文化祭前日の部室は、いつもより静かに片づいていた。
机の上には朗読用の台本が揃えられ、モニカが作った当日の段取り用の冊子と一緒に、明日のためにきちんと置かれている。
MCは最後の確認を終えると、少し緊張した顔で帰っていった。
ユリは何度も台本を胸に抱え直し、ナツキは照れ隠しのように文句を言いながらも、明日の準備を誰よりも気にしていた。
三人が帰った後、部室にはモニカと俺だけが残った。
正式な部員として数えられない俺の手元にも、モニカが渡した小さな予定表がある。
そこには二人だけが分かる印が並び、明日の朝に立つ場所と、互いを見るタイミングが小さく書き込まれていた。
けれど、その紙を見れば見るほど、俺の胸の奥には別の不安が広がっていく。
実際の物語では、文化祭は一度も来なかった。
準備だけが進み、そこへ辿り着く前にすべてが壊れた。
モニカにも折に触れてその説明は行い、彼女もそれは承知していた。
だから、今のところ何も起きていない、
文化祭までいかなくなるような懸念は何一つない。
何一つないのに、明日という日が近づくほど、世界が何かを思い出してしまうのではないかという恐怖が濃くなった。
モニカも同じものを感じているのだろう。
彼女は最後のプリントを鞄へしまった後、部長の顔をほどいたまま、窓の外の夕暮れを見つめていた。
その横顔は落ち着いて見えたが、指先だけが小さく震えている。
俺はその震えを見て、胸の奥で言葉が絡まるのを感じた。
明日が来るかどうか分からない。
来たとして、その先に何があるかも分からない。
もし明日で何かが変わって、モニカとこうしていられなくなるなら、今日の自分は何を残したいのか。
そう考えた瞬間、答えは怖いほどはっきりしてしまった。
「モニカ」
俺が呼ぶと、モニカはゆっくり振り返った。
その目は、いつものように俺だけを見ている。
世界がどれだけ薄くても、文化祭の先がどれだけ未知でも、その視線だけは最初から最後まで俺を捉えていた。
俺は予定表を机に置き、少しだけ近づいた。
言葉を選ぼうとすると、胸の奥でサヨリの不安と自分の恐怖が混ざって、どれも上手く形にならない。
それでも、何も言わずに触れてしまうのは違うと思った。
モニカは俺の迷いを感じ取ったのか、逃げずに待っていた。
「明日、どうなるか分からないだろ。
文化祭まで行けるのか、その先も続くのか、俺にはもう何も分からない」
モニカは小さく頷いた。
その頷きには、怖いという言葉を飲み込んだ気配があった。
俺は彼女の両手を取り、指先の冷たさを掌で包んだ。
部室の窓から入る夕焼けの光が、机の上の飾りや紙束を淡く染めている。
明日のために用意されたものが、こんなにも確かにあるのに、それでも明日は保証されていない。
その矛盾が、俺の呼吸を少しずつ浅くした。
「だから、もしお別れになるかもしれないなら。
何も残せないままは、嫌なんだ」
モニカの瞳が揺れた。
彼女はすぐに答えなかった。
ただ、握られた手をわずかに握り返し、俺の言葉を最後まで受け止めようとしていた。
俺は目を伏せかけたが、逃げたらきっと後悔すると思い直した。
今言わなければならないのは、説明ではなく願いだった。
「キス、してもいいか?」
モニカは息を止めた。
夕暮れの部室で、その沈黙だけがやけに大きく感じられた。
俺の胸も、サヨリの胸も、同じ場所で痛むように震えている。
拒まれたら怖い。
受け入れられても怖い。
けれど、明日失うかもしれないものを前にして、怖いから何もしないことだけは選べなかった。
モニカは俯き、握られた手に力を込めた。
それから、ほんの少しだけ顔を上げる。
彼女の頬は赤く、瞳には不安と寂しさと、どうしようもないほどの期待が混ざっていた。
「……悔いを残したくないのは、私も同じよ」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で張り詰めていたものが少しだけほどけた。
俺はゆっくり近づいた。
モニカも目を閉じて、俺のことを受け入れてくれた
二人の距離が近づくにつれて、部室の空気がひどく静かになる。
ユリの詩も、ナツキのメモも、MCの残した椅子も、明日の文化祭へ向かう準備のすべてが、遠くに沈んでいくようだった。
俺はモニカの手を握ったまま、そっと唇を重ねた。
触れるだけの短いキスだった。
それでも、俺の胸の奥では、言葉にできなかった不安と寂しさが一度に溢れた。
モニカの唇はわずかに震えていて、彼女も同じように怖がっているのだと分かった。
離れる時、モニカはすぐには目を開けなかった。
俺もまた、握った手を放せなかった。
キスひとつで世界は変わらない。
明日が保証されるわけでも、文化祭が必ず来るわけでもない。
それなのに、何も残せないまま消えるかもしれないという恐怖だけは、少しだけ形を変えていた。
一緒に明日を迎えたいという、切実な願いと希望に。
その夜、俺達は一晩中抱き合って眠った。
離れたくなかった。
明日が来るのも、来ないのも、どちらも怖かった。
それでも、朝は来た。
文化祭当日の朝が、確かに来た。
校門には文化祭の看板が掲げられ、廊下には飾りが揺れ、文芸部の教室にも来場者を迎えるための席が整っていた。
俺とモニカは看板を見上げ、しばらく声を出せなかった。
本来なら来なかった日。
準備の先に存在しなかった景色。
その未知の領域が、今まさに目の前に広がっている。
モニカの手は震えていたが、部長としての背筋は折れていなかった。
俺は誰にも見えない位置で、そっと彼女の指先に触れた。
モニカは一瞬だけ目を細め、すぐに指を離した。
その短い接触だけで十分だった。
二人は互いに、ここにいることを確認した。
「モニカ、文化祭だよ」
俺がそう言うと、モニカは深く息を吸った。
それから、教室の扉の方へ向き直る。
文化祭当日の朝を迎えた部長として、彼女は文芸部の入口に立った。
扉の向こうから、最初の来場者らしい声が近づいてくる。
俺は部室の隅で、その瞬間を見ていた。
モニカは微笑んだ。
完璧な仮面ではない。
怖さを抱えたまま、それでも迎えようとする部長の笑みだった。
俺はその横顔を見つめ、サヨリの身体の奥へもう一度だけ語りかけた。
見てるか、サヨリ。
文化祭が始まるよ。
その言葉に返事はなかった。
けれど胸の奥で、どこか温かいものが揺れた気がした。
◇
文化祭は、驚くほど楽しげに進んでいった。
廊下には他のクラスの呼び込みが響き、紙の飾りが人の流れに揺れ、文芸部の教室にも思ったより多くの生徒が足を運んできた。
ユリは最初こそ指先を震わせていたが、朗読が始まると声の奥に静かな熱を宿し、聞いていた者の心をしっかり掴んでいた。
ナツキはぶつくさ言いながら来場者にカップケーキを配りながら、誰かが美味しいと言うたびに、耳まで赤くしてそっぽを向いていた。
そんな彼女も自分の番が来ると、先程まで赤くなっていたのがまるで嘘かのように堂々と朗読していた。
MCも不器用なりに二人を支え、来場者の案内や片づけを手伝いながら、本人もまた拙いなりに自分の朗読をしっかりやり遂げていた。
モニカはその中心で部長をしていた。
案内をし、朗読の順番を整え、緊張するユリに声をかけ、ナツキの機嫌を損ねすぎないように自然な言葉を挟む。
その動きは完璧すぎる仮面ではなく、失敗を恐れながらも、その場にいる全員を最後まで連れていこうとする人間の動きだった。
俺は教室の端から、それをずっと見ていた。
準備で終わらなかった。
朝で止まらなかった。
誰も壊れないまま、文芸部は来場者を迎え、詩を読み、カップケーキを配り、文化祭という一日を進めている。
教室の外から聞こえる笑い声も、廊下を行き交う足音も、全部が奇跡の上に乗っている。
そのことを知っているのは、この世界で二人だけだった。
ユリもナツキも、MCも、今日という日を普通の文化祭として受け取っている。
本来訪れる筈だった破局など、誰も想像すらせず過ごしている平和な光景だった。
それは少し寂しく、同時にたまらなく眩しかった。
夕方になり、最後の来場者が教室を出ていった。
廊下の賑わいはまだ残っていたが、文芸部の教室には、達成感と柔らかい疲れが満ちていた。
机の上には空になったカップケーキの箱があり、朗読用の台本は少しだけ角が丸くなっている。
ユリは胸に手を当てたまま、まだ余韻から戻りきれていない顔をしていた。
ナツキは疲れたように椅子へ座り込みながらも、空の箱を見てどこか誇らしげだった。
MCはそんな二人を見て、安心したように笑っている。
モニカは黒板の前に立ち、全員を見渡した。
何か言おうとしたのだろう。
部長として、今日の終わりにふさわしい言葉を置こうとしたのだろう。
けれど、彼女の唇は震えただけで、すぐには声にならなかった。
俺はその瞬間、息を止めた。
モニカの目に涙が浮かんでいた。
それは静かに溜まり、彼女が瞬きをした拍子に頬へ落ちた。
部室の空気が一瞬止まる。
ユリもナツキもMCも、その涙の意味を正しくは理解できていなかった。
文化祭が本来は来なかった日であることも、モニカが一度世界を壊しかけたことも、今日が奇跡の上に成り立っていることも、彼らは知らない。
それでも、モニカが誰よりも準備を頑張っていたことは知っていた。
段取りを考えつつ全員の様子をちゃんと見て、得意な役割を適切に割り振り、最後まで文芸部の形を守っていたことは、ちゃんと見ていた。
「だ、大丈夫ですか、モニカちゃん……!?
ええっと、その……私達、負担をかけすぎてしまいましたか?」
ユリの声は遠慮がちだったが、そこには本気の心配があった。
彼女は言葉を選びながら、一歩だけモニカへ近づいた。
ナツキも腕を組んだまま、顔を赤くして視線を逸らしていたが、足はモニカの方へ向いている。
「ずっと動きっぱなしだったし、疲れが出たんじゃないの?
ま、一番文化祭に入れ込んでたのはアンタだもんね。
お疲れ様、モニカ」
ナツキの言い方は素直ではなかった。
けれど、その声には刺ではなく照れが混じっていた。
MCも慌てたように机の上のティッシュを探し、差し出し方に迷いながらもモニカの前へ置いた。
モニカは三人を見て、さらに泣きそうな顔になった。
俺らは涙の本当の意味を知らない。
けれど、知らないなりに慰めようとしてくれている。
それが、モニカの中に残っていた何かを静かに崩したのだろう。
彼女は無理に笑おうとして失敗し、震える息を吐いた。
「ありがとう。
今日は、本当にみんなが頑張ってくれたから、最後までできたのだと思うわ」
その言葉は、部長としての挨拶だった。
同時に、誰にも伝わらない本音でもあった。
最後までできた。
文化祭を迎え、発表し、片づけの時間まで辿り着いた。
俺は教室の端で、唇を噛みしめた。
駆け寄って抱きしめたかった。
けれど、ここで俺が動けば、ユリやナツキには不自然な現象に見えてしまう。
だから俺は、誰にも見えない位置で拳を握り、モニカだけへ届くように小さく頷いた。
モニカは涙を拭いながら、一瞬だけこちらを見た。
その目が、ちゃんと届いたと言っていた。
彼女は一人で泣いているのではない。
それを確かめられただけで、俺は少しだけ呼吸を取り戻した。
家に帰る頃には、空はすっかり暗くなっていた。
モニカは玄関で靴を脱いだ瞬間、糸が切れたように肩を落とした。
学校では最後まで部長として立っていたが、家に戻ったことで、ようやく緊張がほどけたのだろう。
俺は鞄を置き、何も言わずにモニカの正面へ回った。
モニカは少しだけ目を赤くしたまま、俺を見る。
その顔に残る疲れと安心を見た瞬間、俺はもう我慢できなかった。
俺は両手を伸ばし、モニカをぎゅっと抱きしめた。
モニカの身体は一瞬だけ驚き、すぐに俺の腕の中へ沈むように力を抜いた。
「モニカ、すごかった」
俺はそう言って、彼女の背中を撫でた。
声が少し震えているのは、自分でも分かった。
けれど、今日だけはその震えを隠したくなかった。
「本当にすごかった。
ちゃんと部長だったし、ユリもナツキもMCも、最後まで文芸部として文化祭をやり切れた」
モニカの息が胸元で詰まった。
彼女は何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。
俺は彼女の髪へ手を移し、そっと頭を撫でる。
普段はモニカに撫でられることの方が多い。
けれど今日は、どうしても俺が撫でてあげたかった。
文化祭が来ないかもしれない恐怖を抱えたまま、モニカは部長を続けた。
誰にも正しく理解されない涙を流して、それでも部員たちの前で最後まで立っていた。
その全部を、誰かがちゃんと褒めなければならないと思った。
「怖かったのに頑張った。
一人で抱え込まないって約束してくれたし、壊さないで、ちゃんとみんなを見てた」
モニカの腕が、俺の背中へ回った。
最初は弱く、次第に強くなる。
彼女は顔を俺の肩に埋め、声を出さずにまた泣き始めた。
学校での涙よりも、ずっと幼くて、隠す力のない泣き方だった。
俺はその頭を撫で続けた。
髪の流れを指で整え、時々、額のあたりへそっと触れる。
モニカの涙が肩を濡らしても、俺は離れなかった。
今度は彼女が、部長ではなくただのモニカとして泣いていい時間だった。
「私、未来に行けるのね」
モニカの声は涙に濡れていた。
俺は頷き、彼女をさらに強く抱きしめた。
その言葉の重さを、きっとこの世界で本当に分かるのは二人だけだった。
「行けたよ。
ちゃんと当日を迎えて、ちゃんと終わりまでやった」
モニカの肩が震えた。
俺は彼女の後頭部を優しく撫で、ゆっくり息を合わせる。
文化祭の賑わいはもう遠い。
ユリやナツキの慰めも、MCのぎこちない気遣いも、あの教室に置いてきた。
ここにあるのは、モニカがようやくほどいた涙と、それを受け止めるための体温だけだった。
「すごいよ、モニカ。
誰も壊さなかったし、誰も壊れなかった。
君のおかげで、みんなが文化祭を迎えることが出来たんだ」
その言葉を聞いた瞬間、モニカは堪えきれないように泣いた。
俺はただ、よしよしと頭を撫で、背中を支え、彼女が立っていられなくなりそうなら一緒にソファへ座った。
モニカは俺の胸元へ顔を埋めるようにして、何度も小さく身を震わせた。
俺はそのたびに、彼女の髪を撫でながら褒め続けた。
文化祭の最後まで声を出せたこと。
部員たちをちゃんと見ていたこと。
泣いても逃げなかったこと。
部長として立ち続けたこと。
ひとつひとつ、今日のモニカがやったことを言葉にして渡していった。
モニカは何度も首を横に振りかけたが、そのたびに俺の手が頭を撫でると、否定する力を失っていった。
「……わたし、頑張った?」
「うん、とっても」
そう返すと、モニカは俺の腕の中でゆっくりと力を抜いていった。
そしてしゃくりあげる声が、いつしか寝息へと変わっていく。
やっぱり、一日中気を張って疲れきっていたらしい。
「おやすみ、モニカ。
また、明日……」
モニカの重みと体温を感じながら、俺もまた微睡みの中に身を委ねていった。