俺は自分の身体が小さく震えるのを感じていた。
それは恐怖だけではなく、もっと奥の方から浮かび上がってくる、覚えのない温かさを含んでいた。
その温かさが俺を動かし、気づけばモニカに抱きついていた。
「え……?」
モニカは、何が起こったか分からない、という声をしていた。
俺自身も頭の整理が追いつかなかったが、一つ分かったことがある。
サヨリの身体は、モニカのことを拒んでいない。
むしろ、傷ついた喉も、重たい胸も、まだ涙で濡れた頬も、全部が微かに前へ出ようとしているようだった。
俺自身の意思とは別に、指先がモニカの制服をそっと握り直す。
胸の奥で、小さな声がした気がした。
言葉として聞こえたわけではない。
耳に届いた音ではなく、もっと深いところに沈んでいた感情が、泡のように浮かび上がって形を取っただけだった。
それでも俺には、はっきりと分かった。
『モニカちゃんを、助けてあげて』
俺は息を呑んだ。
喉の痛みが鋭く走り、目の奥にまた涙が溜まった。
サヨリはもういないのかもしれない。
少なくとも、俺が知っているサヨリの意識が、そのままここに残っているとは限らない。
けれど、この身体のどこかに、あの子が誰かを恨み切れなかった優しさだけは残っている。
自分を追い詰めた相手にさえ、救われてほしいと願ってしまうような、ひどく危うくて、どうしようもなくサヨリらしい優しさだった。
「……サヨリが」
俺が呟くと、モニカの身体がはっきり強張った。
彼女は俺から離れることをせず、手を震わせながら俺の背中に置いていた。
俺はその震えを感じながら、言葉を続けるかどうか迷った。
でも伝えなければ、サヨリの最後の優しさまで自分が隠してしまう気がした。
「サヨリが、君を助けてあげてって言ってる気がする」
モニカは何も言わなかった。
沈黙が落ちた。
その沈黙は、さっきまでの警戒や恐怖よりもずっと重く、彼女の呼吸を浅くしていくようだった。
俺は顔を上げた。
モニカの目は見開かれていた。
泣く寸前で止まっていた涙が、今度こそ目尻からこぼれそうになり、彼女はそれを止める方法を見失っているようだった。
完璧な部長の表情はどこにもない。
そこにいたのは、自分が傷つけた少女の名前を前にして、罰を待つことすらできなくなった普通の女の子だった。
「……そんなこと、言うわけない」
モニカの声はかすれていた。
否定の形をしているのに、その奥には信じてしまいそうな自分への怯えが滲んでいた。
俺はすぐに首を横に振らなかった。
断言できるほど、俺にも確信があるわけではない。
ただ、この胸の奥に残る温度を、気のせいだけで片づけることもできなかった。
サヨリならそう願うだろう。
そう思えてしまうこと自体が、あまりにも残酷だった。
「分からない。
でも、この身体がそう思ってる。
多分、俺の中にいるサヨリが」
モニカは唇を噛んだ。
細い肩が小さく揺れ、彼女は俺の首元を見ないように目を逸らした。
見れば、自分が何をしたのかを逃げられなくなる。
見なくても、もう逃げられない。
その板挟みの中で、モニカは息をすることさえ下手になっていた。
「ずるいわ」
モニカは震える声で言った。
彼女の手が、俺の背中から離れかけて、また戻ってきた。
拒絶したいのに、拒絶しきれない。
受け取る資格なんてないと思っているのに、受け取らなければ本当に取り返しがつかなくなると分かっている。
そんな迷いが、指先の弱い力に全部出ていた。
「サヨリにそんなことを言われたら、私はもう、逃げられないじゃない」
俺はその言葉を聞いて、胸の奥が静かに痛んだ。
逃げられないのは、モニカだけではない。
俺も同じだった。
サヨリの身体に宿った以上、もう画面の外の安全な場所から物語を見ることはできない。
それでも、この身体がまだ前に出ようとするなら、俺はその願いを無視したくなかった。
「逃げなくていいよ」
モニカの涙が、ひとつだけ落ちた。
彼女はそれを慌てて拭おうとしたが、俺の手が先に動いた。
サヨリの細い指が、モニカの頬に触れる。
モニカはその手を見つめ、何かを堪えるように目を細めた。
触れられる資格がないと思っている顔だった。
それでも、彼女は逃げなかった。
「私、サヨリに謝っても、もう届かないのに」
その言葉には、言い訳ではなく、取り返しのつかなさに押し潰される音があった。
俺は少しだけ迷ってから、彼女の頬に触れた手を離さなかった。
届かないかもしれない。
けれど、届かないから終わりにしていいわけではない。
「届くよ。
サヨリなら、絶対に聞いてくれる」
モニカは顔を歪めた。
今度の涙は、一滴では済まなかった。
声を上げて泣くわけではない。
ただ、堰を切ったように静かに涙が流れ、彼女の完璧だった表情を少しずつ崩していった。
俺はその顔を見て、やっと少しだけ分かった気がした。
モニカを助けるというのは、罪を消すことではない。
彼女が自分のしたことを抱えたまま、それでも誰かを消さない道へ戻ってこられるように、隣に立つことなのだ。
それはきっと、サヨリが本当に望みそうな救い方だった。
甘すぎて、危うくて、けれど誰よりも人を一人にしないやり方だった。
「ごめんなさい」
モニカは小さく言った。
その声は俺に向けられたものでもあり、この身体の奥に残るサヨリへ向けられたものでもあった。
俺は返事をしなかった。
『許す』と言う資格は俺にはない。
『許さない』と言うには、サヨリの温度が優しすぎる。
だから俺は、もう一度だけモニカを抱きしめた。
モニカも今度は、弱々しくではあるが、確かに俺の背中へ腕を回した。
こんなやりとりをしている間も、相変わらず世界が何事もなかったように流れている。
俺達の抱擁にもモニカの涙にも、部員たちは誰も気づかない。
この世界では、『サヨリ』の役割は存在しない。
でも、やりたいこと、やるべきことだけはハッキリと決まった。
助ける、なんて大仰なことは出来ないかも知れない。
でも、絶対にモニカを一人にはさせない。
◇
この世界に『例外』が生まれた瞬間、世界は目に見えない場所で少しだけ軌道を外れた。
壊れるはずだった線路は、派手に爆発するのではなく、静かにポイントを切り替えられたように別の方向へ進み始めた。
部員たちは相変わらず文芸部の中のサヨリを認識しない。
けれど、モニカの視線だけは違った。
彼女はサヨリの身体に宿った俺を見て、話しかけ、時には答えに詰まり、時にはどうしようもなく苦い顔をした。
そのたびに、世界のどこかで予定されていた歪みが、少しずつ別の形へほどけていった。
ユリの瞳は、危うい熱に焼かれない。
ナツキの言葉は、無理やり壊された棘を持たない。
モニカはMCを見つめる時間を失い、代わりに、教室の隅で誰にも認識されない俺を見ていた。
それは恋と呼べるほど甘いものではなく、罪悪感と同情と、外側を知る者同士の奇妙な連帯が絡まったものだった。
それでも、モニカの中でMCだけが出口だった世界は、確かに終わっていた。
彼女はもう、MCに愛されるために誰かを壊そうとはしなかった。
壊したくなかった、というより、壊す先に待っている空白を俺から聞いてしまったからだ。
自分が最後に一人で歌うこと。
自分が削除されること。
自分が愛を求めた相手に、愛ではなく操作として消されること。
その結末を知る俺が、サヨリの身体で自分を抱きしめた事実は、モニカの中にあった執着の形を決定的に変えてしまった。
MCはもう、外側へ繋がる唯一の穴ではなかった。
外側から来た誰かが、今ここにいる。
しかも、本来は死んでいなければならないサヨリの身体で、モニカの罪を知ったまま、それでも隣に立とうとしている。
それは救いというにはあまりに歪で、罰というにはあまりに温かかった。
「……あなた、部活が終わったらどこに帰ってるの?」
部活が終わった後、モニカは教室の扉に手をかけたまま、振り返らずにそう聞いた。
俺は答えに詰まった。
サヨリの家はある。
部屋も、制服も、朝に見た鏡も、彼女が使っていた生活の痕跡も残っている。
けれどあそこはサヨリの居場所であって、俺の居場所じゃない。
自分が異物であることを最も認識してしまう場所だ。
あそこへ一人で帰ることを想像しただけで、喉の奥が痛みとは別の理由で縮んだ。
「……サヨリの家、だけど。
あそこに一人でいるのは、きつい。
どうしても、嫌なことばっかり考えちゃうから」
モニカの肩が小さく震えた。
彼女はその言葉に含まれているものを、誰よりも理解してしまう立場にいた。
謝ることも、目を逸らすことも、どちらも足りない。
だから彼女は、しばらく何も言わなかった。
沈黙の中で夕焼けだけが濃くなり、教室の机に長い影を落としていく。
俺はモニカの背中を見ながら、彼女がどんな顔をしているのか考えた。
きっと、いつもの完璧な笑顔ではない。
そう思うと、少しだけ胸が痛んだ。
「……ねえ、うちに来る?」
突然だった。
モニカの声は、あまりにも静かだった。
提案というより、罪を抱えるための決意に近い響きがあった。
モニカの家に住む。
言葉にすれば簡単だが、その意味は軽くない。
彼女はサヨリを追い詰めた側で、自分はサヨリの身体に宿った外側の人間だ。
そんな二人が一つ屋根の下にいるなんて、普通に考えればあり得ない。
けれど、この世界で俺を本当の意味で認識できるのはモニカだけだった。
「……いいのか?」
学校にいても、街を歩いても、サヨリの家へ戻っても、誰にも助けを求められない。
一般生徒にはサヨリとして見えても、この痛みの核心を分かる者はいない。
その現実を思い出した瞬間、俺は自分が思った以上に孤独を怖がっていることに気づいた。
「いいかどうかじゃなくて、私がそうしたいの。
あなたをあの部屋に一人で帰す方が、たぶん私は耐えられない」
俺はその言葉に、何かを返そうとして失敗した。
優しさと罪悪感の境目が分からない。
けれど、モニカの声は嘘ではなかった。
都合のいい償いにすがっているのかもしれない。
それでも、俺もまたその償いにすがりたいほど弱っていた。
「じゃあ、今日は……よろしく、おねがいします」
モニカの家は、俺が想像していたよりずっと普通だった。
きれいに整っていて、生活の匂いが薄く、部屋の隅まで彼女らしい几帳面さが行き届いている。
けれど、完璧すぎる部屋ではなかった。
机の上には書きかけの詩があり、本棚には何度も読んだらしい本が並び、窓際の植物はきちんと水をもらっていた。
画面の中で見た彼女よりも、ずっと生々しい暮らしがそこにあった。
ただ、その暮らしは、ふとした瞬間に不自然な薄さを見せた。
親はいることになっている。
けれど、今日は帰ってこないことになっているらしい。
客間はなく、必要になった時だけ用意されるような気配を見せて、すぐに壁へ戻る。
俺はその帳尻合わせを見て、怖いはずなのに少しだけ力が抜けた。
「……世界って、こういうところ雑なんだな」
モニカは複雑な顔をした。
笑っていいのか、謝るべきなのか、判断できない表情だった。
「たぶん、必要とされていない場所は用意されていないの。
私の家に誰かが泊まるなんて、想定されていなかったのかもしれないわ」
その説明は理屈として通っていた。
通っているのに、俺は少しだけ笑いそうになった。
この世界は人の心を壊すほど恐ろしいくせに、同居用の布団一つまともに準備してくれない。
その中途半端さが、妙に現実味を帯びていた。
モニカも同じことを思ったのか、ほんの少しだけ口元を緩めた。
俺もその表情に気づき、少しだけ笑った。
同じ価値観を共有できる人が近くにいるというのは、それだけで安心感があった。
◇
その夜から、俺達の奇妙な同居は始まった。
最初の夜は、手を握ってもらいながら寝た。
そうしているだけで、自分が世界に一人じゃないという実感を得て安心できた。
次の日には、帰宅後にモニカへ抱きついた。
本当に情けない話だが、寂しくて、心細くて仕方がなかった。
他の普通の学生には認識されるのに、MCやユリやナツキには認識されない。
その半端な存在の痛みが、俺のメンタルをじわじわ削っていた。
モニカは最初こそぎこちなく俺を抱き返したが、次第に背中を撫でる手つきが自然になっていった。
やがて俺達は添い寝までするようになった。
サヨリの身体でモニカの胸元に顔を埋めることは、最初は情けなくて恥ずかしくて、だけど驚くほど落ち着いた。
モニカもまた、俺を抱きしめることで自分の寂しさを和らげているようだった。
二人で抱き合うのは、いつからか習慣化した。
そうしている間は寂しくなかったし、安心できた。
それと同時に、モニカはずっとこの孤独を独りで抱えてきたのかと考え、ゾッとした。
俺が同じ立場だったら、おそらく数日で壊れている。
そんな孤独を、俺より遥かに長い時間、ずっと。
だから俺の存在があるおかげで、モニカの孤独が少しでも癒せるのなら。
できるだけ側にいてあげたい、と思った。