放送事故ではありません。 作:宇宙きのこ(ヴァーチャル)
週刊誌の読み切り漫画みたいな感覚で書きました。
怜司がロボボの住むマンションへ向かうまでの間にもいくつかの妨害はあった。
社用車のナビが指定した住所とは別の細い路地へ誘導しようとした。
通話中のロボボの声にほんの一瞬だけノイズが混じり、知らない女の声が何かを言いかけた。
信号待ちの最中、スマートフォンの画面には送信者不明のメッセージが三件続けて表示された。
件名も本文もないはずなのに、視界の端では文字のようなものが揺れては消えていた。
怜司はそれらをすべて無視した。
いや、無いモノとして扱ったということか。
彼は徹底的にこういったものの存在を否定していく。
ナビは切った。道は自分で覚えている。
通話のノイズには反応しなかった。
ロボボには「通信が少し荒れていますが問題ありません」とだけ言った。
奇妙なメッセージは開かずに通知ごと削除した。
この手のものはたいした力を持っているように見せたがる。
道を逸らし、声を混ぜ、文字をちらつかせ、こちらが一瞬でも意味を読もうとさせる。
そしてその読もうとした意識に指をかける乗り込んでくるのだ。
だからひょいと避けてやる。
道端の水たまりを跨ぐ程度の気軽さでよかった。
大げさに構えれば相手にそういうことをするほどのモノという格を与えることになる。
たかが亡霊ごときが今を生きている人の邪魔をするなど許されることではない。
さっさと成仏しろ。それだけだ。
ロボボは通話の向こうで、何度か小さく息を呑んだ。
『今、変な音しませんでした?』
「マンションの廊下ならいろいろ鳴りますね」
『でも、私の部屋の中からずっと声が……』
「部屋の中は確認しなくていいです。
廊下にいてください。
スマホは耳に当てたまま、壁に背中をつけて足元を見ていてください」
『足元、ですか』
「はい。あまり遠くを見ない方が楽です」
怜司は声を荒げなかった。急かしもしなかった。
相手を怖がらせないためというより、怖がった相手の反応に向こう側が乗るのを避けるためだった。
恐怖は足場になる。驚きは呼び水になる。
怜司はそれを知っているから、ただ淡々と手順を渡した。
マンションに着く頃には22時、夜はさっきよりも深くなっていた。
車を停め、怜司はトランクから工具箱を取り出した。
中には実際にドライバーやケーブルテスター、予備のオーディオインターフェース等が入っている。
外から見れば、夜に呼び出された配信機材の修理担当者にしか見えない。
男性社員が一人で所属ライバーの中の人の部屋を訪ねるという状況はそれだけで余計な問題を呼ぶ。
だから、表向きの筋道は必要だった。
会社にも、ロボボにも、その形で説明してある。
配信機材の緊急確認。
音声ノイズとトラッキング異常の現地調査。
必要であれば機材交換。
全部、嘘ではなかった。
ただそれだけでは足りないものが部屋にいるだけだ。
未練たらしく世界に染み付いた小物の掃除だ。
エレベーターを降りた先の廊下は、深夜のマンションらしく静まり返っていた。
壁際の照明は柔らかく、床はよく磨かれている。
高層階の空気には生活音が薄く、どこかホテルじみた清潔さがあった。
けれど、その奥で一か所だけ、空気の温度が沈んでいる。
ロボボは自室の前に立っていた。
ロボボ──羽柴透子だ。
配信で見せる高性能アンドロイドの明るさはそこにはなかった。
パーカーの袖を握りしめ、スマートフォンを耳に当てたまま彼女は壁に背中を預けていた。
顔色は悪く、目元は少し赤い。
泣いてはいないが、泣かないように力を入れている顔だった。
怜司が歩いていくと、彼女はほっとしたように息を吸い、すぐに申し訳なさそうに肩を縮めた。
「鳥越さん……すみません、本当に」
「機材確認に来ました。前と似たような症状でしたね」
怜司は、あえてそれだけ言った。
ロボボは一瞬きょとんとして、それから彼の手にある工具箱を見た。
深夜の廊下で、怯え切った本人と、妙に平然とした会社員が向かい合っている。
状況だけ見ればおかしいのに、怜司の声があまりに事務的だったせいで、彼女の呼吸が少しだけ整った。
「……機材、ですか」
「はい。音声系とトラッキング周りです。
部屋に入りますが、ドアは少し開けたままにします。
確認中はできれば玄関側にいてください。作業中の機材には触らないでください」
「それ、本当に機材の話ですか」
「はい」
ロボボは泣きそうな顔のまま、少しだけジト目になった。
この男は絶対に何かを隠している。
あの声と奇妙な気配、そして妙な生臭さは機材がどうのこうのといった話ではないことくらい彼女にもわかる。
それでも鍵を開けた。
扉が開くと、室内から冷えた空気が流れてきた。
暖房が入っているはずの季節にしては、妙に湿った冷たさだった。
そして微かに生臭い、獣臭いと言ってもいいだろう。
怜司はそこに反応しなかった。
玄関で靴を脱ぎ、工具箱を持って部屋へ入る。
室内は配信用の機材が整然と置かれた、きれいなワンルームだった。
モニター、マイク、オーディオインターフェース、照明、トラッキング用のカメラ。
プロの配信者らしく、生活空間と仕事場が同じ部屋の中で無理なく分けられている。
デスクの周囲の空気は濁っていた。
生臭さはここから吹き出ている。
汚れているわけではない。
むしろ部屋はよく片づいている。
だが配信の熱が残る場所に、別のもの……ナニカが薄く貼りついている。
画面の中で声を得たものが、今度はその声の出口を探して、マイクとモニターと本人の記憶の間をうろついているようだった。
怜司は工具箱を開けた。
まず、オーディオインターフェースの接続を確認する。
次にマイクケーブルを外し、予備のケーブルへ差し替える。
トラッキングカメラの位置を少しずらし、照明の角度を変える。
その他もろもろ。
全部、普通の機材確認として当たり前の動作だった。
ロボボは玄関近くでそれを見ていたが、不安が顔に残っていた。
「鳥越さん」
「はい」
「さっき、私の名前を呼ぶ声が聞こえたんです。そこから」
彼女は玄関に立ったままデスクの方を指さしかけ、すぐに手を引いた。
怜司に言われたことを思い出したのだろう。余計なものを指ささない。
余計な音を実況しない。
怖い時ほど人は見たものを言葉にして確認したくなるが、その確認そのものが罠になることもある。
怜司は頷いた。
「気のせいです」
「それ……難しいごまかしだと判っています?」
「やってください。配信でやった事と同じです」
ロボボは唇を結んだ。
彼女は画面の中では騒がしく、明るく、失敗さえネタにする人間だった。
けれど今は、その強さが素の怯えと隣り合わせになっている。
プロだから耐えられるわけではない。
叫びだしそうな感情を、プロとして必死に押さえているだけなのだと怜司は思った。
彼からすればよく見る存在でも彼女からすれば正体不明の怪物なのだ。
だから早く終わらせる必要があった。
いつまでも忍耐が続くわけないのだから。
怜司は配信用PCの電源を入れず、モニターの裏に手を伸ばした。
ケーブルの束の奥、電源タップの影。
机の脚と壁の隙間、そこにナニカがいた。
形はほとんどない。
黒いモヤというか、影が不自然に動いているような、暗闇を塗り固めたモヤモヤだ。
人の姿をしているわけでも、女の顔が浮かんでいるわけでもない。
ただ、黒い輪郭だけを持った湿った膜のようなものが配信環境の隙間に薄く絡んでいる。
最初の配信で声を置き、二度目の配信で気配を覚えさせた。
その後は恐怖とコメントの反応を使って、本人の部屋まで辿り着いたのだろう。
自我? 恨み? 祟り?
そんなものはない。
これはそんな高尚な存在ではない。
これはただ、楽な稼ぎをしようとしていたものだ。
たった一人の人気配信者に触れれば、何万、何十万の視線がついてくる。
自分から大きな怪異になる必要はない。
相手の光に寄生し、少しだけ声を混ぜ、少しだけ怖がらせ、視聴者が勝手に意味を足すのを待てばいい。
昔なら何年もかけて育つ噂が今なら一晩で餌になる。
怜司はそれが嫌いだった。
恐ろしいからではない。
ずるいからだ。
旅立ちもせず人に迷惑と害をばら撒き、余計な仕事を増やす害獣の一種とさえ思っていた。
彼は本格的な道具を取り出さなかったし鈴も鳴らさなかった。
大仰な術を唱えることも、部屋の四隅に塩を置くこともしない。
そんなことをすれば、相手を一人前の怪異として扱うことになる。
今ここにいるものは、まだそこまで育っていない。
ただ配信の隙間に指をかけただけの、薄くて軽いものだった。
薄いならシールの様に剥がせばいい。
怜司はモニター裏のケーブルを一本つかみ、ゆっくり引いた。
ケーブル自体には何もない。
だが、そこに絡んでいた気配がわずかに抵抗した。
空気がきしむ。部屋の照明が一瞬だけ瞬き、ロボボが小さく息を呑む。
「見ないでください」
怜司は言った。
ロボボはすぐに目を伏せた。
配信中のような茶化しも、質問もなかった。
彼女は怖がっていたが、指示を聞けるだけの判断力は残っていた。
それで十分だった。
怜司はケーブルを抜き、工具箱から小さなクリップを取り出した。
普通の金属製のクリップだ。ただし、内側に白い紙の細片を挟んである。
紙には何も書かれていない。名前を与えないための紙。
形を持たせず、意味を置かず、ただ「お前は存在しない」と示すだけのもの。
彼はそれをマイクケーブルの根元に向けて差し入れて動かし、ナニカを紙で挟んでつまむ。
途端に部屋の空気が軽く震えた。
モニターの黒い画面が勝手に起動し何かが映ろうとした。
顔や文字ではなく、砂嵐の濁流だ。
だが、見た者が勝手に顔や文字だと思いたくなるような、曖昧な濁りが鮮明になってくる。
怜司はそれを見ずにモニターの電源ボタンを押した。
画面は一瞬だけ白く光り、すぐに暗くなる。
その暗さの中から声が出かけた。
『ま――』
怜司は、ナニカをつまんだ紙を暗闇から引きずり出した。
それだけだった。
音もなく、派手な光もなく、部屋を揺らすような衝撃もない。
湿った膜のようなものが影の中から引き剥がされ、灯りの中で糸のように細く伸びた。
それは再び何かを言おうとした。
だが言えなかった。
言葉になる前に、怜司は白い紙の細片を握りつぶした。
紙がくしゃりと鳴った瞬間、部屋の隅に溜まっていた冷たさがふっと抜けた。
モニター裏の影が普通の影に戻り、空調の音が少しだけはっきり聞こえる。
ロボボはしばらく顔を上げられなかった。
「終わりました」
怜司は工具箱へクリップを戻しながら言った。
あまりにもあっさりした声だったので、ロボボは一拍遅れて顔を上げた。
彼女の目には涙が残っていたが、部屋の空気が変わったことはわかったらしい。
肩から力が抜け、喉に詰まっていた息が、ようやく外へ出る。
「……本当に?」
「はい。機材は直りました」
「機材ぃ……?」
「機材です」
怜司はマイクケーブルを新しいものに差し替え、オーディオインターフェースの接続を確認。
更には念のため録音ソフトを起動して短いテストを行った。
波形は正常。ノイズもなくトラッキングカメラも問題なく動く。
報告書に書けることだけで言えば、現地調査の結果、ケーブル交換と設定調整で改善した、という形になる。
実際の話、ケーブルは交換した。
設定もしっかり調整したので嘘ではない。
ロボボ───羽柴は、床に座り込みそうになるのをこらえるようにデスクの端に手をついた。
緊張が抜けたせいか膝が少し震えている。
彼女は深く息を吐き、それからゆっくり怜司を見た。
その目は、さっきまでの怯えとは違っていた。
配信者として、人の言葉の裏や空気の流れを読む目だった。
200万人の前で場を回してきた人間は単に明るいだけではない。
相手が何を隠しているか、どこで話を逸らしたか、どの言葉だけ妙に硬いかを彼女はちゃんと見抜いていた。
「鳥越さん」
「はい」
「この会社、何か隠してます?」
怜司は工具箱の蓋を閉めた。
音が、静かな部屋に小さく響く。
「機材は直りました」
「それ、何の答えになってないです」
「機材は直りました」
「またそれですか?」
「重要なので」
羽柴は涙の跡が残る顔でじとっとした目を向けた。
配信で見せるコミカルなジト目ではなく、本当に疑っている目だった。
怜司はそれを受けても、表情を変えなかった。
こういう時、少しでも説明したくなるのが一番危ない。
本人に必要なのは、安心と手順であって、怪異の構造ではない。
だが、彼女はもう完全には納得しないだろう。
それも仕方がない。
今夜、彼女は自分の部屋で何かを感じた。
配信者として笑いに変えたて誤魔化していた違和感が画面の外まで追ってきた。
そのうえで怜司が訪れ、機材確認という名目で何かをして、部屋の空気が明らかに変わった。
これで「ケーブルが悪かったです」と言われても、信じきれる人間の方が少ない。
「……私、今日のこと、社長に聞いてもいいですか」
「社長が何を話すかは、社長が決めます」
「鳥越さんは話してくれないんですね」
「機材の話ならします」
「じゃあ、それ以外は?」
「専門外です」
ロボボは、今度こそ少しだけ笑った。
安心したからではなく呆れたのだろう。
けれどその笑いには、先ほどまでの泣きそうな震えはなかった。
怜司はそれを確認して、工具箱を持ち上げた。
「今夜は配信機材を切ったままにして何処かの漫画喫茶で過ごしてださい。
PCも落として、スマホだけ持って寝るといいです。
できれば明日の午前中にマネージャーに来てもらってから部屋に入るといいです」
「また何かありますか」
「ないと思います」
「思います?」
「普通はありません」
「ぜんぶ普通じゃなかったですよね、今日」
怜司は一瞬だけ黙った。
それから、玄関へ向かいながら言った。
「もう終わりました」
その言葉だけは、機材の説明より少しだけ信じられそうだった。
羽柴はそれ以上追及しなかった。
玄関まで見送りに来る頃には、顔色もいくらか戻っていた。
怜司が靴を履き、工具箱を持って廊下へ出ると、彼女はまだ扉の内側に立ったまま、何かを言いたそうにしていた。
「鳥越さん」
「はい」
「ありがとうございました」
その言葉は、配信でスーパーチャットに返す時の明るい礼とは違っていた。
飾りがなく、少し掠れていて、だからこそ本心に近かった。
怜司は小さく頷いた。
「機材対応ですので」
「そこは普通に受け取ってくださいよ」
「……検討します」
ロボボは、また少しだけ笑った。
今度は本当に、少しだけ安心した笑いだった。
結局怜司が会社へ戻ったのは、深夜11時30分を過ぎてからだった。
非公開チャンネルには上司から何度か確認のメッセージが入っていた。
社長からも一件だけ、「無事なら一言」と短く送られている。怜司は駐車場で車を降りる前に、端末を開いた。
『現地対応完了。配信環境は復旧。本人に大きな問題なし。
明日は念のためマネージャー同席で確認をお願いします』
送信すると、上司からすぐに返事が来た。
『
怜司は少し考えた。
名前はない。形もない。
ただ楽に広まろうとしただけのものだ。
だから、こう返した。
『機材トラブルです。解決済み。放送事故ではありません』
数秒後、上司から短い返信が来た。
『了解。お前も帰って寝ろ。明日は午後から来い』
怜司は端末を閉じ、車の窓に映る自分の顔を見た。
疲れている。ひどく疲れている。
だが、今夜のものはもう残っていない。少なくとも、ロボボの部屋には。
翌日。
ロボボこと羽柴は昼過ぎに事務所へ来た。
表向きには、機材トラブルの報告と、今後の配信環境について相談するためだった。
マネージャーも同行していたが羽柴は応接室に入る前、いつもの明るい調子で「ちょっと社長に直談判してきます」と言っていた。
声は笑っていたが、目は笑っていなかった。
彼女は昨夜、怜司から何も聞き出せなかった。
だから今度は社長に聞きに行くことにしたのだ。
応接室の扉が閉まる前、ロボボは廊下の奥にいた今しがた出勤してきた怜司を見つけた。
怜司は別案件の資料を持って歩いていたが、その視線に気づいて足を止める。
ロボボは、じっと彼を見た。
怜司は「おはようございます」としか言わない。
やがて彼女は昨日よりもずっと落ち着いた顔で、しかし明らかに納得していない目をしたまま、応接室へ入っていった。
扉が閉まる。
怜司は、しばらくその扉を見ていた。
面倒なことになったと彼は思った。
本当に、面倒なことになった。
ああいうタイプはきっと、納得するまで折れないだろう。
社長が勝てればいいがと彼は思うのだった。
一時間後、怜司の端末に社長から連絡が入った。
どうやら久我社長は負けたらしい。
『応接室まで来てくれ』
文面は短かった。
だが、その短さの中に、説得に失敗した人間の疲れがにじんでいた。
怜司はしばらく画面を見つめ、次に自分のデスクの上に積まれた通常案件の資料へ視線を落とした。
今日中に確認しなければならないアーカイブが三本、サムネイルの権利チェックが二件。
音声差し替えの修正指示が一件。
どれも急ぎではあるが今すぐ彼が席を立たなければ会社が止まるほどではない。
それでも気は重かった。
こういう説明はいつだって面倒になる。
話しすぎれば相手を巻き込む。話さなさすぎれば不信が残る。
真実をすべて渡したところで相手がそれを安全に扱えるとは限らない。
逆に曖昧なまま放置すれば、本人の不安が勝手に形を取ることもある。
怜司は椅子の背にもたれ、天井を一度見上げた。
とはいえ、彼は会社員だった。
特殊な家の生まれだろうと、妙なものを引っぺがせようと、雇用契約の上では株式会社〇〇〇〇の社員である。
きちんと手当は出ている。通常業務外の特殊対応については、社長の裁量で賞与にも反映されている。
そういう現実的な線引きがある以上、上から呼ばれたなら行くしかない。
怜司は端末に短く返した。
『向かいます』
席を立つと部下が隣の島からこちらを見た。
目が合うと、この男は何も言わずに肩をすくめた。
まぁ、頑張れとその眼は訴えていた。
応接室の前に立つと、中から低い話し声が聞こえた。
ロボボの声は配信中の明るさを抑えており、社長の声はいつもより少しだけ硬い。
怜司は軽くノックし返事を待ってから扉を開けた。
部屋には三人がいた。
社長はテーブルの奥に座り、困ったような顔で怜司を見た。
隣には直属の上司である槙野がいる。
彼は腕を組み、感情を出さないようにしていたが、目元には明らかに諦めがあった。
そして羽柴は、向かいの席に背筋を伸ばして座っていた。
羽柴透子としてここにいる彼女は、昨夜より顔色こそ戻っていたものの目の奥にまだ消えきらない緊張を残している。
怜司が入ると、彼女はすぐに顔を上げた。
「鳥越さん」
「はい」
「社長から、少しだけなら本人に聞いた方がいいと言われました」
その言い方には、勝ち取ったというより、ようやく門前払いではなくなったという慎重さがあった。
怜司は社長へ視線を向ける。社長は小さく息を吐き、片手で額のあたりを押さえた。
「私では説明に限界があった。
君の判断で、話せる範囲だけ話してくれ」
逃げ道を残しているようで、実際には怜司に丸投げだ。
怜司は内心で少しだけため息をついたが、声には出さなかった。
槙野が低い声で補足する。
「彼女には外に出さない前提で聞いてもらう。マネージャーにもまだ共有していない」
怜司は羽柴を見た。
「聞いたことを、配信で話さないでください。
雑談のネタにも、匂わせにも、メンバー限定にも使わないでください。
これは契約やコンプライアンスというより、あなた自身の安全のためです」
彼女は真剣な顔で頷いた。
「わかりました」
その返事に軽さはなかった。
昨夜の廊下でスマートフォンを握っていた時の怯えは薄れていたが、彼女はもう何もなかったことにして笑える段階を過ぎている。
次また同じようなことが起きたら彼女は会社を辞めるかも知れない。
200万人の登録者を抱える配信者がやめる。
それは会社の屋台骨が抜けるに等しい。
だからこそ、ここで完全な嘘だけを渡しても、おそらく逆効果になる。
怜司は応接室の椅子に座らず、テーブルの横に立ったまま口を開いた。
「最初に言っておきますが、信じるかどうかは自由です」
彼女は瞬きをした。
怜司は続ける。
「社内の公式見解としては、昨日の件は配信機材の不具合です。
音声系のノイズと、トラッキングの誤検知。
アーカイブの処理も、現地確認も、その説明で通ります」
「実際、機材も調整しましたしケーブルも交換しました」
「でも、それだけじゃなかったんですよね」
羽柴の声は小さかったが、まっすぐだった。
怜司は少しだけ間を置いた。
此処まで来ても否定することはできた。
いつものように「わかんないです」で逃げることもできた。
だが、ここまで来た相手にそれをやれば、彼女はきっと別の場所で答えを探す。
ネットの怪談、オカルト系動画、半端な霊能者、善意と商売の混ざった相談窓口。
そういう場所へ行かれるくらいなら、最初に薄く安全な説明を渡した方がましだった。
「そういうエンタメだと思ってください」
エンターテイメント。
怜司は、あえてその言葉を選んだ。
「オカルト。スピリチュアル。昔からある願掛けや縁起担ぎの延長。
信じてもいいし、信じなくてもいい」
「ただ、配信者として気をつけた方がいいことの中に
倫理や法律や炎上対策だけではなく、こういう方面の注意もある、という話です」
ロボボは黙って聞いていた。
社長も上司も口を挟まない。
二人は、怜司がどこまで話すかを見守っている。
応接室の空調の音が、妙にはっきり聞こえた。
「あなたたちvtuberは、画面の中で名前を呼ばれます。
姿を見られます。同じ時間に大勢の人が集まり、コメントを流し、感情を向けられる」
「配信は記録され、切り抜かれ、何度も再生される」
「普通の芸能活動や動画配信と似ていますが
アバターという“本人であって本人ではない姿”を介している分、少し独特です」
「独特、ですか」
「はい。人が何かを信じたり、怖がったり
繰り返し見たりする場所には、余計なものが混ざることがあります」
「全部が本物というわけではありません。
むしろ大半はノイズや誤認です。
ただ中には、そういう注目や怖がり方を利用して、形を持とうとするものがあります」
羽柴の手が膝の上で少しだけ握られた。
彼女は怖がっている。だが、目を逸らしてはいなかった。
「昨日のは、それですか」
「断定はしません」
「鳥越さん、そういう時だけ曖昧にしますよね」
「断定すると、名前に近づくので」
怜司は淡々と答えた。
彼女の顔に理解しきれない不安がよぎる。
だが同時に彼女は何かを掴んだようでもあった。
配信者にとって、名前がどれほど強いものかはよく知っているはずだ。
企画名、ハッシュタグ、ファンネーム、ネットミーム、切り抜きタイトル。
名前をつけた瞬間、曖昧なものは共有可能な形になる。
ネットではそれが、時に爆発的な速度で広がる。
「だから、話題にしすぎない方がいいんですね」
「はい。怖いものとして扱いすぎない。
面白がって検証しない。名前をつけない。聞こえた音を何度も再生しない」
「リスナーに“今の何?”と投げない。
サムネイルやタイトルにも使わない。
配信者本人がそれを怖がっていると視聴者も同調します」
次いで怜司は、少しだけ声を柔らかくした。
「昨日、あなたが配信中に“機材くん第二形態”として処理したのは、かなり良かったです」
「怖がりはしたが、でも引っ張りすぎなかった。
視聴者の解釈を笑いの方へ逃がしたので、あれ以上広がりにくくなりました」
羽柴は驚いたように彼を見た。
「本当に、あれでよかったんですか」
「はい。とても助かりました」
その言葉に、彼女の肩がほんの少し下がった。
昨夜も同じようなことを言われたが、今度は事情の一端を聞いたあとだからか、受け取り方が違ったのだろう。
自分がただ場を誤魔化したのではなく、実際に被害を抑える方向へ動けていた。
その事実は、彼女にとって少しだけ救いになったようだった。
けれど、安心は長く続かなかった。
羽柴はすぐに表情を引き締め、恐る恐る問いかける。
「こういうことって、よくあるんですか」
応接室の空気がそこでわずかに止まった。
久我社長は目を伏せた。
槙野は腕を組み直した。
怜司は、彼女の目を見た。
配信者としての好奇心ではない。
自分がこれからも画面の前に立ち続けるために知っておかなければならないことを確かめる目だった。
だから怜司は、嘘をつかなかった。
「はい」
短くそう答える。
「珍しくありません」
ロボボは息を呑んだ。
その反応を見て、怜司はすぐに続けた。
恐怖だけを渡して終わるのは、説明として最悪だ。
「ただし、危険なものばかりではありません。大半は何もしなければ消えます」
「機材トラブルとして処理できるものも多いですし、視聴者が騒がなければ広がらないものも多い。
むやみに怖がらず、むやみに面白がらず、必要な時にこちらへ回してくれれば対応できます」
「鳥越さんが?」
「会社として、です」
「今、絶対に鳥越さんがって意味でしたよね」
「会社として、です」
彼女は、またじとっとした目を向けた。
昨夜よりも、その表情には少しだけ彼女らしさが戻っていた。
怜司はそれを見て、内心でわずかに安堵する。怖がっていても、突っ込む余裕があるなら悪くない。
社長がそこで口を開いた。
「彼の負担を増やしたくはないが、実際に特殊な確認が必要な案件はある。
君に話したのは怖がらせるためではなく、今後、配信中に似たことがあった時に一人で抱え込まないでほしいからだ」
ロボボは久我を見た。
「他の子たちも、そういうことが?」
「全員ではない」
社長は慎重に言葉を選んだ。
「ただ、配信という仕事の性質上、完全に無関係ではいられない。
だから会社としても、表向きは配信事故、機材不具合、メンタルケア、炎上対策として処理しながら必要な確認はしている」
「それを今まで隠していたんですね」
「隠していたというより、広げない方が安全だと判断していた」
彼女は少し黙った。
その沈黙に怒りがないわけではなかった。
昨夜の恐怖を思えば、当然だろう。
だが同時に、彼女は会社側が悪意で黙っていたわけではないことも理解しているようだった。
配信者として、情報が広がることの危うさを誰より知っているからこそ、その沈黙の理由がわかってしまう。
怜司はテーブルの上に、一枚の紙を置いた。
そこには、オカルトめいた言葉は一切書かれていない。
タイトルは「配信中の音声・映像違和感発生時の対応メモ」だ。
中身も、配信者向けの実務的な注意書きに落とし込んである。
異常音声を感じた場合、即座に恐怖を煽る表現をしない。
視聴者へ検証を促さない。
問題箇所の繰り返し再生を避ける。
アーカイブ公開前に管理室へ連絡する。
本人が不安を感じた場合、配信終了後に一人で検証せず、マネージャーまたは管理室へ報告する。
切り抜き化されそうな場合は、該当箇所の扱いを事前確認する。
名称化、タグ化、シリーズ化は避ける。
羽柴透子はそれを読み、表情を少しずつ変えた。
「これ、完全に……配信者用の心霊現象対応マニュアルじゃないですか!」
「配信リスク対応メモです」
「言い方!!」
「表現は大事です」
怜司の返答に、羽柴は一瞬だけ笑いかけたが、すぐに真剣な顔へ戻った。
「私、これを他の子に教えた方がいいですか」
「今はやめてください」
怜司は即答した。
「心構えとして広めるには早いです。
下手に共有すると、必要以上に怖がる人もいれば逆に面白がる人も出ます」
「どちらもよくありません。まずは、あなた自身が今後の配信で気をつけてください。
似たことが起きたら、すぐこちらに回してください」
「でも、後輩が同じ目に遭ったら」
その言葉には彼女の人柄が出ていた。
自分が怖い思いをしたからこそ、他の誰かにも起きるのではないかと考えている。
怜司は少しだけ目を伏せた。
「その時は、会社が対応します」
「鳥越さんが?」
「会社が」
「そこは譲らないんですね」
「……。」
ロボボは紙を見つめたまま、しばらく黙っていた。
応接室の外では、昼の事務所の音が微かに聞こえる。
誰かが廊下を歩き、遠くで電話が鳴り、スタッフの笑い声が薄く流れてくる。
そこには昨夜の冷たい気配など欠片もなかった。
普通の会社の、普通の昼だった。
その普通さの裏側に、こういう話がある。
彼女はそれを、ようやく飲み込もうとしているようだった。
「……じゃあ、私は昨日みたいなことがあったら
機材とか演出とか、そういう方向に逸らします」
「そして配信後に一人で確認しない。
変な音がしても聞こうとしない。名前をつけない」
「はい」
「あと、鳥越さんに連絡する」
「緊急時以外は管理室に連絡してください」
「鳥越さんに連絡する」
「管理室に」
羽柴は紙から顔を上げ、少しだけ不満そうに彼を見た。
「命の恩人みたいなことをしておいて距離を取るんですか?
あんなのがいると知っちゃったのに」
「機材対応ですので」
「その設定、まだ続けるんですか」
「ご理解ください」
久我社長がそこで苦笑とも疲労ともつかない息を吐いた。
槙野は口元を押さえ、笑うのを堪えているようにも見えた。
羽柴もようやく小さく息を吐いた。
完全な安心ではない。
だが、昨夜の泣きそうな緊張とは違う、気分を仕切りなおすための呼吸だ。
怜司はその様子を見て、これ以上の説明は不要だと判断した。
「とにかく、しばらく羽柴さんの配信は管理室側でも少し厚めに確認します」
「あなたは普段通り配信してください。
ただし、違和感があったら無理に一人で処理しないでください。
配信中は笑いに逃がしても構いませんが、配信後は管理室に報告してください」
「わかりました」
彼女は素直に頷いた。
そのあと、彼女は少し迷ってから、静かに言った。
「でも、昨日のあれを、私が配信で怖がって煽ってたらどうなってました?」
怜司は答える前に、社長と上司をちらりと見た。
二人とも何も言わなかった。ロボボはもう、ある程度聞く覚悟を決めている。
ならば、ここも曖昧にしすぎない方がいい。
最悪どうなるかは知っておくべきだ。
「名前がついたかもしれません」
彼は言った。
「“ロボボの配信に出る何か”という扱いで。
そうなると、視聴者が過去を遡って探します。そして切り抜きが増えて検証されます」
「続けて別の配信でも似た音を探す人が出ます。
ただのノイズまで同じものとして扱われる。
そうして最初は薄かったものに、次々と輪郭が足されていって……もう手が付けられなくなる」
あやふやで存在も不確かで不安定なものが急速にその存在を補強していく。
名もなきナニカから実体のある怪物に変わっていくのだ。
羽柴の顔から少しだけ血の気が引いた。
笑い話に思えるが過去に日本はそれで社会が崩れかけたことがある。
テケテケ。口裂け女。その他いろいろ。
そういったネームドは殆どが社会を揺るがすほどの混乱を招く。
「それは……まずいですね」
「かなり」
「昨日、私が機材くんって言ったのは?」
「よかったです。機材くんはただのネタなので、怖がる対象にはなりにくい。
しかも、あなたの配信内の冗談として閉じているので外へ怪談として広がりにくい」
「じゃあ、機材くんは安全なんですね」
「一つのキャラとして育てなければ」
ロボボは、その一言で黙った。
配信者としての感覚が、また別の方向で働いたのだろう。
ネタは育つ。コメントが拾い、ファンアートが生まれ、定番化し、名前と人格を持つ。
普段ならそれは嬉しいことだ。
けれど今回に限っては軽い冗談でさえ扱いを誤れば土台になる。
「……ほどほどにします」
「お願いします」
怜司は頷いた。
話はそこで一段落した。
羽柴は紙を丁寧に畳み、バッグへしまった。
社長は今後の体制について簡単に説明し、槙野は管理室への連絡ルートを確認した。
言葉だけを見れば、配信トラブル対応のミーティングにすぎない。
だが、その場の全員がそれだけではないことを知っていた。
応接室を出る時、ロボボは怜司の隣で少し足を止めた。
「鳥越さん」
「はい」
「信じるかどうかは自由って言いましたけど」
「はい」
「私は、昨日のことで信じるしかなくなった身です」
彼女の声は落ち着いていた。
怯えはまだ完全には消えていないが、その中に配信者としての芯が戻っている。
「だから、次からはちゃんと報告します。配信では騒がないようにします。
でも、私が怖がってる時に“機材です”だけで押し切るのは、ちょっと腹立つのでやめてください」
怜司は少しだけ考えた。
「検討します」
「絶対しない返事ですね、それ」
「善処します」
「こいつぅ……!」
羽柴は呆れたように言い、それから小さく笑った。
配信の中で見せる大きな笑いではなく、素に近い少し疲れた笑いだった。
怜司はそれで十分だと思った。
怖がりすぎず、忘れすぎず、けれど日常へ戻れる。
この手の案件では、それが一番いい。
羽柴──ロボボがマネージャーと合流して廊下の向こうへ去っていくと久我社長が怜司の横に立った。
「すまなかったな」
「仕事ですので」
「そう言うと思った」
久我社長は苦笑したあと、声を少し落とした。
「彼女は賢い。隠し続ける方が危なかっただろう」
「だと思います」
「今後、他のタレントにも同じように話す必要が出るかもしれない」
怜司は、その言葉に露骨に嫌そうな顔をした。
社長はそれを見て、今度こそ少し笑った。
「わかっている。広げるつもりはない。だが、必要な時は頼む」
「手当が出るなら」
「出す」
「賞与も」
「検討する」
「ははははは」
久我社長は肩をすくめた。
怜司はそれ以上言わず自分の席へ戻った。
デスクには通常案件がまだ残っている。
アーカイブ確認、権利チェック、音声差し替え。
どれも昨夜のような冷たい気配とは無縁のただの仕事だった。
怜司は椅子に座りヘッドホンをつける。
画面の中では、別の所属ライバーが楽しそうに笑っていた。
コメント欄は流れ、スパチャが弾け、電子のアイドルたちは今日も人々の視線を集めている。
その輝きが何かを呼ぶことを、怜司は知っている。
けれど、呼ばれたものに名前を与えるかどうかは、人間の側にも選べる。
彼はタイムラインを再生し、いつものように波形を眺めた。
面倒な仕事だ。
本当に面倒な仕事だった。
それでも、ロボボが今日も画面の中で笑えるなら、少なくとも今のところはそれで十分だった。
ロボボこと羽柴はもともと図太いところのある女だった。
配信中にゲームが落ちても、マイクが不調になっても、コメント欄が妙な流れになっても
彼女はそれをその場で拾い、笑いに変え、時には自分の失敗として抱え込まずに転がすことができる。
大物と呼ばれるようになったのは、登録者数や企画力だけの話ではない。
予期せぬ出来事が起きた時、どれだけ早く場の空気を読み、視聴者の視線を安全な方向へ流せるか。彼女はそれがうまかった。
ただ、図太いということは鈍いということではなかった。
むしろ彼女は、細かい部分に目が行くタイプだった。
コメント欄の一瞬の温度差、コラボ相手の声の硬さ、スタッフの連絡文に混じる微妙な急ぎ方。
いつもと違うマイクの抜け、照明の色、サムネイルに使われた言葉の印象。
そういうものを拾いながら、拾っていない顔で配信を続けることができる。
だからこそロボボは、明るく雑に見えるキャラクターの裏で、ずっと気を張っていた。
そういった気配り能力があるからこそ、業界でも星宮の様な気難しい人物ともコラボが出来た理由だったのだ。
その気の張り方が、あの一件から少し変わった。
世界にそういうものがあると知ってしまえば、以前なら気にしなかった小さな違和感にも、どうしても目が向く。
配信部屋の隅で、例えばモニターのスリープランプが一度だけ不自然に瞬いた時。
誰も触れていないはずのマイクが、入力ゼロのままほんの少しだけ波形を立てた時。
エンディング画面へ切り替える直前、コメント欄の流速がなぜか一拍だけ揃ったように見えた時。
昔なら、機材の癖だと思った。
今でも、たぶん大半は機材の癖なのだろう。
鳥越怜司も、そういうものの九割は事故や誤認だと言っていた。
だからロボボは、自分に言い聞かせる。全部を怖がるな。全部に意味を与えるな。
気づいたものをすぐ言葉にするな。配信者としても、それ以外の意味でも、その方がいい。
それでも、ふとした瞬間に「ん?」と思うことは増えた。
そして、そのたびにため息も増えた。
「……人生の解像度、上がらなくていいところが上がっちゃった」
誰もいない配信部屋でロボボは椅子の背にもたれながら呟いた。
配信前のチェックはすでに終わっている。
マイクも正常、モデルの動作も問題なし、背景素材もいつも通り。
モニターには開始前の待機画面が映り、分身であるロボボのアバターが静かに瞬きをしている。
その姿を見つめながら、彼女は軽く眉を寄せた。
嫌になったわけではない。
怖くないと言えば嘘になる。
あの夜、自分の部屋の中で呼びかけられたのはトラウマになりかねない衝撃だった。
音としては小さかった。
けれど、そこにあるはずのないものが、自分の仕事の中に入り込んできたのはおぞましいとしかいいようがない。
それでも、やめるつもりはまったくなかった。
ロボボとして積み上げた時間がある。
画面の向こうで待ってくれているリスナーがいる。
自分の言葉で笑う人間がいて、自分の失敗さえ好きだと言ってくれる人間がいる。
200万人という数字はただの登録者数ではない。
喜びも責任も、面倒な期待も、確かな実績も、その中に全部詰まっている。
それを、妙なものが出たから怖いので辞めますなどと手放す気にはなれなかった。
それに、もっと現実的な理由もある。
こんな世界があると知った状態で、何も知らない一般人に戻る方がよほど怖い。
気づく前なら知らないまま通り過ぎられた。
だが今は違う。
配信という仕事が何を集めやすいのか、自分の声や名前やアバターがどんなふうに見られ、呼ばれ、記録されるのか。
それらをある程度わかってしまった。
そんな状態で、実績と能力が確かだと断言できる人間のそばを離れるなど冗談ではない。
少なくとも会社には鳥越怜司がいる。
本人は絶対に認めないだろうがロボボにとってそれは大きかった。
怪異だの霊だのを派手に語る胡散臭い人間ではなく、機材トラブルの顔をして現れ
よくわからないものをサクサク引っぺがし、終わったあとに「機材は直りました」と言い張る男。
その態度は腹が立つほど素っ気ないが、実績だけは疑いようがない。
しかも、彼はTVの中の存在の様に煽らない。
怖がらせない。面白がらない。
自分の特別さを売り物にしない。
話せることと話せないことの線をこちらが苛立つほど守る。
その面倒くさいまでの律儀さは信用できた。
もし彼が「あなたには霊がついています」などと深刻な顔で言い出すタイプだったらロボボはとっくに距離を取っていたと思う。
逆に「僕なら全部見えます」と得意げに語る人間でも駄目だった。
そういう人間は怖いものより先に自分を大きく見せようとする。
だが怜司は違う。
面倒そうにしながら、必要な分だけ動き、必要な分だけ黙る。
だから腹は立つが信用できる。
ロボボは待機画面の時計を見た。
配信開始まであと十分。今日の内容は、軽い雑談と視聴者から募集した「最近あったちょっと不思議な話」を読む企画だった。
以前なら何も考えずにやれた企画だが、今はさすがに事前に管理室へ確認を通してある。
怜司から返ってきた注意書きは、相変わらず妙に実務的だった。
『実在の心霊体験として断定しないでください』
『名前・場所・儀式・呼びかけの再現は避けてください』
『怖がらせすぎず、日常の不思議話として流してください』
『リスナーに検証や再現を促さないでください』
『違和感があったら、その場で深追いせず次の話題へ移ってください』
ロボボはそのメモを読み返し、またため息をついた。
「配信者向け怪異リスク管理、普通に講習にした方がいい気がするんですけどね……」
もちろん、そんなことを本気でやれば別の問題が起こることもわかっている。
知識は武器になるが、同時に好奇心の種にもなる。
所属ライバー全員に話したところで、真面目に気をつける者ばかりとは限らない。
怖がりすぎて配信に支障をきたす者もいれば、逆にネタにして伸ばそうとする者もいるだろう。
だから今は、ロボボの胸の中にしまっておくしかない。
彼女は椅子から身を起こし、マイクの前に座り直した。
画面の中のアバターが同じように姿勢を正す。
銀色の髪、機械翼めいた装飾、青白いライン、明るく大げさな表情。
200万人に愛される高性能アンドロイドの顔が、そこに戻ってくる。
怖さと警戒心もある。
以前なら笑って流した小さな違和感に、今はどうしても目が向く。
だが、その警戒心は彼女を萎縮させるためのものではなく、続けるためのものだった。
危ないものを知り、触れ方を覚え、必要な時に助けを呼べる。それなら、何も知らずに無防備でいるよりずっといい。
ロボボは配信開始ボタンに指を置いた。
その直前、スマートフォンが震えた。
管理室からのメッセージだった。
『待機画面、音声ともに問題ありません。通常通り開始できます』
送信者は鳥越怜司。
文章はいつも通り、愛想の欠片もない。
だがロボボは、それを見てほんの少しだけ口元を緩めた。
「はいはい。機材は正常、ですね」
彼女は小さく呟き、配信開始ボタンを押した。
待機画面が切り替わり、コメント欄が一気に動き出す。
いつもの名前、いつもの挨拶、初見の緊張した一言、待っていたという声。画面の中でロボボがぱっと笑う。
「おつロボー! 高性能アンドロイド、ロボボです!
今日はみんなから送ってもらった、ちょっと不思議な話を読んでいきます。
ただし怖すぎるのは禁止です」
「私の高性能センサーがショートするので!」
コメント欄が笑いで埋まる。
その光景を見ながら、別室のモニター前で怜司は波形を眺めていた。
異常なし。コメント流速、正常。音声帯域、問題なし。
画面の中のロボボはいつも通り明るく、少しだけ慎重で、けれど配信者としての魅力を損なってはいなかった。
怜司は缶コーヒーを手に取り、軽く息を吐く。
警戒するのは悪くない。
警戒しながら続けられるなら、むしろその方がいい。
ロボボはもう、何も知らない配信者ではない。
だが、知ったことで潰れるほど弱くもない。
少し目つきが鋭くなり、ため息が増え、管理室への連絡頻度が上がっただけで、彼女は今日も画面の中で笑っている。
それなら十分だった。
怜司は通常確認のログに、短く記録を残した。
『ロボボ配信、開始時異常なし。本人状態安定。警戒心はあるが、配信進行に支障なし』
そこまで打ってから、少しだけ考え、最後に一文を足した。
『むしろ以前より危機対応は良好』
送信はしなかった。ログに個人的な感想は不要だ。
怜司はその一文を消し、代わりに事務的な表現へ直す。
『進行判断、問題なし』
画面の中で、ロボボが視聴者の投稿を読みながら、わざとらしく肩を震わせている。
「やめてください、こういう地味にありそうな話が一番怖いんです。
もっとこう、最終的に猫が棚から落ちただけでした、みたいなオチをください」
コメント欄がまた笑う。
ロボボは笑いながら、ほんの一瞬だけ、画面の外に視線を流した。
それは怯えではなく確認だった。
配信者として、そして少しだけ事情を知った人間として、彼女は見えている世界の端を確かめていた。
何もない。
ならば続ける。
その判断ができるようになっただけでも、あの夜の恐怖は無駄ではなかったのかもしれない。
怜司はそう思いかけて、すぐにやめた。
綺麗な意味を足しすぎるのはよくない。
ただ、今日の配信は問題なく進んでいる。
それだけでいい。
ロボボは、もう一度明るく笑った。
知ってしまった世界の隙間を警戒心と冗談と少しの図太さで跨ぎながら彼女は電子のアイドルとして今日も画面の向こうへ声を届けていた。
需要があるかどうかはわかりませんがあと二つほど事例を用意しています。
次の事例は明日更新します。