不憫少女を死ぬほど甘やかした結果 作:重い女すこ
俺は作戦表を前にして、しばらく固まっていた。
極上絶望熟成作戦。
一、食事を一日三回与える。
二、服、靴、リボン、部屋など所有物を増やす。
三、好きなものを覚えさせる。
四、安心の条件を把握する。
五、外出時と帰宅時の報告。
六、欲しがる訓練。
まずは食事から。
書き終えた羊皮紙を眺めれば眺めるほど、悪魔の作戦表というより、生活が下手な子供の世話計画である。
まずい。
非常にまずい。
だが、消すわけにはいかない。
料理人が火加減を書くように、悪魔も素材の変化を書く。
断じて、エリィが粥をおかわりできたことを後で読み返して満足するためではない。
隣の部屋から、細い寝息が聞こえてくる。
腹を満たしたエリィは、青いリボンを枕元に置き、少し開いた扉の向こうで眠っていた。
食後の眠気に引かれて、呼吸は穏やかだ。
時々、布団が小さく擦れる音がする。
俺は羽ペンを指先で回した。
所有物を増やす。
好きなものを覚えさせる。
安心の条件を把握する。
部屋。
服。
靴。
リボン。
保存容器。
たった数日で、エリィの周囲には物が増えた。
よろしい。
非常によろしい。
何も持たない者に物を与え、失う恐怖を育てる。
理屈としては完璧だ。
しかし、ふと気づいた。
エリィの部屋は、まだ外から見ればただの客室である。
屋敷にはいくつも部屋がある。
百年前に契約者から奪った別邸だけあって、無駄に広い。
客室、客室、客室、使っていない客室、元応接室、物置にした客室。
人間の貴族は、どうしてあんなに部屋を作りたがるのか。
身体は一つしかないだろうに。
その中の一つを、俺はエリィの部屋にした。
この部屋にあるエリィのものを、俺は奪わない。
そう約束した。
だが、扉には何もない。
廊下から見れば、どの部屋も同じだ。
それは、よろしくないのではないか。
所有の感覚を育てるなら、場所にも印が必要だ。
ここは客室ではない。
空き部屋でもない。
拾った素材を一時保管している倉庫でもない。
エリィの部屋だ。
俺は羽ペンを羊皮紙に落とした。
七、部屋の名前を明確にする。
書いた瞬間、また頭が痛くなった。
闇の契約、魂の収穫、王国崩壊、聖騎士堕落、部屋の名前。
並べた時の生活感がすごい。
だが、素材管理上、居場所の固定は重要である。
居場所が分かる素材は、安心して熟成する。
うむ。完全に邪悪。たぶん。
俺は立ち上がった。
隣の部屋へ続く扉を見た。
少し開いている。
その隙間の向こうで、エリィの寝息が変わらず続いている。
起こす必要はない。
俺が勝手に名前札を作っておけばいい。
起きた時に見せればいい。
そう考えてから、俺は動きを止めた。
勝手に。
服や靴は俺が買った。
リボンは、エリィが好きかもしれませんと言った。
粥のおかわりは、エリィが求めた。
では、名前札は。
悪魔は本来、相手の意思など気にせず契約書の隙間へ追い込む生き物だ。
それが今、扉の札一枚を勝手に作っていいか迷っている。
終わっている。
非常に終わっている。
だが、エリィの反応を見ずに扉へ掲げて、もし怯えたら余計に面倒だ。
これは効率の問題である。
決して配慮ではない。
俺は作業台代わりの机へ向かい、倉庫から薄い木板を一枚呼び寄せた。
古い屋敷には、なぜか使っていない家具や板や金具が山ほどある。
百年前の人間の趣味は悪かったが、材料としては悪くない。
木板を手のひらほどの大きさに切り、角を丸め、表面に薄く保護の魔法をかける。
落としても割れにくく、濡れても歪みにくく、埃もつきにくい。
名前札一枚に、なぜここまで丁寧な術式を。
俺は板を眺めた。
まだ何も書いていない。
無地の札。
ここに、エリィ、と書く。
ただそれだけのことなのに、妙な重さがあった。
名前。
俺は千年、名前というものを契約書に書かせ、呪いに刻み、呼び出しの媒介にしてきた。
人間を縛り、人間を飾り、人間を壊す便利なものとして使ってきた。
だが、扉に書く名前は、たぶん少し違う。
これは、ここにいる者の印だ。
俺は板を机に置いたまま、エリィが起きるのを待つことにした。
悪魔が、名前札一枚の許可を得るために、人間の少女の昼寝が終わるのを待つ。
もう駄目だ。
隣の寝息は、やわらかく続いていた。
俺は椅子を少し鳴らし、そこにいる音を置いた。
***
エリィが目を覚ましたのは、昼近くになってからだった。
最初に聞こえたのは、布団が擦れる音。
次に、少し間を置いて、息を吸う音。
そして、探るような沈黙。
俺は机から顔を上げた。
「起きたか」
扉の向こうで、エリィが小さく動いた。
「……はい」
「隣にいる」
「はい」
「入るぞ」
「はい」
俺は扉を押し開けた。
エリィはベッドの上で身体を起こしていた。
薄銀の髪が少し乱れ、青いリボンはまだ枕元にある。
寝ぼけた目でこちらを見て、それから俺の手元に視線を落とした。
俺は木板を持っていた。
無地の名前札。
「それは」
「札だ」
「ふだ」
「おまえの部屋の扉につける」
エリィは瞬きをした。
「扉に」
「そうだ」
「何を、するものですか」
「ここがエリィの部屋だと分かるようにする」
言った瞬間、エリィの肩がわずかに固くなった。
早い。
反応が早い。
どうやら、俺が思っているより名前札は軽い話ではなかったらしい。
「嫌か」
俺が聞くと、エリィは慌てて首を横に振った。
「いえ」
「今のは嫌そうな顔だった」
「ごめんなさい」
「謝るな」
「はい」
エリィは布団の端を握った。
その指に力が入っている。
「分からなくて」
「何が」
「扉に、私の名前をつけると」
そこで言葉が止まった。
俺は椅子を引き寄せ、ベッドから少し離れた場所に座った。
悪魔が人間の子供に怯えられない角度を調整している。
今日も世界は順調におかしい。
「言え」
エリィは木板を見た。
それから、小さく言った。
「ここに私がいると、分かってしまいます」
俺は黙った。
普通なら、自分の部屋に名前があることは、所有や居場所の印になる。
だが、エリィの世界では違う。
見える場所に大事なものを置けば取られる。
名乗れば覚えられ、呼ばれ、命令され、怒られ、殴られ、奪われる。
名前があることは、そこにいると知られてしまうことなのだ。
人間社会。
今日も新鮮に終わっている。
「誰に分かると思った」
「誰かに」
「この屋敷には、俺とおまえしかいない」
「はい」
「使用人もいない」
「はい」
「勝手に入る人間もいない」
少しだけ力が抜けた。
だが、まだ指は布団を握っている。
「外からは見えない」
「でも、扉の外からは」
「廊下だ。廊下はおまえを殴らない。飯も服もリボンも取らない。名前を見ても、誰かに売りに行かない」
「売りに」
「しない」
俺は木板を持ち上げた。
「これは売り札ではない」
エリィが、ほんの少し顔を上げる。
「売り札」
「おまえがここにいるから持っていけ、という印ではない」
「はい」
「おまえがここへ戻るための印だ」
エリィは木板を見つめたまま、動かなかった。
「戻るため」
「そうだ」
「どこから」
「廊下からでも、食堂からでも、風呂からでも、そのうち外からでも」
外、と言った瞬間、エリィの目が少し揺れた。
今はまだ早いが、戻るという言葉は今から覚えていていい。
「扉に名前を書くのは、隠すためではない」
「隠すためでは」
「帰るためだ」
自分で言って、胸の奥が妙な感じになった。
俺は、いつからここをエリィが帰る場所として扱い始めたのか。
熟成庫ではなかったのか。
まずい。
エリィは小さく唇を動かした。
「帰るため」
「そうだ」
「私が、ここに戻ってもいいと、分かるためですか」
俺は一瞬、返事が遅れた。
戻ってもいい。
そこに、まだ許可がいる。
自分の部屋なのに。
自分の扉なのに。
「そうだ」
俺は言った。
「ここはおまえの部屋だ。戻っていい」
空気は揺れなかった。
新しい誓約にはならなかった。
だが、エリィの指から少し力が抜けた。
「私の、部屋」
「何度でも言う必要がありそうだな」
「ごめんなさい」
「謝るな」
「はい」
エリィは小さく息を吐いた。
それから、木板に視線を戻す。
「そこに、私の名前を」
「書く」
「悪魔さんが」
「他に書く奴がいない」
エリィは少し考えた。
そして、申し訳なさそうに言った。
「私、読めません」
俺は黙った。
「すみません」
「謝るな」
「はい」
「字を読めないのか」
「はい」
「自分の名前も」
「はい」
予想できたことだ。
飯を食う許可すらなかった少女が、字を教わっているはずがない。
それでも胸の奥がざらついた。
人間社会は、飯だけでなく文字まで配り忘れるらしい。
読めない子供は契約書も看板も行き先も読めない。
実に人間らしい。
不味い。
「知らないものは読めない」
俺は言った。
エリィが顔を上げる。
「読めないのは、悪い子だからではない」
「でも」
「教わっていないからだ」
「教わっていない」
「そうだ」
「読めるように、なりますか」
その声は小さかったが、ほんの少しだけ欲しがる色が混じっていた。
自分の名前を見て分かるようになりたい。
おかわりの次は文字か。
「なる」
俺は答えた。
「今すぐ全部は無理だが、自分の名前くらいなら覚えられる」
「私が」
「そうだ」
「できますか」
「できる」
言ってから、また少し身構えた。
空気は揺れない。
今のは誓約ではなく、事実の説明だ。たぶん。
エリィは胸元に手を当てた。
昨日、おかわりを覚えようとした時と同じ仕草だ。
「エリィ」
俺は木板を机代わりの小卓に置き、指先に黒い魔力を集めた。
インクの代わりだ。
ただ黒いだけでは面白くないので、少し青を混ぜる。
青いリボンよりは暗く、青い靴紐よりは深い色。
「この音を、字にする」
俺は板に文字を書いた。
エリィ。
板の上に、三つの文字が並んだ。
俺は乾かし、魔法で定着させる。
黒に近い青の文字。
木肌の上で、静かに光を吸っている。
エリィは息を止めたようにそれを見ていた。
「これが」
「エリィ」
「私」
「おまえの名前だ」
エリィはそっと手を伸ばした。
途中で止まる。
「触っても」
「いい」
エリィの指先が、文字の端に触れた。
かすかに震えながら、自分の名前をなぞる。
「三つ、あります」
「文字が三つだ」
「私は、三つですか」
「違う」
「違いますか」
「違う。名前を分けて書くと、こうなるだけだ」
「分ける」
「音を形にしている」
「音」
「エ、リ、ィ」
俺が一つずつ区切って言うと、エリィは小さく口を動かした。
「エ、リ、ィ」
「そうだ」
「これが、私の名前」
「そうだ」
エリィはもう一度、文字をなぞった。
読めてはいない。
まだ形を覚えているだけだ。
だが、最初はそれでいい。
灰色の奥に、淡い金色が滲んだ。
たかが木板だ。
たかが名前だ。
それを扉にかけるだけで、またこの色が出る。
優秀なのだが、俺はその金色を見て、なぜか満足しそうになった。
まずい。
この金色、最近やけに胃に優しい。
***
名前札を扉につける段階で、エリィはまた固まった。
部屋の中で持っている分には、まだよかったらしい。
だが、俺が立ち上がり、扉の外側へ向かった瞬間、エリィの呼吸が浅くなった。
俺は足を止めた。
「やめるか」
エリィは慌てて首を横に振る。
「いえ」
「嫌なら今はつけない」
「嫌では」
そこでまた止まる。
嫌ではない。
だが、まだその言葉は出てこないまま、布団を握る手だけが白くなる。
俺は名前札を持ったまま、扉の手前に戻った。
「では、練習する」
「練習」
「まず扉の内側に置く」
俺は名前札を扉の内側にそっと当てた。
金具はまだ固定しない。
「何か起きたか」
エリィは真剣な顔で札を見つめた。
「……何も」
「そうだ。札を扉に置いても、何も起きない」
「はい」
「次は、扉の外側に持っていく」
俺は扉を少し開け、名前札を廊下側へ出した。
エリィの肩が跳ねる。
「何か起きたか」
少し間があった。
「悪いことは」
「起きていない」
「はい」
「誰か来たか」
「来ていません」
「リボンは取られたか」
「あります」
「靴は」
「あります」
俺は扉の外に出て、廊下側から名前札を見せた。
「ここにつける。外といっても、屋敷の廊下だ」
「はい」
「屋敷の外ではない」
「はい」
「見えるのは俺とおまえだけだ」
「悪魔さんも、見るんですか」
「見る」
エリィは少し考えた。
「悪魔さんが見るなら」
「なら?」
「……分かっても、いいです」
俺は危うく名前札を落としかけた。
やめろ。
そういうことを言うな。
悪魔の手元が狂う。
俺は咳払いした。
「当然だ。俺はこの部屋を間違えない」
「はい」
「だが、札があれば、おまえもそのうち分かる」
「私も」
「字を覚えればな」
「覚えます」
小さな声だった。
おかわりより少し弱いが、同じ方向の言葉だ。
俺は扉に金具をつけた。
名前札を掛ける。
木板が小さく揺れ、やがて止まった。
エリィ。
扉の外側に、その名前が置かれた。
廊下の薄い光の中で、黒青の文字が静かに見える。
豪華でも派手でもない、ただの木板だ。
だが、それは確かに、この部屋が空き部屋ではないことを示していた。
エリィの部屋。
「ついた」
俺が言うと、エリィはベッドの端から身を乗り出した。
まだ腹が重いのか、動きは慎重だ。
俺は手を貸そうとして、やめた。
エリィは自分で靴を履いた。
青い靴紐はまだ結べないので、そこだけ俺が結ぶ。
「立てるか」
「はい」
「腹は」
「少し、重いです」
「ならゆっくりでいい」
エリィはベッドから降り、扉まで歩いた。
扉の前で立ち止まり、外側に掛かった名前札を見上げる。
「見えるか」
「はい」
「読めるか」
エリィは少し困った顔をした。
「まだ、読めません」
「だろうな」
「でも」
エリィは指先で、自分の胸の前に小さく文字の形をなぞった。
「エ、リ、ィ」
俺は黙った。
「合っていますか」
「合っている」
「これが、私の部屋ですか」
「そうだ」
「名前が、ついても」
「おまえの部屋だ」
「名前が、見えても」
「おまえの部屋だ」
「私が、戻っても」
「おまえの部屋だ」
エリィは目を伏せた。
長いまつげが震える。
泣くかと思った。
だが、泣かなかった。
最近、泣きそうで泣かない時間が増えている。
それが良いことなのか、泣けないだけなのか、まだ判断はつかない。
ただ、彼女の色に、淡い金が少し残った。
「……すごいです」
「名前札がか」
「はい」
「ただの板だ」
「でも、私がいます」
俺は言葉を失った。
でも、私がいます。
名前札一枚で、そこまで言うのか。
いや、エリィにとってはそうなのだろう。
いないもののように扱われてきた。
邪魔なもの。
弱いもの。
役に立たないもの。
名前で呼ばれる時は、たぶん命令か叱責か暴力の前だった。
その名前が、今は扉に掛かっている。
ここに戻っていいという印として。
俺は腕を組んだ。
よろしい。
非常によろしい。
存在の固定。
居場所の明示。
幸福と安心の定着。
計画としては完璧だ。
なのに、どうして俺は今、収穫よりも先に、名前札の金具が曲がっていないか心配しているのか。
まずい。
金具の角度が気になる悪魔。
悪魔の格が下がり続けている。
「少し、外から見てみるか」
俺が言うと、エリィは廊下を見た。
布団へ戻りたい顔もしている。
名前札をもっと見たい顔もしている。
やがて、小さく頷いた。
「少しなら」
俺は扉を開けたまま廊下へ出た。
エリィも一歩だけ外へ出て、すぐに振り返る。
扉。
名前札。
エリィ。
「閉めない」
「はい」
俺たちは三歩だけ廊下を進んだ。
たった三歩。
それでも、エリィは何度も後ろを見た。
「どれが、おまえの部屋だ」
エリィは少し息を止め、それから名前札を指さした。
「あそこです」
「読めるのか」
「読めません。でも、形を覚えました」
「よろしい」
頬にほんの少し色が差す。
「できましたか」
「できた」
その言葉に、金色がまた薄く揺れた。
できたと言うと光る。
悪魔の目に優しい。
エリィは部屋へ戻る直前に、ほんの少し立ち止まった。
「戻って、いいですか」
「戻るための名前札だと言っただろう。戻れ」
エリィは部屋へ入って、振り返った。
「戻りました」
廊下を三歩歩いて戻っただけだ。
だが、エリィにとっては、本当に戻ったのだろう。
「ああ。戻ったな」
エリィはほっとした顔で、もう一度、扉の外の名前札を見た。
「ここに、私がいます」
「そうだ」
「でも、取られません」
「取られない」
「売られません」
「売らない」
「怒られません」
「怒らない」
外では違う。
世の中には、名前を利用する者がいくらでもいる。
悪魔の俺が言うのだから間違いない。
だが、だからこそ、この屋敷では名前を傷つけるために使わない場所にする必要がある。
素材管理上だ。
素材管理上、名前の安全な使用環境を整えているだけである。
言葉にすると、さらに駄目だった。
***
その日の午後、エリィは何度も名前札を見た。
食事の前に見る。
食事の後に見る。
手を洗いに行く前に見る。
戻ってきてまた見る。
読めない。
読めないが、形は覚え始めている。
俺は机で別の羊皮紙を広げ、エリィの名前を大きく書いた。
練習用である。
悪魔が文字練習用の見本を書く。
もう好きにしてくれ。
「指でなぞれ」
「汚れます」
「練習用だ。紙くらい減らせ」
「いいんですか」
「使うためにある。使わないと紙が悲しむ」
何を言っているのだ俺は。
紙の情緒を語る悪魔。
終わっている。
だが、エリィはなぜか納得した顔で、指先を紙に置いた。
「エ」
「エ」
「リ」
「リ」
「ィ」
「ィ」
途中で線から外れ、慌てて戻る。
「間違えました」
「線から外れただけだ。悪くない」
「もう一度、しても」
「いい」
エリィはもう一度、自分の名前をなぞった。
重くなってもよい。
腹が重くてもよい。
名前が扉にあってもよい。
紙を使ってもよい。
一つずつ、本当に一つずつだ。
「悪魔さん」
「なんだ」
「字が読めると、帰りやすいですか」
俺は少し考えた。
看板も道も、危ない場所に入るなという札も、読めれば少しは分かる。
「帰りやすい」
エリィは扉を見た。
少し開いた隙間の向こうに、名前札の端が見える。
「では、読めるようになりたいです」
なりたい。
欲しい、とは少し違う。
しかし、これも欲求だ。
自分の名前を読めるようになりたい。
帰る場所を自分で分かるようになりたい。
「なら、少しずつ覚えろ」
俺の声は、思ったより柔らかかった。
まずい。
声帯まで汚染されている。
エリィは頷き、もう一度、紙の上の名前をなぞった。
エ、リ、ィ。
細い指が、自分を確かめるように動いていた。
***
夕方になって、王都の鐘が遠くで鳴った。
神殿区の鐘は、相変わらず音だけは綺麗だった。
エリィは窓の外を少し見て、それからすぐ扉のほうを見た。
名前札は廊下側にあるので、部屋の中からは全部は見えない。
ただ、扉が少し開いているため、木板の端だけが見える。
「見たいなら、見に行け」
俺が言うと、エリィは慌ててこちらを見た。
「いいんですか」
「自分の部屋の札だ」
「自分の」
「何度目だ」
「すみま……」
エリィは途中で口を閉じた。
謝らなかった。
エリィは椅子から降り、扉の外に立った。
名前札を見上げる。
薄銀の髪。
青いリボンは、今日はまだ結ばず、手首に軽くかけている。
枕元から完全には離れられないが、握りしめ続けてもいない。
今はそれでいい。
「エ、リ、ィ」
廊下で、小さな声がした。
読んでいるのではない。
覚えた音を、形に合わせているだけだ。
だが、エリィはその文字を見て、自分の名前を口にした。
俺はしばらく黙っていた。
名前を呼ばれた時、エリィはいつも少し身を固くしていた。
命令されるかもしれないから。
捨てられる前に呼ばれるのかもしれないから。
だが今、エリィは扉の札を見ながら、自分で自分の名前を口にしている。
ここに戻るために。
俺は机の上の作戦表を見た。
追記しようとして、やめた。
完全に成長記録になる。
駄目だ。
今日はもう作戦表を閉じよう。
これ以上書くと、悪魔として取り返しがつかない。
俺は羊皮紙を裏返した。
「悪魔さん」
廊下から声がした。
「なんだ」
「この部屋は、エリィです」
「正確には、エリィの部屋だ」
「エリィの部屋」
「そうだ」
エリィは少しの間、廊下に立っていた。
それから、隣の部屋の扉を見た。
俺が昨夜から椅子を鳴らしていた部屋だ。
俺がいる部屋。
エリィの部屋の隣。
その扉には、何も掛かっていない。
エリィは名前札と、隣の扉を見比べた。
嫌な予感がした。
悪魔の勘はよく当たる。
エリィはゆっくりこちらを振り返った。
「悪魔さんの部屋は」
「ない」
「名前札」
「必要ない」
即答した。
早すぎた。
エリィは瞬きをした。
「必要、ないんですか」
「俺は迷わない」
「でも、私が」
そこで、エリィは言葉を探した。
いつものように、胸元に手を当てる。
自分の中にあるものを、壊さないように取り出そうとしている。
「私が、悪魔さんの部屋を探す時に」
俺は黙った。
「名前があったら、分かります」
まずい。
来た。
名前の話が、こちらへ来た。
「俺の部屋など、隣だ」
「はい」
「扉も一つしか違わない」
「はい」
「音も立てる」
「はい」
エリィは頷いた。
それでも、視線は俺ではなく、隣の扉へ向いている。
「でも、名前があると」
小さな声。
「帰ってきてほしい時に、呼べる気がします」
俺の喉が、ほんの少し詰まった。
呼べる。
名前は、帰るための印だ。
俺がそう言った。
ついさっき、自分で言った。
扉に名前を書くのは、隠すためではなく帰るためだと。
なら、エリィが俺の名前を考えるのは自然だった。
自然すぎて、逃げ場がない。
悪魔の名前。
真名、呼び名、契約、支配、誓約。
そのあたりは非常に面倒で、非常に危険だ。
悪魔にとって名前はただの音ではない。
人間が軽々しく触れていいものではない。
そう説明するべきだ。
今すぐ。
きっぱり。
悪魔として。
エリィは隣の扉を見たまま、こちらに聞いた。
「悪魔さんのお名前も、書きますか」
俺は、手の中の羽ペンを握ったまま、今日一番長く沈黙した。