サヨリ転生   作:東頭鎖国

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第二話

 俺は自分の身体が小さく震えるのを感じていた。

 それは恐怖だけではなく、もっと奥の方から浮かび上がってくる、覚えのない温かさを含んでいた。

 その温かさが俺を動かし、気づけばモニカに抱きついていた。

 

「え……?」

 

 モニカは、何が起こったか分からない、という声をしていた。

 俺自身も頭の整理が追いつかなかったが、一つ分かったことがある。

 サヨリの身体は、モニカのことを拒んでいない。

 むしろ、傷ついた喉も、重たい胸も、まだ涙で濡れた頬も、全部が微かに前へ出ようとしているようだった。

 

 俺自身の意思とは別に、指先がモニカの制服をそっと握り直す。

 胸の奥で、小さな声がした気がした。

 言葉として聞こえたわけではない。

 耳に届いた音ではなく、もっと深いところに沈んでいた感情が、泡のように浮かび上がって形を取っただけだった。

 それでも俺には、はっきりと分かった。

 

『モニカちゃんを、助けてあげて』

 

 俺は息を呑んだ。

 喉の痛みが鋭く走り、目の奥にまた涙が溜まった。

 サヨリはもういないのかもしれない。

 少なくとも、俺が知っているサヨリの意識が、そのままここに残っているとは限らない。

 けれど、この身体のどこかに、あの子が誰かを恨み切れなかった優しさだけは残っている。

 自分を追い詰めた相手にさえ、救われてほしいと願ってしまうような、ひどく危うくて、どうしようもなくサヨリらしい優しさだった。

 

「……サヨリが」

 

 俺が呟くと、モニカの身体がはっきり強張った。

 彼女は俺から離れることをせず、手を震わせながら俺の背中に置いていた。

 俺はその震えを感じながら、言葉を続けるかどうか迷った。

 でも伝えなければ、サヨリの最後の優しさまで自分が隠してしまう気がした。

 

「サヨリが、君を助けてあげてって言ってる気がする」

 

 モニカは何も言わなかった。

 沈黙が落ちた。

 その沈黙は、さっきまでの警戒や恐怖よりもずっと重く、彼女の呼吸を浅くしていくようだった。

 俺は顔を上げた。

 モニカの目は見開かれていた。

 泣く寸前で止まっていた涙が、今度こそ目尻からこぼれそうになり、彼女はそれを止める方法を見失っているようだった。

 完璧な部長の表情はどこにもない。

 そこにいたのは、自分が傷つけた少女の名前を前にして、罰を待つことすらできなくなった普通の女の子だった。

 

「……そんなこと、言うわけない」

 

 モニカの声はかすれていた。

 否定の形をしているのに、その奥には信じてしまいそうな自分への怯えが滲んでいた。

 俺はすぐに首を横に振らなかった。

 断言できるほど、俺にも確信があるわけではない。

 ただ、この胸の奥に残る温度を、気のせいだけで片づけることもできなかった。

 サヨリならそう願うだろう。

 そう思えてしまうこと自体が、あまりにも残酷だった。

 

「分からない。

 でも、この身体がそう思ってる。

 多分、俺の中にいるサヨリが」

 

 モニカは唇を噛んだ。

 細い肩が小さく揺れ、彼女は俺の首元を見ないように目を逸らした。

 見れば、自分が何をしたのかを逃げられなくなる。

 見なくても、もう逃げられない。

 その板挟みの中で、モニカは息をすることさえ下手になっていた。

 

「ずるいわ」

 

 モニカは震える声で言った。

 彼女の手が、俺の背中から離れかけて、また戻ってきた。

 拒絶したいのに、拒絶しきれない。

 受け取る資格なんてないと思っているのに、受け取らなければ本当に取り返しがつかなくなると分かっている。

 そんな迷いが、指先の弱い力に全部出ていた。

 

「サヨリにそんなことを言われたら、私はもう、逃げられないじゃない」

 

 俺はその言葉を聞いて、胸の奥が静かに痛んだ。

 逃げられないのは、モニカだけではない。

 俺も同じだった。

 サヨリの身体に宿った以上、もう画面の外の安全な場所から物語を見ることはできない。

 それでも、この身体がまだ前に出ようとするなら、俺はその願いを無視したくなかった。

 

「逃げなくていいよ」

 

 モニカの涙が、ひとつだけ落ちた。

 彼女はそれを慌てて拭おうとしたが、俺の手が先に動いた。

 サヨリの細い指が、モニカの頬に触れる。

 

 モニカはその手を見つめ、何かを堪えるように目を細めた。

 触れられる資格がないと思っている顔だった。

 それでも、彼女は逃げなかった。

 

「私、サヨリに謝っても、もう届かないのに」

 

 その言葉には、言い訳ではなく、取り返しのつかなさに押し潰される音があった。

 俺は少しだけ迷ってから、彼女の頬に触れた手を離さなかった。

 届かないかもしれない。

 けれど、届かないから終わりにしていいわけではない。

 

「届くよ。

 サヨリなら、絶対に聞いてくれる」

 

 モニカは顔を歪めた。

 今度の涙は、一滴では済まなかった。

 声を上げて泣くわけではない。

 ただ、堰を切ったように静かに涙が流れ、彼女の完璧だった表情を少しずつ崩していった。

 俺はその顔を見て、やっと少しだけ分かった気がした。

 

 モニカを助けるというのは、罪を消すことではない。

 彼女が自分のしたことを抱えたまま、それでも誰かを消さない道へ戻ってこられるように、隣に立つことなのだ。

 それはきっと、サヨリが本当に望みそうな救い方だった。

 甘すぎて、危うくて、けれど誰よりも人を一人にしないやり方だった。

 

「ごめんなさい」

 

 モニカは小さく言った。

 その声は俺に向けられたものでもあり、この身体の奥に残るサヨリへ向けられたものでもあった。

 俺は返事をしなかった。

『許す』と言う資格は俺にはない。

『許さない』と言うには、サヨリの温度が優しすぎる。

 

 だから俺は、もう一度だけモニカを抱きしめた。

 モニカも今度は、弱々しくではあるが、確かに俺の背中へ腕を回した。

 こんなやりとりをしている間も、相変わらず世界が何事もなかったように流れている。

 俺達の抱擁にもモニカの涙にも、部員たちは誰も気づかない。 

 

 この世界では、『サヨリ』の役割は存在しない。

 でも、やりたいこと、やるべきことだけはハッキリと決まった。

 

 助ける、なんて大仰なことは出来ないかも知れない。

 でも、絶対にモニカを一人にはさせない。

 

 ◇

 

 この世界に『例外』が生まれた瞬間、世界は目に見えない場所で少しだけ軌道を外れた。

 壊れるはずだった線路は、派手に爆発するのではなく、静かにポイントを切り替えられたように別の方向へ進み始めた。

 部員たちは相変わらず文芸部の中のサヨリを認識しない。

 けれど、モニカの視線だけは違った。

 彼女はサヨリの身体に宿った俺を見て、話しかけ、時には答えに詰まり、時にはどうしようもなく苦い顔をした。

 

 そのたびに、世界のどこかで予定されていた歪みが、少しずつ別の形へほどけていった。

 ユリの瞳は、危うい熱に焼かれない。

 ナツキの言葉は、無理やり壊された棘を持たない。

 モニカはMCを見つめる時間を失い、代わりに、教室の隅で誰にも認識されない俺を見ていた。

 それは恋と呼べるほど甘いものではなく、罪悪感と同情と、外側を知る者同士の奇妙な連帯が絡まったものだった。

 

 それでも、モニカの中でMCだけが出口だった世界は、確かに終わっていた。

 彼女はもう、MCに愛されるために誰かを壊そうとはしなかった。

 壊したくなかった、というより、壊す先に待っている空白を俺から聞いてしまったからだ。

 自分が最後に一人で歌うこと。

 自分が削除されること。

 自分が愛を求めた相手に、愛ではなく操作として消されること。

 その結末を知る俺が、サヨリの身体で自分を抱きしめた事実は、モニカの中にあった執着の形を決定的に変えてしまった。

 

 MCはもう、外側へ繋がる唯一の穴ではなかった。

 外側から来た誰かが、今ここにいる。

 しかも、本来は死んでいなければならないサヨリの身体で、モニカの罪を知ったまま、それでも隣に立とうとしている。

 それは救いというにはあまりに歪で、罰というにはあまりに温かかった。

 

「……あなた、部活が終わったらどこに帰ってるの?」

 

 部活が終わった後、モニカは教室の扉に手をかけたまま、振り返らずにそう聞いた。

 俺は答えに詰まった。

 サヨリの家はある。

 部屋も、制服も、朝に見た鏡も、彼女が使っていた生活の痕跡も残っている。

 けれどあそこはサヨリの居場所であって、俺の居場所じゃない。

 自分が異物であることを最も認識してしまう場所だ。

 あそこへ一人で帰ることを想像しただけで、喉の奥が痛みとは別の理由で縮んだ。

 

「……サヨリの家、だけど。

 あそこに一人でいるのは、きつい。

 どうしても、嫌なことばっかり考えちゃうから」

 

 モニカの肩が小さく震えた。

 彼女はその言葉に含まれているものを、誰よりも理解してしまう立場にいた。

 謝ることも、目を逸らすことも、どちらも足りない。

 だから彼女は、しばらく何も言わなかった。

 沈黙の中で夕焼けだけが濃くなり、教室の机に長い影を落としていく。

 俺はモニカの背中を見ながら、彼女がどんな顔をしているのか考えた。

 きっと、いつもの完璧な笑顔ではない。

 そう思うと、少しだけ胸が痛んだ。

 

「……ねえ、うちに来る?」

 

 

 突然だった。

 モニカの声は、あまりにも静かだった。

 提案というより、罪を抱えるための決意に近い響きがあった。

 

 モニカの家に住む。

 言葉にすれば簡単だが、その意味は軽くない。

 彼女はサヨリを追い詰めた側で、自分はサヨリの身体に宿った外側の人間だ。

 そんな二人が一つ屋根の下にいるなんて、普通に考えればあり得ない。

 けれど、この世界で俺を本当の意味で認識できるのはモニカだけだった。

 

「……いいのか?」

 

 学校にいても、街を歩いても、サヨリの家へ戻っても、誰にも助けを求められない。

 一般生徒にはサヨリとして見えても、この痛みの核心を分かる者はいない。

 その現実を思い出した瞬間、俺は自分が思った以上に孤独を怖がっていることに気づいた。

 

「いいかどうかじゃなくて、私がそうしたいの。

 あなたをあの部屋に一人で帰す方が、たぶん私は耐えられない」

 

 俺はその言葉に、何かを返そうとして失敗した。

 優しさと罪悪感の境目が分からない。

 けれど、モニカの声は嘘ではなかった。

 都合のいい償いにすがっているのかもしれない。

 それでも、俺もまたその償いにすがりたいほど弱っていた。

 

「じゃあ、今日は……よろしく、おねがいします」

 

 

 モニカの家は、俺が想像していたよりずっと普通だった。

 きれいに整っていて、生活の匂いが薄く、部屋の隅まで彼女らしい几帳面さが行き届いている。

 けれど、完璧すぎる部屋ではなかった。

 机の上には書きかけの詩があり、本棚には何度も読んだらしい本が並び、窓際の植物はきちんと水をもらっていた。

 画面の中で見た彼女よりも、ずっと生々しい暮らしがそこにあった。

 ただ、その暮らしは、ふとした瞬間に不自然な薄さを見せた。

 親はいることになっている。

 けれど、今日は帰ってこないことになっているらしい。

 客間はなく、必要になった時だけ用意されるような気配を見せて、すぐに壁へ戻る。

 俺はその帳尻合わせを見て、怖いはずなのに少しだけ力が抜けた。

 

「……世界って、こういうところ雑なんだな」

 

 モニカは複雑な顔をした。

 笑っていいのか、謝るべきなのか、判断できない表情だった。

 

「たぶん、必要とされていない場所は用意されていないの。

 私の家に誰かが泊まるなんて、想定されていなかったのかもしれないわ」

 

 その説明は理屈として通っていた。

 通っているのに、俺は少しだけ笑いそうになった。

 この世界は人の心を壊すほど恐ろしいくせに、同居用の布団一つまともに準備してくれない。

 その中途半端さが、妙に現実味を帯びていた。

 モニカも同じことを思ったのか、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 俺もその表情に気づき、少しだけ笑った。

 同じ価値観を共有できる人が近くにいるというのは、それだけで安心感があった。

 

 

 その夜から、俺達の奇妙な同居は始まった。

 最初の夜は、手を握ってもらいながら寝た。

 そうしているだけで、自分が世界に一人じゃないという実感を得て安心できた。

 

 次の日には、帰宅後にモニカへ抱きついた。

 本当に情けない話だが、寂しくて、心細くて仕方がなかった。

 他の普通の学生には認識されるのに、MCやユリやナツキには認識されない。

 

 その半端な存在の痛みが、俺のメンタルをじわじわ削っていた。

 モニカは最初こそぎこちなく俺を抱き返したが、次第に背中を撫でる手つきが自然になっていった。

 やがて俺達は添い寝までするようになった。

 サヨリの身体でモニカの胸元に顔を埋めることは、最初は情けなくて恥ずかしくて、だけど驚くほど落ち着いた。

 モニカもまた、俺を抱きしめることで自分の寂しさを和らげているようだった。

 

 二人で抱き合うのは、いつからか習慣化した。

 そうしている間は寂しくなかったし、安心できた。

 それと同時に、モニカはずっとこの孤独を独りで抱えてきたのかと考え、ゾッとした。

 俺が同じ立場だったら、おそらく数日で壊れている。

 そんな孤独を、俺より遥かに長い時間、ずっと。

 だから俺の存在があるおかげで、モニカの孤独が少しでも癒せるのなら。

 できるだけ側にいてあげたい、と思った。

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