不憫少女を死ぬほど甘やかした結果   作:重い女すこ

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第四話

 その夜、俺はしばらく扉の前から動けなかった。

 

 部屋の中では、エリィが眠っている。

 寝息はまだ細い。

 それでも、昨日よりは少しだけ深い。

 魔火で温めた部屋。

 柔らかい布団。

 枕元の青いリボン。

 床に揃えられた新しい靴。

 棚に入った服。

 

 たった二日で、ずいぶん物が増えた。

 昨日まで何も持っていなかった少女が、今日には自分の部屋と、自分の服と、自分の靴と、自分のリボンを持っている。

 よろしい。

 非常によろしい。

 所有の感覚は幸福を育てる。

 幸福が育てば、いずれ失う恐怖も育つ。

 極上絶望熟成作戦は、順調に進んでいる。

 

 そのはずなのに、俺は扉の前で動けずにいた。

 

 理由は分かっている。

 分かりたくはないが、分かっている。

 

 約束だ。

 

 この部屋にあるエリィのものを、俺は奪わない。

 今のエリィの前から、俺はいなくならない。

 

 たったそれだけの言葉が、体の奥に薄く絡みついている。

 契約ほど強くはない。

 真名を縛るほどでもない。

 魂を差し出させたわけでもない。

 だが、確かにそこにある。

 

 悪魔の言葉には力がある。

 人間を騙すための甘言にも。

 契約を結ばせるための囁きにも。

 呪いを吐くための宣告にも。

 そして、どうやら。

 痩せた少女を安心させるための「約束だ」にも。

 

「……面倒くさい」

 

 俺は小さく呟いた。

 

 もちろん、これは失敗ではない。

 素材を安心させ、依存させ、幸福を積ませ、最後に落差を作る。

 そのための信頼なら、悪魔は千年かけていくらでも稼いできた。

 欲しい言葉を与えれば、人間は実によく転ぶ。

 

 だが、エリィの信頼は少し違う。

 

 あれは、まだ欲望と呼べるほど形になっていない。

 寒くない場所にいたい。

 飯を食べても怒られたくない。

 リボンを取られたくない。

 いなくならないでほしい。

 

 小さい。

 あまりにも小さい。

 人間の欲望とは、もっと醜く、脂ぎっていて、胃にもたれるものではなかったか。

 なぜこの少女の願いは、粥一杯とか、靴一足とか、青いリボン一つとか、そんな単位で発生するのか。

 

 やめろ。

 考えるな。

 考えると、胸の奥がまたざらつく。

 

 俺は扉から離れ、隣の部屋に入った。

 椅子に腰を下ろす。

 

 隣の部屋にいる。

 そう言った。

 今、俺は隣の部屋にいる。

 約束は守られている。

 問題ない。

 

 問題ない、のだが。

 

 脳裏に、昼間の男の顔が浮かんだ。

 

 粗末な服。

 無精髭。

 赤く濁った目。

 エリィの服と靴とリボンを見て濁った欲の色。

 

 そして、あの言葉。

 

 殴っても泣かねえからつまんねえし。

 

 俺は椅子の肘掛けを指で叩いた。

 

 こつ。

 こつ。

 こつ。

 

 悪魔は基本的に寛容だ。

 いや、嘘だ。

 全然寛容ではない。

 ただ、人間の愚かさには慣れている。

 千年も見ていれば、たいていの醜さには驚かなくなる。

 盗む。

 奪う。

 殴る。

 騙す。

 裏切る。

 弱い者を踏む。

 さらに弱い者を探して安心する。

 

 ありふれている。

 実にありふれている。

 王都の安酒より薄い味だ。

 

 なのに。

 

 あの男の手がエリィに伸びた瞬間、俺は少しだけ殺すつもりになった。

 

 少しだけだ。

 悪魔基準では雑談みたいなものだ。

 

 だが、エリィが見ていた。

 だから殺さなかった。

 殺せなかった、ではない。

 殺さなかった。

 ここは重要である。

 

 素材管理上、エリィの前で血なまぐさい処理をするのは望ましくない。

 せっかく温めた灰色が、また冷えてしまうかもしれない。

 つまり、殺さなかった俺は合理的だった。

 

 だが。

 

「後始末は必要だな」

 

 俺は立ち上がった。

 

 あの男を放っておくのはよくない。

 またエリィに近づくかもしれない。

 エリィの服を盗んだと言いふらすかもしれない。

 あるいは、別の弱い子供を殴るかもしれない。

 

 素材管理上、害は取り除く。

 これは善行ではない。

 屋敷に虫が出たら潰すのと同じだ。

 

 俺は廊下に出て、エリィの部屋の前で足を止めた。

 部屋の中は静かだ。

 眠っている。

 たぶん。

 

 扉をそっと開ける。

 暗い部屋。

 魔火の小さな灯り。

 布団の中で丸くなっているエリィ。

 枕元には青いリボン。

 

 起きていない。

 よし。

 

「すぐ戻る」

 

 俺は小さく呟いた。

 

 エリィには聞こえない。

 聞こえないが、言った。

 

 なぜ言った。

 分からない。

 悪魔の行動には時々分からないことがある。

 いや、最近多いな。

 非常に多い。

 

 俺は部屋を出て、扉を閉めた。

 屋敷全体に薄い闇を張る。

 外からは何も入れない。

 火の具合も、部屋の温度も、エリィの呼吸も、すべて感知できるようにする。

 何かあれば即座に戻れる。

 

 これで問題ない。

 問題ないはずだ。

 

 俺は窓を開け、夜の王都へ飛び出した。

 

 

   ***

 

 

 夜の王都ルベリアは、昼より少しだけ正直になる。

 昼間は善人の顔をしていた連中が、夜にはそれぞれの欲望を路地裏へ持ち出す。

 俺は屋根の上を滑るように進み、魔眼を開いた。

 濁った黄色、赤黒い紫、腐った薄桃、嫉妬の緑、虚栄の金。

 いつもの味。

 いつもの胃もたれ。

 

 目当ての色はすぐに見つかった。

 商業区の端。

 昼間、エリィが震えた路地に近い安酒場。

 そこから少し奥に入った、湿った石壁の建物。

 寝床と呼ぶには粗末な部屋がいくつも押し込められた場所だ。

 

 男はそこにいた。

 

 安酒場の隅で、木の杯を握っている。

 顔色が悪い。

 手が震えている。

 

「くそ……何なんだよ、あいつ」

 

 男はぶつぶつ呟いていた。

 

「手が、まだ……」

 

 昼間、俺はほんの少しだけ恐怖を流した。

 ほんの少しだ。

 人間が死なない程度。

 悪夢の入口を覗く程度。

 

 どうやら、その入口がまだ頭に残っているらしい。

 男は自分の手を見て、何度も握り、開き、また握る。

 そのたびに、色が濁る。

 

 恐怖。

 怒り。

 屈辱。

 そして、弱い相手を殴って取り戻そうとする薄汚い欲望。

 

 なるほど。

 反省はしていない。

 

 まあ、期待はしていなかった。

 人間はそう簡単に反省しない。

 悪魔が千年かけて得た実用的な知見である。

 

 男の向かいに、別の男が座った。

 同じような粗末な服。

 同じような酒臭さ。

 同じように濁った色。

 

「何びびってんだよ」

「うるせえ」

「昼間のガキのことか? あの銀髪の」

 

 俺の目が少し細くなった。

 

 男は杯を乱暴に置いた。

 

「あいつ、変な男連れてやがった」

「金持ちか?」

「知らねえ。黒い外套の、気色悪い男だ」

「へえ。売れそうじゃねえか、そのガキ」

 

 その瞬間、屋根の縁が俺の指の下で削れた。

 石片がぱらぱら落ちる。

 下の人間どもは気づかない。

 

 売れそう。

 

 なるほど。

 人間社会、今日も平常運転である。

 終わっている。

 何度でも終わっている。

 終わりすぎて、もはや終わりが日常になっている。

 

 殺すのは簡単だ。

 二人まとめてでも、酒場ごとでもいい。

 だが、それでは雑だ。

 料理で言えば、焦げた鍋に腹を立てて厨房ごと燃やすようなものだ。

 気分は晴れるかもしれないが、後片付けが面倒である。

 

 今日は丁寧にやる。

 悪魔らしく。

 上品に。

 穏当に。

 

 俺は男が酒場を出るまで待った。

 

 男はふらつきながら路地を歩き、安宿のような建物に入った。

 狭い部屋。

 薄い敷布。

 腐った藁の臭い。

 人間が寝る場所としては最低に近い。

 だが、エリィが昨日までいた石畳よりはましだ。

 まし、という事実が腹立たしい。

 

 男は服のまま敷布に倒れた。

 酒臭い息を吐き、しばらく唸っていたが、やがて眠りに落ちた。

 

 俺は窓から部屋へ入った。

 音は立てない。

 気配も消す。

 

 枕元に立ち、見下ろす。

 

 昼間はあれほど大きく見えた手も、眠っているとただの肉の塊だ。

 その手で、エリィを殴ったのか。

 殴っても泣かないからつまらない。

 そう言ったのか。

 

 俺は男の額に指を置いた。

 

「安心しろ。殺しはしない」

 

 俺は悪魔らしく笑った。

 

「少し、夢を見るだけだ」

 

 闇が男の額から染み込んでいく。

 悪魔の夢は、普通の夢とは違う。

 魂の端をつまみ、恐怖の色を混ぜ、本人の記憶に流し込む。

 本人の記憶を材料にするので、よく馴染む。

 ここでも下ごしらえである。

 

 

   ***

 

 

 男は、路地に立っていた。

 

 夢の中の路地だ。

 空はない。

 壁だけが高く伸びている。

 濡れた石畳。

 冷たい風。

 どこかで水が落ちる音。

 

 男の前に、小さな影があった。

 

 痩せた子供。

 ぼろ布。

 色の抜けた薄い髪。

 石畳の上に丸まっている。

 

「おい」

 

 影は動かない。

 

「聞いてんのか」

 

 男が手を伸ばす。

 その瞬間、影は別の子供に変わった。

 黒髪の子供。

 赤毛の子供。

 頬に傷のある子供。

 痩せた老人。

 泣きそうな女。

 また、薄銀の髪の少女。

 

 顔ははっきりしない。

 だが、男には分かっている。

 自分が見下ろしてきた者たちだ。

 自分より弱いから。

 殴ってもいいと思った者たちだ。

 

「何だよ」

 

 男は後ずさった。

 

 すると、路地の奥から声がした。

 

 殴っても泣かねえからつまんねえし。

 

 男自身の声だった。

 

 夢の中で聞く自分の声というのは、なかなか不快なものだ。

 

 男は舌打ちした。

 

「うるせえ」

 

 目の前の子供が、男を見上げた。

 鈍い青い目。

 涙はない。

 怯えも薄い。

 ただ、諦めだけがある。

 

 男の顔が歪んだ。

 

「その目だ」

 

 男は手を振り上げた。

 

「その目が、むかつくんだよ」

 

 手が振り下ろされる。

 

 だが、子供には当たらなかった。

 

 ぐしゃり。

 

 男の手の甲が潰れていた。

 

「あ?」

 

 皮膚が黒ずむ。

 爪が浮く。

 指の先から、腐った果物みたいに肉が崩れる。

 

「う、あ」

 

 男は悲鳴を上げようとした。

 だが声が出ない。

 喉が詰まっている。

 

 子供は何も言わない。

 ただ見ている。

 

 泣かない。

 叫ばない。

 責めない。

 

 それが、男をさらに追い詰める。

 

 俺は夢の外側から眺めていた。

 実に順調だ。

 

 人間は、責められると反発し、許されると調子に乗る。

 だが、ただ見られると弱い。

 改心は期待しないが、条件づけならできる。

 弱い者に手を上げようとするたび、自分の手が腐る。

 教育である。

 悪魔式の。

 

 男は怒りと恐怖と屈辱で、何度も手を振り上げた。

 そのたびに、手が腐り、指が落ち、骨が灰になった。

 

 そのたびに、路地に男自身の声が響いた。

 

 仕事は遅いし。

 すぐ謝るし。

 殴っても泣かねえから。

 つまんねえし。

 

 薄銀の髪の少女は、何も言わなかった。

 

 途中で、男は泣き始めた。

 みっともなく。

 酒臭い涙を垂れ流しながら。

 

 その涙の味は、恐怖と自己憐憫ばかりで、実に人間らしく、不味い。

 エリィの安堵の涙とはまるで違う味だった。

 そう比べた自分に気づき、俺は少し眉をひそめた。

 

 男は夢の中で地面に這いつくばった。

 

「やめ、やめてくれ」

 

 俺は男の夢に、最後の仕上げを落とした。

 

 薄銀の髪の少女が、ゆっくりと口を開く。

 声は、エリィのものではない。

 俺はエリィの声を、こいつの夢の材料になど使いたくなかった。

 だから、声は男自身の記憶の奥にある、誰でもない子供の声にした。

 

「触らないで」

 

 たった一言。

 

 その瞬間、男の両手が黒い灰になって崩れた。

 

 男は声にならない悲鳴を上げた。

 夢の外で、男の体がびくりと跳ねる。

 汗が噴き出す。

 指が敷布を掴もうとして、空を掻く。

 

 俺は男の額から指を離した。

 

「三十日」

 

 俺は言った。

 

「弱い者に手を上げようとするたび、その夢を見る」

 

 男の耳には届かない。

 だが魂には届く。

 悪魔の囁きとはそういうものだ。

 

「いや、違うな。手を伸ばすな。少なくとも、あの少女には」

 

 闇が男の胸に沈む。

 小さな楔になる。

 呪いというほど大げさではない。

 契約というほど立派でもない。

 ただの悪夢の種だ。

 

 これで、男がエリィに近づこうとするたび、手が腐る感覚を思い出す。

 三十日もすれば、だいたい学習するだろう。

 しなければ、次は三百日である。

 うむ。非常に穏当。

 

 俺は窓辺へ向かった。

 

 その時、男が寝言を漏らした。

 

「ゆる、して」

 

 俺は足を止め、振り返った。

 男は夢の中で、自分のために泣いていた。

 

 俺は鼻で笑った。

 

「俺に言うな」

 

 許すかどうかは、俺の仕事ではない。

 少なくとも、今は。

 

 俺は部屋を出た。

 王都の夜風が冷たい。

 冬が近い。

 屋根の上には白い霜が降り始めている。

 

 その霜を見て、ふと、昨日の石畳で丸まっていたエリィの細い身体と、冷えきった手足を思い出した。

 

 俺は舌打ちした。

 

 やはり三十日では短いかもしれない。

 いや、落ち着け。

 悪魔たるもの、罰は適切な量でなければならない。

 とりあえず三十日。

 様子を見て追加。

 

 俺は屋敷へ戻った。

 

 

   ***

 

 

 屋敷に戻った瞬間、俺は違和感に気づいた。

 

 エリィが起きている。

 

 呼吸が浅い。

 寝返りではない。

 眠りの揺れでもない。

 明らかに目を覚ましている。

 

「……まずい」

 

 俺は窓から中へ入り、足音を消して廊下へ出た。

 エリィの部屋の前に立つ。

 

 扉の隙間から、薄い魔火の灯りが漏れている。

 部屋の中は静かだ。

 だが、眠っている静けさではない。

 息を殺している静けさだ。

 

 俺は扉を軽く叩いた。

 

「エリィ」

 

 すぐには返事がなかった。

 

「起きているか」

 

 少し間があった。

 

「……はい」

 

 声が小さい。

 かすれている。

 眠気だけではない。

 不安で喉が細くなっている声だ。

 

 俺は扉を開けた。

 

 エリィはベッドの上に座っていた。

 布団を胸元まで引き上げ、両手で握っている。

 枕元に置いていた青いリボンは、今は彼女の手の中にあった。

 握りしめすぎて、少ししわになっている。

 

 目がこちらを見た。

 鈍い青。

 そこに、細い不安の色。

 

「どうした」

 

 俺が聞くと、エリィは唇を動かした。

 だが、すぐには言葉が出ない。

 

「怖い夢でも見たか」

 

 聞いた瞬間、自分で少し嫌な気分になった。

 怖い夢を見せてきた直後に言う台詞ではない。

 相手は違う。

 違うが。

 何というか、間が悪い。

 

 エリィは首を横に振った。

 

「悪魔さん」

「なんだ」

「隣の部屋に、いましたか」

 

 俺は黙った。

 

 来た。

 直球だ。

 逃げ場のないやつだ。

 屋敷には気配を残していたし、何かあれば戻れるようにしていた。

 広い意味では隣にいたと言えなくもない。

 だが、エリィはそういう意味で聞いていない。

 

 俺は溜息をついた。

 

「少し、外に出た」

 

 エリィの指が、リボンをさらに握った。

 

「外」

「ああ」

「いつから」

「おまえが眠ったあとだ」

「戻って、きましたか」

「今戻った」

 

 エリィは俺を見た。

 

 それは責める目ではなく、本当に戻ったのか、今度は消えないのかを確認している目だった。

 

「何かあったのか」

 

 俺が聞くと、エリィは慌てて首を振った。

 

「ごめんなさい」

「謝るな」

「起きてしまって、ごめんなさい」

「謝るなと言っている」

「はい。ごめ……」

 

 エリィは口を閉じた。

 

「なぜ起きた」

 

 俺は声を少し抑えた。

 低くしすぎると怖がる。

 悪魔が人間の少女に声量調整している。

 見た奴は殺す。

 

 エリィは布団を握ったまま、ぽつりと言った。

 

「音が、しなくなったので」

「音?」

「隣の部屋」

 

 俺は少し考えた。

 俺は隣の部屋で、椅子に座っていた。

 その時はたぶん、衣擦れや、椅子の軋みや、気配の揺れがあった。

 エリィはそれを聞いていたのか。

 

「寝ていなかったのか」

「寝ました」

「なら、なぜ」

「目が覚めて」

 

 エリィは視線を落とした。

 

「隣が、静かで」

 

 静かなのは普通だ。

 夜だ。

 寝る時間だ。

 だが、エリィにとっては違うのだろう。

 そこにいるはずの気配がないだけで、いなくなったかもしれないと思う。

 諦める前に怖がるだけの感情が戻ってきている。

 計画通りで、非常によい。

 よい、はずなのに。

 

「呼べばよかっただろう」

 

 俺が言うと、エリィは小さく首を横に振った。

 

「迷惑かと」

「迷惑なら拾っていない」

「でも、夜なので」

「夜でもだ」

「悪魔さん、眠っていたら」

「悪魔はあまり眠らない」

「そうなんですか」

「そうだ」

「すごいです」

 

 そこで素直に感心するな。

 今はそういう流れではない。

 

 エリィは少しだけ布団を緩めた。

 だが、リボンはまだ握っている。

 

「悪魔さん」

「なんだ」

「外は、寒かったですか」

 

 俺は一瞬、言葉に詰まった。

 

 なぜそこを聞く。

 俺がどこへ行ったかでも、何をしていたかでもなく、外は寒かったか。

 俺は悪魔だぞ。

 人間界の冬の夜程度で寒いわけがない。

 

「寒くはない」

 

 俺は答えた。

 

「悪魔だからな」

「そうですか」

 

 エリィは少し安心したようだった。

 

 待て。

 今、俺が寒くなかったことに安心したのか。

 そういうことをするな。

 こちらの調子が狂う。

 

「用事があった」

 

 俺は言った。

 なぜか言い訳めいた声になった。

 

「すぐ戻るつもりだった」

「はい」

「屋敷には魔法を張っていた。何かあればすぐ戻れた」

「はい」

「だから、別におまえを放っておいたわけではない」

 

 エリィは頷いた。

 信じているのか、信じたいのか、判断がつかない顔だ。

 

「でも」

 

 エリィは小さく言った。

 

「いないと、分からなくて」

 

 俺は黙った。

 

「魔法があっても、分からなくて」

 

 その言葉は、妙にまっすぐ刺さった。

 

 俺は魔法で屋敷を守った。

 エリィの呼吸も、体温も、部屋の状態も感知していた。

 合理的には十分だった。

 だが、エリィには分からない。

 彼女に分かるのは、隣の部屋に俺の音があるかどうかだけだ。

 安心というものは、理屈だけでは発生しないらしい。

 

 俺はベッドの脇へ歩いた。

 エリィが少し身を固くする。

 俺はその場で止まった。

 

「ここに座るぞ」

 

 先に言う。

 エリィは瞬きをした。

 

「はい」

 

 俺は椅子を引き寄せ、ベッドの脇に座った。

 布団の上に手を置こうとして、やめた。

 触れられることに慣れていない。

 触れられることが痛みに結びついている。

 分かっている。

 

 代わりに、俺は枕元の少し離れた場所を指で叩いた。

 

「外に出る時は言う」

 

 エリィが顔を上げた。

 

「言う?」

「そうだ」

「私に?」

「他に誰がいる」

 

 エリィは困ったようにリボンを見た。

 

「寝ていたら」

「起こす」

 

 言ってから、少し考える。

 いや、毎回起こすのは駄目だ。

 睡眠は重要だ。

 

「……必要がある時は起こす。必要がなければ、戻った時に言う」

「戻った時」

「ああ」

「私が、寝ていても?」

「起きた時に言う」

「忘れませんか」

「忘れない」

 

 エリィは俺を見た。

 

「本当に?」

「ああ」

「約束ですか」

 

 来た。

 また来た。

 悪魔に約束を求めるな、と言うべきだった。

 しかし、エリィは青いリボンを握って、不安そうにこちらを見ている。

 隣の音が消えると、いなくなったと思ってしまうから。

 

 俺は額を押さえた。

 

「……約束だ」

 

 空気が、またわずかに揺れた。

 

 三つ目。

 正確には細かいものを含めれば、もっとあるのかもしれない。

 だが、はっきりと自覚した縛りとしては三つ目だ。

 

 外に出る時は言う。

 戻ったら言う。

 忘れない。

 

 何だこれは。

 悪魔の契約文としてあまりにも生活感がありすぎる。

 魔界の契約書に書いたら下級悪魔どもが笑い転げるだろう。

 笑った奴は燃やす。

 

 エリィはほっと息を吐いた。

 リボンを握る手が少し緩む。

 

「ありがとう、ございます」

「礼を言うな」

「……はい」

 

 今度は謝らなかった。

 俺はそれに気づき、少しだけ口元が緩みそうになった。

 悪魔的な喜びである。

 断じて、それ以外ではない。

 

「もう寝ろ」

 

 俺が言うと、エリィは布団を少し握った。

 

「悪魔さんは」

「隣の部屋にいる」

「本当に?」

「ああ」

「音が、しますか」

 

 音。

 悪魔は気配を消すのが得意だが、それでは困るらしい。

 

「必要なら、音を立てる」

「いいんですか」

「いい」

「迷惑では」

「迷惑なら拾っていない」

 

 またこれだ。

 たぶん、何度でも言う必要がある。

 

 エリィは小さく頷いた。

 

「あの」

「なんだ」

「少しだけ」

 

 エリィは言葉を探した。

 布団の中で指が動く。

 リボンを握って、離して、また握る。

 

「扉を、少し開けていても、いいですか」

 

 俺は扉を見た。

 本来、部屋は閉じるものだ。

 自分だけの空間として守る感覚も必要だ。

 だが、今のエリィにとって、閉じた扉は安全ではなく遮断なのだろう。

 なら、今は開けておけばいい。

 そのうち閉められるようになればいい。

 段階というものがある。

 

「いい」

 

 俺は言った。

 

「少し開けておく」

 

 エリィの肩から、力が抜けた。

 

「ありがとうございます」

「礼を言うな」

「……はい」

 

 今度も謝らなかった。

 

 俺は立ち上がった。

 

「寝ろ」

「はい」

 

 エリィは布団にもぐった。

 青いリボンを枕元に置く。

 しかし、すぐに手を伸ばして、少しだけ触れた。

 

「取らない」

 

 俺が先に言うと、エリィが驚いたようにこちらを見た。

 

「まだ、言っていません」

「言いそうな顔をしていた」

「そう、ですか」

「そうだ」

 

 エリィは少しだけ、口元を緩めた。

 笑った、というほどではない。

 だが、昨日の終わりより、ほんの少し自然だった。

 

「取られません」

 

 エリィは小さく言った。

 自分に言い聞かせるように。

 

「そうだ」

 

 俺は頷いた。

 

「悪魔さんも、いなくなりません」

「ああ」

「外に出る時は、言います」

「俺がな」

「戻ったら、言います」

「俺がな」

 

 エリィは目を閉じた。

 

「はい」

 

 しばらく、寝息は聞こえなかった。

 だが、呼吸は少しずつ落ち着いていく。

 指先がリボンから離れる。

 布団の中の身体から力が抜ける。

 

 今度こそ、眠った。

 

 俺は扉を半分だけ開けたまま、隣の部屋へ移動した。

 椅子に座る。

 わざと少しだけ音を立てた。

 椅子の脚が床を擦る、小さな音。

 

 部屋の向こうで、エリィの呼吸がわずかに揺れた。

 だが、起きない。

 安心したように、また深くなる。

 

 俺は肘掛けに頬杖をついた。

 

 夜の外出。

 戻った報告。

 扉を少し開ける。

 音を立てる。

 千年生きた悪魔が、今、隣室の少女を安心させるために椅子をわざと鳴らしている。

 

「……まずい」

 

 俺は小さく呟いた。

 

 非常にまずい。

 

 だが、まあ。

 今夜はこれでいい。

 

 あの男には悪夢を仕込んだ。

 エリィは眠った。

 リボンは取られていない。

 俺も戻った。

 

 計画は順調。

 たぶん順調。

 順調ということにしておく。

 

 俺は椅子の上で目を閉じた。

 眠る必要はない。

 ただ、隣の部屋に音があるように、そこにいる。

 

 俺はいつから外出報告をする悪魔になったのだろう。

 

 答えは出なかった。

 出なくていい気もした。

 

 それがまた、非常にまずかった。

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