放送事故ではありません。 作:宇宙きのこ(ヴァーチャル)
最初に止まったのはコメント欄だった。
監視カメラの画面の中で、壊れた三Dアバターの皮膚を這うように流れていた文字列が、ひとつ、またひとつと途切れていく。
さっきまでそれは、配信画面の端を流れるコメントのように絶え間なく走っていた。
『҉̨̛͍̝̮̠͙͊͒͌̆̒̉̄ま҈̨̬̗͕̯̏̃̈́̿͐̑̕ͅだ̴̰̆』҉̛͙͎̬̙͙͉͕͊̓͐͆͊͑̒̈͜『̸̢̜͖͐̏͑͗͡終̸̧̛̙̫̪͉̙̤͈̂͗̀͗͒̆わ̶̢̝̬̌̽͆͂͐̅̒̏͞っ̸̢̩͖̗̀͆͡て̸̢͚͎̮͕̯҇̅̍͒̉͋̑な̵̨̰̳̠͎̀́͆͞ͅい̶̧͍̯̠̜͍͕̲̈̇̓͠』̶̧̛̦͎̦̙̩̲̔͛͌͌̏̂『҈̛̗͈̠͇͔̙̎̉̓̆͢読̸̧̪̭͈̮̲̘̞̈͆́͡ん҉̢̝̞͖̝̂̍̕だ̸̢̫̭̘̤̥̃̉̀͛̈͑͝』҈̰̟̠̱̟̍̄͜͝ͅͅ『҉̡̰̝̲͍͇͎̜̝́͌̕こ҉̨̳͍̱̪̥҇̓̎̂̍̓̇っ̸̧͖̩͓̰̩̣̀̀̂̄̌͡ち̵̡̗͉̜̞͈͇͐́͠を̴̬̆̆̈̀見̷̢̗̭̬҇̊̀͊͆̂ͅた̸̧͍̖͎҇̍̅͑́̊』̵̨̙͍̩̳̦̒̍̾̂͛͂̕
̵̨͚̘͊̒̐͡
読まれた投稿の断片と、そこへ群がった視聴の熱が混ざり合い、文字というより虫の群れのようにアバターの輪郭を覆っていた。
それが、止まった。
ぴたりと、ではない。
最初は速度を失い、次に形を失い、最後に文字としての意味を失っていった。
『まだ』という文字は途中で引き伸ばされ、『ま』と『だ』の間にノイズを挟み、やがて黒い点のように滲んで消える。
『読んだ』は衣装の胸元を横切ろうとして崩れ、ただの短い線になった。
『こっちを見た』は顔の輪郭に絡みついたまま、何度か瞬くように明滅し、それから画面のノイズに飲まれていった。
怜司は扉の前で、何かが書き連なった白紙を見下ろしていた。
鈴の音はもう鳴らない。
帰りのベルは既に終わっている。
それでも、先ほどの余韻だけが、扉の周囲に薄く残っているようだった。
ちりん、という小さな音が鈴ではない何処かから響いた。
祈祷とも儀式とも呼べない、ただ場の終わりを告げるためだけの音。
それは派手に何かを打ち砕くものではなく、むしろ事務的な終了通知に近かった。
配信は終了済みです。
視聴者はいません。
コメントは保存されません。
モデルは表示されません。
あなたに使える器はありません。
ここは、もう放送中ではありません。
それだけだった。
だが、それで十分だった。
スタジオ内の大型モニターに映っていたコメント欄は、最後に一度だけ白く乱れ、それから完全に停止した。
文字の残像が画面に焼きついたように数秒残り、やがてただの黒い反射へ戻る。
スピーカーから漏れていた、紙を爪でなぞるようなノイズも薄くなっていった。
最初はまだ耳の奥に残るようなざらつきがあったが、それも空調の低い音に紛れて気づけば消えていた。
合成映像の中のアバターが崩れていく。
それは、人が倒れるような崩れ方ではなかった。
表示されたモデルが、基礎から読み込みを失っていくような崩壊だった。
髪の房がポリゴンの影へほどけ、衣装のラインがノイズになり、腕の関節がぐにゃりと歪んだまま輪郭を保てなくなる。
壊れた笑顔だけが最後まで残っていたが、それもやがて表情パラメータを失ったように平板になる。
目の中の空洞も、口角の吊り上がりも、意味を持たない面へと薄れて消える。
画面の中に残ったのは、空のスタジオ映像だった。
非常灯の赤い光に出口付近で固まるスタッフたち。
その前に立つ槙野。
片づけ途中のケーブルと、机と、椅子と、照明。
そこに、もうアバターはいない。
久我誠一は、監視モニターの前でようやく息を吐いた。
いつから止めていたのか、自分でもわからなかった。
背中にじっとりと汗が滲んでいる。
手のひらは冷たく、指先だけが強張っていた。
彼は経営者として今までいくつもの危機を処理してきた。
炎上、契約違反、タレントの失言、
スタッフの退職、案件先からの急な条件変更。
胃が痛くなるような夜はいくらでもあった。
だが、監視カメラ越しに社員の背後へ立ついるはずのない3Dアバターを見る夜はこれまで一度もなかった。
久我は画面から目を離せなかった。
怜司には見ている人数を減らせと言われた。
だから録画も止め、他のカメラも切った。
残したのはこの一台だけだ。
社長として、中にいる槙野たちの安否を確認するための最低限。
そう自分に言い聞かせていたが、それが正しい判断だったのかどうかはわからない。
ただ、見なければならないと思った。
社員が中にいて、現場責任者が中にいる。
若いスタッフたちが泣きかけている。
その状況で、自分だけが画面から目を逸らすことはできなかった。
俺は社長だと何度も自分に言い聞かせた。
スタジオの電子錠の表示が変わった。
一度だけ紅く光り、緑色に。
今まではどうやら内側と外側では表示がおかしくなっていたらしい。
空いているのに閉まっている問題の正体はそれだった。
電子錠が本来ありえない挙動をし勝手に閉まっていたのだ。
管理室のスタッフが小さく声を上げる。
「解除します」
だが、その瞬間だった。
監視カメラの映像がふっと暗くなった。
完全に落ちたわけではない。
空のスタジオ映像の上に黒い影のようなものが滲む。
久我は思わず身を固くした。
今、終わったはずだ。
怜司の処理で、アバターは消えた。
コメント欄も止まった。スピーカーのノイズも消えた。錠も解除されたはずだ。
それなのに、画面の奥から何かがせり上がってくる。
それは、もう3Dアバターではない。
顔のない顔だった。
画面いっぱいに、輪郭だけがある。
元のライバーの可愛らしいモデルの残骸。別の配信で使われたかもしれない複数のモデルの目や口の残像。
コメント欄の文字。さっき読まれた投稿文の断片。
配信中に向けられた視線と、怖がったコメントと笑いで押し流された一瞬のざわめき。
そういうものが粘土のように混ざり合い、顔に似た場所を作っている。
目はない。
けれど、見ている。
口はない。
けれど、何かを言おうとしている。
久我は、画面の前で硬直した。
それは幽霊ではなかった。少なくとも、彼がそれまで世間話として聞いてきた幽霊とは違う。
白い服の女でも、血まみれの影でも、古い写真に写る顔でもない。
配信という場で発生した熱と視線と記録が、電子の器を失いながらなおも形を保とうとしているものだった。
それが小さく残した。
『チッ』
画面が落ちた。
真っ暗になった。
久我は、しばらく動けなかった。
舌打ちされたことだけは判った。
どうやら死んでもそういう感情だけは残るらしい。
それ以外は何もわからない。
わからないことが、ひどく息苦しい。
あれはなんだ? どこからやってきた?
外部からのハッキング?
もしくは内部の犯罪?
もしくは───。
数秒後、スタジオの扉が開かれた。
廊下にいた怜司の耳に、かちり、という軽い音が届く。
それはただの機械音だったが、そこにいた全員が一斉に扉へ視線を向けた。
怜司は白紙を拾い上げ、鈴を布包みに戻した。
顔色は変わっていなかったが、目だけは油断なく扉を見ていた。
槙野が内側からドアを押した。
開いた。
最初に出てきたのは若手スタッフだった。
顔は真っ青で、唇が震えている。
彼は廊下に出た瞬間に膝をつきかけ、近くにいた別のスタッフに支えられた。
次に出てきた技術担当は手に持っていたケーブルをまだ離せずにいた。
指が強く食い込んでいて白くなっていた。
最後に、槙野が出てきた。
普段の彼なら、こういう時でも何か一言は言ったはずだった。
「何だ今のは」「ふざけた機材だ」「全員休憩しろ」くらいは言えたかもしれない。
だが、この時の槙野は何も言わなかった。
肩がわずかに上下している。顔色は悪く、額には汗が滲んでいた。
目は廊下の明かりに少し眩しそうに細まり、それから怜司を見た。
何かを問おうとしたのだろう。だが、言葉が出ない。
怜司は短く確認した。
「怪我人はいますか?」
槙野は、喉を一度鳴らしてから答えた。
「いない」
「気分が悪い人は」
「全員だ」
その声に力はなかった。
若手スタッフの一人が、その場で泣き出した。
声を殺そうとしていたが、肩が震え、呼吸が乱れている。
彼にとっては、職場で経験するにはあまりにも異質な夜だった。
配信者のキャラクターが肉眼では見えないのに映像の中だけで動き、槙野の背後に立ち、扉はあかない。
挙句には誰かの声ともつかないノイズが室内を満たす。理屈を考える余裕などなかっただろう。
怜司はその若手へ近づきすぎなかった。
今は余計な説明をしない方がいい。
言葉にすると奇妙な記録が残る。
最も望ましいのは「アレは何だったのだろうか」と思いつつ記憶の中に埋もれてしまうことだ。
「今日は帰してください。記録は最低限で、見たものを話し合わないように」
怜司がそう言うと、槙野はかすかに眉を動かした。
「話し合わない?」
「はい」
槙野は何か言いたげだったがやがて頷いた。
彼は今夜初めて怜司の言葉に逆らわなかった。
久我が廊下へ来たのはその数分後だった。
彼は足早に歩いてきたが、槙野たちの顔を見るなり足を止めた。
監視カメラ越しに見ていた光景と、現実に廊下へ出てきた社員たちの姿が重なる。
泣いている若手。壁に背を預ける技術担当。何も言えない槙野。
誰も死んでいない。怪我もないようだ。
それだけで、奇跡のように思えた。
「槙野」
久我が声をかける。
槙野は振り返りいつものように「大丈夫です」と言いかけたのだろう。
だが、口がわずかに動いただけで、声にはならなかった。
彼は自分でもそれに気づき苦々しげに顔を歪めた。
「……全員、出ました」
それだけを言った。
久我は頷いた。
「よくやった」
その言葉に槙野は少しだけ目を伏せた。
久我の脳裏には、監視カメラに吐き捨てられた舌打ちが残っていた。
少なくともお行儀よく旅立ったとは思えない。
アレは諦めている態度ではなく、SNSに出没する粘着質な悪意さえ感じ取れた。
次にまた来たらどうなる? 誰が狙われる?
自分か、スタッフか、配信者か。
久我は改めて怜司へ視線を向けた。
怜司は、もういつもの社員の顔に戻りつつあった。
扉の前に置いた白紙も、鈴も、すでに見えない。
彼は管理室の人間へスタジオの全システムを一時停止するよう指示している。
声は低く事務的で、今しがた何かをおい祓った人間にはまるで見えなかった。
何事もなかったようにしている。
それが久我にはかえって恐ろしかった。
とるに足りないバグを修正した時の様な気楽さだ。
この男はこういうものを知っていた。
そして、おそらく初めてではない。
手慣れている、それに尽きる。
その事実は監視カメラに映った異常と同じくらい重かった。
その夜の記録は表向きには新スタジオのシステム障害として処理された。
電子錠の誤作動。照明制御の異常。
通信不良。合成システムの表示不具合。
スタッフ数名の急性ストレス反応。
新スタジオは原因確認のため一時使用停止。
そういう言葉で報告書は整えられた。
誰も「3Dアバターが映像の中だけで動いた」とは書かなかった。
誰も「コメント欄が皮膚のように流れていた」とは書かなかった。
誰も「監視カメラに『久我』と表示された」とは書かなかった。
久我が書かせなかった。
書けば記録に尾残る。残れば読まれる。
読まれれば、また何かがそこへ戻ってきて、名前が付けられて畏れられる。
その発想が自分の中に生まれたこと自体、久我にとっては奇妙だった。
前日までの彼なら、そんなことは考えなかったはずだ。
記録は正確であるべきだ。
原因究明のためには、発生した事実を残さなければならない。
経営者としては当然の判断である。
だが、昨夜の画面を見た後ではその当然にヒビが入っていた。
理解できない脅威を目の当たりにし、法律ではどうしようもないモノを見てしまったのだから。
翌日、久我は怜司を呼び出した。
場所は社長室ではなく、小会議室だった。
大きすぎる部屋を使う気にはならなかった。
身をもって体験した槙野も同席している。
彼は昨夜より顔色こそ戻っていたが、普段より口数が少なかった。
腕を組み、椅子に深く座っている。
いつもなら若手に飛ばすような軽口もない。
怜司は、呼ばれることを予想していたような顔で入ってきた。
少し無愛想なアーカイブ管理に強い編集担当としての顔で。
見た目だけなら、昨日までと何も変わらない。
久我は、しばらく彼を見てから口を開いた。
「説明してくれ」
怜司は、すぐには答えなかった。
窓の外では、昼の街が普通に動いている。会社の中にもいつもの音があった。
別のライバーの収録準備、マネージャーの電話、スタッフの足音。
昨夜あんなことがあっても、会社は動いている。
動かなければならないのだ。
怜司は椅子に座り、少しだけ目を伏せた。
「深追いしない方がいいです」
最初の言葉は、それだった。
槙野の眉が動く。
「説明しろと言っている」
「説明できる部分はあります。ですが、正体や由来を確定させるのは勧めません」
「何でだ」
「記憶にそういうものとして残るからです」
怜司は、淡々と言った。
「名前をつける。由来を探る。
誰が送った投稿か調べる。あれが何だったのかを社内で話し合う。
そういうことをすると、余計に残ります」
「今回のものは、おそらく配信で読まれた投稿が縁です。ただ、それ以上は断定しない方がいい」
久我は、机の上で指を組んだ。
「投稿者に悪意があったのか」
「不明です」
「本物の体験談だったのか」
「不明です」
「では、昨日のあれは何だ」
「それも不明です」
槙野がわずかに苛立ったように息を吐いた。
「不明ばかりだな」
「はい。知るべきではありません」
怜司は否定しなかった。
同時に踏み込むな、忘れろという心からの警告を飛ばすだけだ。
「ただし、対策はできます」
その一言に、久我の目が細くなる。
怜司は続けた。
「記録は機材トラブルと配信事故で十分です。具体的な映像や文言は残さない方がいい」
「昨夜のスタッフにも、見たものを細かく話し合わないよう伝えてください。
怖がらせず、面白がらせず、絶対に固有の名前をつけさせないことが大事です」
「名前をつけると、どうなる」
「呼べるようになります」
会議室の空気が、少しだけ冷えた。
「呼べるようになれば、
槙野は、昨夜のスタジオを思い出したのだろう。
顔をしかめ、腕を組み直した。
あんなのがまた出てくる? 冗談じゃない。
久我は質問を変えた。
「君は、以前からこういうことを知っていたのか」
「多少は」
「家の関係か」
怜司は、少しだけ沈黙した。
久我はそこで深入りしなかった。聞こうと思えば聞ける。
社長として社員が業務中に特殊な対応をした以上、背景確認は必要だとも言える。
だが、昨夜の出来事がまだ生々しく残っている今、それを無理に掘ることが得策とは思えなかった。
怜司はやがて、短く答えた。
「アレらは
それ以上は言わなかった。
久我は現実主義者だった。
だからこそ、ここで「信じる」必要はなかった。
幽霊がいるのか。怪異なのか。霊障なのか。呪いなのか。
そういう分類は、今の彼にとって重要ではない。
昨夜、社員がスタジオに閉じ込められた。槙野たちはおそらく死にかけた。
監視カメラに、説明できないものが映った。
怜司の手順で、それは収まった。
ならば、それは会社として対策すべきリスクである。
火災や漏電や不審者と同じだ。
原因の全容がわからなくても、再発防止策は作らなければならない。
「似たものが出た場合は」
久我が言った。
怜司は顔を上げる。
「早めにこちらへ回してください」
「こちら、とは君か」
「はい。最初は私で構いません」
「現場判断で機材トラブルとして処理してはいけないものを、どう見分ける」
「いくつか基準を作れます」
怜司は指を折るように、静かに挙げていった。
「配信終了後に何故かログが増える。録画されていないはずの映像が残る。
コメント欄に存在しない文が出る。モデルやアバターが読み込みなしで動く」
「配信者本人がいないのに、本人の動作や声に似た反応がある。
スタッフやライバーが、同じ箇所に違和感を訴える。視聴者が特定の現象に名前をつけ始める」
槙野は黙って聞いていた。
「それが一つだけならまず普通に調べてください。機材、疲労、設定、外部音。
大半はそれで終わります。
ですが、複数重なったら私へ回してください。できれば、社内で騒ぐ前に」
「表向きには」
「配信事故。機材不具合。音声映像異常。
スタジオ安全確認。配信者心理負荷。そういう言葉で十分です」
久我はしばらく考えた。
怜司の言葉は奇妙なほど現実的だった。
まず彼は霊能力者のように振る舞わない。
祓ったとも、倒したとも言わない。
むしろ、記録を減らせ、名前をつけるな、機材事故として扱え、と言う。
オカルトを信じてほしい人間の態度ではなかった。
だからこそ、久我には受け入れやすかった。
これは信仰ではなく業務フローだ。
「槙野」
久我が声をかける。
槙野は、低く返事をした。
「はい」
「現場で妙な報告が上がった場合、鳥越君へ回すルートを作る。
表向きの分類は、今言った通りでいい。
配信事故、機材不具合、安全確認。ライバー本人には必要以上に怖がらせるな」
「了解です」
槙野は短く答えた。
その声には、反発がなかった。
彼もまた、理屈で納得したわけではない。だが現実は何と言おうと現実だ。
昨夜、スタジオの中にナニカがいたのは間違いない。
自分の肉眼には見えないのに、映像の中では肩越しに壊れた笑顔が覗き込んでいた。
その現実を、彼は身体で覚えてしまっている。
ここまでやられて集団ヒステリーという言葉に逃げるつもりはなかった。
何よりまた来るかもしれないというのが最も恐ろしい。
「鳥越」
槙野が、初めて直接名前を呼んだ。
「昨日のやつは、また来るのか」
怜司は少しだけ考えた。
「同じ形では、来ないと思います」
「同じ形?」
「はい。あの時にとっていた姿は追い出しました。ただ、手を変えてくる可能性はあります」
当たり前だ。
死んでないし、ましてや逮捕もされてないのだから。
絶対に警察には捕まえられず、透明で、いつ来るか判らない犯罪者と思えばその厄介さがわかるだろう。
久我の脳裏に『つぎは』という文字が浮かぶ。
彼はそれを怜司に言うべきか迷った。
監視カメラの最後に映った、顔のない顔と、字幕のような一言。
録画は止めていた。記録には残っていない。見たのは自分だけだ。
言えば、言葉になる。
言葉になれば、残る。
久我は、しばらく迷った末に言わなかった。
ただ彼は決めた。
二度とこの手の事は軽く扱わない。
その日から、株式会社〇〇〇〇には非公開の特殊確認用ルートができた。
もちろん、そんな名前で社内文書には残らない。
表向きには「配信安全確認フローの改訂」とされた。
異常音声、映像乱れ、アバター挙動不具合、スタジオ内トラブル。
配信者の強い心理的負荷。
そうした報告が一定の条件を満たした場合、まず通常の技術確認を行う。
それでも説明がつかないものは、アーカイブ管理室の鳥越怜司へ回す。
ただそれだけの仕組みだった。
だが、裏では意味が違う。
妙なものは、怜司に回す。
騒がせないし面白がらせない。
名前をつけさせず、切り抜かせない。
記録は必要最小限にする。
久我は、怪異を信じるようになったわけではない。
少なくとも本人はそう思っていた。
彼はその後も、会議で霊だの呪いだのという言葉を使わなかった。
経営者として社員にもライバーにも、いたずらに恐怖を与えることはしなかった。
外部へ説明する時も、あくまで安全管理、機材確認、配信事故防止という現実の言葉を使い続けた。
だが、信じるかどうかとは別に、対策すべき危険として扱うようになった。
槙野も同じだった。
彼は霊を信じたわけではない。怪談好きになったわけでもない。
むしろ、そういう話題を軽く扱うライバーやスタッフには以前より厳しくなった。
心霊企画を出す者には、場所の許可、同行人数、撤収経路、体調確認を徹底させる。
他には権利関係を細かく詰めさせた。
視聴者投稿を読む企画でも、事前チェックを増やした。
そして、ふとした時に怜司へ声をかけるようになった。
「鳥越、これ見とけ」
「音声に変なの入ってる。機材だとは思うが」
「コメント欄が妙に騒いでる。広がる前に確認しろ」
「名前をつけられそうなやつは先に潰すぞ」
怜司は、だいたい「確認します」とだけ答えた。
それで十分だった。
あの夜から会社は少し変わった。
誰も表立って語らない。
新スタジオの事故も、社内では機材トラブルとして処理された。
配信者本人にも、深い事情は知らされなかった。
彼女は後日、新スタジオの一時停止を残念がったがそれ以上は何も知らない。
知らなくていいことだ。
まさか自分のアバターが意味不明なモノのガワになっていたなど。
ただ、久我と槙野と怜司だけは覚えていた。
確かに配信は終わっていたし中の人であるライバーは帰っていた。
視聴者だって誰もいなかった。
それでも、スタジオにはまだ何かが残っていた。
現実には誰もいないのに映像の中にだけ立つ3Dアバター。
皮膚の上を走るコメント欄。誰も呼んでいないはずの『久我』という一文。
錠の向こうで部下をかばう槙野の背中。
泣き出した若手スタッフの顔。
扉の前で白紙を置き、ただ「配信は終了済みです」と告げた怜司の姿。
それらは記録には残らなかった。
だが、彼らの記憶には残った。
久我誠一は、この夜を境に怪異を信じるようになったわけではない。
ただ、信じるかどうかとは別に対策すべき危険として扱うようになった。
槙野修平も同じだった。
彼は理屈で納得したのではない。
スタジオの中で、自分と部下が死にかけたことを覚えていた。
彼らは霊を信じたのではない。
あの扉の向こうで青ざめていたスタッフの顔と、何事もなかったように配信を閉じた怜司の横顔を覚えたのである。
『こんロボ~! 今日も頑張ってやっていきますよー!』
そうして今日も配信は続く。
その輝きにあらゆるものを惹きつけながら。
あと一つ事案の書き溜めはありますので明日更新します。