不憫少女を死ぬほど甘やかした結果   作:重い女すこ

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第一話

 悪魔に転生した。

 などと簡単に言うと、なにやらすごそうに聞こえる。

 

 角。翼。尻尾。人外の美貌。闇魔法。契約。誘惑。魂の収穫。

 

 転生直後の俺は、正直かなり浮かれていた。

 マジかよ悪魔かよ。

 俺ツエー無双モテモテ勇者転生譚じゃなくて悪魔側かよ。

 

 けどまあ、これはこれでアリじゃね?

 魔王の右腕とかになって、勇者パーティの聖女を堕としたり、王国を裏から操ったり、最終的には人類を手玉に取る感じのやつでは?

 

 そう思っていた時期が、俺にもありました。

 

 あれから、千年。

 千年である。

 千年も悪魔をやっていると、だいたいのことには飽きる。

 人間の欲望にも飽きる。

 

 金が欲しい。

 権力が欲しい。

 若さが欲しい。

 美貌が欲しい。

 隣の家の畑が欲しい。

 兄の爵位が欲しい。

 妹の婚約者が欲しい。

 夫の財産が欲しい。

 妻の秘密を暴きたい。

 愛されたい。

 愛した相手を壊したい。

 自分を見下した連中を跪かせたい。

 自分だけは特別だと証明したい。

 

 千年だぞ。

 千年もそんなものを見せられ続けてみろ。

 人間という生き物に対して、嫌悪感の一つや二つ抱くのは当然である。

 

 俺たち悪魔は、人間の欲望を煽り、不幸と絶望を喰らう存在だ。

 最初の頃は面白かった。

 貧乏な農夫に「隣の畑を焼けば豊かになれるぞ」と囁き、村が血まみれになるのを見た。

 しがない商人に「王都一の大商会になりたいなら、少しだけ人を騙せ」と助言し、最後には家族ごと破滅するのを見届けた。

 若さを求める貴婦人に、鏡の中だけ十七歳に戻れる魔法を与えたこともある。本人は狂ったように鏡から離れられなくなり、最後は鏡に映らない自分の手を見て絶叫した。

 

 おいしかった。

 実においしかった。

 

 だが、何事にも慣れはある。

 絶望は、唐揚げに似ている。

 たまに食べると最高だが、毎日毎食唐揚げだと胃がもたれる。

 しかも人間の絶望は、だいたい似たような味がする。

 

 嫉妬。

 後悔。

 羞恥。

 喪失。

 裏切り。

 破滅。

 

 この千年で、俺の舌は肥えきってしまった。

 よくある不幸では満足できない。

 このままでは、退屈と空腹で死ぬ。

 

 悪魔なのに。

 悪魔なのに餓死する。

 

 それはあまりにも格好悪い。

 だから俺は、ある日、思いついた。

 

「……せや」

 

 俺は魔界の片隅にある自分の居城で、玉座に頬杖をつきながら呟いた。

 周囲には黒曜石の柱。天井からは毒々しい赤い結晶。床には人間どもから奪った財宝が山になっている。

 だが、そんなものはもう見飽きた。

 金貨の山など、悪魔にとっては邪魔な砂利でしかない。

 

「最初に幸福を最大化すればいいのでは?」

 

 ぽつりと呟いた瞬間、俺の中で稲妻が走った。

 

 そうだ。

 不幸に慣れているのが問題なのだ。

 最初から地べたを這いつくばっている人間をさらに踏みつけても、味が薄い。

 

 ならば逆だ。

 幸せにする。

 これでもかと甘やかす。

 ぬるま湯に浸からせる。

 自分は愛されているのだと勘違いさせる。

 世界は優しいのだと信じさせる。

 人生は素晴らしいのだと、骨の髄まで思い込ませる。

 

 そのうえで、一気に叩き落とす。

 幸福の頂点から絶望の谷底へ。

 落差が大きければ大きいほど、絶望は濃くなる。

 

 熟成肉のように。

 高級酒のように。

 

 これはいける。

 間違いなくいける。

 

「俺って天才かも」

 

 俺は玉座から立ち上がった。

 

 善は急げ。

 いや、悪は急げか。

 

 とにかく俺は、人間界へ向かった。

 

 

   ***

 

 

 対象選びは重要だ。

 ただ幸せな人間を不幸に落とすだけなら、今まで何度もやってきた。

 

 だが今回の目的は違う。

 まずは徹底的に甘やかす。

 そのためには、幸福の伸びしろがある者がいい。

 

 王侯貴族は駄目だ。

 あいつらは甘やかされることに慣れている。

 宝石を与えても、屋敷を与えても、愛を囁いても、当然のような顔をする。

 それでは感動が薄い。

 

 逆に、底辺すぎる者も難しい。

 あまりにも絶望に浸かりきった人間は、もう味が焦げている。

 水分が抜けた干物みたいなものだ。

 

 俺が求めているのは、まだ壊れきっていない人間。

 少し手を差し伸べれば、光に向かって伸びようとする人間。

 幸福を知れば知るほど、それを失う恐怖に震える人間。

 

 そういう素材がいい。

 

 俺は王都の夜空を飛びながら、街を見下ろした。

 王都ルベリア。

 大陸西部にある、人間どもの大きな都市だ。

 城壁の内側には貴族街、商業区、職人街、神殿区、そして貧民街がある。

 上から見ると、人間の社会というものは実に分かりやすい。

 明るい場所には富があり、暗い場所には飢えがある。

 綺麗な道を馬車が走り、汚れた路地で子供が凍えている。

 神殿の鐘は慈愛を謳い、その裏で孤児が残飯を奪い合っている。

 

 まったく。

 

 人間は本当に、放っておいても勝手に不幸を作る。

 悪魔の仕事がなくなるわけだ。

 

「さて、誰にするかねえ」

 

 俺は魔眼を開いた。

 人間の欲望、恐怖、後悔、未練。

 それらを色として見る悪魔の眼だ。

 金に飢えた者は濁った黄色。

 権力に取り憑かれた者は赤黒い紫。

 愛に飢えた者は薄桃色に腐った斑点が浮かぶ。

 

 絶望は灰色。

 深ければ深いほど、黒く沈む。

 

 王都の夜は、実にカラフルだった。

 

 嫉妬の緑。

 憎悪の赤。

 虚栄の金。

 性根の腐った欲望が、あちらこちらで湯気のように立ち上っている。

 見慣れた光景だ。

 胃もたれする。

 

 俺は適当な獲物を探しながら、貧民街の上空を流した。

 そこで、ふと目が止まった。

 裏路地の奥。

 壊れた木箱の陰。

 そこに、一人の少女がいた。

 

 年の頃は十二か十三くらいだろうか。

 痩せている。

 痩せている、という言葉では足りない。

 枝みたいな腕。

 こけた頬。

 色の抜けた薄い髪。

 ぼろ布をまとい、裸足に近い足を抱えて、石畳の上に丸まっている。

 

 夜気は冷たい。

 冬が近い王都の夜だ。

 人間なら凍えて当然だろう。

 だが、俺が気になったのはそこではない。

 少女の周囲に漂う色が、おかしかった。

 

 灰色。

 黒ではない。

 絶望は深いのに、黒く沈みきっていない。

 むしろ、限界まで薄められた灰色が、消えかけの煙のように揺れている。

 

 欲望がない。

 怒りもない。

 憎しみもない。

 羨望もない。

 ただ、諦めだけがある。

 

「……なんだ、こいつ」

 

 俺は地上へ降りた。

 姿は人間に変えておく。

 黒髪、黒い外套、そこそこ整った顔。

 悪魔の角と翼を出してもいいが、人間はたいてい叫ぶ。

 面倒だ。

 

 俺は少女の前に立った。

 少女は、反応しなかった。

 

 生きているのか?

 

 俺はつま先で小石を蹴った。

 小石が少女の足元に転がる。

 少女のまぶたが、わずかに動いた。

 

 鈍い青色の目が、俺を見上げる。

 

 怯え。

 警戒。

 恐怖。

 

 そういったものは、ほとんどなかった。

 あるのは、ただ「次は何が起きるのだろう」という疲れた諦観だけ。

 

「おい」

 

 俺は声をかけた。

 

「生きてるか」

 

 少女は少しだけ口を開いた。

 だが声が出ない。

 唇が乾ききっている。

 

 俺は懐から、適当に作ったパンを取り出した。

 悪魔の魔法で生成したものだが、味も栄養も本物と変わらない。

 むしろ王都の下手なパン屋よりうまい。

 

「食うか?」

 

 少女の目が、パンに向いた。

 それから、俺の顔に戻る。

 信じていない目だった。

 まあ、当然か。

 貧民街で見知らぬ男から食べ物を渡されるなど、罠以外の何物でもない。

 

 俺は笑った。

 

「毒は入ってない」

 

 少女は動かない。

 

「まあ、毒が入っていたとしても、今のおまえなら大差ないだろうが」

 

 俺がそう言うと、少女は少し考えたようだった。

 そして、震える手を伸ばした。

 

 パンを受け取る。

 かじる。

 その瞬間、少女の目が見開かれた。

 それは、実に微かな変化だった。

 だが俺は見逃さなかった。

 灰色の煙の奥に、小さな光が灯った。

 

 驚き。

 戸惑い。

 そして、ほんの少しの幸福。

 

 ――うまい。

 

 俺は思わず喉を鳴らした。

 これは悪くない。

 焦げきった絶望の奥に、まだ感情が残っている。

 素材としては上々だ。

 少女はパンを半分ほど食べたところで、手を止めた。

 

「どうした。食えよ」

 

 少女はかすれた声で言った。

 

「……明日の、ぶん」

「は?」

「明日、食べるもの、ないから」

 

 俺は固まった。

 パン一個だぞ。

 しかも、悪魔の俺から渡された怪しげなパンだぞ。

 

 それを半分残すのか。

 今日生きるかどうかも分からない状態で、明日の飢えを考えるのか。

 

 俺は眉をひそめた。

 

「全部食え」

「でも」

「明日の分なら、明日またやる」

 

 少女は俺を見た。

 何を言われたのか理解できない、という顔だった。

 

「……どうして?」

「どうして?」

 

 俺は腕を組んだ。

 どうして、か。

 理由ならある。

 おまえを幸福漬けにして、最高の絶望を味わせるためだ。

 

 だが、そんなことを言っても面倒なだけだ。

 だから俺は、悪魔らしく笑った。

 

「俺は悪魔だからな。気まぐれだ」

 

 少女は小さく瞬きをした。

 

「悪魔……」

「そうだ」

 

 俺は軽く指を鳴らし、背中から黒い翼を出してみせた。

 ついでに角も出す。

 暗い路地に、赤い魔力がぼんやり灯った。

 

 普通の人間なら悲鳴を上げるところだ。

 神殿に駆け込む者もいる。

 あるいは失禁する。

 だが少女は、パンを握ったまま、ぼんやりと俺を見ていた。

 

「……悪魔さん」

「そうだ」

「魂を、食べるんですか」

「まあ、食うこともあるな」

「じゃあ」

 

 少女は、パンを胸に抱いた。

 

「私ので、足りますか」

 

 俺は、二度目の沈黙をした。

 こいつ。

 今、なんと言った?

 

「足りるかって?」

「はい」

「自分の魂を差し出すから、食べ物をくれってことか?」

 

 少女は首を横に振った。

 

「違います」

「じゃあなんだ」

「もう、いらないので」

 

 少女は淡々と言った。

 

「痛いのも、寒いのも、お腹がすくのも、もう、疲れたので。悪魔さんが食べるなら、どうぞ」

 

 その声に、劇的な悲しみはなかった。

 泣き叫ぶような絶望もなかった。

 ただ、使い古した靴を捨てるような口ぶりだった。

 自分の命を、その程度のものとして扱っている。

 

 俺は、少しだけ苛立った。

 

 なんだそれは。

 つまらない。

 絶望とは、もっと濃くなければならない。

 生きたいのに生きられない。

 愛されたいのに愛されない。

 手に入れたものを失う。

 信じたものに裏切られる。

 そういう落差があってこそ、味が出る。

 

 最初から「もういらない」では駄目だ。

 そんな魂、喰ったところで腹の足しにもならん。

 湿った灰みたいな味しかしない。

 

「名前は」

 

 俺は尋ねた。

 少女は少し間を置いて答えた。

 

「……エリィ」

「苗字は」

「ありません」

「親は」

「いません」

「家は」

「ありません」

「仕事は」

「拾ったものを、売ってました。でも、最近はあまり拾えなくて」

「誰か頼れる人間は」

「いません」

「恨んでいる相手は」

 

 少女は首を傾げた。

 

「恨む?」

「おまえをこんな目に遭わせた奴だ。殴った奴、奪った奴、捨てた奴。復讐したいとは思わないのか」

 

 エリィは考えた。

 本当に、分からない問題を出された子供のように考えた。

 やがて、小さく言った。

 

「私が、弱いので」

 

 俺は三度目の沈黙をした。

 

 まずい。

 こいつ、想像以上に不幸だ。

 しかも、不幸の処理の仕方が下手すぎる。

 

 普通の人間なら、怒る。

 妬む。

 憎む。

 世界を呪う。

 

 それらは悪魔にとって分かりやすい燃料だ。

 

 だが、この少女は違う。

 全部、自分が悪いことにしている。

 自分が弱いから。

 自分が役に立たないから。

 自分がいらないものだから。

 そう思い込んで、何もかも諦めている。

 

 これは駄目だ。

 料理で言えば、下ごしらえ以前の問題である。

 素材が冷えきっている。

 まず温めなければならない。

 

 俺は決断した。

 

「エリィ」

「はい」

「おまえを拾う」

 

 エリィは、また瞬きをした。

 

「拾う……?」

「今日からおまえは俺のものだ」

 

 我ながら悪魔らしい言い方だった。

 だが、エリィの反応は想定外だった。

 怯えるでもなく、拒むでもなく、逃げるでもない。

 少女は、少しだけ目を伏せて。

 

「……私、役に立てますか」

 

 そう言った。

 

「は?」

「役に立たないと、捨てられるので」

 

 俺は、胸の奥に妙な感覚を覚えた。

 不快感に近い。

 だが人間への嫌悪とは少し違う。

 

 なんだこれは。

 胃もたれか?

 いや、俺は悪魔なので胃もたれはしない。

 

「役に立つ必要はない」

 

 俺は言った。

 エリィが顔を上げる。

 

「飯を食え。風呂に入れ。眠れ。まずはそれからだ」

「それは……お仕事ですか?」

「違う」

「では、なぜ」

「俺がそうしたいからだ」

 

 エリィは理解できないという顔をした。

 

 まあ、理解できなくていい。

 これは俺の計画だ。

 幸福最大化計画。

 名付けて、極上絶望熟成作戦。

 まずこの少女に、人並みの生活を与える。

 

 温かい飯。

 柔らかい寝床。

 清潔な服。

 安全な部屋。

 優しい言葉。

 褒め言葉。

 安心。

 信頼。

 愛情。

 

 そういうものを、これでもかと与える。

 

 そして、いずれ。

 いずれ、最高のタイミングで叩き落とす。

 

 完璧だ。

 非の打ちどころがない。

 俺は悪魔として、ついに新たな境地へ到達したのだ。

 

「立てるか」

 

 俺が言うと、エリィはふらつきながら立ち上がろうとした。

 だが、すぐに膝が崩れる。

 俺は溜息をつき、少女を抱き上げた。

 

 軽い。

 冗談みたいに軽い。

 まるで骨と布だ。

 エリィは驚いたように身を固くした。

 

「あ、あの」

「なんだ」

「重く、ないですか」

「羽毛のほうが重い」

「ごめんなさい」

「謝るな」

「ごめ……」

「謝るなと言っている」

 

 エリィは口を閉じた。

 腕の中で、少女の体は震えていた。

 寒さのせいだけではない。

 誰かに抱き上げられることに慣れていないのだろう。

 触れられることが、たぶん痛みと結びついている。

 

 俺は舌打ちした。

 まったく、人間どもめ。

 素材の扱いが雑すぎる。

 

 

   ***

 

 

 俺が人間界で使っている隠れ家は、王都の外れにある古い屋敷だった。

 表向きは、没落貴族の別邸ということになっている。

 実際には、俺が百年ほど前に契約者から奪ったものだ。

 

 使用人はいない。

 必要なものは魔法でどうにでもなる。

 

 俺はエリィを屋敷に運び込み、まず暖炉に火を入れた。

 もちろん普通の火ではない。

 悪魔の魔火だ。

 燃料なしで燃え、煙も出ず、部屋全体を柔らかく温める。

 エリィは暖炉の前に座らされ、呆然としていた。

 

 次に、俺は食事を用意した。

 白パン。

 野菜と肉のスープ。

 蜂蜜を溶かした温かいミルク。

 焼いた芋。

 柔らかい卵。

 千年悪魔をやっていると、魔法で料理くらい作れるようになる。

 

 なぜ悪魔が料理に詳しいのかって?

 人間を堕落させるには、食欲の理解も重要だからだ。

 エリィはテーブルの上を見て、固まった。

 

「食え」

 

 俺が言うと、エリィは椅子に座ろうとして、ためらった。

 

「どうした」

「ここに、座ってもいいんですか」

「椅子は座るためにある」

「汚れます」

「汚れたら拭く」

「でも」

「座れ」

 

 エリィはびくりとして、椅子に腰を下ろした。

 そしてスプーンを手に取る。

 その手が震えている。

 スープを一口飲んだ瞬間、エリィの目がまた見開かれた。

 

 温かいものが胃に落ちたのだろう。

 小さな喉がこくりと鳴った。

 次の瞬間、エリィは慌てて食べ始めた。

 けれど、途中でまた止まる。

 

「今度はなんだ」

「……全部、食べたら」

「食べたら?」

「怒られませんか」

 

 俺は額に手を当てた。

 面倒だ。

 想像以上に面倒だ。

 

「怒らない」

「本当に?」

「悪魔は嘘をつくが、今はついていない」

 

 エリィはしばらく俺を見つめ、それからまた食べ始めた。

 

 食べる。

 食べる。

 食べる。

 

 そのたびに、彼女の周囲の灰色が少しずつ薄くなっていく。

 代わりに、淡い金色が滲んでくる。

 

 幸福だ。

 小さな、小さな幸福。

 温かい食事。

 それだけで、この少女はここまで反応する。

 

 俺は満足した。

 いいぞ。

 非常にいい。

 育てがいがある。

 これを毎日続ければ、きっと幸福の味を覚える。

 そして失うことを恐れるようになる。

 その恐怖こそが、最高の香辛料だ。

 

「おいしいか」

 

 俺が聞くと、エリィはスプーンを握ったまま固まった。

 それから、恐る恐る頷く。

 

「……はい」

「そうか」

「おいしい、です」

 

 エリィの目から、ぽろりと涙が落ちた。

 俺はぎょっとした。

 

 泣くな。

 いや、泣いてもいい。

 悪魔的には涙は歓迎だ。

 だが、今のこれは違う。

 絶望の涙ではない。

 安堵の涙だ。

 

 うまいのか?

 いや、うまくはない。

 甘い。

 薄い蜂蜜みたいな味がする。

 

 これは俺の主食ではない。

 悪魔の食事としては邪道だ。

 なのに、なぜか目が離せなかった。

 

「泣くほどか」

 

 俺が呟くと、エリィは慌てて涙を拭った。

 

「ごめんなさい」

「謝るな」

「でも、泣いたら、怒られるので」

「誰に」

 

 エリィは答えなかった。

 俺は聞くのをやめた。

 聞けばたぶん、胸糞の悪い話が出てくる。

 人間の胸糞話など、千年分聞いてきた。

 今さら珍しくもない。

 珍しくもない、はずだった。

 

「食べ終わったら風呂だ」

「お風呂」

「知らないのか」

「昔、入りました」

「いつ」

「……覚えてません」

 

 俺は天井を仰いだ。

 神よ。

 いや、神は嫌いだった。

 悪魔なので。

 

 ともかく。

 なんだこの素材は。

 不憫すぎるだろ。

 

 

   ***

 

 

 風呂は大変だった。

 エリィはまず浴室の広さに怯えた。

 

 湯船を見て怯えた。

 石鹸を見て怯えた。

 新しい服を見て怯えた。

 何を見ても怯える。

 ただし、自分の身に危険が迫っているから怯えているのではない。

 自分がそんなものを使っていいはずがない、と怯えている。

 

「この石鹸、使ったら減ります」

「減るな」

「いいんですか」

「使うためにある」

「この服、綺麗です」

「そうだな」

「私が着たら、汚れます」

「汚れたら洗う」

「でも」

「あのな」

 

 俺は思わず声を低くした。

 エリィがびくりと肩を震わせる。

 しまった。

 俺は咳払いした。

 

「……この屋敷では、飯を食っても怒られない。椅子に座っても怒られない。風呂に入っても怒られない。服を着ても怒られない。泣いても怒られない。分かったか」

 

 エリィは不安そうに俺を見た。

 

「役に、立たなくても?」

「立たなくてもだ」

「失敗しても?」

「失敗してもだ」

「悪い子でも?」

「悪い子なら俺の同類だ。むしろ歓迎する」

 

 エリィは、ほんの少しだけ困った顔をした。

 冗談が通じていない。

 まあいい。

 

「分かったら風呂に入れ」

「はい」

 

 俺は浴室の外で待つことにした。

 さすがに少女の入浴を覗く趣味はない。

 悪魔にも品位はある。

 十分ほどしても何の音もしないので、扉越しに声をかけた。

 

「生きてるか」

「はい」

「入ったか」

「……まだです」

「なぜだ」

「お湯が、綺麗なので」

 

 俺は扉に額をぶつけた。

 先が長い。

 非常に長い。

 俺は千年生きた悪魔だ。

 王国を滅ぼすことも、聖騎士を堕落させることも、英雄に呪いをかけることもできる。

 だが、風呂に入ることをためらう少女を説得するのが、こんなに難しいとは知らなかった。

 

 結局、俺は「入らないなら湯が悲しむ」という意味不明な理屈でエリィを説得した。

 湯が悲しむとはなんだ。

 言った俺にも分からない。

 だが、エリィはなぜか納得した。

 風呂から出たエリィは、見違えるようになっていた。

 

 汚れを落とした髪は、薄い銀色だった。

 頬はまだこけているが、肌の下に生気が戻りつつある。

 新しい寝間着は少し大きかったが、ぼろ布よりはずっといい。

 エリィは袖を握りしめながら、所在なさげに立っていた。

 

「似合っている」

 

 俺は何気なく言った。

 その瞬間、エリィの顔が真っ赤になった。

 いや、真っ赤というほど血色はよくない。

 だが、確かに頬に色が差した。

 

「……に、あう?」

「服だ。似合っている」

「私に?」

「他に誰がいる」

 

 エリィは俯いた。

 肩が震える。

 また泣くのかと思ったが、違った。

 少女は、寝間着の袖を両手で握りしめ、小さく呟いた。

 

「はじめて、言われました」

 

 俺は何も言えなくなった。

 おかしい。

 悪魔である俺が、善行みたいなことをしている。

 

 いや、違う。

 これは善行ではない。

 これは下ごしらえだ。

 調理工程だ。

 幸福を与えることによって、後の絶望を濃くするための計画的悪行である。

 

 だから問題ない。

 俺は悪魔として正しい。

 正しいはずだ。

 

「寝るぞ」

 

 俺は話題を変えた。

 エリィを客室へ案内する。

 

 清潔なシーツ。

 ふかふかの枕。

 羽毛の布団。

 人間の子供一人を寝かせるには十分すぎる部屋だ。

 

 エリィは入口で立ち止まった。

 

「どうした」

「私は、どこで寝ればいいですか」

「ベッド」

「ベッド?」

「そうだ」

「床ではなく?」

「床で寝たければ床を暖めるが、基本はベッドだ」

「でも、ベッドは」

 

 エリィは言葉を探した。

 

「偉い人が使うものです」

「今日からおまえは偉い」

「え」

「俺が決めた」

 

 エリィはぽかんとした。

 その顔が、少しだけ子供らしく見えた。

 俺は布団をめくり、顎で示した。

 

「入れ」

 

 エリィはおずおずとベッドに近づき、そっと腰を下ろした。

 沈み込む柔らかさに驚いたのか、目を丸くする。

 それから、慎重に横になった。

 まるで壊れ物に触れるような動きだ。

 布団をかけると、エリィはまた固まった。

 

「温かいです」

「布団だからな」

「すごいです」

「布団だからな」

「悪魔さん」

「なんだ」

 

 エリィは布団から顔だけ出して、俺を見上げた。

 

「私、明日もここにいていいんですか」

「ああ」

「明後日も?」

「ああ」

「ご飯を食べても?」

「食べてもいい」

「服を着ても?」

「着てもいい」

「寝ても?」

「寝ろ」

「何もしなくても?」

「しばらくは何もするな」

 

 エリィは黙った。

 その目に、また涙が浮かぶ。

 俺は少し身構えた。

 安堵の涙は、どうにも落ち着かない。

 だがエリィは泣かなかった。

 代わりに、とても小さな声で言った。

 

「じゃあ、私」

 

 布団の端を握る指に、力が入る。

 

「生きてても、いいんですか」

 

 俺は。

 俺は、その問いに一瞬だけ返事ができなかった。

 

 生きててもいいか。

 そんなことを、誰かに許可されなければならないと思っているのか。

 人間とは、なんて面倒な生き物だ。

 なんて愚かで、弱くて、救いようがなくて。

 

 そして。

 

「いい」

 

 気づけば俺は、そう言っていた。

 

「おまえは生きてていい」

 

 エリィの目が、ゆっくりと見開かれた。

 その瞬間、彼女の周囲にあった灰色が、ほんの少しだけほどけた。

 消えかけていた光が、弱々しく揺れた。

 小さな、小さな灯火。

 風が吹けば消えてしまいそうなほど頼りない。

 だが確かに、そこにあった。

 

「……はい」

 

 エリィは布団にもぐった。

 

「ありがとう、ございます。悪魔さん」

「俺に礼を言うな。調子が狂う」

「ごめんなさい」

「だから謝るな」

「……はい」

 

 エリィは目を閉じた。

 疲れきっていたのだろう。

 数分もしないうちに、寝息が聞こえ始めた。

 俺はベッド脇に立ち、眠る少女を見下ろした。

 

 さて。

 計画は順調だ。

 予想以上に不幸な素材だったが、逆に言えば伸びしろは大きい。

 人並みの生活を与えるだけで、これほど反応する。

 

 これから毎日、飯を食わせる。

 風呂に入れる。

 服を与える。

 褒める。

 安心させる。

 守る。

 信じさせる。

 俺なしでは生きられないほど、幸福に依存させる。

 

 そして最後に――。

 

「……最後に?」

 

 俺は小さく呟いた。

 最後に、どうするんだっけ。

 

 叩き落とす。

 絶望させる。

 

 そうだ。

 それが目的だ。

 俺は悪魔だ。

 不幸と絶望を喰らう存在だ。

 そのために、この少女を拾った。

 だから、これは善行ではない。

 断じてない。

 

 俺は自分にそう言い聞かせ、部屋を出ようとした。

 そのとき。

 布団の中から、小さな声がした。

 

「悪魔さん」

 

 起きていたのか。

 

「なんだ」

 

 エリィは目を閉じたまま、寝ぼけた声で言った。

 

「明日、いなくならないでください」

 

 俺は足を止めた。

 

「……ああ」

「私、ちゃんといい子にしますから」

「必要ない」

「捨てないでください」

 

 その声は、眠りに落ちる寸前のものだった。

 意識もほとんどない。

 だからこそ、本音なのだろう。

 

「お願い、します」

 

 エリィはそのまま眠った。

 俺は扉の前で、しばらく動けなかった。

 

 まずい。

 非常にまずい。

 この少女、想像以上に不幸だ。

 想像以上に壊れている。

 想像以上に、俺の与える些細なものへ縋りつこうとしている。

 

 そして何より。

 俺は今、ほんの少しだけ。

 ほんの少しだけだが。

 この少女を捨てる光景を想像して、不快になった。

 

「……まずい」

 

 俺は額を押さえた。

 千年悪魔をやってきて、初めての危機だった。

 

 このままでは。

 このままでは、俺が絆される。

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