放送事故ではありません。 作:宇宙きのこ(ヴァーチャル)
鳥越怜司の実家は「そういう」家だった。
そういう、と曖昧に呼ぶしかないものを扱ってきた家である。
表向きには、地元の古い神社や寺社と付き合いのある、少しだけ由緒の古い家。
祭事の相談を受け、土地のことで揉めた時に顔を出し、地鎮や厄払いの席に呼ばれる。
外から見れば、田舎にまだ残っている古い慣習の一部にすぎない。
けれど、家の奥には子供が勝手に開けてはいけない引き出しがあり、読めても読んではいけない書物があり、名前を書かずに折るための白い紙があった。
兄はそれを継いだ。
彼こそが正当なる後継者であり弟である怜司はいわば予備だった。
幸いなことに兄はメキメキと頭角を現し成人と同時に家督を何の問題もなく継いでおり、兄弟仲は良好である。
怜司より三つ年上の兄は、子供の頃から真面目で、家の大人たちの言葉をよく聞き、面倒な作法も嫌がらずに覚えた。
祭りの日には早くから起き、祖父の横で黙って手順を見ていた。
怜司が退屈そうに畳の縁を指でなぞっている間も、兄は紙の折り目、塩の置き方、声を出す時と出さない時の差を丁寧に覚えてモノにしていた。
それでいて彼は威張り散らすことはなかった。
よくある物語の中の長男キャラの様に俺は兄だぞと怒鳴る事などなく、自分より能力の劣る弟を見下す事もなかった。
むしろ家督は継いだが面倒くさいやら、変なものが見える度にうんざりしたようにため息を吐き弟に「胸だけは大きかったな」と零すほどにユーモアのある男性だ。
怜司が成人すると同時に晩酌をしすぎて兄弟そろって酔いつぶれたこともある。
怜司は兄を尊敬している。
何度も助けられたし、おそらく助けた事もある。
実家の正式な後継者の座に未練はないというか、はっきり言って余りそっちに深く沈みたくはなかった。
だから、家を継ぐのは兄でよかった。
怜司はずっとそう思っていたし、今でもそう思っている。
自分には向いていない。
人前に立ち、相談を受け、相手の恐怖や欲や期待を真正面から引き受けるような仕事は兄の方がずっと上手い。
怜司とて色々と見えるし、聞こえるし、どうすればいいかの手順も知っている。
だからといって、それを人生の看板に掲げたいとは一度も思わなかった。
必死に日銭を稼いで生きているのは大変なのに、死んでいる奴の相手などそんな暇はないのだ。
ただ、知らないままでいることも許されなかった。
見える人間が何も知らずに育つのは、包丁の使い方を知らないまま刃物を持ち歩くようなものだと父はよく言っていた。
何を避けるべきか。どこで返事をしてはいけないか。
夢の中で名を呼ばれた時、どこまでが夢で、どこからが違うのか。
紙に書けば留まるもの、口に出せば寄ってくるもの、忘れたふりをした方がいいもの。
そういう輩の面倒な知識を怜司は嫌々ながら一通り叩き込まれた。
自衛のために必要だった。
少なくとも本人はそう思っているし、その理屈には納得できる。
世の中に漂う「こんなもの」を認識しながら何も手札がないというのは恐ろしいことだ。
それに実際、役に立たないわけではなかった。
試験前に妙に勘が冴えることがある。
体調を崩す前に、肌の下がざわつくような感覚で予兆を拾えることがある。
事故の起きそうな道を何となく避け、結果として後からニュースで知ることもあった。
願掛けもやり方を間違えなければ、運の流れをほんの少しだけ整えるくらいはできた。
大層な奇跡ではない。
それでも、人生を少し楽にするには十分だった。
まぁ、これくらいは良いだろうと彼は思っていた。
それなりに全てを会得するのは大変だったし、怖い思いをしたことも数えきれないくらいにあった。
その果てに得たスキルであるのなら、犯罪にならない程度に活用するのは神様も見逃してくれるだろう。
若い頃の怜司に自分は少しだけ特別なのだという思いがまったくなかったと言えば嘘になる。
誰にも言わないまま、胸の奥で少しだけそう思っていた時期はある。
人が見えないものを見る。
人が聞こえないものを聞く。
俺は古い作法を知っていて、危ない場所を避けられる。
その程度の優越感は、彼にもあった。
だが、それを人に話すほど愚かではなかった。
話せば面倒になる。
TVの中のバラエティに貶められ、消費される娯楽の一つになってしまう。
怪異は娯楽にしてはいけない、そんなことをしたら認知が広がってしまうからだ。
それは家の中で何度も教えられた基本だった。
見えると言えば見せてくれと言われる。
払えると言えば助けてくれと言われる。
できないと言えば責められ、できたと言えばまた呼ばれる。
人の不安と欲望は怪異よりも距離を詰めるのが早い。
だから、街中で何かを見ても無視した。
学校の廊下で夕方だけ同じ場所に立つ影があっても、怜司は目を合わせなかった。
職場の倉庫で誰もいない棚の奥から人の息のような音がしても、聞こえなかったことにした。
電車の窓に乗客ではない顔が重なっていてもスマートフォンを見るふりをした。
基本中の基本は関わらないこと。
触らぬ神に祟りなし、昔の人は真理を知っている。
見ることは触れることに近い。
聞くことは招くことに近い。
名を呼ぶことは扉を開けることに近い。
見ざる。
聞かざる。
言わざる。
それが初歩にして最適の答えだ。
気づかないふりをする。
怜司はそれを、臆病ではなく技術として覚えた。
社会に出てからも、それで済むはずだった。
株式会社〇〇〇〇に入った時も、彼はただの編集担当として働くつもりだった。
映像を切り、音を整え、問題のある発言を確認し、配信者のアーカイブが無事に公開されるようにするのが彼の仕事だ
その中に怪異対策やら幽霊をどうにかするなどといった仕事内容は入ってなかったのだ。
自分の耳のよさや違和感に気づく癖は、音声チェックや事故防止に向いていた。
霊だの祓いだのを持ち出さなくても、仕事として十分に役に立つ。
あとは普通に会社の条件が良かったのと、この会社はホワイトだなというスキルで培った直感に従っただけだ。
最初の頃はそれでよかった。
怪しい音声が入っても大半は機材の問題だった。
不気味な影が映ってもモデルの描画ズレや背景素材の圧縮崩れだった。
視聴者が騒いでも、少し説明を貼り、軽く編集すれば収まった。
怜司はそのたびに、やはり世の中の怪談の大半は人間が作るものだと思った。
俗にいう幽霊の正体見たりというやつだ。
ただ、残りの一部があった。
そしてvtuberという存在はその残りの一部にとって、あまりにも都合がよすぎた。
名前を呼ばれる。
姿を見られる。
同じ時間に大勢が集まる。
声が返され、コメントが流れ、感情が集まり記録が残る。
切り抜かれ、繰り返され、検証され、面白半分に意味を足される。
古い怪異が噂を食って育つなら、配信はその噂を一晩で何万にも増やす装置だった。
それに気づいた時、怜司は心底うんざりした。
最悪のかみ合わせだなとさえ思った。
街中の影なら無視すればよかった。
学校の噂なら近づかなければよかった。
職場の妙な気配なら自分の席を少しずらせば済んだ。
何が見えようと聞こえようと無視すればよかった。
だが配信に入り込んでくるものは違う。
画面の中には、何も知らない配信者がいる。
コメント欄には、面白がっているだけの視聴者がいる。
誰も悪意を持っていない。誰も本気で扉を開けようとしていない。
けれど条件だけは揃っていて、向こう側にとっては、ほんの一言割り込むだけで認知を稼げる餌場になっている。
人の安全が関わっていた。
それも一人や二人ではない。
最悪複数、もっとひどいと何十かそれ以上の。
配信者が自分のアバターを怖がるようになる前に。
視聴者が検証のつもりで危ない音を何度も聞く前に。
誰かが面白がって名前をつける前に。
ただの違和感が、都市伝説の形を取る前に。
絶対に止めなければならなかった。
配信者たちは自分たちが爆弾の傍で踊っている事を知らない。
怜司は今でも自分を善人だとは思っていない。
特別な使命を背負っているとも思わない。
兄のように家を継いだわけでもなければ、誰かを救うためにこの技術を磨いたわけでもない。
元をたどれば、全部自衛のためだった。
自分が面倒なことに巻き込まれないようにするための知識だった。
それでも、見えてしまう。
どんな思念を配信者にあれらが向けているか判ってしまう。
そしてどうすれば被害が広がらないかも、ある程度はわかってしまう。
ならば、見なかったことにして逃げるには少しだけ性格が悪くなりきれなかった。
その少しだけが、怜司を今の席に縛っている。
彼はヘッドホンをつけ、今日もまたタイムラインを拡大する。
画面の中では、200万人に愛される電子のアイドルが笑っている。
その笑顔にほんの一瞬、別のものが被さった。
まだ諦めていないらしい。
面倒だなと怜司は思う。本当に、面倒だと思う。
けれど彼は、再生ボタンから指を離さなかった。
ロボボの配信は、あれからしばらく安定していた。
アーカイブに混じった声は、表向きには機材の誤検知として処理され、ロボボ本人も次の配信でそれを笑いに変えた。
彼女は自分のキャラクターをよく理解していたので「高性能アンドロイドの配信環境に反抗期が来ました」と軽く茶化したのだ。
視聴者もそれを受け入れた。
切り抜きは作られたが、扱われたのは怪談ではなくロボボが機材に説教する小芝居の方だった。
それでほとんどの熱は流れた。
怪異にとって、恐怖と畏れは餌になる。
だが、笑いもまた扱いを誤れば餌になるため、怜司は完全には気を抜かなかった。
ロボボの配信後には必ず数分だけアーカイブを確認し、コメント欄の流れを眺め、例の音声に関する言及が増えていないかを見た。
何もなければ、そのまま通常業務へ戻る。
そういう地味な確認が三日、五日、一週間と続き、やがて特殊確認用チャンネルにも何も流れなくなった。
久我社長はそれをひとまず落ち着いたと判断したらしい。
直属の上司である槙野も、怜司の席に紙コップのコーヒーを置きながら「今回は早かったな」とだけ言った。
怜司は画面から目を離さず「油断は禁物です」と返した。
互いに、それ以上は踏み込まなかった。
この二人も以前に色々あり、今は怜司の能力に疑問を挟んだりはしない。
世の中には科学では説明できないモノがあり、それは危険だと知っているのだ。
そうして更に一か月ほど経った。
人間の関心は移ろいやすい。
ロボボはその間に新衣装の発表を行い、別の人気ライバーとのコラボで大きく話題になったりもした。
超人気ライバー。活動歴は10年。正にvの歴史そのもの。
孤高なる頂点vtuberの歌姫「星宮レイカ」と絡める数少ない人物なのがロボボなのだ。
登録者数400万を目前に控えた超大御所との絡みという特大の話題を前に全ては押し流されていく。
その後に続く同僚との22時30分から行う雑談配信も好評だった。
今は朝活を寝坊で飛ばしたことの方が例の声よりもよほど長くネタにされていた。
ネットの流れは速く、ひとつの小さな怪談を抱え続けるほど暇ではない。
怜司もそれでいいと思っていた。
けれど。
完全に終わったとは思っていなかった。
あの手のものは忘れられることを嫌う。
忘れられないように、接触してくることがある。
まるで質の悪いストーカーの様に。
その夜、ロボボは雑談配信をしていた。
大きな企画ではない。
平日の夜に仕事や学校を終えた視聴者が少し力を抜く時間帯に合わせたゆるい近況報告とスーパーチャット読みの配信だった。
画面の中のロボボはいつものように明るく、少し早口で、今日食べたものや最近ハマっているゲームの話をしている。
または配信前に飲んだエナジードリンクの話をしていた。
これが終わったら22時30分にいつも雑談配信をしている同僚の日向ましろという人物と今日もコラボする予定でもあった。
怜司はその配信をリアルタイムで見ていたわけではない。
通常業務を片づけながら社内監視用の一覧で流速とタグだけを確認していた。
ロボボの枠は安定している。
コメント量は多いが荒れてはいない。
スパチャも通常通り。
システム上の異常検知もない。
だから怜司は、別の新人ライバーのアーカイブチェックへ意識を移しかけていた。
その時、ロボボの配信枠に紐づいたコメント分析が跳ねた。
特定語句の増加。
該当ワードは「声」「今の」「後ろ」「誰」「聞こえた」などだ。
怜司の指が止まった。
彼はすぐにロボボの配信を開き、数十秒だけ巻き戻した。
画面の中ではロボボがリスナーからの質問に答えている最中だった。
いつも通りの声、いつも通りの表情。
だが、彼女の視線がわずかに横へ流れる。
アバターの瞳が動いたのではない。
中の人の動揺をトラッキングが微妙なズレとして拾ったのだ。
『えー、好きな季節? 私はね冬かな。
アンドロイドなので『おい』熱暴走しにくいし、あと単純にこたつが好きで――』
音が入った。
前回よりも近くから発せられた声だった。
ロボボは一瞬、言葉を止めた。
配信の中ではそれはほんの僅かな沈黙にすぎなかった。
だが怜司には彼女があの声を聞いたのだとわかった。
画面の中のロボボは、いつもの笑顔のまま、わずかに肩を固くした。
アバターに物質的な肩はない。
だが人間の身体が強張れば、声の出方が変わる。
呼吸が細くなり、次の言葉の頭が半拍遅れる。
それでも彼女は取り乱しはしなかった。
恐怖を飲み込みロボボを演じ切る。
『……あ、今の聞こえました?』
コメント欄が膨れ上がる。
『聞こえた』
『誰!?』
『今の何』
『ロボボちゃん?』
『女の声?』
『こわ』
『仕込み?』
『また機材くん?』
普通ならそこで配信者は止まる。
怖がるか、誤魔化すか、スタッフに確認を求めるか、どれにしても配信の流れは乱れる。
だがロボボは、ほんの一呼吸だけ置いてから、急に胸を張るような声を出した。
『はい、出ました。機材くん第二形態です。偉そうにしちゃって、まぁ』
怜司は、思わず目を細めた。
ロボボは笑っていた。
いや、笑っているように見せていた。
声の奥にはまだ震えが残っているし、今なにかが起きているのも悟っている。
それでも彼女は、その震えを配信の中に織り込んだ。
怖がっているのではなく、演出に乗っているのだと視聴者に思わせるために。
彼女はあえて少し大げさに、芝居がかった調子で続ける。
『前回、寝ぼけてた配信環境がついに自我を得やがりました。
やめてください。私より先に人格を獲得しないでください。
高性能アンドロイドの立場が危ういです』
『礼儀も足りてないですね。
どっちが上なのか次までに分からせておきます』
コメント欄の空気が変わった。
『草』
『機材くん第二形態w』
『設定増えた』
『ロボボより先に進化するな』
『仕込みうまいな』
『ホラー企画?』
『怖いけど笑う』
ロボボはその反応を逃さなかった。さすが大物と呼ばれるだけの配信者だった。
彼女は恐怖に足を掴まれかけながら、それを即座に自分の芸に変えた。
今の声を怪異ではなく、機材くんというキャラクターに落とし込み、さらに自分の高性能アンドロイド設定に絡めて笑いへ変換する。
視聴者が恐怖へ傾きすぎる前に、解釈の方向を奪い返したのだ。
怜司はそれを見て少しだけ息を吐いた。
正直、助かった。
怖いものとして受け取らせなかっただけで、被害の広がりは大きく変わる。
彼女は知らずに、怜司の仕事の半分をやってのけた。
もちろん、本人はそんなことを知らない。
ただ配信者として、場を止めないために動いただけだろう。
その強さが少し危うくもあった。
怖がっていないふりができる人間は外から見ると平気に見える。
周囲は安心し、本人も自分を誤魔化す。
だが恐怖は消えたわけではない。ただ麻痺させてるだけだ。
ソレは喉の奥で凍ったまま残る。
配信が終わり、視聴者の声が遠ざかり部屋に一人になった時、それは急に形を取り戻す。
怜司は、配信の残りを黙って見た。
ロボボは最後までやりきった。
いつもより少しだけテンションが高く少しだけ早口になりつつもだ。
少しだけ笑いの間が不自然だったが、視聴者の多くはそれを演出の一部として受け取った。
終盤には「機材くん第二形態」がすっかりコメント欄のネタになっており、誰かが怖がってもすぐに別の誰かが茶化して流した。
配信者としては完璧に近い処理だった。
しかし配信終了から三分後、怜司の社用端末に届いたメッセージは画面の中のロボボとは別人のものだった。
『鳥越さん』
それだけだった。
続いて、数秒の間を置いて、二通目が来る。
『すみません、今いいですか』
文章の形は丁寧だったが打ち込みの間隔が乱れていた。三通目はさらに早かった。
『聞こえましたよね? iまの、私だけじゃないですよn?』
怜司は、すぐに返信しなかった。
焦っている相手に、焦った返事を返すと、“やっぱり”と感じてしまいソレは悪化する。
彼は一度だけ深く息を吸い、配信データをローカルに保存しながら、短く返した。
『聞こえました。落ち着いてください。まず部屋の照明を全部つけてください』
返信はすぐに来た。
『つけてます』
『でもさっきから後ろが気になります』
『振り返らない方がいいですか』
『ごめんなさい、ちょっと怖いです』
『おい』
『こえgzzと』
『おーい』
その文字列を見た瞬間、怜司の目つきが変わった。
配信中に聞こえただけなら、まだ映像側の処理で済む可能性があった。
だが、配信後の本人の部屋に気配が残っているなら話は別だ。
アバターやアーカイブに触れただけではなく、本人の生活空間へ薄く糸をかけている。
前回は配信データに乗っただけのものが、一か月かけて少し距離を詰めたということだ。
だいぶ存在は削ったはずだが、しぶとく諦めなかったということか。
だが向こうも無事ではないだろう。
死に体で最後の力を振り絞り一気にしかけたのだ。
相手はここで勝負をかけてきた。
しつこい。
さっさと成仏しろ。
怜司はそう思いながら椅子から立ち上がった。
隣の席の後輩が、まだ残業中の画面から顔を上げる。
「鳥越さん、帰るんですか?」
「少し外に出てくるよ」
「この時間に?」
「機材確認。ロボボさんがちょっと色々あって」
「あぁ……お気をつけてー」
後輩はそれ以上聞かなかった。
怜司の仕事には、時々そういう説明のつかない外出があることを、周囲は薄々知っている。
ただし、誰も深く尋ねない。
彼が戻ってくる頃には大抵、何かのトラブルが何事もなかったように収まっているからだ。
それに相手はロボボだ。
彼女は配信者として超一流だが同時にPCを始めとした機材を結構な頻度でピンチにすることが有名である。
酷いときはコマンドプロンプト関連を弄りだすという超ホラーな展開が起きたこともあったのだ。
怜司は久我と槙野だけがいる非公開チャンネルに必要最低限の文章を投げた。
『ロボボさん、本人側に接触あり。
今から確認に行きます。配信アーカイブは公開停止。切り抜き申請も一時保留でお願いします』
すぐに槙野から返事が来た。
『危ないのか』
怜司は、ロッカーから上着を取り出しながら考えた。
危ないと書けば、上司と社長も動く。
だが、動きすぎれば人が増え、情報が増え、不安が増える。
今はまだ、人数を絞った方がいい。
さっさと止めを刺してやるだけだ。
『今なら大丈夫です。人を増やさないでください』
送信してから、怜司はロボボへメッセージを返した。
『後ろは見なくていいです。
スマホを手に持って、玄関まで行ってください。何が聞こえようと無視してください』
少し間があった。
『おい』
『今、声がしました』
怜司は足を止めた。
『どんな声ですか』
『私をよんでいます』
『あとエンディングの曲が、ちいさく聞こえます』
『でも配信は切ってます』
怜司は目を閉じた。
それは、かなり嫌な報告だった。
怪異が本人の記憶や恐怖ではなく、配信そのものの形を借りている。
ロボボというキャラクター、エンディング、コメント欄、機材くんという笑いに変えた名前。
そのどれもが今夜の場で生まれた情報だ。向こう側は、それを使い始めている。
勝負に出たという先の考えは間違っていなかったようだ。
しかしまだ名前にはなっていない。
ならば止められる。怜司は歩きながら返した。
『大丈夫です。玄関まで行って、靴を履いて、外に出てください。何があっても無視してください』
『外に出た方がいいんですか』
『はい。部屋を一度空け、鍵は閉めてください。
廊下に出たら、管理会社か警察ではなく、会社に連絡しているという体で俺と通話してください』
『鳥越さん、これ本当に機材問題ですか』
怜司はその問いにほんの少しだけ口を引き結んだ。
彼女は頭が悪いわけではない。
むしろ、配信者として場の空気を読む力があるからこそ説明と現実の噛み合わなさに気づき始めている。
ここで嘘を重ねすぎると、かえって不信が生まれる。
不信は孤立につながり、孤立はあの手のものが入り込む隙になる。
だから、少しだけ本当のことを言う。
『機材だけではないかもしれません。今から確認に向かいます』
しばらく返信がなかった。
その間に怜司はエレベーターへ向かった。
夜の会社は静かだった。
昼間の熱が引いた廊下には空調の音と自分の靴音だけが残る。
彼は上着の内ポケットに、いつもの布袋が入っていることを確認した。
鈴、白い紙、守り札。
どれも会社員の持ち物としては奇妙だが、今日のような夜には必要になる。
端末が震えた。
『外に出ました』
『すみません、てが震えてます』
『でも配信ではちゃんとできてましたよね?』
その一文に怜司は少しだけ眉を下げた。
彼女はまだ、自分が配信者として醜態を晒さなかったかどうかを気にしている。
怖かった、ではなく、ちゃんとできていたか、と聞いているのがその証拠だ。
それは職業意識であり同時に逃げ道のない習性でもあった。
画面の前で笑う人間は怖い時でさえまず自分が画面の中でどう見えたかを考えてしまう。
怜司は短く返した。
『できていました。あの立ち回りは助かりました』
今度はすぐに返信が来た。
『よかった』
その言葉のあと、少し間が空く。
『でももう無理かもしれないです』
『とびらが叩かれてるんです』
怜司はエレベーターの扉が開くのを見ながら、静かに息を吐いた。
泣き言。パニックの手前。
だが、それを責める気にはなれなかった。
むしろ、ここで怖いと言えた方がいい。
怖くないふりをし続けるより、ずっと。
『無視してください。相手は貴方が思っているほど強くない』
そう返してから、怜司は続けて打った。
『会社の車で向かいます。俺が着くまで、じっとしていてください。
聞こえた音も実況しないでください。
何か見えても、言葉にしないでください。俺が聞いた時だけ答えてください』
返事は短かった。
『はい』
怜司は地下駐車場へ降りた。
コンクリートの壁に、蛍光灯の白い光が薄く伸びている。
夜の駐車場は、どこか水の底に似ていた。
車の影が等間隔に並び、その隙間に余計なものが立っていてもおかしくないような、静かな圧迫感がある。
彼は社用車の鍵を取り出しながら、もう一度だけロボボの配信画面を思い返した。
高性能アンドロイドを自称する、200万人の電子のアイドル。
恐怖を笑いに変え、異常を仕込みとして処理し、視聴者の前では最後まで崩れなかったプロ。
その彼女が今、明るい画面の外でスマホを握りしめて廊下に立っている。
見捨てる理由はいくらでもあった。
これは本来の職務ではない。
専門家として名乗っているわけでもない。
下手に関われば、もっと面倒になる。
兄に任せるべき案件かもしれない。
それでも怜司は、車のドアを開けた。
関わらないことが基本だ。
だがその基本は、人を見捨てる言い訳の為にあるのではない。
運転席に座りエンジンをかける。
通話を繋ぐと、ロボボの浅い呼吸がスピーカー越しに聞こえた。
配信で聞く明るい声とは違う若い女性の怯えた息だった。
『鳥越です。聞こえていますか』
『……はい』
『おーい おーい』
『大丈夫です。今から向かいます』
怜司はそう言って、車を静かに出した。
嘘ではなかった。
少なくとも、彼女が今夜を越えるまでには解決するつもりだった。
続きはまた明日更新します。