文化祭が終わった翌日、学校は何事もなかったように後片づけの空気へ移っていた。
廊下の飾りは少しずつ剥がされ、昨日まで賑やかだった掲示板には、次の行事予定を貼るための空白が戻っている。
文芸部の部室にも、並べ替えた机や椅子が元の位置へ戻され、カップケーキの甘い匂いだけがかすかに残っていた。
俺はその光景を見て、胸の奥に奇妙な落ち着かなさを覚えた。
文化祭まで辿り着いた。
それは間違いなく奇跡だった。
けれど、奇跡が起きたことで、今度はいよいよ何も分からなくなってしまった。
画面の外で知っていた物語は、文化祭の前に崩れていた。
その先に、俺の知識は存在しない。
セーブデータの先も、攻略ルートの先も、イベントの先もない。
ただ、昨日の続きとして今日があり、今日の続きとして明日が来るかもしれないという、当たり前すぎて恐ろしい未来だけが残っていた。
モニカもまた、同じ場所に立っていた。
文化祭まで行くことを願い、その奇跡を掴み取ったからこそ、次の目標を失ってしまった。
けれど、分からないということは、壊れると決まっていないということでもある。
誰が消えるか、誰が狂うか、誰が選ばれないか、その全部がシナリオとして決まっているわけではない。
怖い。
けれど、怖さの向こうに初めて自分たちで歩ける道があるのかもしれない。
「分からないって怖いけど、本来はそれが当たり前なんだよな」
俺がそう言うと、モニカは静かに頷いた。
彼女の瞳にはまだ疲れが残っている。
それでも、昨日文化祭を終えた後に泣いていた時より、少しだけ呼吸が深くなっていた。
「そうね。
決まっている破綻へ進むよりは、怖くても分からない方がいいのかもしれない」
モニカは文芸部を続けると言った。
文化祭が終わっても、詩を書くのも、読書をするのも、部員たちの居場所を作るのも、文化祭のためだけではない。
彼女はそれを、この世界の中で続けたいと願った。
俺も、見えない部員のような形でもここに来ると約束した。
誰にも共有されない詩をまた書き、モニカがそれを読んでくれる。
未来は分からない。
けれど、明日も詩を書くことはできるかもしれない。
明日もモニカがそれを読んでくれるかもしれない。
その程度の小さな予定が、空白の未来へ最初に置く印になるのだろう。
その日の夜、未来について話し合うはずだった時間は、奇妙な光で断ち切られた。
文化祭を終えた疲れが残る部屋で、俺はモニカの隣に座り、明日の部活で何をするかをぼんやり考えていた。
夕食の片づけも終わり、テーブルには二人分のカップだけが残っている。
モニカは少し眠そうな顔をしながらも、時々こちらを見ては、文化祭が終わった後の静けさを確かめるように息をしていた。
その穏やかな空気の中で、俺の指先がふと淡く光った。
最初は照明の反射かと思った。
けれど光は皮膚の内側から滲むように広がり、サヨリの細い指を透かすように白く染めていった。
俺は息を止め、自分の手を見下ろした。
「……え?」
指の輪郭が、ほんの少し薄い。
手の向こう側にあるテーブルの木目が、淡く透けて見えた。
モニカもすぐに気づいた。
彼女の顔から、さっきまでの柔らかい疲れが一瞬で消えた。
カップに触れていた手が止まり、椅子が床を擦る音だけが部屋に響いた。
「……なに、それ」
モニカの声は、怯えを押し殺しきれていなかった。
俺は答えようとして、自分の喉がうまく動かないことに気づいた。
痛みではない。
身体そのものが、この世界から少しずつ外されているような感覚だった。
胸の奥が軽くなる。
腕の重さが薄れる。
床に立っているはずなのに、足の裏が何かに押し返され、地面についていない。
俺は動揺して身体がふらつき、モニカが慌てて支えた。
触れられる。
まだ、触れられる。
その事実に安堵した瞬間、余計に恐怖が胸を締めつけた。
モニカの手は確かに温かいのに、自分の腕だけが少しずつ光へほどけていく。
役目を終えたと判断されたのか。
世界にとって異物だと判断されたのか。
それとも、文化祭という本来なかった未来に到達したことで、例外としての存在理由が消えたのか。
理由は何も分からなかった。
けれど、ひとつだけ分かることがあった。
お別れの時が来ている。
「嘘よ。
まだ、だって、文化祭は終わったばかりで、これからの話をするって」
モニカの言葉は途中で崩れた。
彼女は俺の腕を両手で掴み、消えていく輪郭を指で押さえようとした。
けれど、光は止まらない。
指先から手首へ、手首から腕へ、身体の色が少しずつ淡くなっていく。
モニカの手は俺を掴んでいるのに、そこから先の世界が俺を引き剥がそうとしていた。
俺はモニカの顔を見た。
泣きそうなのに、泣く余裕もない顔だった。
文化祭の終わりに流した涙とは違う。
今の涙は、まだ落ちる前から絶望に触れていた。
「モニカ、聞いて」
俺はできるだけ落ち着いた声を出そうとした。
せめて最後くらいは綺麗に言わなければならないと思った。
ありがとう。
助けられていたのは自分の方だった。
文化祭まで連れてきてくれて嬉しかった。
そんな言葉を並べて、モニカがこの先も部長として生きていけるように、ちゃんと背中を押さなければならないと思った。
けれど、言葉を整えようとするほど胸が詰まった。
嫌だった。
綺麗なお別れなんて、少しもしたくなかった。
文化祭が終わって、明日のことを考えようとして、ようやく未来が分からなくなったばかりなのだ。
その分からない未来を、モニカと一緒に怖がって、一緒に考えて、一緒に夕飯を食べるはずだった。
俺は震える息を吐き、モニカの頬に手を伸ばした。
指先は少し透けている。
それでも、モニカの肌の温度はまだ触れられた。
その温度に触れた瞬間、準備していた綺麗な言葉が全部壊れた。
「ありがとうって、言おうと思った。
ちゃんとお礼を言って、モニカなら大丈夫だって、綺麗にお別れしようと思った」
モニカの目が大きく揺れた。
俺の手を頬に押し当てるようにして、彼女は首を横に振る。
その仕草は子供みたいで、普段のモニカの理性からは遠かった。
けれど今の俺には、その必死さがたまらなく愛おしかった。
彼女が大好きだった。
罪も、寂しさも、弱さも、部長としての強さも、泣きながら文化祭を終えた姿も、全部まとめて好きだった。
そのことを認めた瞬間、胸の奥にあった恐怖が、別の熱に変わった。
離れたくない。
置いていきたくない。
この世界にモニカを一人で残すなんて、絶対に嫌だった。
「でも、無理だ。
俺、やっぱりモニカが大好きなんだ」
モニカの涙が落ちた。
その一粒が俺の透け始めた手に触れ、光の中へ淡く滲んだ。
俺はもう、格好よく笑えなかった。
サヨリの身体の奥で、痛みと寂しさと必死な願いが一緒に震えている。
サヨリも、きっと一人で置いていかれる怖さを知っている。
モニカも、誰にも見えない世界で一人になる怖さを知っている。
そして俺自身も、この世界で過ごすことでその怖さを実感として知った。
だから綺麗に別れることだけはできなかった。
俺はモニカの背中に手を回し、消えかけた身体を無理やり前へ出した。
モニカも反射的に俺を抱きしめる。
二人の身体がぶつかるほど近づき、俺は腕に残る力を全部使って、モニカを思い切り抱きしめた。
「一緒に来て!!」
声が部屋に響いた。
ずっと隣にいたい、離れたくない、モニカと一緒の明日を見たい。
それはただ、どうしようもなく子供じみた願いだった。
一緒に行くなんて、そんなことができるのかは分からない。
世界が許すのかも、外側へ繋がるのかも、モニカがそこへ来られるのかも、何ひとつ分からない。
けれど、分からないから諦めるには、俺はもうモニカを好きになりすぎていた。
俺は彼女の背中へ腕を回し、光にほどけていく身体で必死に抱きしめた。
モニカの手も、痛いくらい強く俺を抱き返してくる。
彼女は泣きながら、何度も首を振っていた。
行けるか分からないからではない。
置いていかれることも、置いていくことも、どちらも嫌だと全身で訴えていた。
「行きたい。
あなたと一緒に行きたい。
どこでもいいから、私を一人にしないで……!」
モニカの声は涙で崩れていた。
俺は彼女の髪に顔を埋め、最後の体温を逃がさないように抱きしめる。
部屋の輪郭が揺らぎ始めた。
テーブルの上のカップも、窓の外の夜も、床に落ちた影も、遠くへ滲んでいく。
それが俺の視界だけの変化なのか、世界そのものが揺れているのかは分からない。
モニカの身体だけが、まだはっきりと腕の中にあった。
俺はその感触へすがった。
外側へ引き剥がされる感覚が強くなる。
サヨリの身体が光になり、輪郭が薄くなり、胸の奥から何かがほどけていく。
その中で、サヨリの気配が一瞬だけ温かく震えた気がした。
引き止めているのか。
背中を押しているのか。
それすら分からなかった。
けれど、俺は心の中で謝った。
ありがとう。
ごめん。
それでも、モニカを置いていけない。
言葉にならないその全部を抱えながら、俺はモニカをさらに強く抱いた。
「お願いだ。
一緒に来て。
俺、モニカと明日の話がしたいんだよ」
モニカは返事の代わりに、俺の胸元へ顔を押しつけた。
光が彼女の髪にも触れているように見えた。
本当に巻き込めているのか、ただ俺の視界が滲んでいるだけなのか、判断できない。
それでも、モニカは離れなかった。
彼女の腕は俺の背中に食い込むほど強く、涙で濡れた頬がサヨリの肩に触れていた。
この感触を、彼女との最後にしたくない。
綺麗なお別れはできない。
ありがとうだけを残すことも、大丈夫だと笑って消えることも、全部失敗した。
けれど、悔いを残したくないとキスをした時よりもさらに強く、彼女のことを強く想っていた。
光が強くなった。
部屋の音が遠ざかり、モニカの呼吸だけが近く残る。
俺は目を閉じなかった。
最後まで、モニカを見ていたかった。
モニカも涙に濡れた目で俺を見ている。
その瞳には、恐怖と寂しさと、それでも手放さないという意志があった。
世界がどう判断するのかは分からない。
役目を終えた異物として消すのか、例外を外側へ戻すのか、モニカまで連れていく道を作るのか。
何も分からないまま、二人は抱き合っていた。
ただ思い切り抱きしめていた。
明日の予定も、文芸部の未来も、文化祭後の生活も、全部を言葉にできないまま、腕の中に押し込むようにして抱きしめていた。
俺は最後に、モニカの名前を呼ぼうとした。
けれど声になる前に、光が二人の輪郭を飲み込んだ。
それでも腕の中の温度だけは、最後の瞬間まで離れなかった。