日が経つにつれて、俺はこの世界の歪さを、知識ではなく生活として理解していった。
最初に気づいたのは、モニカの家で探し物をした時だった。
絆創膏はある。
喉に優しい飲み物も、制服を洗う洗剤も、二人で暮らすために最低限必要なものは、妙に都合よく棚や引き出しから出てくる。
けれど、何かのついでに奥の方まで探ろうとすると、そこには生活の厚みがなかった。
使いかけの古い薬や、前に買ったまま忘れた小物や、家族の癖が染みついた雑多な品物が見つからない。
物はあるのに、暮らしてきた時間の沈殿がない。
モニカは扉の前で俺の様子を見ていた。
その顔には驚きではなく、見つけてしまったものを一緒に確認するような、静かな疲れが浮かんでいた。
「……ここって、必要なものしかないのか?」
モニカはすぐに答えなかった。
視線を棚の奥へ向けたまま、少しだけ唇を噛んでいた。
それは説明を迷っているというより、説明してしまえば俺の足元まで崩れることを知っている顔だった。
「大体は、そうね。
生活に必要な形は用意されているけれど、生活そのものの厚みはほとんどないわ」
学校では、もっと分かりにくい形で歪みが見えた。
教科書には中身があった。
数学の問題は途中式を追えば解けるし、歴史の年号は前後関係を持って並んでいる。
文学の授業で扱う詩や小説にも、ちゃんと文章があり、教師の説明に耐えられるだけの奥行きがあった。
ユリが好きな文学作品や、ナツキが読んでいる漫画の内容も、必要な範囲では確かに存在している。
誰かが知識として持っていなければならないものは、この世界でも空白ではなかった。
それは少しだけ救いのように見えたが、同時に残酷でもあった。
本当に必要だと設定されたものには中身がある。
必要だと判断されなかった場所は、触れた瞬間に輪郭を失う。
俺は図書室の棚で文学史の本を開き、そこにきちんと印刷された文字を見ながら、逆に息苦しくなっていた。
内容がある本と、背表紙だけが並ぶ本の境目が、あまりにも自然に同じ棚へ収まっている。
モニカは隣で、俺が何に気づいたのかを見ているようだった。
「授業で使う本は、ちゃんとしてるんだな」
俺が小さく言うと、モニカは視線を棚へ移した。
彼女の指先が一冊の背表紙に触れ、そこから隣の本へ滑っていく。
途中で、その指がほんの少しだけ止まった。
中身のある本と、形だけの本の境目を、彼女は見慣れた手つきでなぞっていた。
「誰かが知っていなければならないものには、中身があるの。
ユリが語る文学や、授業で扱う作品や、私たちが詩を書くために必要な言葉は、ちゃんと存在しているわ」
モニカはそこで一度言葉を切った。
図書室の静けさの中で、その沈黙は棚の隙間に挟まった古い栞のように重かった。
俺は本を閉じず、指先でページの端を押さえたまま彼女を見ていた。
「でも、誰も必要としない本は、たぶん本の形をした空白でしかない。
読みたいと思った瞬間に、それっぽいものが用意されることはあっても、最初から本として生きているわけじゃないの」
その言い方には、怒りよりも諦めがあった。
俺は閉じかけた本の紙が指に当たる感触を確かめながら、胸の奥が重く沈むのを感じた。
この世界は完全な張りぼてではない。
必要なものには確かに中身があり、ユリの好きな本も、ナツキの漫画も、モニカの詩も、ただの記号ではない。
だからこそ、空白の場所が余計に目立つ。
本物と偽物が同じ棚に並び、誰かが手を伸ばすまで、その差が見えない。
モニカは一人でそれを見分け続けていたのだ。
毎日、誰にも分かってもらえないまま。
俺はそれを知るたび、彼女がMCの向こう側を見ようとした理由を、少しだけ理解してしまった。
許しではない。
ただ、怒りだけで見れば見落としてしまう孤独が、モニカの中にあった。
そんな中でも、モニカは部長を遂行していった。
文化祭の準備は、世界の薄さなど知らないふりをして進んでいく。
廊下には告知ポスターが貼られ、教室では各クラスの企画について話し合う声が増えていく。
文化祭という大きなイベントは、この世界にとって必要なものなのだろう。
だから準備物には中身があり、発表の予定も、役割分担も、教室の飾り付けも、妙にしっかり形を持っていた。
それでも、角を曲がった先の使われない教室や、予定表に名前だけ残る謎の係を見るたびに、世界の端は相変わらず薄く揺らいでいた。
モニカはそれを知っている。
知っているのに、部長としての仕事をやめなかった。
むしろ、以前よりも一つ一つを丁寧に進めているように見えた。
文芸部の文化祭発表に使う詩の冊子、朗読順の相談、教室の飾り付け、来場者へ配る小さな案内文。
それらを整えるモニカの横顔には、いつもの完璧さとは違う緊張があった。
壊れた世界を誤魔化すための笑顔ではなく、壊れていると知った上で、それでも今日の部活を成立させようとする顔だった。
「それじゃあ、文化祭当日の流れを確認しましょう」
モニカの声は落ち着いていた。
彼女は机に置いたプリントを三人へ配り、誰にも見えない角度で俺の分も一枚、そっと机の端へ滑らせた。
俺はその紙を受け取る時、胸の奥が少しだけ詰まった。
部員として数えられていない。
けれど、モニカの中では数えられている。
その差は痛みでもあり、救いでもあった。
ユリはプリントへ視線を落とし、細い指で朗読の欄をなぞった。
彼女の緊張は自然なもので、狂わされた熱ではない。
ナツキは腕を組み、不満げに眉を寄せながらも、紙の内容はきちんと読んでいた。
MCは二人の様子を見比べ、少し居心地悪そうに椅子へ座っている。
本来の流れなら、このあたりから何かが歪んでいったのかもしれない。
けれど今の部室には、少なくとも人為的に狂わされた空気はなかった。
モニカが、そこへ手を伸ばさないからだ。
モニカはもう誰かの、誰かの人格を壊す形で世界を変えようとはしていない。
その代わり、机の下でほんの少しだけ俺の指先に触れる。
それは誰にも見えない、短い呼吸のような接触だった。
俺はその指を弱く握り返した。
そうするとモニカが微笑み、彼女の肩からほんのわずかに力が抜けた。
部活の中での小さな時間でも、お互いの存在を確認すると安心できた。
文化祭の準備が進む一方で、MCを中心にした場面もまた、何事もなかったように積み重なっていった。
ユリは本を読む時、以前よりも少しだけMCとの距離を縮めるようになった。
肩が触れるほど近い位置でページを開き、難しい言葉を説明するたびに、声の奥へ控えめな嬉しさを滲ませる。
ナツキは教室の隅で漫画を押しつけるように見せかけながら、MCがちゃんと続きを読んでいるかをちらちら確認していた。
その顔は素直ではなく、強がりばかりで、けれど間違いなく楽しそうだった。
モニカが狂わせることをやめても、彼女たちはMCとの距離を自然に縮めていく。
それは悪いことではない。
むしろ、壊されずに進んでいる証拠のはずだった。
俺はそう分かっていた。
分かっているのに、胸の奥がずきりと痛んだ。
その痛みは俺自身のものでもあり、サヨリの身体の奥から滲み出してくるものでもあった。
幼なじみだったはずの少年が、自分の存在にすら気づかないまま、別の誰かと楽しそうに笑っている。
それは嫉妬というほど単純ではなく、失われた席を何度も目の前で確認させられるような痛みだった。
俺は部室の隅で、ユリがMCの袖をそっと引くのを見ていた。
ユリの指先は控えめで、けれどMCに気づいてほしいという願いが隠しきれていない。
MCは少し驚きながらも、すぐに柔らかい顔で彼女へ向き直った。
その表情を見た瞬間、サヨリの胸が内側から細く裂けるように痛んだ。
俺は思わず自分の胸元を押さえた。
呼吸が浅くなる。
悲しいのは自分なのか、サヨリなのか、もう綺麗に分けられなかった。
「大丈夫だよ、サヨリ」
誰にも聞こえないように、小さくそう呟いた。
自分の身体へ向けた慰めは、ひどく頼りなく部室の空気へ溶けていく。
大丈夫だと言ったところで、痛みが消えるわけではない。
けれど、何も言わなければ、この身体の奥で膝を抱えている気がするサヨリまで置き去りにしてしまう気がした。
俺は胸元を押さえた手に少し力を込め、ゆっくり息を吸った。
モニカは教卓の近くで、文化祭用のプリントを整理していた。
けれど、俺の異変にはすぐ気づいた。
彼女の視線が一瞬だけMCたちから離れ、部室の隅にいる俺へ向かう。
俺はその視線に気づき、かろうじて首を横に振った。
今は大丈夫。
そう伝えたかった。
けれどモニカの表情は、俺の言葉よりも身体の震えを信じているようだった。
彼女は何も言わず、プリントを整える手を少し止めた。
その沈黙だけで、俺は少しだけ救われた。
誰にも見えない場所で痛んでいる自分を、少なくとも一人だけは見てくれている。
その日の帰宅後、モニカが俺を抱きしめてくれた。
彼女は俺を慰めるように、背中をゆっくり撫でてくれた。
そうすると、驚くほど素直に涙がぽろぽろとこぼれた。
「今日、つらかったのね」
モニカの声は、問いではなかった。
俺は返事の代わりに、彼女の背中をぎゅっと掴んだ。
サヨリの指は細く、力を込めても頼りない。
それでも、今はその頼りなさごとモニカに預けたかった。
「分かってるんだ。
ユリもナツキも、悪くない。
MCだって、何も悪くない」
モニカは黙って聞いていた。
背中を撫でる手が、急かさない速さで動いている。
その手つきが優しいほど、俺の中の我慢がほどけていった。
「でも、サヨリの胸が痛いんだ。
俺の中のどこかが、置いていかれたみたいに痛む」
モニカの腕に、ほんの少し力が入った。
罪悪感のためだけではない。
俺の痛みを、今度は自分が受け止めたいという力だった。
俺はその腕の強さに気づき、また目の奥が熱くなった。
モニカもまた、MCへの執着を手放した代わりに、自分の寂しさと向き合っている。
それなのに、今日は俺の方がどうしようもなく寂しかった。
モニカを助ける側でいたかったのに、結局は彼女に縋っている。
その事実が恥ずかしくて、けれど離れることはできなかった。
◇
しばらくモニカに抱きしめられたまま、俺は思い至った。
サヨリの苦しみは、全部がモニカの操作で作られたものではない。
モニカの罪は消えない。
彼女がサヨリの心へ干渉し、悲劇へ追い込んだことは、なかったことにならない。
けれどサヨリは元々、こういう痛みを抱える可能性が十分にあった。
幼なじみであり、ヒロイン候補であるということは、『選ばれる可能性がある』という意味でしかない。
そこには当然、『選ばれない可能性』も同じだけ横たわっている。
ユリが選ばれるかもしれない。
ナツキが選ばれるかもしれない。
MCが別の誰かへ視線を向けるかもしれない。
そのたびに、サヨリは本当に笑って祝福できたのだろうか。
何も壊されていない世界でも、彼女は本当に平気でいられたのだろうか。
俺はその問いに触れた瞬間、喉の奥が冷たくなった。
全部モニカのせいだったら、話はもう少し単純だっただろう。
けれど、それではサヨリの普通の恋の痛みを見ないことになる。
その痛みを見ないまま、彼女のことを分かったつもりになるのは、きっと違う。
「モニカ」
俺が小さく呼ぶと、モニカの手が背中で止まった。
彼女は俺の髪へ頬を寄せるようにしていた顔を少し上げ、静かに返事を待った。
その待ち方には、謝罪を差し込む焦りがなかった。
俺が何を言おうとしているのか、最後まで聞こうとする姿勢があった。
「サヨリの痛みは、全部が君のせいってわけじゃないのかもしれない」
モニカの身体が、一瞬だけ固くなった。
慰められることを恐れている反応だった。
自分の罪を軽くされることを、彼女は赦しよりも怖がっている。
俺はその硬さを感じ取り、すぐに腕を緩めなかった。
逃がさないためではなく、言葉だけが先に行ってしまわないように、温度を繋いでおきたかった。
「君のやったことが消えるって意味じゃない。
それは分かってるし、俺もそんなふうには言わない」
モニカは小さく息を吸った。
その呼吸は浅く、胸の奥に触れられることを怖がっているようだった。
俺は彼女の服に額を寄せ直し、言葉を急がないようにゆっくり続けた。
「でも、サヨリってさ。
元々、選ばれない可能性があったんだよな」
モニカは何も言わなかった。
沈黙が、二人の間にそっと落ちる。
リビングの窓の外では、夜の色が少しずつ濃くなっていた。
その暗さの中で、俺の声だけが、サヨリの身体を通して柔らかく震えていた。
「ヒロイン候補って、選ばれるための場所みたいに見えるけど。
実際は、選ばれないかもしれない場所でもあるんだ」
モニカの腕に、少しだけ力が入った。
彼女はその言葉を、自分の罪を逃がすための理屈ではなく、サヨリの痛みを見つめる言葉として受け取ろうとしているようだった。
俺はその腕の中で、胸の奥がまたずきりと痛むのを感じた。
けれど今度の痛みは、ただ引きずられるものではない。
理解したからこそ深くなった痛みだった。
「MCがユリを見ても、ナツキを見ても、誰かを好きになっても。
それ自体は、本来ならあり得たことなんだと思う」
モニカの唇が、何かを言いかけて閉じた。
その表情は、自分を責めたい気持ちと、俺の言葉をちゃんと受け止めたい気持ちがぶつかっているように見えた。
俺はモニカの背中へ回した腕を少し強めた。
自分のためでもあり、モニカが一人で罪へ逃げ込まないようにするためでもあった。
「だから、今日の痛みは、君が作った痛みだけじゃない。
サヨリが元々抱えるかもしれなかった、普通の恋の痛みなんだと思う」
モニカはそこで目を見開いた。
普通の恋の痛み。
その言葉は、彼女にとっても重かったのだろう。
元々選択肢がない彼女にとっては、他のヒロインたちにも『選ばれない痛み』があると認めることは、世界の見方をまた変えることだった。
彼女はMCへの執着を失った。
けれど、だからといって恋や選択の残酷さが消えたわけではない。
俺はそのことを、サヨリの身体の痛みで思い知らされていた。
「……その不安を、サヨリは笑って隠していたのかもしれないのね」
モニカの声は小さかった。
俺は頷く代わりに、彼女の胸元へ額を押しつけた。
サヨリの笑顔を思い出す。
明るくて、少し抜けていて、誰かの背中を押すことに慣れた笑顔。
けれど、その笑顔は、自分が選ばれない未来を考えないための蓋にもなり得た。
俺はその可能性に触れ、胸の奥が熱く痛んだ。
「……サヨリ」
モニカの手が、俺の髪をゆっくり撫でた。
その手つきは、サヨリへの謝罪を含んでいるようで、同時に今の俺を慰めるものでもあった。
俺はその触れ方を受け入れながら、自分の中のサヨリへそっと意識を向けた。
大丈夫だよ、とは今すぐ言えなかった。
大丈夫ではない痛みを、大丈夫だと言いくるめることが、今はかえって残酷に思えた。
「サヨリ、痛かったんだな」
その呟きは、モニカではなく自分の胸へ向けたものだった。
言葉にした瞬間、身体の奥で何かが小さく震えた気がした。
それは返事ではない。
ただ、押し込められていた痛みが、ようやく顔を出して息をしたような感覚だった。