不憫少女を死ぬほど甘やかした結果   作:重い女すこ

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第五話

 朝になった。

 

 人間界の朝である。

 魔界と違い、人間界の朝は分かりやすい。

 

 窓の外が白み、霜を踏む荷車の音と、パンを焼く匂いと、人間どもの今日も働きたくないという薄い絶望が漂ってくる。

 

 俺は椅子に座ったまま、目を開けた。

 眠ってはいない。

 悪魔に睡眠は必須ではない。

 ただ、夜の間ずっと、隣の部屋に音があるように椅子に座っていただけだ。

 

 時々、肘掛けを指で叩く。

 時々、椅子を少し鳴らす。

 時々、咳払いをする。

 

 千年生きた悪魔が、痩せた少女を安心させるために夜通し生活音を演出していた。

 

 終わっている。

 何かが確実に終わっている。

 扉は、少し開いていた。

 昨夜、エリィがそうしてほしいと言ったからだ。

 隣の部屋からは、規則正しい寝息が聞こえる。

 細い。

 まだ軽い。

 だが、最初に拾った夜よりは、少しだけ深い。

 

 俺は椅子から立ち上がった。

 床が小さく鳴る。

 その音に、隣の寝息が一瞬だけ揺れた。

 

 起きたか。

 

 俺は扉の隙間から様子を見た。

 エリィは布団の中で丸まっている。

 薄銀の髪が枕に散り、青いリボンは枕元に置かれていた。

 昨日、握りしめられて少ししわになったそれは、今は静かに朝の光を受けている。

 

 目は閉じている。

 だが、完全には眠っていない。

 俺の気配を探っている。

 

 俺は少し迷った。

 厨房へ行く。

 朝食を作る。

 同じ屋敷内だ。

 外出ではない。

 昨夜の約束は「外に出る時は言う。戻ったら言う」だった。

 つまり、厨房に行く程度なら報告義務の範囲外である。

 

 範囲外。

 契約の解釈としては正しい。

 悪魔は契約の隙間を突く生き物だ。

 

 だが。

 

 エリィにとって、外と廊下と厨房の違いにどれだけ意味があるのか。

 隣の部屋の音が消えただけで、彼女は目を覚ました。

 俺が屋敷に魔法を張っていたことなど、彼女には分からなかった。

 

 なら、今も同じだろう。

 

 俺は小さく息を吐いた。

 

「エリィ」

 

 布団の中で、細い肩が少し動いた。

 しばらくして、目が開く。

 鈍い青。

 寝起きのぼんやりした色の中に、確認するような不安が混じっている。

 

「……悪魔さん」

「起こしたか」

「いえ」

 

 嘘だ。

 起きた。

 だが、責めることではない。

 

「厨房へ行く」

 

 エリィは瞬きをした。

 

「厨房」

「朝食を作る」

「はい」

「外ではない」

「はい」

「すぐ戻る」

 

 言ってから、俺は自分の声が妙に丁寧になっていることに気づいた。

 何だこれは。

 悪魔による所在報告である。

 生活感がすごい。

 

 エリィは布団を少し握った。

 

「戻ったら、言いますか」

「言う」

「はい」

 

 それだけで、彼女の指から少し力が抜けた。

 青いリボンに伸びかけていた手も、布団の上に戻る。

 

 俺は扉を大きく開けたまま、廊下へ出た。

 厨房に向かう途中、わざと足音を残す。

 悪魔は本来、足音を消すのが得意だ。

 獲物に忍び寄るためには当然の技能である。

 

 その技能を封印して歩く。

 床板に、こつ、こつ、と音を置く。

 

 もう一度言う。

 終わっている。

 

 だが、隣室の呼吸は落ち着いていた。

 なら、まあ。

 今朝はこれでいい。

 

 

   ***

 

 

 朝食は粥にした。

 昨日より少しだけ米を増やし、腹に負担がかかりすぎない程度に柔らかく煮る。

 悪魔が人間の少女の胃腸を気遣って朝粥の固さを調整している。

 今日も世界は順調に壊れている。

 

 俺は鍋をかき混ぜながら、エリィの体調を探った。

 熱はない。

 呼吸は昨日より安定している。

 腹は空いている。

 当たり前だ。

 あの身体で一日三食に慣れるには時間がかかるが、飢えていた分、身体は栄養を欲しがっている。

 

 問題は、本人がそれを欲しいと言えるかどうかである。

 

 昨日までのエリィは、パンを半分残そうとし、粥一杯を何日分かと聞き、人間みたいです、と言った。

 人間が食事をして人間みたいとは何事だ。

 人間社会、いよいよ終わっている。

 

 俺は火を弱め、器に粥をよそった。

 少なめ。

 しかし、昨日よりは多め。

 匙で食べやすい温度まで冷ます。

 

 ここまでやって、ふと思った。

 

 これは調理ではなく給餌ではないか。

 いや、給餌と言うと聞こえが悪い。

 食事管理だ。

 素材管理上、栄養状態の改善は必須である。

 飢えで朽ちかけた魂からは、深い絶望は取れない。

 幸福を積むには身体が必要だ。

 身体が倒れれば計画も倒れる。

 

 うむ。

 完全に合理的。

 

 俺は器を盆に載せ、廊下へ戻った。

 足音を消さない。

 盆の上の匙が、小さく鳴る。

 

 部屋の前まで来ると、エリィはもう起きていた。

 ベッドの上で座り、髪を手で直そうとしている。

 青いリボンは膝の上。

 まだ結べていない。

 

 俺が入ると、エリィは慌てて背筋を伸ばした。

 

「戻った」

 

 俺が言うと、エリィは一瞬だけ目を丸くした。

 それから、こくりと頷く。

 

「おかえり、なさい」

 

 言われて、俺は止まった。

 厨房から戻っただけなのに、エリィにとっては扉の向こうへ消えた者が約束通り戻った、ということなのだろう。

 

「ああ」

 

 俺は盆を机に置いた。

 

「食うぞ」

「はい」

 

 エリィはベッドから降り、昨日より少し早く靴を履いた。

 青い靴紐はまだ難しそうだったので、俺が靴にだけ触れて結ぶ。

 

「痛くないか」

「はい」

「きつければ言え」

「はい」

 

 言わないだろうな、と思いながら、俺はエリィを椅子に座らせ、粥の器を前に置いた。

 湯気が立つ。

 エリィの目が、器に吸い寄せられた。

 

 昨日と違う。

 昨日は、まず許可と恐怖が先に来た。

 今日は、空腹が先に見えた。

 灰色の奥で、淡い金色がほんの少し揺れる。

 

 食べ物への期待。

 温かいものへの安堵。

 悪くない。

 実に悪くない。

 

「食え」

「いただきます」

 

 エリィは両手を揃え、小さく頭を下げた。

 どこで覚えたのか分からない。

 拾った残飯にも頭を下げていたのかもしれない。

 それを考えると、また胸の奥がざらついた。

 

 俺は向かいに座り、腕を組んだ。

 

 エリィは匙を取った。

 一口。

 少し冷まして、口に入れる。

 喉が動く。

 次の一口までの間が、昨日より短い。

 

 よろしい。

 身体が食事を覚え始めている。

 

 エリィは黙々と食べた。

 途中で何度かこちらを見る。

 俺が何も言わないと、また食べる。

 匙の動きは慎重だが、止まらない。

 

 器の底が見えた。

 

 エリィは最後の一口を飲み込んだ。

 それから、器の中をじっと見た。

 

 空だ。

 当たり前だ。

 食えばなくなる。

 

 だが、エリィはその空の器を見つめたまま、動かなかった。

 匙を置く。

 膝の上で手を握る。

 視線は器に残っている。

 

 足りないのか。

 

 俺は鍋のほうを見た。

 まだある。

 むしろ、最初からそのつもりで多めに作っている。

 

 だが、エリィは何も言わない。

 

「足りなければ言え」

 

 俺が言うと、エリィはびくりとした。

 

「大丈夫です」

 

 早い。

 早すぎる。

 考える前に出た否定だ。

 

「俺は足りなければ言えと言った」

「はい」

「大丈夫かどうかは聞いていない」

「……はい」

「足りたのか」

 

 エリィは空の器を見た。

 唇が少し動く。

 しかし、声にならない。

 

「エリィ」

「足りました」

 

 また早い。

 嘘の味がする。

 エリィは自分に嘘をつくことに慣れすぎていて、逆に分かりやすい。

 足りない。

 だが、欲しいと言えない。

 

「器を見ている」

 

 俺が言うと、エリィは慌てて視線を上げた。

 

「すみません」

「謝るな」

「はい」

「まだ欲しいのか」

 

 エリィは固まった。

 

 欲しい。

 

 その言葉は、エリィにとって危険物なのだろう。

 好きと同じだ。

 見せると奪われる。

 言うと怒られる。

 欲しがると罰を受ける。

 

 人間社会、終わっている。

 何度言っても足りない。

 

「欲しいなら、欲しいと言え」

 

 俺は言った。

 声は低くしすぎない。

 命令形だが、怒鳴らない。

 この調整にもだいぶ慣れてきた自分が腹立たしい。

 

 エリィの指が膝の上で絡む。

 

「でも」

「でもではない」

「食べすぎたら」

「吐くほど食うな」

 

 エリィは目を瞬いた。

 

「吐くほど」

「そうだ。腹には限界がある。限界を超えれば苦しい。苦しければ食うな。足りないなら足す」

「足しても」

「いい」

「明日の分が」

「明日の分は明日また作る」

 

 エリィの目が揺れた。

 第1話の夜と同じ言葉だ。

 人間の食事は毎日発生する。

 面倒な生き物だが、毎日発生するからこそ、毎日上書きできる。

 

「昨日も食った」

「はい」

「今日も食っている」

「はい」

「明日も食う」

 

 エリィは唇を引き結んだ。

 それは信じたい顔だった。

 だが、信じると怖い顔でもあった。

 

「食べて、いいんですか」

「いい」

「二回目でも」

「二回目でもだ」

「怒られませんか」

「怒らない」

「悪い子では」

「ない」

 

 エリィは俯いた。

 しばらく、沈黙が落ちた。

 

 やがて、エリィは本当に小さな声で言った。

 

「おかわり」

 

 俺は黙った。

 

「しても」

 

 声がかすれる。

 途中で消えそうになる。

 だが、エリィは逃げなかった。

 

「おかわり、してもいいですか」

 

 その瞬間。

 灰色の奥に、淡い金色が灯った。

 

 リボンを好きかもしれないと言った時よりは弱い。

 だが、これは自分の身体が欲しいと言っているものを、自分の口で求めた光だった。

 

 俺は内心で大いに動揺した。

 

 おかわり。

 たかが粥の二杯目。

 それなのに、この少女はそれを求めるだけで、魂の色を変えた。

 

 極上絶望熟成作戦の素材としては、非常に優秀。

 優秀、なのだが。

 

 俺は立ち上がった。

 できるだけ平然と。

 鍋に向かう。

 匙を取る。

 粥をよそう。

 

 手元がわずかに狂って、予定より多く入った。

 悪魔にあるまじき失態である。

 

 俺は表面を整え、少し冷ましてから器を戻した。

 

「食え」

 

 エリィは器を見た。

 目を大きくする。

 

「こんなに」

「多ければ残せ」

「残しても」

「いい」

「怒られませんか」

「怒らない」

 

 エリィは匙を持った。

 だが、すぐには食べなかった。

 

「ありがとうございます」

「礼を言うな」

「はい」

 

 今度は謝らなかった。

 よろしい。

 非常によろしい。

 

 エリィは二杯目を食べ始めた。

 一杯目より少し遅い。

 恐る恐る。

 だが、確かに食べている。

 

 俺はそれを見ながら考えた。

 

 幸福というものは、宝石、権力、恋、復讐、勝利、支配、そういう派手で脂の乗った欲望だと思っていた。

 だが、エリィの幸福は粥一杯、靴紐一本、リボン一本、扉の隙間、椅子の音、おかわりの許可という単位で増える。

 

 小さい。

 あまりにも小さい。

 小さすぎて、踏み潰すほうが難しい。

 

 いや、違う。

 踏み潰すのは簡単だ。

 この少女の世界は、ずっとそうやって踏み潰されてきた。

 だから今、たったこれだけのことで震えている。

 

 俺は腕を組んだ。

 

 やはり、人間社会は終わっている。

 

「悪魔さん」

「なんだ」

 

 エリィは匙を止めていた。

 器の中身は半分ほど減っている。

 顔色は悪くない。

 ただ、困ったような、怖いような顔をしている。

 

「お腹が」

 

 俺は少し身を乗り出した。

 

「痛いのか」

「いえ」

「気持ち悪いのか」

「いえ」

「なら何だ」

 

 エリィは自分の腹にそっと手を当てた。

 

「重いです」

 

 俺は一瞬、理解が遅れた。

 

 重い。

 腹が重い。

 食べたからだ。

 つまり、満腹に近づいている。

 

「それは満たされている」

「満たされている」

「腹が空ではないということだ」

 

 エリィは真剣な顔で自分の腹を見た。

 

「空ではない」

「そうだ」

「変では、ありませんか」

「変ではない」

「お腹が重いと、動くのが遅くなります」

「今は動かなくていい」

「でも」

「食事中に走るな」

「走りません」

「なら問題ない」

 

 エリィは少しだけ困った顔をした。

 

「働かなくても」

「働かなくていい」

「食べたのに」

「食べたら働くという決まりはない」

「でも、食べたら、その分」

 

 言葉が止まる。

 その先を言いたくないのだろう。

 食べた分、働け。

 食べた分、役に立て。

 食べた分、殴られても黙っていろ。

 食べた分、生きていることを許されるように何かを差し出せ。

 

 想像はつく。

 つきすぎる。

 つきすぎて腹が立つ。

 

「飯は報酬ではない」

 

 俺は言った。

 

 エリィが顔を上げる。

 

「ほうしゅう」

「働いた分だけ与える褒美ではない、ということだ」

「褒美ではない」

「そうだ」

「では、何ですか」

 

 何。

 

 食事とは何か。

 悪魔に聞くな。

 俺は絶望を食う側だ。

 人間の粥の哲学を語る立場ではない。

 

 だが、エリィは真面目に聞いている。

 この少女は、食事が何かを知らない。

 褒美か、罰の前払いか、明日を諦めるための一時しのぎか、そういうものだと思っている。

 

 俺は少し考えた。

 

「身体を動かすためのものだ」

「身体」

「歩く。眠る。起きる。息をする。風邪をひかない。服を着る。靴を履く。そういうことをするために食う」

「生きるため、ですか」

「そうだ」

 

 エリィは器を見た。

 

「生きるため」

「おまえは生きてていいと言っただろう」

「はい」

「なら食え」

 

 エリィの目が揺れた。

 泣くかと思った。

 しかし、泣かなかった。

 代わりに、匙をもう一度握った。

 

「はい」

 

 二杯目の粥は、最後の二口を残したところで止まった。

 エリィはかなり真剣な顔で器を見つめている。

 

「どうした」

「もう、重いです」

「なら残せ」

「残しても」

「いい」

「もったいなく」

「残りは保存する」

「腐りませんか」

「腐らないようにする」

「すごいです」

「悪魔だからな」

 

 エリィは少し安心したように匙を置いた。

 残した二口を見て、また不安そうになる。

 

「本当に」

「怒らない」

 

 先に言うと、エリィは口を閉じた。

 それから、小さく頷いた。

 

「はい」

 

 俺は残りを小さな保存容器に移した。

 魔法で冷めすぎないよう、腐らないようにする。

 たった二口の粥に保存魔法。

 王族の毒殺防止用に使った術式より、今のほうが丁寧かもしれない。

 

 終わっている。

 だが、エリィは保存容器を見て、ほっとした顔をした。

 なら、まあ。

 術式の使い道としては悪くない。

 

 

   ***

 

 

 食後、エリィは椅子の上で少し固まっていた。

 腹が重く、眠気も来ているのだろう。

 ここで休ませるのが正解である。

 

 だが、エリィは立ち上がろうとした。

 

「どこへ行く」

「片付けを」

「座っていろ」

「でも」

「座っていろ」

「食べたので」

「座っていろ」

 

 三回言うと、エリィはようやく座った。

 それでも視線は器に向く。

 片付けないと怒られる。

 働かないと食べた分が返せない。

 そういう色が薄く浮かんでいる。

 

 俺は指を鳴らした。

 器と匙がふわりと浮き、盆ごと厨房へ滑っていく。

 水音がして、洗浄も乾燥も棚に戻すのも終わった。

 

 エリィは目を丸くしていた。

 

「すごいです」

「すごいだろう」

「だから、おまえが片付ける必要はない」

「でも、何もしないと」

「何もしない練習をしろ」

 

 エリィは困った顔をした。

 

「何もしない、練習」

「そうだ」

「難しいです」

「知っている」

 

 休むことにも、欲しがることにも、満腹を怖がらないことにも練習が必要。

 普通とは何だ。

 難易度が高すぎないか。

 

「悪魔さん」

「なんだ」

「おかわりを、しても」

 

 エリィは言葉を探すように、ゆっくり続けた。

 

「悪い子では、ないですか」

 

 俺はエリィを見た。

 

 彼女は本気で聞いていた。

 粥の二杯目。

 それだけで、自分が悪い子になるかもしれないと考えている。

 

 俺は深く息を吐いた。

 

「悪い子ではない」

「食べすぎても」

「吐くほど食ったら、それは加減を覚えろと言う」

「怒られますか」

「怒らない。次から量を調整する」

「調整」

「一杯目で足りなければ少し足す。まだ足りなければまた少し足す。重くなったらやめる」

「何回でも」

「必要ならな」

 

 エリィは考え込んだ。

 真剣だ。

 悪魔との契約文でも読むような顔をしている。

 粥の追加方式について、ここまで真剣になる人間を俺は初めて見た。

 

「欲しいと言っても、怒られませんか」

「怒らない」

「欲しいと言って、だめだったら」

「だめな時はだめと言う」

「その時は、怒られますか」

「怒らない」

「だめと言われたら、捨てられますか」

「捨てない」

 

 言ってから、俺は止まった。

 

 捨てない。

 また危ない言葉が出かけた。

 いや、出た。

 空気は揺れなかった。

 今のは約束としては成立していない。

 文脈がまだ軽い。

 たぶん。

 おそらく。

 

 悪魔の言葉には力がある。

 気をつけろ俺。

 

 エリィは、しかし、そこにはまだ深く反応しなかった。

 欲しいと言っていいかのほうに意識が向いている。

 

「だめでも、怒られない」

「そうだ」

「だめでも、ここにいていい」

「そうだ」

「欲しいと、言ってもいい」

「そうだ」

 

 エリィは胸元に手を当てた。

 腹ではなく、胸。

 そこに何かを覚え込ませるように。

 

「……難しいです」

「だろうな」

「でも」

 

 エリィは少しだけ顔を上げた。

 

「さっき、言えました」

 

 俺は黙った。

 

 言えた。

 おかわりしてもいいですか。

 たったそれだけ。

 だが、エリィにとっては大きなことだった。

 

「そうだな」

 

 俺は言った。

 

「言えた」

 

 エリィの色が、ほんの少し金色を増した。

 褒め言葉への耐性がないので、すぐに灰色が揺れる。

 だが、消えない。

 昨日より少しだけ、残る。

 

「よろしい」

 

 俺が言うと、エリィはびくりとした。

 

「よろしい、ですか」

「よろしい」

「怒っていませんか」

「怒っていない」

「できた、ということですか」

「そうだ」

 

 エリィは手を握った。

 口元が少しだけ緩む。

 笑い方は、まだぎこちない。

 だが、確かに笑いに近い。

 

 俺はその顔を見て、胸の奥がまた妙な感じになった。

 

 まずい。

 非常にまずい。

 

 悪魔が人間の子供に「できた」と言って、相手が少し嬉しそうにしただけで満足している。

 これは危険だ。

 精神汚染の疑いがある。

 誰の精神が汚染されているのかは考えたくない。

 

「食後は休め」

 

 俺は立ち上がった。

 

「ベッドに戻る」

「はい」

 

 エリィは椅子から降りた。

 腹が重いせいか、動きがいつもより少し遅い。

 だが、足取りはふらついていない。

 

 ベッドに腰を下ろすと、彼女は青いリボンを手に取った。

 寝る時は外していたそれを、今日は膝の上で見つめている。

 

「結ぶか」

 

 俺が聞くと、エリィは迷った。

 

「寝るなら、外したほうがいいですか」

「絡まると困る」

「では、置いておきます」

「取らない」

 

 言う前に言った。

 エリィが少し驚いた顔をした。

 

「まだ、聞いていません」

「聞きそうな顔をしていた」

「そうですか」

「そうだ」

 

 エリィはリボンを枕元に置いた。

 昨日より、少しだけ手を離すのが早かった。

 完全ではない。

 置いたあとに一度触れた。

 だが、握りしめはしなかった。

 

 進歩。

 たぶん進歩だ。

 

「悪魔さん」

「なんだ」

「お腹が重いので、眠くなっても、いいですか」

 

 食後に眠くなる許可。

 新しい。

 そんな許可まで必要なのか。

 

「いい。今は寝るのが役目だ」

「寝るのが」

「身体を治す。腹に入れたものを身体にする。そのために寝る」

「食べたものが、身体に」

「そうだ」

 

 エリィは自分の細い手首を見た。

 

「太ったら」

「よい」

「重くなったら」

「よい」

「抱えるのが大変では」

「俺を何だと思っている。悪魔だぞ」

 

 エリィは少し考え、小さく言った。

 

「悪魔さんは、すごいですね」

「そうだ」

 

 エリィは布団に入った。

 腹を圧迫しないよう、少し横向きに丸くなる。

 目がとろりと重くなる。

 

「隣の部屋にいる」

 

 俺は先に言った。

 

 エリィがこちらを見る。

 

「音」

「必要なら立てる」

「はい」

「厨房へ行く時は言った」

「はい」

「戻った時も言った」

「はい」

 

 エリィは安心したように目を細めた。

 

「おかえりなさいって、言いました」

「言ったな」

「変では、なかったですか」

「変ではない」

 

 たぶん。

 人間的には普通だろう。

 俺にはよく分からないが、悪くはなかった。

 

 エリィは少しだけ口元を緩めた。

 

「よかったです」

 

 そして、目を閉じた。

 呼吸がゆっくりになる。

 食後の眠気に引かれて、今度はすぐ眠りに落ちた。

 

 俺はしばらくその寝息を聞いていた。

 細いが、昨夜より落ち着いている。

 空腹の震えもない。

 腹が重い、という初めての感覚に少し怯えながらも、眠れている。

 

 よろしい。

 非常によろしい。

 

 極上絶望熟成作戦は順調である。

 幸福を積み、安心を育て、欲求を発芽させる。

 欲しいと言えるようになれば、いずれもっと大きなものも欲しがる。

 服、靴、リボン、部屋、明日、俺の不在ではない隣。

 

 欲しいものが増えれば増えるほど、失う恐怖は増す。

 理屈としては完璧だ。

 

 なのに、なぜ俺はエリィが粥を欲しいと言えたこと自体に満足しているのか。

 

 まずい。

 今日もまずい。

 

 俺は部屋を出て、扉を少し開けたまま隣の部屋へ移った。

 椅子に座る。

 わざと床を鳴らす。

 

 寝息は乱れない。

 安心して眠っている。

 

 俺は机の上に羊皮紙を広げた。

 

 俺は羽ペンを取り、計画を書き出した。

 

 極上絶望熟成作戦。

 

 一、食事を一日三回与える。

 二、服、靴、リボン、部屋など所有物を増やす。

 三、好きなものを覚えさせる。

 四、安心の条件を把握する。

 五、外出時と帰宅時の報告。

 

 書いていて頭が痛くなってきた。

 これが悪魔の作戦表か。

 ただの生活支援計画ではないか。

 

 俺はしばらく羽ペンを止めた。

 やめるべきか。

 いや、やめてどうする。

 計画には記録が必要だ。

 素材の変化を追うには項目化が有効である。

 料理人も火加減や熟成期間を記録する。

 悪魔も同じだ。

 

 同じ、のはずだ。

 

 俺は六つ目を書き加えた。

 

 六、欲しがる訓練。

 

 書いた瞬間、もう駄目だと思った。

 

 欲しがる訓練。

 何だそれは。

 完全に養育である。

 絶望を収穫するための邪悪な養育。

 言葉を足しても養育は養育である。

 

 俺は羽ペンを置き、額を押さえた。

 

 隣の部屋から、小さな寝息が聞こえる。

 扉は少し開いている。

 枕元には青いリボン。

 胃には粥。

 保存容器には残した二口。

 

 おかわり、してもいいですか。

 

 その声が、耳の奥に残っている。

 

 俺は羊皮紙を見た。

 六、欲しがる訓練。

 

「……まずい」

 

 小さく呟く。

 

 だが、消さなかった。

 

 計画は順調。

 非常に順調。

 順調すぎて、作戦表が子育て記録に近づいているだけである。

 

 俺は羽ペンをもう一度取った。

 

 六の下に、小さく追記する。

 

 まずは食事から。

 

 書き終えて、俺は椅子の背にもたれた。

 隣の部屋で、エリィが眠っている。

 腹を満たして、リボンを枕元に置いて、扉の向こうの音を聞きながら。

 

 悪魔なのに、食後の寝息で腹が膨れたような気がする。

 

 終わりだ。

 

 いや、終わっていない。

 まだ始まったばかりだ。

 

 それがまた、非常にまずかった。

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