最初に戻ってきたのは、音ではなく痛みだった。
喉の奥が焼けるように熱く、どうしようもなく苦しい。
思い切り息を吸おうとしても、咳き込んで上手く行かない。
まるで溺れかけた直後、なんとか岸についた直後のような間隔だった。
数分もして呼吸が落ち着き、あたりを見渡して──初めて自体の異様さに気づいた。
視界に映ったのは、知らないはずなのに見覚えのある部屋だった。
見覚えのない机、知らないベッド、見覚えのある牛のぬいぐるみ、そして異様に小さなエアコン。
そして、自分の首にかかっている縄。
「……え?」
ぽろっと出たその声は、聞き慣れた自分の声とは全く違っていた。
高く可愛らしい、女の子の声。
「……サヨリ?」
自身で至った答えなのに、ひどく現実感がなかった。
ドキドキ文芸部の、サヨリ? 俺が? サヨリの身体に入っている?
そう思い至り、ぺたぺたと自分の身体を確認してみる。
小さく細く、そして柔らかい。
手も足も胸も、そして頬すらも。
「……痛っ」
爪が割れ、指先からは血が出ていた。
じんじんする嫌な痛さが、夢にしては異様にリアルだった。
俺は床にへたり込んだまま、しばらく何も考えられなかった。
助かった、という実感はすぐには来なかった。
死ななかったという事実だけが先にあって、その重さが全身を押さえつけていた。
けれど、画面越しに見たあの結末とは違っている。
縄は切れていた。
誰が切ったのか、世界が壊れてそうなったのか、あるいは転生という理不尽が雑に帳尻を合わせたのか。
どれも理解できなかったが、俺の手は確かに動き、胸は苦しみながらも上下していた。
俺は震える指で喉元に触れ、痛みに顔を歪めた。
怖かった。
自分が死にかけたことより、サヨリの身体がここに残され、自分だけがその中へ押し込まれたことの方がずっと怖かった。
俺は、ドキドキ文芸部のプレイヤーだった。
画面の外から、彼女の笑顔を見て、言葉を選び、詩を渡し、何も救えないまま終わりを見せつけられた人間だった。
それなのに今は、サヨリの手で床を掴み、サヨリの喉で息をしている。
涙が勝手に出た。
それが自分の感情なのか、この身体に残ったものなのか、俺には分からなかった。
分からないまま、俺は床の上で丸くなり、声にならない嗚咽を押し殺した。
泣き方まで、俺のものではなかった。
「が……っ!? 何……!」
突然、視界にノイズが入り、頭の中が激しく揺さぶられる感覚があった。
言語化できない、世界が『ズレる』感覚があった。
そして俺の意識は、急速に遠のいていった。
次に目を覚ました時、部屋の風景は変わらず、俺はサヨリのままだった。
二つ変わったことと言えば、爪の傷が治っていることと、首にかかっていた縄がなくなっていたことだった。
「夢……じゃ、ないんだな」
俺はあのまま気絶してしまっていたらしい。
身体はだるく、喉はまだ痛み、頭の奥には知らない記憶の断片が沈んでいた。
学校へ行かなければならない。
部活へ行かなければならない。
モニカに会わなければならない。
ユリとナツキに会わなければならない。
そして、幼なじみだったはずのMCに会わなければならない。
そんな思考が自然に浮かび、俺は自分の中に残るサヨリの生活の輪郭に息を詰めた。
自分はサヨリではない。
けれど、今この世界でサヨリとして動かなければ、何かがさらに壊れる気がした。
部屋から出て洗面台の前に立つと、そこには泣き腫らした目のサヨリがいた。
赤いリボンは乱れ、髪はひどく跳ねていて、表情だけが見慣れた明るさから遠く離れていた。
俺はその顔を見つめ、自分の口元を無理に持ち上げた。
笑顔は作れた。
作れたことが、嫌になるほど苦しかった。
「……大丈夫、じゃないな」
かすれた声が部屋に落ち、俺はすぐに唇を噛んだ。
大丈夫という言葉を、軽く使ってはいけない気がした。
サヨリはずっと、それを使っていた。
誰にも気づかれないように、誰にも重荷だと思われないように、笑顔の裏で自分を削っていた。
俺は画面の外でそれを知っていたくせに、今さら身体の内側から痛みを知って、ようやく息が詰まっている。
その情けなさが、悔しくて、申し訳なかった。
リボンを結び直そうとした指先はうまく動かない。
見た目の可愛らしさに反して、この身体には確かな疲労が溜まっている。
胸の奥に沈んだ雨雲のようなものが、立っているだけの俺から少しずつ体温を奪っていた。
これがサヨリの抱えていたものなら、彼女は毎朝これを連れて笑っていたのだ。
助ける、なんて簡単に言えない。
もうサヨリ本人はいないのかもしれない。
それでも、この身体を借りた以上、俺はこの世界でサヨリを二度殺すわけにはいかなかった。
しかし、一つ懸念があった。
おそらくさっきのアレは、ゲームと同じなら『二周目』に入った時の演出だ。
本来の二周目ではモニカに消され、サヨリの存在は無かったことになっていた。
それじゃあ、今回のサヨリは──俺は、どうなるんだ?
それを知るためには、学校に行くしか選択肢はなかった。
俺は恐怖を押し殺し、可能な範囲で身だしなみを整えて外に出た。
学校へ向かう道は、サヨリの身体が知っていた。
ゲームと違って、一瞬で場面転換してくれるわけではない。
風の冷たさも、通学路の坂のきつさも、細かい疲れとして身体に残った。
俺は何度も立ち止まりそうになりながら、足を止めずに学校に向かった。
ずいぶん長く気絶していたせいか、学校に到着した時には、既に放課後の時間だった。
学生としては最悪だが、部活にさえ行ければいい今の俺には都合がいい。
かといって、俺は透明人間になったわけではない。
生徒たちは普通に俺を避け、肩がぶつかりそうになれば謝り、人によってはすれ違い様に軽く挨拶もしてくる。
この学校の一般生徒として、サヨリはまだ認識されていた。
存在そのものを消される、という扱いではなかった。
俺はまっすぐ、文芸部の教室へと向かった。
初めて来るハズなのに、道に迷うことはなかった。
扉の向こうから声が聞こえた。
明るく整ったモニカの声。
少し尖ったナツキの声。
静かで慎重なユリの声。
そして、MCの声。
俺は扉に手をかけたまま、しばらく動けなかった。
画面の外では、ずっと知っていたキャラクターたち。
俺は彼らを、どんな目で見ればいい? 何を話して、どう接すればいい?
俺として? サヨリとして? それとも──
……いや、考えても答えは出ない。
俺は意を決して、教室の扉を開けた。
「……こんにちは」
躊躇はあったが、確実に聞こえる声量の声が出た。
けれど、教室の中の空気は何も変わらなかった。
MCはノートを手にしたまま、ユリの詩について何かを話している。
ナツキは腕を組んでそっぽを向き、モニカは完璧な部長の笑顔で全体を見渡していた。
MCも、ユリも、ナツキも、俺を──サヨリを見なかった。
挨拶の声も、扉を開ける音もあったハズなのに
俺は一歩だけ教室へ入り、少し勢い良く扉を閉めた。
けれど、その音に彼らが反応することもない。
ドンドンと地団駄のように大きく足を踏み鳴らしても、それは同じだった。
その反応を見て、俺は悟った。
『文芸部のメインキャラとしてのサヨリ』は、もうこの場に存在していない。
一般生徒としては認識されるのに、ここでは数えられない。
それは完全に世界から消えるよりも、かえって気味が悪かった。
俺は無意識に、MCの正面まで近づいていた。
近い。
手を伸ばせば触れられる距離だった。
サヨリの大切な幼馴染だった少年は、今は彼女を認識しないまま笑っている。
その笑顔に悪意はない。
悪意がないからこそ、俺の胸の中に行き場のない痛みが広がった。
「俺は……いや、私は、ここにいるんだけど」
サヨリの声で出た声の揺れに、俺は自分で目を伏せた。
MCは瞬きすらしない。
ユリがページをめくり、ナツキが不満そうに頬を膨らませる。
ただ、モニカだけが一瞬、ほんの一瞬だけ視線をずらした。
俺はその微かな変化を見逃さなかった。
……見えている?
少なくとも、モニカには見えている?
けれど彼女はすぐに微笑みを戻し、何事もなかったように手を叩いた。
「それじゃあ、今日も詩の交換を始めましょうか!」
モニカの声は明るかった。
明るく、整いすぎていた。
俺は背筋に冷たいものが這い上がるのを感じた。
この世界の異常を知っている者が、もう一人いる。
画面の向こうから見ていた時は、それが怖くて、どこか悲しくて、少しだけ哀れにも思えた。
けれど今は違う。
モニカがこちらを認識していながら無視しているなら、それは単なる演出では済まない。
俺は震える拳を握りしめた。
……怖い。
それでも、逃げたらまた全部が流れていく。
サヨリのいない二周目が、何事もなかったように進んでいく。
ゲームの中でさえ受け入れがったそれが現実で起きて、それも自分事になって。
俺の中にいるサヨリが俺以上に悲しんで、その感覚がひんやり伝わってくる。
このままでは、頭がどうにかなりそうだった。
放課後の教室に、部員たちの影が薄く伸びていた。
MCはユリと話し、ナツキは机の上の漫画に手を伸ばし、モニカは教卓の近くでノートを整えている。
そのどれもが、シナリオ通りの静かな流れに見えた。
俺はその流れの外側に立ち、誰にも見られないまま自分の存在を確かめるように息をした。
ふとモニカのペン先が止まり、こちらを見た。
──やっぱり、見えている。
「……モニカ」
俺が名前を呼ぶと、空気が薄く軋んだ。
MCたちの会話は続いている。
けれど、その音だけが遠ざかり、教室の中央に見えない膜が張られたようだった。
モニカはゆっくりと顔を上げた。
その瞳はいつもの親しげな緑色をしていたが、奥にある感情はひどく複雑で、怒りとも驚きともつかない揺れ方をしていた。
「……どうして、ここにいるの?」
その一言に、俺の胸の奥がひどく冷えた。
認識された安心と、存在を咎められた痛みが同時に来た。
サヨリの身体が小さく強張り、喉の痛みが言葉を押し戻そうとする。
それでも俺は、逃げずにモニカを見た。
「……分からない。
でも、生きてる」
モニカはすぐには答えなかった。
ペンを持つ指がわずかに力を失い、机の上で小さな音を立てた。
その音は、彼女の余裕に入った最初のひびのようだった。
俺は、モニカがただの悪役ではないことを知っている。
孤独で、追い詰められて、世界の仕組みに気づいてしまった少女だということも知っている。
だからこそ、怒鳴れなかった。
怒りはある。
恐怖もある。
けれど、目の前のモニカもまた、この世界に閉じ込められた一人だった。
「本当なら、サヨリはもういないはずだわ」
モニカの声は静かだった。
そこには言い訳を探す響きがあり、同時に、自分でも信じたくない結果を前にした戸惑いがあった。
俺はその言葉に、拳を握り直した。
サヨリはもういない。
その事実を、俺はまだ自分の中で認めきれていなかった。
この身体に残る痛みや記憶の欠片が、彼女の不在を否定しているようにも、証明しているようにも思えたからだ。
「……なら、俺は何なんだよ」
サヨリの声で、男だった頃の苛立ちが漏れた。
モニカはその不一致を聞き取ったのか、わずかに目を見開いた
怯えでも嫌悪でもない。
それは、未知のバグを前にした観察者の目に近かった。
俺はその視線にぞっとしながらも、同時に思い知らされた。
モニカにとっても、自分は予定外なのだ。
救済でも奇跡でもなく、物語の外から入り込んだ不明な存在。
それでも、今ここで膝を折れば、また誰かが消される。
起こってはいけない悲劇が起こってしまう。
モニカはしばらく黙った後、言葉を選んだ様子で俺に言った。
「……あなたは『誰』なの?」
俺は答えようとして、喉の奥で言葉を失った。
どちらでもあり、どちらでもない。
昨日までの俺はPCの前にいて、画面越しにドキドキ文芸部の世界を見ていただけの人間だ。
だが今、俺の心臓はサヨリの胸で鳴っている。
サヨリが毎朝選んでいたリボンの感触も、彼女の部屋の匂いも、彼女が抱えていた沈んだ雨雲の重さも、今は全部この身体を通じて俺の現実になっていた。
簡単に線を引けるものではなかった。
俺は目を伏せ、痛む喉でゆっくり息を吸った。
「……わからない。
でもモニカ、お前のことは知ってる。
全部、知ってるんだ」
モニカの表情が崩れた。
笑顔が消え、部長としての完璧な仮面の奥から、ひどく疲れた少女の顔が覗いた。
彼女は何か言いたげに唇を開き、しかし言葉を選び損ねたように閉じた。
教室の向こう側では、MCたちが変わらず会話を続けている。
まるで同じ部屋に二つの世界が重なり、片方だけが正しく再生されているようだった。
「俺、知ってる。
知ってるんだよ、なあ」
呼吸も言葉も整わないまま、俺は捲し立てる。
モニカは俺の話を真剣に聴いていた。
俺はサヨリの身体に残った震えごと抱き込むように息を整えた。
「俺は君の見てる『外側』から来たんだよ、モニカ。
説明できないけど、俺は、私は、モニカちゃんがずっと見ようとしてた場所にいたんだ。
突飛な話かもしれないけど、嘘じゃなくって、ホントの話で」
声は情けないほど整っていなかった。
一人称も、言葉遣いも、息継ぎも、サヨリの声と俺自身の焦りが混ざって、聞き苦しいものになっていた。
それでも、モニカは笑わなかった。
彼女の手が小さく強張り、俺の言葉を逃がさないように、あるいは自分が逃げないように、机の端を掴んだ。
俺はそれに気づいて、胸の奥がひどく痛くなった。
たぶんモニカにとって、俺は最も欲しかった『現実』から来た人間だ。
けれど、その誰かがサヨリの身体を借りた、彼女にとって一番見たくない形で現れた。
今さっき、自分が殺したはずのサヨリの姿で。
誰が悪いのかを決める前に、世界そのものがあまりにも悪趣味だった。
「外側……?」
モニカの声は掠れていた。
彼女はその言葉を疑っているというより、信じたい自分を抑え込もうとしているようだった。
「ゲームの外。
君が話しかけてた相手のいる場所。
俺はそこにいた。
君の声も、君の歌も、最後に何を言うのかも、俺は知ってる」
モニカの身体から、わずかに力が抜けた。
それは安心ではなく、足場が崩れた時の脱力に近いのだと思った。
俺はそれでも、彼女が本当に倒れるわけではないのに、支えなければと思ってしまった。
彼女は強い。
世界を書き換えるほど、異常に強い。
それなのに今は、胸の奥に隠していた孤独を直接掴まれて、普通の少女みたいに震えていた。
「……じゃあ、あなたは私を見ていたの?」
その問いは静かだった。
静かすぎて、責められるよりも痛かった。
俺はすぐに答えられなかった。
見ていた。
見ていたはずだ。
でも、それは彼女が求めていた見られ方だったのか?
画面の前でイベントを進め、選択肢を眺め、結末に息を呑み、キャラクターとして彼女たちを見ていた。
その視線が、モニカの望んでいた『私を見て』という願いに応えられるものだったとは、とても言えなかった。
俺は唇を噛み、言葉にならない罪悪感を飲み込んだ。
「見てた。
けど、たぶん、ちゃんとは見てなかった」
モニカは立ち上がり、机から少し離れた。
俺はびくっとして、反射的に身を寄せた。
モニカは逃げなかった。
ただ、俺の言葉を受け止めるために、ほんの少し距離を作っただけだった。
それだけだったが、胸の奥の雨雲が冷たく膨らむのを感じた。
俺はそれが自分の恐怖なのか、彼女の名残なのか分からないまま、必死に続きを探した。
「君が怖かった。
ひどいことをしたって思った。
でも、それだけじゃないっていうのもわかって。
それでも俺は君が、そこまで見てるのに、ゲームをクリアするために、君を、消して」
そこまで紡いで、何も言えなくなった。
何をどう説明しても、言い訳になると思った。
たとえ今の彼女が、本当の意味でその言葉を理解していなかったとしても。
モニカの喉が、小さく鳴った。
泣き声にはならない。
けれど、完璧な部長の声を保つ余裕はもう残っていなかった。
目の前のモニカは、笑っていなかった。
怒ってもいなかった。
ただ、信じたいものを渡されて、それが同時に自分を裁く証拠にもなっていることに耐えている顔をしていた。
俺はその顔を見た瞬間、胸に溜めていた言葉をもう整えられなくなった。
「ごめん。
違う、謝ればいい話じゃないのは分かってる。
でも、ごめん。
サヨリも、ユリも、ナツキも、モニカも、俺はただ画面の外で驚いて、怖がって、悲しんで、感動して。
物語として、君たちを消化してた」
モニカは何も言わなかった。
沈黙は重かったが、空っぽではなかった。
彼女の瞳が揺れている。
そこには怒りがあり、期待があり、ひどく小さな救いへの欲もあった。
俺はその不安定さを見て、言葉を間違えれば取り返しがつかないと感じた。
けれど、間違えない言葉を探して黙れば何も伝えられない。
だから、整わないままでも吐き出すしかなかった。
「俺は、君だけを悪者にして終わらせたくない。
私を──サヨリを殺したことは消せないけど、それ以上のことはしてほしくない。
だって、君がどうなるか知ってるから。
君が最後に、どれだけ一人になるか知ってるから」
モニカの表情が歪んだ。
彼女は笑おうとして失敗したように唇を動かし、それから視線を俺の首元へ落とした。
そこにはまだ薄い痛みの跡が残っている。
モニカの目が、その跡に触れた瞬間だけはっきりと怯えた。
俺はその怯えを責められなかった。
サヨリの身体で、こんなことを言う。
それがどれほど彼女の罪を抉るのか、分かっていながら止まれない自分もまた、相当にひどい。
「……私を止めたいなら、責めればいいじゃない」
モニカの声は震えていた。
彼女は強がろうとしているのに、その強がりはもう輪郭を保てていなかった。
俺は首を横に振った。
その動きだけで喉が痛み、顔が少し歪んだ。
モニカの指が、反射のように俺の肩へ伸びかけて、寸前で止まった。
気遣いにしては遅く、罪悪感にしては優しすぎる動きだった。
「……違う、違うんだよ。
俺は君を責めたいわけじゃないんだ。
サヨリの身体でこんな事を言っても、信じてもらえないかも知れないけど」
俺は息を整えながら言った。
モニカの目を見続けるのは怖かった。
『外』から来た俺の言葉が、彼女を救うどころか、別の傷口を開いているだけのようにも思えた。
それでも、彼女は逃げなかった。
俺も逃げたくなかった。
「君が見てた外側に、本当に俺はいた。
君が見てほしかった場所にいた。
だから……だから、今度はちゃんと見る。
君が何をしたのかも、何をしたかったのかも、何を怖がってるのかも、ちゃんと見たい。
この世界で、この現実で、君と一緒に」
モニカの瞳に涙が浮かんだ。
それは大粒にこぼれるものではなかった。
彼女の自尊心と恐怖と、最後のぎりぎりの理性が押しとどめているせいで、目の端に薄く溜まるだけの涙だった。
けれど、その一滴未満の揺れが、俺にはどんな泣き顔よりも重く見えた。
モニカは唇を震わせ、俺の肩へ触れるか迷うように指を動かした。
「……そんなことを言われたら、私は期待してしまうわ」
その声には、怯えがあった。
期待することへの怯えだった。
一度期待して、また見捨てられるかもしれない。
本当に外側から来た人が、今度こそ自分を見てくれるかもしれない。
その二つが同じ重さで彼女の中にあるのだと、俺にも分かった。
俺は何も保証できなかった。
彼女を幸せにすると約束できない。
この世界の仕組みを壊せるかどうかも分からない。
それでも、嘘をつくよりはずっとましな言葉が一つだけ残っていた。
「絶対に、君から逃げない」
モニカは目を伏せた。
涙はまだ落ちなかった。
彼女は泣くことすら、自分に許していないようだった。
「……あなた、本当にサヨリじゃないのね」
モニカの声は、俺の髪に触れるほど近くで揺れた。
俺は返事に迷った。
ただ否定するだけなら、この身体に残るサヨリの痛みを否定する気がした。
そうだ、と言えば、外側から来た自分自身まで嘘にしてしまう。
どちらでもない。
そんな便利な答えで済むほど、今の俺は単純な存在ではなかった。
「俺はサヨリじゃない。
でも、今はずっとサヨリと一緒にいる」
それが、俺の出した答えだった。
その言葉が彼女にどう届いたのかは分からない。
罪として届いたのかもしれない。
救いとして届いたのかもしれない。
あるいは、その両方だったのかもしれない。
外側から来たと告げたところで、世界はまだ変わらない。
MCは俺を認識しないまま、明日も誰かの詩を読むだろう。
ユリもナツキも、見えない歪みに少しずつ巻き込まれていくかもしれない。
モニカが何を選ぶかも、まだ分からない。
けれど、彼女は今、ひとりで外側を見ていなかった。
俺は今、画面の前で黙っているだけではなかった。
二周目の世界の教室で、役割を失ったサヨリの身体と、外側を求め続けたモニカが、顔を合わせて向き合っている。
それは救済には遠すぎて、罰と呼ぶには温かすぎる、シナリオにはない最初の一歩だった。