不憫少女を死ぬほど甘やかした結果   作:重い女すこ

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第三話

 次は服屋だった。

 

 結論から言うと、俺は敗北した。

 いや、買い物自体には勝った。

 

 金を払い、服を買う。

 それは簡単だ。

 悪魔にとって金など砂利である。

 人間から奪った財宝が魔界の居城に山ほどある。

 いざとなればそこらの欲深い商人から巻き上げてもいい。

 

 問題は、エリィに服を選ばせることだった。

 

「どれがいい」

「これが、一番安そうです」

「好きなものを選べ」

「これが、一番汚れが目立たなそうです」

「好きなものを選べ」

「これなら、破れても分かりにくいです」

「好きなものを選べと言っている」

「……好きが、分かりません」

 

 靴屋で聞いた。

 さっき聞いた。

 だが服屋で改めて突きつけられると、破壊力が増した。

 店内には色とりどりの子供服が並んでいた。

 

 冬用の厚手のワンピース。

 柔らかいシャツ。

 暖かい上着。

 手袋。

 帽子。

 リボン。

 靴下。

 

 普通の子供なら、目を輝かせて選ぶのだろう。

 高価なものをねだるかもしれない。

 親に叱られるかもしれない。

 それでも「これがいい」と言うのだろう。

 

 エリィは違う。

 すべてを自分が迷惑をかけないための道具として見ている。

 

 汚れが目立たない。

 破れても怒られない。

 安そう。

 邪魔にならない。

 長く使えそう。

 捨てられても惜しくない。

 自分が気に入るかどうか、という観点が存在しない。

 

 俺は腕を組み、考えた。

 好みとは、安全圏で育つ。

 なら、いきなり選ばせても無理だ。

 まずはこちらが選び、反応を見るしかない。

 

 俺は棚から一着の服を取った。

 淡い灰青のワンピースだ。

 派手すぎず、しかし地味すぎない。

 エリィの薄銀の髪と、鈍い青の目に合う。

 

「これを試せ」

 

 エリィは服を見た。

 

「綺麗です」

「なら着ろ」

「綺麗なので、私が着たら」

「汚れたら洗う」

「でも」

「今から先に言っておく。汚れたら洗う。破れたら直す。小さくなったら新しいものを買う。分かったか」

 

 エリィは口を閉じた。

 少しだけ考えたあと、小さく頷く。

 

「はい」

 

 試着室に入るまでに五分かかった。

 試着室の中で服を着替えるのに十分かかった。

 途中で「これ、本当に着ていいんですか」と三回聞かれた。

 俺は三回「着ろ」と答えた。

 

 そして、エリィが試着室から出てきた。

 店の空気が止まった。

 服は少し大きめだったが、似合っていた。

 薄銀の髪が肩に落ち、灰青の布地が細い身体を包んでいる。

 

 頬はまだこけている。

 腕も細い。

 

 だが、昨日のぼろ布とは違う。

 人形のよう、という表現は嫌いだ。

 人形は生きていない。

 エリィは生きている。

 弱々しくても、まだ生きている。

 

 だから。

 

「似合っている」

 

 俺は言った。

 エリィは反射的に服の裾を握った。

 

「本当、ですか」

「ああ」

「変では、ないですか」

「変ではない」

「汚く、ないですか」

「ない」

「私が着ても」

「似合っている」

 

 エリィは俯いた。

 肩が震える。

 泣くかと思った。

 だが、泣かなかった。

 代わりに、彼女は小さく笑った。

 

 笑った、というにはあまりにも不器用だった。

 口元が少しだけ緩んだだけ。

 目尻がほんの少し下がっただけ。

 表情筋が笑い方を忘れていて、手探りで動かしたような笑み。

 

 しかし。

 魔眼を通して見た彼女の色は、確かに変わっていた。

 灰色の奥に、淡い金色。

 昨日より少しだけ強い。

 消えかけの灯火が、小さな火になろうとしている。

 

 俺は喉を鳴らしかけた。

 悪魔としての食欲ではない。

 

 これは何だ。

 分からない。

 分からないが、目が離せない。

 

「それを買う」

 

 俺は言った。

 

「あと、似たようなものを五着。下着と靴下と上着も。帽子、手袋、寝間着の替えもだ」

「そんなに」

 

 エリィが慌てる。

 

「一人の人間が暮らすには必要だ」

「でも、私は一人です」

「一人でも必要だ」

「そんなに持ったら、怒られます」

「誰に」

 

 エリィは黙った。

 店員も黙った。

 俺は深く息を吐いた。

 悪魔に呼吸は必須ではない。

 だが、こういう時は人間の真似をしたくなる。

 

「この屋敷では怒られない」

「はい」

「俺も怒らない」

「はい」

「そして、これは全部おまえのものだ」

 

 エリィの目が大きく開いた。

 

「私の」

「そうだ」

「返さなくても」

「返さなくていい」

「誰かに取られたら」

「取らせない」

「悪魔さんも?」

 

 不意に言われて、俺は少し止まった。

 悪魔さんも。

 つまり、俺も取る側に含まれている。

 

 当然だ。

 悪魔は奪う。

 魂を奪う。

 欲望を煽り、幸福を壊し、絶望を喰う。

 俺は奪う側だ。

 

 だから、この少女の質問は正しい。

 正しい、のだが。

 

「俺も取らない」

 

 気づけば、そう答えていた。

 エリィは俺を見つめた。

 

「本当に?」

「ああ」

「悪魔さんなのに?」

「悪魔でもだ」

「変な悪魔さんですね」

「二回目だぞ、それ」

 

 エリィは少しだけ口元を押さえた。

 笑ったのかもしれない。

 今度は、さっきより自然だった。

 

 俺は店員に金を渡した。

 予想以上の量になったので、荷物は魔法で屋敷に送る。

 店員は目を丸くしていたが、金貨の枚数を見て何も言わなかった。

 人間は金を見るとだいたい寛容になる。

 分かりやすくてよろしい。

 

 店を出る前、俺は小さな青いリボンを一つ買った。

 靴紐より少し濃い色。

 エリィの目の色に近い。

 

「これもだ」

 

 エリィはリボンを見た。

 

「何に使うんですか」

「髪を結ぶ」

「髪」

「おまえの髪だ」

「私の髪に、これを」

「そうだ」

 

 エリィはリボンを両手で受け取った。

 しばらく見つめる。

 そして、胸の前で大事そうに握った。

 

「綺麗です」

「なら使え」

「大事にしまっておきます」

「使えと言っている」

「でも、使ったら汚れます」

「汚れたら洗う」

「なくしたら」

「また買う」

「取られたら」

「取らせない」

 

 エリィはリボンを見つめたまま、小さく言った。

 

「大事なものは、見えるところに置くと、取られるので」

 

 俺は、今度こそ何も言えなかった。

 

 大事なものは取られる。

 だから持たない。

 持つとしても隠す。

 好きなものは見せない。

 欲しいものは言わない。

 嬉しい顔をすれば、誰かがそれを壊しに来る。

 

 それが彼女の世界だったのだろう。

 

 ならば。

 

「この屋敷では、取られない」

 

 俺は言った。

 

「おまえのものは、おまえのものだ」

 

 エリィはゆっくり顔を上げた。

 

「私のもの」

「そうだ」

「取られない」

「取らせない」

「なくしても、怒られない?」

「怒らない」

「大事にしても、いいんですか」

「いい」

 

 エリィはリボンを胸に抱いた。

 それから、本当に小さな声で言った。

 

「じゃあ、使いたいです」

 

 俺は頷いた。

 

「そうしろ」

 

 店員に頼んで、エリィの髪を軽く整えてもらった。

 薄銀の髪を後ろで一つにまとめ、青いリボンで結ぶ。

 出来上がると、エリィは鏡の前に立った。

 

 鏡の中の自分を見つめる。

 長い時間、じっと。

 

「どうした」

 

 俺が尋ねると、エリィは鏡から目を離さずに言った。

 

「私じゃないみたいです」

「おまえだ」

「でも、綺麗な服を着て、靴を履いて、リボンをつけて」

 

 エリィは自分の胸に手を当てた。

 

「私みたいじゃないです」

「なら覚えろ」

「何を」

「これもおまえだ」

 

 エリィは俺を見た。

 

「これも、私」

「そうだ」

 

 ぼろ布で凍えていたのもエリィ。

 パンを半分残そうとしたのもエリィ。

 床を拭いていたのもエリィ。

 今、青いリボンをつけているのもエリィ。

 どれか一つだけが本物というわけではない。

 ……などと、俺は何を人間の人生相談みたいなことをしているのか。

 

 違う。

 これは精神誘導である。

 幸福への適応訓練である。

 のちの絶望を濃くするための布石である。

 

 うん。

 問題ない。

 

「悪魔さん」

「なんだ」

「私、これが好きかもしれません」

 

 エリィはリボンに触れた。

 好き。

 その言葉が、彼女の口から出た。

 俺は一瞬、息を忘れた。

 悪魔なので忘れても死なないが、とにかく忘れた。

 

 灰色の奥に、金色が灯る。

 小さな小さな好き。

 青いリボン一つ分の好き。

 だが、それは彼女が自分で見つけた最初の好みだった。

 

「そうか」

 

 俺は言った。

 

「なら、それはおまえの好きだ。覚えておけ」

「はい」

 

 エリィは頷いた。

 その表情は、まだ頼りない。

 けれど昨日より少しだけ、子供らしかった。

 

 

    ***

 

 

 買い物の帰り道、事件は起きた。

 事件というほど大げさではない。

 王都ルベリアではよくあることだ。

 貧民街ではもっとよくあることだろう。

 だが、俺にとっては面白くないことだった。

 

 商業区の端。

 貧民街へ続く細い路地の近くを通った時、エリィの手が急に強張った。

 俺の外套を握る指が、冷たくなる。

 魔眼を開くまでもなく、恐怖が伝わった。

 

「どうした」

 

 エリィは答えない。

 視線の先を見る。

 粗末な服を着た男がいた。

 年は三十前後。

 無精髭。

 赤く濁った目。

 酒と苛立ちと貧しさの臭いがする。

 男の周囲には、濁った黄色と黒ずんだ赤が混ざっていた。

 

 金への執着。

 怒り。

 弱い相手を見つけた時の薄汚い優越感。

 ありふれた味だ。

 

 まずい。

 男は俺たちを見て、最初は通り過ぎようとした。

 だが、エリィに気づいた瞬間、足を止めた。

 

「あ?」

 

 男の目が細くなる。

 

「おい。エリィじゃねえか」

 

 エリィの身体が震えた。

 俺はそれだけで、この男を嫌いになった。

 

「てめえ、生きてたのかよ。昨日から見ねえと思ったら」

 

 男は近づいてきた。

 エリィは俺の後ろに隠れる。

 隠れる、と言っても、俺の外套を握ったまま身体を縮めるだけだ。

 

 男の視線が、エリィの服に向いた。

 靴に向いた。

 青いリボンに向いた。

 

 欲望の色が濁る。

 

「なんだ、その格好。どこで盗んだ?」

 

 エリィが息を呑んだ。

 

「盗んで、ません」

 

 小さな声だった。

 男は鼻で笑った。

 

「嘘つけ。おまえみたいなのがそんな服買えるわけねえだろ。おい、こっち来い。話聞いてやる」

 

 男が手を伸ばした。

 その手がエリィに触れる前に、俺は掴んだ。

 

「痛っ」

 

 男が顔を歪める。

 俺は軽く握っただけだ。

 本当に軽くだ。

 人間の骨は脆いので、注意している。

 

「触るな」

 

 俺は言った。

 男は俺を睨んだ。

 

「なんだてめえ。こいつの何だ」

 

 何だ。

 そう聞かれて、俺は少し考えた。

 

 所有者。

 保護者。

 管理者。

 調理人。

 下ごしらえ担当。

 

 どれもしっくりこない。

 

 なので、悪魔らしく言った。

 

「俺のものだ」

 

 エリィの指が、外套をさらに強く握った。

 男は一瞬ひるんだ。

 だが、俺の人間態がそこそこ整った顔のただの黒外套男に見えたのだろう。

 すぐに態度を戻した。

 

「はっ。貧民街のガキ拾って何してんだか。そいつ、役に立たねえぞ。仕事は遅いし、すぐ謝るし、殴っても泣かねえからつまんねえし」

 

 瞬間。

 俺の中で、何かが冷えた。

 

 殴っても泣かないからつまらない。

 

 なるほど。

 こいつか。

 少なくとも、こいつもその一部か。

 

 エリィの泣くと怒られるの一部。

 役に立たないと捨てられるの一部。

 人間じゃないみたいだの一部。

 

 俺は男を見た。

 殺すのは簡単だ。

 心臓を潰す。

 魂を引きずり出す。

 恐怖を千倍にして食う。

 この程度の人間、王都の路地裏で一匹消えたところで誰も気にしない。

 

 だが、エリィが見ている。

 今、この男を殺せば、エリィはどうなる。

 

 怯えるか。

 自分のせいだと思うか。

 また謝るか。

 俺に恐怖を抱くか。

 

 それは困る。

 非常に困る。

 素材管理上。

 

「おい、聞いてんのか」

 

 男が言った。

 俺は男の手を握ったまま、魔力をほんの少し流した。

 

 ほんの少しだ。

 

 人間が死なない程度。

 悪夢の入口を覗く程度。

 

 男の顔色が変わった。

 

「ひっ」

 

 男は目を見開いた。

 俺の背後に、何かを見たのだろう。

 

 角か。

 翼か。

 地獄の門か。

 あるいは、自分がこれまで踏みつけてきた弱者たちの顔か。

 

 まあ、何でもいい。

 

「失せろ」

 

 俺が言うと、男は腰を抜かしかけながら後ずさった。

 そして、転びそうになりながら路地の奥へ逃げていった。

 悲鳴を上げなかったのは褒めてやろう。

 いや、声も出なかっただけか。

 

 俺は手を離し、エリィを振り返った。

 

「大丈夫か」

 

 エリィは震えていた。

 顔が白い。

 唇を噛んでいる。

 

「エリィ」

「ごめんなさい」

 

 来た。

 やはり来た。

 

「私、迷惑を」

「違う」

「でも、あの人、怒って」

「怒らせたのは俺だ」

「私がいたから」

「おまえは何もしていない」

「でも」

「エリィ」

 

 俺は少しだけ声を低くした。

 エリィがびくりとする。

 失敗した。

 だが、今は言わなければならない。

 

「おまえは盗んでいない」

 

 エリィの目が揺れた。

 

「服も、靴も、リボンも、俺が買った」

「はい」

「なら、おまえは盗んでいない」

「でも、あの人が」

「あの男が何を言おうと関係ない」

 

 エリィは黙った。

 信じきれていない。

 他人の悪意のほうが、俺の言葉より彼女の中で重い。

 

 それはそうだろう。

 何年も何年も、悪意の中で生きてきたのだから。

 たった一日で変わるわけがない。

 なら、何度でも言うしかない。

 

 面倒だが。

 非常に面倒だが。

 

「おまえは悪くない」

 

 エリィは目を見開いた。

 

「悪く、ない」

「そうだ」

「私が、弱いからでは」

「違う」

「役に立たないからでは」

「違う」

「悪い子だからでは」

「違う」

 

 エリィの目に涙が浮かんだ。

 

 まただ。

 安堵の涙。

 俺の苦手な味。

 

 しかし、今度は逃げなかった。

 

「泣いても怒らない」

 

 俺が先に言うと、エリィは唇を震わせた。

 そして、ぽろぽろと涙をこぼした。

 

 声は出さない。

 泣き方まで遠慮している。

 涙だけが落ちていく。

 

 俺はどうしたものか迷った。

 悪魔としては、人間の涙には慣れている。

 

 命乞いの涙。

 後悔の涙。

 裏切られた涙。

 破滅した涙。

 

 だが、この涙は扱いにくい。

 俺は懐から布を出し、エリィに渡した。

 

「拭け」

 

 エリィは布を受け取った。

 

「汚れます」

「涙くらいで汚れん」

「でも」

「拭け」

「はい」

 

 エリィは涙を拭いた。

 青いリボンが少し揺れる。

 それを見て、俺は思った。

 

 あの男、あとで潰す。

 いや、殺すのではない。

 そこまで短絡的ではない。

 悪魔として、もう少し上品に処理する。

 

 たとえば、今夜あたり夢の中で自分の手が延々と腐り落ちる幻を見せる。

 起きても手の感覚が残るようにする。

 三日ほど眠れなくなれば、多少は反省するだろう。

 

 いや、反省はしないか。

 人間はなかなか反省しない。

 なら三十日でいい。

 

 うむ。

 穏当である。

 

「悪魔さん」

「なんだ」

「怒っていますか」

「怒っていない」

「でも、顔が」

「これは普通の顔だ」

「怖いです」

「……そうか」

 

 俺は表情を緩めた。

 するとエリィは少し安心したようだった。

 

 なぜ俺が人間の少女に顔色を気にして調整しているのか。

 分からない。

 分からないが、必要なことだ。

 素材管理上。

 

「帰るぞ」

「はい」

 

 エリィは俺の外套を握った。

 先ほどより、少し強く。

 

 

   ***

 

 

 屋敷に戻ると、エリィはまず玄関で立ち止まった。

 

「どうした」

「靴を、脱ぐところはどこですか」

「人間の屋敷は基本的に靴のまま入る」

「床が汚れます」

「汚れたら洗う」

 

 言ってから、俺は思った。

 これはもう合言葉ではないか。

 

 汚れたら洗う。

 破れたら直す。

 なくしたら買う。

 泣いたら拭く。

 怖ければ――。

 

 いや、最後は駄目だ。

 混ぜるな危険。

 エリィはそれでも不安そうだったので、俺は玄関に小さな敷物を作った。

 

「ここで靴の裏を拭けばいい」

「はい」

 

 エリィは丁寧に靴の裏を拭いた。

 新品の靴を、宝物のように扱っている。

 履くものというより、守るものになっている。

 まあ、最初はそれでいい。

 そのうち靴で水たまりを踏むくらいになれば上出来だ。

 

 いや、水たまりは風邪をひくか。

 なら晴れた日に柔らかい土を踏むくらいにしておこう。

 俺はいつから子育て計画を立てているのだろう。

 

 違う。

 これは絶望熟成計画である。

 子育てではない。

 

 昼食は軽いスープとパンにした。

 エリィは朝より少し多く食べた。

 途中でパンを半分残そうとしたので、俺は小さな保存袋を渡した。

 

「残したいなら、ここに入れろ」

 

 エリィは袋を見た。

 

「いいんですか」

「いい。ただし、明日も飯は出す」

「はい」

「明後日もだ」

「はい」

「だから、飢える前提で残す必要はない」

 

 エリィは少し黙った。

 

「でも、あると安心します」

 

 俺は何も言わなかった。

 

 なくても大丈夫だ、と言うのは簡単だ。

 だが、この少女の身体はそれを信じていない。

 胃も、手も、記憶も、明日の飢えを知っている。

 

 なら、今は保存袋でいい。

 安心できるなら、それも幸福の一部だ。

 

「好きにしろ」

「ありがとうございます」

 

 エリィはパンを袋に入れ、大事そうに握った。

 それから、買った服を部屋に運んだ。

 

 エリィの部屋。

 昨日までは客室だったが、今日から彼女の部屋だ。

 俺がそう言うと、エリィはまた処理落ちした。

 

「私の、部屋」

「そうだ」

「この部屋が」

「そうだ」

「私の」

「そうだ」

「……広すぎませんか」

「慣れろ」

 

 エリィは部屋の中央に立ち、周囲を見回した。

 

 ベッド。

 机。

 椅子。

 暖炉。

 衣装棚。

 窓。

 柔らかい絨毯。

 

 昨日はベッドだけで限界だった。

 今日は部屋そのものを自分のものとして認識する段階である。

 かなり難易度が高い。

 だが避けては通れない。

 幸福最大化には所有の感覚が必要だ。

 

 所有。

 自分だけの場所。

 自分だけのもの。

 奪われないもの。

 それを知れば知るほど、失う恐怖は強くなる。

 

 だから必要だ。

 必要なのだ。

 

「この棚に服を入れる」

 

 俺は衣装棚を開けた。

 中は空だ。

 エリィは服を抱えたまま、立ち尽くした。

 

「どうした」

「ここに入れたら、私の服が場所を取ります」

「服は場所を取るものだ」

「邪魔では」

「邪魔なら棚を作らない」

「でも」

「エリィ」

「はい」

「この棚は、おまえの服を入れるためにある」

 

 エリィは棚を見た。

 服を見た。

 もう一度棚を見た。

 そして、慎重に一着を入れた。

 まるで神殿の祭壇に供物を置くみたいな動きだった。

 

「できました」

「全部入れろ」

「全部」

「全部だ」

 

 時間はかかった。

 一着入れるたびに、エリィは俺の顔を確認した。

 

 怒っていないか。

 許されているか。

 本当にいいのか。

 俺はそのたびに頷いた。

 途中で面倒になって「いい」とだけ言った。

 

 するとエリィは安心した。

 服を全部入れ終わる頃には、彼女の表情に少しだけ疲れが見えた。

 

 買い物。

 人混み。

 靴。

 服。

 リボン。

 男との遭遇。

 自分の部屋。

 自分の棚。

 

 たった半日で、情報量が多すぎたのだろう。

 俺はベッドを指さした。

 

「休め」

 

 エリィはベッドを見た。

 そして、床を見た。

 

「ベッドだ」

 

 俺が先に言うと、エリィはびくりとした。

 

「まだ何も言っていません」

「言いそうな顔をしていた」

「床でも」

「ベッドだ」

「でも」

「ベッドだ」

「はい」

 

 エリィはおずおずとベッドに腰を下ろした。

 靴を脱ぐ。

 丁寧に揃える。

 布団に入る。

 だが、身体が固い。

 休むという行為にも練習が必要らしい。

 

「眠れなくてもいい。横になっていろ」

「はい」

「俺は隣の部屋にいる」

 

 そう言って出ようとすると、布団の中から声がした。

 

「悪魔さん」

「なんだ」

「いなくなりませんか」

 

 昨日と同じ問い。

 いや、昨日より具体的だ。

 

 俺は振り返った。

 エリィは布団から顔だけ出している。

 青いリボンは外して、枕元に置いていた。

 

 手がそのリボンに触れている。

 大事なものを手放さないように。

 

「いなくならない」

「本当に?」

「ああ」

「隣の部屋に」

「いる」

「呼んだら」

「来る」

「迷惑では」

「迷惑なら拾っていない」

 

 エリィは目を瞬かせた。

 それから、小さく頷いた。

 

「はい」

 

 俺は扉へ向かった。

 

「悪魔さん」

「今度はなんだ」

「このリボン」

 

 エリィは枕元のリボンを少し持ち上げた。

 

「ここに置いても、取られませんか」

「取られない」

「悪魔さんも?」

「俺もだ」

「約束ですか」

 

 約束。

 悪魔に約束を求めるとは、なかなか命知らずである。

 悪魔との約束は契約になり得る。

 契約は魂を縛る。

 普通の人間なら避けるべきものだ。

 

 だが、エリィは知らない。

 ただ、不安だから確かめているだけだ。

 俺は少し考えた。

 そして言った。

 

「約束だ」

 

 その瞬間、空気がわずかに揺れた。

 

 悪魔の言葉には力がある。

 契約ほどではないが、軽い誓約が成立した。

 

 この部屋にあるエリィのものを、俺は奪わない。

 

 自分で自分に縛りをかけた。

 何をしているんだ俺は。

 

 だが、エリィは安心したように目を細めた。

 

「ありがとう、ございます」

「礼を言うな。調子が狂う」

「ごめんなさい」

「謝るな」

「はい」

 

 エリィは布団にもぐった。

 枕元のリボンに手を添えたまま、目を閉じる。

 

 俺は部屋を出た。

 扉を閉める。

 廊下に立つ。

 

 そこで、ようやく大きく息を吐いた。

 

「……まずい」

 

 昨日も言った。

 今日も言った。

 おそらく明日も言う。

 非常にまずい。

 

 たった二日目だ。

 二日目でこの有様である。

 

 朝、床を拭いていた。

 粥一杯で人間みたいだと言った。

 好きが分からなかった。

 リボン一つで好きを覚えた。

 男に盗人呼ばわりされて震えた。

 自分の部屋を与えられて、棚に服を入れるだけで疲れた。

 そして今、リボンを取られない約束を求めた。

 

 何だ、この不憫の詰め合わせは。

 盛りすぎだろう。

 料理で言えば、具材を全部鍋に入れたら鍋のほうが泣き出したレベルだ。

 

 俺は壁にもたれた。

 計画は順調だ。

 それは間違いない。

 エリィはすでに俺に依存し始めている。

 俺の言葉に安心し、俺がいなくなることを恐れ、俺から与えられたものを大事にしている。

 幸福の芽は着実に育っている。

 ならば、いずれ絶望は濃くなる。

 それは確実だ。

 極上の味になるはずだ。

 

 なのに。

 

 俺は、枕元のリボンを奪う光景を想像しただけで、不快になった。

 

 あの靴を取り上げる光景。

 あの服を破る光景。

 あの部屋から追い出す光景。

 生きてていいと言った口で、もういらないと告げる光景。

 

 想像しただけで、胸の奥がざらつく。

 

「……下ごしらえだ」

 

 俺は呟いた。

 

「これは全部、下ごしらえだ」

 

 そうだ。

 下ごしらえだ。

 料理人だって肉を丁寧に扱う。

 酒だって割れないように大切に保管する。

 熟成中の素材を守るのは当然だ。

 つまり、俺がエリィを守るのは悪魔として正しい。

 

 計画のために必要。

 合理的。

 悪意ある保護。

 邪悪な養育。

 倒錯した慈善。

 

 うむ。

 言葉にするとかなり怪しい。

 俺は額を押さえた。

 その時、部屋の中から小さな声がした。

 

「悪魔さん」

 

 眠っていなかったのか。

 俺は扉を少し開けた。

 

「なんだ」

 

 エリィは布団の中で目を開けていた。

 眠そうだ。

 だが、不安そうでもある。

 

「隣の部屋に、いるんですよね」

「いる」

「声が聞こえたので」

「ああ」

「悪魔さんも、怖いですか」

 

 俺は固まった。

 

「俺が?」

「はい」

「なぜ」

「まずいって、言っていたので」

 

 聞こえていたらしい。

 扉越しに。

 まずい。

 いや、今もまずいと言いそうになった。

 やめろ。

 

「怖いわけではない」

「そうですか」

「俺は悪魔だ。怖がらせる側だ」

「はい」

「だから怖くない」

「でも」

 

 エリィは布団を握った。

 

「怖い時は、誰かが隣にいると、少し楽です」

 

 俺は何も言えなかった。

 エリィは自分の経験としてそれを言っているわけではないだろう。

 きっと、そうだったらいいな、という想像だ。

 誰かが隣にいたことなど、ほとんどなかったはずだ。

 それでも、彼女はそう言った。

 

「悪魔さんが怖い時は、私、隣にいます」

 

 小さな声だった。

 弱々しい声だった。

 今にも眠りに落ちそうな声だった。

 それでも、確かに彼女は言った。

 

 俺は、千年生きた悪魔だ。

 王国を滅ぼした。

 聖騎士を堕落させた。

 貴族の家系を三代かけて腐らせた。

 商人を破滅させ、恋人を裏切らせ、英雄に呪いをかけた。

 そんな俺に、痩せた少女が言う。

 怖い時は、隣にいます。

 

「……そうか」

 

 俺はようやく、それだけ言った。

 

「はい」

 

 エリィは安心したように目を閉じた。

 

「だから、悪魔さんも、いなくならないでください」

「ああ」

「約束ですか」

 

 また約束だ。

 悪魔に約束を求めるな。

 危険だ。

 自分の魂を縛ることになるぞ。

 

 そう言うべきだった。

 だが、俺は言わなかった。

 

「約束だ」

 

 口が勝手に動いた。

 空気がまた、わずかに揺れた。

 俺は二つ目の縛りを自分にかけた。

 

 いなくならない。

 少なくとも、今のエリィの前から。

 

 エリィは小さく微笑んだ。

 

「よかった」

 

 そして今度こそ、眠った。

 寝息が静かに部屋を満たす。

 枕元には青いリボン。

 床には揃えられた新しい靴。

 棚には、初めて自分のものになった服。

 俺は扉の前に立ち尽くした。

 

 まずい。

 非常にまずい。

 昨日の段階では、まだ「このままでは絆される」だった。

 

 だが今日、俺は理解した。

 このままでは、ではない。

 もう、少し絆されている。

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