放送事故ではありません。   作:宇宙きのこ(ヴァーチャル)

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今回は試験的な演出を入れてみました。



行方不明者届受理番号譛?セ後〒縺ッ縺ェ縺?:水譛瀬邱ゅ衣

※この作品には読み上げタグが使用されています。

 

 

 

水瀬ユイの名前はそれからしばらく以前より少しだけ多く色々な所で見かけられるようになった。

とびり大きく跳ねたわけではなく、いきなり誰もが知る大物になったわけでもない。

ましてやランキングの上位に常駐するようになったわけでもない。

 

 

それでも明らかに流れは変わっていた。

今まで類を見ない程の成功が彼女に傾いている。

 

 

以前なら投稿してから数日で反応が落ち着いた。

コメントは常連が中心で、たまに新しい名前が混じる程度だった。

生配信を開けばいつもの顔ぶれが来て、いつもの話をして、いつものように終わる。

 

 

 

安定はしているがぬるま湯の中の閉じたコミュニティともいえた。

居心地は良いが、跳ねる事はない水たまりだ。

 

 

ただしそれは悪いことではなく、よく言えば何度も言う通り安定していた。

温かく、いたわりに満ちた空間で荒らしや悪意も薄い世界だった。

だがそれだけだ。いつもその程度で終ってしまっていた。

 

 

 

違う。

荒らしが湧かないんじゃない。

アンチに目を付けられるほどに彼女は大きな存在ではなかったのだ。

 

 

 

 

そしてそんな皆の温かさは、上に伸びる熱にもなれない。

ぬるま湯。容赦ない表現をすればそうなる。

 

 

水瀬は自分がそこに留まっていることを知っていた。

どれだけ藻掻こうと上にはいけない暖かい沼だった。

 

 

彼女の声や歌を好きだと言ってくれる人はいる。

待ってくれる人もいる。

声が綺麗だと言ってくれる人もいる。

 

 

 

すごく嬉しかった。

幼いころからあこがれていた皆に愛される歌手になれた気がしたのだ。

 

 

だが、そこから先へは行けない。

彼女は才能もあったかもしれないし、ソレに胡坐をかかずに努力だって重ねていた。

しかしそれでもあと一歩が足りていなかった。

 

 

 

そのはずだった。

だが、あの「音」が混ざってから、少しずつ彼女を取り巻く世界が変わり始めた。

 

 

 

再生数が伸び、マイリストが増える。

過去動画にもコメントがついて、初見を名乗る人が配信に頻繁にやって来る。

合唱企画の誘いが増え、配信仲間が名前を出してくれる。

 

 

 

1 ななしのよっしん

20XX/XX/XX 21:14:32 ID:K7xP3mQ2

 

 

最近のユイちゃん、いいよね

 

 

 

 

彼女のコミュニティの掲示板ではよくそう言われるようになった。

情報サイトのwikiにもようやく彼女の記事が作られ、そこでは口々に水瀬ユイを称賛する声が集まっていた。

 

 

 

173 ななしのよっしん

20XX/XX/XX 21:27:08 ID:4nRk9aWs

 

この人もっと伸びるべきだと思う

今の再生数で埋もれてるのもったいない

 

 

219 ななしのよっしん

20XX/XX/XX 21:41:56 ID:uN6eL2cF

 

なんか最近雰囲気変わった?

ちょっと陰があるというか暗くなった気がするけど、

逆にそれが歌にはいい感じに作用してる気がする

 

 

284 ななしのよっしん

20XX/XX/XX 22:03:41 ID:9BvQm5zH

 

前より歌に深み出たよな

機材変えたのかな?

声の響き方が前と全然違う

 

 

337 ななしのよっしん

20XX/XX/XX 22:18:56 ID:W3f8JpL6

 

あのハモリどうやってんだろ

多重録音?

生でも同じ感じだったからよくわからん

 

 

412 ななしのよっしん

20XX/XX/XX 22:47:03 ID:cM2s7KqR

 

この路線もっと伸ばした方がいいと思う

今の感じで続けたら普通にプロ行けるんじゃないか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水瀬ユイ

 

登録日:20XX/XX/XX

更新日:20XX/XX/XX

所要時間:約 3 分で読めます

 

 

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▽タグ一覧

 

水瀬ユイ 歌い手 生主 歌ってみた 女性配信者 ニコニコ動画

雑談 声真似 凸待ち 合唱企画 ゲーム実況 リアクション芸

聞く飲料水 耳から水分補給 ※できません 中耳炎不可避

綺麗な歌声 安定の歌唱力 器用貧乏 なんでもやる人

よく喋る歌い手 ツッコミ待ち セルフツッコミ

顔芸ならぬ声芸 悲鳴に定評のある水瀬

水瀬ェ! またお前か もっと評価されるべき

古参ホイホイ 愛され系 水瀬ユイ

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「みなさんこんにちはー! 聞く飲料水こと、水瀬ユイでーす!」

 

 

 

水瀬ユイとは、動画投稿サイトや生配信サイトを中心に活動している女性歌い手・生主である。

 

 

 

==概要==

 

主な活動は「歌ってみた」動画の投稿と生配信。

歌一本で活動していたタイプではなく、雑談、ゲーム配信、声真似、凸待ち、他の配信者とのコラボ

合唱企画への参加など活動内容はかなり幅広い。

 

 

特に有名なのが、配信開始直後にほぼ必ず行われる

「みなさんこんにちはー! 聞く飲料水こと、水瀬ユイでーす!」という自己紹介である。

 

 

聞く飲料水とは一体何なのか。

当然リスナーからも散々ツッコまれており、本人も後になって

「いや耳に水入れたら普通に中耳炎になるじゃん!」と自分で気付いてしまった。

 

 

なお、その後も挨拶を変更することはなかった。

本人曰く「ここまで使ったら今さら変えられない」とのこと。

歌唱時は透明感のある綺麗な声を聞かせる一方、生配信ではかなりよく喋る。

 

 

ゲームで敵に奇襲されれば盛大に悲鳴を上げ、操作ミスをすれば数秒前の自分に説教し

凸待ちで変な相手を引けば困惑しながらも何だかんだ会話を成立させるなど、リアクション芸にも定評がある人物だ。

 

 

「歌だけ聞いた後に配信を見ると想像していた人物と違う」とは新規ファンの典型的な感想である。

また声真似も得意で、かなり似ているものから「雰囲気だけはわかる」程度のものまでレパートリーは多い。

 

 

本人も出来の悪い声真似については自覚があり、「似てるかどうかじゃない。押し切った方の勝ちだから」という謎理論で強行することもしばしば。

特に少しばかりマニアックに過ぎる何々をする動物の鳴きまねシリーズは何とも言い難いクオリティを誇る。

便秘から解放されて喜びの鳴き声を上げるカラスの声真似は必聴。

 

 

しかし本業とも言える歌唱力は堅実。

派手な高音や極端に特徴的な声質を売りにするタイプではなかったものの、音程が安定しており、曲ごとの歌い分けも上手い。

バラードからアップテンポな曲までそつなくこなし、合唱企画では他の歌い手を邪魔せず自然に馴染めるため、企画側から声を掛けられることも多くなりつつある

 

 

 

これからの活躍に期待して待っていよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水瀬はじっと画面を見ている自分の心がかき混ぜられていくのを自覚していた。

ようやく自分の記事が出来た。

あのサイトに記事が作られるというのはいわば知名度が一定を超えたという証拠である。

 

 

 

自分は多くの人に褒められている。

自分は今、確かに褒められている。

すごい、綺麗、貴方は成功するのだと。

 

 

 

ずっとずっとこれが彼女は欲しかった。

認知されたい、認められたい、褒められたい、愛されたい。

これが欲しくてずっと喉が痛くなるまで歌って、何度も録り直して、投稿直後に画面を見つめていた。

 

 

コメントが増えるたびに一喜一憂して、そうやってずっとずっと欲しがっていたものだ。

 

 

 

今、求めていたそれが来ている。

未来への懸け橋がいま、目の前に、降りてきている。

 

 

 

しかし……素直に喜べない。

自分にはあれが綺麗には聞こえないからだ……いや、そもそもアレは自分の声でもない。

 

 

水瀬は異常を避けるため、録音を減らした。

 

 

配信も少しだけ間隔を空け、歌枠は避けた。

リクエストが来ても、喉の調子が悪いと言って流した。

投稿も急がず、過去に録った音源を整理していると言った。

 

 

 

それで済むなら、そうしたかった。

 

けれど……ダメだった。

 

 

動画の反応は続いていて、更に合唱企画の仮ミックスが話題になり、投稿後には水瀬のパートが手放しで褒められた。

結果として生配信の来場者も以前より増えた。

配信を開かない日でも、短いコメントやメッセージが届いた。

 

 

「次の投稿楽しみにしてます」

 

「最近見つけました」

 

「あの声の感じが好きです」

 

「もっと歌ってほしいです」

 

「ユイちゃん、今きてると思う」

 

 

今、きてる。

その言葉が水瀬を焦らせ、追い込んでいく。

 

 

 

 

 

 

 

()()()ではない。

いつか届く()()()()()()未来ではないのだ。

 

 

 

今だ。今しかないのだ。

いま、目の前には一生に一度あるかないかのチャンスがある。

これを逃したらきっともう二度とこないチャンスが。

 

 

今、止まったら終わる。

今、休んだら流れが切れる。

今、歌わなかったら、せっかく掴みかけたものが手の中から落ちる。

 

 

ネットの流れは恐ろしく速く無情だ。

 

 

水瀬はそれを誰より知っていた。

好きだった歌い手が数週間更新しなかっただけで、タイムラインから名前が消えることを知っていた。

毎日のように配信していた生主が突然いなくなり、一週間だけ騒がれて、その次の週には別の話題で埋まることを知っていた。

動画が伸びた人間でも、次が続かなければすぐに過去の人になることを知っていた。

 

 

だから、止まれなかった。

止まれば楽になるかもしれない。

けれど、止まれば終わるかもしれない。

 

 

そして終わってしまった文化は基本的には二度と復活しない。

二度目はないのだ。

 

 

楽になるか、続けるか。

水瀬の中で天秤は同じ重さになっていた。

 

 

数日後、ミックス担当から連絡が来た。

 

 

以前から頼んでいた別の音源の仮ミックスだった。

あの音が混ざり始める前に録ったものだ。

だから、少しは安心できると思っていた。

 

 

 

水瀬はヘッドホンをつけ、再生した。

最初は普通だった。

 

 

自分の声が流れ伴奏が始まる。

軽く整えられた音圧にいつもの処理。

知っている自分の歌はやはりいつも通りだ。

 

 

水瀬は少しだけ肩の力を抜いた。

 

 

やはり、全部がおかしいわけではない。

以前に録った音源なら大丈夫なのかもしれない。

あの音は最近の録音にだけ混ざっているのかもしれない。

それなら原因を切り分けられるかもしれない。

 

 

 

そう思っていた。

サビに入るまでは。

 

 

 

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癩幤走?勸フキフソフ          イ?粍フウフエフ

 

 

 

 

 

「音」が此処にもいた。

水瀬は息を止めて崩れ落ちそうになった。

 

 

 

 

自分の声の下に、細く低く、湿った音が貼りついている。

以前にはなかったはずのもので、少なくとも録音した時には聞こえなかった。

どれだけ自分を疑おうと水瀬の記憶にはない。

 

 

彼女は再生を止め、すぐにミックス担当へ連絡した。

 

 

「これ、私の元音源に何か入ってた?」

 

 

返事は少ししてから来た。

 

 

「何かって?」

 

 

水瀬はしばらく画面を見つめてから、打った。

 

 

「サビの下に、前の動画みたいなやつ入ってない?」

 

 

 

相手の返信の調子は軽かった。

“前の動画みたいなやつ”と言われてどうやら相手はあの凄くいい感じの声だと思ったらしい。

 

 

 

「ああ、あの感じね。今回も自然に出てるよ」

 

 

「結構いいと思う。ほんと、最近のユイちゃんの個性になってるよ」

 

 

 

水瀬はスマートフォンを握る手に力を込めた。

自分のものではないナニカが自分の居場所を奪い取り、水瀬ユイという存在を奪い去ろうとしている。

 

 

 

個性。

またその言葉だ。

まるで汚染するかの様に水瀬ユイになり替わろうとしている。

 

 

 

「私、そんな音出してないんだけど」

 

 

送信したあとにすぐに後悔した。

 

 

だって相手は悪くない。

ミックス担当はただ音源を聞いて、良いと思ったことを言っているだけだ。

実際、他の人間には綺麗に聞こえているのだろう。

 

 

すぐに返信が来た。

 

 

 

「そう? でも元の声に入ってたと思う」

 

 

「もちろん加工で足したわけじゃないよ。気になるなら抑えるけど、正直もったいないかなーって」

 

 

 

もったいない。

水瀬はその文字を見て、冷たいものが胸の奥へ落ちるのを感じた。

 

 

消すのはもったいな、活かした方がいい。

武器になる、個性になる。

 

 

 

その言葉はすべて善意だった。

すべて彼女のための言葉で、だから……拒めなかった。

彼女は受け入れた。

 

 

 

「じゃあ、そのままでいいです」

 

 

 

水瀬はそう返した。

送信してから自分の手が震えていることに気づいた。

 

 

完成した動画はやはりというべきかまた伸びた。

 

 

前ほどではないけれど、以前の水瀬なら十分喜んだはずの数字だった。

コメント欄にも、例の声についての感想がいくつも流れた。

 

 

「やっぱり最近のユイちゃん好き」

 

「声が二重に聞こえるところいい」

 

「奥行きある」

 

「何か泣きそうになる」

 

「前よりずっと良い」

 

 

水瀬はコメント欄を閉じて逃げるように画面から目を背けてしまった。

それ以上見ていられなかったからだ。

 

 

だが眼を閉じても通知は来るし、配信仲間からも連絡は次々とやってきた。

 

 

「動画見たよー」

 

「今回も良かった」

 

「怖いくらい上手くなったね」

 

「声の透明感すごい」

 

「最近ちょっと雰囲気変わった?」

 

 

 

怖いくらい。

 

 

 

そうだ、怖いんだ。

その通りだ。

 

 

けれど、その怖さは相手の言う意味とは違う。

上手すぎて怖いや、透明感がありすぎて怖いなどと、そういう褒め言葉ではない。

水瀬にとっては、本当に怖かった。

 

 

録音するたびにナニカが混ざってきて、頑張って歌うたびに近づく。

声を出すたびに耳元で何かが唇を開き吐息を零し、生々しい匂いさえ感じる。

それなのに、外側の人間はその音を褒めるのだ。

 

 

水瀬は日常でも笑えなくなっていった。

 

 

配信中もコメントを拾うのが遅くなり、以前ならすぐに返せた軽口に妙な間が空くようになった。

声真似のリクエストにも、あまり乗らなくなってしまい、歌のリクエストが来ると、喉の調子を理由に断った。

 

 

それでも、リスナーは優しかった。

何年も彼女を応援してくれているファンたちだ。

しかし彼らは今、水瀬ではなくアレを称賛しているのだ。

 

 

「無理しないで」

 

「喉大事にして」

 

「でもまた歌ってね」

 

「ユイちゃんの声好き」

 

「あの声また聞きたい」

 

 

あの声。

 

 

そのたびに、水瀬は画面の向こうへ言いたくなった。

 

それってどの声のこと?

私の声?

それとも、あの音?

 

 

 

けれど、言えなかった。

言ってもどうせ伝わらない。

 

 

「ありがとう」

 

 

そう返すしかなかった。

水瀬は、だんだん自分の名前で呼ばれることも苦しくなっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水瀬ユイ。

 

 

 

その名前は、彼女の活動名だった。

自分で決めた名前だった。

まぁ、実際は殆ど本名と同じものだが、もしもプロになれたらこの名前で活動したいと思って付けた名前だった。

 

 

最初は少し気恥ずかしかったが、長く使ううちに馴染んだ。

本名ではないが、嘘でもない。

ネットの中で歌う自分の顔だった。

 

 

だが、今はその名前が、自分ではないものに結びつき始めている気がした。

 

 

水瀬ユイの声が好きです。

水瀬ユイ、最近覚醒したね。

水瀬ユイの奥の声すごい。

水瀬ユイのハモリ綺麗。

 

 

水瀬ユイ。

水瀬ユイ。

水瀬ユイ。

水瀬ユイ。

ミズセユイ

ミズセユイ

ミズセユイ

 

 

 

その名前で褒められるたび、水瀬結衣は少しずつ一人で置いていかれる。

自分が褒められているのか、それとも、あの音が褒められているのかわからなくなる。

 

 

ある夜、配信仲間の女性から個別通話が来た。

 

相手は水瀬が活動初期から付き合いのある歌い手だった。

年齢も近く、互いに何度か合唱企画で一緒になった。

配信上では軽口を叩き合うこともあるが、裏ではわりと真面目な話もする関係だった。

 

 

「最近、大丈夫?」

 

 

第一声がそれだった。

水瀬は少しだけ安心した。

この人なら、もしかしたらわかってくれるかもしれない。

 

 

「大丈夫、ではないかも」

 

そう答えれば相手は茶化さなかった。

 

 

「喉?」

 

「それもある」

 

「じゃ……メンタル?」

 

「…………」

 

 

水瀬は言葉を選んだ。

 

 

どう話せばいいのか。

どこから話せば、変に聞こえないのか。

少し迷ってから、彼女は口を開いた。

 

 

「最近さ、録音に変な音が入るの」

 

 

通話の向こうで、相手が黙った。

 

水瀬は続けた。

 

 

「みんながハモリって言ってるところ……あれ、私にはそう聞こえないんだ」

 

「低くて、気持ち悪くて……耳元で誰かが何か言ってるみたいな感じの変な音がずっと聞こえる」

 

 

「でも何言ってるかはわからなくて……。

 それに最近だと歌ってる時だけじゃなくて、マイクチェックとか、普通に声出した時にも聞こえる時が……っ」

 

 

言いながら、自分でも怖くなっていく。

声に出すと余計に現実味が増したからだ。

明らかに自分はまともなことを言っていないのもあるし、何より正体不明の存在に付きまとわれているのが現実として認識してしまうからだ。

 

 

 

 

そして、その声の後ろで、やはり小さく音が鳴った。

水瀬は息を止めた。

通話の向こうの相手は、少し黙ってから言った。

 

 

「ユイ。それ……かなり疲れてるんじゃない?」

 

 

あまりにそれが優しい声だったから水瀬は目を閉じた。

 

 

「違うと思う」

 

 

「いや、違うって思いたいのはわかるけど。

 ……最近急に伸びたじゃん。反応も増えて、その分プレッシャーもあるだろうし」

 

 

「喉も酷使してるんでしょ? それに自分の声ってさ、本人には変に聞こえるものだよ」

 

 

 

全部、もっともな意見だった。

そのまま相手は更に続ける。

 

 

「私には、普通に綺麗に聞こえるよ。あの重なりも、私は好き」

 

 

「でもユイが気持ち悪いなら、一回休んだ方がいい。無理して歌うことないよ」

 

 

水瀬は何も言えなかった。

本当に優しさから相手がこう言ってくれてると判っているからだ。

 

 

ちゃんと心配してくれているし、自分の話を茶化さず聞いてくれた。

休んだ方がいいとまで言ってくれたのに……それでも、届かなかった。

 

 

 

「私には、普通に綺麗に聞こえるよ」

 

 

その一言が今の彼女にとってはすべてだった。

あぁ、この人も所詮はそっち側なんだという諦めがあった。

 

 

相手にも聞こえていない。

相手にも、あの音は綺麗に聞こえている。

私だけが違うものを聞いている。

 

 

 

「そっか」

 

 

水瀬はそう言った。

その声の後ろに、また低い音があった。

しかし相手は気づかない。

 

 

 

「本当に無理しないでね」

 

「うん」

 

 

「ユイの声、好きな人いっぱいいるんだから」

 

 

「……うん」

 

 

好きな人がいっぱいいる。

その言葉が、かえって苦しかった。

 

 

通話を終えたあと、水瀬はヘッドホンを外し、机の上に置いた。

部屋は静か……いや、静かなはずだった。

 

 

ジィィィィィィという無音の中に家電の発する周波音が響いていた。

余りに無機質で殺風景な景色に相応しい音だ。

 

 

 

水瀬はギュゥッと唇を噛んだ。

何も喋りたくない。

 

 

 

だって声を出せばあの気持ち悪い囁きが聞こえてしまい、歌を歌えば自分の喉から自分のモノではない声が出る。

機材に録音すればそこにもこびりつき、挙句には配信の中ではアレは素晴らしいものだと皆が褒めている。

 

 

外から見れば才能に見えるのかもしれない。

しかし実際は寄生虫染みたナニカが彼女の努力と思いを都合よく乗っ取り利用しているだけだ。

 

 

 

水瀬はパソコンの画面を閉じた。

暗くなったモニターに、疲れた自分の顔が映り、彼女の背後には何も映っていなかった。

むしろわかりやすいそういうものが見えた方が彼女からすれば吹っ切れたかもしれない。

 

 

精神病なのかそういうものなのかとぐちぐち悩まずに済んだだろうに。

よくホラー番組で出てくる長い髪の女も、背後に立つ影も、白い手も、口元だけの顔もない。

ただ眼の下にクマを作り、少しだけこけた頬をしている女がいるだけだ。

 

 

幽霊何て何もいない。

だからこそ、これは正体不明で、どうすればいいか判らない。

 

 

 

水瀬は椅子から立ち上がり、台所へ行った。

水を飲もうとすれば、コップを持つ手が少し震えている。

 

 

「……何なの」

 

 

小さく呟いた。

その瞬間、耳の横で音がなった。

 

 

 

ぼそぼそ、ごぼごぼ、というずれた低音。

 

 

水瀬はコップを落とした。

 

床に水が広がっていく。

ガラスではなくプラスチックのコップだったので割れはしなかった。

ただ、濡れた床に転がって、軽い音を立てた。

 

 

 

水瀬はその場で口を押さえた。

気づけば彼女の生活はあの「音」に支配されていた。

 

 

 

言葉にしたらアレが来る。

声を出したら来る。

喋ってはいけない。

 

 

誰が決めたわけでもないのにそんなルールが産まれ、水瀬を縛っている。

今では喋るということが怖かった。

 

 

 

しかし人間は一日中黙って生きるようにはできていない。

 

 

 

咳をしたり息を漏らす時もそうだが、驚いた時に声を出すし、時には独り言を言う。

痛いや眠いとも大丈夫とも無意識に己に言い聞かせるために言う事だってある。

 

 

 

 

 

 

大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫

大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫だいじょうぶだいじょうぶ大丈夫大丈夫

だいじょうぶだいじょうぶ大丈夫大丈夫だいじ

大丈夫大丈夫だいじょうぶ大丈夫

大丈夫だいじょうぶだいじ大丈だいじょう

だいじょうぶだいじょ大丈夫だいじょだいじょうぶ大丈だいじ大丈夫

じょうぶ>大丈だいじょ大丈夫だいじょうぶ

 

 

 

 

 

水瀬は床に広がった水を拭きながら、自分の呼吸まで小さくしようと藻掻いていた。

 

 

 

水瀬は、最初にミックス担当へもう一度相談した。

 

 

相手は、活動を始めて間もない頃から何度か音源を触ってくれている人だった。

互いに本名も顔も知らない仲だが、ネットでは珍しくもない。

 

 

それでも、音源のやり取りは何度もしてきた。

水瀬の声の癖も、録音環境も、ある程度わかってくれている。

だから、そこに相談すれば何かわかるかもしれないと思った。

 

 

 

水瀬は、問題の音源をいくつか指定して送った。

 

 

 

「この部分とここの部分。あのメロディーの裏の所と、後はここ。

 私にはかなり気持ち悪い音が聞こえます」

 

 

「どうにかしてこの音を消してください」

 

 

相手は、丁寧に確認してくれた。

 

波形を見てノイズ除去もしっかり試したらしい。

低音域を削ったものも作ってくれた。

更には別ファイルとして、処理違いの音源をいくつか返してくれた。

 

 

「たぶん、ユイちゃんが言ってるのはこの辺の成分かな」

 

「でもノイズって感じじゃないんだよね。

 むしろ上手く処理するとかなり綺麗に聞こえるよ?」

 

 

水瀬は、その処理違いの複数のファイルを一つずつ確かめるように再生した。

 

 

 

低音を削ったものとノイズ処理を強めたもの。

声の帯域を前に出したものに伴奏を少し下げたもの。

 

 

 

低̴音̷ヲ削ッタもノト   、ノイズ処

理ヲ強メタもノ。

聲ノ帯域ヲ前ニ出シタもノ

 

ニ、伴

奏ヲ少シ下ゲタもノ。

 

低̷̳音ヲ削ッタモノト、ノ゛イズ処理ヲ強メタモノ。聲 ノ帯域ヲ前ニ出シタモノニ、伴奏ヲ少

シ下ゲタモノ。低̷̳音ヲ削ッタモノト、ノ゛イズ処理ヲ強メタモノ。聲ノ帯域ヲ前ニ出シタモノニ、伴奏ヲ少シ下ゲタモノⰢⰣ̤̿ ̷̲⦿◉̴̳◖ⰢⰣ̤̿ ̷̲⦿◉̴̳◖

 

 

 

消えていない。

どれだけ処理をしても自分の声の下に、必ず何かが残っている。

 

湿った息のような、意味にならない声のようなもの。

口の中で潰れた言葉のようなものがずっとブツブツブツブツ何かを言っている。

 

 

たまらず水瀬はヘッドホンを外した。

 

 

「消えてない」

 

そう送った。

相手の返事は少し遅れた。

 

 

「そうか……だけど自分には気にならないな」

 

 

「むしろ処理前の方が良いかも。

 たぶん、ユイちゃん本人の聞こえ方の問題もあると思う」

 

 

本人の聞こえ方。

水瀬は、その言葉を何度も見た。

確かに冷静に考えればそうなのかもしれない。

 

 

 

けれど、自分には聞こえる。

誰か、もしくは何かが私の歌を奪おうとしているのを感じる。

いや、このままいけば歌どころか声を盗られ、やがて水瀬ユイというキャラクターさえも。

 

 

「歌ってる時はずっと変な音が聞こえる。

 録音前や声出した時に、耳元でささやかれてる感じ」

 

 

 

思い切ってそう送れば既読がつくまでに少し時間があった。

返事は明らかに修正の後が見て取れるくらいに慎重だった。

まるで病人をいたわるような、そんな雰囲気があった。

 

 

「それは音源の問題じゃないかも」

 

「喉とか耳とか、一回病院行った方がいいと思う」

 

「活動しばらく休んでもいいんじゃない? 

 最近かなり反応増えてるし、プレッシャーもあると思う」

 

 

たまらず水瀬は画面を閉じた。

返信さえも今は打ちたくなかった。

 

 

わかっていたのだ。

そう返ってくることは……もう、わかっていた。

 

 

次に相談したのは、配信仲間だった。

 

 

何度か凸待ちに来てくれた男性配信者に以前からよく水瀬の歌を褒めてくれる女性歌い手。

合唱企画の主催や古い常連のリスナー。

更には話す相手によって、少しずつ言い方を変えた。

 

 

「私の動画にどうやっても変な音が入る。

 みんなはハモリっていうけど、私にはそうは聞こえない」

 

「歌ってる時、耳元で何か鳴ってる感じがするけど私は気持ち悪くて聞けない」

 

 

 

以上のメッセージに彼女はもう一つだけ胸中で追加した。

 

 

───でもみんなはソレを綺麗だっていう。

 

 

誰も笑わなかった事だけは救いだった。

 

 

誰も露骨に彼女を馬鹿にはしなかったし、誰も心霊だの呪いだのとは言わなかった。

そして誰もお前の手の込んだ演出だろと決めつけもしなかった。

彼らは心から水瀬ユイの友人で仲間だったのだ。

 

 

しかし理解者はいなかった。

 

 

ある人は言った。

 

 

「綺麗だと思うけどな」

 

「ユイちゃん、自分に厳しすぎるんじゃない?」

 

 

 

ある人は言った。

 

 

「急に伸びたから、プレッシャーじゃない?」

 

「こういう時って自分の声が変に聞こえることあるよ」

 

 

 

ある人は言った。

 

 

「ちゃんと寝てる?」

 

ある人は言った。

 

 

「本人が嫌ならやめた方がいいけど、正直もったいない」

 

 

ある人は言った。

 

 

「少し休んだら? 無理して壊れる方がダメだよ」

 

 

 

どれも悪意はなく、むしろ優しすぎるほどに優しい。

煽りや人を腐すことはなく、水瀬の悩みに真剣に向き合ってその上で気遣った返事を出してくれているのだ。

だからこそ、水瀬は何も言えなくなった。

 

 

怒鳴られた方がまだよかった。

馬鹿にされたのならば反発できた。

そんなもの聞こえない、気のせいだ、と冷たく切り捨てられた方が、相手を遠ざける理由になった。

 

 

だが、誰もそうしないのが逃げ場をますます奪っていく。

誰かに相談するたびに、水瀬は孤立した。

 

 

誰にもあの音が聞こえていない。

誰にも、あれが気持ち悪いものだと伝わらない。

 

 

周囲に聞こえているのは、綺麗な水瀬ユイの声だけ。

水瀬本人に聞こえているのは、耳元のぼそぼそとした不協和音だけ。

 

 

彼女は、そのうち相談するのをやめた。

 

 

相談すればするほど、自分がおかしく見える。

相手の反応が優しければ優しいほど、自分が間違っているように思える。

 

 

気にしすぎ。疲れ。プレッシャー。

喉の不調。耳の不調。精神的なもの。

そういう言葉の箱に自分が押し込められていく。

 

 

 

全ては現実的な説明で、自覚もあった。

だから否定しづらかった。

まさか「私は呪われてます」なんて大っぴらに言えるわけもない。

 

 

そんなことをしたらネットで格好の玩具になるだけだ。

何処かのまとめサイトで「人気生主、呪われる」やら「水瀬ユイ終了」などといった見出しと共に有ることないことを吹聴されるだけだ。

 

 

 

水瀬は現実的にできることは全てやったつもりだった。

耳鼻科や心療内科も検索したし、聞きそうな薬なども全て調べた。

 

 

検索ワード。

 

 

喉の違和感。

耳鳴り。

歌うと変な音が聞こえる。

自分の声が気持ち悪く聞こえる。

幻聴。

ストレス。

睡眠不足。

歌い手、喉、痛い。

 

 

 

 

深夜にいくつもの検索語を打ち込んだ。

画面にはありふれた答えが並んだ。

 

 

 

《もしかして?》

 

 

疲労。

睡眠不足。

ストレス。

声帯の酷使。

自律神経の乱れ。

耳の疾患。

活動を休むべき。

専門医に相談すべき。

 

 

 

水瀬は代わり映えのしないそのどれもが正しいと思った。

全部どこからどう見ても現実的だ。

仮に普通の人間がこの答えを見れば見ればそう判断するに決まっている。

 

 

 

若い歌い手が急に伸び、かかるプレッシャーが爆発的に増えた。

そのせいでもっと歌わないとと言って喉を酷使し、そのせいで自分の声に過敏になった。

納得のいかない音源に因縁をつけるように違和感を覚え、そして精神的に不安定になった。

 

 

 

それはよくある話だ。

元より日本では喜ばしい話ではないがアーティストが精神を病む事例など多々ある。

かつてのゴッホの様に精神を病んでしまい狂気的な行動に走る者も残念だが少なくはない。

 

 

だから、これはよくある話。

それを裏付けるように当時ではそういうことは珍しくなかった。

 

 

歌い手が突然活動を休んだり生主が配信中にいきなり感極まって泣くのは見世物として珍しくはない。

人間関係で揉め、粘着してくるアンチに疲れ、根も葉もないうわさで恋人がいるのではないかと騒がれることだって多々ある。

 

 

 

就職や進学で消えたり家庭の事情で続けられなくなる。

そもそも何も理由も言わずに消える、そんなことは山ほどあった。

 

 

 

だから、水瀬が少し不安定になっても誰もそれを大事件だとは思わなかった。

心配はしてくれるのだが、無駄に踏み込まない。

 

 

ネットの知り合いは、どこまで行ってもネットの知り合いだった。

 

 

だって彼らは本名を知らないし住所も知らない。

家族や昼間の顔を知らない仮の名前だけでやりとりをするだけの仲だ。

どれだけ毎日親しく話しても、画面を閉じればそこで切れる。

 

 

そんなこともあり助けるにも限界がある。

 

 

「無理しないで」

 

「休んで」

 

「待ってる」

 

「また歌って」

 

 

 

その言葉以上のことは、ほとんどできないのは当たり前で、それを超えると今度はストーカーと呼ばれてしまう。

水瀬もそれはわかっていた。

 

 

 

だから彼女は誰も責められなかった。

責められないまま、この喉にこびりつく音だけが残った。

 

 

 

そんなある日、水瀬は古い常連リスナーから長いメッセージをもらった。

 

 

 

その人は活動初期から見てくれている人だった。それこそ一桁の時代からだ。

コメント欄でも落ち着いていて、過度に馴れ馴れしくはない。

配信で困った流れになった時、さりげなく話題を変えてくれることもあった。

 

 

メッセージには、最近の水瀬を心配していることが丁寧に書かれていた。

 

 

急に反応が増えて大変だと思う。

無理して歌わなくてもいい。

前の歌い方も好きだった。

今の歌い方も好きだけれど、つらいならやめていい。

水瀬ユイの声が好きなのであって、特定の加工やハモリだけを求めているわけではない。

 

 

 

 

水瀬は、それを読んで泣いた。

本当に心から救われた気がした。

 

 

自分の声が好きだと言ってくれている。

あの音だけではないと言ってくれている。

無理しなくていいと言ってくれている。

 

 

水瀬は、少し迷ってから返信した。

 

 

「ありがとう」

 

「最近、自分の声が自分の声じゃないみたいに聞こえる」

 

「みんなが良いって言ってくれるところが、自分には怖く聞こえる。

 もうどうしたらいいかわからない」

 

 

返信は少ししてから来た。

 

 

「怖く聞こえるなら、今は聞かなくていいと思います」

 

「自分の声って、本人には違って聞こえることもあると思うので」

 

「疲れている時は、余計に変に聞こえるかもしれません」

 

「まずはしっかりと休んでください」

 

「戻ってきたくなったら戻ってきてください。私はずっと待っています」

 

 

 

水瀬は、その言葉にも救はしたが、それでも伝わってはいないのだと思った。

 

 

“自分の声って、本人には違って聞こえる”

 

 

 

 

違う。違う。違う。

そうではない。

 

 

 

自分の声が変に聞こえるのではない。

自分の声の横に、何かがいて、声を奪おうとしてくる。

 

 

 

 

そう言いたかった。

 

 

しかしそこまで書いてしまえば、相手はさらに心配するかあるいは困る。

どう返せばいいかわからなくなるだろう。

優しい人ほど責任を感じてしまうのだと水瀬は判っていた。

 

 

 

水瀬は世間一般的な倫理観や善意を備えた“善人”だった。

だから彼女はこう考える。

他人に自分の都合で迷惑をかけるわけにはいかない、と。

 

 

こんな精神に異常をきたしたようなことを相談したら相手はきっと、なんていえばいいか判らなくなってしまう。

 

 

結局水瀬の中にある感情はそれだった。

幾ら友人とは言えど、こんな我ながら面倒な事に巻き込むわけにはいかないんだと。

 

 

だから水瀬は返信を閉じた。

 

 

「ありがとう」

 

 

それだけ送って、それ以上は言わなかった。

その頃から、水瀬は自分の過去動画を聞き返すようになった。

 

 

あの音がいつからいたのかを確かめたかったからだ。

 

 

初投稿に近い古い動画。

機材の音質が悪く、声も今より硬く音程も少し危うい。

今聞くと恥ずかしくてそれでいて微笑ましい。

 

 

 

そこには、いない。

少なくとも水瀬には聞こえない。

 

 

 

次の動画。その次の動画。再生数が少し伸びたもの。

合唱に参加したもの。声真似でふざけたもの。歌枠の録画。

 

 

 

最初期の頃はいない。

水瀬は少し安心したのだが、最近の動画に近づくにつれて、少しずつ違和感が増える。

 

 

 

はっきりと聞こえるわけではないけれど、声の下にざらついたものがある気がする。

喉の奥に引っかかるような、低い響きは聞こうとすると逃げるように消える。

おかしいと思って聞き直すと、さっきとちがう音が奥で鳴っている気がする。

 

 

 

そして、あの動画から明確になる。

 

 

 

“サビの奥の声すごい“

 

 

 

そう言われた動画。

誰かがはっきりと認識し「そこにいる」と確信した動画だ。

 

 

そこからだ。確実にここが分岐点だった。

水瀬は何度も戻って再生した。

だが、聞けば聞くほど気分が悪くなる。

 

 

 

不協和音。湿った息。

耳元のぼそぼそ声と喉の奥を擦るような振動。

おおよそ人の嫌がる不協和音の詰め合わせでしかない。

 

 

そんなものが自分にまとわりついている。

そして動画を進めるほどに明らかに濃くなっているのだ。

水瀬は、パソコンの前で両手を膝の上に置いた。

 

 

 

気づかない方がよかった。

何故かはわからないが、これは知るべき事実ではなかった。

気づいたらいけないことに気づいてしまったのだ。

 

 

 

そう思った。

 

 

知らなければ、ただの違和感で済んだかもしれない。

疲れているだけだと思えたかもしれない。

外側の評価をそのまま受け取れたかもしれない。

 

 

けれど、もう無理だった。

水瀬にはわかってしまった。

 

 

 

あの音は増えているし、聞くたびに少しずつ変わっている。

 

最初は薄かったが、その次はサビにだけいた。

その次は歌っている間ずっといた。

今は、録音していない声にもついてくる。

 

 

ゆっくりと、ソレは近づいている。

 

 

 

何が?

 

わからない。

 

 

どこから?

 

 

わからない。

 

 

 

何のために?

 

 

わからない。

 

 

 

水瀬には何もわからなかった。

何を求められているのか、何がしたいのか、そもそもこれは何なのか。

全く何一つわからないのに、音はずっとずっと彼女に近づき続ける。

 

 

その夜、水瀬は配信予定をすべて未定にした。

 

 

プロフィール欄には何も書かなかった。

ただ、次回予定を消した。

コミュニティのお知らせにも短く書き連ねる。

 

 

 

「しばらく喉を休めます」

 

 

それを投稿するとすぐにコメントがついた。

 

 

 

「無理しないで」

 

「待ってる」

 

「最近すごかったもんね」

 

「喉大事」

 

「ゆっくり休んで」

 

「また歌ってね」

 

 

 

また歌ってね。

 

 

水瀬は画面を閉じた。

今は何も声を出していないのに、耳の奥で音が鳴った気がした。

 

 

 

休むと決めたのに、実際の所は水瀬は休めなかった。

 

 

配信を減らし録音も減らし、あれだけ好きだった歌うことも避けた。

次々と流れ込んでくる通話もなるべく断った。

そこまでやっても、それでも、休んでいる感じはしなかった。

 

 

むしろ、一日中あの音のことを考えるようになった。

気にすれば気にするほど沼に沈んでいくようだ。

 

 

歌わなければ聞こえないのであれば、そもそも声を出さなければ聞こえない。

 

 

 

最初はそう思っていたのだが、完全には違った。

確かに、声を出さなければ音は鳴らない。

少なくとも、はっきりとは鳴らない。

 

 

 

けれど、鳴るかもしれないという予感は消えない。

24時間ずっとそれだけを考え意識し、認識してしまう。

 

 

 

喉が動くだけで怖く、息を吸うだけで怖い。

咳が出そうになるだけで、体が強張る。

寝返りを打って小さく息が漏れそうになると、慌てて口を塞ぐ。

 

 

水瀬は、一日の中で声を出す場面がどれだけ多いかを初めて知った。

 

 

 

宅配便が来る時は返事をしなければならない。

電話が鳴って、それに出れば声を出すことになる。

コンビニへ行く時だって店員に何か聞かれれば答えなければならない。

 

 

 

風呂場で咳をする。

台所で熱いものに触れて声が出そうになる。

スマートフォンを落として小さく「あ」と言いそうになる。

 

 

その全部が怖い。

丁寧に丁寧にあの音は水瀬の外界とのつながりを切り刻んでいく。

そして水瀬は人と関わるのを避けるようになった。

 

 

 

外出を減らし、買い物はできるだけまとめた。

電話には出なくなり、コラボの誘いも断る。

メッセージの返信は出来るだけ限界まで短くした。

 

 

「大丈夫」

 

「喉休めてる」

 

「少し忙しい」

 

「また落ち着いたら」

 

 

 

そんな言葉だけを打った。

声に出さなければ、まだ安全だと思いたかったのだ。

だが、文章だけのやり取りでも、通知を見るたびに胸が重くなった。

 

 

彼女は文字を読むとき、頭の中でその「音」を考えてしまう人種だった。

だから、それに付随して頭蓋の裏側に奇妙なささやきが幻聴として聞こえてしまいそうになる。

 

 

 

「また歌って」

 

「戻ってきて」

 

「声が聞きたい」

 

「ユイちゃんの声が一番好きです」

 

 

 

 

 

「戻ってきて」

「戻ってきて」

「戻ってきて」

 

        「声が聞きたい」

  「声が聞きたい」

         「声が聞きたい」

 

「ユイちゃんの声が一番好きです」

「ユイちゃんの声が一番好きです」

「ユイちゃんの声が一番好きです」

 

 

 

「また歌って」

「戻ってきて」

「声が聞きたい」

「ユイちゃんのが一番好きです」

 

 

 

「戻ってきて」

「戻ってて」

ってきて」

 

 

「声が聞きたい」

が聞きたい」

「声が聞きたい」

 

「ユイちゃんの声が一番好きです」

「ユイちゃんの声が一番

きです」

「ユイちゃんの
が一番好きです」

 

 

歌って

 

            

ってきて

 

 

 

 

 

水瀬は耳と目をを塞ぎたくなった。

誰も彼も信じられなくなっていく。

 

 

文字を見るだけで、あの不協和音の形を思い出す。

耳の横に濡れた口がある感覚を思い出す。

自分の声の下で何かがじっと佇んでいる感覚を思い出す。

 

 

水瀬はスマートフォンの通知を切った。

それでも、何度も画面を見た。

 

 

 

見たくない。

けれど、見ないのも怖い。

配信者としての水瀬ユイとして死にたくなかったからだ。

 

 

自分がいない間に、誰かが自分を忘れていくのではないか。

別の歌い手が話題になっているのではないか。

自分の席が消えているのではないか。

 

 

それが怖かった。

活動を休むということは、配信というレースから逃げることだった。

それは同時に夢から離れることなのだ。

 

 

 

水瀬はその矛盾の中でじっとしていた……いや、動けなかった。

喉の調子は変わらずよくならなかった。

 

 

声を出す機会は減っているはずなのに痛みは変わらないのだ。

何かを飲み込む時、喉の奥に引っかかるような感覚がある。

乾燥しているわけでもないのに、常に掠れている。

時々、声を出していないのに喉が震えそうになる。

 

 

まるで常に喉を絞められているようだった。

検索を見るにストレスで喉の筋肉が強張る病気があると水瀬は知った。

 

 

それを見て水瀬は病院に行くべきだと思った。

けれど、受付で自分の名前を言うことを考えただけで足が重くなり動けなくなりそうだ。

 

 

「水瀬結衣です」と自己紹介をしたとしよう。

 

 

その声にあの音が重なったらどうするのか。

試しに診察室で、症状を説明する場面を考えてみる。

 

 

 

 

歌うと変な音が聞こえます。自分の声の下に何かがいます

 

「他の人には綺麗に聞こえるみたいです。私には不協和音に聞こえます

 

 

そんなこと、言えるわけがない。

 

 

言えば、医師は何かしら現実的な説明をするだろう。

 

喉の炎症。耳の異常。疲労。

精神的なもの。睡眠不足。

それを踏まえてきっと医者はこう言うだろう。

 

 

 

 

活動を休んでください(配信者として死ね)

 

 

 

水瀬は病院の検索画面を閉じ、代わりに録音ソフトを開いた。

自分でも理由はわからなかった。

 

 

確かめたかったのかもしれない。

あれが本当にまだ入るのか。

声を出せば、まだあの音が来るのか。

それとも、休んだことで少しは消えたのか。

 

 

マイクの電源を入れて周囲を確認する。

もちろん今日も部屋は静かだった。

 

 

水瀬はヘッドホンをつけないまま、録音ボタンを押して最初は何も言わない。

 

 

当たり前だが波形は動かない。

部屋の小さな環境音だけが、わずかにジィィィと鳴くだけだ。

 

 

水瀬は息を吸った。

喉が痛み……そして、小さく声を出した。

 

 

「水瀬ユイです」

 

 

 

耳元で、音が鳴った。

前よりも近くなっている。

 

 

 

水瀬は録音を止め、怖くて再生はしなかった。

確認しなくてもわかったからだ。

 

 

 

いた。

しかも前より近い。

 

 

声を出せばすぐ隣にもういる。

水瀬はそのまま椅子の上で膝を抱えた。

 

 

 

何も見えないし何も触れない。

部屋には誰もいない筈なのに。

 

 

 

私は何も悪い事なんてしてないのに。

ただ歌が好きで、プロになって、色んな歌を歌って生きていたいだけなのに。

しかし悲しいかな、相手はそんな事情など考えもしない。

 

 

そうして水瀬は配信をさらに減らした。

配信しない理由はいくらでも捻り出せる。

そもそもこれは仕事でも何でもないのだから、誰も気にはしない。

 

 

 

喉の不調に体調不良にリアル多忙。

配信者がいなくなる前の典型的な理由の数々だ。

 

 

もっと雑になるとこうなる。

 

 

少し忙しい。少し休む。

落ち着いたらまたやります。

こういって帰ってきた者は0ではないがほとんどいない。

 

 

 

そして水瀬ユイがいなくなっても、リスナーは「次」を探す事だろう。

今のネットの世界では彼女の様な歌手は毎日デビューし続けているのだから変わりは幾らでもいる。

 

 

ひざを抱えて考えれば考える程に恐怖は深まっていく。

このまま、わたし、どうなっちゃうんだろうか。

 

 

 

忘れ去られるのが怖い。動画が伸びないのが怖い。将来を考えるのが怖い。

病気だったらどうしよう。お金も減ってきた。

既に伸びは鈍化しておりこのままで一過性のブームとして数多くあるコンテンツの中に埋もれて消えていくだろう。

 

 

 

 

だが何よりも声を出すのが怖い。

それが一番だった。

 

 

けれど、それを認めるのは何よりの苦痛だった。

歌手が声を出せなくなったら何になる?

簡単だ。消えるだけだ。歌えない歌手なんて無価値なのだから。

 

 

ではこのまま続けるか?

こんな歌どころか声さえ出すのが苦痛の状態で。

 

 

 

彼女にとって最も不幸だったのは最低限今の自分を客観視できたことだろう。

もっと知った事かと狂えればこうはならなかったはずだ。

 

 

 

「声を出すのが怖いです」

 

 

そんなことをコミュニティの告知欄に書けば心配されるだろうし、きっと騒がれる。

あるいはよくある病み投稿として流される。

 

 

 

どちらも嫌だった。

だから水瀬は、短く告知するだけにした。

これをしたら時流から取り残されるという恐怖で指を震わせながら告知の文を打ち込んでいく。

 

 

 

 

 

喉の調子が悪いので、しばらく配信頻度を落とします。

 

 

 

直ぐについてきたコメントはやはりとても優しかった。

 

 

「無理しないで」

 

「喉は大事」

 

「待ってます」

 

「ユイちゃんのペースで」

 

「また歌ってね」

 

 

 

水瀬は画面を見ながら耳を塞いだ。

読むだけで脳内で音声が流れるからだ。

声は出していないが、それでも怖くて耳を塞いだ。

 

 

 

それからの話をしよう。

彼女が休止しても「水瀬ユイ」はひとりでに歩き続けたのだ。

ネットに一度落としたものはまるで生き物の生殖の様に増殖するのだから、これはもう止められない。

 

 

活動を減らしているのに、過去動画は伸びていく。

特にあの音が濃く混ざっているものが伸びた。

合唱動画から来た人が個人動画へ回り、生配信の切り抜きのような短い紹介も誰かが作っていた。

 

 

 

水瀬はそれを見て、背筋が冷たくなった。

自分が止まっている間にも、あの音が含まれた動画だけが広がっていく。

自分の声ではないものが、自分の名前で褒められていく。

 

 

 

“水瀬ユイ”というキャラクターを奪われた。

彼女はそう感じた。

 

 

 

「この人、今後伸びそう」

 

「最近見つけた」

 

「声が神」

 

「奥の響きが唯一無二」

 

「もっと有名になってほしい」

 

「今は休止中らしい。早く帰ってきてほしいなぁ」

 

 

 

水瀬は泣いた。

昔なら、きっと泣いて喜んだがこれは違う涙だった。

 

 

欲しかった言葉だった。

ずっと、そう言われたかった。

自分の声に価値があると、誰かに見つけてほしかった。

 

 

 

今、その言葉は全部、水瀬の中で別の意味に変わっていた。

彼らが好きなのは、自分ではない。

あっちの「音」をメインに捉えている。

 

 

水瀬ユイはもはや彼女のモノではない。

 

 

そう思ってしまった。

 

 

自分の声に混ざる何か。

自分には不協和音にしか聞こえないもの。

耳元でぼそぼそ鳴り、こうして今は喉の奥を傷つけるもの。

 

 

 

それを、みんなが好きだと言う。

水瀬は自分の動画を再生できなくなった。

誰もが彼女ではなくアレを見ているのだ。

 

 

 

嫌でも確認しなければならない時もある。

コメントへの反応を見るべき時もある。

次にどうするかを考えるためには、自分の投稿を見直す必要がある。

 

 

けれど、もう無理だった。

 

 

再生ボタンにカーソルを合わせるだけで、喉が締まる。

サムネイルを見るだけで、耳の横が熱くなる。

コメント欄の「あの声」という文字だけで、低い音の記憶が戻る。

 

 

 

 

水瀬はコメント欄も見られなくなった。

それでもコメントだけは無慈悲に流れてくる。

 

 

「最高でした」

 

「泣きました」

 

「もっと歌ってください」

 

「ユイちゃんの声が一番好きです」

 

「何回も聞いてます」

 

「新作待ってます新作まってます」

 

 

 

「戻ってきてくださいもっと歌ってくださいユイちゃんの声が一番好きです何回も聞いてます新作待ってます戻ってきてください戻ってきて戻ってきもっと歌ってくださいユイちゃんの声が一番好きです何回も聞いてます新作待ってます戻ってきてください

もっと歌ってくださいユイちゃんの声が一番好きです何回も聞いてます新作待ってます戻ってきてくださいもっと歌ってください声が一番好きです何回も聞いてます戻ってきてください

もっと歌ってくださいユイちゃんの声が一番好きです何回も聞いてます新作待ってます戻ってきてくださいもっと歌ってくださいユイちゃんの声が一番好きです

何回も聞いてます新作待ってます戻ってきてくださいもっと歌ってくださいユイちゃんの声が一番好きです回も聞いてます新作待ってます戻ってきてくださいもっと歌ってください声が一番好きです何回も聞いてます戻ってきてくださいユイちゃんの声が一番好きです何回も聞いてます新作待ってます戻ってきてくださいもっと歌ってくださいユイちゃんの声が一番好きです聞いてます新作待っユイちゃんの声が一番好きです何回も聞いてます新作待ってます戻ってきてくださいもっと歌ってくださいユイちゃんの声が一番好きで何回も聞いてます新作待ってて

もっ̴と歌 っ̷てぐだざいユイぢゃんの聲が一番好きです何回も聞゙いてます新作待っ̸てます戻っ̴てきてくださいもっ̳と歌 っ̶てぐだざいユイぢゃんの聲が一番好きです何回も聞゙いてます新作待っ̷てます戻っ̸てきてくださいもっ̴と歌 っ̸てぐだざいユイぢゃんの聲が一番好きです何回も聞゙いてます新作待っ̵てます戻っ̸てきてください戻っ̷てきて

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Ѯ̴Ϣ̷ꙮ͟ჶ̸ɷ̴Ϫ͝꩜̷もっ̴ 歌っ̷ぐだ いユイぢゃ聲が一番好です何回も聞゙いてます戻っ̳てきてください戻っ̸てきて

 

 

 

水瀬は目を塞ぎ嘔吐した。

 

 

 

そんなある日、彼女は自分の声を忘れかけていることに気づいた。

きっかけは、何でもないメッセージだった。

 

 

 

配信仲間から、企画の誘いが来た。

負担が少ない短いパートでいいから、どうかという内容だった。

 

 

水瀬は断ろうとした。

 

 

「ごめん、まだ喉が」

 

 

 

そう打って手が止まる。

 

 

喉が。

 

 

自分で打ち込んだその言葉を見た瞬間、彼女は自分の喉からどんな声が出るのかわからなくなった。

曰く「人はまず声から忘れていく」らしいというかつて見た言葉が事実だと彼女は思い知った。

 

 

水瀬ユイの声、私の声、それはどんな声だったか判らない。

 

 

綺麗で透明で、高音が安定している。

しっかり腹から声を出し舌もしっかり動かしている。

鼻濁音も意識してるし、音程だって外さない。

 

 

 

そういう外側の言葉ばかりが浮かぶけれど、自分自身の声が思い出せない。

 

 

あの音が混ざる前、自分はどんな声で喋っていたのか。

どんな声で笑っていたのか。

どんな声で「ありがとう」と言っていたのか。

どんな声で歌い出しの息を吸っていたのか。

 

 

 

もう今ではわからない。

だから水瀬は縋る様に古い録音データを開いた。

 

 

まだあの音がいなかった頃の自分の声。

初期の歌に下手な声真似や雑談配信の録画。

 

 

 

再生しようとして手が止まった。

 

 

もし、そこにもいたら。

 

 

そう思った。

 

 

 

もし、昔の動画にも、実はずっといたら。

自分が気づいていなかっただけだったら。

あの音が最初から自分の声の一部だったら。

 

 

水瀬は再生できなかった。

そうして彼女は古い自分の声すら、聞けなくなっていた。

彼女は自分の「声」を手放したのだ。

 

 

 

水瀬は椅子に座ったまま、しばらく動けず茫然としていた。

いま、この瞬間に彼女は気づいてしまったのだ。

 

 

「っ! ……っ! ひゅっ……!!」

 

 

かひゅ、こひゅ、という音が出た。

辛うじて絞り出した声も虫の羽音より小さく、ウィスパーとしてさえ成立しない。

 

 

 

声が出せない。

余りに発声を避けすぎたせいか、彼女の喉の筋肉は動かなくなっていた。

 

 

 

「!!!」

 

 

 

自分の「声」というものが思い出せず、発せられない。

しかしこれは永遠ではなくきっと一時的なモノだ‥…と彼女は必死に信じた。

喉が常に絞められたような感覚でおもうように声を出せないが、無理をすればいけなくもない……ように思えた。

 

 

しかしそれでも自分の声が出せないというのはとてつもないストレスだった。

 

 

 

本名ではない活動名で呼ばれる声。

水瀬ユイとしての声/水瀬結衣としての声。

それらは今やどこに有るのかわからず、そもそも声をどうやって出せばいいかも思い出すのが難しい。

 

 

水瀬はまるで故人の声を聴く様な気分で再生スイッチを押した。

PCの中にあった試行錯誤時代の、初期の頃の失敗集のようなファイルだ。

 

 

『あー、失敗しちゃった』

 

 

『ここの伸び、難しいんだよねっ……もう一回やってこ!!』

 

 

『イエェイェイェーイ! わーたーしーは! 水瀬―ユイー!! 絶対プロになるー!!』

 

 

 

『こんにちはー! 聞く飲料水こと、水瀬ユイでーす!  

うーん、挨拶はこれでいいかな』

 

 

『聞く飲料水って何だよって話だけど…‥まぁ、いっか』

 

 

 

最初に再生されたのは駆け出しのころの悪ふざけの記憶だった。

何回も失敗し、気晴らしに吹き込んだ昔の彼女の声だ。

それらが暫く再生されたあと、ようやく歌に入る。

 

 

今や遠くなった過去の記録では、何度も失敗しながらも彼女は歌っていた。

ずっと努力し、思考錯誤を繰り返し、動画が伸びるといいなと思いながら歌い続けていた。

 

 

音程を外したこともあるし、声も裏返った。

途中で泣いてしまい、何度も録り直した。

喉が痛くて、最後まで歌えなかったテイクもある。

 

 

咳き込んで止めたものもある。

自分では、到底投稿できる出来ではないと思った。

辛い無名の時代だった。しかしそれでも楽しかったのは間違いない。

 

 

 

 

ずっと、ずっと頑張って築き上げてきた努力の記憶だった。

水瀬ユイというのは彼女の分身であり軌跡だったのだ。

なのに、もう彼女のモノではなくなっていた。

 

 

乗っ取り。

まさしくそれに尽きた。

水瀬が必死に積み上げて育てたコンテンツは奪われたのだ。

 

 

 

あの「音」はたった一言、ほんの微かなパートだけ水瀬の歌を上書きする。

それだけでリスナーたちは彼女を差し置いてアレこそが素晴らしい、水瀬の芸だとほめたたえているのだ。

 

 

 

自分より上手いと言われている。

自分より綺麗と言われている。

自分よりも求められている。

 

 

水瀬は自分の歌に嫉妬し、その事実が彼女をさらに苦しめた。

 

 

 

 

 

 

 

 

ある夜、水瀬はこの日もどうしても眠れず机の前に座った。

 

 

部屋の照明は消し、パソコンの画面だけが光っている。

通知は切っているが、それでも気づけば動画管理画面を開いていた。

 

 

そこには見慣れた動画が映っており数字も並んでいる。

 

 

再生数。もう間もなく100万に達する。

コメント数。数十万。

マイリスト数。こちらも過去に類を見ないほどだ。

 

 

 

あの動画だ。

水瀬に成功と同時に苦痛を齎している動画である。

動画は彼女が休んでいる間にもずっと伸び続けていた。

 

 

 

水瀬は最新動画の編集画面を開いた。

非公開にするかどうか彼女は迷った。

 

 

この動画を表舞台から消せば少しは楽になるかもしれない。

少なくとも、あの音が含まれたものが広がるのを止められるかもしれない。

自分の名前で、自分ではない声が褒められるのを減らせるかもしれない。

 

 

だが、カーソルは動かなかった。

彼女にとってこの動画は命綱だからだ。

休止している彼女をまたあの華やかな世界に戻すための唯一にして最大の繋がりだ。

 

 

 

この動画は伸びていて、今までで一番反応が良い。

多くの人が褒めてくれている。

この動画をきっかけに、水瀬ユイを知ってくれた人がいる。

 

 

消したらこの今の状況も終わるかもしれない。

 

 

 

もしも終わらなかったら?

水瀬には何も残らない。

再び数多くいる競合の底に沈んでいくだけだ。

 

 

 

そこそこの中堅。

知っている人は知っている。

第一線には届かない歌い手。

 

 

その場所へ戻る。

そして次はもう上がってこれないかもしれない。

だってこうしている瞬間にさえ新しい歌い手などは増え続けているからだ。

 

 

 

結局水瀬は非公開ボタンを押せなかった。

彼女は画面の前で声を押し殺して震えた。

声は出さずに涙だけが落ちていった。

 

 

 

 

 

 

翌朝水瀬は久しぶりに自分の声を録音した。

歌ではない短い挨拶だけだ。

声を何とか絞り出す気だった。

 

 

何度も喉を揉み解し、ストレッチし、彼女はようやく声を何とか取り戻しつつあった。

もちろんまだ歌えないが、それでも彼女は抵抗していた。

 

 

《水瀬ユイです。少しずつ戻ります》

 

 

それだけのつもりだ。

 

 

配信復帰のお知らせに使うつもりの声だけの短い投稿である。

内容も本当にシンプルだ。

 

 

喉の調子がまだ悪いこと。

無理のない範囲で再開すること。

待ってくれてありがとうということ。

 

 

 

彼女は文章だけではなく、声で伝えた方がいいと思った。

 

 

 

自分の声でしっかりと応援してくれる人たちにお礼を言わないといけない。

そう思って録音ボタンを押し、水瀬は息を吸ってから吹き込む。

喋るたびに喉がキュゥゥと締まりつらいが何とか言葉を発した。

 

 

ストレッチの末にようやく彼女は一声を紡ぐことが出来た。

 

 

 

 

“水瀬ユイです”

 

 

────。

 

 

 

水瀬は録音を止め、再生する。

直ぐに自分の声が流れる。

 

 

 

 

「水瀬ユイです」

 

 

もはや自分の声ではなかった。

 

 

 

水瀬には歪んだ不協和音として聞こえる。

湿った息のように聞こえる。

耳元で誰かがぼそぼそ言っている不愉快な雑音にしか聞こえない。

 

 

だがきっと外からは違うように聞こえるはずだ。

少し掠れた、水瀬ユイの儚い声として受け取られるのだろう。

喉を壊しているのに、透明感のある今でも復帰を待ちたくなる声に。

 

 

 

そう、その通り。

もう水瀬ユイは水瀬のものではなくなったのだ。

 

 

 

水瀬は項垂れながら録音データを削除した。

すぐにゴミ箱も空にしたが、それでも消えた気がしなかった。

 

 

 

水瀬は両手で耳を塞いだ。

 

 

 

「最高でした」

 

「泣きました」

 

「もっと歌ってください」

 

「ユイちゃんの声が一番好きです」

 

 

通知の言葉が頭の中で繰り返される。

そのたびに、先の不協和音が重なってそれを塗りつぶしていく。

 

 

彼女はもう自分の声で「ありがとう」と返すことすらできなかった。

それでも「水瀬ユイ」は自己増殖し多くの人が認知していく。

 

 

 

誰かが過去動画を紹介する。

誰かが合唱動画から個人ページへ来る。

誰かが「あの声の人」と呼ぶ。

誰かが「もっと評価されるべき」と書く。

 

 

水瀬が足踏みしている間にも、水瀬ユイの声は広がっていく。

正確には水瀬ユイの声を奪ったモノの声が、だ。

そして彼女はそれを止められない。

 

 

 

消す勇気も続ける勇気も休む勇気もない。

そして誰かに助けを求める声も奪われた。

あるのは自分ではないナニカが稼ぐ認知だけだ。

 

 

 

 

 

 

その夜、水瀬は布団の中で丸くなっていた。

 

 

スマートフォンは見えない場所に置いてパソコンも落とした。

ヘッドホンも机の引き出しにしまい、埃をかぶったマイクには布をかけた。

 

 

 

それでも、安心できない。

余りに惨めで怖くて、何もかもが空しくなっていた。

 

 

 

 

 

思わず吐き出したその言葉さえもう自分のものではない。

声を奪われ、歌を奪われ、水瀬ユイを奪われ、今や彼女に残る彼女のモノは一つだけだった。

 

 

「もう嫌……」

 

 

 

かえして。

わたしのこえを かえしてよ。

 

 

 

 




周りの人物たちは普通に綺麗な声に聞こえています。
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