化、チャット停止、画質低下。
そして休憩画面表示などは緊急対応中の操作が重複したことによるもので現在確認を進めている。
本人には復帰の意思がある。
彼の為にも該当配信の切り抜き、転載、録画の共有は、本人の回復と安全管理の観点から控えてほしい。
という何の面白みもない文面だった。
彼は行方不明ではないし帰ってこないわけではない。
ましてや画面の向こうへ消えたのでもなく最後の配信だったわけでもない。
夜坂ハルトは生きていて、今は病院にいて後で戻る予定がある。
その平凡な事実を、周知させる必要があった。
そういうものにとって都合のいい物語は、いくらでも作れる。
深夜に始まった最後の配信、運営が隠した謎の映像に消されたチャット。
会員だけが見た恐怖と電源の落ちた部屋から続いた声。
そういう言葉は放っておけば勝手に育ってしまう。
だから公式はつまらない現実を提示した。
体調不良です。緊急対応の設定ミスです。活動休止です。また戻ってきます。
退屈な文章であることが防疫だった。
そしてそれから社内の空気も変わっていた。
前日まで、上層部は彼女の危機感に対して慎重だった。
心配しすぎではないか。今止めれば逆に怪しまれるのではないか。
数字が伸びている今、強く制限する理由は弱いのではないか。
そういう言葉は、どれも会社として間違いではなかった。
だが、彼らは見てしまった。
全員ではないにせよ、それでも一人二人の気のせいとは言えない程に。
管理画面で終了操作をしても終わらなかったライブ。
公開設定を変えようとするたびに歪む表示と回線を切っても残る配信状態。
電源を抜いても、ブレーカーを落としても、なお光っていたモニター。
マネージャーが現場でハルトを画面から引き剥がし、口を塞ぎ、上着でモニターを覆うまで終わらなかった配信。
そしてモニターにあった奇妙な膨らみ。
それを見た後で誰も「たまたま」とは言えなかった。
ただし、会議室で誰も「霊」とは言わなかった。
言えなかったのだ。
その言葉を口にした瞬間、会社の会議ではなくなる。
配信事務所の危機管理会議が、怪談か宗教相談に変わってしまう。
法務も、広報も、マネージメントも、その言葉を正式に扱う術を持っていない。
今の日本では幽霊やら霊障は法律の中には組み込まれていない。
だから言葉は置き換えられた。
基盤となったのはは「配信中の音声・映像違和感発生時の対応メモ」であった。
久我が業界に流していたソレは着々と裏で新しいマニュアルのベースとなり始めていた。
配信安全管理の見直し。異常音声・映像処理の手順の確立とタレントの心理負荷のケアプラン。
深夜単独配信の制限と条件付け。心霊企画申請制の見直しに緊急公開制限手順。
コメント欄遮断基準の作成と切り抜き一時停止判断基準の共有。
そして。
異常音声を感じた場合、即座に恐怖を煽る表現をしない。
視聴者へ検証を促さない。
問題箇所の繰り返し再生を避ける。
アーカイブ公開前に管理室へ連絡する。
本人が不安を感じた場合、配信終了後に一人で検証せず、マネージャーまたは管理室へ報告する。
切り抜き化されそうな場合は、該当箇所の扱いを事前確認する。
名称化、タグ化、シリーズ化は避ける。
現地収録後の安全祈願の実行。
外部の第三者への相談ルートの確保。
現実的な言葉の中に、誰もが見てしまったものを押し込んでいく。
彼女の立場も変わった。
結論から言うと彼女は何とか懲戒は免れていた。
かなりギリギリの行動だったが、アレを見てしまった以上は切り捨てて終わりとはいかなくなったのだ。
彼女は最初から警告していた人間として扱われるようになった。
上層部は彼女の発言を途中で遮らなくなり、配信管理担当は彼女の指示を先に確認するようになった。
外部の“専門家”へのパイプとして残されたというわけだ。
企画担当も、心霊系の話題になると少しだけ彼女を見る。
褒められたわけではない。
むしろ、誰もが彼女へ言葉を選ぶようになっただけだった。
彼女自身は、それを喜べなかった。
勝ったわけでも、自分の正しさを証明したかったわけでもない。
彼女が望んでいたのは、あの会議室で自分の言葉が正しかったと認められることではなく、そもそもあんな夜が来ないことだった。
ハルトは生きている。
その事実だけが、彼女の身体をかろうじて動かしていた。
疲れた。本当に疲れた。
この話題が沈静化したら長い有給を彼女は取る気だった。
数日後、ハルトは病院で意識をはっきり取り戻した。
診断書に並んだ言葉は表向きの説明を裏付ける単語が多い。
過労に睡眠障害。強いストレス反応。発熱。軽度の脱水。
適応障害かどうかの判断を行うための問診も体調が回復後に行う。
今回彼が発症したのはストレスと睡眠不足による一時的な意識混濁……つまりせん妄だ。
どれも現実に存在する症状で、どれも彼の状態を説明できる。
例えば彼が配信で繰り返し訴えていたことは、ストレスによるせん妄によるモノの可能性が高いといった感じだ。
医師は心霊スポットの怪異も、配信に乗った何かも知らない。
ただ、ひどく消耗した若い男性が運ばれてきて、身体と精神の両方に強い負荷がかかっていると判断した。
その上で「せん妄」という最もそれらしい病状を疑った。
実際、あの時のハルトは高齢者が大規模な手術を行った後に発症するせん妄と似た言動をしていたのもあるので説得力は高い。
それでよかった。
オカルトではなく無機質な病気というラベルを張り付けて、心霊ではないと流していく。
彼の入った病室は静かだった。
白いカーテン、点滴の管、ベッド脇の小さな棚。
窓の外には昼の光があり、配信部屋の青白いモニターの光とはまるで違っていた。
マネージャーが入ると、ハルトはしばらく天井を見ていたが、やがてゆっくり顔を向けた。
顔色はまだ悪く、目の下には濃い影があり、唇も乾いている。
それでも、あの夜のように焦点が合わない目ではなかった。
「……すみませんでした」
最初に出た言葉がそれだったので、彼女は一瞬だけ胸が冷えた。
けれど、すぐに分かった。
これはあの時の謝罪ではない。
画面の奥へ向けた許しを請う言葉ではなく、自分の担当者へ向けた、ただの人間としての謝罪だった。
「いいんです」
彼女は椅子に座り、できるだけ静かに言った。
「まずは戻ってこられたんですから、回復することを優先してください」
ハルトは小さく息を吐いた。
笑おうとしたのかもしれないが、口元はうまく動かなかった。
「俺は、戻って……こられたんですかね」
その声は掠れていて、彼女はすぐには答えなかった。
代わりに、ベッド脇の水を少し動かし、彼の手の届く位置へ置く。
ハルトは自分の指先を見ていた。
「全部は覚えてないです。……でも、変なところだけ残ってるんですよ。
ずっと見られてた感じとか、あそこに帰らなきゃいけないって思ってたこととか」
「肩が重くて……なんか、謝らなきゃって。謝らないと、ダメってずっと思ってた」
彼の喉が小さく上下した。
「あと、あなたに口を塞がれたのは覚えてます。そして俺の事ひっぱたきましたよね?」
彼女の指が膝の上でわずかに動いた。
そこは覚えているんだと苦笑してしまう。
「あれは……その、必要でした」
「分かってます」
ハルトは目を閉じた。
少しの沈黙の後、ゆっくりと言う。
彼はある程度の説明は既に受けている。
病気とか、そういのではない裏の理由を。
「俺、配信してたら助かると思ってたんです。
一人でいるより、誰かに見てもらった方が安心すると思ってた」
彼は、そこで眉を寄せた。
「でも、逆だったんですね」
彼女は否定しなかった。
普通は人が多ければ大丈夫だと思う。
だがこれは逆だった。
「たぶん、そうです」
ハルトは乾いた笑いを漏らした。
配信中の笑いとは違う、何の加工もされていない小さな笑いだった。
「最悪ですね。俺、ずっと餌あげてたんだ」
「知らなかったんです」
「知らなかったで済むんですかね」
「貴方は生きています」
彼女は静かに言った。
「今は、それで済ませてください」
ハルトは顔を横へ向けた。
窓の外の光を見るようにして、しばらく黙っていた。
彼が本当に何を見ているのか彼女には分からない。
だが、その目に、あの暗い廊下の奥を追うような空虚さはもうなかった。
「俺……二度と、あの手の企画はやりません」
やがて、彼ははっきりと言った。
「怖いものが苦手とか、そういう話じゃなくて。
俺、もうあれを笑いにできないです。笑いにしちゃいけないって、分かったので」
彼女は小さく頷いた。
「その判断でいいと思います」
「戻れますかね」
「配信にですか」
「はい」
彼女は少しだけ目を伏せた。
戻れると軽く言うことはできなかった。戻らなければならないとも言えなかった。
配信は彼の仕事であり、居場所でもある。
だが同時に、あの夜、彼を奪いかけた場所でもあった。
「今すぐ決めなくていいです。会社としてはしばらく休養にします。
復帰するにしても、段階を踏みましょう」
「……心霊系は」
「二度とやりません」
彼女は即答した。
ハルトは少しだけ目を見開き、それから力なく笑った。
「……もうコリゴリです」
その笑いに、彼女はようやくほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「それでいいです」
そう言うと、ハルトは何かを堪えるように目を伏せた。
彼女もまた、そこで初めて自分がどれだけ疲れていたのかを自覚した。
彼女も眠れていないし食べてもいない。
あの夜からずっと、身体のどこかが固く締めつけられている。
けれど、彼は生きている。
それだけで今は満足だった。
後日、改めてハルトと彼女、そしてあの撮影に関わった面々はお祓いに行くのだった。
株式会社〇〇〇〇の管理室では、鳥越怜司が今回の処理記録をまとめていた。
部屋には昼の光が入り、夜の緊張はもう残っていない。
隣の島では別のスタッフが通常のアーカイブ確認をしており、廊下の向こうでは誰かが昼食の相談をしている。
会社は今日も普通に動いていた。
そんな中で怜司は画面の前で、昨夜の出来事を普通の文書へ落とし込んでいる。
今回は色々と手こずったというのが本音だった。
まるで末期まで進んだ病気の治療を投げられた医者の気分だ。
『外部男性タレント心霊スポット企画後異常。
現地収録後、本人配信および関連切り抜き・検証動画において認知拡大』
そこからは淡々とした文章だった。
そこにはあの夜の青白い光も、電源のないモニターも、ハルトの「帰らないと」という声も含まれない。
後に類似したことが起きた時の為に記録は必要だが、ここに物語は必要ない。
いわばコレは医者の作るカルテだった。
怜司は続けて失敗点を書き出す。
現地で名乗ったこと。該当音声を視聴者側で検証させたこと。
本人に繰り返し話題化させたことや切り抜きを放置したこと。
そして謝罪を配信上に乗せたことに停止判断が遅れたことだ。
どれも、責めるための項目ではない。
次に同じたたらを踏まないために、もっと初期に潰すための項目だった。
今回は口酸っぱく言い続けてきた「やってはいけない事」を全て失敗した場合はこうなるというモデルケースにもなっていた。
その下に成果も記録する。
担当マネージャーの事前相談により、最終配信時の遮断対応が間に合った。
新規流入遮断、チャット停止、映像・音声品質の意図的劣化により、認知拡大は大幅に抑制。本人死亡・失踪は回避。
怜司はそこで手を止めた。
担当マネージャー。
記録上、彼女の名前はそれで十分だった。
それに下手に彼女の名前を記録すると“お礼参り”が発生する可能性もある。
故に固有名を増やす必要はない。
彼女は現場で必要なことをした。
迷いながら、怯えながら、責任を背負いながらも画面の前から担当タレントを引き剥がした。
記録にはそれだけが残ればいい。
画面の隅で、特殊確認用のチャンネルに通知が出た。
久我社長からだった。
『短時間で構わない。共有したい』
数分後、管理室の小さな会議スペースに久我、槙野、怜司、そしてロボボが集まった。
ロボボこと羽柴の表情はいつもの明るさを薄く残しているが、目だけは真剣だった。
ハルトの話は彼女にとっても人ごとではないからだ。
「私の配信では触れませんでした」
ロボボは最初にそう言った。
「コメントで何度か振られましたけど、読まないようにしました。メンバー限定でも言ってません」
怜司は頷いた。
「助かりました。それが一番です」
「触れたくなかっただけです」
ロボボは少しだけ唇を引き結んだ。
「あれ、ちょっと洒落になってないです」
その声には、かつて自分の配信で音声異常を経験した者だけが持つ実感があった。
彼女は詳しいことを知らない。
もちろん怜司も話はしていないし、ハルトと彼女の間につながりもない。
それでも、配信に混ざるものの嫌さは知っている。
視聴者の前で笑って流し続けても、心の底に引っかかってしまう配信者としてのサガをよく理解している。
配信者は意外とコメントを読まなくても覚えているし、自分の舞台である配信で起きたことは忘れないモノだ。
久我は静かに頷いた。
「所属ライバー向けの通達を強めようと考えている
今までもそうだったが、他社の件をネタにさせず、コメントで振られても拾わない」
「次に心霊系企画は申請制。
不審音声や映像はアーカイブ公開前に管理室へ確認。配信者本人に検証させない」
槙野がタブレットに視線を落とす。
「現場向けのマニュアルにも落としていきます。
夜坂ハルトさんの件からは……言葉を選ばずに言うと多くの学びを得られました」
「公開設定の緊急変更、チャット停止、ビットレートの変更などの有効性……。
今回使った手順は、外部に共有する際にはかなり丸めて出そうと考えています」
「そうしてください」
怜司は即座に言った。
「細かく書きすぎると真似されます。
特に見ている人数を削るという発想は変に広まると遊び半分で試す人間が出ます」
そういうことが起こらずとも配信のネタにするものは必ず現れると怜司は知っていた。
“だろう”ではなく“必ず”だ。
世の中には間違いなくそういう人間もいる。
ロボボが小さく眉を寄せた。
「遊び半分で試す人、いますよね」
「います」
怜司はため息を吐いた。
脳裏には幾つもそういう光景が想像として浮かんでいる
“いま業界で広まってる心霊対策をやってみた!”
“幽霊が出たから対策してみた”
“都市伝説、配信者の間に広まっている怪異対策マニュアルを晒す”
…………。
「だから、業界内の安全管理資料として扱うのが限界です。
表向きは、配信者の心理的負荷と炎上対策。裏側は言わない方がいい」
久我はそれを聞き、しばらく黙っていた。
社長として、表の責任と裏の現実を同時に抱えなければならない顔だった。
「株式会社〇〇〇〇としては、今後、こういう案件をどこまで引き受けるべきだと思う」
怜司はすぐには答えなかった。
もう最初から何もかも全部引き受けたくない。
それが本音だった。
自社の所属配信者だけでも面倒なのに、外部事務所まで見ていたら切りがない。
今回も、久我経由の警告がなければ、もっと悪い形で終わっていたかもしれない。
あのマネージャーの動きがなければハルトは自室で死んでいるか、行方不明で終っていただろうと怜司は考えている。
だが、逆に言えば、警告したからこそ業界内の危険性と脆さがこれまで以上に見えてしまった。
見えてしまった以上、放置すれば死人か失踪者が出るかもしれないのを……完全に無視できるほど彼は冷徹ではなかった。
怜司は知っている。
あの時のハルトの肩をナニが掴んでいたかを。
もしも彼女が助けなければ彼がどうなっていたかまで。
百歩譲って死ぬまでは他人事として無視できる。
だが、死んだあとに永遠に苦しむことになるのを見て見ぬふりはキツい。
「前提として全部を何とかするのは無理です」
怜司はそこだけはハッキリさせておく。
〇〇〇〇社は間違っても業界内のゴーストバスターズにはならないし、なってはいけないと。
「しかし今回みたいに事前に相談が来て、相手側に動ける担当者がいるなら助言くらいはできます。
現場で動く人間がいない案件は、正直厳しいです」
羽柴が怜司を見る。
「鳥越さんが全部行くわけにはいかないですもんね」
「絶対に不可能です」
「即答」
「無・理・で・す」
規模が拡大し続けるvtuberの世界のそういう問題を一人で解決なんてしたら間違いなく過労死すると知っている故に断固として譲らない。
槙野が少しだけ笑い、久我も疲れたように息を吐いた。
そのわずかな緩みで、会議室の空気が少しだけ人間の場所へ戻った。
だが、完全には戻らない。
夜坂ハルトの事件は、業界に消えない線を引いた。
誰も大声では言わないし公式にもならない。
だが、一部の事務所、一部の管理者、一部の配信者は知ってしまった。
配信は、そういう存在にとってあまりにも都合がいい餌場だと。
画面の前に集まる視線と、コメント欄の言葉と、切り抜きの反復は、古いものを新しい速度で育ててしまう。
それを知っている者たちは、これから少しだけ慎重になる。
慎重になれなかった者は、また同じことを繰り返すかもしれない。
怜司は、それを考えてうんざりした。
その夜、彼はいつもより少し遅く会社を出た。
処理記録には追記が残っている。
『本人残存反応あり。後処理必要』
配信としては止め、認知拡大も抑えた。
表向きも休止で処理した。
だが、ハルト本人にはまだ残っている。
肩の重さ。「帰らないと」という引き込み。
画面の奥へ行こうとした感覚。これは、ただ休めば消えると決めつけられるものではない。
病気で言うならばいまは小康状態だ。
暫くは戻ってこれない様に追い払ったが、一度できた縁を完全に切断するのは手間がかかる。
しかもあれは数万人の前で承認された縁である故にそれは強固だ。
怜司の仕事は、防疫だった。
配信から引き剥がすところまでだ。
それ以上は、別の人物の仕事になる。
もっと強く、しっかりと後始末までやってくれるプロの仕事だ。
地下駐車場は静かだった。
白い蛍光灯がコンクリートの床に薄く反射し、並んだ車の影が水の底のように沈んでいる。
怜司は自分の車の前で立ち止まり、端末を取り出した。
兄の番号を呼び出す。
通話は数コールで繋がった。
『珍しいな』
低い声が、少しだけ眠そうに言った。
怜司は車にもたれ、短く息を吐く。
「一件、頼みたい」
『仕事か?』
「外部の男性配信者。心霊スポットから持って帰った」
兄の沈黙は短かった。
『続けて』
「こっちでは配信から引き剥がした。拡散も一応抑えてるが、本人側からは抜け切れてない」
「今の彼は病院にいる。事務所の許可は取れると思う」
『まーた面倒なのを拾ったな』
「俺じゃない。向こうが拾った」
『だけど関わると決めたのはお前だろう?』
怜司は少しだけ黙り、それから目を伏せた。
「……そうだな」
兄は小さく笑った。責める笑いではない。
昔から、怜司が面倒を避けようとして結局面倒の中心にいる時、兄はだいたい同じ声で笑う。
『生きてるなら何とかなるさ。話を聞くにギリギリだったな?』
「本当だけど、そういう言い方はやめろ」
『されど“本当”のことだ。こういう時は誤魔化したりするのはよくないぞ』
「本人はかなり消耗してる。
配信名側で掴まれてたから、本名側へ戻す処理もいると思う。
持ってきた場所との縁切りも必要だ。……本人が謝りかけてた」
『配信で言っちゃった?』
「あぁ」
『なるほど最悪だ。まぁ……何とかするさ』
兄の声から軽さが消えた。
怜司は駐車場の天井を見上げる。
蛍光灯の周りに小さな虫が一匹、頼りなく飛んでいた。
「頼む」
『任せろ。お前は寝ろ』
「寝られると思うか」
『寝ろ。寝られなくてもとりあえず横になれ。お前は祓い屋じゃなくて会社員なんだろ』
「そういう時だけ都合よく言うな」
『昔らずーっと言ってるからそういう時だけじゃないな』
怜司は少しだけ口元を歪めた。
兄はこういう人物だ。
何時まで経ってもちいさな弟扱いである。
「事務所側には安全祈願と休養支援で通す。病院へ行く段取りは明日以降に調整する」
『分かった。詳細は後で送ってくれ。名前は最低限でいい。それと……余計な動画は送るな』
「送らない。見ない方がいい」
『そうする。どうせまた禄でもないモノしか見れない』
兄は最後に、少しだけ声を柔らかくした。
『よく止めたな』
怜司は何も言わなかった。
彼が止めたのではない。
現場でハルトの口を塞ぎ、画面から引き剥がしたのは担当マネージャーだ。
公開設定を落とし、チャットを閉じ、視聴者を削ったのは▲▲▲▲社の管理担当たちだ。
ロボボは触れずにいて、久我と槙野は社内を抑えた。
怜司はその後に少しだけ後始末と手助けをしただけだ。
それでもアレは止まった。
結果としてハルトは生きている。
「後は頼む」
『ああ』
通話が切れた。
怜司はしばらく端末を見つめていたが、やがて処理記録を開き、一行だけ追記した。
『本人残存反応あり。外部専門家へ後処理依頼』
表向きの書類ではその一文は別の言葉に変換される。
安全祈願および休養支援。
それでいい。
本当の言葉を言う必要はない。
これは嘘ではなく慈悲だった。
怜司は車に乗り込む前に、もう一度だけ公式発表の文面を確認した。
夜坂ハルトは体調不良により活動休止。
命に別状なし。本人は復帰の意思を示している。
該当配信の切り抜き、転載は控えるよう要請。
つまらない文章だった。
だが、今のこの光と闇が絡み合う時代にはそのつまらなさが必要だった。
鳥越怜司の仕事は、配信から引き剥がすところまでだった。
画面の中で肥えたものを、画面の外へ広げない。
名前を与えず、見届け人を増やさず、怪談になる前に退屈な現実の箱へ押し込める。
それ以上は、家の仕事になるのだ。
それはそうと……彼にも感想を言うだけの人間性はあった。
「疲れた……」
早く家に帰って休もうと考え彼は車に乗り込みエンジンをかけた。
怜司が車を走らせる夜の街は、今日も明るかった。
怜司が駐車場を出るとビルの壁面に据え付けられた大型ビジョンが
まるで眠ることを知らない空のように光を撒いていた。
交差点の向こうでは、大手vtuber事務所の新ユニット告知が流れている。
鮮やかな衣装をまとった少女たちが、現実の夜よりもずっと綺麗な笑顔でこちらへ手を振っている。
別のビルではロボボの新PVが映し出されていた。
機械仕掛けの羽を広げた彼女が、星屑のようなエフェクトの中で軽快にターンしている。
その少し先には、星宮レイカのライブ告知が巨大なネオンになって浮かぶ。
詳細な開催日と会場名、先行抽選受付中の文字が道行く人々の視線を自然に奪っていく。
誰もが画面を見上げていた。
スマホを構える者、友人と笑い合う者、推しの広告を背景に写真を撮る者。
ビルの硝子には無数の光が反射し、街そのものがひとつの配信画面のように揺れている。
そこには熱があった。
金が動き、感情が動き、名前が広がり、誰かの声と姿が現実の夜を塗り替えるほどの強さで輝いている。
vtuberの黄金時代。
そう呼ばれるものがあるのだとすれば、きっと今がそうなのだろう。
配信者たちは画面の向こうから人々の日常へ入り込む。
空想と現実の狭間に立つ彼女たちは誰よりも「そういうもの」に近い存在といえるかもしれない。
歌い、笑い、泣き、ゲームをして、雑談をして、時には誰かの孤独を埋める。
誰もが名前を持ち、タグを持ち、切り抜かれ、語られ、永遠にデータの中で記録される。
彼らが引退しようとその声と姿は、動画サイトがサービスを終了しない限りずっと残るのだ。
登録者という数字は熱になり、熱はまた新しい視線を呼ぶ。
今夜もどこかで誰かが配信を始める。
誰かがコメントを拾い、誰かが切り抜き、誰かが検証し、誰かが面白半分で名前をつける。
そのすべてが悪いわけではない。
むしろ、それこそがこの時代の輝きだった。
人と人が繋がり、見知らぬ誰かの声に救われることもある。
ただ、その光の端にはいつも見えないものが立っている。
無数の輝きの中で、誰も気づかないほど薄い影がほんの一瞬だけ揺れたように見えた。
怜司はそれに名前をつけなかった。
怜司は信号が青に変わるのを待ち、静かにアクセルを踏む。
夜の街へ滑り出し、無数の光をフロントガラスに受けながら彼は帰路を急ぐのだった。
ひとまず、温めていたネタはこれで一区切りです。
次の話も三つほど構想がまとまりましたら、また投稿いたします。
多くの応援、誠にありがとうございました。