不憫少女を死ぬほど甘やかした結果 作:重い女すこ
俺は、手の中の羽ペンを握ったまま、今日一番長く沈黙した。
悪魔さんのお名前も、書きますか。
エリィはそう言った。
廊下に掛かった自分の名前札を見て、それから隣の扉を見て、当然のようにそう言った。
当然ではない。
少なくとも悪魔にとっては、まったく当然ではない。
名前。
それは、便利なものだ。
契約書の一番上に書かせる。
呪いの核に刻む。
召喚の線に混ぜる。
誓約の対象を固定する。
人間を探し、縛り、呼び、壊す。
俺は千年、名前をそういう道具として扱ってきた。
農夫の名を聞き出し、商人の名を契約書に書かせ、貴婦人の名を鏡の裏に刻み、聖騎士の名を誓いの文言ごと腐らせた。
名前はただの音ではない。
悪魔にとっては、鍵であり、刃であり、鎖である。
その鍵を。
その刃を。
その鎖を。
自分の名前をまだ読めない少女が、俺の扉に掛けようとしている。
まずい。
非常にまずい。
「書かない」
俺は言った。
短すぎた。
エリィの肩が、小さく跳ねた。
隣の扉を見ていた目が、すぐに床へ落ちる。
布の端を握る指に力が入った。
「……はい」
違う。
今の反応は、違う。
あれは納得ではない。
拒まれたと思った顔だ。
俺は額を押さえた。
悪魔が言葉の選び方を反省している。
終わっている。
だが、これは俺の言い方が悪い。
「今のは、呼ぶなという意味ではない」
エリィが顔を上げた。
「呼ぶな」
「違う。名前を扉に書かない、という意味だ」
「悪魔さんを、呼んでもいいんですか」
「いい」
返事が早かった。
早すぎた。
俺は咳払いした。
「今まで呼んでいただろう」
「はい」
「それを急に禁止したわけではない」
「でも、お名前は」
「名前は危ない」
エリィは瞬きをした。
「危ない」
「そうだ」
「名前が、ですか」
「悪魔の名前は、ただの名前ではない。特に真名は、契約や召喚や呪いに使える」
「まな」
「本当の名だ」
言ってから、俺は少し考えた。
本当の名。
では、俺の本当の名とは何だ。
悪魔としての真名。
人間だった頃の名。
千年の間に捨てた呼び名。
契約者たちが勝手に呼んだ忌み名。
いくつかある。
あるが、そのどれも、エリィの扉に掛けるものではない。
「それを人間に渡すのは、刃物を渡すようなものだ」
「刃物」
「使い方を知らないと、自分も相手も傷つく」
エリィは自分の手を見た。
細い指。
まだ紙の上の自分の名前をなぞるだけで震える指。
「私が、悪い使い方をするからですか」
「違う」
俺は即答した。
「おまえが悪いからではない。刃物が危ないからだ」
「でも、私が」
「おまえが悪いからではない」
二度言った。
言っておかないと、この少女はすぐ自分が悪いことにする。
名前の危険すら、自分が悪いから扱えないのだと思う。
人間社会、教育の失敗例を毎日提出してくるな。
エリィは唇を引き結び、こくりと頷いた。
まだ完全には納得していない顔だ。
だが、少なくとも「自分が悪いから拒まれた」と即断するところからは少し戻ってきた。
「では」
エリィは隣の扉を見た。
「悪魔さんの部屋には、帰るための印は、ないんですか」
俺は黙った。
そこか。
エリィにとって、名前札は名前を飾る板ではない。
帰るための印だ。
俺がそう言った。
そう教えた。
なら、隣の部屋に印がないことは、エリィには不安なのだ。
俺がどこへ戻るのか。
どこにいるのか。
どこを呼べばいいのか。
そういう話になる。
「俺は迷わない」
「はい」
「自分の部屋くらい分かる」
「はい」
エリィは素直に頷いた。
しかし、視線は隣の扉から動かない。
「でも、私が」
「おまえが?」
「悪魔さんを探す時に、間違えるかもしれません」
俺は扉を見た。
エリィの部屋。
隣の部屋。
廊下。
たしかに、部屋は似ている。
百年前の貴族の趣味で、同じような扉が並んでいる。
人間の貴族は、なぜすべての扉を似せたがるのか。
罠か。
悪魔の城でももう少し分かりやすい。
「隣だ」
「はい」
「一つ隣だ」
「はい」
「扉も少し開けておく」
「はい」
エリィは頷く。
それでも、まだ少し不安そうだった。
分かっている。
一つ隣だから平気、というのは、俺の理屈だ。
エリィの理屈ではない。
隣の部屋に音があるか。
扉が開いているか。
戻ったと言われるか。
名前が見えるか。
安心の条件は、俺が思うより細かい。
面倒だ。
非常に面倒だ。
だが、素材管理上、安心条件の把握は重要である。
これも作戦。
完全に作戦。
たぶん。
「印なら作る」
俺が言うと、エリィは顔を上げた。
「印」
「名前ではない」
「お名前ではなく」
「そうだ。俺の名ではなく、この部屋に俺がいることを示す印だ」
エリィは少し考えた。
「それは、危なくないですか」
「危なくない」
「私が見ても」
「いい」
「呼んでも」
そこまで言って、エリィは口を閉じた。
呼んでもいいですか、と言いかけて、怖くなったのだろう。
「呼ぶ時は、今まで通りでいい」
俺は先に言った。
「悪魔さん、でいい」
エリィの目がわずかに揺れた。
「悪魔さん」
「そうだ」
「それは、お名前ではないんですか」
「種族名に敬称をつけただけだ」
「しゅぞく」
「俺が悪魔だから、悪魔さん」
「はい」
「雑な呼び名だが、今はそれでいい」
エリィは胸元に手を当てた。
いつもの、自分の中に言葉をしまう仕草だ。
「今は、それでいい」
「そうだ」
「悪魔さんと呼んでも、怒られませんか」
「怒らない」
「何度も呼んだら」
「用があるなら呼べ」
「用が、分からない時は」
俺は少し詰まった。
用が分からない。
つまり、不安だけがあって、何を言えばいいか分からない時。
呼びたいが、呼ぶ理由が分からない時。
この少女は、呼ぶことにも理由と許可を探す。
「不安なら呼べ」
俺は言った。
言ってから、空気を見た。
揺れてはいない。
誓約にはなっていない。
たぶん。
「ただし、呼ばれたら――」
そこまで言いかけて、俺は飲み込んだ。
危ない。
今のは危なかった。
呼ばれたら向かう。
そんなことを言えば、誓約になる。
黒い鎖が俺の足首に絡みつくようなものだ。
それはまだ早い。
いや、早い遅いの問題ではない。
悪魔が人間の少女に呼び出し権を与えるなど、普通に考えて異常である。
普通に考えなくても異常である。
俺は言葉を選び直した。
「この屋敷の中で声が聞こえたら、返事をする」
エリィが瞬きをした。
「返事」
「そうだ。まずはそれだけだ」
「来る、ではなく」
「返事だ」
俺は自分で確認するように言った。
「呼べば来る、ではない。声が聞こえたら返事をする」
「はい」
「分かったか」
「はい」
エリィは頷いた。
それから、少しだけ考えて。
「返事があると、分かります」
小さく言った。
「何が」
「悪魔さんが、いることです」
俺は黙った。
なるほど。
そう来るか。
返事。
ただの返事。
人間同士なら、どうということもない。
呼ばれたら答える。
いるならいると言う。
だが、エリィにとっては、それが存在確認になる。
消えていない。
怒っていない。
捨てていない。
隣にいる。
そういう証明になる。
俺は腕を組んだ。
よろしい。
非常によろしい。
安心の条件をまた一つ把握した。
返事。
呼び名。
隣の印。
作戦表に書けば、完全に子育て記録である。
書かない。
今日は絶対に書かない。
***
黒い印を作ることにした。
名前札と同じ木板ではなく、もう少し小さい。
手のひらの半分ほどの薄い板を、黒く染める。
悪魔の魔力を薄く流し、表面に傷がつきにくくする。
派手な術式は入れない。
余計な魔力が漏れれば、神殿あたりの面倒な連中に嗅ぎつけられる。
名前ではない。
契約ではない。
呪いでもない。
ただの印だ。
俺は板の中央に、黒より少し濃い線を一本引いた。
羽のようにも見える。
爪痕のようにも見える。
角の影のようにも見える。
悪魔を示す印としては十分だ。
たぶん。
エリィは俺の隣で、作業をじっと見ていた。
膝の上に青いリボンを置き、時々自分の名前札のほうを見る。
「黒いです」
「俺の印だからな」
「悪魔さんは、黒いです」
「外套も髪も黒いからな」
俺は黒い印の端を丸めた。
名前札の時と同じく、角を残さない。
引っかかったら危ない。
扉に掛けるだけの印に、なぜここまで丁寧に加工しているのか。
素材管理上。
そう、素材管理上である。
「これは名前ではない」
俺は黒い印を持ち上げた。
「だが、この印が掛かっている部屋には、俺がいる」
「悪魔さんの部屋」
「正確には、今俺が使っている隣の部屋だ」
「悪魔さんの部屋」
「……まあ、それでいい」
エリィの色に、淡い金が滲んだ。
部屋を「悪魔さんの部屋」と呼べるだけで光るのか。
どれだけ世界に分かりやすい印が足りなかったのだ、この少女は。
俺は扉の外へ出た。
エリィもついてくる。
自分の部屋の扉を出る時、エリィは一度、自分の名前札を見た。
「エ、リ、ィ」
小さく口にする。
まだ読めてはいない。
だが、形と音を合わせるのが少し早くなっている。
「合っている」
俺が言うと、エリィはほっとした顔をした。
「はい」
俺は隣の扉に、黒い印を掛けた。
木板が、かすかに揺れる。
エリィの名前札より小さい。
文字はない。
ただ、黒い線だけがある。
「ついた」
エリィはそれを見上げた。
「読めません」
「読まなくていい。印だからな」
「これは、悪魔さん」
「俺がいる部屋の印だ」
「悪魔さんの印」
「そうだ」
エリィは自分の名前札と、黒い印を交互に見た。
エリィ。
黒い印。
二つの扉。
隣り合う部屋。
それだけのことなのに、廊下の空気が少し変わった気がした。
気のせいだ。
ただの木板二枚で、屋敷の意味が変わるはずがない。
ない、はずだ。
「これで」
エリィは、黒い印を見たまま言った。
「悪魔さんの部屋を、間違えません」
「隣だからな」
「はい」
「隣だが、まあ、印があれば分かりやすい」
「はい」
エリィは少しだけ肩の力を抜いた。
名前札を掛けた時ほど強い金色ではない。
だが、確かに安心の色が混じる。
よろしい。
非常によろしい。
名前を渡さず、印だけで安心を少し増やした。
これは上手い。
悪魔的に見ても、非常に巧みな妥協である。
ただし、やっていることは隣室の表札作りである。
悪魔としての威厳は、もうどこかへ旅に出た。
***
呼ぶ練習をすることになった。
いや、正確には、俺がそう提案した。
エリィが黒い印を見て、呼びたそうな顔をしたからだ。
呼びたそうな顔。
そんなものまで分かるようになっている自分が怖い。
魔眼で欲望や恐怖を見るより、エリィの眉の動きを読むほうが難しい。
そして最近、そちらの精度が上がっている。
まずい。
別方向の技能が育っている。
「練習する」
俺が言うと、エリィは目を丸くした。
「呼ぶ練習ですか」
「そうだ」
「呼ぶことにも、練習が」
「おまえには必要そうだ」
「はい」
素直に納得された。
まあ、実際そうなのだろう。
食べる練習。
休む練習。
欲しがる練習。
名前を読む練習。
呼ぶ練習。
生活、練習項目が多すぎる。
人間は生きるだけで履修科目が多い。
「俺は隣の部屋に入る」
「はい」
「おまえは自分の部屋の入口に立つ」
「はい」
「黒い印を見て、呼べ」
「はい」
エリィは頷いた。
頷いたが、顔が真剣すぎる。
これから悪魔召喚の儀式でも始めるような顔だ。
まあ、悪魔を呼ぶ練習なので、間違ってはいない。
俺は隣の部屋へ入った。
扉は少し開けておく。
完全に閉じると、今はまだ負荷が高い。
部屋の中から、廊下に立つエリィの気配が分かった。
軽い。
小さい。
けれど、以前より少しだけ呼吸が深い。
「呼べ」
俺は言った。
沈黙。
エリィは黒い印を見ている。
唇が動く。
だが、声が出ない。
「怒らない」
先に言う。
さらに沈黙。
やがて、廊下から、とても小さな声がした。
「……悪魔さん」
「なんだ」
俺は返事をした。
エリィの息が、ひゅっと細くなった。
「返事が」
「した」
「はい」
「聞こえたか」
「はい」
「俺も聞こえた」
「私の声が」
「そうだ」
廊下で、エリィが小さく動いた。
黒い印に触れようとして、途中で止めた気配がする。
「もう一度」
俺は言った。
「いいんですか」
「練習だ」
エリィは少し息を吸った。
「悪魔さん」
「なんだ」
さっきより、ほんの少しだけ声が大きい。
「二回、呼びました」
「二回返事をしたな」
「怒っていませんか」
「怒っていない」
「面倒では」
「面倒だ」
エリィが固まった。
しまった。
正直に言いすぎた。
「訂正する。生活全般が面倒なだけで、おまえが呼んだことに怒っているわけではない」
「生活全般」
「飯を作り、扉を開け、名前札を作り、印を掛け、返事をする。面倒だ」
「すみま――」
「だが、やる」
エリィが口を閉じた。
「謝るな。必要だからやっている」
「必要」
「素材管理上だ」
「そざい」
「今のは忘れろ」
エリィは少しだけ困ったような顔をしている気配がした。
最近、俺の言葉に困る余裕が出てきた。
よろしい。
困るというのは、怯えるだけよりずっと人間らしい。
「もう一度」
俺が言うと、廊下から返事があった。
「はい」
少し間を置いて。
「悪魔さん」
「なんだ」
今度は俺の返事が早すぎた。
呼ばれる前から構えていた。
エリィはそれに気づいていない。
黒い印を見ながら、ほっとしたように息を吐いている。
しかし俺は気づいた。
自分が、返事を待っていたことに。
まずい。
非常にまずい。
悪魔が呼ばれるのを待っている。
呼ばれたら返事をするために、喉の準備をしている。
何だそれは。
召使いか。
いや、召使いならまだ業務である。
俺は業務ではない。
計画である。
極上絶望熟成作戦である。
作戦に返事待機は必要か。
必要かもしれない。
安心条件だから。
素材管理上。
便利な言葉だな、素材管理上。
最近、万能調味料みたいになっている。
***
少しだけ距離も試した。
エリィを廊下の三歩先に立たせる。
自分の名前札からも、黒い印からも、少し離れた場所だ。
三歩。
たった三歩。
だが、エリィは何度も自分の部屋の扉を振り返った。
「どれがおまえの部屋だ」
「あそこです」
「俺がいる場所は」
「あそこです」
「呼ぶ時は」
「悪魔さん」
「よろしい。呼べ」
エリィは息を吸った。
「悪魔さん」
「なんだ」
廊下に立つエリィの肩が、少し下がった。
「聞こえました」
「俺も聞こえた」
「三歩でも」
「三歩でもだ」
「三歩は、遠いです」
俺は少し黙った。
三歩が遠い。
この少女にとっては、自分の扉から三歩離れるだけでも遠いのだ。
なら、黒い印が必要だ。
返事も必要だ。
名前はまだ渡せないが、呼び名は拒まない。
「三歩でも戻れた。三歩でも呼べた。できた」
エリィの色が、ふわりと金に揺れた。
「返事があると」
エリィは黒い印を見た。
「いなくなっていないと、分かります」
「今はな」
「今は」
「屋敷の中で聞こえる距離なら、返事をする。外や遠くにいる時は、まだ別だ」
「別」
「聞こえなければ返事はできない」
エリィは真面目に頷いた。
「聞こえない時は」
「その時のための方法は、また考える」
言ってから、俺は眉をひそめた。
黒い羽。
悪魔の身体の一部。
呼び鈴代わりに持たせれば、たしかに可能だ。
いや、まだ早い。
今日は返事までだ。
「また」
エリィはその言葉を小さく繰り返した。
「また、考えてくれますか」
「必要になればな」
「はい」
エリィは頷いた。
その声は、安心と怖さの間にあった。
必要になれば。
未来の話だ。
エリィには、未来の話がまだ怖い。
だが、それをまったく拒まなくなっている。
これは良い。
非常に良い。
幸福の伸びしろ。
安心の蓄積。
未来への小さな期待。
完璧だ。
計画は順調だ。
順調すぎて、俺の胸の奥がまた妙に軽くなる。
悪魔なのに、絶望を食っていないのに、空腹が少しだけ黙る。
まずい。
この金色、やはり胃に優しい。
***
部屋へ戻ってから、エリィは紙の上に書かれた自分の名前をもう一度なぞった。
エ、リ、ィ。
その横に、俺は新しく文字を書いた。
悪魔さん。
エリィは目を丸くした。
「それは」
「おまえが俺を呼ぶ時の言葉だ」
「悪魔さん」
「そうだ」
「お名前ではなく」
「名前ではない」
俺は強調した。
「これは呼び名だ」
「相手を呼ぶための言葉だ。真名ではない。契約にも使えない。おまえが持っていても危なくない。――なぞってみるか」
俺が言うと、エリィは指を止めた。
「触っても」
「いい。練習用だ」
「悪魔さんの文字を、私が触っても」
「呼び名だからな」
「危なくない」
「危なくない」
エリィはそっと指を置いた。
悪、魔、さ、ん。
一文字ずつ、ゆっくりなぞる。
「難しいです」
「おまえの名前より長い」
エリィはもう一度なぞった。
線から外れる。
戻る。
また外れる。
「間違えました」
「線から外れただけだ」
「悪くない」
「悪くない」
先に言われた。
俺は黙った。
エリィは紙を見たまま、少しだけ頬を赤くする。
「合っていますか」
「合っている」
「悪くないですか」
「悪くない」
「呼んでも」
「怒らない」
エリィは指先を紙から離した。
「悪魔さん」
「なんだ」
すぐ返事をしてしまった。
エリィは目を瞬かせた。
それから、小さく笑った。
笑った。
まだ薄い。
口元がほんの少し緩むだけの、笑いの手前のようなものだ。
だが、確かに怖がってはいなかった。
「返事が、あります」
「あるな」
「はい」
まずい。
その顔はまずい。
「悪魔さん」
「なんだ」
「何回まで、呼んでもいいですか」
俺は額を押さえた。
「回数制限はない」
「ない」
「用がないのに百回呼ばれたら、さすがに理由を聞く」
「百回」
「普通は呼ばない」
「普通」
エリィは真剣に考えている。
「三回は」
「許容範囲だ」
「十回は」
「理由を聞く」
「怒られますか」
「怒らない。理由を聞く」
「理由が、不安だったら」
「不安だと言え」
「言えなかったら」
また難問である。
不安だと言えない時。
呼ぶ理由も分からない時。
ただ、返事が欲しい時。
この少女なら、たぶんある。
「その時は、呼んだあとで黙っていればいい」
「黙って」
「俺が聞く。何かあったか、と」
「それで」
「首を振るなり、頷くなりしろ」
「声が出なくても」
「頷くくらいできるならな。無理なら、無理な顔をしろ」
「無理な顔」
「おまえはよくする」
エリィは少し困った顔をした。
「今ですか」
「それだ」
エリィは自分の頬に手を当てた。
少しだけ、金色が揺れた。
困っている。
だが、怯えてはいない。
俺は腕を組んだ。
これは教育ではない。
素材管理である。
素材の表情変化を観察し、最適な返答を選んでいるだけである。
言い訳の味が薄くなってきた。
そろそろ別の調味料が必要だ。
***
夕方、王都の鐘が鳴った。
神殿区の鐘は今日もよく響く。
慈愛だの救済だのを掲げておきながら、鐘の裏側で孤児が残飯を奪い合う。
音だけは綺麗なので、余計に腹が立つ。
エリィは椅子に座ったまま、机の上の練習紙と、扉の外にある二つの印を何度も見比べていた。
エリィの名前札。
隣の黒い印。
物が増えた。
言葉も増えた。
呼び方も増えた。
よろしい。
非常によろしい。
理屈としては完璧だ。
なのに、俺は黒い印の位置が少し斜めなのではないかと気にしている。
俺は結局、立ち上がって廊下へ出た。
黒い印を指先で直す。
背後で、エリィが部屋から顔を出した。
「悪魔さん」
「なんだ」
返事をしたあと、俺は自分で固まった。
早い。
やはり早い。
エリィは俺を見て、それから黒い印を見た。
「直していますか」
「少し曲がっていた」
「曲がっていると、悪いですか」
「悪くはない」
「でも、直すんですか」
「見た目が気になる」
エリィは黒い印を見上げた。
それから、自分の名前札を見た。
「まっすぐだと、見つけやすいですか」
「そうだな」
「帰りやすいです」
「そうだ」
帰りやすい。
俺は黒い印から手を離した。
板はまっすぐになった。
ただそれだけだ。
それなのに、廊下に二つの印が並んでいることが、妙に落ち着かない。
「悪魔さん」
「なんだ」
また即答した。
エリィは少しだけ目を丸くした。
そして、黒い印を見たまま言った。
「返事、早いです」
俺は沈黙した。
気づかれた。
「……気のせいだ」
「そうですか」
「そうだ」
俺は話題を変えることにした。
「夕食にする」
「はい」
「その前に手を洗え」
「はい」
エリィは素直に頷いた。
自分の部屋から一歩出る。
名前札を見る。
黒い印を見る。
そして、俺を見る。
「手を洗って、戻ってきます」
俺は一瞬、返事が遅れた。
戻ってきます。
今までは、戻っていいですか、だった。
戻りました、だった。
今日は、戻ってきます。
未来の動作を、自分で言った。
「ああ」
俺は言った。
「戻ってこい」
空気は揺れなかった。
誓約ではない。
ただの返事だ。
エリィは手洗い場へ向かった。
足音は軽い。
まだ弱い。
だが、廊下の途中で一度振り返り、自分の名前札と黒い印を確認するだけで、先へ進めた。
三歩より、少し遠い。
俺は廊下に立ったまま、それを見ていた。
よろしい。
非常によろしい。
安心の仕様がまた増えた。
名前札。
黒い印。
呼び名。
返事。
悪魔の作戦としては、あまりにも生活密着型である。
***
夕食のあと、エリィは少し眠そうにしていた。
今日は名前札を見て、黒い印を見て、呼ぶ練習をして、文字をなぞった。
体力の少ないエリィには、十分すぎる量だったのだろう。
俺は早めに休ませることにした。
「今日はもう寝ろ」
「はい」
エリィはベッドに向かった。
靴を脱ぎ、揃える。
青い靴紐はまだ自分では結べないが、ほどく時は少し手伝えばできるようになってきた。
小さな進歩。
小さすぎるが、エリィにとっては大きい。
青いリボンは、枕元に置いた。
今日は握りしめず、置いたあとに一度だけ指で触れる。
それから手を離す。
よろしい。
俺は扉を少し開けておいた。
隣の扉には黒い印。
エリィの扉には名前札。
「隣にいる」
「はい」
「扉は少し開けておく」
「はい」
「音も立てる」
「はい」
エリィは布団の中で頷いた。
それから、少し迷って、俺を見た。
「悪魔さん」
「なんだ」
返事をする。
今度も早かった。
「夜に、呼んでも」
「聞こえたら返事をする」
「寝ていたら」
「俺はあまり寝ない」
「そうなんですか」
「悪魔だからな」
エリィは少し考えた。
「悪魔さんは、眠くならないんですか」
「人間ほどではない」
「疲れませんか」
「この程度では疲れない」
「でも、昨日も音を立てていました」
俺は止まった。
気づいていたのか。
いや、当然か。
エリィはその音を聞いて眠ったのだ。
「必要だったからだ」
「私が、怖かったからですか」
「そうだ」
「悪魔さんは、怖くないんですか」
「何が」
「眠らないこと」
俺は少し笑いそうになった。
眠らないことが怖いか。
悪魔にとっては、そんなものどうでもいい。
「怖くない」
「寒くないですか」
「寒くない」
「お腹は」
「空いていない」
嘘ではない。
少なくとも、今は。
絶望を喰っていないのに、腹の奥は妙に静かだった。
エリィが名前札を見て、黒い印を見て、呼んで、返事を聞いて安心した。
それだけで、空腹が少しだけ薄れている。
認めたくない。
絶対に認めたくない。
「悪魔さん」
「なんだ」
「悪魔さんが呼んだら、私も返事をします」
俺は、しばらく何も言えなかった。
今までエリィの返事は、命令への反射だった。
はい。
ごめんなさい。
すみません。
分かりました。
だが今のは違う。
俺が呼んだら、返事をする。
怖がらせないために。
安心させるために。
まずい。
これはまずい。
「……俺は悪魔だぞ」
「はい」
「人間の子供の返事で安心するような生き物ではない」
「そうなんですか」
「そうだ」
「好きにしろ」
俺は言った。
素っ気なく。
できるだけ雑に。
エリィは、それでも少し安心した顔をした。
「はい」
そして、目を閉じかける。
眠いのだろう。
呼ぶ練習は、彼女にとって思った以上に力を使ったらしい。
「悪魔さん」
「なんだ」
「今日は、黒い印があります」
「あるな」
「私の名前札もあります」
「ある」
「呼んだら、返事がありました」
「あった」
「……よかったです」
小さな声。
布団に沈むような声。
「おやすみ、なさい」
俺は一瞬、返事に迷った。
悪魔が、おやすみに返事をする必要はない。
ないが、返事をすると言ったばかりだ。
「ああ。寝ろ」
エリィは目を閉じた。
しばらくして、細い寝息が始まる。
俺は扉の前に立ったまま、その寝息を聞いていた。
名前は渡していない。
真名も、前世の名も、悪魔としての名も。
渡したのは、黒い印と、悪魔さんという呼び名を拒まないことだけだ。
呼べば来るとも言っていない。
この屋敷の中で聞こえたら返事をする。
たったそれだけだ。
それだけで、エリィは安心して眠った。
俺は隣の部屋へ移り、椅子を少し鳴らした。
黒い印の掛かった扉の内側。
そこにいる音。
寝息は乱れない。
よろしい。
非常によろしい。
計画は順調である。
幸福を積み。
所有物を増やし。
名前を覚えさせ。
呼び名を許し。
返事を与える。
完璧だ。
完璧に、極上絶望熟成作戦は進んでいる。
問題があるとすれば。
「悪魔さん」
眠っていると思ったエリィの声が、隣から小さく聞こえた。
「なんだ」
俺は即座に返事をした。
考えるより先に。
喉が勝手に動いた。
隣の部屋で、エリィがほっと息を吐く気配がした。
たぶん、夢と現実の間で、黒い印と返事を確かめたのだろう。
俺は自分の喉に手を当てた。
名前は渡していない。
呼べば来るとも言っていない。
ただ、返事をしただけだ。
それだけなのに。
「……まずい」
今の返事、早すぎた。