放送事故ではありません。 作:宇宙きのこ(ヴァーチャル)
久我と槙野が何であそこまで話がわかるかの話。
その頃の株式会社〇〇〇〇はまだ怪異や心霊という言葉を社内のどこにも置いていなかった。
確かに配信中に妙な音が入ることはある。
モデルの目線が一瞬だけずれることもある。
誰もいないはずのスタジオの奥で影のようなものが揺れた、とスタッフが冗談めかして言うこともあった。
だが、そのほとんどは機材の不具合か照明の反射。
音声圧縮の崩れ、配信者本人の疲労だ。
あるいはコメント欄の集団的な思い込みとして処理されていた。
久我誠一は、そういうものを本気で信じる人間ではなかった。
40代後半でこの会社を中堅上位の事務所にまで育てた彼は、現実主義の経営者だった。
炎上、契約、案件、スタッフの過労、タレントのメンタル、機材投資、権利処理。
イベント会場の押さえ、グッズの在庫、スポンサーとの折衝。
会社経営には、怪談などよりよほど手触りのある厄介事がいくらでもあった。
もちろん、久我は無神経な男ではない。
彼は所属ライバーが人の死や悲劇を面白半分に扱うことを好まなかったし、曰く付きの場所へ安易に行かせることにも慎重だった。
それは霊を恐れていたからではなく、倫理と安全と評判の問題として、そうした企画が割に合わないと知っていたからだ。
誰かの不幸を娯楽にするような会社は長続きしない。
タレントを危険な場所へ放り込んで数字を取るような運営はいずれ必ず別の形で代償を払う。
だから、久我は怪談を商売の柱にはしなかった。
だがそれは、見えないものを信じていたからではない。
彼にとって大切なのは、会社としてのリスク管理だった。
槙野修平も同じだった。
槙野は現場に近い男だった。
配信スタジオの段取り、マネージャーとの調整。
ライバーの当日入り、技術スタッフへの指示、予定が崩れた時の判断。
机の上で決まった綺麗な予定表が、現場ではどれほど簡単に歪むかを知っている。
だから彼は奇妙な音や映像の揺れに対しても、まず現実的な原因を探した。
「マイクの感度上げすぎだろ」
「背景の反射を拾ったんじゃないか」
「コメント欄が荒れると、何でもそう聞こえてくるんだよ」
「配信者が疲れてる。今日は早めに切らせろ」
槙野はそう言って、だいたいの問題を現場の中で片づけてきた。
口は少し荒いが判断は早く、部下を守る時は前に出る。
スタッフたちからは怖がられているところもあったが、同時に頼られてもいた。
その二人の視界の端に鳥越怜司という社員がいた。
当時の怜司は、まだ社内で特別な扱いを受けていなかった。
アーカイブ管理室に所属する、音声確認と映像チェックに強い中堅社員。
少し無愛想で、報告書の文章が妙に淡々としていて、気になる箇所を見つけるのが早い。
ライバー本人とは必要以上に距離を詰めず、社内イベントでも静かに隅の方にいることが多かった。
彼は編集ができ、音も聞き分けできた。
配信の違和感に気づくのも早かった。
普段は存在感がないがとても頼りになる男。
正に縁の下の力持ち。
そう彼は評価されていた。
だが、それだけだった。
少なくとも社内ではそう思われていた。
怜司自身も、それでよかった。
自分の実家がどういう家か、何を見て育ったか、何を聞こえないふりにしてきたか、そんな話を職場へ持ち込む気はなかった。
信じない者には笑われ、信じる者には縋られ、半端に信じる者には面白がられる。
どれも面倒で、どれもろくなことにならない。
だから、彼はいつも普通の社員の顔をしていた。
妙な音が入れば、まず機材を疑う。
映像の端に影が映れば、照明と圧縮を疑う。
コメント欄で「今の声なに」と騒がれても、まずはBGMとゲーム音声とスタッフの入り込みを調べる。
そうして大半は、本当にただの事故として片づいた。
だが、怜司だけは薄々気づいていた。
vtuberという業態はあまりにも都合がよすぎる。
名前を呼ばれる。仮想の姿を見られる。
同じ時間に大勢が集まり声が返され、コメントが流れて感情が積み上がる。
その場は記録され、アーカイブになり、切り抜かれ、何度も再生される。
昔、そういったモノが広がるには噂が必要だった。
誰かが見たと言い、別の誰かが聞いたと言い、学校の廊下や夜道や井戸端で語られて少しずつ形を持つ。
怖がられ、面白がられ、名前をつけられ、やがて人の暮らしの隙間に居場所を得る。
そういうものだった。
しかし配信は、それを一晩で済ませてしまう。
たった一秒、妙な声が入る。
たった一フレーム、ありえない影が映る。
たった一行、コメント欄に変な文字が流れる。
それだけで数千、数万、時には数十万の視線が同時にそこへ向く。
気づかなかった者も、騒ぐコメントを見て巻き戻す。
誰かが切り抜いて誰かが検証する。
誰かが名前をつけようとする。
その仕組みは怜司にとってはひどく危うかった。
それでも、その時点ではまだ何も起きていなかった。
厳密には、小さなことはいくつかあった。
新人ライバーの初配信の裏で、誰も触れていないサブマイクが一瞬だけ入力を拾ったこと。
雑談枠のアーカイブに、本人の声とは違う息のような音が混じっていたこと。
スタジオの片隅に置いた黒いモニターが、消灯後に一度だけ白く光ったこと。
だが、どれも影で処理できた。
怜司は普通の報告書を書き、機材の設定を直し、音声を整えて何事もなかったようにアーカイブを公開した。
久我も槙野も、それを優秀な裏方の仕事として受け取った。
自分たちの会社が、まだ本当の意味では何も知らないまま画面の前で明るく仕事を続けていた頃の話だった。
その夜、新スタジオの初めての深夜企画が予定されていた。
株式会社〇〇〇〇が新しく導入したスタジオは、社内でも少し話題になっていた。
今までの配信ブースより広く、現実の家具や小道具を活かしたカメラワークができる。
そこへリアルタイムで3Dアバターを合成することで
視聴者の画面にはまるで3Dのキャラクターが実際にスタジオの中へ立っているかのように映る。
現実の椅子と現実の机。
現実の照明に現実の小道具。
その空間の中に、電子の身体を持つライバーが立つ。
技術的にはまだ調整が必要だったが、うまく動けばかなり見栄えがした。
ゲーム実況や雑談の画面とは違い視聴者は「そこにいる」感覚を得られる。
特に素晴らしいのが演者の呼吸や瞬きをアバターに反映させられる点だ。
それだけで一気に生きているように見えるのだから。
キャラクターが現実の椅子へ腰かけ、現実のマグカップへ手を伸ばすように見え、スタジオ内を歩きながら企画を進められる。
それはvという存在の曖昧さを、さらに一段面白くする仕組みだった。
その初回に選ばれたのが、所属ライバーによる軽いホラー雑談企画だった。
心霊スポットへ行くわけではない。曰く付きの廃墟に入るわけでもない。
ましてや危険な儀式をするわけでもない。
あくまで視聴者から募集した「ちょっと不思議な話」や「怖すぎない体験談」を読む夏の夜のゆるい企画である。
担当ライバーは、社内でも安定感のある中堅だった。
ロボボもやりたいと言っていたが、彼女は予定が合わなかったのだ。
怖がりすぎず、けれどリアクションは取れる。
コメント欄の雰囲気を読むのもうまく、必要以上に不穏な方向へ引っ張らない。
名前はここでは重要ではない。
彼女は、その夜の企画を無事に終え、笑いながら帰っていく存在だからだ。
配信開始前、スタジオには明るい緊張があった。
技術スタッフがカメラの画角を確認し、照明担当が机の上の影を調整し槙野が腕を組んで全体を見ていた。
彼はこの新システムに対して、期待半分、不安半分という顔をしている。
現場責任者として、見栄えがいいものほどトラブルも多いと知っているからだ。
後はかなりの金がかかっている。
失敗すると大変なことになるのだ。
「合成の遅延は」
「現状、許容範囲です。
動きの大きい場面では少し揺れますが、雑談なら問題ありません」
「トラッキング切れた時の復帰は」
「自動復帰します。念のため手動切り替えも用意してます」
「配信中にキャラが椅子へめり込むとかやめろよ」
「それはさっき直しました」
「信じてるぞ」
槙野の言葉に若手スタッフが苦笑する。
現場は忙しいが、空気は悪くなかった。
新しいシステム、新しい見せ方、新しい企画。
誰もが少しずつ高揚している。こういう夜は裏方にとっても楽しい。
何も起きなければ、だが。
怜司は、アーカイブ管理室のモニター越しにスタジオの信号を確認していた。
彼は現場には出ていない。
配信ログ、音声、合成レイヤー、コメント保存状態、アーカイブ用のバックアップを確認する役割だった。
新システムの初回ということもあり、念のため通常より念入りに色々と監視している。
モニターの中では現実のスタジオに座る中の人をベースに編集が続く。
現実の彼女の映像に配信者の3Dアバターが重ねられていた。
このままこれを発展させれば野外でのロケでもアバターの身体を重ねてやることができるだろう。
これは確かに見栄えがいい。
電子と現実の身体が椅子のそばに立ち、表情と身振りが自然に動く。
まるで二人が同時に存在しているかのようだった。
少しだけ現実と空想の世界の境目が曖昧になるような絵だった。
怜司はその曖昧さを個人的に少しだけ嫌だと思った。
存在しないモノを存在させているというのが良くない。
人間側には面白い技術だ。
だが、余計なものにとってもこれは面白い器に見えるかもしれない。
もちろん、そんなことを口には出さない。
彼は音声帯域を確認し配信開始前のノイズが通常範囲に収まっていることを見て、社内ツールへ短く打ち込んだ。
『配信開始前確認、問題なし』
その数分後に配信が始まった。
画面の中で、ライバーのアバターが新スタジオに立つ。
背後には少し暗めに調整された照明、夏の夜らしい青みのある背景。
そして小道具として置かれた古いランタン風のライト。
視聴者のコメント欄が勢いよく流れ、初めて見る新スタジオ演出に驚く声がいくつも上がった。
『すごい、そこにいるみたい』
『新スタジオいいじゃん』
『現実の机に立ってるの変な感じする』
『今日の雰囲気好き』
『怖い話やるには最高』
ライバーは嬉しそうに両手を広げ、画面の中でくるりと回った。
「どう? すごくない?
今日はねー、新スタジオからお届けしております!!」
「なんと私はいま、現実に存在してます! あーははははは!!」
余りのハイテンションにコメント欄が笑う。
彼女はその反応を受け、軽い調子で企画の説明に入った。
「今日は、みんなから送ってもらった“ちょっと不思議な話”を読んでいきます。
ただし、最初に言っておきます。怖すぎるやつは禁止です。私が帰れなくなるから」
「あと、本当に危ない場所の名前とか、誰かに迷惑がかかりそうな話は読みません。
ほどよく、寝る前にちょっとだけぞわっとするくらいでお願いします」
これは事前に決められていた注意喚起だった。
法務とマネジメントの確認も通っている。
実在の個人や場所を特定しないし危険行為を助長しない。
リスナーに再現や検証を促さず軽い娯楽の範囲に収める。
久我の方針でもあり槙野の現場判断でもあった。
配信は順調に進んだ。
最初に読まれたのは、夜中に冷蔵庫が勝手に鳴ったと思ったら製氷機だった、という笑い話。
次は、誰もいない部屋で足音がしたと思ったら上階の猫が走っていたという話。
三つ目は少し怖かったが、最後に投稿者の祖母が「それは座敷童子だから菓子を置け」と言い出し、コメント欄は温かい笑いで流れた。
ライバーは怖がりつつも、絶妙に空気を軽くしていた。
「こういうのがいいんですよ。
ちゃんと怖いけど、最終的に猫とかおばあちゃんが勝つやつ。
人間は猫とおばあちゃんに勝てないってのは当たり前ですよねぇ?」
コメント欄には、猫最強、おばあちゃん最強、などと流れていく。
新スタジオの演出も好評だった。
アバターが現実の椅子に腰かけるように見えたり、机の上のカードを取るような動作をしたりすると、そのたびに視聴者が反応する。
技術スタッフもほっとしたように頷いていた。
多少の遅延や足元のめり込みはあったが、初回としては十分だった。
怜司も、表向きの問題はないと判断していた。
音声は正常。コメント欄も正常。
モデルの挙動も、多少の揺れはあるが想定範囲内。
合成レイヤーも安定している。
このまま終われば、成功と言っていい。
そう思った頃、一件の投稿が読まれた。
それは、他の投稿に比べると短かった。
ライバーは手元の表示を少しだけ見て、首を傾げる。
アバターも同じように首を傾けた。
現実のスタジオにいる電子の身体が、青い照明の中でわずかに動く。
「えーと、次。これは……短いね。じゃあ読みます」
彼女は少しだけ声を落とした。
演出というより、文章の短さに合わせた自然な読み方だった。
「昔、親戚の家の離れに泊まった時の話です。
夜中、窓の外から誰かに見られてる気がして、布団の中から見ないようにしていました」
「朝になって、そこには誰もいませんでした。
ただ、障子の隙間に、外から押したみたいな指の跡が残っていました」
コメント欄がゆるく反応する。
『普通に怖い』
『やめて』
『障子の指跡は嫌』
『見ないの偉い』
ライバーは「こういうの苦手」と言いながら、続きへ目を落とした。
「その家はもう取り壊されたそうです。でも、母が言うには――」
そこで、彼女は一拍だけ止まった。
怜司は、音声波形を見ていた指を止めた。
何かが変わったわけではない。
ノイズはなく映像も乱れていない。
コメント欄の流速も正常範囲だ。
けれど、読む前のわずかな間に配信画面の中の空気が少しだけ薄くなったように見えた。
ナニカが引っ掛かった奇妙な例の感触。
ライバーは、末尾を読んだ。
「まだ、見ているそうです」
コメント欄が一瞬だけざわついた。
『え』
『やめろ』
『急にガチっぽい』
『まだ見ている?』
『見てるって誰が』
『このスタジオで読むなw』
ライバーも、さすがに少し肩をすくめた。
「いや、最後急に温度変えるのやめてもらっていいですか。
こわ。これ送ってきた人、今度から最後に“でも猫だった”ってつけてください。義務ですよ!」
コメント欄はすぐに笑いへ戻った。
『でも猫でした』
『猫が障子を押した』
『猫なら仕方ない』
『猫は見ている』
『猫怪異最強説』
ライバーはその流れに乗り、わざとらしく胸を撫で下ろす動作をした。
電子の身体が現実の机の横で少し大きく動き、合成された影が床の上で揺れる。
「はい、これも猫ということで解決しました。次いきまーす。次は怖くないやつにしてね! お願いだから」
配信はそのまま続いた。
何も起きなかった。少なくとも、その場では。
怜司は、該当投稿のタイムスタンプだけを控えた。
何かが混じったと断定できる材料はない。
ただ、読まれた瞬間に少しだけ嫌な感じがしのだ
それだけだ。
普通の業務なら、記録するほどでもない違和感だった。
それでも彼はメモを残した。
『二十三時十四分頃、視聴者投稿「まだ、見ているそうです」。現時点で異常なし』
異常なし。
そう書くしかなかった。
実際、配信は最後まで無事に終わった。
ライバーは、少し怖がったふりをしながらも明るく締めた。
「はい、ということで、本日の“ちょっと不思議な話”配信でした。
みんな、ちゃんと寝られるー? 私は無理かもしれません……」
「ですが新スタジオなのでスタッフさんもいて最強です。
帰り道もマネージャーさんと帰りますから安心!」
コメント欄が笑い、労い、次回を期待する言葉で流れていく。
『おつかれさま』
『新スタジオよかった』
『怖すぎなくて楽しかった』
『またやって』
『猫怪異回だった』
『おつ〇〇』
エンディング画面が流れ、配信は終了した。
スタジオのモニターに表示されたライブ状態が切れ、コメント欄も停止する。
技術スタッフが配信終了を確認し保存処理に入る。
ライバー本人はモーションキャプチャエリアから戻り、画面の中ではなく現実の身体でスタッフたちへ頭を下げた。
「ありがとうございました。
新スタジオ、すごかったです。ちょっと怖かったけど、楽しかった」
「お疲れさま。初回にしてはかなり良かったよ」
槙野がそう言うと、彼女はほっとしたように笑った。
「よかった。途中で椅子に足めり込んでましたよね?」
「そこはあとで技術が直す」
「やっぱりめり込んでたんだー! いすのなかにいる、って感じですねー!」
若手スタッフたちも笑った。
配信は成功だった。
視聴者の反応もよく、新スタジオの評判も悪くない。
軽いホラー雑談としてもちょうどいい塩梅で、過度に怖がらせず、危険な行為も促していない。
企画としては合格点だった。
ライバーはマネージャーとともに帰り支度をし、スタジオを出た。
ドアの前で振り返り、明るく手を振る。
「お先に失礼します。みなさん、片づけありがとうございます。
帰り道、後ろ見ないで帰りますね」
「そこは見てくれ。普通に安全確認しろ」
槙野の返しに、彼女は笑った。
「現実的すぎるぅ!」
その笑い声を最後に、彼女は廊下の向こうへ消えていった。
彼女は巻き込まれなかった。
その夜、彼女の部屋に何かがついていくこともなかった。
帰宅後、少し怖かったとSNSに書き、翌日には別の話題へ移っている。
後にこの夜が社内の分岐点として語られるようになっても、彼女自身はその中心にはいない。
恐らく彼女の波長には引っかからなかったのだろう。
パズルのピースと同じだ。
彼女の型には嵌らなかった、それだけだ。
狙われたのは、配信者ではなかった。
配信が終わった後に残った、裏方たちだった。
スタジオにはさっきまでの熱が残っていた。
無数の感情の残響と言っていい。
カメラを通しここには数万の思念が飛んできていたのだ。
コメント欄の勢いや笑い声。
怖がる演技に新しい技術への高揚。
画面の向こうから向けられた無数の視線。
読まれた投稿に押し流された一文。
それらが、照明の落ち始めた空間に薄く沈んでいる。
配信後のスタジオというのは、いつも少し不思議な場所だった。
まるで放課後の学校の様に感じる。
つい数分前まで、そこは何千、何万という人間の視線が集まる舞台だった。
画面の中では明るく、コメントが流れ、電子の身体が動き、声と笑いが弾けていた。
だが配信が切れた瞬間、その熱は急に消える。
残るのはケーブル、照明、机、モニター、片づけをするスタッフの靴音だけだ。
祭りの後にも似ていた。
騒がしかった場所ほど、終わった後の静けさが濃くなる。
槙野は、現場責任者として新スタジオに残った。
若手スタッフが三人、技術担当が二人。
全員、配信成功の安堵で少し気が緩んでいた。
もちろん仕事は残っている。
照明を落とし、カメラの電源を切り、マイクを片づけ、現実の小道具を所定の位置へ戻し、合成システムのログを保存する。
「カメラ二番から落として」
「はい」
「合成レイヤーのログ、念のため保存しておいてくれ。初回だし、あとで確認する」
「了解です」
「椅子へのめり込み、どのへんだった?」
「中盤の怖い話三つ目くらいです。あと終盤で一回、足元が滑ってます」
「やっぱりな。次までに直そう」
槙野の指示に、スタッフたちは慣れた動きで応じた。
怖い話の配信をしていたとはいえ、現場はすっかり通常業務へ戻っている。
先ほどまで画面の中にいた3Dアバターも今は消えていた。
現実のスタジオには、机と椅子と小道具だけが残っている。
別フロアでは、久我が簡単な報告を受けていた。
「新スタジオ初回、反応は良好です。
大きなトラブルなし。SNSの初動も悪くありません」
「よかった。切り抜きの確認は明日でいい。今日は遅いから、現場は早めに上げろ」
「槙野さんが片づけを見ています」
「彼に任せておけば大丈夫だろう」
久我はそう言って資料を閉じた。
その時点では彼もまだ何も知らなかった。
配信が無事に終わり、ライバーが帰り、視聴者も離れ、社内の人間がそれぞれ日常業務へ戻っていく。
会社としては、ただ一つの企画が成功した夜だった。
アーカイブ管理室で、怜司は配信データの一次確認を始めていた。
音声、映像、コメントログ、AR合成の記録。
新スタジオ初回ということもあり、通常より細かく確認する。
機材トラブルはなかった。コメント欄も大きな問題はない。
読まれた投稿の中に実在の場所や個人を特定する危険なものもなかった。
ただ、一件だけ、怜司はタイムスタンプをもう一度見た。
どうにもこれが引っ掛かる。
二十三時十四分。
「まだ、見ているそうです」
それ以上の異常はない。
波形も正常で映像も正常。
コメント欄も一時的にざわついただけで、その後は猫の話に流れている。
危険と断定する根拠はどこにもない。
むしろ、これを過剰に気にする方がよくない。何もないものに意味を与えることになる。
怜司はしばらく画面を見つめ、それから確認メモを閉じた。
配信は終わっている。
そう判断した。
少なくとも、その時は。
スタジオでは片づけが続いていた。
照明の半分が落ち、現実のスタジオは配信中よりずっと平坦に見えた。
カメラを通して見ると幻想的だった青い影も、肉眼ではただの調光されたライトにすぎない。
小道具のランタンも電池式で、古びた木箱も美術スタッフが加工したものだ。
画面の中では雰囲気を作るが裏側を知っているスタッフにとっては、どれも現実の物だった。
「こっちのケーブル巻いたら終わりです」
「三番カメラ落ちました」
「サブモニター、まだついてます?」
「確認します」
若手スタッフの一人が、スタジオ奥のサブモニターへ近づいた。
そのモニターには現実のスタジオ映像が映っていた。
片づけ中の槙野たちが映っている。
照明は落ちかけ、机の上には小道具が残り、スタッフの一人がケーブルを巻いている。
普通の監視映像に近い、配信後の確認用画面だった。
ただし、その奥にさっきまで配信で使っていた3Dアバターが立っていた。
若手スタッフは最初それを見て、すぐには反応できなかった。
スタジオ奥、青い照明の残る壁際。
そこに、ライバーのキャラクターが立っている。
淡い色の衣装、配信中と同じ髪型、同じ輪郭。
だが、現実のその場所には誰もいない。
肉眼で見れば、そこには空の椅子と壁があるだけだ。
モニターの中にだけ彼女がいた。
存在しないナニカをカメラは捉え、アバターを投影している。
スタッフは瞬きをした。
消えていない。
合成レイヤーの残りかと思った。
配信終了後にモデル表示が切れていないだけだと。
初回配信だ。多少の終了処理ミスはある。そう思おうとした。
だが、モニターの中のアバターは、ゆっくりと首を傾けた。
配信中の彼女の動きではなかった。
いや、そのまま首が真横に折れ曲がった。
キャプチャーは正確にナニカの動きを捉えている。
角度が深すぎる。
笑顔が固定されている。
瞬きがない。
目のハイライトが黒く抜けている。
足を動かしていないのに移動している。
スタッフの喉が、ひゅ、と細い音を立てた。
「……槙野さん」
声が震えた。
槙野はケーブルを束ねながら振り返った。
「何だ」
「モデル……落ちてないです」
「あ?」
震えながらスタッフはモニターを指さした。
「サブモニターに、まだ映ってます」
槙野は眉を寄せモニターへ歩いた。
その時点で、配信は終わっていた。
ライバーは帰って視聴者もいない。
コメント欄も止まっている。
3Dモデルも、システム上では非表示になっているはずだった。
だが、アバターが立っている。
キャプチャーカメラは今も勝手に動いて見えないナニカを正確に読み込んでいる。
首を真横に90度倒し、一度も瞬きしないアバターは槙野たちを見ていた。