「神父兄様、会えないの? 姉様…」
「うん、神父ったら部屋に閉じこもちゃって… だから今日は二人だけで遊びなさい」
翌日の午後、教会前に訪れたコハルとミク。ハルからそう告げられていた。
しょんぼりとうつむいたままのミクの肩に手をそっと置くコハル。
「ミクちゃん… 一緒に遊ぼ」
ミクの手を引くと森に向かって歩いて行く。
「ちょっと二人とも!、あまり森の深くに入らないで遅くならにうちに家に帰りなさいよっ!」
「はーい!」
元気一杯に答えるコハルであった。
「…コハルちゃん、あんまり森の奥に行くのはダメだよぉ…」
「へいき!、昼間の森はとてもきれいだから!」
ミクを励まそうとするコハル。禁じられた森の中へと踏み込み始める二人。
飛び立つ小鳥を見る。
「あっ、あの鳥さんのお名前はなんだっけ?」
「…んーと、あたしも忘れちゃった」
「お花もたくさん咲いているわ ね、きれいでしょう?」
「うんっ、すてきね 森の中がこんなって知らなかったぁ…」
ミクに笑顔が戻りつつあると、さらに足を速めていく。
「前に父様に馬で連れてきてもらったことがあるの! もっと先に泉が湧いているところがあるから、そこまで行こぅ!」
「うんっ!、駆けっこしよ!」
足早に森の中を分け入っていく二人。知らず知らずのうちに時は過ぎ去っていく。
やがて二人は大きな泉に辿り着く。少し疲れてしまったミク、コハル、泉の脇に座り互いに清水を手に取り飲み始める。
「プハーっ!」「ぷはーっ!」
満足すると泉の脇に二人とも寝転ぶ。
「なんか、あたし酒場のお客さんみた~い あはははは…」
「そうなの~?、あはははは…」
樹々の間から差し込む木漏れ日の暖かさを感じると、いつのまにか二人は眠り始めてしまった。
その間にも陽はゆっくりと傾いていく。夕方に差し変わらんとする頃、
森の魔がその目を覚まし始めた。
「……ミクちゃん!、ミクちゃんっ!」
ミクをゆさゆさと揺り動かすコハル。
「…ぅん?」
寝ぼけまなこのミク。
「わたしたち寝ちゃってたみたい、起きてミクちゃん!」
上体を起こし、うーんと伸びをするミク。
「あたしたち、どれくらい寝ちゃってたんだろぅ…?」
コハルはミクの手を取り、助け起こすと一本の大樹に目を留めた。
「あ、ミクちゃん この樹って登ることできそうだよ?」
「え?、あたし高いとこいやだから、やめとく…」
大樹をするすると登って行くコハル、ある大枝まで辿り着くと遥か遠くに教会の屋根が見えた。
次第に薄暗くなっていく森の中。
「あはは、ミクちゃん!、教会の屋根が見えるよ~ …神父兄様たちも見えないかなぁ」
さらに上を目指し登り始め、上にある大枝に座り込み幹に抱き着く。
「コハルちゃん、そんなに登っちゃったらあぶないよぉ… 寒くなってきたし、もう帰ろうよぉ…」
その時一匹の狼の遠吠えが聞こえた。
「…!?」「…!?」
驚愕し、息を飲飲み込む二人。
そうこうしているうちに陽は完全に沈み、闇が辺りを包み込む。
教会のステンドグラスには明かりが輝き、かろうじながらも鐘の音が聞こえる。
「ど、どうしよう?、降りれないよぉ…」
コハルがしくしくと泣き始める。
「コハルちゃん!?、コハルちゃんっ!?」
何度も大樹の幹を叩くミク。
再び立て続けざまに響く狼の遠吠えに背筋が凍りつく。。
どきんどきんと二人の心臓が脈打つ。
「たすけてぇ…」
「コハルちゃん!、あたし誰か呼んでくるからっ!」
「…ミクちゃぁぁぁん」
「そこから落っこったらケガしちゃうかもだから、じっとしてて!」
次第に辺りには激しい風が吹き始めた。
「ぜったいだよっ!、コハルちゃんっ!」
ミクは闇夜の中、村を目指し走り始めた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ…」
闇の森の中、ミクは教会の灯かりを目指し必死に走り続ける。
「…あっ!?」
足元の木の根に気付かずに、つまづきミクは倒れ込んだ。
「あいたたた… あっ、サンダル片方無いっ!?」
何処に飛んだかと周囲を見回すも、
「…サンダル?、…サンダル?、なんにも見えないよぉっ!」
その時さらに狼の遠吠えが響いた。
「ひっ!?」
だが、友達の顔を思い浮かべると耳を塞ぎ即座に立ち上がる。
(あたしだって怖いけど…、コハルちゃんはもっと怖いっ!)
再び走り始める。
(…怖くなんかないっ)
裸足の裏に何か棘のような物が突き刺さる。
「痛っ!?」
痛みにひるむも、きりっと前に向き直り必死に走り続ける。
(…痛くなんか、ないっ)
涙を拭い、さらに走り続ける。
(兄様たちなら、兄様たちならきっとなんとかしてくれるっ!)
マリア像の御姿を目指し、懸命に走り続ける。
(いっつもお祈りしてたもん、ぜったいなんとかなるっ!)
吹き荒れる風の冷たさも、おのれの足の痛みも構わずに、ミクはただひたすらに駆け続けた。
教会の中、食堂に3人が集う。
「風が随分強くなったな…」
神父が過去を思い返す。
(…これはまるであの時のような…)
「…えぇ、狼の遠吠えも鳴り止みませんし、…森の魔が騒いでいるかのようですわ」
頷くハク。
(あの子たち ちゃんと帰ったかしら…?)
不安そうな表情を浮かべるハル。
「皆様、聖堂にて祈りを捧げましょう…」
3人が聖堂の扉を抜けた時、表からただならない女の子の金切声が聞こえた。
「にいさまあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……っ!!!」
「…!?」「…!?」「…!?」
神父を先頭に正門まで走る3人、両開きの門を開けるとミクが目を泣き腫らしながら横たわっていた。
「どうしたミクっ!?」
「まぁ、足に酷いお怪我を…」
「何があったの!?、ミクちゃん!?」
もはや立つ事もならないおのれの身を支えながら、ミクが叫ぶ。
「コハルちゃんが…!、コハルちゃんが…!、森の中で樹から降りれなくなっちゃってぇっ…!、おねがい、たすけてあげてぇっ…!」
「コハルが…、森の中にっ!?」
真っ青になるハル。
「…この足じゃ案内も叶わんか 俺が行くっ!」
「待って!、私も行くっ!」
「わ、私は村長様にご連絡を…」
「頼んだっ、シスター!!」
教会内に入り、壁に掛けられた松明を手に取ると走り出す神父、ハル。
「戻れっ! お前にまで何か起こったら、俺はお前の親父に顔向けできん!」
「命令しないでよっ!、コハルは私が絶対助けるの!」
「チッ!」 舌打ちする神父。
「そこまで言うんなら、せいぜい俺からはぐれるんじゃねえぞっ!」
「あんたこそ、私より遅れたら承知しないんだかからっ!」
足を速める神父、必死に追いすがるハル。
(…コハル、…コハル、…あの時ちゃんと連れて帰ればよかった…)
止まらない涙、ハルは何度も何度も拭い続けた。
(神様ぁっ…!)
村の中央道を村長宅へ急ぐハク。激しく吠えたてる飼い犬達の声が響く。
「あぁっ!?」
突然川原から飛び出してきた狼にひるむ。
「ぐるるるる…」
今にも襲い掛かからんとする狼、ハクはその場にぺたんとへたり込む。
「…あ、…あ、…あ」
狼が飛び掛かかってきた時、どぉんっと大きな音がして、狼はハクの手前にどさりと斃れ落ちた。
その後ろには煙を出す猟銃を構えた村長の姿が。
「これは一体何たることだ、シスター!? 村に狼が何匹も入ってきておる!? その上まるで嵐かのような風が吹き乱れておる!?」
「…お、お救いいただきありがとうございます、村長様 村に森の魔の厄災が…、それにコハルさんが森に、森に…」
狼の骸を蹴飛ばし、シスターに近寄る村長。
「何だと!? コハルがどうしたと言うのだ シスター!?。」
「村長様、どうか皆様でコハルさんをお救いに…、お救いに…」
「はっきり答えてくれ、シスター!?、コハルに何が起こったと言うのだ!?」
しばし後、森の中では神父が松明を振りかざし、狼共を薙ぎ払う。
ハルは恐怖に目を閉じながらがむしゃらにぶんぶんと松明を振るい続ける。
「あまり動揺するなっ!、お前は下がってろっ!、火が消えたら命取りだ!」
「だからいちいち命令しないでよっ!、コハルを助けるのは私って言ったんだからぁっ!!」
「…くっ!」
松明か高く掲げ周囲をあちこちと見回す神父。
「だが狼共は何とかなっても、肝心のコハルの居場所が分からん! 闇雲に探していても意味はねぇっ! …せめて助けを呼ぶことすらできんのかっ!?」
森の外では、村の女子供年寄りは家屋に置かれ、村長を初めとした男達がランタンを掲げながらそれぞれ農具を武器として手に持ち、次々と襲い掛からんとする狼共を打ち据える。
「村に入ってきた狼は片付けたが、それにしても数が多過ぎるだ!」
「それにしても変だ… 狼共はふつう自分達の縄張りを守る… めったに人里近くまで出てきやしねぇ だがこいつぁ森中の狼共がこの辺りに集まってきてるみてぇな…」
酷く狼狽しきった男が青ざめた顔で語り出す。
「なぁ、妙な大風も吹いているし、最悪お嬢さんはもう…」
「……ぅーん」
村長が衝撃に胸を突かれたように、低い唸りを上げてよろめいた。
すかさず体を支えたのは、宿屋の主人だ。彼は手にした鉄のフライパンで、不吉な口を叩いた男の頭を容赦なく殴りつけた。
「バカ言ってんじゃねぇっ!、皆んなで用心しながら手分けして森の中を探すんだっ!」
吹き乱れる風の中、懺悔の青年が父の肩を担ぎながら村へと歩む。
「親父ぃ、噛まれた足の傷は大丈夫だか?」
「……へっ ふだん臆病もんのおめぇが、体を張って庇ってくれたお陰だ さほど痛まねぇよ」
父親は荒い息の隙間に、確かな温かさを込めて笑った。
「ありがとぅよ。おめぇは俺の、自慢のせがれだ」
「お、親父ぃ、ぐすっ…」
父が青年の頬をしばく。
「馬鹿野郎っ!、そんな歳していっつも、いっつもめそめそしてんじゃねぇ! だからおめぇにはいつまでたっても嫁の来てがねぇんだっ!」
「…こ、こんな時まで殴らねぇでくれよぉ、親父ぃ…」
闇夜の森の中、強い、強い風が吹き荒れる。
古木の枝々がぎしぎしと軋む音を立てる。
(怖い、怖いよぉ…)
大樹にしがみ続けるコハル。冷えた風に晒され続けた身心は共に凍え果て、硬い幹におのが身を預けていた為か皮膚も痛む。
その場はゆらゆらと揺さぶられ、鼓動は未だ張り裂けんばかりに高鳴り続ける。
[ぐふふ、そのまま怯え続けるがよい…]
魔が言い放つ。
「だ、だれっ!?」
叫べども返る言葉は無く、樹々の間は途切れなくに突風の音が吹き乱れる。
大樹の下では狼共の唸り声が鳴り響く。
「ぐるるるる… ぐるるるる… ぐるるるる… ぐるるるる………」
(いや…、いやぁ…)
地中からは人の姿を型どったかの如く多数の土くれがふつふつと出現し始める。
その者共は嘆きの如く怨嗟のうめき声を発し続けた。
「おぉぉん おぉぉん おぉぉん おぉぉん おぉぉん……」
うめき声と共に灰色い姿をした怨霊が、大樹の傍わらを幾重にも螺旋の如くぐるぐると漂い周る。
(いやぁぁぁ…)
樹の幹には数多の細長い脚を持つ虫けら共が、何匹も、何匹も現れ、おのが身を這いずり回る。
「きちきちきちきちきちきちきちきちきちきちきちきちきち……」
虫けら共の眼が妖しい輝きを灯す。
(………っ!、…やぁっ!、…っ!、…ぁっ!)
虫けらを振り払わんと何度も、何度もおのが身を揺らし続ける。幹に接している箇所の擦り傷が刺すように痛む。
足元の下からは血に飢えた狼共が樹を登らんと、幹をがりがりと削る爪音が響く。
(ぁぁ…………)
生まれて初めての絶望が、おのが心を満たさんとする。
極限まで、おぞましい事態のなか孤独にあり続け、餓えと凍えに苛まれ続けた幼き魂は、限界を向かえようとしていた。
[落ちて引き裂かれるがよい、その骸は森外れのあの目障りな塔の前に打ち捨ててくれよう…]
幹にしがみ続けた細い腕はその力を緩めようとしていた。すべてを諦めようとしていた。
「…とくんっ…」
父、母、ハル、神父、シスター、そして最愛の友、ミクの顔が次々と脳裏に浮かび上がる。
(…せめ、て、…ミクちゃんの、…お歌を…‥)
虚無へと遠ざかりつつある知覚。
『お待ちなさい』
刹那、天上から青い一筋の閃光が地上へと降り掛かる。
光明はコハルの背後へと降り立つと、そこには神父と同じ服を着た、淡く青い輝きを放つ老人が傍らに座し、優しく自分に微笑みかけていた。
土くれの呪詛は止み、怨霊、虫けら共の禍々しき姿が消え失せる。
[チ… 老いぼれが何をしにきた…]
輝きにコハルは全ての意識を取り戻し、背後に挫した老人に問い掛ける。
「おじいさん… だぁれ…?」
知らない顔の筈なのに、とても懐かしく感じるのは何故なのだろう。
『こんばんは、お嬢さん』
頭の中に響く声、とても心安らぐのは何故なのだろう。
「は、い…」
胸の十字架をコハルの目前に掲げる老人。
掴もうとした小さな手は十字架をすり抜けてしまい、驚きに表情を曇らせる。
『思い出すのです、貴女は教会で何を教わりましたか?』
ふと思い出す、神父の言葉。
『いいか、お前たち つらい時やくじけそうになった時はこの詩を唄うんだ』
教会で、神父が教えてくれていた言葉。
「…うん、そうだった…」
ぐっ、と歯を食いしばる。
"T,T,The..."
訝しげに唸り声をあげる魔。
"...The Lord's my shepherd, I'll not want, He makes me down to lie..."
いつも神父がシスターの奏でるオルガンの調べに乗せて唄ってくださった詩。
"...In pastures green, He leadeth me the quiet waters by...."
上手に諳んじることができたら優しく頭を撫でてくださった詩。
"...My soul he doth restore again, and me to walk doth make..."
か細くも透き通った唱声、辺りに静かに響く。
"...Within the paths of righteousness, E'en for his own name's sake..."
[餓鬼め! その鬱陶しい歌を止めろ!!]
小さな悲鳴、そして止む唱声。
『…怖れてはなりません たとい、死の陰の谷を歩まんとも…』
"......Y,Yea, though I walk in death's dark vale, yet will I fear no ill !"
きりりと上げられた顔、先よりも一段と力強き唱声。
青き老人は頷くと胸の元に十字を切る。
いつしか風はぴたりと止み、魔の撒き散らす膨大な邪気に息を潜めていた精霊達が、唱声に力づけられたかのように一斉に眼を開いた。
辺りには小さな翠色の煌めきがいくつも漂い、
「きれ、い…」
瞬間それらはコハルの目前に集合し一人の女性の姿を纏い現れた。
「ミクちゃん…? ちがう、大きなミクちゃん…?」
翠色に光り輝く女性が、優しく自分の頬に両手を添えながら微笑んだ。
「…あったかぁい」
触れられたかのような感覚は無い。けれども冷えきった頬に確かな温もりを覚えた。
『い つ も あ の 子 と』
女の人の唇の動きが、
『あ の 子 と、あ そ ん で く れ て あ り が と う』
自分にそう語り掛けたかのように見えた。
"...For thou art with me: and thy rod and staff me comfort still.."
翠の歌姫がひらひらと宙を舞いながら賛美の詩の続きを唄う。
"...My table thou hast furnishèd In presence of my foes;"
土くれの一つの側へと舞い下りると、囁きかけるように唄う。
絡みついた泥はぼろぼろと崩れ落ち、その中からは淡い輝きを発しながら感謝の笑みを浮かべた魂が現れ出でて、同じ賛美の詩を唄い始める。
"...My head thou dost with oil anoint, And my cup overflows.."
翠の歌姫は同じ事を何度も、何度も繰り返す。
やがて全ての魂を鎮めると、周囲はオルケストラの如く賛美の唄に満ち溢れ、それらは皆天上へと還り始める。
"...Goodness and mercy all my life Shall surely follow me,"
大樹の最も近くに居た魂がコハルに微笑み掛ける。
「父様に似てるおじさん…?」
頬を伝う涙は、もはや脅えから発せられたものではない、断じてない。
"...And in God’s house forevermore My dwelling place shall be.."
[ぐああっ! 後悔、失望、苦痛が、我が力の源が去って行くっ!]
狼共は唐突に操り手から解かれたかのように自我を取り戻し、浮き足立ちながら散り散りばらばらに走り去って行く。
青き老人が、うろたえる魔に語り掛ける。
『…遥か彼方の太古に天から堕とされた悪しき者よ 人を憎むことをやめ元居た大地の底へと戻りなさい この深き森の中は悪意を持つ者が在るべき場所ではないのです』
そして青き老人と翠の歌姫は輝きと共に混ざり合い、周囲は碧く輝き広大な光となって森の一角を灯台のごとく照らし始める。
「風と狼が消えた…?」
神父が突如訪れた静けさに、戸惑いながら呟く。
「…あっ!?、あれを見て!」
ハルが森の中、俄かに現れた強い光を指差す。
神父が同じ場所を見止めると、胸の十字架が輝いた事に気付く。
「…あそこなのかっ!?」
「…ま、待ってよっ!?」
神父は光の元へ走り出し、ハルもその後を追い掛けた。
森の境界では男達全員がその光を見つめていた。
「…何なんだ、あれは? あんなん見たことがねぇ…」
「…いったいぜんたい 何が起こってるってんだ…?」
大風が止み狼共が去った後でも、只ならない不穏な雰囲気にざわつく男達。
「…あそこにコハルが居るのかもしれぬ 神の導きやもしれんっ!」
ためらわずに、村長が叫ぶ。
「…そうだっ! 皆んなあそこを目指して走るんだ!!」
宿屋の主人の掛け声と共に、村人達は皆一斉に森の奥へと駆け込んだ。
碧色の輝きはすでに消失していたが、コハルは松明片手にこちらに駆け付けてくる者達に気付く。
「…姉様!?、…兄様!?」
神父とハルも大樹の上に座るコハルの姿に気付く。
「コハルっ!、無事か!?」「今助けるからっ!、コハル!?」
コハルが震える手で大樹の下を指示す。
「来ちゃだめぇぇっ!」
コハルの元まであと数歩と差し迫った時、大樹の影より通常の狼よりも一回りも二回り以上にも大きな獣が姿を現した。
その者、遠き遠き昔、まだ人の生まれる以前には天界の住人であった。
だが人を妬み呪ったが故にに大地の底に堕ち、悠久の時を彷徨い続けるうちに、総身から仄暗い炎を灯す獣の姿に身をやつしていた。
巨大な獣が咆哮を上げると、周囲の空気が重く震えた。
神父が怯えるハルをかばうように前に出る。
「ここを離れるなっ!」
十字架を強く握りしめ松明を前に高くかざしながら、獣としばしの間対峙をかわす。
「こいつ 火を恐れん…」
神父が一瞬ひるんだ隙に、獣が突進し体当たりを食らわせる。
その勢いに二人はばらばらに弾き飛ばされた。
「…げふっ!、げふっ!」
神父は仰向けに倒れ込んだまま、肋骨が折れたかのような痛みに胸をさする。
「…神父っ!、平気っ!?」
ハルはうつ伏せに倒れ込んだまま、目を凝らしながら松明を掲げる。
荒い息を弾ませる獣が、神父の身体を地面に押さえつけ、剥き出しの牙を顔面へ近づけてくる。
獣の纏う炎と吐息に熱さに意識が現実へと引き戻される。
――その感覚は、かつて自分に殺意を向けた兄の絶叫と酷似していた。
(………またかよ、…だがこいつに容赦はしねぇ!)
神父は燃え盛る松明を獣の口の中に迷いなく突き入れる。
[無駄だ…」
獣は松明をばりぼりと嚙み砕いた。
(喋った…!? それに奴は火を物ともしねぇっ!?)
驚愕しつつも、再び迫る顎を両肘で受け止め、ぎりぎりと押し返す。
死力を尽くす神父の視界の端に、ようやくこの場に辿り着いた村人達の姿が映った。
「神父っ!、伏せろぉっ!」
村長の叫びに即座に反応し、獣を押さえていた腕を引き、地面に上身を伏せる神父。
猟銃の轟音が響き、弾丸が獣を撃ち抜き、その頭部が四散した。
飛び散った肉片は煙りとなり消え果てたが、頭部を失った獣の首からは、ひたひたと真っ黒な人の腕が生え始め、冷たい鉤爪が神父の喉元まで迫った。
「ひぃぃ!」
ハルはその光景に全身が戦慄し、思わずその目を背けた。
[貴様さえ、貴様さえ居なければ…]
魔である獣の声が響く。神父は底知れぬ怖気を感じつつも、その黒い腕を掴み押し返そうとする。
[貴様さえ、あの時に始末しておけば…]
次の瞬間、神父の胸の十字架が神々しく煌びやかに強い輝きを放ち始めた。
「……うおおおおおっ!!」
神父がそれを獣の腕に押し当てる。
[があああああああああぁぁぁっっ…!!!]
魔の体は漆黒の塵と成り果て、辺りには黒煙がもうもうと立ちこめた。
[だが覚えておけ人の子よ 我が眷族は何度も地の底より這いあがる… その都度に貴様等を絶望に堕とし苛む この世が終わるまで永遠にぃ………]
やがて塵は少しの風にも吹き飛ばされ、完全に消滅していった。
その有り様を見届けると、神父は脱力し、地面に大の字に寝転ぶ。
「……冗談じゃねぇ いちいち構ってられっかよ、こんなこと おととい来やがれってんだ」
同じ刻の頃、村外れの教会。
「…村長め、私がひとりもんだからってこんな胡散臭い教会に閉じ込めおってからに…」
意地悪な老婆が悪態をつきながら、冷えた聖堂内を徘徊していた。
だが祭壇前に抱き合うように寝転ぶハクとミクの姿に足を止め、
二人の頬に残る涙の痕を見つめると、日頃から冷たい老婆の目にも憐れみの色が浮かぶ。
「祈り疲れて眠っちまったよ… しかしこの教会には何か掛けてやるもんもないのかねぇ」
アーチ型の門のカーテンを見つけると、それを無理に引き剥がそうとする。
突然、背後に青の輝きと翠の輝きを感じ恐る恐る振り返ると、ハクとミクの傍らに青き老人と翠の歌姫が立っていた。
「お、お化け…」
老婆は口から泡を吹き、その場に倒れ込んだ。
『貴女に信用していただくことは大変でしたね…』
青き老人は寝転ぶ二人を見つめ直すと語り掛けた。
『我等が子等よ、今日は貴女方の祈りが大きな助けになりました…』
翠の歌姫が小さな歌姫の足元に屈み込むと、包帯に包まれた足にそっと息を吹き掛ける仕草をした。
それまで苦痛に顔を歪めていた小さな歌姫の表情が穏やかになる。
「…おかぁさん」
翠の歌姫は驚きの表情を浮かべたのち、寝転ぶ我が子の頬へ頬ずりをする。
『さあ、行きましょう 我々がこれ以上、この地に長居してはなりません…』
青き老人と翠の歌姫は共に起つとその場に祈りを捧げる。
教会の10本の蝋燭が灯された燭台が強く輝き、その上の聖母の御姿の光が寝転ぶ二人を温める。
そして青い輝きは天上へと昇り去り、翠色の輝きは深い森の中と帰って行った。
深い森の一角。大樹の周りはたくさんのランタンと松明の輝きに包まれていた。神父を取り囲んだ村人たちが、矢継ぎ早に事の結末を問いかける。
「…あぁ、すべて終わったみたいだ」
神父が静かに答えると、辺りは割れんばかりの歓声に包まれた。
「コハルっ!!」
ハルは一人の村人に松明を預けると、妹の元へ大樹の幹をひょいひょいと登り始めた。
「こらっ、ハル!、はしたない!」
村長が怒鳴り声を上げるが、ハルの耳には届かない。
「姉様ぁっ!!」
コハルがハルの腕に飛び込み、二人は強く抱き合った。ついに、コハルは救われたのだ。
地に降ろされたコハルを片腕に抱き上げ、神父と握手しながら「済まなかった 本当に済まなかった」と何度も礼を言う村長。神父は苦笑しながら「よしてくれ」と面倒臭げに手を引いた。
そして神父とがっちりと肩を組む宿屋の主人。
「がっはっは! 神父、あんたぁ村の英雄だ! これから祝杯と行くか!」
「いや、いい…、それよりも親父、ミクを教会に迎えに行ってくれ アイツはアイツなりに大変な思いをしたんだ 足の様子も気になるしな……」
「そ、そうか!? でも後日祝杯を挙げるのは約束だぞ! がっはっは!」
「えっへん!、コハルは私が助けたんだからっ!」
誇らしげに胸を張るハル
「…よっく言うぜ、樹を器用に駆け回りやがって まるで小動物みたいなヤツだ」
神父がその様子をたしなめる。ハルが顔をむっとさせて神父の胸元を片肘でどすんと小突くと、
「げふっ!、そこはさっき奴に頭突きを食らったところ… お前に慈悲の心ってもんはねぇのか!」
思い出すのは妹を助けるために、森の中を懸命に走る神父の後ろ姿。
(…でも、ちょっとだけ見直しちゃったかな…)
神父が苦悶の表情を浮かべ、周囲は笑いに包まれる。
その笑いの中で、コハルは深い感謝の念から老人と歌姫に出逢った事を胸の内に秘め、だが賛美の詩を口ずさみ始める。
やがてその場にいる者も次々と詩を重ねた。森の一隅に男達の野太い唄声と少女達の澄んだ唄声が溶け合い、いつまでも、いつまでも響き渡っていた。
混乱の一夜が明けて翌朝、神父の自室。
椅子に座りパイプをくゆらせる神父の姿があった。
今日は集いの日でもないのに、朝早くから村の子供たちが教会前に集まっているようだ。
「神父、早く出てきなさいよっ! みんな待ってるんだから~」
「おほほ、神父様もいつまでもお若くないのですから焦らせてもいけませんわ!」
ハルとハクの声が聞こえる。
(聞こえてるぜ…?)
あの二人には今度がつんと言ってやらなきゃよさそうだ。
「おぉい、神父 いつまで寝とるんじゃ、この寝坊助め!」
サム翁の声が聞こえる。
(サム爺さんまで…、全く、年寄りは朝が早くて困る)
「兄様のねぼすけー!!」
ミクの喚き声、足の怪我の具合はどうなのだろうか。
「あはは、ねぼすけー!」
コハルの声、昨晩は落ち着いて眠れたのだろうか。
今日は相棒を片手に、日がな一日読書を決め込もうと思っていたが
紫煙の変わりに、陽の光の下でこんな空気を胸いっぱいに吸い込んでみるのも悪くはない。
机の灰皿にパイプを置き、大きく伸びをしながら立ち上がる。
だが突然、過去の影が脳裏に散らつき、自分自身に問い掛ける。
「俺はこの村を守る覚悟があるのか? この村で暮らす資格があるのか?」
不意に誰かの答える声を聞いたかのように、辺りををきょろきょろと見回す。
「…はは、ははははは あんたもそうだったのか、戸惑いがあったのか」
部屋の窓を開けると、穏やかな風が神父の頬を撫でる。
「…さあ、行くか!」
神父の顔に、もはや迷いは無い。やがて教会の外へと颯爽と歩き出す。
「…見ていてくれよ、ジョゼフ神父…」