不憫少女を死ぬほど甘やかした結果   作:重い女すこ

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第七話

 俺は、手の中の羽ペンを握ったまま、今日一番長く沈黙した。

 

 悪魔さんのお名前も、書きますか。

 

 エリィはそう言った。

 廊下に掛かった自分の名前札を見て、それから隣の扉を見て、当然のようにそう言った。

 

 当然ではない。

 少なくとも悪魔にとっては、まったく当然ではない。

 

 名前。

 

 それは、便利なものだ。

 契約書の一番上に書かせる。

 呪いの核に刻む。

 召喚の線に混ぜる。

 誓約の対象を固定する。

 人間を探し、縛り、呼び、壊す。

 

 俺は千年、名前をそういう道具として扱ってきた。

 農夫の名を聞き出し、商人の名を契約書に書かせ、貴婦人の名を鏡の裏に刻み、聖騎士の名を誓いの文言ごと腐らせた。

 

 名前はただの音ではない。

 悪魔にとっては、鍵であり、刃であり、鎖である。

 

 その鍵を。

 その刃を。

 その鎖を。

 

 自分の名前をまだ読めない少女が、俺の扉に掛けようとしている。

 

 まずい。

 非常にまずい。

 

「書かない」

 

 俺は言った。

 

 短すぎた。

 

 エリィの肩が、小さく跳ねた。

 隣の扉を見ていた目が、すぐに床へ落ちる。

 布の端を握る指に力が入った。

 

「……はい」

 

 違う。

 今の反応は、違う。

 あれは納得ではない。

 拒まれたと思った顔だ。

 

 俺は額を押さえた。

 悪魔が言葉の選び方を反省している。

 終わっている。

 だが、これは俺の言い方が悪い。

 

「今のは、呼ぶなという意味ではない」

 

 エリィが顔を上げた。

 

「呼ぶな」

「違う。名前を扉に書かない、という意味だ」

「悪魔さんを、呼んでもいいんですか」

「いい」

 

 返事が早かった。

 早すぎた。

 

 俺は咳払いした。

 

「今まで呼んでいただろう」

「はい」

「それを急に禁止したわけではない」

「でも、お名前は」

「名前は危ない」

 

 エリィは瞬きをした。

 

「危ない」

「そうだ」

「名前が、ですか」

「悪魔の名前は、ただの名前ではない。特に真名は、契約や召喚や呪いに使える」

「まな」

「本当の名だ」

 

 言ってから、俺は少し考えた。

 本当の名。

 では、俺の本当の名とは何だ。

 

 悪魔としての真名。

 人間だった頃の名。

 千年の間に捨てた呼び名。

 契約者たちが勝手に呼んだ忌み名。

 

 いくつかある。

 あるが、そのどれも、エリィの扉に掛けるものではない。

 

「それを人間に渡すのは、刃物を渡すようなものだ」

「刃物」

「使い方を知らないと、自分も相手も傷つく」

 

 エリィは自分の手を見た。

 細い指。

 まだ紙の上の自分の名前をなぞるだけで震える指。

 

「私が、悪い使い方をするからですか」

「違う」

 

 俺は即答した。

 

「おまえが悪いからではない。刃物が危ないからだ」

「でも、私が」

「おまえが悪いからではない」

 

 二度言った。

 言っておかないと、この少女はすぐ自分が悪いことにする。

 名前の危険すら、自分が悪いから扱えないのだと思う。

 

 人間社会、教育の失敗例を毎日提出してくるな。

 

 エリィは唇を引き結び、こくりと頷いた。

 まだ完全には納得していない顔だ。

 だが、少なくとも「自分が悪いから拒まれた」と即断するところからは少し戻ってきた。

 

「では」

 

 エリィは隣の扉を見た。

 

「悪魔さんの部屋には、帰るための印は、ないんですか」

 

 俺は黙った。

 

 そこか。

 エリィにとって、名前札は名前を飾る板ではない。

 帰るための印だ。

 俺がそう言った。

 そう教えた。

 

 なら、隣の部屋に印がないことは、エリィには不安なのだ。

 俺がどこへ戻るのか。

 どこにいるのか。

 どこを呼べばいいのか。

 

 そういう話になる。

 

「俺は迷わない」

「はい」

「自分の部屋くらい分かる」

「はい」

 

 エリィは素直に頷いた。

 しかし、視線は隣の扉から動かない。

 

「でも、私が」

「おまえが?」

「悪魔さんを探す時に、間違えるかもしれません」

 

 俺は扉を見た。

 

 エリィの部屋。

 隣の部屋。

 廊下。

 

 たしかに、部屋は似ている。

 百年前の貴族の趣味で、同じような扉が並んでいる。

 人間の貴族は、なぜすべての扉を似せたがるのか。

 罠か。

 悪魔の城でももう少し分かりやすい。

 

「隣だ」

「はい」

「一つ隣だ」

「はい」

「扉も少し開けておく」

「はい」

 

 エリィは頷く。

 それでも、まだ少し不安そうだった。

 

 分かっている。

 一つ隣だから平気、というのは、俺の理屈だ。

 エリィの理屈ではない。

 

 隣の部屋に音があるか。

 扉が開いているか。

 戻ったと言われるか。

 名前が見えるか。

 

 安心の条件は、俺が思うより細かい。

 面倒だ。

 非常に面倒だ。

 

 だが、素材管理上、安心条件の把握は重要である。

 これも作戦。

 完全に作戦。

 たぶん。

 

「印なら作る」

 

 俺が言うと、エリィは顔を上げた。

 

「印」

「名前ではない」

「お名前ではなく」

「そうだ。俺の名ではなく、この部屋に俺がいることを示す印だ」

 

 エリィは少し考えた。

 

「それは、危なくないですか」

「危なくない」

「私が見ても」

「いい」

「呼んでも」

 

 そこまで言って、エリィは口を閉じた。

 呼んでもいいですか、と言いかけて、怖くなったのだろう。

 

「呼ぶ時は、今まで通りでいい」

 

 俺は先に言った。

 

「悪魔さん、でいい」

 

 エリィの目がわずかに揺れた。

 

「悪魔さん」

「そうだ」

「それは、お名前ではないんですか」

「種族名に敬称をつけただけだ」

「しゅぞく」

「俺が悪魔だから、悪魔さん」

「はい」

「雑な呼び名だが、今はそれでいい」

 

 エリィは胸元に手を当てた。

 いつもの、自分の中に言葉をしまう仕草だ。

 

「今は、それでいい」

「そうだ」

「悪魔さんと呼んでも、怒られませんか」

「怒らない」

「何度も呼んだら」

「用があるなら呼べ」

「用が、分からない時は」

 

 俺は少し詰まった。

 

 用が分からない。

 つまり、不安だけがあって、何を言えばいいか分からない時。

 呼びたいが、呼ぶ理由が分からない時。

 

 この少女は、呼ぶことにも理由と許可を探す。

 

「不安なら呼べ」

 

 俺は言った。

 

 言ってから、空気を見た。

 揺れてはいない。

 誓約にはなっていない。

 たぶん。

 

「ただし、呼ばれたら――」

 

 そこまで言いかけて、俺は飲み込んだ。

 

 危ない。

 今のは危なかった。

 

 呼ばれたら向かう。

 そんなことを言えば、誓約になる。

 黒い鎖が俺の足首に絡みつくようなものだ。

 

 それはまだ早い。

 いや、早い遅いの問題ではない。

 悪魔が人間の少女に呼び出し権を与えるなど、普通に考えて異常である。

 

 普通に考えなくても異常である。

 

 俺は言葉を選び直した。

 

「この屋敷の中で声が聞こえたら、返事をする」

 

 エリィが瞬きをした。

 

「返事」

「そうだ。まずはそれだけだ」

「来る、ではなく」

「返事だ」

 

 俺は自分で確認するように言った。

 

「呼べば来る、ではない。声が聞こえたら返事をする」

「はい」

「分かったか」

「はい」

 

 エリィは頷いた。

 それから、少しだけ考えて。

 

「返事があると、分かります」

 

 小さく言った。

 

「何が」

「悪魔さんが、いることです」

 

 俺は黙った。

 

 なるほど。

 そう来るか。

 

 返事。

 ただの返事。

 人間同士なら、どうということもない。

 呼ばれたら答える。

 いるならいると言う。

 

 だが、エリィにとっては、それが存在確認になる。

 消えていない。

 怒っていない。

 捨てていない。

 隣にいる。

 

 そういう証明になる。

 

 俺は腕を組んだ。

 

 よろしい。

 非常によろしい。

 安心の条件をまた一つ把握した。

 返事。

 呼び名。

 隣の印。

 

 作戦表に書けば、完全に子育て記録である。

 書かない。

 今日は絶対に書かない。

 

 

   ***

 

 

 黒い印を作ることにした。

 

 名前札と同じ木板ではなく、もう少し小さい。

 手のひらの半分ほどの薄い板を、黒く染める。

 悪魔の魔力を薄く流し、表面に傷がつきにくくする。

 派手な術式は入れない。

 余計な魔力が漏れれば、神殿あたりの面倒な連中に嗅ぎつけられる。

 

 名前ではない。

 契約ではない。

 呪いでもない。

 

 ただの印だ。

 

 俺は板の中央に、黒より少し濃い線を一本引いた。

 羽のようにも見える。

 爪痕のようにも見える。

 角の影のようにも見える。

 

 悪魔を示す印としては十分だ。

 たぶん。

 

 エリィは俺の隣で、作業をじっと見ていた。

 膝の上に青いリボンを置き、時々自分の名前札のほうを見る。

 

「黒いです」

「俺の印だからな」

「悪魔さんは、黒いです」

「外套も髪も黒いからな」

 

 俺は黒い印の端を丸めた。

 名前札の時と同じく、角を残さない。

 引っかかったら危ない。

 扉に掛けるだけの印に、なぜここまで丁寧に加工しているのか。

 

 素材管理上。

 そう、素材管理上である。

 

「これは名前ではない」

 

 俺は黒い印を持ち上げた。

 

「だが、この印が掛かっている部屋には、俺がいる」

「悪魔さんの部屋」

「正確には、今俺が使っている隣の部屋だ」

「悪魔さんの部屋」

「……まあ、それでいい」

 

 エリィの色に、淡い金が滲んだ。

 

 部屋を「悪魔さんの部屋」と呼べるだけで光るのか。

 どれだけ世界に分かりやすい印が足りなかったのだ、この少女は。

 

 俺は扉の外へ出た。

 エリィもついてくる。

 自分の部屋の扉を出る時、エリィは一度、自分の名前札を見た。

 

「エ、リ、ィ」

 

 小さく口にする。

 まだ読めてはいない。

 だが、形と音を合わせるのが少し早くなっている。

 

「合っている」

 

 俺が言うと、エリィはほっとした顔をした。

 

「はい」

 

 俺は隣の扉に、黒い印を掛けた。

 木板が、かすかに揺れる。

 エリィの名前札より小さい。

 文字はない。

 ただ、黒い線だけがある。

 

「ついた」

 

 エリィはそれを見上げた。

 

「読めません」

「読まなくていい。印だからな」

「これは、悪魔さん」

「俺がいる部屋の印だ」

「悪魔さんの印」

「そうだ」

 

 エリィは自分の名前札と、黒い印を交互に見た。

 

 エリィ。

 黒い印。

 

 二つの扉。

 隣り合う部屋。

 

 それだけのことなのに、廊下の空気が少し変わった気がした。

 気のせいだ。

 ただの木板二枚で、屋敷の意味が変わるはずがない。

 

 ない、はずだ。

 

「これで」

 

 エリィは、黒い印を見たまま言った。

 

「悪魔さんの部屋を、間違えません」

「隣だからな」

「はい」

「隣だが、まあ、印があれば分かりやすい」

「はい」

 

 エリィは少しだけ肩の力を抜いた。

 名前札を掛けた時ほど強い金色ではない。

 だが、確かに安心の色が混じる。

 

 よろしい。

 非常によろしい。

 

 名前を渡さず、印だけで安心を少し増やした。

 これは上手い。

 悪魔的に見ても、非常に巧みな妥協である。

 

 ただし、やっていることは隣室の表札作りである。

 悪魔としての威厳は、もうどこかへ旅に出た。

 

 

   ***

 

 

 呼ぶ練習をすることになった。

 

 いや、正確には、俺がそう提案した。

 エリィが黒い印を見て、呼びたそうな顔をしたからだ。

 

 呼びたそうな顔。

 

 そんなものまで分かるようになっている自分が怖い。

 魔眼で欲望や恐怖を見るより、エリィの眉の動きを読むほうが難しい。

 そして最近、そちらの精度が上がっている。

 

 まずい。

 別方向の技能が育っている。

 

「練習する」

 

 俺が言うと、エリィは目を丸くした。

 

「呼ぶ練習ですか」

「そうだ」

「呼ぶことにも、練習が」

「おまえには必要そうだ」

「はい」

 

 素直に納得された。

 まあ、実際そうなのだろう。

 

 食べる練習。

 休む練習。

 欲しがる練習。

 名前を読む練習。

 呼ぶ練習。

 

 生活、練習項目が多すぎる。

 人間は生きるだけで履修科目が多い。

 

「俺は隣の部屋に入る」

「はい」

「おまえは自分の部屋の入口に立つ」

「はい」

「黒い印を見て、呼べ」

「はい」

 

 エリィは頷いた。

 頷いたが、顔が真剣すぎる。

 これから悪魔召喚の儀式でも始めるような顔だ。

 

 まあ、悪魔を呼ぶ練習なので、間違ってはいない。

 

 俺は隣の部屋へ入った。

 扉は少し開けておく。

 完全に閉じると、今はまだ負荷が高い。

 

 部屋の中から、廊下に立つエリィの気配が分かった。

 軽い。

 小さい。

 けれど、以前より少しだけ呼吸が深い。

 

「呼べ」

 

 俺は言った。

 

 沈黙。

 

 エリィは黒い印を見ている。

 唇が動く。

 だが、声が出ない。

 

「怒らない」

 

 先に言う。

 

 さらに沈黙。

 

 やがて、廊下から、とても小さな声がした。

 

「……悪魔さん」

 

「なんだ」

 

 俺は返事をした。

 

 エリィの息が、ひゅっと細くなった。

 

「返事が」

「した」

「はい」

「聞こえたか」

「はい」

「俺も聞こえた」

「私の声が」

「そうだ」

 

 廊下で、エリィが小さく動いた。

 黒い印に触れようとして、途中で止めた気配がする。

 

「もう一度」

 

 俺は言った。

 

「いいんですか」

「練習だ」

 

 エリィは少し息を吸った。

 

「悪魔さん」

「なんだ」

 

 さっきより、ほんの少しだけ声が大きい。

 

「二回、呼びました」

「二回返事をしたな」

「怒っていませんか」

「怒っていない」

「面倒では」

「面倒だ」

 

 エリィが固まった。

 

 しまった。

 正直に言いすぎた。

 

「訂正する。生活全般が面倒なだけで、おまえが呼んだことに怒っているわけではない」

「生活全般」

「飯を作り、扉を開け、名前札を作り、印を掛け、返事をする。面倒だ」

「すみま――」

「だが、やる」

 

 エリィが口を閉じた。

 

「謝るな。必要だからやっている」

「必要」

「素材管理上だ」

「そざい」

「今のは忘れろ」

 

 エリィは少しだけ困ったような顔をしている気配がした。

 最近、俺の言葉に困る余裕が出てきた。

 よろしい。

 困るというのは、怯えるだけよりずっと人間らしい。

 

「もう一度」

 

 俺が言うと、廊下から返事があった。

 

「はい」

 

 少し間を置いて。

 

「悪魔さん」

「なんだ」

 

 今度は俺の返事が早すぎた。

 呼ばれる前から構えていた。

 

 エリィはそれに気づいていない。

 黒い印を見ながら、ほっとしたように息を吐いている。

 

 しかし俺は気づいた。

 自分が、返事を待っていたことに。

 

 まずい。

 非常にまずい。

 

 悪魔が呼ばれるのを待っている。

 呼ばれたら返事をするために、喉の準備をしている。

 

 何だそれは。

 召使いか。

 いや、召使いならまだ業務である。

 俺は業務ではない。

 計画である。

 極上絶望熟成作戦である。

 

 作戦に返事待機は必要か。

 

 必要かもしれない。

 安心条件だから。

 素材管理上。

 

 便利な言葉だな、素材管理上。

 最近、万能調味料みたいになっている。

 

 

   ***

 

 

 少しだけ距離も試した。

 

 エリィを廊下の三歩先に立たせる。

 自分の名前札からも、黒い印からも、少し離れた場所だ。

 

 三歩。

 たった三歩。

 だが、エリィは何度も自分の部屋の扉を振り返った。

 

「どれがおまえの部屋だ」

「あそこです」

「俺がいる場所は」

「あそこです」

「呼ぶ時は」

「悪魔さん」

「よろしい。呼べ」

 

 エリィは息を吸った。

 

「悪魔さん」

「なんだ」

 

 廊下に立つエリィの肩が、少し下がった。

 

「聞こえました」

「俺も聞こえた」

「三歩でも」

「三歩でもだ」

「三歩は、遠いです」

 

 俺は少し黙った。

 

 三歩が遠い。

 この少女にとっては、自分の扉から三歩離れるだけでも遠いのだ。

 

 なら、黒い印が必要だ。

 返事も必要だ。

 名前はまだ渡せないが、呼び名は拒まない。

 

「三歩でも戻れた。三歩でも呼べた。できた」

 

 エリィの色が、ふわりと金に揺れた。

 

「返事があると」

 

 エリィは黒い印を見た。

 

「いなくなっていないと、分かります」

 

「今はな」

「今は」

「屋敷の中で聞こえる距離なら、返事をする。外や遠くにいる時は、まだ別だ」

「別」

「聞こえなければ返事はできない」

 

 エリィは真面目に頷いた。

 

「聞こえない時は」

「その時のための方法は、また考える」

 

 言ってから、俺は眉をひそめた。

 

 黒い羽。

 悪魔の身体の一部。

 呼び鈴代わりに持たせれば、たしかに可能だ。

 

 いや、まだ早い。

 今日は返事までだ。

 

「また」

 

 エリィはその言葉を小さく繰り返した。

 

「また、考えてくれますか」

「必要になればな」

「はい」

 

 エリィは頷いた。

 その声は、安心と怖さの間にあった。

 

 必要になれば。

 未来の話だ。

 エリィには、未来の話がまだ怖い。

 だが、それをまったく拒まなくなっている。

 

 これは良い。

 非常に良い。

 

 幸福の伸びしろ。

 安心の蓄積。

 未来への小さな期待。

 

 完璧だ。

 計画は順調だ。

 

 順調すぎて、俺の胸の奥がまた妙に軽くなる。

 悪魔なのに、絶望を食っていないのに、空腹が少しだけ黙る。

 

 まずい。

 この金色、やはり胃に優しい。

 

 

   ***

 

 

 部屋へ戻ってから、エリィは紙の上に書かれた自分の名前をもう一度なぞった。

 

 エ、リ、ィ。

 

 その横に、俺は新しく文字を書いた。

 

 悪魔さん。

 

 エリィは目を丸くした。

 

「それは」

「おまえが俺を呼ぶ時の言葉だ」

「悪魔さん」

「そうだ」

「お名前ではなく」

「名前ではない」

 

 俺は強調した。

 

「これは呼び名だ」

「相手を呼ぶための言葉だ。真名ではない。契約にも使えない。おまえが持っていても危なくない。――なぞってみるか」

 

 俺が言うと、エリィは指を止めた。

 

「触っても」

「いい。練習用だ」

「悪魔さんの文字を、私が触っても」

「呼び名だからな」

「危なくない」

「危なくない」

 

 エリィはそっと指を置いた。

 悪、魔、さ、ん。

 一文字ずつ、ゆっくりなぞる。

 

「難しいです」

「おまえの名前より長い」

 

 エリィはもう一度なぞった。

 線から外れる。

 戻る。

 また外れる。

 

「間違えました」

「線から外れただけだ」

「悪くない」

「悪くない」

 

 先に言われた。

 

 俺は黙った。

 

 エリィは紙を見たまま、少しだけ頬を赤くする。

 

「合っていますか」

「合っている」

「悪くないですか」

「悪くない」

「呼んでも」

「怒らない」

 

 エリィは指先を紙から離した。

 

「悪魔さん」

「なんだ」

 

 すぐ返事をしてしまった。

 

 エリィは目を瞬かせた。

 それから、小さく笑った。

 

 笑った。

 

 まだ薄い。

 口元がほんの少し緩むだけの、笑いの手前のようなものだ。

 だが、確かに怖がってはいなかった。

 

「返事が、あります」

「あるな」

「はい」

 

 まずい。

 その顔はまずい。

 

「悪魔さん」

「なんだ」

「何回まで、呼んでもいいですか」

 

 俺は額を押さえた。

 

「回数制限はない」

「ない」

「用がないのに百回呼ばれたら、さすがに理由を聞く」

「百回」

「普通は呼ばない」

「普通」

 

 エリィは真剣に考えている。

 

「三回は」

「許容範囲だ」

「十回は」

「理由を聞く」

「怒られますか」

「怒らない。理由を聞く」

「理由が、不安だったら」

「不安だと言え」

「言えなかったら」

 

 また難問である。

 

 不安だと言えない時。

 呼ぶ理由も分からない時。

 ただ、返事が欲しい時。

 

 この少女なら、たぶんある。

 

「その時は、呼んだあとで黙っていればいい」

「黙って」

「俺が聞く。何かあったか、と」

「それで」

「首を振るなり、頷くなりしろ」

「声が出なくても」

「頷くくらいできるならな。無理なら、無理な顔をしろ」

「無理な顔」

「おまえはよくする」

 

 エリィは少し困った顔をした。

 

「今ですか」

「それだ」

 

 エリィは自分の頬に手を当てた。

 少しだけ、金色が揺れた。

 

 困っている。

 だが、怯えてはいない。

 

 俺は腕を組んだ。

 

 これは教育ではない。

 素材管理である。

 素材の表情変化を観察し、最適な返答を選んでいるだけである。

 

 言い訳の味が薄くなってきた。

 そろそろ別の調味料が必要だ。

 

 

   ***

 

 

 夕方、王都の鐘が鳴った。

 

 神殿区の鐘は今日もよく響く。

 慈愛だの救済だのを掲げておきながら、鐘の裏側で孤児が残飯を奪い合う。

 音だけは綺麗なので、余計に腹が立つ。

 

 エリィは椅子に座ったまま、机の上の練習紙と、扉の外にある二つの印を何度も見比べていた。

 

 エリィの名前札。

 隣の黒い印。

 

 物が増えた。

 言葉も増えた。

 呼び方も増えた。

 

 よろしい。

 非常によろしい。

 理屈としては完璧だ。

 

 なのに、俺は黒い印の位置が少し斜めなのではないかと気にしている。

 

 俺は結局、立ち上がって廊下へ出た。

 黒い印を指先で直す。

 

 背後で、エリィが部屋から顔を出した。

 

「悪魔さん」

「なんだ」

 

 返事をしたあと、俺は自分で固まった。

 

 早い。

 やはり早い。

 

 エリィは俺を見て、それから黒い印を見た。

 

「直していますか」

「少し曲がっていた」

「曲がっていると、悪いですか」

「悪くはない」

「でも、直すんですか」

「見た目が気になる」

 

 エリィは黒い印を見上げた。

 それから、自分の名前札を見た。

 

「まっすぐだと、見つけやすいですか」

「そうだな」

「帰りやすいです」

「そうだ」

 

 帰りやすい。

 

 俺は黒い印から手を離した。

 板はまっすぐになった。

 ただそれだけだ。

 

 それなのに、廊下に二つの印が並んでいることが、妙に落ち着かない。

 

「悪魔さん」

「なんだ」

 

 また即答した。

 

 エリィは少しだけ目を丸くした。

 そして、黒い印を見たまま言った。

 

「返事、早いです」

 

 俺は沈黙した。

 

 気づかれた。

 

「……気のせいだ」

「そうですか」

「そうだ」

 

 俺は話題を変えることにした。

 

「夕食にする」

「はい」

「その前に手を洗え」

「はい」

 

 エリィは素直に頷いた。

 自分の部屋から一歩出る。

 名前札を見る。

 黒い印を見る。

 そして、俺を見る。

 

「手を洗って、戻ってきます」

 

 俺は一瞬、返事が遅れた。

 

 戻ってきます。

 

 今までは、戻っていいですか、だった。

 戻りました、だった。

 今日は、戻ってきます。

 

 未来の動作を、自分で言った。

 

「ああ」

 

 俺は言った。

 

「戻ってこい」

 

 空気は揺れなかった。

 誓約ではない。

 ただの返事だ。

 

 エリィは手洗い場へ向かった。

 足音は軽い。

 まだ弱い。

 だが、廊下の途中で一度振り返り、自分の名前札と黒い印を確認するだけで、先へ進めた。

 

 三歩より、少し遠い。

 

 俺は廊下に立ったまま、それを見ていた。

 

 よろしい。

 非常によろしい。

 

 安心の仕様がまた増えた。

 名前札。

 黒い印。

 呼び名。

 返事。

 

 悪魔の作戦としては、あまりにも生活密着型である。

 

 

   ***

 

 

 夕食のあと、エリィは少し眠そうにしていた。

 

 今日は名前札を見て、黒い印を見て、呼ぶ練習をして、文字をなぞった。

 体力の少ないエリィには、十分すぎる量だったのだろう。

 

 俺は早めに休ませることにした。

 

「今日はもう寝ろ」

「はい」

 

 エリィはベッドに向かった。

 靴を脱ぎ、揃える。

 青い靴紐はまだ自分では結べないが、ほどく時は少し手伝えばできるようになってきた。

 

 小さな進歩。

 小さすぎるが、エリィにとっては大きい。

 

 青いリボンは、枕元に置いた。

 今日は握りしめず、置いたあとに一度だけ指で触れる。

 それから手を離す。

 

 よろしい。

 

 俺は扉を少し開けておいた。

 隣の扉には黒い印。

 エリィの扉には名前札。

 

「隣にいる」

「はい」

「扉は少し開けておく」

「はい」

「音も立てる」

「はい」

 

 エリィは布団の中で頷いた。

 それから、少し迷って、俺を見た。

 

「悪魔さん」

「なんだ」

 

 返事をする。

 今度も早かった。

 

「夜に、呼んでも」

「聞こえたら返事をする」

「寝ていたら」

「俺はあまり寝ない」

「そうなんですか」

「悪魔だからな」

 

 エリィは少し考えた。

 

「悪魔さんは、眠くならないんですか」

「人間ほどではない」

「疲れませんか」

「この程度では疲れない」

「でも、昨日も音を立てていました」

 

 俺は止まった。

 

 気づいていたのか。

 いや、当然か。

 エリィはその音を聞いて眠ったのだ。

 

「必要だったからだ」

「私が、怖かったからですか」

「そうだ」

「悪魔さんは、怖くないんですか」

「何が」

「眠らないこと」

 

 俺は少し笑いそうになった。

 眠らないことが怖いか。

 悪魔にとっては、そんなものどうでもいい。

 

「怖くない」

「寒くないですか」

「寒くない」

「お腹は」

「空いていない」

 

 嘘ではない。

 少なくとも、今は。

 

 絶望を喰っていないのに、腹の奥は妙に静かだった。

 エリィが名前札を見て、黒い印を見て、呼んで、返事を聞いて安心した。

 それだけで、空腹が少しだけ薄れている。

 

 認めたくない。

 絶対に認めたくない。

 

「悪魔さん」

「なんだ」

「悪魔さんが呼んだら、私も返事をします」

 

 俺は、しばらく何も言えなかった。

 

 今までエリィの返事は、命令への反射だった。

 はい。

 ごめんなさい。

 すみません。

 分かりました。

 

 だが今のは違う。

 

 俺が呼んだら、返事をする。

 怖がらせないために。

 安心させるために。

 

 まずい。

 これはまずい。

 

「……俺は悪魔だぞ」

「はい」

「人間の子供の返事で安心するような生き物ではない」

「そうなんですか」

「そうだ」

「好きにしろ」

 

 俺は言った。

 

 素っ気なく。

 できるだけ雑に。

 

 エリィは、それでも少し安心した顔をした。

 

「はい」

 

 そして、目を閉じかける。

 

 眠いのだろう。

 呼ぶ練習は、彼女にとって思った以上に力を使ったらしい。

 

「悪魔さん」

「なんだ」

「今日は、黒い印があります」

「あるな」

「私の名前札もあります」

「ある」

「呼んだら、返事がありました」

「あった」

「……よかったです」

 

 小さな声。

 布団に沈むような声。

 

「おやすみ、なさい」

 

 俺は一瞬、返事に迷った。

 

 悪魔が、おやすみに返事をする必要はない。

 ないが、返事をすると言ったばかりだ。

 

「ああ。寝ろ」

 

 エリィは目を閉じた。

 しばらくして、細い寝息が始まる。

 

 俺は扉の前に立ったまま、その寝息を聞いていた。

 

 名前は渡していない。

 真名も、前世の名も、悪魔としての名も。

 渡したのは、黒い印と、悪魔さんという呼び名を拒まないことだけだ。

 

 呼べば来るとも言っていない。

 この屋敷の中で聞こえたら返事をする。

 たったそれだけだ。

 

 それだけで、エリィは安心して眠った。

 

 俺は隣の部屋へ移り、椅子を少し鳴らした。

 黒い印の掛かった扉の内側。

 そこにいる音。

 

 寝息は乱れない。

 

 よろしい。

 非常によろしい。

 計画は順調である。

 

 幸福を積み。

 所有物を増やし。

 名前を覚えさせ。

 呼び名を許し。

 返事を与える。

 

 完璧だ。

 完璧に、極上絶望熟成作戦は進んでいる。

 

 問題があるとすれば。

 

「悪魔さん」

 

 眠っていると思ったエリィの声が、隣から小さく聞こえた。

 

「なんだ」

 

 俺は即座に返事をした。

 

 考えるより先に。

 喉が勝手に動いた。

 

 隣の部屋で、エリィがほっと息を吐く気配がした。

 たぶん、夢と現実の間で、黒い印と返事を確かめたのだろう。

 

 俺は自分の喉に手を当てた。

 

 名前は渡していない。

 呼べば来るとも言っていない。

 ただ、返事をしただけだ。

 

 それだけなのに。

 

「……まずい」

 

 今の返事、早すぎた。

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