不憫少女を死ぬほど甘やかした結果 作:重い女すこ
悪魔に転生した。
などと簡単に言うと、なにやらすごそうに聞こえる。
角。翼。尻尾。人外の美貌。闇魔法。契約。誘惑。魂の収穫。
転生直後の俺は、正直かなり浮かれていた。
マジかよ悪魔かよ。
俺ツエー無双モテモテ勇者転生譚じゃなくて悪魔側かよ。
けどまあ、これはこれでアリじゃね?
魔王の右腕とかになって、勇者パーティの聖女を堕としたり、王国を裏から操ったり、最終的には人類を手玉に取る感じのやつでは?
そう思っていた時期が、俺にもありました。
あれから、千年。
千年である。
千年も悪魔をやっていると、だいたいのことには飽きる。
人間の欲望にも飽きる。
金が欲しい。
権力が欲しい。
若さが欲しい。
美貌が欲しい。
隣の家の畑が欲しい。
兄の爵位が欲しい。
妹の婚約者が欲しい。
夫の財産が欲しい。
妻の秘密を暴きたい。
愛されたい。
愛した相手を壊したい。
自分を見下した連中を跪かせたい。
自分だけは特別だと証明したい。
千年だぞ。
千年もそんなものを見せられ続けてみろ。
人間という生き物に対して、嫌悪感の一つや二つ抱くのは当然である。
俺たち悪魔は、人間の欲望を煽り、不幸と絶望を喰らう存在だ。
最初の頃は面白かった。
貧乏な農夫に「隣の畑を焼けば豊かになれるぞ」と囁き、村が血まみれになるのを見た。
しがない商人に「王都一の大商会になりたいなら、少しだけ人を騙せ」と助言し、最後には家族ごと破滅するのを見届けた。
若さを求める貴婦人に、鏡の中だけ十七歳に戻れる魔法を与えたこともある。本人は狂ったように鏡から離れられなくなり、最後は鏡に映らない自分の手を見て絶叫した。
おいしかった。
実においしかった。
だが、何事にも慣れはある。
絶望は、唐揚げに似ている。
たまに食べると最高だが、毎日毎食唐揚げだと胃がもたれる。
しかも人間の絶望は、だいたい似たような味がする。
嫉妬。
後悔。
羞恥。
喪失。
裏切り。
破滅。
この千年で、俺の舌は肥えきってしまった。
よくある不幸では満足できない。
このままでは、退屈と空腹で死ぬ。
悪魔なのに。
悪魔なのに餓死する。
それはあまりにも格好悪い。
だから俺は、ある日、思いついた。
「……せや」
俺は魔界の片隅にある自分の居城で、玉座に頬杖をつきながら呟いた。
周囲には黒曜石の柱。天井からは毒々しい赤い結晶。床には人間どもから奪った財宝が山になっている。
だが、そんなものはもう見飽きた。
金貨の山など、悪魔にとっては邪魔な砂利でしかない。
「最初に幸福を最大化すればいいのでは?」
ぽつりと呟いた瞬間、俺の中で稲妻が走った。
そうだ。
不幸に慣れているのが問題なのだ。
最初から地べたを這いつくばっている人間をさらに踏みつけても、味が薄い。
ならば逆だ。
幸せにする。
これでもかと甘やかす。
ぬるま湯に浸からせる。
自分は愛されているのだと勘違いさせる。
世界は優しいのだと信じさせる。
人生は素晴らしいのだと、骨の髄まで思い込ませる。
そのうえで、一気に叩き落とす。
幸福の頂点から絶望の谷底へ。
落差が大きければ大きいほど、絶望は濃くなる。
熟成肉のように。
高級酒のように。
これはいける。
間違いなくいける。
「俺って天才かも」
俺は玉座から立ち上がった。
善は急げ。
いや、悪は急げか。
とにかく俺は、人間界へ向かった。
***
対象選びは重要だ。
ただ幸せな人間を不幸に落とすだけなら、今まで何度もやってきた。
だが今回の目的は違う。
まずは徹底的に甘やかす。
そのためには、幸福の伸びしろがある者がいい。
王侯貴族は駄目だ。
あいつらは甘やかされることに慣れている。
宝石を与えても、屋敷を与えても、愛を囁いても、当然のような顔をする。
それでは感動が薄い。
逆に、底辺すぎる者も難しい。
あまりにも絶望に浸かりきった人間は、もう味が焦げている。
水分が抜けた干物みたいなものだ。
俺が求めているのは、まだ壊れきっていない人間。
少し手を差し伸べれば、光に向かって伸びようとする人間。
幸福を知れば知るほど、それを失う恐怖に震える人間。
そういう素材がいい。
俺は王都の夜空を飛びながら、街を見下ろした。
王都ルベリア。
大陸西部にある、人間どもの大きな都市だ。
城壁の内側には貴族街、商業区、職人街、神殿区、そして貧民街がある。
上から見ると、人間の社会というものは実に分かりやすい。
明るい場所には富があり、暗い場所には飢えがある。
綺麗な道を馬車が走り、汚れた路地で子供が凍えている。
神殿の鐘は慈愛を謳い、その裏で孤児が残飯を奪い合っている。
まったく。
人間は本当に、放っておいても勝手に不幸を作る。
悪魔の仕事がなくなるわけだ。
「さて、誰にするかねえ」
俺は魔眼を開いた。
人間の欲望、恐怖、後悔、未練。
それらを色として見る悪魔の眼だ。
金に飢えた者は濁った黄色。
権力に取り憑かれた者は赤黒い紫。
愛に飢えた者は薄桃色に腐った斑点が浮かぶ。
絶望は灰色。
深ければ深いほど、黒く沈む。
王都の夜は、実にカラフルだった。
嫉妬の緑。
憎悪の赤。
虚栄の金。
性根の腐った欲望が、あちらこちらで湯気のように立ち上っている。
見慣れた光景だ。
胃もたれする。
俺は適当な獲物を探しながら、貧民街の上空を流した。
そこで、ふと目が止まった。
裏路地の奥。
壊れた木箱の陰。
そこに、一人の少女がいた。
年の頃は十二か十三くらいだろうか。
痩せている。
痩せている、という言葉では足りない。
枝みたいな腕。
こけた頬。
色の抜けた薄い髪。
ぼろ布をまとい、裸足に近い足を抱えて、石畳の上に丸まっている。
夜気は冷たい。
冬が近い王都の夜だ。
人間なら凍えて当然だろう。
だが、俺が気になったのはそこではない。
少女の周囲に漂う色が、おかしかった。
灰色。
黒ではない。
絶望は深いのに、黒く沈みきっていない。
むしろ、限界まで薄められた灰色が、消えかけの煙のように揺れている。
欲望がない。
怒りもない。
憎しみもない。
羨望もない。
ただ、諦めだけがある。
「……なんだ、こいつ」
俺は地上へ降りた。
姿は人間に変えておく。
黒髪、黒い外套、そこそこ整った顔。
悪魔の角と翼を出してもいいが、人間はたいてい叫ぶ。
面倒だ。
俺は少女の前に立った。
少女は、反応しなかった。
生きているのか?
俺はつま先で小石を蹴った。
小石が少女の足元に転がる。
少女のまぶたが、わずかに動いた。
鈍い青色の目が、俺を見上げる。
怯え。
警戒。
恐怖。
そういったものは、ほとんどなかった。
あるのは、ただ「次は何が起きるのだろう」という疲れた諦観だけ。
「おい」
俺は声をかけた。
「生きてるか」
少女は少しだけ口を開いた。
だが声が出ない。
唇が乾ききっている。
俺は懐から、適当に作ったパンを取り出した。
悪魔の魔法で生成したものだが、味も栄養も本物と変わらない。
むしろ王都の下手なパン屋よりうまい。
「食うか?」
少女の目が、パンに向いた。
それから、俺の顔に戻る。
信じていない目だった。
まあ、当然か。
貧民街で見知らぬ男から食べ物を渡されるなど、罠以外の何物でもない。
俺は笑った。
「毒は入ってない」
少女は動かない。
「まあ、毒が入っていたとしても、今のおまえなら大差ないだろうが」
俺がそう言うと、少女は少し考えたようだった。
そして、震える手を伸ばした。
パンを受け取る。
かじる。
その瞬間、少女の目が見開かれた。
それは、実に微かな変化だった。
だが俺は見逃さなかった。
灰色の煙の奥に、小さな光が灯った。
驚き。
戸惑い。
そして、ほんの少しの幸福。
――うまい。
俺は思わず喉を鳴らした。
これは悪くない。
焦げきった絶望の奥に、まだ感情が残っている。
素材としては上々だ。
少女はパンを半分ほど食べたところで、手を止めた。
「どうした。食えよ」
少女はかすれた声で言った。
「……明日の、ぶん」
「は?」
「明日、食べるもの、ないから」
俺は固まった。
パン一個だぞ。
しかも、悪魔の俺から渡された怪しげなパンだぞ。
それを半分残すのか。
今日生きるかどうかも分からない状態で、明日の飢えを考えるのか。
俺は眉をひそめた。
「全部食え」
「でも」
「明日の分なら、明日またやる」
少女は俺を見た。
何を言われたのか理解できない、という顔だった。
「……どうして?」
「どうして?」
俺は腕を組んだ。
どうして、か。
理由ならある。
おまえを幸福漬けにして、最高の絶望を味わせるためだ。
だが、そんなことを言っても面倒なだけだ。
だから俺は、悪魔らしく笑った。
「俺は悪魔だからな。気まぐれだ」
少女は小さく瞬きをした。
「悪魔……」
「そうだ」
俺は軽く指を鳴らし、背中から黒い翼を出してみせた。
ついでに角も出す。
暗い路地に、赤い魔力がぼんやり灯った。
普通の人間なら悲鳴を上げるところだ。
神殿に駆け込む者もいる。
あるいは失禁する。
だが少女は、パンを握ったまま、ぼんやりと俺を見ていた。
「……悪魔さん」
「そうだ」
「魂を、食べるんですか」
「まあ、食うこともあるな」
「じゃあ」
少女は、パンを胸に抱いた。
「私ので、足りますか」
俺は、二度目の沈黙をした。
こいつ。
今、なんと言った?
「足りるかって?」
「はい」
「自分の魂を差し出すから、食べ物をくれってことか?」
少女は首を横に振った。
「違います」
「じゃあなんだ」
「もう、いらないので」
少女は淡々と言った。
「痛いのも、寒いのも、お腹がすくのも、もう、疲れたので。悪魔さんが食べるなら、どうぞ」
その声に、劇的な悲しみはなかった。
泣き叫ぶような絶望もなかった。
ただ、使い古した靴を捨てるような口ぶりだった。
自分の命を、その程度のものとして扱っている。
俺は、少しだけ苛立った。
なんだそれは。
つまらない。
絶望とは、もっと濃くなければならない。
生きたいのに生きられない。
愛されたいのに愛されない。
手に入れたものを失う。
信じたものに裏切られる。
そういう落差があってこそ、味が出る。
最初から「もういらない」では駄目だ。
そんな魂、喰ったところで腹の足しにもならん。
湿った灰みたいな味しかしない。
「名前は」
俺は尋ねた。
少女は少し間を置いて答えた。
「……エリィ」
「苗字は」
「ありません」
「親は」
「いません」
「家は」
「ありません」
「仕事は」
「拾ったものを、売ってました。でも、最近はあまり拾えなくて」
「誰か頼れる人間は」
「いません」
「恨んでいる相手は」
少女は首を傾げた。
「恨む?」
「おまえをこんな目に遭わせた奴だ。殴った奴、奪った奴、捨てた奴。復讐したいとは思わないのか」
エリィは考えた。
本当に、分からない問題を出された子供のように考えた。
やがて、小さく言った。
「私が、弱いので」
俺は三度目の沈黙をした。
まずい。
こいつ、想像以上に不幸だ。
しかも、不幸の処理の仕方が下手すぎる。
普通の人間なら、怒る。
妬む。
憎む。
世界を呪う。
それらは悪魔にとって分かりやすい燃料だ。
だが、この少女は違う。
全部、自分が悪いことにしている。
自分が弱いから。
自分が役に立たないから。
自分がいらないものだから。
そう思い込んで、何もかも諦めている。
これは駄目だ。
料理で言えば、下ごしらえ以前の問題である。
素材が冷えきっている。
まず温めなければならない。
俺は決断した。
「エリィ」
「はい」
「おまえを拾う」
エリィは、また瞬きをした。
「拾う……?」
「今日からおまえは俺のものだ」
我ながら悪魔らしい言い方だった。
だが、エリィの反応は想定外だった。
怯えるでもなく、拒むでもなく、逃げるでもない。
少女は、少しだけ目を伏せて。
「……私、役に立てますか」
そう言った。
「は?」
「役に立たないと、捨てられるので」
俺は、胸の奥に妙な感覚を覚えた。
不快感に近い。
だが人間への嫌悪とは少し違う。
なんだこれは。
胃もたれか?
いや、俺は悪魔なので胃もたれはしない。
「役に立つ必要はない」
俺は言った。
エリィが顔を上げる。
「飯を食え。風呂に入れ。眠れ。まずはそれからだ」
「それは……お仕事ですか?」
「違う」
「では、なぜ」
「俺がそうしたいからだ」
エリィは理解できないという顔をした。
まあ、理解できなくていい。
これは俺の計画だ。
幸福最大化計画。
名付けて、極上絶望熟成作戦。
まずこの少女に、人並みの生活を与える。
温かい飯。
柔らかい寝床。
清潔な服。
安全な部屋。
優しい言葉。
褒め言葉。
安心。
信頼。
愛情。
そういうものを、これでもかと与える。
そして、いずれ。
いずれ、最高のタイミングで叩き落とす。
完璧だ。
非の打ちどころがない。
俺は悪魔として、ついに新たな境地へ到達したのだ。
「立てるか」
俺が言うと、エリィはふらつきながら立ち上がろうとした。
だが、すぐに膝が崩れる。
俺は溜息をつき、少女を抱き上げた。
軽い。
冗談みたいに軽い。
まるで骨と布だ。
エリィは驚いたように身を固くした。
「あ、あの」
「なんだ」
「重く、ないですか」
「羽毛のほうが重い」
「ごめんなさい」
「謝るな」
「ごめ……」
「謝るなと言っている」
エリィは口を閉じた。
腕の中で、少女の体は震えていた。
寒さのせいだけではない。
誰かに抱き上げられることに慣れていないのだろう。
触れられることが、たぶん痛みと結びついている。
俺は舌打ちした。
まったく、人間どもめ。
素材の扱いが雑すぎる。
***
俺が人間界で使っている隠れ家は、王都の外れにある古い屋敷だった。
表向きは、没落貴族の別邸ということになっている。
実際には、俺が百年ほど前に契約者から奪ったものだ。
使用人はいない。
必要なものは魔法でどうにでもなる。
俺はエリィを屋敷に運び込み、まず暖炉に火を入れた。
もちろん普通の火ではない。
悪魔の魔火だ。
燃料なしで燃え、煙も出ず、部屋全体を柔らかく温める。
エリィは暖炉の前に座らされ、呆然としていた。
次に、俺は食事を用意した。
白パン。
野菜と肉のスープ。
蜂蜜を溶かした温かいミルク。
焼いた芋。
柔らかい卵。
千年悪魔をやっていると、魔法で料理くらい作れるようになる。
なぜ悪魔が料理に詳しいのかって?
人間を堕落させるには、食欲の理解も重要だからだ。
エリィはテーブルの上を見て、固まった。
「食え」
俺が言うと、エリィは椅子に座ろうとして、ためらった。
「どうした」
「ここに、座ってもいいんですか」
「椅子は座るためにある」
「汚れます」
「汚れたら拭く」
「でも」
「座れ」
エリィはびくりとして、椅子に腰を下ろした。
そしてスプーンを手に取る。
その手が震えている。
スープを一口飲んだ瞬間、エリィの目がまた見開かれた。
温かいものが胃に落ちたのだろう。
小さな喉がこくりと鳴った。
次の瞬間、エリィは慌てて食べ始めた。
けれど、途中でまた止まる。
「今度はなんだ」
「……全部、食べたら」
「食べたら?」
「怒られませんか」
俺は額に手を当てた。
面倒だ。
想像以上に面倒だ。
「怒らない」
「本当に?」
「悪魔は嘘をつくが、今はついていない」
エリィはしばらく俺を見つめ、それからまた食べ始めた。
食べる。
食べる。
食べる。
そのたびに、彼女の周囲の灰色が少しずつ薄くなっていく。
代わりに、淡い金色が滲んでくる。
幸福だ。
小さな、小さな幸福。
温かい食事。
それだけで、この少女はここまで反応する。
俺は満足した。
いいぞ。
非常にいい。
育てがいがある。
これを毎日続ければ、きっと幸福の味を覚える。
そして失うことを恐れるようになる。
その恐怖こそが、最高の香辛料だ。
「おいしいか」
俺が聞くと、エリィはスプーンを握ったまま固まった。
それから、恐る恐る頷く。
「……はい」
「そうか」
「おいしい、です」
エリィの目から、ぽろりと涙が落ちた。
俺はぎょっとした。
泣くな。
いや、泣いてもいい。
悪魔的には涙は歓迎だ。
だが、今のこれは違う。
絶望の涙ではない。
安堵の涙だ。
うまいのか?
いや、うまくはない。
甘い。
薄い蜂蜜みたいな味がする。
これは俺の主食ではない。
悪魔の食事としては邪道だ。
なのに、なぜか目が離せなかった。
「泣くほどか」
俺が呟くと、エリィは慌てて涙を拭った。
「ごめんなさい」
「謝るな」
「でも、泣いたら、怒られるので」
「誰に」
エリィは答えなかった。
俺は聞くのをやめた。
聞けばたぶん、胸糞の悪い話が出てくる。
人間の胸糞話など、千年分聞いてきた。
今さら珍しくもない。
珍しくもない、はずだった。
「食べ終わったら風呂だ」
「お風呂」
「知らないのか」
「昔、入りました」
「いつ」
「……覚えてません」
俺は天井を仰いだ。
神よ。
いや、神は嫌いだった。
悪魔なので。
ともかく。
なんだこの素材は。
不憫すぎるだろ。
***
風呂は大変だった。
エリィはまず浴室の広さに怯えた。
湯船を見て怯えた。
石鹸を見て怯えた。
新しい服を見て怯えた。
何を見ても怯える。
ただし、自分の身に危険が迫っているから怯えているのではない。
自分がそんなものを使っていいはずがない、と怯えている。
「この石鹸、使ったら減ります」
「減るな」
「いいんですか」
「使うためにある」
「この服、綺麗です」
「そうだな」
「私が着たら、汚れます」
「汚れたら洗う」
「でも」
「あのな」
俺は思わず声を低くした。
エリィがびくりと肩を震わせる。
しまった。
俺は咳払いした。
「……この屋敷では、飯を食っても怒られない。椅子に座っても怒られない。風呂に入っても怒られない。服を着ても怒られない。泣いても怒られない。分かったか」
エリィは不安そうに俺を見た。
「役に、立たなくても?」
「立たなくてもだ」
「失敗しても?」
「失敗してもだ」
「悪い子でも?」
「悪い子なら俺の同類だ。むしろ歓迎する」
エリィは、ほんの少しだけ困った顔をした。
冗談が通じていない。
まあいい。
「分かったら風呂に入れ」
「はい」
俺は浴室の外で待つことにした。
さすがに少女の入浴を覗く趣味はない。
悪魔にも品位はある。
十分ほどしても何の音もしないので、扉越しに声をかけた。
「生きてるか」
「はい」
「入ったか」
「……まだです」
「なぜだ」
「お湯が、綺麗なので」
俺は扉に額をぶつけた。
先が長い。
非常に長い。
俺は千年生きた悪魔だ。
王国を滅ぼすことも、聖騎士を堕落させることも、英雄に呪いをかけることもできる。
だが、風呂に入ることをためらう少女を説得するのが、こんなに難しいとは知らなかった。
結局、俺は「入らないなら湯が悲しむ」という意味不明な理屈でエリィを説得した。
湯が悲しむとはなんだ。
言った俺にも分からない。
だが、エリィはなぜか納得した。
風呂から出たエリィは、見違えるようになっていた。
汚れを落とした髪は、薄い銀色だった。
頬はまだこけているが、肌の下に生気が戻りつつある。
新しい寝間着は少し大きかったが、ぼろ布よりはずっといい。
エリィは袖を握りしめながら、所在なさげに立っていた。
「似合っている」
俺は何気なく言った。
その瞬間、エリィの顔が真っ赤になった。
いや、真っ赤というほど血色はよくない。
だが、確かに頬に色が差した。
「……に、あう?」
「服だ。似合っている」
「私に?」
「他に誰がいる」
エリィは俯いた。
肩が震える。
また泣くのかと思ったが、違った。
少女は、寝間着の袖を両手で握りしめ、小さく呟いた。
「はじめて、言われました」
俺は何も言えなくなった。
おかしい。
悪魔である俺が、善行みたいなことをしている。
いや、違う。
これは善行ではない。
これは下ごしらえだ。
調理工程だ。
幸福を与えることによって、後の絶望を濃くするための計画的悪行である。
だから問題ない。
俺は悪魔として正しい。
正しいはずだ。
「寝るぞ」
俺は話題を変えた。
エリィを客室へ案内する。
清潔なシーツ。
ふかふかの枕。
羽毛の布団。
人間の子供一人を寝かせるには十分すぎる部屋だ。
エリィは入口で立ち止まった。
「どうした」
「私は、どこで寝ればいいですか」
「ベッド」
「ベッド?」
「そうだ」
「床ではなく?」
「床で寝たければ床を暖めるが、基本はベッドだ」
「でも、ベッドは」
エリィは言葉を探した。
「偉い人が使うものです」
「今日からおまえは偉い」
「え」
「俺が決めた」
エリィはぽかんとした。
その顔が、少しだけ子供らしく見えた。
俺は布団をめくり、顎で示した。
「入れ」
エリィはおずおずとベッドに近づき、そっと腰を下ろした。
沈み込む柔らかさに驚いたのか、目を丸くする。
それから、慎重に横になった。
まるで壊れ物に触れるような動きだ。
布団をかけると、エリィはまた固まった。
「温かいです」
「布団だからな」
「すごいです」
「布団だからな」
「悪魔さん」
「なんだ」
エリィは布団から顔だけ出して、俺を見上げた。
「私、明日もここにいていいんですか」
「ああ」
「明後日も?」
「ああ」
「ご飯を食べても?」
「食べてもいい」
「服を着ても?」
「着てもいい」
「寝ても?」
「寝ろ」
「何もしなくても?」
「しばらくは何もするな」
エリィは黙った。
その目に、また涙が浮かぶ。
俺は少し身構えた。
安堵の涙は、どうにも落ち着かない。
だがエリィは泣かなかった。
代わりに、とても小さな声で言った。
「じゃあ、私」
布団の端を握る指に、力が入る。
「生きてても、いいんですか」
俺は。
俺は、その問いに一瞬だけ返事ができなかった。
生きててもいいか。
そんなことを、誰かに許可されなければならないと思っているのか。
人間とは、なんて面倒な生き物だ。
なんて愚かで、弱くて、救いようがなくて。
そして。
「いい」
気づけば俺は、そう言っていた。
「おまえは生きてていい」
エリィの目が、ゆっくりと見開かれた。
その瞬間、彼女の周囲にあった灰色が、ほんの少しだけほどけた。
消えかけていた光が、弱々しく揺れた。
小さな、小さな灯火。
風が吹けば消えてしまいそうなほど頼りない。
だが確かに、そこにあった。
「……はい」
エリィは布団にもぐった。
「ありがとう、ございます。悪魔さん」
「俺に礼を言うな。調子が狂う」
「ごめんなさい」
「だから謝るな」
「……はい」
エリィは目を閉じた。
疲れきっていたのだろう。
数分もしないうちに、寝息が聞こえ始めた。
俺はベッド脇に立ち、眠る少女を見下ろした。
さて。
計画は順調だ。
予想以上に不幸な素材だったが、逆に言えば伸びしろは大きい。
人並みの生活を与えるだけで、これほど反応する。
これから毎日、飯を食わせる。
風呂に入れる。
服を与える。
褒める。
安心させる。
守る。
信じさせる。
俺なしでは生きられないほど、幸福に依存させる。
そして最後に――。
「……最後に?」
俺は小さく呟いた。
最後に、どうするんだっけ。
叩き落とす。
絶望させる。
そうだ。
それが目的だ。
俺は悪魔だ。
不幸と絶望を喰らう存在だ。
そのために、この少女を拾った。
だから、これは善行ではない。
断じてない。
俺は自分にそう言い聞かせ、部屋を出ようとした。
そのとき。
布団の中から、小さな声がした。
「悪魔さん」
起きていたのか。
「なんだ」
エリィは目を閉じたまま、寝ぼけた声で言った。
「明日、いなくならないでください」
俺は足を止めた。
「……ああ」
「私、ちゃんといい子にしますから」
「必要ない」
「捨てないでください」
その声は、眠りに落ちる寸前のものだった。
意識もほとんどない。
だからこそ、本音なのだろう。
「お願い、します」
エリィはそのまま眠った。
俺は扉の前で、しばらく動けなかった。
まずい。
非常にまずい。
この少女、想像以上に不幸だ。
想像以上に壊れている。
想像以上に、俺の与える些細なものへ縋りつこうとしている。
そして何より。
俺は今、ほんの少しだけ。
ほんの少しだけだが。
この少女を捨てる光景を想像して、不快になった。
「……まずい」
俺は額を押さえた。
千年悪魔をやってきて、初めての危機だった。
このままでは。
このままでは、俺が絆される。