不憫少女を死ぬほど甘やかした結果 作:重い女すこ
朝になった。
人間界の朝である。
魔界の朝というものは、基本的にやる気がない。
空は常にどす黒いし、地平線の向こうでよく分からない巨大生物が呻いているし、太陽の代わりに赤黒い裂け目が明滅している。
なので、朝と言われても「昨日より少しだけ瘴気が薄いかな」くらいの違いしかない。
それに比べると、人間界の朝は分かりやすい。
窓の外が白む。
鳥が鳴く。
屋根の上に霜が降りる。
遠くの市場から、荷車の軋む音が聞こえ始める。
人間どもが今日もせっせと欲望と不幸を量産するために活動を開始するわけだ。
実に勤勉である。
悪魔業界としては助かる。
俺は屋敷の廊下に立ち、客室の扉を見つめていた。
昨夜、エリィはこの部屋で眠った。
清潔なシーツ。
羽毛の布団。
魔火で暖めた室内。
食事と風呂と寝床。
人間としては最低限。
だが、あの少女にとっては過剰摂取だったらしい。
生きてても、いいんですか。
あの声が、まだ耳に残っている。
「……面倒くさい」
俺は小さく呟いた。
別に、同情しているわけではない。
悪魔が人間に同情するなど、料理人が肉に感情移入するようなものだ。
俺はただ、素材の状態を確認しているだけである。
素材は大事に扱わなければならない。
雑に扱えば味が落ちる。
急激に火を通せば硬くなる。
下ごしらえとは繊細な作業なのだ。
だから、昨夜の俺の行動はすべて合理的だった。
抱き上げたのも。
飯を食わせたのも。
風呂に入れたのも。
寝床を用意したのも。
生きてていい、と言ったのも。
全部、極上絶望熟成作戦の一環である。
うむ。
完璧な理論だ。
俺って天才。
そう自分に言い聞かせてから、俺は扉を軽く叩いた。
「エリィ」
返事がない。
「おい。生きてるか」
返事がない。
俺は眉をひそめた。
人間の子供は脆い。
昨日の状態から考えて、眠っている間に衰弱死していてもおかしくはない。
いや、それは困る。
非常に困る。
せっかく見つけた面白そうな素材が、一晩で駄目になるなどあってたまるか。
それでは熟成どころか、仕入れミスである。
「入るぞ」
俺は扉を開けた。
ベッドは空だった。
「……は?」
思わず声が出た。
部屋を見回す。
窓は閉まっている。
扉は俺が今開けた。
布団は妙に綺麗に畳まれている。
枕も整えられている。
そして、肝心のエリィがいない。
「逃げたか?」
口に出した瞬間、胸の奥が妙にざらついた。
いや、逃げたなら逃げたでいい。
俺は悪魔だ。
逃げた人間を捕まえるなど造作もない。
王都中を魔眼で探せば、あの薄い灰色などすぐ見つかる。
ただ、問題はだな。
問題は。
あの体で外に出たら、寒さで死ぬ。
「……素材管理上、問題がある」
俺は誰に対する言い訳か分からないことを呟き、屋敷内に意識を広げた。
闇魔法で気配を探る。
いた。
一階。
厨房。
俺は早足で階段を下りた。
悪魔が早足になるなど滅多にない。
魔界の下級悪魔どもが見たら腹を抱えて笑うだろう。
厨房の扉を開ける。
エリィは、そこにいた。
大きすぎる寝間着の袖を肘までまくり、床に膝をついている。
手には布巾。
その布巾で、床を拭いていた。
ちなみに、この屋敷の床は俺の魔法で管理されている。
百年放っておいても埃一つ溜まらない。
昨日エリィが来る前より、今のほうがむしろ清潔なまである。
つまり、拭く必要はまったくない。
「何をしている」
俺が声をかけると、エリィの肩が跳ねた。
布巾を握ったまま、こちらを振り向く。
薄銀の髪は寝癖で少し跳ねていた。
顔色は昨日よりましだが、まだ白い。
そして目の下に、うっすら隈がある。
「お、おはようございます」
「質問に答えろ。何をしている」
エリィは視線を床に落とした。
「お掃除を……」
「なぜ」
「何もしないと、捨てられるので」
俺は朝から沈黙した。
実に爽やかな朝だ。
鳥は鳴き、霜は光り、人間どもは今日も元気に不幸の種を蒔いている。
そんな朝っぱらから、十二、三の少女が床に這いつくばって「何もしないと捨てられるので」と言っている。
人間社会、終わってないか?
「昨日言っただろう。しばらく何もするなと」
「でも」
「でも、なんだ」
「寝て、起きたら、まだここにいて」
エリィは布巾を握りしめた。
「それで、何もしないのは、怖くて」
俺は眉間を押さえた。
まずい。
これはかなり根深い。
飯を食わせて風呂に入れれば多少ましになるかと思ったが、全然ましになっていない。
むしろ温かい寝床を知ったことで、失う恐怖が早くも発生している。
素晴らしい。
計画通りだ。
……計画通りなのだが。
早すぎないか?
幸福を与えた翌朝に、もう失う恐怖で床掃除を始める人間があるか。
発酵が急すぎる。
熟成庫の温度管理を間違えたかもしれない。
「エリィ」
「はい」
「立て」
エリィはびくりとして、慌てて立ち上がろうとした。
だが膝をついていたせいか、足がふらつく。
俺は咄嗟に腕を伸ばし、倒れる前に支えた。
軽い。
相変わらず軽い。
昨日飯を食わせたくらいでは、当然どうにもならないらしい。
人間の身体は面倒だ。
壊れるのは早いのに、治るのは遅い。
「ごめんなさい」
「謝るな」
「はい。ごめ……」
エリィは慌てて口を閉じた。
学習能力はある。
ただし謝罪反射が強すぎる。
俺はエリィを椅子に座らせた。
厨房の椅子だ。
彼女は座った瞬間、また落ち着かなさそうに背筋を固くした。
「座っていろ」
「でも、お掃除が」
「この床は汚れていない」
「でも、私が歩いたので」
「俺の屋敷はおまえの足裏より頑丈だ」
エリィは困ったように床を見た。
「私、足が汚いので」
「昨日洗った」
「でも、私なので」
「理由になっていない」
エリィは黙った。
駄目だ。
会話が人間語なのに通じない。
千年悪魔をやってきた俺が、人間の少女一人にここまで手こずるとは。
勇者を罠に嵌めるほうが簡単だったぞ。
あいつらは「この先に伝説の剣がある」と書いた看板を立てるだけで勝手に来る。
単純で助かる。
だがエリィは違う。
こちらが与えるものすべてに対し、自分には相応しくないという防壁を張ってくる。
防御力が妙な方向に高い。
これは攻略しがいがある。
悪魔的に。
「朝食を作る」
俺が言うと、エリィの目が小さく揺れた。
「朝も、食べるんですか」
「人間は普通、朝も食う」
「昨日、たくさんいただいたので」
「昨日は昨日だ」
「でも」
「腹は減っていないのか」
エリィは少し迷ったあと、小さく言った。
「……減っています」
「なら食え」
「はい」
素直なのか素直じゃないのか分からん。
俺は指を鳴らした。
魔力が厨房を流れ、鍋に火が入り、棚から食材が浮かぶ。
今日の朝食は、柔らかい粥にした。
昨日は食わせすぎた。
飢えた人間に急に大量の食事を与えるのはよくない、という知識はある。
なぜ知っているかって?
昔、飢饉の村で「今だけ好きなだけ食えるぞ」と囁いたら、何人かが食いすぎで死んだことがあるからだ。
悪魔は経験から学ぶ。
偉い。
粥に、刻んだ野菜と少しの肉を入れる。
卵を落とす。
蜂蜜を薄く溶かした温かいミルクも用意する。
それから小さな白パン。
エリィは椅子の上で、料理ができていく様子をじっと見ていた。
不思議そうな目だ。
怖がってはいない。
昨日、俺が悪魔だと見せたからかもしれない。
あるいは、怖がる体力がないだけかもしれない。
「悪魔さん」
「なんだ」
「火が、薪なしで燃えています」
「魔火だからな」
「まび」
「魔火」
「すごいです」
素直な感想だった。
俺は少しだけ気分がよくなった。
悪魔の魔法を見てすごいと言う人間は珍しい。
たいていは悲鳴を上げるか、神に祈るか、失神する。
褒められるのも悪くない。
いや、待て。
悪魔が人間に褒められて嬉しがるな。
立場を考えろ。
俺は粥を器に盛り、エリィの前に置いた。
「食え」
エリィは両手を膝の上に置いたまま、器を見つめていた。
「どうした」
「これは」
「朝食だ」
「全部、ですか」
「全部だ」
「何日分ですか」
「一食分だ」
エリィは絶句した。
俺も絶句した。
一食分の粥で人間を絶句させるとは思わなかった。
さすがに想定外である。
王侯貴族の堕落には宝石や領地や禁断の快楽が必要だった。
だが、この少女は粥一杯で世界の真理を見たような顔をしている。
費用対効果がすごい。
「食べきれなければ残せ」
俺が言うと、エリィはさらに固まった。
「残しても、いいんですか」
「無理に食って吐かれても困る」
「残したら、怒られませんか」
「怒らない」
「捨てられませんか」
「捨てない」
「……本当に?」
「昨日も言ったが、悪魔は嘘をつく。だが今はついていない」
エリィは俺を見た。
鈍い青色の目。
昨日より、ほんの少しだけ光がある。
魔眼を開かずとも分かる。
彼女は今、信じようとしている。
信じるのが怖いのに、それでも信じたいと思っている。
なんだこれは。
面白い。
面白いはずなのに、妙に落ち着かない。
エリィはスプーンを手に取り、粥を一口食べた。
目が丸くなる。
「温かいです」
「粥だからな」
「柔らかいです」
「粥だからな」
「おいしいです」
「そうか」
エリィはもう一口食べた。
ゆっくり。
慎重に。
まるで食べ物のほうを壊さないようにしているみたいに。
そして、三口目を食べたところで、彼女は小さく息を吐いた。
「悪魔さん」
「なんだ」
「お腹が、変です」
「痛いのか」
「いいえ」
「吐き気か」
「違います」
「ならなんだ」
エリィは自分の腹に手を当て、困ったように言った。
「温かいです」
俺は少し黙った。
腹が温かい。
ただそれだけのことを、この少女は不思議がる。
昨日から何度も思っているが、やはり素材の状態が悪すぎる。
悪魔の俺が言うのもなんだが、人間どもは管理が雑だ。
こんな小さなもの一つ温めておけないのか。
「それは正常だ」
「正常」
「人間は飯を食うと腹が温かくなる」
「そうなんですか」
「ああ」
「じゃあ、私」
エリィは少しだけ器を見つめた。
「人間みたいです」
俺はスプーンを持っていなかった。
もし持っていたら、たぶん折っていた。
「人間だろうが」
「でも」
「でも?」
「よく、人間じゃないみたいだって」
エリィはそこで言葉を止めた。
誰に言われたのか。
なぜ言われたのか。
聞かなくても、だいたい想像はつく。
痩せこけた身体。
汚れた服。
薄銀の髪。
感情の薄い目。
貧民街では、弱い者をさらに下に置くことで安心する人間が多い。
ああ、面倒だ。
人間は本当に面倒だ。
「エリィ」
「はい」
「おまえは人間だ」
エリィが顔を上げた。
「少なくとも、俺よりはずっと人間だ」
「悪魔さんより」
「そうだ。俺は悪魔だからな」
「そうですね」
そこで納得するな。
少しは怖がれ。
エリィは粥を食べ続けた。
半分ほどで手が止まる。
俺は何も言わなかった。
無理に食わせる段階ではない。
「もういいのか」
「はい。でも」
エリィは器を見た。
「これ、あとで食べてもいいですか」
「いい」
「腐りませんか」
「魔法で保たせる」
「すごいです」
また素直に褒められた。
まずい。
悪くない。
悪くないと思ってしまう。
「食後は服だ」
「服」
「昨日の寝間着で一日過ごすわけにはいかないだろう」
エリィは自分の袖を見た。
「これでも、十分すぎます」
「それは寝る時の服だ」
「寝る時の服と、起きる時の服は違うんですか」
俺は椅子の背に手を置き、天井を仰いだ。
そこからか。
そこから説明するのか。
千年悪魔をやってきたが、人間の生活基礎講座を開く羽目になるとは思わなかった。
俺の人生、いや悪魔生、どこで間違えたのだろう。
転生直後か。
たぶんそうだな。
「違う」
「そうなんですね」
「人間は状況によって服を変える。寝間着、普段着、外出着、礼服、防寒着などだ」
「たくさんあります」
「たくさんある」
「全部、偉い人が使うものですか」
「違う。普通の人間も使う」
「普通の人間」
エリィはその言葉を、宝石の名前でも聞いたように繰り返した。
普通。
彼女にとっては、それが遠い。
温かい飯より遠い。
清潔な寝床より遠い。
おそらく、生きていていいという許可より遠い。
「今日から覚えろ」
「はい」
「まずは普段着だ」
俺は魔法で服を作ろうとした。
生成魔法は得意だ。
布も糸も、形も色も、どうにでもなる。
エリィのサイズに合わせた服など一瞬だ。
だが、指を鳴らす直前に思い直した。
服を与えるだけなら簡単だ。
しかし、それでは駄目だ。
幸福を最大化するなら、ただ物を与えるだけでは足りない。
選ばせる。
迷わせる。
自分に似合うものを探させる。
自分の好みというものを知覚させる。
幸福の解像度を上げる必要がある。
そう。
これは訓練だ。
自立支援ではない。
絶望熟成のための高度な下ごしらえである。
「出かけるぞ」
俺が言うと、エリィの顔から血の気が引いた。
「外に、ですか」
「服と靴を買う」
「靴」
「裸足に近い足で歩かせるわけにはいかない」
エリィは慌てて足を引っ込めた。
椅子の下に隠すように。
「私の足、汚いので」
「昨日洗ったと言っている」
「でも、靴は高いです」
「金はある」
「返せません」
「返さなくていい」
エリィは唇を噛んだ。
「返せないものをもらうのは、怖いです」
俺は動きを止めた。
返せないものをもらうのは怖い。
なるほど。
貧民街の理屈だ。
ただほど高いものはない。
施しには見返りがある。
優しさには裏がある。
笑顔のあとには痛みが来る。
学習としては正しい。
悲しいほど正しい。
だが、俺は悪魔である。
その理屈を利用する側の存在だ。
だから、この少女の警戒は実に正しい。
正しいのだが。
「今回は返さなくていい」
「でも」
「では、こう考えろ」
俺は指を一本立てた。
「俺はおまえを甘やかしたい」
エリィが瞬きをした。
「甘やかす」
「そうだ」
「それは、お仕事ですか」
「違う」
「罰ですか」
「なぜそうなる」
「甘やかされたら、あとで怒られるので」
俺は口を閉じた。
やめろ。
会話のたびに人間社会の闇を掘り当てるな。
朝から胸糞の採掘量が多すぎる。
「この屋敷では、甘やかされたあとで怒られることはない」
「本当に?」
「ああ」
「では、どうして」
エリィは不安そうに俺を見た。
「悪魔さんは、私を甘やかしたいんですか」
正面から聞かれた。
俺は一瞬だけ迷った。
理由はある。
極上絶望熟成作戦。
幸福の頂点から叩き落とし、最高品質の絶望を収穫する。
そのために、この少女を徹底的に甘やかす。
そう言えばいい。
悪魔らしく。
残酷に。
嗤いながら。
だが、今言うとたぶん面倒だ。
エリィは理解できないだろうし、理解したとしても「では私、ちゃんと絶望します」とか言い出しかねない。
それは違う。
絶望とは、もっと自然発生的でなければならない。
強制された絶望は味が悪い。
やらせの悲劇など食えたものではない。
だから、俺は言った。
「俺の趣味だ」
「趣味」
「そうだ。悪魔の趣味だ」
「悪魔さんは、変な趣味なんですね」
「……おまえ、たまに遠慮なく言うな」
エリィははっとした顔になった。
「ご、ごめんなさい」
「謝るな。今のは少し面白かった」
「面白い?」
「ああ」
エリィは困ったように眉を寄せた。
自分の発言が誰かを怒らせなかったどころか、面白がられたことに戸惑っているらしい。
ややこしい。
だが、少しだけ表情が動いた。
よし。
悪くない。
俺はエリィに外套を着せた。
昨日魔法で作った簡素なものだ。
まだ身体が細すぎるせいで、布に包まれているように見える。
「寒くないか」
「大丈夫です」
「本当にか」
「はい」
俺はエリィの指先を見た。
震えている。
「嘘をつくな」
「ごめんなさい」
「謝るな」
俺はさらに厚手のショールを作り、エリィの肩にかけた。
彼女は驚いて布を握った。
「これは」
「防寒具だ」
「これも、私が」
「使え」
「汚れます」
「汚れたら洗う」
昨日から何度この会話をしているのか。
いっそ屋敷の壁に刻んでおくか。
汚れたら洗う。
減ったら足す。
壊れたら直す。
泣いたら拭く。
怖ければ隣にいる。
……いや、最後は何だ。
勝手に混ざった。
危ない危ない。
「行くぞ」
「はい」
エリィは俺の後ろを、小さな歩幅でついてきた。
玄関を出る直前、彼女は足を止めた。
外の光を見ている。
朝の光。
冬の手前の白い光。
貧民街の路地にも同じ光は差していたはずだ。
だが、屋敷の玄関から見るそれは、彼女には違って見えるのだろう。
「どうした」
エリィは首を横に振った。
「外に出たら、夢が終わるかと思って」
俺は何も言えなかった。
この屋敷での一晩を、夢だと思っていたらしい。
まあ、無理もない。
昨日まで石畳の上で凍えていた少女が、いきなり温かい飯と風呂と寝床を与えられたのだ。
現実感がないのだろう。
だが、そんなことを言われると。
困る。
「終わらない」
俺は言った。
「少なくとも、今日の服を買うまでは終わらない」
「そのあとは?」
「昼飯を食う」
「昼も、食べるんですか」
「食べる」
「夜も?」
「食べる」
エリィは目を丸くした。
「すごいです」
「何がだ」
「一日に、三回も食べるんですね」
「普通だ」
「普通は、すごいです」
普通は、すごい。
俺はその言葉を聞いて、胸の奥にまた妙な感覚を覚えた。
昨日から何度もある。
不快に近い。
しかし、人間の欲望を見た時の嫌悪とは違う。
分からない。
悪魔の感情分類にない味だ。
未知の香辛料である。
まあいい。
そのうち分かるだろう。
俺たちは屋敷を出た。
***
王都ルベリアの商業区は、朝から騒がしかった。
荷車。
馬。
行商人。
パン屋の匂い。
魚を売る声。
布を広げる商人。
果物を並べる女。
道端で喧嘩する男たち。
財布を盗もうとする子供。
それを見逃してやる店主。
見逃してやったふりをして、あとで安く働かせるつもりの店主。
ああ、人間社会。
今日も欲望の色がよく煮えている。
魔眼を開けば、そこかしこに色が揺れていた。
濁った黄色。
赤黒い紫。
腐った薄桃。
嫉妬の緑。
虚栄の金。
いつもの味だ。
胃もたれする。
だが、俺の背中の後ろにある色だけは違った。
薄い灰色。
その奥に、小さな金色。
不安と緊張に震えながらも、初めて見るものに目を奪われている光。
エリィは俺の外套の端を、小さな手でつまんでいた。
握るというより、触れているだけだ。
迷惑にならない程度に。
すぐ離せる程度に。
その遠慮が、また面倒だった。
「掴んでいい」
俺が言うと、エリィは顔を上げた。
「え」
「外套だ。迷子になると面倒だ」
「でも、しわになります」
「しわになったら伸ばす」
「汚れたら」
「洗う」
「破れたら」
「直す」
エリィは少し考えたあと、外套の端をちゃんと握った。
小さな手だ。
骨ばっている。
力も弱い。
だが、確かに握っている。
俺は前を向いた。
口元が緩みそうになったので、わざと無表情を作る。
計画通り。
依存の芽が育っている。
これは実に悪魔的に喜ばしいことだ。
そういうことにしておく。
最初に入ったのは靴屋だった。
木の看板に、革靴の絵が描かれている。
店内には子供用から大人用まで、さまざまな靴が並んでいた。
革の匂い。
磨き油の匂い。
店主は恰幅のいい中年女で、俺たちを見るなり営業用の笑顔を浮かべた。
「いらっしゃいませ。何をお探しで?」
「この子の靴だ」
俺がそう言うと、店主の視線がエリィへ向いた。
エリィは俺の外套の陰に隠れた。
店主は一瞬だけ目を細めた。
痩せすぎた身体。
大きすぎる外套。
怯えた目。
裸足に近い足。
何かを察したのだろう。
だが、何も言わなかった。
人間にしては賢い。
「では、足の寸法を測りましょうか」
店主が柔らかい声で言う。
エリィは固まった。
「足を」
「測るだけだ」
俺が言うと、エリィは恐る恐る椅子に座った。
店主が膝をつき、木の板と紐で寸法を測ろうとする。
その瞬間、エリィの身体がびくりと震えた。
「大丈夫。痛くしないよ」
店主が言う。
エリィは小さく頷いた。
だが、指先は白くなるほど外套を握っている。
触れられることに慣れていない。
触れられることが、痛みと結びついている。
俺は店主の手元を見た。
もし少しでも乱暴に扱えば、店ごと消し炭にする。
いや、消し炭はやりすぎか。
商業区が騒ぎになる。
せいぜい悪夢を三十年ほど見せるくらいにしておこう。
店主は丁寧だった。
エリィの足を見て少し眉を曇らせたが、やはり何も言わず、柔らかい布で軽く拭いてから寸法を測った。
「細いねえ。まずは柔らかい革のものがいいでしょう。足が慣れていないなら、硬い靴は痛いから」
「一番いいものを出せ」
「お値段は」
「気にするな」
店主の笑顔が少しだけ商人のものになった。
エリィは慌てた。
「あの、安いので」
「駄目だ」
「でも」
「痛い靴を履かせたら歩けない」
「我慢できます」
「我慢するな」
エリィは言葉を失った。
我慢するな。
たったそれだけの言葉で、また世界の法則が一つ崩れたような顔をしている。
店主が奥から何足か持ってきた。
柔らかい革靴。
内側に温かい布が張られている。
紐で調整できるもの。
足首まで覆うもの。
エリィは靴を見つめた。
「どれがいい」
俺が尋ねると、エリィは困った顔をした。
「どれが、いいとは」
「好きなものを選べ」
「好き」
「履きたいと思うものだ」
エリィは靴を見た。
一足目。
二足目。
三足目。
そして、一番地味なものを指さした。
「これが、一番汚れが目立たないと思います」
「好きかどうかを聞いた」
「……分かりません」
「何が」
「好き、が」
店の中が、少し静かになった気がした。
もちろん実際には、外の市場は騒がしい。
人間どもは相変わらず喧しく商売をしている。
だが、俺の耳には一瞬、エリィの声だけが残った。
好きが分からない。
なるほど。
そこも壊れているのか。
空腹。
寒さ。
痛み。
恐怖。
労働。
叱責。
放棄。
それらばかりで生きてきた人間には、好き嫌いを育てる余裕がない。
選択とは贅沢だ。
好みとは安全の上に咲く花だ。
こいつの土には、まだ何も植えられていない。
俺は腕を組んだ。
「なら練習だ」
「練習」
「好きが分からないなら、これから覚えればいい」
「覚えられるものですか」
「覚えられる」
「私にも?」
「おまえにもだ」
エリィは俺を見上げた。
その目の奥に、小さな光が揺れた。
不安。
疑念。
それでも、ほんの少しの期待。
ああ、いい。
実にいい。
幸福の芽だ。
これが育てば、失った時の絶望はきっと濃い。
だから俺の胸が少し痛むのも、きっと期待である。
そうに違いない。
「まずは履け」
俺は柔らかい革靴を一足選んだ。
色は薄い茶色。
目立ちすぎず、しかし粗末ではない。
店主が手伝い、エリィに履かせる。
エリィは靴を履いたまま、床に足を下ろした。
そっと体重をかける。
目を丸くする。
「痛くないです」
「当たり前だ。痛くない靴を選んだ」
「靴なのに」
「靴は本来、足を守るためのものだ」
「そうなんですか」
「おまえは靴を何だと思っていた」
エリィは少し考えた。
「偉い人が、足音を鳴らすもの」
俺は店主を見た。
店主も俺を見た。
どちらも何も言わなかった。
人間社会、二回目の終了である。
「それを買う」
「はい。ありがとうございます」
店主は穏やかに言った。
それから、少し迷ったように棚から小さな靴紐を持ってきた。
青い紐だ。
淡い色で、エリィの目に少し似ている。
「よかったら、これはおまけで。古い在庫だから」
エリィがびくりとした。
「おまけ」
「ただでくれるそうだ」
「ただ」
エリィの顔が強張る。
店主はしまった、という顔をした。
俺は溜息をついた。
「エリィ」
「はい」
「受け取れ」
「でも」
「これは店主がくれると言った。店主がいいと言ったものを拒むのは、店主の顔を潰すことになる」
我ながら乱暴な理屈だった。
だが、エリィには効いた。
「お店の人が、困りますか」
「困る」
店主は一瞬きょとんとしたが、すぐに頷いた。
「そうだねえ。受け取ってくれると嬉しいよ」
エリィは両手で青い靴紐を受け取った。
まるで割れ物のように。
「ありがとう、ございます」
店主の表情が少し柔らかくなった。
「似合うよ」
その瞬間、エリィは真っ赤になった。
いや、まだ血色が足りないので、真っ赤未満だ。
しかし耳まで色が差した。
「に、似合う」
「そうだよ。髪が綺麗だから、青が映える」
エリィは固まった。
髪が綺麗。
その言葉を処理できていない。
昨日の服が似合うと同じだ。
褒め言葉への耐性が皆無である。
エリィは助けを求めるように俺を見た。
「悪魔さん」
「なんだ」
「こういう時は、何をすればいいですか」
「礼を言えばいい」
「ありがとう、ございます」
エリィは店主に向かって深く頭を下げた。
深すぎる。
貴族に跪く農奴みたいだ。
「そこまでしなくていい」
「ごめんなさい」
「謝るな」
店主が少し笑った。
馬鹿にした笑いではない。
温かい笑いだ。
エリィはその笑いにも怯えなかった。
少し困ったように目を伏せただけだった。
俺は靴代を払った。
ついでに予備の靴を三足買った。
エリィが「そんなに足はありません」と言った。
俺は笑いそうになった。
店主は笑った。
エリィは、自分の言葉で人が笑ったことにまた戸惑っていた。
悪くない。
非常に悪くない。