西暦2126年。日本のゲーム史に、一つの革命が刻まれた。
その名を、《DMMO-RPG《ユグドラシル》》という。
Dive Massively Multiplayer Online Role Playing Gameすなわち、フルダイブ型大規模多人数参加ロールプレイングゲーム。文字にすればそれだけのことだが、この一本のゲームタイトルが持つ意味は、単なるゲームの枠を遥かに超えていた。
当時の技術水準の粋を結集して生み出されたのが、ニューロン・ナノ・インターフェイスと呼ばれる、脳内ナノコンピューター網だった。サイバー技術とナノテクノロジーを融合させたこの技術は、脳と直接接続することで人間の五感すべてを仮想空間へと送り込むことができる。専用コンソールと組み合わせることで、プレイヤーはゲームの世界を「体感」することができ、視覚だけではなく、聴覚、嗅覚、触覚、味覚——現実世界で感じられるあらゆる感覚が、そのままデジタルの大地へと反映される。まぁ……触覚の一部と味覚に関しては法律で規制されてるのだが……
これを
そしてユグドラシルは、そのフルダイブ技術を用いたMMORPGの中でも、群を抜いた完成度と規模を誇る作品として世界に送り出された。リリースから数年後には「日本国内においてDMMO-RPGといえばユグドラシルを指す」とまで言われるほどの評価を獲得し、国内ゲーム市場において絶対的な地位を築き上げるに至る。
では、ユグドラシルとはどんなゲームなのか。
まず、その規模から語らねばならない。
プレイヤーが選択できる種族の数は、実に700種類にのぼる。大きく分類すれば人間種、亜人種、異形種の三つだが、その内訳たるや凄まじい。エルフや半人半獣のような古典的な亜人から、悪魔や不死者、はたまた幾何学的な形状を持つ異形の存在まで、それぞれが独自の外見・能力・ステータス補正を持ち、プレイヤーの個性を彩る。そこに組み合わさるのが、2000を超える
舞台となるのは、超広大な九つの世界。各世界はそれぞれに謎を秘め、公式から明かされる情報は意図的に最小限に絞られ、プレイヤーが自ら足を踏み入れ、探索し、試行錯誤を繰り返すことで少しずつ世界の真実が解き明かされていく——それがユグドラシルの根幹にある「未知を楽しむ」という設計思想だった。
グラフィックの質は、現実世界の数百倍とも評される解像度で世界を描き出す。草原を吹き渡る風の感触、地下迷宮の湿った空気、剣を交えた時の衝撃。フルダイブ技術があってこそ実現できる、圧倒的な没入感がユグドラシルにはあった。
これだけ聞けば、完璧なゲームのように思えるだろう。
だが——俺は断言する。
ユグドラシルは、糞ゲーだ。
少なくとも、そう呼ばれる側面が確かに存在する。
俺がユグドラシルをプレイし始めたのは、このゲームの全貌が広く判明する一年前のことだ。当時から俺はこのゲームの深みにはまり込んでいたが、同時に数々の欠陥にも散々悩まされてきた。そのあたりを、順を追って語っていこうと思う。
その1―――「未知すぎる」という弊害
ユグドラシルが掲げる「未知を楽しむ」という理念は、確かに素晴らしい。だが、それはゲームをある程度理解した上で楽しめる話であって、初心者プレイヤーにとっては単純に「何をすればいいか全くわからない」という混乱でしかなかった。チュートリアルは存在はほぼ存在しなく。初めてプレイするプレイヤーは広大な世界に放り出される。グラフィックの美しさ、風の感触、遠くから聞こえてくる得体の知れない咆哮―――それらすべてが、現実世界より鮮明に五感へと届く。だからこそ、何をすればいいか分からないままにさまよい続ける時間が、恐怖に近い感覚を伴う。某大手掲示板では、リリース直後から悲惨な報告が相次いだ。自分のレベルに全く見合わない高難度エリアに迷い込んでしまい、瞬殺された挙句に救援を求める書き込みが山のように積み上がった。あるプレイヤーは入手した装備を何の気なしに身につけたところ、「装着後は特定の儀式を行わない限り外すことができない」という仕様に引っかかり、その儀式の方法が解明されるまで延々とその装備を着用し続けるはめになった。当然ながら、見た目が悲惨なケースも多々あった。フルダイブ型ゲームというのは、没入感がある分だけ失敗した時のダメージも大きい。現実に近い感覚でゲームをしているからこそ、迷子になった時の焦燥感も、罠にはまった時の絶望感も、桁違いにリアルなのだ。「未知を楽しむ」どころか「未知に殺される」ゲームとして一時期はネット上で揶揄されていたほどである。
その2——ガチャという名の金の亡者
次はガチャだ。これについては多くのプレイヤーが声を揃えて言う。ゴミだ、と。ユグドラシルには課金システムとしてガチャが実装されており例をあげると、一回千円、十一連では九千円という価格設定だ。重課金者の感覚から見ても決して安くはない。社会人がボーナスを振り絞って引いた一連のガチャに、何を望むかといえば——当然、目当てのレアアイテムだ。しかし現実は残酷だった。ハズレ枠として排出されるアイテムの多くが、五百円の安価なガチャでも普通に手に入るようなゴミアイテムである場合が多々あった。九千円を払って引いた十一連の中身が、大半は「それ、無料配布でもらえるやつじゃ……」というラインナップで占められているという経験は、一度や二度ではない。確率の設定も、到底納得できるものではなかった。目当てのアイテムが出る確率が公表されていても、その数字が実感と乖離していることはしばしばだ。俺自身、手に入れたかったアイテムを目指して相当な金額を費やし、最終的にトロール人形を手に入れたことがある。フルダイブという没入感がある分だけ、ガチャで外れた時の空虚さも妙にリアルに感じられるのが、また質が悪い。
その3——PK
ユグドラシルにおけるプレイヤー間の戦闘―――すなわちPvPには、一つの重要なルールが存在する。プレイヤーを倒した場合、相手のアイテムがドロップされるのだ。それもランダムではなく、レア度が高い順に優先的に落とされる仕様になっている。このルールは、強者にとっては非常に旨味のある仕組みだ。実際、俺たちのギルドがこのルールの恩恵を受けて強化された局面もあった。他のギルドとの戦いで勝利を収め、希少なアイテムを手にしたこともある。私達自身が強くなれたのは、このシステムのおかげでもある。
だが。
ユグドラシルがリリースされた当初、このシステムは純粋な地獄だった。
苦労して手に入れたアイテムが、
その4——
次は、ユグドラシルの中でも特に語り草となっているシステムの話だ。
俺がこれを「クソ」と言うのには、個人的な理由がある。
俺たちのギルドの拠点が、かつて大規模な攻撃を受けたことがあった。その際に使用されたのが、二十の一つでたり、結果として、俺たちのギルドは壊滅的なダメージを受け、長年かけて築き上げてきたものの多くが失われた。被害はそれだけではなく、ギルド拠点のある周辺エリアそのものが、ほとんどのプレイヤーが近づかなくなるほど荒廃してしまった。ゲーム内の一つのアイテムが、広大なエリアごとゲームとしての機能を失わせてしまったのだ。
ワールドアイテムは確かに夢のある設定だ。だが、それが悪意を持った相手の手に渡った時——結果として受ける被害の規模は、一般的なゲームプレイの文脈を完全に逸脱している。これを楽しめるかどうかは、完全に立場と運次第だと言わざるを得ない。
その5——
最後に語らなければならないのが、ユグドラシルにおける一部の
ワールド・チャンピオン。ワールド・ディザスター。ワールド・ガーディアン。等々……
これらは名前からして只者ではないが、その性能もまた名に恥じないものである。極端に入手難度が高い代わりに、獲得した者は他のプレイヤーを圧倒的に凌駕する力を手にする。一対多の戦闘でさえひっくり返してしまうような、ゲームバランスを根本から揺るがす力だ。また一定の特殊な条件下でのみ入手できる隠し
以上が、俺の考えるユグドラシルの”主”な「クソな部分」だ。
だが―――そう思い続けて、十年以上が経った。10年だ。人の一生において、10年という歳月がどれほどのものかは、言うまでもないだろう。子供が労働者になり、子供が大人になる。世界が変わり、人が変わり、関係が変わる。それだけの時間を、俺はこのゲームと共に生きてきた。
そしてユグドラシルは今、終焉に向かっている。
サービス終了。その文字を最初に目にした時、俺は画面の前でしばらく動けなかった。冗談かと思った。あるいは、公式の悪趣味なイベント告知か何かだと。だが何度読み返しても、文面は変わらなかった。日付と時刻が明記されていた。あの夜―――あの瞬間をもって、ユグドラシルは終わる。
このゲームに人生を懸けていたのは、俺だけじゃないだろう。
強がりでも何でもなく、本当にそう思う。あの世界に青春を注ぎ込んだ者が、金と時間と情熱のすべてを捧げた者が、全国に―――いや、世界中に―――どれほどいるかを考えると、胸が痛くなる。ユグドラシルは糞ゲーだと散々言ってきた。今でもそう思っている部分がある。だが同時に、それでもここまで俺たちを引き止め続けたこのゲームが、確かに特別なものだったことも、否定できない。
そして今夜、それが終わる。
ギルド拠点―――聖砦ウルクの大広間に、一人の人間種が座っていた。
広間は広大だった。広大という言葉でさえ、その空間を表現するには足りないかもしれない。天井は遥か頭上に高く伸び、壁には仲間たちが時間をかけて選び、配置した調度品や装飾が所狭しと並んでいる。床には緻密な模様が刻まれた大理石が敷き詰められ、その冷たい光沢が広間全体に静謐な雰囲気を与えていた。部屋の中心に据えられた長大な机は、大人が十数人横に並んで眠れるほどの幅がある。その周囲に並んでいる椅子の数は、合計で41脚。40脚が、空だった。唯一埋まっているのは上座の1脚——その椅子に、俺は腰を下ろしている。机の中心から十メートル上方には、巨大なシャンデリアが吊り下げられていた。いくつもの宝石で装飾されたそれは、ユグドラシルのゲームシステム上では本来何の機能も持たない、純粋な装飾品だ。しかしあの夜―――ギルドメンバーが集まって夜通し議論しながらインテリアを決めていたあの夜―――誰かが「これがいい」と言って選んだのがこれだった。シャンデリアが放つ光は宝石の輝きとなって大広間に散乱し、空の椅子の一つ一つを淡く照らし出している。その反射光が、今夜はひどく悲しい雰囲気をかもしていた。
仲間は、もういない。
聖砦ウルクはかつて、常に誰かの気配で満ちていた。誰かが魔法の実験をしていた。誰かが装備の調整をしていた。誰かが笑っていて、誰かが怒鳴っていて、誰かが作戦を立てていた。それが今夜は……いやココ最近は静寂だけか。俺の呼吸と、微かなシステム音だけが、この広大な空間に存在を主張している。
この拠点に今存在するのは―――仲間たちが設置していった大量のギミックと、NPCと、膨大な量のアイテムだけだ。
壁の一角に掲げられたギルド・オデューレ=ギルガメッシュの紋章が、シャンデリアの光を受けて揺らいでいるように見えた。見慣れた意匠―――仲間の一人がデザインし、全員で承認したあの紋章が、今夜は揺れている。それとも、俺の目が揺れているのだろうか。仲間と共に、ここを築いた。幾度となく侵略され、幾度となく守り抜いた。敵の奇襲に眠れない夜もあった。ワールドアイテムを使われてギルドが崩壊しかけた夜もあった。それでも、ここは俺たちの場所だった。ギルド順位、最高11位。上位ギルドとは言い難いかもしれない。だが俺たちは確かに、この広大なユグドラシルという世界において、それだけの存在だった。それほどのギルドの終わりが、こんな終わりでいいのか。
「そんなのダメだッ!」
声が出た。気づいたら、机を叩いていた。システムが反応する。小さく、無機質な数字が表示される。
0
俺はしばらく、その数字を見つめた。なぜ怒っているのだろうか。なんで怒りが湧いてくるのだろうか。仲間が離れていったのは、当然の話だ。誰一人として責められない。みんな、一人の人間なのだ。それぞれに生活があって、仕事があって、家族があって、守らなければならないものがある。ゲームを辞めることは、ごく自然な選択だ。裏切りじゃない。逃げでもない。それぞれが自分の人生を生きているだけだ。
わかっている。
ちゃんとわかっている……。
それでも―――空の椅子を見ていると、胸の奥が軋む。俺はゆっくりと立ち上がった。
「行こうか。我がギルドの証よ。」
手を伸ばす。指先に触れるのは―――黄金色の光だ。まるで最上位の装飾品かのように見えるそれは、ただ美しく輝くだけではなく、かすかな熱と重量を持って俺の手に収まる。フルダイブ技術が生み出す感触は、現実のそれと寸分変わらない。
ギルド武器 聖典剣 エア・ギルガメス
ギルドメンバー全員で、一年もの歳月をかけて作り上げた、ギルド最強の武器。素材集めに何ヶ月もかかった。鍛造に必要な特殊な魔法素材を求めて、九つの世界を巡った。一人では不可能で、二人でも不可能で、全員が揃ってやっと挑むことができた。製作途中に何度も失敗し、心が折れかけた日もある。だがそのたびに誰かが踏ん張って、また全員が立ち上がった。そうして生まれたのが、この剣だ。かつてギルド拠点がワールドアイテムによって崩壊の危機に瀕した時―――拠点のすぐ近くに召喚されたワールド・エネミーが、俺たちに牙を向いた。誰もが絶望的だと思っていた。これを使う以外に勝ち目がなかった。
エア・ギルガメスの真の力が初めて発揮されたあの瞬間、全員が言葉を失った。そして討伐が完了した時——みんなで歓声をあげた。チャット越しに、声通話越しに、全員で。そんな日もあった。
「こいつのお陰で……すぐ近くに召喚されたワールド・エネミーも討伐できたんだよな……」
独り言が、静かな広間に溶けていく。
システム時刻が視界の端に表示されている。
11時54分
サービス終了まで、残り6分。
ギルド拠点・聖砦ウルク。
九つの階層に分けられた、この拠点の全体像を改めて思い浮かべる。最下層から最上層まで、それぞれの階に仲間たちの痕跡が残っている。誰かが設計した罠、誰かが配置したNPC、誰かがこだわり抜いて選んだ装飾。
この拠点に、残り6分で終わりが来る。
俺たちが過ごした証が―――共に戦い、笑い、怒り、泣いた歴史が―――すべて消える。
11時56分
俺は聖砦ウルクの最奥部へと足を向けた。長い廊下を抜け、扉を開く。
聖砦ウルク最奥部——聖所・アルキメデス
仲間が辞めていってからというもの、この部屋には足が向かなかった。意識してそうしていたわけじゃない。ただ、来るたびに誰かを思い出して、それが辛くなることを、心のどこかで知っていたのかもしれない。部屋に足を踏み入れると、視界いっぱいに広がる光景があった。
勇座——フォン・ルギア
かつての仲間たちの姿を模したオブジェクトが、それぞれの武器を天へ向かって高く掲げている。剣士は剣を。魔法使いは杖を。弓使いは弓を。それぞれが使っていた武器種に合わせて、一人一人の像が、勇壮にそびえ立っている。
その光景は、神話の一場面のようだった。
天井から降り注ぐ光が像たちを照らし、武器の刃先が星のように輝く。まるで勇者たちが天に誓いを立てているかのような、壮麗な構図。これを設計したのは、俺じゃない。かつてのギルドメンバーの一人が、何週間もかけて作り上げたものだ。
―――あの人は、本当にセンスがあった。
部屋の最奥部に、玉座がある。ギルドマスターの座。誰も座っていない、俺の席。俺はゆっくりと歩み寄り、その椅子に腰を下ろした。懐かしかった。ここに座って、仲間に指示を出していた日々が。敵ギルドとの大規模戦争の前夜、この玉座から全員に向けて短い演説をしたことがあった。うまい言葉は出てこなくて、ただ「一緒に勝とう」とだけ言ったら、全員が笑ってくれたことを覚えている。ギルド武器を、手放す。するとエア・ギルガメスはゆっくりと浮かび上がり、俺の目の前で静止した。黄金色の光が、聖所アルキメデスを柔らかく照らす。
「こんな機能もあったか……」
11時59分
俺の過ごしたこの世界が、まもなく消える。サービスが終わった後には、またクソッタレな現実世界が待っている。仕事があって、生活があって、疲れがあって、悩みがある。ゲームの中のように、レベルアップで強くなれるわけじゃない。スキルを取得すれば万能になれるわけじゃない。死んでもリスポーンできるわけじゃない。
それでも―――
これだけは、見届けなければならない。ここにいなければならない。浮かぶエア・ギルガメスを見つめながら、俺は玉座に座り続けた。
56……
ありがとう。ユグドラシル。
出会えてよかった。クソな部分だらけだったけど、それ以上のものをもらった。
57……
ありがとう。全ての仲間たち。
一緒に戦ってくれた全員に、感謝している。どこかで元気でいてくれ。
58……
フォン・ルギアの像たちが、光の中で揺れているように見えた。
いや―――見えた気がした、だけかもしれない。
59……
エア・ギルガメスの黄金色が、少しずつ薄れていく。
00……
さようなら―――ユグドラシル。
光が、消えた。
音が、消えた。
世界が、消えた。
そこにあったすべてのものが、夜の中へと溶けていった。10年分の記憶を抱えたまま、聖砦ウルクは静かに歴史の終わりを迎えた。
00.00.01……00.00.02
(なんだ……?―――ッ!)
目の前に広がった光景は異常だった。
--ゲーム ユグドラシルへようこそ。--
--まずは自身の写し身となるキャラクターを作成しましょう!--
何が起きているのかわからなかった。ユグドラシルはサービス終了したはずだ。どうしてまた……もしかしてユグドラシル2が始まったのか?
そんなことを思っていると時間に目がいった。
2126年■■月■■日
それはユグドラシルのサービスが開始した日であった。