放送事故ではありません。 作:宇宙きのこ(ヴァーチャル)
現地収録。
夜坂ハルトは愛され系の配信者だった。
それは歌が飛び抜けて上手いとか、ゲームの腕前がプロ級だとか
誰も真似できない奇抜な企画力を持っているという意味ではない。
彼の強みはもっと扱いやすく、そして配信者としてはひどく重要なところにあった。
空気を読むのが早い。自分に求められる役割を理解している。
ロボボは失敗を盛り上げの材料に変換するが、それとは違った方向性の才能だった。
コメント欄の流れがどこで笑いを欲しがっているのか、どこで少し真面目な返しを待っているのか。
どのタイミングで自分が怖がれば盛り上がり、どのタイミングで茶化せば場が軽くなるのか。
夜坂ハルトは、そのあたりの判断がうまかった。
ゲーム実況では軽口が立ち、雑談では視聴者との距離が近い。
少し調子に乗っているように見えて、超えてはいけない線の手前ではしっかりと真面目に引ける。
人々が思う「こうなったら面白いなぁ」という展開しっかり演出できる男だった。
企業所属の男性Vとしては、実に使いやすいタイプだった。
登録者数は四十万人前後。
活動歴は四年を超え、炎上らしい炎上もない。
大手の看板ではないが中堅としては十分にやってきていた。
特にホラーゲームでは彼の名前はよく出た。
怖がるのがうまく叫ぶタイミングがうまい。
更に歌も得意というのもあり声はとても伸び、聞いていると清々するほどだ。
それでいて最後は必ず笑いに戻せる。
恐怖をそのまま重く残すのではなく、自分の情けなさやツッコミで処理できるのだ。
視聴者が「怖かったけど楽しかった」と思えるところへ着地させる。
後味が悪いモノを残さない。
そこを彼は意識して放送していた。
「いや無理無理無理、今のは反則でしょ!
こっちは普通に鍵探してただけなんですよ!!」
「すいませんすいません!! タッチはNGで!! あぁー!! 困りますぅっ!!」
そんなふうに、怖がりながらも口は回る。
コメント欄は笑い、切り抜きは伸び、ファンは彼のビビり芸を愛した。
夜坂ハルト自身も自分の強みを理解していた。
怖がって大仰に叫ぶ。
けれど、最後は笑いにする。
人々はそれを求めている。
それが大きな数字になる。
その感覚は、長く配信者を続けるうちに少しずつ身体へ染み込んでいた。
最初から危ない橋を渡るつもりがあったわけではない。
悪意もない。
むしろ彼は現実の誰かを傷つけるような企画や、迷惑行為まがいのネタにはかなり慎重な方だった。
スタッフやマネージャーの注意も聞くし、ファンが暴走しそうな話題にはブレーキを踏める。
ただ、慣れていた。
怖いものを、安全なエンタメとして扱うことに。
それは彼だけではなく現代の全般に言える事だった。
世界には娯楽が溢れ、その中に「恐怖」というジャンルも含まれているのだ。
本当の意味では絶対に安心できる安全地帯から一時的なスリルを味わう。
それがホラーというジャンルの大前提だ。
恐怖の商品化。
まさにそれに尽きた。
画面越しの暗い廊下。急に鳴る音。ゲームの中の怪物。
コメント欄の「後ろ見て」など。
そういうものへ怯え、笑い、叫び、再生数へ変えることに慣れていた。
恐怖は商品になる。恐怖は切り抜きになる。恐怖は視聴者との共有体験になる。
そして、共有された恐怖は視聴者との一体感を大いに煽れる。
だが世の中にはまだまだ理解が及ばないものが多々ある。
21世紀の文明の火は全ての闇を照らし出せたわけではない。
その当たり前の事実を、夜坂ハルトも、彼の所属する▲▲▲▲社もまだ理解していなかった。
初夏に入る少し前、▲▲▲▲社の会議室で恒例の季節企画が話し合われた。
梅雨前後から夏にかけて、ホラー企画は数字が取りやすい。
怪談、ホラーゲーム、視聴者投稿、肝試し風の外ロケ。
どれも新しいものではないが、毎年一定の需要がある。
特に夜坂ハルトのようなリアクションが取れる配信者にとっては、手堅いジャンルだった。
企画書のタイトルは、最初からやや軽かった。
『夜坂ハルトの深夜心霊スポット現地収録』
ただし、生配信ではない。そこは会社側も慎重だった。
深夜の外ロケをリアルタイムで流すのはトラブル時の制御が難しい。
視聴者が場所を特定する可能性もある。
万一何か映った時など編集で調整することもできない。
だから収録形式だ。
場所も表向きには伏せて、何より不法侵入はしない。
管理者への許可取りも行った上でスタッフも同行する。
危険な場所には踏み込まず、映像は確認してから公開する。
資料上は万全な体制を整えていた。
▲▲▲▲社は弱小ではない。
所属タレントを無闇に危険へ放り込むような会社ではなかったし法務やマネジメントも最低限の線は見ている。
ただ、怪異というものへの認識はまだなかった。
あるのは炎上リスク、事故リスク、権利リスク、体調不良、撮れ高不足だ。
それらは現実の言葉で処理できる問題であり、その範囲でなら対策もできた。
決まったことは全て当たり前のことだった。
現地に行くが危険なことはしない。
スタッフが同行する。
編集で危ない部分は切る。
それでいて一定の話題性を確保する。
やらせも、まぁ、ちょっとだけ。
霊媒師とか、そっち系の専門家は予算の都合で呼ばない。
これは実際の幽霊にお伺いを立てるのではない。
これはエンターテイメントだという前提だ。
会議の判断はそこに落ち着いた。
夜坂ハルト本人も企画を聞いた時には少し笑った。
「いや、マジのやつじゃないですよね?
俺、ゲームの幽霊には強いですけど、現実の幽霊はちょっと……」
幽霊を信じているかどうかあいまいな言葉だった。
彼は産まれてからずっと、娯楽では見たことがあるが、本物はない。
きっと多くの人もそうだろう。
マネージャーは、資料をめくりながら答えた。
「心霊スポットと言っても、許可は取る場所です。
立入禁止区域には入りません。生配信でもないので、危なかったら切れます」
「なるほど。ちゃんと安全で怖いやつ」
「まあ、そうです」
「それならまあ、怖がればいいんですよね。喉を温めておきます」
ハルトは、いつもの調子でそう言った。
悪びれた顔ではない。仕事として受け止めている顔だった。
怖がり芸が求められているなら怖がる。
けれど現場を荒らしたり、誰かを馬鹿にしたり、危険な場所へ突っ込んだりはしない。
彼なりのしっかりとした倫理観と線引きはあった。
ただ、その線引きは人間社会へ向けたものだった。
許可を取ったか。迷惑をかけないか。
不法侵入ではないか。炎上しないか。
スタッフがいるか。建物の倒壊の危機などもないか。
もしも危険な人物がいたらどう対応するか。
それらは確かに大切だ。
だが鳥越怜司が見れば、おそらく甘いと言っただろう。
問題は合法か違法かだけではない。
そこにナニがいるかどうかである。
もっとも、その時点で怜司がこの企画を知ることはなかった。
外部事務所の収録企画であり、株式会社〇〇〇〇とは直接関係がない。
業界内で似たような企画は珍しくもなく、すべてに目を通すことなどできない。
夜坂ハルトたちは普通に企画を立て、普通に準備し、普通に現地へ向かった。
場所は郊外にある古い宿泊施設跡だった。
かつては小規模なレジャー施設に併設された宿泊棟だ。
しかし今は営業を終え、管理者の許可を取った一部だけが撮影用に使える状態になっている。
廃墟というほど荒れ果ててはいない。
窓ガラスも大半は残っており床も抜けていない。
危険箇所は封鎖されていて、立ち入り可能な範囲も決められていた。
だからこそ、会社としてはこういう企画で扱いやすかった。
許可をとれば不法侵入ではなく、現地の管理者もいる。
事前確認もできて、いざとなれば撤収できる。
しかし、見た目が安全そうであることと、そこに何もいないことは別だった。
その施設には曖昧な噂がいくつかあった。
夜になると宿泊棟の廊下の奥で足音がする。
使われていない客室の一つだけ、扉の前で声が聞こえる。
昔、そこで事故があったらしい。
誰かが見た。
誰かが聞いた。
誰かが逃げた。
まだ名前はない。
しかし認知は十分に広がっていた。
具体的な事故の詳細はぼかされている。
誰が亡くなったのか、そもそも本当に死者が出たのかも曖昧だった。
そもそも本当にあったのかさえ。
地域の噂、ネットの書き込み、古い掲示板の断片、誰かの体験談。
それらが薄く重なって、心霊スポットらしい輪郭だけを作っている。
だからこそ、便利だった
そして、だからこそここは狩り場だった。
大口をあけ、いま正に新しい獲物を求める地であった。
正体が曖昧なものほど人は想像で補う。
想像で補われるものほど視線を集める。
視線を集めるものほど形を持ちやすくなるのだ。
夜坂ハルトたちが現地へ着いたのは日が完全に落ちてからだった。
車を降りた瞬間、スタッフの一人が小さく肩をすくめた。
初夏とはいえ夜の郊外は冷える。
宿泊棟の外壁は古び、照明の少ない敷地の奥でぼんやりと灰色に沈んでいた。
周囲には虫の声がある。風もある。
だが、建物の中だけは妙に静かだった。
撮影スタッフはライトを確認し、音声担当はマイクを調整し、マネージャーが立ち入り範囲を再確認する。
現地管理者からは、封鎖された区画へは行かないこと。
老朽化している階段を使わないこと、備品には触れないことを改めて告げられていた。
ハルトは、スタッフの準備を待ちながら、少しだけ建物を見上げた。
「……思ったより雰囲気あるな」
その声には、仕事前の高揚と、ほんの少しの本音が混ざっていた。
ゲームはあくまでもゲーム。怖いのは確かだが、これはガチだ。
現実と仮想では何もかもが違う。
マネージャーが横から釘を刺す。
「無茶はしないでくださいね。
怖がりリアクションはいいですけど、本当に危ないところには行かないで」
「わかってますって。
俺、そういう線引きはしっかり守るんで」
ハルトは苦笑した。
それはそうと、この建物は……想像よりずっと“ガチ”だ。
見ているだけで怖くて、同時に早く中に入りたいと思ってしまった。
カメラが回る。
彼はすぐに配信者の顔になった。
「はいどうも、夜坂ハルトです。今日はですね、言っていいのかこれ。
まあ具体的な場所は言えないんですけど、ちょっと曰く付きの場所に来ております」
ライトに照らされた彼の表情は、やや強張っていたがそれも含めて絵になっていた。
あとで編集され、テロップが入る。
そこにコメント風の演出が足されれば、視聴者はきっと笑うだろう。
怖がっている。
けれど、まだ余裕があるくらいでいい。
余りにガチすぎる恐怖の体験などこの世界では求められていない。
軽くその場で震え、数日間は怖かったなぁと思いつつ一週間もすれば忘れられる。
そのくらいのバランスが配信としてはベストなのだ。
一週間もすれば別の切り抜きやまとめ情報などが世間に出回っているのだから。
「事前に言っておきますが、許可は取っております。不法侵入ではありません。
あと危ないところには行きません。僕は危険手当てで稼ぐ気はありませーん」
スタッフの一人が小さく笑う。
ハルトはそれを拾って振り返った。
「今スタッフさん笑いましたね。つまり安全ということです。
スタッフさんが笑えるうちは安全。スタッフさんが笑わなくなったらもう帰ります」
その言葉は後で少し嫌な形で思い出されることになる。
収録は入口付近から始まった。
建物の中は、外よりさらに空気が重かった。
使われなくなった施設特有の、埃と湿気と古い木材の匂いがある。
ライトを向ければ壁も床も見える。
危険なほど崩れてはいない。
だが、奥へ続く廊下は光が届く範囲の先で急に濃く沈んでいるように見えた。
不自然に光の通りが悪いというべきか。
ハルトは、小声になりすぎないよう意識しながら進んだ。
「いや、普通に怖いですね。
ゲームと違ってBGMがないのが一番怖い。無音ってこんなに圧があるんだ」
音声担当が少し後ろを歩き、マネージャーと撮影スタッフが横につく。
複数人がいて、ライトもある。カメラもしっかりと回っている。
それだけで人間はかなり強くなれる。
最初の異常は小さかった。
廊下の奥で、足音のようなものがした。
こつ。
一度。
全員が止まる。小石や水滴が落ちた音ではなかった。
ハルトは反射的に目を見開いたが、すぐに口を動かした。
「待って待って待って、今のはスタッフさんですよね」
スタッフたちは顔を見合わせる。
「いや、誰も動いてないです」
「やめてもらっていいですか、そういう連携プレー。
このタイミングで“誰も動いてません”は、ホラー番組のやつなんですよ」
ハルトは笑いに変えた。
カメラとしては、いい反応で、ちょうどよく怖がっている。
彼の声があることで、スタッフたちの緊張も少し緩む。
映像を見たファンは、きっと「いいリアクション」と言うだろう。
音声担当は録音を確認して小さく眉を寄せた。
「今の入ってます」
「入ってるんだ」
「たぶん足音っぽい」
「足音っぽい、って何ですか。足音じゃなかったら何だっていうの」
スタッフがまた少し笑った。ハルトは笑えなかった。
企画は続いた。
次に、ライトが一瞬だけ暗くなった。
電池の問題か、接触か。
スタッフはすぐに予備ライトを確認したが、その後は正常に戻った。
ハルトは大げさに肩を跳ねさせた。
「やめて。本当にそういうのやめて。電池は新品だったでしょ」
現場は笑う。
さすが配信が上手いという称賛が混じっていた。
けれど、マネージャーの顔には少しずつ硬さが出ていた。
合法で安全な収録のはずだしスタッフもいる。
だが、小さな異常が続くと、人は簡単に空気へ飲まれる。
何でもないことまで意味があるように見えてくる。
彼女はそれを理解していたから早めに切り上げるタイミングを探り始めていた。
さらに進むと、ハルトがふと立ち止まった。
『だれ』
「今、声しなかった?」
撮影スタッフが周囲を照らす。
誰もいない。
ハルトは自分で言ってから、少し困ったように笑った。
「いやー、これ言ったら駄目なやつだ。
自分で自分を追い込んじゃう。すみません、今のなしで」
「入ってるか確認しますか?」
「いや、今確認したら帰りたくなるんで、後でお願いします」
この判断も配信者として上手かった。
現場で検証しすぎると、恐怖が重くなりすぎる。
こういう時は勢いで最後まで乗り切るべきだと彼は考えたのだ。
それに後で編集の時に確認した方が映像として扱いやすい。
彼は自然にそう判断していた。
だが音声担当の機材には、確かに何かが入っていた。
声というには曖昧だった。
息のようでもあり、遠くで誰かが口を開きかけたようでもある。
だが少なくとも現地スタッフの声ではない。
もっとも、それも編集すれば「雰囲気ある素材」になる程度のものだった。
はっきり聞こえるわけではない。
誰かの名前を呼んでいるわけでもないし脅しでもない。
だからこそ、切るか残すか迷う素材になる。
さらに奥へ進む途中、誰も触っていない扉が少しだけ開いた。
建付けが悪かったのか、風が吹いたのかは判らない。
ぎ、と音を立てて、ほんの数センチ。
ハルトは、今度こそ本気で一歩下がった。
「いやいやいや、ちょっと待って、今のはスタッフさんでしょ?
そうだと言ってください。違う? 違うの?」
スタッフの誰も、すぐには笑えなかった。
少なくともそこに仕込みは入れていない。
そして今日は無風だ。
マネージャーが低い声で言う。
「ハルトさん、ここで一度切りますか」
ハルトは扉を見たまま、少しだけ黙った。
ここで帰ることもできた。
むしろ、現場の安全だけを考えれば帰るべきだった。
小さな異常が続き、スタッフの緊張も上がっている。
収録素材はすでに十分あるから追加で踏み込む必要はない。
だが、配信者としてのハルトは、ここで引くことを惜しいと思ってしまった。
この扉が開いた瞬間は、映像として凄く良い。
視聴者は見るし間違いなく切り抜かれる。
“勝手に動いた扉”
“心霊スポット、マジでやばすぎた!”
そんな見出しで数万回は再生されるだろう。
多くのコメントがつく。
そこから自分のチャンネルに興味を持ってくれて、人がやってくるかもしれない。
登録者数50万という壁をそうすれば超えられる可能性も出てくる。
彼は怖がっていた。
だが、その怖さを撮れ高としても認識していた。
そしてハーフミリオンという壁を打ち破りたいという上昇志向が後押しした。
「……入口だけ見ます」
マネージャーが眉を寄せた。
彼女の直感は撤退を叫んでいる。
「中には入りませんよ」
「入りません。約束します。扉の前から、ライト当てるだけ。
ここまで来て扉スルーしたら、たぶん見てる人に怒られます」
「見てる人は今ここにいません」
「未来の視聴者のこと!」
マネージャーの顔には呆れと心配が混ざっていた。
それでも、彼女は完全には止めなかった。
管理者の許可範囲内であり、扉の前から覗くだけなら物理的な危険は少ない。
スタッフもいるしライトもある。何かあればすぐ撤収できる。
もしくは廃墟にたむろしているかもしれない危険な人間の場合に備えて警備グッズも持ってきている。
だから大丈夫。
そう判断した。
その判断が間違っていたのかどうかは、後からでも簡単には言えない。
彼らは前提として人間の危険を見ていた。
床が抜けるか、ガラスで怪我をするか、不審者がいるか、機材が壊れるか、炎上するか。そういう危険には備えていた。
だが、そこに言葉では説明できない何かがいるかどうかは判断基準に入っていなかった。
施設の奥、噂になっている部屋の前。
そこだけ空気の温度が少し違って感じられた。
扉はわずかに開いている。客室だったのだろう。
古い番号札が外され、跡だけが残っている。
床には埃が積もり、扉の下には暗い隙間があった。
ライトを向けても、その隙間の奥だけが妙に沈んで見えた。
ハルトは、マイクを意識しながら息を整えた。
「はい、というわけで、ちょっと問題の部屋っぽいところまで来ました。
中には入りません。ぜっっったいに入りませんからね」
「今ここで僕が中に入ったら、たぶんマネージャーさんに本気で怒られます」
マネージャーが画面外で頷く。
さっさと戻って来いという視線を飛ばしていた。
「か、く、じ、つ、に、怒られます。
なので、入口にライトを当てるだけです。
何か見えても、僕は責任を取りません」
「いや、配信者として責任は取りますけど、霊的な契約責任は負いかねます」
そう言って彼は恐る恐るライトを向けた。
部屋の中は暗かった。
ライトの光は確かに入っている。
壁の一部、古びた床、倒れた椅子の脚のようなものは見える。
だが、奥が妙に暗い。
光が届かないというより、届いた光がそこで急速に萎んでいる。
撮影スタッフも、少しだけカメラを寄せる。
こんな現象、見たことがない。
湿気やら何やらで光が変わる事はあれど、こんなことは知らない。
ハルトは唾を飲み込んだ。
「……何か、奥、暗すぎません?」
誰もすぐには答えなかった。
彼はその沈黙を嫌った。
怖い時、人は喋る。
配信者はなおさら喋る。
それが彼らという人種の持つサガだからだ。
ハルトは、いつもの調子へ戻そうとするように少しだけ笑った。
そして呼びかけた。
「おーい!」
「いるなら、ちょっとだけ映ってもらっていいですか。いや、出てこられても困るんですけどー!」
「自分、▲▲▲▲社の夜坂ハルトと申しまーす!」
悪意はなかった。
挑発というほど強いものでもない。
ホラーゲームや怪談配信でよくある、場を持たせるための軽口だった。
視聴者がいれば、きっとコメント欄は「やめろ」「フラグ立てるな」「出てきたらどうする」と流れただろう。
ハルトもそれを想定していた。
だからこそ、言ってしまった。
その瞬間、音声担当のマイクに小さく何かが入った。
全員が聞いたわけではない。
はい
ハルト自身も、その場では気づかなかった。
撮影スタッフも、カメラ越しに暗い部屋を見ていたため、音までは意識していない。
マネージャーだけが、ほんのわずかに眉を寄せた。
音は短かった。
声とも、息とも、何かが舌を鳴らした音ともつかない。
言葉としては聞き取れない囁き。
けれど、ただのノイズとも違う。
のちにその部分は切り抜かれ、何度も増幅され、反転され、速度を変えられ、検証されることになる。
何と言っているのか。誰の声なのか。
ハルトの声ではないのか。スタッフではないのか。
本当に何かが返事をしたのか。
視聴者たちは、それを何度も聞いて拡散させてしまう。
だが、この時点では誰も知らない。
ハルトは、その数秒後に笑っていた。
「……はい、何もいません! よかった! 映ってたら僕が困りますからね。
よし、帰ろう。もう十分撮れました。帰りましょう。帰りたいです」
マネージャーは、その言葉を待っていたように頷いた。
「撤収します」
「撤収しましょう。僕は英断ができる男です」
スタッフたちも内心でほっとしていた。
彼らとて怖いモノは怖い。
収録は終わった。
帰路の車内で、ハルトはまだ少し興奮していた。怖かった。確かに怖かった。
だが、大きな事故はなかった。
誰も怪我をしていないし機材も壊れていない。
スタッフも無事で映像素材は十分にある。
ホラー企画としては最高の大成功に見えた。
「いやー、怖かったけど面白かったですね。これ編集したら普通にいい回になると思います」
ハルトは、車の座席に身体を沈めながら言った。
マネージャーは、少し疲れた顔で頷く。
「使う部分は確認してからです。
場所がわかるところは弄って……あと、扉のところはどうしようかな」」
「扉のところ、絶対いい絵ですよ」
「それはそうですが、使えるかどうかは別なので……」」
「ですね。そこの判断はお任せします」
彼は苦笑した。
「でも、何か……いました?」
その言葉は、冗談半分だった。
マネージャーは、すぐには答えなかった。
「わかりません」
「そこは“いません”って言ってくれていいんですよ」
「わかりません。だから、素材確認してからです」
「怖いなぁ、マネージャーさんの真顔が一番怖い」
彼はそう言って笑った。
明らかに様子が少し違うマネージャーの事を「気のせい」と思うための笑顔だった。
この時点では、誰も「連れて帰った」とは思っていなかった。
現地に何かが残っていたとしても、そこに置いてきた。
怖い映像が撮れたとしても、それはカメラの中だけだ。
帰れば日常に戻る。
編集し、動画にし、公開し、視聴者と一緒に怖がって、それで終わる。
そういう予定だった。
夜坂ハルトは自宅へ戻った。
荷物を置き、軽くシャワーを浴び、スタッフへ礼のメッセージを送り、少しだけSNSを眺めた。
まだ企画内容は伏せているが、匂わせ程度の投稿は許されていたため彼は短く書き込んだ。
『今日の収録、普通に怖かった。公開されたら一緒に見てください。俺は見たくないです』
ファンはすぐに反応した。
『ホラーきた?』
『楽しみ』
『ハルトくんの怖がり芸助かる』
『見たくないなら見ます』
『期待』
ハルトはそれを見て、少し笑った。
いつもの流れだった。
そして、寝る前に配信用PCの前へ座った。
明日の予定を確認しようとしただけだった。
モニターは黒く、まだスリープから復帰していない。
部屋の照明が薄く反射し、自分の姿がぼんやり映っている。
そこに、一瞬だけ、自分の背後にナニカが映った。
誰かがいた、というほど明確ではない。
影とも言えない。
ただ、ハルトの肩の後ろの暗さが、少しだけ濃かった。
彼は振り返った。
誰もいない。
「……疲れてんな」
そう呟いて、彼はPCを起動せずに寝た。
翌日、▲▲▲▲社は予告映像を公開した。
夜坂ハルトが、暗い廃施設の廊下で怖がっている短い動画だった。
詳細な場所は伏せられ、危険な箇所も映っていない。
三十秒ほどの予告。ライトに照らされた古い廊下。
扉の前で固まるハルト、「いやいやいや、ちょっと待って」と震える声。
そして最後に一瞬だけ入る、聞き取れない小さな音。
コメント欄はすぐに盛り上がった。
『これは期待』
『もう怖い』
『ハルトくんのリアクション最高』
『最後なんか聞こえない?』
『声入ってる?』
『スタッフの声じゃない?』
『いや違う気がする』
切り抜き前の予告にすぎないのに、反応はよかった。
ホラー企画としては理想的な滑り出しだった。
怖がり芸の男性Vが、許可を取った曰く付きの施設へ行き、ちょうどよく不可解な音まで入っている。
視聴者が食いつくには十分だった。
株式会社〇〇〇〇でも、その予告は話題になった。
直接関係のない他社企画ではあるが、業界の中で数字が動きそうな動画は自然と目に入る。
若手スタッフの一人が、休憩中にその予告を見ていたところへロボボが通りかかった。
「あ、それ見てるんですか」
ロボボの声に、スタッフは少し驚いて顔を上げた。
「はい。夜坂ハルトさんの予告です。結構怖そうで」
「またこういう企画かぁ」
ロボボは、画面を覗き込みながら苦い顔をした。
彼女は以前に、自分の配信に割り込んできたものを経験している。
社長や怜司からすべてを聞かされたわけではない。
しかし世の中には
「よくわからないけれど、触れない方がいいもの」があることを知ってしまっていた。
だから、他社の心霊スポット企画を見る目も以前とは少し変わっている。
今まで存在さえ知らなかった爆弾/危険物を理解してしまった故にだ。
「ロボボさん、こういうの苦手でしたっけ」
「苦手というか、最近は慎重派です。
怖いものって、怖がる分にはいいんですけど、相手にこっちの視線が集まるのが嫌なんですよね」
「相手?」
「いえ、独り言です」
ロボボはすぐに流した。
スタッフは首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
その頃、怜司も別の端末で同じ予告映像を見ていた。
自分から探したわけではない。
業界関連の共有チャットにリンクが流れてきたため、念のため開いただけだった。
夜坂ハルトのことは知っている。
直接の付き合いはないが、中堅男性Vとして名前は見たことがあった。
怖がり芸がうまいという評判も、少しは耳に入っていた。
予告映像そのものは、よくできていた。
暗い廊下。
揺れるライト。
怖がるハルト。
聞き取れない音。
最後にタイトル。
視聴者が食いつく演出のされた構成だ。
だからこそ怜司は眉を寄せた。
彼は、問題の音よりもハルトの肩の後ろを見ていた。
扉の前でハルトが「いるなら、ちょっとだけ映ってもらっていいですか」と言う直前。
ライトの端、彼の右肩の奥。
そこだけ、映像の黒が少しだけ濃い。
影ではないしノイズでもない。
圧縮の潰れとも違う。
暗い場所が暗く映っているのではなく、そこだけが映像の中で一段沈んでいる。
まるで、その場所にカメラが光を渡すのを拒まれたような暗さだった。
そして最悪なのは名乗ったことだ
相手に名前を知られ、更にはついてきていいという許可まで出している。
これは泥棒に家の鍵を渡すに近い行為だった。
名前を付けるなと同じくらいに名乗らないは大事だ。
相手に名前を呼ぶ権利を与えるのだから。
怜司は、映像を巻き戻さなかった。
一度見れば十分だった。
「持って帰ってきてるかもしれない」
彼は、小さく呟いた。
近くにいた槙野が顔を向ける。
「何だ」
「他社の予告です。心霊スポット企画」
槙野は露骨に嫌な顔をした。
「またか」
「はい」
「向こうの問題だろ」
「今のところは」
怜司は画面を閉じた。
槙野は、その言い方に少しだけ眉を寄せる。
過去の事件以来、彼は怜司の短い言葉を軽く流さなくなっていた。
怜司が「今のところ」と言った時、そこには本当に「今のところ」以上の意味があることを槙野は経験で知っている。
「まずいのか」
「予告だけでは何とも。ただ、検証されると悪化します」
「止められないだろ。他社だ」
「はい」
怜司は淡々と答えた。
「まだ我々は介入できません」
その言葉が、余計に嫌だった。
“まだ”という単語がついているのだから。
つまり、いずれ介入せざるを得ないかもしれない。
槙野は舌打ちした。
「面倒なことになりそうか」
「なります」
怜司の返答は、短かった。
だってこんなにもしっかりと肩を掴まれているのだから。
その手の奥を見れる彼は一度だけ眼を閉じた。
あんなものに肩を掴まれてると本人が知ったら、きっと生きた心地がしないだろう。
何十年も巣の中で練り固められたモノを他者が見れなくて本当に良かった。
……これは最悪の場合も考えなくてはならない。
助けられない時は、切り捨てる必要もある。
壊死しきった細胞は切り落とさなくては全身に広がるかもしれないのだから。
その夜、夜坂ハルトは自宅でいつものように過ごしていた。
予告映像の反応は上々だった。
マネージャーからも初動がいいと連絡が来ている。
動画本編の編集はこれからだが、少なくとも話題性は十分にある。
彼は少し安心していた。
怖かったが、仕事としては成功だ。
視聴者も楽しみにしているし自分のリアクションも見直しても悪くなかった。
だから深く考えなかった。
寝る前、彼は配信用PCの黒いモニターをもう一度見た。
今度は何も映っていない。
自分の顔と、部屋の薄い明かりだけだ。
「昨日のは気のせいだな」
そう言って彼は照明を落とした。
だが、彼が背を向けた後、黒いモニターの表面にほんの一瞬だけ彼の背中が映った。
その肩の後ろに、暗いものがあった。
ただ、そこだけが暗いのだ。
暗さが彼の肩に触れるほど近くにあった。
次の瞬間、モニターは完全な黒に戻った。
夜坂ハルトは気づかない。
彼は無事に帰ってきたと思っていた。
スタッフもそう思っていた。
▲▲▲▲社も、よく撮れたホラー企画だと思っていた。
だが、彼は一人では帰っていなかった。