―――グラウンドでの練習以降、滝先生による基礎中の基礎からの指導が行われた。俺にとっては真新しい練習方法ばかりでやるのは苦ではなかった。むしろ楽しかった。呼吸、発声練習、ひたすらティッシュを空中に吹き上げる等々、滝先生の与える練習をこなしていった。十回連続で同じタイミングで吹く練習も始めはミスして足を引っ張ったが慣れてくるとどうってことはなかった。噂では泣き出す女子もいたらしいが俺は「今まで何やってんだ?」くらいにしか思わなかった。相変わらず先輩たちの視線は俺に突き刺さっていたが。そして1週間が経った。合奏の本番の日。滝先生が入ってきた。
滝「約束の日が来ました。この1週間の成果が楽しみです。」
クラリネットの先輩の音出しに合わせて俺も吹く。チューニングは完了。そして滝先生の合図で演奏が始まる。出だしは好調。音もタイミングはズレもない。不協和音は聞こえてこない。自分の演奏に集中できた。そして演奏は最後まで続いた。
滝「いいでしょう。細かいことを言えばまだまだ気になることはありますが何よりも皆さん、合奏をしていましたよ。」
室内が安堵の空気に包まれる。『サンライズフェスティバル』なるイベントへの練習の日程が書かれた紙が配られた。ほぼ毎日練習で埋め尽くされていた。望むところだった。
滝「さて、残された日数は多くありません。ですが皆さんが普段若さにかまけてドブに捨てている時間をかき集めればこの程度の練習量は余裕でしょう。サンフェスは楽しいお祭りですがコンクール以外で強豪校が一堂に集まる大変貴重な場でもあります。この場を利用して今年の北宇治は一味違うと思わせるのです。」
晴香「でも…今からじゃ…」
滝「出来ないと思いますか?私は出来ると思いますよ。何故なら私たちは全国を目指しているのですから。」
滝先生が笑顔で何かを促すような素振りをした。
鷲武弥「は い‼」
滝「いい返事ですね。でも…無理はなさらないでくださいね。」
俺だけ返事の叫びをしてしまった。恥ずかしい。
鷲武弥「はい。」
一礼した。滝先生のお気遣いが感じられた。感謝した。気合いが入った。
翌日、サンライズフェスティバルなるイベントの衣装を作っていただくため身体測定と肺活量測定が行われた。肺活量測定はブッちぎりでトップだった。
秀一「どうだった? 鷲武弥くん。」
鷲武弥「196㎝、103㎏でした。」
ちかお「去年は?」
鷲武弥「191㎝、100㎏でした。」
秀一「スゲー…まだまだ伸びるんだ…⁉」
ちかお「羨ましい…⁉」
そして数日後、衣装が配られた。着替えた。
秀一「パッツンパッツンだね。」
鷲武弥「これじゃあ柔軟体操も出来ないですよ。破れないか不安です。」
ちかお「でもスッゲーいい体格してるからそれだけでサマになってるよ!」
鷲武弥「恐縮です。」
ジャージに着替えてグラウンドで行進練習となった。62.5㎝ごとの歩幅での行進となる。始めは注意されまくったが慣れてくればなんてことはなかった。5分の休憩が与えられた。
秀一「あー…疲れた…。」
ちかお「暑い…。」
鷲武弥「ジャージ姿でグラウンドに誰もいないとなるとウズウズしますね。ちょっと走ってきます。」
休憩が終わるまでグラウンドを全力で何周もした。
鷲武弥「すうぅぅぅぅぅぅぅぅぅ! はあぁぁぁぁぁ! ふうっ。よし。」
秀一「……鷲武弥くんって中学時代陸上部?」
ちかお「……あれだけ走りまくってほとんど息が乱れてないって凄いよ!」
鷲武弥「いえ、帰宅部でしたよ。でも家に帰って走り込みと筋トレをしまくってました。後は…格闘技の真似事も。」
秀一「格闘技って?」
鷲武弥「空手とかキックボクシングですね。」
ちかお「今でもやってるの?」
鷲武弥「はい。」
秀一「シャドーボクシングって出来る?」
鷲武弥「真似事ぐらいには…。」
ちかお「見たい!」
と言われたのでジャブやストレートに肘撃ちや回し蹴りを披露した。
秀一「凄い…プロっぽい…!」
ちかお「大迫力だね!」
鷲武弥「恐縮です。」
そして行進練習が再開した。それが数日続いた。本番は翌日に迫った。今は麗奈さんと順奈さんと一緒に帰っている。美女ふたりと帰ることになって始めは緊張していたがそれも慣れた。慣れとは怖いものだと思った。
順奈「ねえ! 美人ふたりと帰るのも慣れた?」
鷲武弥「はい、慣れました。慣れとは怖いものだと思っています。」
順奈「なぁーんだ! もっと面白いリアクションすると思ってたのに!」
麗奈「美人って…私のこと?」
鷲武弥「はい。」
麗奈「そ、そうなんだ…鷲武弥くんに言われると嬉しいかな…。」
鷲武弥「始めに言ったのは順奈さんですけどね。」
順奈「うっ⁉ だって本当のことなんだから仕方ないじゃない⁉」
麗奈「どういう話の流れでそんな話になったの…?」
鷲武弥「俺が『楽器は違いますが目標はあの…トランペットの1年生の女子です! 名前は知りません!』って言ったら順奈さんが『ああ…もしかして高坂さん? 黒髪ロングで美人の?』って言ったので『でも順奈さんだって美人ですよ』っていう話になりました。」
麗奈「確かに鷲武弥くんの言う通り井上さんは美人だと思うよ。」
鷲武弥「そうですよね⁉ でも本人が認めないんですよ。」
麗奈「井上さんはもっと自信を持つべきだと思うな。」
鷲武弥「そうですよ! もっと本人に言ってやってください!」
順奈「わー⁉ もうその話はいいから⁉ 恥ずかしすぎてどうにかなりそう⁉」
こんな会話をしながら帰宅した。
サンライズフェスティバル当日、会場に着く。松本先生に喝を入れられた。
松本「いいかお前ら!いよいよ本番だぞ、手を抜いたら承知しないからな!」
「「「「「はい!」」」」」
松本「練習通りやれば出来る!」
「「「「「はい!」」」」」
松本「気合いを入れろ! 声が小さい!」
「「「「「はい‼」」」」」
松本「よし。私からは以上だ。」
滝先生が遅れてやってくる。先生からは特にないそうだ。念入りにチューニングして出番を待つ。ひとつ前のマーチング超強豪校『立華高校』のパフォーマンスに歓声が湧き北宇治の皆さんは「うわ…上手すぎ…。」「でしょ…。」「俺…自信なくなってきた…。」といった動揺の声が聞こえる。無意識に声が出た。
鷲武弥「 押 忍‼ 」
腹筋に力を込めて思いっきり叫んだ。周囲が静まり返る。別に周囲を見渡したわけではないが俺に視線が集まっている…気がする。
鷲武弥「どうか落ち着いてください。観客の皆さんは本気の北宇治を知りません。ここらで見せつけてやろうではありませんか。それに前に言ったはずですよ。先輩なら先輩らしく少しは尊敬されることしてくださいって。」
「「「「「……。」」」」」
「……そうよ、その通りよ! 1年生にここまで言われて私は悔しい!」
「私だって! 先輩としての威厳を見せてあげるわ!」
「藺上くんって熱い男だよね! カッコいい!」
といった言葉をいただいた。場が落ち着いたようで安心した。北宇治の名が呼ばれた。
滝「本来、音楽とはライバルに己の実力を見せつけるためにあるのではありません。ですが、ここにいる観客や他校の皆さんは北宇治の力を未だ知りません。ですからそれを知ってもらういい機会だと先生は思います。さあ…北宇治の力、見せつけてきなさい!」
「「「「「はい‼」」」」」
先輩の笛の合図の元、演奏が始まり行進も始まる。歩幅良し。演奏良し。他の皆さんはわからない。ただ自分のことだけ考えて行進した。観客の皆さんの歓声が聞こえた。今は何も考えるな。自分に言い聞かせた。
北宇治のサンライズフェスティバルは成功に終わった…と思う。着替えをしていると部長に声をかけられた。
晴香「藺上くん、スタート前に場を落ち着かせてくれてありがとう。本当に先輩らしいこと出来なくてごめんね。」
鷲武弥「こちらこそ、いつぞやのパートリーダー会議での御無礼をお許しください。部長には演奏のいろはを教えていただいた身で恩を仇で返すことをしてしまいました。誠に申し訳ございませんでした。」
跪いて頭を下げる。いわゆる土下座だ。
晴香「ちょ⁉ ちょっと⁉ そんなことしないで⁉ みんな見てるよ⁉」
鷲武弥「構いません。先輩方へのお詫びも含まれております故。」
「あっれー⁉ 晴香の前で藺上くんが土下座してるなんてどうしたの? 何か弱みでも握った?」
鷲武弥「副部長…パートリーダー会議での御無礼をお許しください。マーチングでのスティック捌きはお見事でした。」
あすか「どういたしまして♪ ま、偶には先輩らしいことしないとね♪ 貴方の『押忍‼』のひと言で目が覚めたわ。空手でもやってたの?」
鷲武弥「単なる真似事ですよ。」
晴香「え⁉ そうなの⁉ 」
あすか「私はてっきり黒帯の達人だと思ってたけど、人間ってわからないわね。」
鷲武弥「改めて…申し訳ございませんでした。」
晴香「もういいから⁉ 藺上くんの気持ちは伝わったから⁉ 頭を上げて立ち上がって⁉」
鷲武弥「部長はお優しいですね。どこまでも…どこまでもお優しい。部長のような先輩を持てたことを誇りに思います。」
頭を上げて立ち上がり一礼して着替えを再開した。気のせいか周囲の視線が俺に集中している気がする。「見た⁉ シックスパックって私初めて見た⁉」「凄い太もも…丸太みたい…。」「胸板もそこらの女子よりバストサイズ大きいんじゃない⁉」といった声が聞こえた。照れ臭かった。
滝「藺上くん、丁度良かった。もしよろしければ明日の朝練の時間にお話を窺ってもよろしいですか?」
鷲武弥「あ、はい、よろしくお願いします。」
あすか「何々? 話って?」
鷲武弥「まあ…ちょっとした相談事みたいなものです。」
晴香「悩み事でもあるの?」
鷲武弥「話すと長くなりますし湿気た話ですよ。楽しいものでもありませんしサンライズフェスティバルが成功に終わった今話すことでもないですね。それでもお知りになりたければ明日の朝6時に職員室へ行くことをおススメします。」
翌日、朝6時、職員室前。
「藺上くん。」
鷲武弥「部長に副部長に…ええと…すみません、トランペットパートの先輩ですよね? おはようございます、お疲れ様です。」
「こうして話すのは初めてだよね? 私は中世古香織、よろしくね。」
鷲武弥「よろしくお願いいたします。中世古先輩。では参ります。」
職員室へ入った。滝先生に挨拶する。
滝「おはようございます。既に松本先生は待っていらっしゃいます。移動しましょう。おや、そこの御三方は?」
鷲武弥「俺の話に立ち合いたいという申し出がございました。よろしいでしょうか。」
滝「ええ、構いませんよ。部の責任者にもいずれ知っておいたもらったほうが良いと考えていましたので丁度良かったです。」
空き教室に案内していただいた。既に待機している松本先生にも挨拶した。適当に開いている席に座って正面に座る滝先生と松本先生と向き合う。
松本「さて…鬱病と不眠症を患っていると聞いたが体調は大丈夫なのか?」
先輩の御三方が驚いた様子で俺と松本先生を交互に見る。
鷲武弥「薬を飲んでいる限りは大丈夫です。ですが薬がないと2日で自殺を考えるほどの苦痛に襲われます。」
滝「どのような症状ですか?」
鷲武弥「重度の頭痛、眩暈、吐き気、眼精疲労、過呼吸、全身の筋肉の硬直、手足と指先の痙攣、全身の関節痛、聴覚過敏、ほんの少しの金属音で鼓膜が痙攣するような苦痛に襲われ、呂律が回らなくなり会話が困難になり、歩行も困難になり、自分の名前を書くのも難しくなります。あと無意識に歯を食いしばって顎と歯がガタガタになります。」
松本「原因はわかるか?」
鷲武弥「長くなりますけどよろしいでしょうか。」
滝「ゆっくりで構いません。落ち着いて話してください。」
鷲武弥「ありがとうございます。そうですね…始まりは…中学3年の時に不良気取りの同級生5人が校内で気弱な生徒相手にカツアゲやっているのを見て一匹残らず叩き潰したことですかね。その後に報復として15人くらいでしょうか。囲まれてカッターナイフで首を切られたり包丁で腹を刺されましたが相手が貧弱だったので軽傷で済んで一匹残らず踏み潰しました。それから数日経って校長室に呼ばれて校長自ら俺に1か月の停学処分を下しました。それなら俺を囲んだ奴らは?と聞きましたが俺は軽傷で相手は全員全治数か月の重傷だからという理由で不問とされました。頭に来たので校長の首を両手で締めながら『じゃあ俺が黙って殺されれば良かったのかよ⁉』と聞きましたが答えませんでした。それから体育教師たちが雪崩れこんで来て無理やり連れだされました。一匹残らずブチのめしましたが。その時も『俺が黙って殺されれば良かったのかよ⁉』と聞きましたが誰も答えませんでした。体育教師に重傷を負わせた罰として追加で2週間の停学処分となりました。しっかり家に学校からのクレームが来たようでクソ親父は激怒して『俺に恥かかせやがって馬鹿野郎⁉』と怒鳴りながらブン殴られましたが俺も『俺のどこが間違ってるのか言ってみろクソ親父⁉』とブン殴りました。クソババアも『反省しなさいよ反省を⁉』と喚き散らしながら食器を投げつけてきたのでクソ親父と同じこと聞いて答えなかったので思いっきりブン殴りました。停学期間中は早朝から外に出て走り込んで筋トレしまくって格闘技の真似事して時間を潰しました。夜になって帰ってくると玄関のドアに鍵かけられて家に入れなくてコンクリートの廊下で眠ろうとしましたが眠れませんでした。そうして1週間ほど怒りで眠れない日が続くとあらゆる苦痛に襲われて急いで内科に駆けこんで睡眠薬もらいましたが効き目が弱すぎて1か月分の薬を1週間足らずで使い切ってしまって内科の先生に怒られて出禁になってより強い薬を求めて精神科の先生の所へ行って診察の結果、鬱病と不眠症と診断されて今の薬を服用しています。クソ両親は俺と一緒に暮らす気はないようで厄介払い同然で家を追い出だされて京都を選んだのは偶然で北宇治を選んだのも今住んでるボロアパートから一番近いからです。先生や先輩方に聞かれても返答に困るのは承知でお聞きしますが俺が聞いたことに誰も答えませんでした。俺が間違っていたんですか?俺が死ねば良かったんですか?友人を名乗っていた連中もこの一件以来サーっといなくなりました。俺は他人との距離の取り方がわかりません。俺はどうすればいいんですか?教えていただければありがたいです。俺から話すことは以上です。ありがとうございました。」
座りながら一礼する。
「「「「「……。」」」」」
鷲武弥「そういえば後、付け加えるならば、症状の影響か薬の副作用かは不明ですが食欲不振で朝と昼は食べていません。晩御飯だけ食べています。昼休みと部活が終わってから部屋に帰って着替えて運動しまくってから食事しています。以上です。今すぐ答えていただきたいとも思っていません。俺から話せることは話しました。ありがとうございました。」
立ち上がって一礼する。教室から出ようとすると
松本「待て!」
滝「貴方は何も間違っていませんし生きるべきだったと思います。貴方の周りに誰も理解者がいなかったのは最大の不幸だったと言えるでしょう。幸い、今の貴方は吹奏楽部の一員です。部活に励んでください。貴方の謙虚で真面目な姿勢は部の模範となるはずです。このまま部活を続けていけば素晴らしい奏者になるでしょう。保証します。」
晴香「私も先生と同意見です。朝練も居残り練習も熱心にこなして物凄い勢いで成長していって今の藺上くんは他の部員にとっても大きなモチベーション向上に繋がっていると思います。これからもっともっと成長していけば立派なサックス奏者に成長するはずです。必要不可欠な存在だと思っています。」
鷲武弥「先生…部長…ありがとうございます。ありがとうございます…!」
それぞれに向き直って一礼した。先生への相談事はこれでおしまいとなった。部長たちと一緒に廊下に出る。
晴香「薬ってそのバッグに入ってるの?」
鷲武弥「はい、ご覧になりますか?」
バッグから紙袋を取り出して食後用と寝る前用の2種類を見せた。
あすか「食後用はともかく…寝る前用は色鮮やかで毒々しいわね…本当に飲んで大丈夫なの?」
鷲武弥「寝起きに頭痛と倦怠感がありますがしばらくすれば収まります。だから朝練も平気です。」
香織「辛いときは辛いって言っていいんだよ。無理しないでね。」
鷲武弥「辛い時が来るとすれば眠れない日が来る時ですね。一気に精神的に不安定になって体も思うように動かなくなります。今のところ毎日眠れてますので大丈夫です。それでは失礼します。」
あすか「どこ行くの? そっち体育館だけど?」
鷲武弥「時間はまだありますので筋トレすることにします。」
香織「見ていっていい?」
鷲武弥「俺は黙々とやるだけですが…それでよろしければどうぞご覧ください。」
体育館の倉庫に入り俺が言った通り黙々とこなした。ベンチプレス、担いでスクワット、腹筋運動、ダンベル運動、拳立て、指立伏せ、ついでに首も鍛えることにした。
鷲武弥「どなたでも結構ですので俺の腹に座っていただけませんか?」
腹にタオルを敷いて首でブリッジする。「どうする?」「やる?」という声が聞こえる。
晴香「私が座る。」
鷲武弥「ありがとうございます。遠慮なくどうぞ。」
部長が座る。脳内で数分数える。左を向いて側頭部に重心をかける。また数分数えて右を向く。限界寸前までやった。
鷲武弥「もう下りて結構ですよ。ありがとうございました。」
晴香「凄いね。あんなに運動したのに全然疲れた素振りも見せないなんて。」
鷲武弥「毎日時間が許す限りやってますからまあ…慣れですね。」
あすか「吹奏楽部員とは思えないものを見ちゃった気がするわ…⁉」
香織「1年生なのに本当、凄い!」
鷲武弥「恐縮です。」
それから先輩たちと別れて教室へ向かった。
順奈「おはよう! 鷲武弥くん!」
鷲武弥「おはようございます。順奈さん。」
今日も彼女の笑顔は眩しくて美しかった。