サヨリ転生   作:東頭鎖国

5 / 6
第五話

 文化祭が終わった翌日、学校は何事もなかったように後片づけの空気へ移っていた。

 廊下の飾りは少しずつ剥がされ、昨日まで賑やかだった掲示板には、次の行事予定を貼るための空白が戻っている。

 文芸部の部室にも、並べ替えた机や椅子が元の位置へ戻され、カップケーキの甘い匂いだけがかすかに残っていた。

 

 俺はその光景を見て、胸の奥に奇妙な落ち着かなさを覚えた。

 文化祭まで辿り着いた。

 それは間違いなく奇跡だった。

 けれど、奇跡が起きたことで、今度はいよいよ何も分からなくなってしまった。

 画面の外で知っていた物語は、文化祭の前に崩れていた。

 その先に、俺の知識は存在しない。

 セーブデータの先も、攻略ルートの先も、イベントの先もない。

 ただ、昨日の続きとして今日があり、今日の続きとして明日が来るかもしれないという、当たり前すぎて恐ろしい未来だけが残っていた。

 

 モニカもまた、同じ場所に立っていた。

 文化祭まで行くことを願い、その奇跡を掴み取ったからこそ、次の目標を失ってしまった。

 けれど、分からないということは、壊れると決まっていないということでもある。

 誰が消えるか、誰が狂うか、誰が選ばれないか、その全部がシナリオとして決まっているわけではない。

 怖い。

 けれど、怖さの向こうに初めて自分たちで歩ける道があるのかもしれない。

 

「分からないって怖いけど、本来はそれが当たり前なんだよな」

 

 俺がそう言うと、モニカは静かに頷いた。

 彼女の瞳にはまだ疲れが残っている。

 それでも、昨日文化祭を終えた後に泣いていた時より、少しだけ呼吸が深くなっていた。

 

「そうね。

 決まっている破綻へ進むよりは、怖くても分からない方がいいのかもしれない」

 

 モニカは文芸部を続けると言った。

 文化祭が終わっても、詩を書くのも、読書をするのも、部員たちの居場所を作るのも、文化祭のためだけではない。

 彼女はそれを、この世界の中で続けたいと願った。

 俺も、見えない部員のような形でもここに来ると約束した。

 誰にも共有されない詩をまた書き、モニカがそれを読んでくれる。

 

 未来は分からない。

 けれど、明日も詩を書くことはできるかもしれない。

 明日もモニカがそれを読んでくれるかもしれない。

 その程度の小さな予定が、空白の未来へ最初に置く印になるのだろう。

 

 その日の夜、未来について話し合うはずだった時間は、奇妙な光で断ち切られた。

 文化祭を終えた疲れが残る部屋で、俺はモニカの隣に座り、明日の部活で何をするかをぼんやり考えていた。

 夕食の片づけも終わり、テーブルには二人分のカップだけが残っている。

 モニカは少し眠そうな顔をしながらも、時々こちらを見ては、文化祭が終わった後の静けさを確かめるように息をしていた。

 

 

 

 その穏やかな空気の中で、俺の指先がふと淡く光った。

 最初は照明の反射かと思った。

 けれど光は皮膚の内側から滲むように広がり、サヨリの細い指を透かすように白く染めていった。

 俺は息を止め、自分の手を見下ろした。

 

「……え?」

 

 指の輪郭が、ほんの少し薄い。

 手の向こう側にあるテーブルの木目が、淡く透けて見えた。

 モニカもすぐに気づいた。

 彼女の顔から、さっきまでの柔らかい疲れが一瞬で消えた。

 カップに触れていた手が止まり、椅子が床を擦る音だけが部屋に響いた。

 

「……なに、それ」

 

 モニカの声は、怯えを押し殺しきれていなかった。

 俺は答えようとして、自分の喉がうまく動かないことに気づいた。

 痛みではない。

 身体そのものが、この世界から少しずつ外されているような感覚だった。

 胸の奥が軽くなる。

 腕の重さが薄れる。

 床に立っているはずなのに、足の裏が何かに押し返され、地面についていない。

 俺は動揺して身体がふらつき、モニカが慌てて支えた。

 

 触れられる。

 まだ、触れられる。

 その事実に安堵した瞬間、余計に恐怖が胸を締めつけた。

 モニカの手は確かに温かいのに、自分の腕だけが少しずつ光へほどけていく。

 役目を終えたと判断されたのか。

 世界にとって異物だと判断されたのか。

 それとも、文化祭という本来なかった未来に到達したことで、例外としての存在理由が消えたのか。

 理由は何も分からなかった。

 けれど、ひとつだけ分かることがあった。

 お別れの時が来ている。

 

「嘘よ。

 まだ、だって、文化祭は終わったばかりで、これからの話をするって」

 

 モニカの言葉は途中で崩れた。

 彼女は俺の腕を両手で掴み、消えていく輪郭を指で押さえようとした。

 けれど、光は止まらない。

 指先から手首へ、手首から腕へ、身体の色が少しずつ淡くなっていく。

 モニカの手は俺を掴んでいるのに、そこから先の世界が俺を引き剥がそうとしていた。

 俺はモニカの顔を見た。

 泣きそうなのに、泣く余裕もない顔だった。

 文化祭の終わりに流した涙とは違う。

 今の涙は、まだ落ちる前から絶望に触れていた。

 

「モニカ、聞いて」

 

 俺はできるだけ落ち着いた声を出そうとした。

 せめて最後くらいは綺麗に言わなければならないと思った。

 ありがとう。

 助けられていたのは自分の方だった。

 文化祭まで連れてきてくれて嬉しかった。

 そんな言葉を並べて、モニカがこの先も部長として生きていけるように、ちゃんと背中を押さなければならないと思った。

 

 けれど、言葉を整えようとするほど胸が詰まった。

 嫌だった。

 綺麗なお別れなんて、少しもしたくなかった。

 文化祭が終わって、明日のことを考えようとして、ようやく未来が分からなくなったばかりなのだ。

 その分からない未来を、モニカと一緒に怖がって、一緒に考えて、一緒に夕飯を食べるはずだった。

 俺は震える息を吐き、モニカの頬に手を伸ばした。

 指先は少し透けている。

 それでも、モニカの肌の温度はまだ触れられた。

 その温度に触れた瞬間、準備していた綺麗な言葉が全部壊れた。

 

「ありがとうって、言おうと思った。

 ちゃんとお礼を言って、モニカなら大丈夫だって、綺麗にお別れしようと思った」

 

 モニカの目が大きく揺れた。

 俺の手を頬に押し当てるようにして、彼女は首を横に振る。

 その仕草は子供みたいで、普段のモニカの理性からは遠かった。

 けれど今の俺には、その必死さがたまらなく愛おしかった。

 

 彼女が大好きだった。

 罪も、寂しさも、弱さも、部長としての強さも、泣きながら文化祭を終えた姿も、全部まとめて好きだった。

 そのことを認めた瞬間、胸の奥にあった恐怖が、別の熱に変わった。

 離れたくない。

 置いていきたくない。

 この世界にモニカを一人で残すなんて、絶対に嫌だった。

 

「でも、無理だ。

 俺、やっぱりモニカが大好きなんだ」

 

 モニカの涙が落ちた。

 その一粒が俺の透け始めた手に触れ、光の中へ淡く滲んだ。

 俺はもう、格好よく笑えなかった。

 サヨリの身体の奥で、痛みと寂しさと必死な願いが一緒に震えている。

 サヨリも、きっと一人で置いていかれる怖さを知っている。

 モニカも、誰にも見えない世界で一人になる怖さを知っている。

 そして俺自身も、この世界で過ごすことでその怖さを実感として知った。

 だから綺麗に別れることだけはできなかった。

 俺はモニカの背中に手を回し、消えかけた身体を無理やり前へ出した。

 モニカも反射的に俺を抱きしめる。

 二人の身体がぶつかるほど近づき、俺は腕に残る力を全部使って、モニカを思い切り抱きしめた。

 

「一緒に来て!!」

 

 声が部屋に響いた。

 ずっと隣にいたい、離れたくない、モニカと一緒の明日を見たい。

 それはただ、どうしようもなく子供じみた願いだった。

 

 一緒に行くなんて、そんなことができるのかは分からない。

 世界が許すのかも、外側へ繋がるのかも、モニカがそこへ来られるのかも、何ひとつ分からない。

 けれど、分からないから諦めるには、俺はもうモニカを好きになりすぎていた。

 俺は彼女の背中へ腕を回し、光にほどけていく身体で必死に抱きしめた。

 モニカの手も、痛いくらい強く俺を抱き返してくる。

 彼女は泣きながら、何度も首を振っていた。

 行けるか分からないからではない。

 置いていかれることも、置いていくことも、どちらも嫌だと全身で訴えていた。

 

「行きたい。

 あなたと一緒に行きたい。

 どこでもいいから、私を一人にしないで……!」

 

 モニカの声は涙で崩れていた。

 俺は彼女の髪に顔を埋め、最後の体温を逃がさないように抱きしめる。

 部屋の輪郭が揺らぎ始めた。

 テーブルの上のカップも、窓の外の夜も、床に落ちた影も、遠くへ滲んでいく。

 それが俺の視界だけの変化なのか、世界そのものが揺れているのかは分からない。

 モニカの身体だけが、まだはっきりと腕の中にあった。

 俺はその感触へすがった。

 

 外側へ引き剥がされる感覚が強くなる。

 サヨリの身体が光になり、輪郭が薄くなり、胸の奥から何かがほどけていく。

 その中で、サヨリの気配が一瞬だけ温かく震えた気がした。

 引き止めているのか。

 背中を押しているのか。

 それすら分からなかった。

 けれど、俺は心の中で謝った。

 ありがとう。

 ごめん。

 それでも、モニカを置いていけない。

 言葉にならないその全部を抱えながら、俺はモニカをさらに強く抱いた。

 

「お願いだ。

 一緒に来て。

 俺、モニカと明日の話がしたいんだよ」

 

 モニカは返事の代わりに、俺の胸元へ顔を押しつけた。

 光が彼女の髪にも触れているように見えた。

 本当に巻き込めているのか、ただ俺の視界が滲んでいるだけなのか、判断できない。

 それでも、モニカは離れなかった。

 彼女の腕は俺の背中に食い込むほど強く、涙で濡れた頬がサヨリの肩に触れていた。

 この感触を、彼女との最後にしたくない。

 綺麗なお別れはできない。

 ありがとうだけを残すことも、大丈夫だと笑って消えることも、全部失敗した。

 けれど、悔いを残したくないとキスをした時よりもさらに強く、彼女のことを強く想っていた。

 

 光が強くなった。

 部屋の音が遠ざかり、モニカの呼吸だけが近く残る。

 俺は目を閉じなかった。

 最後まで、モニカを見ていたかった。

 モニカも涙に濡れた目で俺を見ている。

 その瞳には、恐怖と寂しさと、それでも手放さないという意志があった。

 

 世界がどう判断するのかは分からない。

 役目を終えた異物として消すのか、例外を外側へ戻すのか、モニカまで連れていく道を作るのか。

 何も分からないまま、二人は抱き合っていた。

 ただ思い切り抱きしめていた。

 明日の予定も、文芸部の未来も、文化祭後の生活も、全部を言葉にできないまま、腕の中に押し込むようにして抱きしめていた。

 俺は最後に、モニカの名前を呼ぼうとした。

 けれど声になる前に、光が二人の輪郭を飲み込んだ。

 それでも腕の中の温度だけは、最後の瞬間まで離れなかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。