不憫少女を死ぬほど甘やかした結果   作:重い女すこ

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第四話

 その夜、俺はしばらく扉の前から動けなかった。

 

 部屋の中では、エリィが眠っている。

 寝息はまだ細い。

 それでも、昨日よりは少しだけ深い。

 魔火で温めた部屋。

 柔らかい布団。

 枕元の青いリボン。

 床に揃えられた新しい靴。

 棚に入った服。

 

 たった二日で、ずいぶん物が増えた。

 昨日まで何も持っていなかった少女が、今日には自分の部屋と、自分の服と、自分の靴と、自分のリボンを持っている。

 よろしい。

 非常によろしい。

 所有の感覚は幸福を育てる。

 幸福が育てば、いずれ失う恐怖も育つ。

 極上絶望熟成作戦は、順調に進んでいる。

 

 そのはずなのに、俺は扉の前で動けずにいた。

 

 理由は分かっている。

 分かりたくはないが、分かっている。

 

 約束だ。

 

 この部屋にあるエリィのものを、俺は奪わない。

 今のエリィの前から、俺はいなくならない。

 

 たったそれだけの言葉が、体の奥に薄く絡みついている。

 契約ほど強くはない。

 真名を縛るほどでもない。

 魂を差し出させたわけでもない。

 だが、確かにそこにある。

 

 悪魔の言葉には力がある。

 人間を騙すための甘言にも。

 契約を結ばせるための囁きにも。

 呪いを吐くための宣告にも。

 そして、どうやら。

 痩せた少女を安心させるための「約束だ」にも。

 

「……面倒くさい」

 

 俺は小さく呟いた。

 

 もちろん、これは失敗ではない。

 素材を安心させ、依存させ、幸福を積ませ、最後に落差を作る。

 そのための信頼なら、悪魔は千年かけていくらでも稼いできた。

 欲しい言葉を与えれば、人間は実によく転ぶ。

 

 だが、エリィの信頼は少し違う。

 

 あれは、まだ欲望と呼べるほど形になっていない。

 寒くない場所にいたい。

 飯を食べても怒られたくない。

 リボンを取られたくない。

 いなくならないでほしい。

 

 小さい。

 あまりにも小さい。

 人間の欲望とは、もっと醜く、脂ぎっていて、胃にもたれるものではなかったか。

 なぜこの少女の願いは、粥一杯とか、靴一足とか、青いリボン一つとか、そんな単位で発生するのか。

 

 やめろ。

 考えるな。

 考えると、胸の奥がまたざらつく。

 

 俺は扉から離れ、隣の部屋に入った。

 椅子に腰を下ろす。

 

 隣の部屋にいる。

 そう言った。

 今、俺は隣の部屋にいる。

 約束は守られている。

 問題ない。

 

 問題ない、のだが。

 

 脳裏に、昼間の男の顔が浮かんだ。

 

 粗末な服。

 無精髭。

 赤く濁った目。

 エリィの服と靴とリボンを見て濁った欲の色。

 

 そして、あの言葉。

 

 殴っても泣かねえからつまんねえし。

 

 俺は椅子の肘掛けを指で叩いた。

 

 こつ。

 こつ。

 こつ。

 

 悪魔は基本的に寛容だ。

 いや、嘘だ。

 全然寛容ではない。

 ただ、人間の愚かさには慣れている。

 千年も見ていれば、たいていの醜さには驚かなくなる。

 盗む。

 奪う。

 殴る。

 騙す。

 裏切る。

 弱い者を踏む。

 さらに弱い者を探して安心する。

 

 ありふれている。

 実にありふれている。

 王都の安酒より薄い味だ。

 

 なのに。

 

 あの男の手がエリィに伸びた瞬間、俺は少しだけ殺すつもりになった。

 

 少しだけだ。

 悪魔基準では雑談みたいなものだ。

 

 だが、エリィが見ていた。

 だから殺さなかった。

 殺せなかった、ではない。

 殺さなかった。

 ここは重要である。

 

 素材管理上、エリィの前で血なまぐさい処理をするのは望ましくない。

 せっかく温めた灰色が、また冷えてしまうかもしれない。

 つまり、殺さなかった俺は合理的だった。

 

 だが。

 

「後始末は必要だな」

 

 俺は立ち上がった。

 

 あの男を放っておくのはよくない。

 またエリィに近づくかもしれない。

 エリィの服を盗んだと言いふらすかもしれない。

 あるいは、別の弱い子供を殴るかもしれない。

 

 素材管理上、害は取り除く。

 これは善行ではない。

 屋敷に虫が出たら潰すのと同じだ。

 

 俺は廊下に出て、エリィの部屋の前で足を止めた。

 部屋の中は静かだ。

 眠っている。

 たぶん。

 

 扉をそっと開ける。

 暗い部屋。

 魔火の小さな灯り。

 布団の中で丸くなっているエリィ。

 枕元には青いリボン。

 

 起きていない。

 よし。

 

「すぐ戻る」

 

 俺は小さく呟いた。

 

 エリィには聞こえない。

 聞こえないが、言った。

 

 なぜ言った。

 分からない。

 悪魔の行動には時々分からないことがある。

 いや、最近多いな。

 非常に多い。

 

 俺は部屋を出て、扉を閉めた。

 屋敷全体に薄い闇を張る。

 外からは何も入れない。

 火の具合も、部屋の温度も、エリィの呼吸も、すべて感知できるようにする。

 何かあれば即座に戻れる。

 

 これで問題ない。

 問題ないはずだ。

 

 俺は窓を開け、夜の王都へ飛び出した。

 

 

   ***

 

 

 夜の王都ルベリアは、昼より少しだけ正直になる。

 昼間は善人の顔をしていた連中が、夜にはそれぞれの欲望を路地裏へ持ち出す。

 俺は屋根の上を滑るように進み、魔眼を開いた。

 濁った黄色、赤黒い紫、腐った薄桃、嫉妬の緑、虚栄の金。

 いつもの味。

 いつもの胃もたれ。

 

 目当ての色はすぐに見つかった。

 商業区の端。

 昼間、エリィが震えた路地に近い安酒場。

 そこから少し奥に入った、湿った石壁の建物。

 寝床と呼ぶには粗末な部屋がいくつも押し込められた場所だ。

 

 男はそこにいた。

 

 安酒場の隅で、木の杯を握っている。

 顔色が悪い。

 手が震えている。

 

「くそ……何なんだよ、あいつ」

 

 男はぶつぶつ呟いていた。

 

「手が、まだ……」

 

 昼間、俺はほんの少しだけ恐怖を流した。

 ほんの少しだ。

 人間が死なない程度。

 悪夢の入口を覗く程度。

 

 どうやら、その入口がまだ頭に残っているらしい。

 男は自分の手を見て、何度も握り、開き、また握る。

 そのたびに、色が濁る。

 

 恐怖。

 怒り。

 屈辱。

 そして、弱い相手を殴って取り戻そうとする薄汚い欲望。

 

 なるほど。

 反省はしていない。

 

 まあ、期待はしていなかった。

 人間はそう簡単に反省しない。

 悪魔が千年かけて得た実用的な知見である。

 

 男の向かいに、別の男が座った。

 同じような粗末な服。

 同じような酒臭さ。

 同じように濁った色。

 

「何びびってんだよ」

「うるせえ」

「昼間のガキのことか? あの銀髪の」

 

 俺の目が少し細くなった。

 

 男は杯を乱暴に置いた。

 

「あいつ、変な男連れてやがった」

「金持ちか?」

「知らねえ。黒い外套の、気色悪い男だ」

「へえ。売れそうじゃねえか、そのガキ」

 

 その瞬間、屋根の縁が俺の指の下で削れた。

 石片がぱらぱら落ちる。

 下の人間どもは気づかない。

 

 売れそう。

 

 なるほど。

 人間社会、今日も平常運転である。

 終わっている。

 何度でも終わっている。

 終わりすぎて、もはや終わりが日常になっている。

 

 殺すのは簡単だ。

 二人まとめてでも、酒場ごとでもいい。

 だが、それでは雑だ。

 料理で言えば、焦げた鍋に腹を立てて厨房ごと燃やすようなものだ。

 気分は晴れるかもしれないが、後片付けが面倒である。

 

 今日は丁寧にやる。

 悪魔らしく。

 上品に。

 穏当に。

 

 俺は男が酒場を出るまで待った。

 

 男はふらつきながら路地を歩き、安宿のような建物に入った。

 狭い部屋。

 薄い敷布。

 腐った藁の臭い。

 人間が寝る場所としては最低に近い。

 だが、エリィが昨日までいた石畳よりはましだ。

 まし、という事実が腹立たしい。

 

 男は服のまま敷布に倒れた。

 酒臭い息を吐き、しばらく唸っていたが、やがて眠りに落ちた。

 

 俺は窓から部屋へ入った。

 音は立てない。

 気配も消す。

 

 枕元に立ち、見下ろす。

 

 昼間はあれほど大きく見えた手も、眠っているとただの肉の塊だ。

 その手で、エリィを殴ったのか。

 殴っても泣かないからつまらない。

 そう言ったのか。

 

 俺は男の額に指を置いた。

 

「安心しろ。殺しはしない」

 

 俺は悪魔らしく笑った。

 

「少し、夢を見るだけだ」

 

 闇が男の額から染み込んでいく。

 悪魔の夢は、普通の夢とは違う。

 魂の端をつまみ、恐怖の色を混ぜ、本人の記憶に流し込む。

 本人の記憶を材料にするので、よく馴染む。

 ここでも下ごしらえである。

 

 

   ***

 

 

 男は、路地に立っていた。

 

 夢の中の路地だ。

 空はない。

 壁だけが高く伸びている。

 濡れた石畳。

 冷たい風。

 どこかで水が落ちる音。

 

 男の前に、小さな影があった。

 

 痩せた子供。

 ぼろ布。

 色の抜けた薄い髪。

 石畳の上に丸まっている。

 

「おい」

 

 影は動かない。

 

「聞いてんのか」

 

 男が手を伸ばす。

 その瞬間、影は別の子供に変わった。

 黒髪の子供。

 赤毛の子供。

 頬に傷のある子供。

 痩せた老人。

 泣きそうな女。

 また、薄銀の髪の少女。

 

 顔ははっきりしない。

 だが、男には分かっている。

 自分が見下ろしてきた者たちだ。

 自分より弱いから。

 殴ってもいいと思った者たちだ。

 

「何だよ」

 

 男は後ずさった。

 

 すると、路地の奥から声がした。

 

 殴っても泣かねえからつまんねえし。

 

 男自身の声だった。

 

 夢の中で聞く自分の声というのは、なかなか不快なものだ。

 

 男は舌打ちした。

 

「うるせえ」

 

 目の前の子供が、男を見上げた。

 鈍い青い目。

 涙はない。

 怯えも薄い。

 ただ、諦めだけがある。

 

 男の顔が歪んだ。

 

「その目だ」

 

 男は手を振り上げた。

 

「その目が、むかつくんだよ」

 

 手が振り下ろされる。

 

 だが、子供には当たらなかった。

 

 ぐしゃり。

 

 男の手の甲が潰れていた。

 

「あ?」

 

 皮膚が黒ずむ。

 爪が浮く。

 指の先から、腐った果物みたいに肉が崩れる。

 

「う、あ」

 

 男は悲鳴を上げようとした。

 だが声が出ない。

 喉が詰まっている。

 

 子供は何も言わない。

 ただ見ている。

 

 泣かない。

 叫ばない。

 責めない。

 

 それが、男をさらに追い詰める。

 

 俺は夢の外側から眺めていた。

 実に順調だ。

 

 人間は、責められると反発し、許されると調子に乗る。

 だが、ただ見られると弱い。

 改心は期待しないが、条件づけならできる。

 弱い者に手を上げようとするたび、自分の手が腐る。

 教育である。

 悪魔式の。

 

 男は怒りと恐怖と屈辱で、何度も手を振り上げた。

 そのたびに、手が腐り、指が落ち、骨が灰になった。

 

 そのたびに、路地に男自身の声が響いた。

 

 仕事は遅いし。

 すぐ謝るし。

 殴っても泣かねえから。

 つまんねえし。

 

 薄銀の髪の少女は、何も言わなかった。

 

 途中で、男は泣き始めた。

 みっともなく。

 酒臭い涙を垂れ流しながら。

 

 その涙の味は、恐怖と自己憐憫ばかりで、実に人間らしく、不味い。

 エリィの安堵の涙とはまるで違う味だった。

 そう比べた自分に気づき、俺は少し眉をひそめた。

 

 男は夢の中で地面に這いつくばった。

 

「やめ、やめてくれ」

 

 俺は男の夢に、最後の仕上げを落とした。

 

 薄銀の髪の少女が、ゆっくりと口を開く。

 声は、エリィのものではない。

 俺はエリィの声を、こいつの夢の材料になど使いたくなかった。

 だから、声は男自身の記憶の奥にある、誰でもない子供の声にした。

 

「触らないで」

 

 たった一言。

 

 その瞬間、男の両手が黒い灰になって崩れた。

 

 男は声にならない悲鳴を上げた。

 夢の外で、男の体がびくりと跳ねる。

 汗が噴き出す。

 指が敷布を掴もうとして、空を掻く。

 

 俺は男の額から指を離した。

 

「三十日」

 

 俺は言った。

 

「弱い者に手を上げようとするたび、その夢を見る」

 

 男の耳には届かない。

 だが魂には届く。

 悪魔の囁きとはそういうものだ。

 

「いや、違うな。手を伸ばすな。少なくとも、あの少女には」

 

 闇が男の胸に沈む。

 小さな楔になる。

 呪いというほど大げさではない。

 契約というほど立派でもない。

 ただの悪夢の種だ。

 

 これで、男がエリィに近づこうとするたび、手が腐る感覚を思い出す。

 三十日もすれば、だいたい学習するだろう。

 しなければ、次は三百日である。

 うむ。非常に穏当。

 

 俺は窓辺へ向かった。

 

 その時、男が寝言を漏らした。

 

「ゆる、して」

 

 俺は足を止め、振り返った。

 男は夢の中で、自分のために泣いていた。

 

 俺は鼻で笑った。

 

「俺に言うな」

 

 許すかどうかは、俺の仕事ではない。

 少なくとも、今は。

 

 俺は部屋を出た。

 王都の夜風が冷たい。

 冬が近い。

 屋根の上には白い霜が降り始めている。

 

 その霜を見て、ふと、昨日の石畳で丸まっていたエリィの細い身体と、冷えきった手足を思い出した。

 

 俺は舌打ちした。

 

 やはり三十日では短いかもしれない。

 いや、落ち着け。

 悪魔たるもの、罰は適切な量でなければならない。

 とりあえず三十日。

 様子を見て追加。

 

 俺は屋敷へ戻った。

 

 

   ***

 

 

 屋敷に戻った瞬間、俺は違和感に気づいた。

 

 エリィが起きている。

 

 呼吸が浅い。

 寝返りではない。

 眠りの揺れでもない。

 明らかに目を覚ましている。

 

「……まずい」

 

 俺は窓から中へ入り、足音を消して廊下へ出た。

 エリィの部屋の前に立つ。

 

 扉の隙間から、薄い魔火の灯りが漏れている。

 部屋の中は静かだ。

 だが、眠っている静けさではない。

 息を殺している静けさだ。

 

 俺は扉を軽く叩いた。

 

「エリィ」

 

 すぐには返事がなかった。

 

「起きているか」

 

 少し間があった。

 

「……はい」

 

 声が小さい。

 かすれている。

 眠気だけではない。

 不安で喉が細くなっている声だ。

 

 俺は扉を開けた。

 

 エリィはベッドの上に座っていた。

 布団を胸元まで引き上げ、両手で握っている。

 枕元に置いていた青いリボンは、今は彼女の手の中にあった。

 握りしめすぎて、少ししわになっている。

 

 目がこちらを見た。

 鈍い青。

 そこに、細い不安の色。

 

「どうした」

 

 俺が聞くと、エリィは唇を動かした。

 だが、すぐには言葉が出ない。

 

「怖い夢でも見たか」

 

 聞いた瞬間、自分で少し嫌な気分になった。

 怖い夢を見せてきた直後に言う台詞ではない。

 相手は違う。

 違うが。

 何というか、間が悪い。

 

 エリィは首を横に振った。

 

「悪魔さん」

「なんだ」

「隣の部屋に、いましたか」

 

 俺は黙った。

 

 来た。

 直球だ。

 逃げ場のないやつだ。

 屋敷には気配を残していたし、何かあれば戻れるようにしていた。

 広い意味では隣にいたと言えなくもない。

 だが、エリィはそういう意味で聞いていない。

 

 俺は溜息をついた。

 

「少し、外に出た」

 

 エリィの指が、リボンをさらに握った。

 

「外」

「ああ」

「いつから」

「おまえが眠ったあとだ」

「戻って、きましたか」

「今戻った」

 

 エリィは俺を見た。

 

 それは責める目ではなく、本当に戻ったのか、今度は消えないのかを確認している目だった。

 

「何かあったのか」

 

 俺が聞くと、エリィは慌てて首を振った。

 

「ごめんなさい」

「謝るな」

「起きてしまって、ごめんなさい」

「謝るなと言っている」

「はい。ごめ……」

 

 エリィは口を閉じた。

 

「なぜ起きた」

 

 俺は声を少し抑えた。

 低くしすぎると怖がる。

 悪魔が人間の少女に声量調整している。

 見た奴は殺す。

 

 エリィは布団を握ったまま、ぽつりと言った。

 

「音が、しなくなったので」

「音?」

「隣の部屋」

 

 俺は少し考えた。

 俺は隣の部屋で、椅子に座っていた。

 その時はたぶん、衣擦れや、椅子の軋みや、気配の揺れがあった。

 エリィはそれを聞いていたのか。

 

「寝ていなかったのか」

「寝ました」

「なら、なぜ」

「目が覚めて」

 

 エリィは視線を落とした。

 

「隣が、静かで」

 

 静かなのは普通だ。

 夜だ。

 寝る時間だ。

 だが、エリィにとっては違うのだろう。

 そこにいるはずの気配がないだけで、いなくなったかもしれないと思う。

 諦める前に怖がるだけの感情が戻ってきている。

 計画通りで、非常によい。

 よい、はずなのに。

 

「呼べばよかっただろう」

 

 俺が言うと、エリィは小さく首を横に振った。

 

「迷惑かと」

「迷惑なら拾っていない」

「でも、夜なので」

「夜でもだ」

「悪魔さん、眠っていたら」

「悪魔はあまり眠らない」

「そうなんですか」

「そうだ」

「すごいです」

 

 そこで素直に感心するな。

 今はそういう流れではない。

 

 エリィは少しだけ布団を緩めた。

 だが、リボンはまだ握っている。

 

「悪魔さん」

「なんだ」

「外は、寒かったですか」

 

 俺は一瞬、言葉に詰まった。

 

 なぜそこを聞く。

 俺がどこへ行ったかでも、何をしていたかでもなく、外は寒かったか。

 俺は悪魔だぞ。

 人間界の冬の夜程度で寒いわけがない。

 

「寒くはない」

 

 俺は答えた。

 

「悪魔だからな」

「そうですか」

 

 エリィは少し安心したようだった。

 

 待て。

 今、俺が寒くなかったことに安心したのか。

 そういうことをするな。

 こちらの調子が狂う。

 

「用事があった」

 

 俺は言った。

 なぜか言い訳めいた声になった。

 

「すぐ戻るつもりだった」

「はい」

「屋敷には魔法を張っていた。何かあればすぐ戻れた」

「はい」

「だから、別におまえを放っておいたわけではない」

 

 エリィは頷いた。

 信じているのか、信じたいのか、判断がつかない顔だ。

 

「でも」

 

 エリィは小さく言った。

 

「いないと、分からなくて」

 

 俺は黙った。

 

「魔法があっても、分からなくて」

 

 その言葉は、妙にまっすぐ刺さった。

 

 俺は魔法で屋敷を守った。

 エリィの呼吸も、体温も、部屋の状態も感知していた。

 合理的には十分だった。

 だが、エリィには分からない。

 彼女に分かるのは、隣の部屋に俺の音があるかどうかだけだ。

 安心というものは、理屈だけでは発生しないらしい。

 

 俺はベッドの脇へ歩いた。

 エリィが少し身を固くする。

 俺はその場で止まった。

 

「ここに座るぞ」

 

 先に言う。

 エリィは瞬きをした。

 

「はい」

 

 俺は椅子を引き寄せ、ベッドの脇に座った。

 布団の上に手を置こうとして、やめた。

 触れられることに慣れていない。

 触れられることが痛みに結びついている。

 分かっている。

 

 代わりに、俺は枕元の少し離れた場所を指で叩いた。

 

「外に出る時は言う」

 

 エリィが顔を上げた。

 

「言う?」

「そうだ」

「私に?」

「他に誰がいる」

 

 エリィは困ったようにリボンを見た。

 

「寝ていたら」

「起こす」

 

 言ってから、少し考える。

 いや、毎回起こすのは駄目だ。

 睡眠は重要だ。

 

「……必要がある時は起こす。必要がなければ、戻った時に言う」

「戻った時」

「ああ」

「私が、寝ていても?」

「起きた時に言う」

「忘れませんか」

「忘れない」

 

 エリィは俺を見た。

 

「本当に?」

「ああ」

「約束ですか」

 

 来た。

 また来た。

 悪魔に約束を求めるな、と言うべきだった。

 しかし、エリィは青いリボンを握って、不安そうにこちらを見ている。

 隣の音が消えると、いなくなったと思ってしまうから。

 

 俺は額を押さえた。

 

「……約束だ」

 

 空気が、またわずかに揺れた。

 

 三つ目。

 正確には細かいものを含めれば、もっとあるのかもしれない。

 だが、はっきりと自覚した縛りとしては三つ目だ。

 

 外に出る時は言う。

 戻ったら言う。

 忘れない。

 

 何だこれは。

 悪魔の契約文としてあまりにも生活感がありすぎる。

 魔界の契約書に書いたら下級悪魔どもが笑い転げるだろう。

 笑った奴は燃やす。

 

 エリィはほっと息を吐いた。

 リボンを握る手が少し緩む。

 

「ありがとう、ございます」

「礼を言うな」

「……はい」

 

 今度は謝らなかった。

 俺はそれに気づき、少しだけ口元が緩みそうになった。

 悪魔的な喜びである。

 断じて、それ以外ではない。

 

「もう寝ろ」

 

 俺が言うと、エリィは布団を少し握った。

 

「悪魔さんは」

「隣の部屋にいる」

「本当に?」

「ああ」

「音が、しますか」

 

 音。

 悪魔は気配を消すのが得意だが、それでは困るらしい。

 

「必要なら、音を立てる」

「いいんですか」

「いい」

「迷惑では」

「迷惑なら拾っていない」

 

 またこれだ。

 たぶん、何度でも言う必要がある。

 

 エリィは小さく頷いた。

 

「あの」

「なんだ」

「少しだけ」

 

 エリィは言葉を探した。

 布団の中で指が動く。

 リボンを握って、離して、また握る。

 

「扉を、少し開けていても、いいですか」

 

 俺は扉を見た。

 本来、部屋は閉じるものだ。

 自分だけの空間として守る感覚も必要だ。

 だが、今のエリィにとって、閉じた扉は安全ではなく遮断なのだろう。

 なら、今は開けておけばいい。

 そのうち閉められるようになればいい。

 段階というものがある。

 

「いい」

 

 俺は言った。

 

「少し開けておく」

 

 エリィの肩から、力が抜けた。

 

「ありがとうございます」

「礼を言うな」

「……はい」

 

 今度も謝らなかった。

 

 俺は立ち上がった。

 

「寝ろ」

「はい」

 

 エリィは布団にもぐった。

 青いリボンを枕元に置く。

 しかし、すぐに手を伸ばして、少しだけ触れた。

 

「取らない」

 

 俺が先に言うと、エリィが驚いたようにこちらを見た。

 

「まだ、言っていません」

「言いそうな顔をしていた」

「そう、ですか」

「そうだ」

 

 エリィは少しだけ、口元を緩めた。

 笑った、というほどではない。

 だが、昨日の終わりより、ほんの少し自然だった。

 

「取られません」

 

 エリィは小さく言った。

 自分に言い聞かせるように。

 

「そうだ」

 

 俺は頷いた。

 

「悪魔さんも、いなくなりません」

「ああ」

「外に出る時は、言います」

「俺がな」

「戻ったら、言います」

「俺がな」

 

 エリィは目を閉じた。

 

「はい」

 

 しばらく、寝息は聞こえなかった。

 だが、呼吸は少しずつ落ち着いていく。

 指先がリボンから離れる。

 布団の中の身体から力が抜ける。

 

 今度こそ、眠った。

 

 俺は扉を半分だけ開けたまま、隣の部屋へ移動した。

 椅子に座る。

 わざと少しだけ音を立てた。

 椅子の脚が床を擦る、小さな音。

 

 部屋の向こうで、エリィの呼吸がわずかに揺れた。

 だが、起きない。

 安心したように、また深くなる。

 

 俺は肘掛けに頬杖をついた。

 

 夜の外出。

 戻った報告。

 扉を少し開ける。

 音を立てる。

 千年生きた悪魔が、今、隣室の少女を安心させるために椅子をわざと鳴らしている。

 

「……まずい」

 

 俺は小さく呟いた。

 

 非常にまずい。

 

 だが、まあ。

 今夜はこれでいい。

 

 あの男には悪夢を仕込んだ。

 エリィは眠った。

 リボンは取られていない。

 俺も戻った。

 

 計画は順調。

 たぶん順調。

 順調ということにしておく。

 

 俺は椅子の上で目を閉じた。

 眠る必要はない。

 ただ、隣の部屋に音があるように、そこにいる。

 

 俺はいつから外出報告をする悪魔になったのだろう。

 

 答えは出なかった。

 出なくていい気もした。

 

 それがまた、非常にまずかった。

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曇り顔が見たくて死んでみたら、結構大変な事になっちゃったって話(作者:せみふぁいなる)(オリジナルファンタジー/冒険・バトル)

転生直前に見た子の曇り顔良かったなぁ……▼せや!転生特典で何回でも生き返れるんだし、皆の前で死んで曇り顔見たろ!▼……ってやったら大変な事になっちゃった主人公君のお話。▼※この作品は作者が三人称視点の文を練習したくて書いた(曇らせはオマケ)作品です。至らない所が度々出てくると思いますので、「コイツの文肌に合わねぇな」と思ったらブラウザバックをオススメ致します…


総合評価:461/評価:8.21/連載:11話/更新日時:2026年05月02日(土) 14:00 小説情報

自分よりも才能のあるパーティメンバーのために解散を切り出したら病んでたやつ(作者:アロアロス)(オリジナルファンタジー/恋愛)

自分の才能の無さと相方の才能の過多の差にうんざりして、全部リセットして夜逃げを決行しようとする男と、愛する人が夜な夜なこっそり何かをしようとしているので、私がどれだけ貴方のことを愛しているかを分からせようとする女のお話。


総合評価:1687/評価:8.61/短編:1話/更新日時:2026年02月06日(金) 20:02 小説情報


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