不憫少女を死ぬほど甘やかした結果 作:重い女すこ
その夜、俺はしばらく扉の前から動けなかった。
部屋の中では、エリィが眠っている。
寝息はまだ細い。
それでも、昨日よりは少しだけ深い。
魔火で温めた部屋。
柔らかい布団。
枕元の青いリボン。
床に揃えられた新しい靴。
棚に入った服。
たった二日で、ずいぶん物が増えた。
昨日まで何も持っていなかった少女が、今日には自分の部屋と、自分の服と、自分の靴と、自分のリボンを持っている。
よろしい。
非常によろしい。
所有の感覚は幸福を育てる。
幸福が育てば、いずれ失う恐怖も育つ。
極上絶望熟成作戦は、順調に進んでいる。
そのはずなのに、俺は扉の前で動けずにいた。
理由は分かっている。
分かりたくはないが、分かっている。
約束だ。
この部屋にあるエリィのものを、俺は奪わない。
今のエリィの前から、俺はいなくならない。
たったそれだけの言葉が、体の奥に薄く絡みついている。
契約ほど強くはない。
真名を縛るほどでもない。
魂を差し出させたわけでもない。
だが、確かにそこにある。
悪魔の言葉には力がある。
人間を騙すための甘言にも。
契約を結ばせるための囁きにも。
呪いを吐くための宣告にも。
そして、どうやら。
痩せた少女を安心させるための「約束だ」にも。
「……面倒くさい」
俺は小さく呟いた。
もちろん、これは失敗ではない。
素材を安心させ、依存させ、幸福を積ませ、最後に落差を作る。
そのための信頼なら、悪魔は千年かけていくらでも稼いできた。
欲しい言葉を与えれば、人間は実によく転ぶ。
だが、エリィの信頼は少し違う。
あれは、まだ欲望と呼べるほど形になっていない。
寒くない場所にいたい。
飯を食べても怒られたくない。
リボンを取られたくない。
いなくならないでほしい。
小さい。
あまりにも小さい。
人間の欲望とは、もっと醜く、脂ぎっていて、胃にもたれるものではなかったか。
なぜこの少女の願いは、粥一杯とか、靴一足とか、青いリボン一つとか、そんな単位で発生するのか。
やめろ。
考えるな。
考えると、胸の奥がまたざらつく。
俺は扉から離れ、隣の部屋に入った。
椅子に腰を下ろす。
隣の部屋にいる。
そう言った。
今、俺は隣の部屋にいる。
約束は守られている。
問題ない。
問題ない、のだが。
脳裏に、昼間の男の顔が浮かんだ。
粗末な服。
無精髭。
赤く濁った目。
エリィの服と靴とリボンを見て濁った欲の色。
そして、あの言葉。
殴っても泣かねえからつまんねえし。
俺は椅子の肘掛けを指で叩いた。
こつ。
こつ。
こつ。
悪魔は基本的に寛容だ。
いや、嘘だ。
全然寛容ではない。
ただ、人間の愚かさには慣れている。
千年も見ていれば、たいていの醜さには驚かなくなる。
盗む。
奪う。
殴る。
騙す。
裏切る。
弱い者を踏む。
さらに弱い者を探して安心する。
ありふれている。
実にありふれている。
王都の安酒より薄い味だ。
なのに。
あの男の手がエリィに伸びた瞬間、俺は少しだけ殺すつもりになった。
少しだけだ。
悪魔基準では雑談みたいなものだ。
だが、エリィが見ていた。
だから殺さなかった。
殺せなかった、ではない。
殺さなかった。
ここは重要である。
素材管理上、エリィの前で血なまぐさい処理をするのは望ましくない。
せっかく温めた灰色が、また冷えてしまうかもしれない。
つまり、殺さなかった俺は合理的だった。
だが。
「後始末は必要だな」
俺は立ち上がった。
あの男を放っておくのはよくない。
またエリィに近づくかもしれない。
エリィの服を盗んだと言いふらすかもしれない。
あるいは、別の弱い子供を殴るかもしれない。
素材管理上、害は取り除く。
これは善行ではない。
屋敷に虫が出たら潰すのと同じだ。
俺は廊下に出て、エリィの部屋の前で足を止めた。
部屋の中は静かだ。
眠っている。
たぶん。
扉をそっと開ける。
暗い部屋。
魔火の小さな灯り。
布団の中で丸くなっているエリィ。
枕元には青いリボン。
起きていない。
よし。
「すぐ戻る」
俺は小さく呟いた。
エリィには聞こえない。
聞こえないが、言った。
なぜ言った。
分からない。
悪魔の行動には時々分からないことがある。
いや、最近多いな。
非常に多い。
俺は部屋を出て、扉を閉めた。
屋敷全体に薄い闇を張る。
外からは何も入れない。
火の具合も、部屋の温度も、エリィの呼吸も、すべて感知できるようにする。
何かあれば即座に戻れる。
これで問題ない。
問題ないはずだ。
俺は窓を開け、夜の王都へ飛び出した。
***
夜の王都ルベリアは、昼より少しだけ正直になる。
昼間は善人の顔をしていた連中が、夜にはそれぞれの欲望を路地裏へ持ち出す。
俺は屋根の上を滑るように進み、魔眼を開いた。
濁った黄色、赤黒い紫、腐った薄桃、嫉妬の緑、虚栄の金。
いつもの味。
いつもの胃もたれ。
目当ての色はすぐに見つかった。
商業区の端。
昼間、エリィが震えた路地に近い安酒場。
そこから少し奥に入った、湿った石壁の建物。
寝床と呼ぶには粗末な部屋がいくつも押し込められた場所だ。
男はそこにいた。
安酒場の隅で、木の杯を握っている。
顔色が悪い。
手が震えている。
「くそ……何なんだよ、あいつ」
男はぶつぶつ呟いていた。
「手が、まだ……」
昼間、俺はほんの少しだけ恐怖を流した。
ほんの少しだ。
人間が死なない程度。
悪夢の入口を覗く程度。
どうやら、その入口がまだ頭に残っているらしい。
男は自分の手を見て、何度も握り、開き、また握る。
そのたびに、色が濁る。
恐怖。
怒り。
屈辱。
そして、弱い相手を殴って取り戻そうとする薄汚い欲望。
なるほど。
反省はしていない。
まあ、期待はしていなかった。
人間はそう簡単に反省しない。
悪魔が千年かけて得た実用的な知見である。
男の向かいに、別の男が座った。
同じような粗末な服。
同じような酒臭さ。
同じように濁った色。
「何びびってんだよ」
「うるせえ」
「昼間のガキのことか? あの銀髪の」
俺の目が少し細くなった。
男は杯を乱暴に置いた。
「あいつ、変な男連れてやがった」
「金持ちか?」
「知らねえ。黒い外套の、気色悪い男だ」
「へえ。売れそうじゃねえか、そのガキ」
その瞬間、屋根の縁が俺の指の下で削れた。
石片がぱらぱら落ちる。
下の人間どもは気づかない。
売れそう。
なるほど。
人間社会、今日も平常運転である。
終わっている。
何度でも終わっている。
終わりすぎて、もはや終わりが日常になっている。
殺すのは簡単だ。
二人まとめてでも、酒場ごとでもいい。
だが、それでは雑だ。
料理で言えば、焦げた鍋に腹を立てて厨房ごと燃やすようなものだ。
気分は晴れるかもしれないが、後片付けが面倒である。
今日は丁寧にやる。
悪魔らしく。
上品に。
穏当に。
俺は男が酒場を出るまで待った。
男はふらつきながら路地を歩き、安宿のような建物に入った。
狭い部屋。
薄い敷布。
腐った藁の臭い。
人間が寝る場所としては最低に近い。
だが、エリィが昨日までいた石畳よりはましだ。
まし、という事実が腹立たしい。
男は服のまま敷布に倒れた。
酒臭い息を吐き、しばらく唸っていたが、やがて眠りに落ちた。
俺は窓から部屋へ入った。
音は立てない。
気配も消す。
枕元に立ち、見下ろす。
昼間はあれほど大きく見えた手も、眠っているとただの肉の塊だ。
その手で、エリィを殴ったのか。
殴っても泣かないからつまらない。
そう言ったのか。
俺は男の額に指を置いた。
「安心しろ。殺しはしない」
俺は悪魔らしく笑った。
「少し、夢を見るだけだ」
闇が男の額から染み込んでいく。
悪魔の夢は、普通の夢とは違う。
魂の端をつまみ、恐怖の色を混ぜ、本人の記憶に流し込む。
本人の記憶を材料にするので、よく馴染む。
ここでも下ごしらえである。
***
男は、路地に立っていた。
夢の中の路地だ。
空はない。
壁だけが高く伸びている。
濡れた石畳。
冷たい風。
どこかで水が落ちる音。
男の前に、小さな影があった。
痩せた子供。
ぼろ布。
色の抜けた薄い髪。
石畳の上に丸まっている。
「おい」
影は動かない。
「聞いてんのか」
男が手を伸ばす。
その瞬間、影は別の子供に変わった。
黒髪の子供。
赤毛の子供。
頬に傷のある子供。
痩せた老人。
泣きそうな女。
また、薄銀の髪の少女。
顔ははっきりしない。
だが、男には分かっている。
自分が見下ろしてきた者たちだ。
自分より弱いから。
殴ってもいいと思った者たちだ。
「何だよ」
男は後ずさった。
すると、路地の奥から声がした。
殴っても泣かねえからつまんねえし。
男自身の声だった。
夢の中で聞く自分の声というのは、なかなか不快なものだ。
男は舌打ちした。
「うるせえ」
目の前の子供が、男を見上げた。
鈍い青い目。
涙はない。
怯えも薄い。
ただ、諦めだけがある。
男の顔が歪んだ。
「その目だ」
男は手を振り上げた。
「その目が、むかつくんだよ」
手が振り下ろされる。
だが、子供には当たらなかった。
ぐしゃり。
男の手の甲が潰れていた。
「あ?」
皮膚が黒ずむ。
爪が浮く。
指の先から、腐った果物みたいに肉が崩れる。
「う、あ」
男は悲鳴を上げようとした。
だが声が出ない。
喉が詰まっている。
子供は何も言わない。
ただ見ている。
泣かない。
叫ばない。
責めない。
それが、男をさらに追い詰める。
俺は夢の外側から眺めていた。
実に順調だ。
人間は、責められると反発し、許されると調子に乗る。
だが、ただ見られると弱い。
改心は期待しないが、条件づけならできる。
弱い者に手を上げようとするたび、自分の手が腐る。
教育である。
悪魔式の。
男は怒りと恐怖と屈辱で、何度も手を振り上げた。
そのたびに、手が腐り、指が落ち、骨が灰になった。
そのたびに、路地に男自身の声が響いた。
仕事は遅いし。
すぐ謝るし。
殴っても泣かねえから。
つまんねえし。
薄銀の髪の少女は、何も言わなかった。
途中で、男は泣き始めた。
みっともなく。
酒臭い涙を垂れ流しながら。
その涙の味は、恐怖と自己憐憫ばかりで、実に人間らしく、不味い。
エリィの安堵の涙とはまるで違う味だった。
そう比べた自分に気づき、俺は少し眉をひそめた。
男は夢の中で地面に這いつくばった。
「やめ、やめてくれ」
俺は男の夢に、最後の仕上げを落とした。
薄銀の髪の少女が、ゆっくりと口を開く。
声は、エリィのものではない。
俺はエリィの声を、こいつの夢の材料になど使いたくなかった。
だから、声は男自身の記憶の奥にある、誰でもない子供の声にした。
「触らないで」
たった一言。
その瞬間、男の両手が黒い灰になって崩れた。
男は声にならない悲鳴を上げた。
夢の外で、男の体がびくりと跳ねる。
汗が噴き出す。
指が敷布を掴もうとして、空を掻く。
俺は男の額から指を離した。
「三十日」
俺は言った。
「弱い者に手を上げようとするたび、その夢を見る」
男の耳には届かない。
だが魂には届く。
悪魔の囁きとはそういうものだ。
「いや、違うな。手を伸ばすな。少なくとも、あの少女には」
闇が男の胸に沈む。
小さな楔になる。
呪いというほど大げさではない。
契約というほど立派でもない。
ただの悪夢の種だ。
これで、男がエリィに近づこうとするたび、手が腐る感覚を思い出す。
三十日もすれば、だいたい学習するだろう。
しなければ、次は三百日である。
うむ。非常に穏当。
俺は窓辺へ向かった。
その時、男が寝言を漏らした。
「ゆる、して」
俺は足を止め、振り返った。
男は夢の中で、自分のために泣いていた。
俺は鼻で笑った。
「俺に言うな」
許すかどうかは、俺の仕事ではない。
少なくとも、今は。
俺は部屋を出た。
王都の夜風が冷たい。
冬が近い。
屋根の上には白い霜が降り始めている。
その霜を見て、ふと、昨日の石畳で丸まっていたエリィの細い身体と、冷えきった手足を思い出した。
俺は舌打ちした。
やはり三十日では短いかもしれない。
いや、落ち着け。
悪魔たるもの、罰は適切な量でなければならない。
とりあえず三十日。
様子を見て追加。
俺は屋敷へ戻った。
***
屋敷に戻った瞬間、俺は違和感に気づいた。
エリィが起きている。
呼吸が浅い。
寝返りではない。
眠りの揺れでもない。
明らかに目を覚ましている。
「……まずい」
俺は窓から中へ入り、足音を消して廊下へ出た。
エリィの部屋の前に立つ。
扉の隙間から、薄い魔火の灯りが漏れている。
部屋の中は静かだ。
だが、眠っている静けさではない。
息を殺している静けさだ。
俺は扉を軽く叩いた。
「エリィ」
すぐには返事がなかった。
「起きているか」
少し間があった。
「……はい」
声が小さい。
かすれている。
眠気だけではない。
不安で喉が細くなっている声だ。
俺は扉を開けた。
エリィはベッドの上に座っていた。
布団を胸元まで引き上げ、両手で握っている。
枕元に置いていた青いリボンは、今は彼女の手の中にあった。
握りしめすぎて、少ししわになっている。
目がこちらを見た。
鈍い青。
そこに、細い不安の色。
「どうした」
俺が聞くと、エリィは唇を動かした。
だが、すぐには言葉が出ない。
「怖い夢でも見たか」
聞いた瞬間、自分で少し嫌な気分になった。
怖い夢を見せてきた直後に言う台詞ではない。
相手は違う。
違うが。
何というか、間が悪い。
エリィは首を横に振った。
「悪魔さん」
「なんだ」
「隣の部屋に、いましたか」
俺は黙った。
来た。
直球だ。
逃げ場のないやつだ。
屋敷には気配を残していたし、何かあれば戻れるようにしていた。
広い意味では隣にいたと言えなくもない。
だが、エリィはそういう意味で聞いていない。
俺は溜息をついた。
「少し、外に出た」
エリィの指が、リボンをさらに握った。
「外」
「ああ」
「いつから」
「おまえが眠ったあとだ」
「戻って、きましたか」
「今戻った」
エリィは俺を見た。
それは責める目ではなく、本当に戻ったのか、今度は消えないのかを確認している目だった。
「何かあったのか」
俺が聞くと、エリィは慌てて首を振った。
「ごめんなさい」
「謝るな」
「起きてしまって、ごめんなさい」
「謝るなと言っている」
「はい。ごめ……」
エリィは口を閉じた。
「なぜ起きた」
俺は声を少し抑えた。
低くしすぎると怖がる。
悪魔が人間の少女に声量調整している。
見た奴は殺す。
エリィは布団を握ったまま、ぽつりと言った。
「音が、しなくなったので」
「音?」
「隣の部屋」
俺は少し考えた。
俺は隣の部屋で、椅子に座っていた。
その時はたぶん、衣擦れや、椅子の軋みや、気配の揺れがあった。
エリィはそれを聞いていたのか。
「寝ていなかったのか」
「寝ました」
「なら、なぜ」
「目が覚めて」
エリィは視線を落とした。
「隣が、静かで」
静かなのは普通だ。
夜だ。
寝る時間だ。
だが、エリィにとっては違うのだろう。
そこにいるはずの気配がないだけで、いなくなったかもしれないと思う。
諦める前に怖がるだけの感情が戻ってきている。
計画通りで、非常によい。
よい、はずなのに。
「呼べばよかっただろう」
俺が言うと、エリィは小さく首を横に振った。
「迷惑かと」
「迷惑なら拾っていない」
「でも、夜なので」
「夜でもだ」
「悪魔さん、眠っていたら」
「悪魔はあまり眠らない」
「そうなんですか」
「そうだ」
「すごいです」
そこで素直に感心するな。
今はそういう流れではない。
エリィは少しだけ布団を緩めた。
だが、リボンはまだ握っている。
「悪魔さん」
「なんだ」
「外は、寒かったですか」
俺は一瞬、言葉に詰まった。
なぜそこを聞く。
俺がどこへ行ったかでも、何をしていたかでもなく、外は寒かったか。
俺は悪魔だぞ。
人間界の冬の夜程度で寒いわけがない。
「寒くはない」
俺は答えた。
「悪魔だからな」
「そうですか」
エリィは少し安心したようだった。
待て。
今、俺が寒くなかったことに安心したのか。
そういうことをするな。
こちらの調子が狂う。
「用事があった」
俺は言った。
なぜか言い訳めいた声になった。
「すぐ戻るつもりだった」
「はい」
「屋敷には魔法を張っていた。何かあればすぐ戻れた」
「はい」
「だから、別におまえを放っておいたわけではない」
エリィは頷いた。
信じているのか、信じたいのか、判断がつかない顔だ。
「でも」
エリィは小さく言った。
「いないと、分からなくて」
俺は黙った。
「魔法があっても、分からなくて」
その言葉は、妙にまっすぐ刺さった。
俺は魔法で屋敷を守った。
エリィの呼吸も、体温も、部屋の状態も感知していた。
合理的には十分だった。
だが、エリィには分からない。
彼女に分かるのは、隣の部屋に俺の音があるかどうかだけだ。
安心というものは、理屈だけでは発生しないらしい。
俺はベッドの脇へ歩いた。
エリィが少し身を固くする。
俺はその場で止まった。
「ここに座るぞ」
先に言う。
エリィは瞬きをした。
「はい」
俺は椅子を引き寄せ、ベッドの脇に座った。
布団の上に手を置こうとして、やめた。
触れられることに慣れていない。
触れられることが痛みに結びついている。
分かっている。
代わりに、俺は枕元の少し離れた場所を指で叩いた。
「外に出る時は言う」
エリィが顔を上げた。
「言う?」
「そうだ」
「私に?」
「他に誰がいる」
エリィは困ったようにリボンを見た。
「寝ていたら」
「起こす」
言ってから、少し考える。
いや、毎回起こすのは駄目だ。
睡眠は重要だ。
「……必要がある時は起こす。必要がなければ、戻った時に言う」
「戻った時」
「ああ」
「私が、寝ていても?」
「起きた時に言う」
「忘れませんか」
「忘れない」
エリィは俺を見た。
「本当に?」
「ああ」
「約束ですか」
来た。
また来た。
悪魔に約束を求めるな、と言うべきだった。
しかし、エリィは青いリボンを握って、不安そうにこちらを見ている。
隣の音が消えると、いなくなったと思ってしまうから。
俺は額を押さえた。
「……約束だ」
空気が、またわずかに揺れた。
三つ目。
正確には細かいものを含めれば、もっとあるのかもしれない。
だが、はっきりと自覚した縛りとしては三つ目だ。
外に出る時は言う。
戻ったら言う。
忘れない。
何だこれは。
悪魔の契約文としてあまりにも生活感がありすぎる。
魔界の契約書に書いたら下級悪魔どもが笑い転げるだろう。
笑った奴は燃やす。
エリィはほっと息を吐いた。
リボンを握る手が少し緩む。
「ありがとう、ございます」
「礼を言うな」
「……はい」
今度は謝らなかった。
俺はそれに気づき、少しだけ口元が緩みそうになった。
悪魔的な喜びである。
断じて、それ以外ではない。
「もう寝ろ」
俺が言うと、エリィは布団を少し握った。
「悪魔さんは」
「隣の部屋にいる」
「本当に?」
「ああ」
「音が、しますか」
音。
悪魔は気配を消すのが得意だが、それでは困るらしい。
「必要なら、音を立てる」
「いいんですか」
「いい」
「迷惑では」
「迷惑なら拾っていない」
またこれだ。
たぶん、何度でも言う必要がある。
エリィは小さく頷いた。
「あの」
「なんだ」
「少しだけ」
エリィは言葉を探した。
布団の中で指が動く。
リボンを握って、離して、また握る。
「扉を、少し開けていても、いいですか」
俺は扉を見た。
本来、部屋は閉じるものだ。
自分だけの空間として守る感覚も必要だ。
だが、今のエリィにとって、閉じた扉は安全ではなく遮断なのだろう。
なら、今は開けておけばいい。
そのうち閉められるようになればいい。
段階というものがある。
「いい」
俺は言った。
「少し開けておく」
エリィの肩から、力が抜けた。
「ありがとうございます」
「礼を言うな」
「……はい」
今度も謝らなかった。
俺は立ち上がった。
「寝ろ」
「はい」
エリィは布団にもぐった。
青いリボンを枕元に置く。
しかし、すぐに手を伸ばして、少しだけ触れた。
「取らない」
俺が先に言うと、エリィが驚いたようにこちらを見た。
「まだ、言っていません」
「言いそうな顔をしていた」
「そう、ですか」
「そうだ」
エリィは少しだけ、口元を緩めた。
笑った、というほどではない。
だが、昨日の終わりより、ほんの少し自然だった。
「取られません」
エリィは小さく言った。
自分に言い聞かせるように。
「そうだ」
俺は頷いた。
「悪魔さんも、いなくなりません」
「ああ」
「外に出る時は、言います」
「俺がな」
「戻ったら、言います」
「俺がな」
エリィは目を閉じた。
「はい」
しばらく、寝息は聞こえなかった。
だが、呼吸は少しずつ落ち着いていく。
指先がリボンから離れる。
布団の中の身体から力が抜ける。
今度こそ、眠った。
俺は扉を半分だけ開けたまま、隣の部屋へ移動した。
椅子に座る。
わざと少しだけ音を立てた。
椅子の脚が床を擦る、小さな音。
部屋の向こうで、エリィの呼吸がわずかに揺れた。
だが、起きない。
安心したように、また深くなる。
俺は肘掛けに頬杖をついた。
夜の外出。
戻った報告。
扉を少し開ける。
音を立てる。
千年生きた悪魔が、今、隣室の少女を安心させるために椅子をわざと鳴らしている。
「……まずい」
俺は小さく呟いた。
非常にまずい。
だが、まあ。
今夜はこれでいい。
あの男には悪夢を仕込んだ。
エリィは眠った。
リボンは取られていない。
俺も戻った。
計画は順調。
たぶん順調。
順調ということにしておく。
俺は椅子の上で目を閉じた。
眠る必要はない。
ただ、隣の部屋に音があるように、そこにいる。
俺はいつから外出報告をする悪魔になったのだろう。
答えは出なかった。
出なくていい気もした。
それがまた、非常にまずかった。