中川菜々から優木せつ菜へ 〜ポケモンの世界であなたと紡ぐ奇跡〜 作:あいライス
茜色の空が藍色へと溶け出し、街灯が一つ、また一つと光を放ち始めた帰り道。
私はイワンコと共に、少しだけ浮き足立ったような、それでいて心地よい疲れを感じながら家路を急いでいました。
先ほどしずくさんと交わした、指切りげんまん。
「大きくなったら、一緒にトレーナーズスクールに行こう」という約束は、この世界に転生して以来、最も前向きな決断でした。
晩ごはんの時、このことを誠一さんと七海さんにお話ししましょう!
きっとあの二人のことですから、また手放しで泣いて喜んで、家の中が騒がしくなるのでしょうね…。
誠一さんと七海さんの、あの少々暑苦しいほどの愛情表現を思い浮かべ、私は小さく溜息をつきました。
けれど、その溜息には冷たい拒絶の色はなく、どこか呆れ混じりの親愛が混じっていたように思います。
前世でも家族団欒は、私にとって当たり前でした。警察官の父と小学校教諭の母に、その日あった出来事や、歩夢さんとの他愛のない会話を聞かせる日々。
しかし、この世界に「せつ菜」として生を受けてからの4年間、私は彼らに対して、どうしても一歩引いた同居人のような態度を崩せずにいました。
彼らの問いかけに反応し、最低限の日常報告をするだけ。自分から積極的に「夢」や「希望」を語ることは、一度もなかったのです。
ですが、今日は違います。この胸に灯ったばかりの「学びたい」という情熱を、誰かに、特に私を今日まで育ててくれた彼らに、一番に聞いてほしいと思っている自分がいました。
我が家が見えてきた時、ふと違和感を覚えました。
門の前に、誠一さんが立ちはだかっていたからです。
「……誠一さん?」
普段の彼なら、私が帰宅するなり「せっちゃん、おかえりなさ~い!」とだらしないほどに顔を崩して駆け寄ってくるはずです。
ですが、今の彼は違いました。
両腕を組み、仁王立ちで私を待ち構えるその姿には、普段の親バカなパパの面影は微塵もありませんでした。
ここで一つ、説明を忘れていましたね。
実は優木誠一という人の職業は、このニジガサキシティにある「ポケモンジム」のジムリーダーです。
すなわち、この街の代表であり、街を訪れる数多のポケモントレーナーたちの高き目標であり、街の治安と秩序を守る最高位の立場にある、圧倒的な実力者なのです。
そんな肩書きに相応しい、威圧感と厳格さが、今の彼の全身から立ち上っていました。
「せつ菜……!」
低く、地を這うような声。
イワンコもただならぬ気配を察知したのか、「ワン?」と小首を傾げています。
「誠一さん、ただいま帰りました。どうかしましたか? そんなに険しい顔をされて」
私は努めて冷静に、いつもの調子で問いかけました。
しかし、私の言葉に誠一さんの眉間の皺はさらに深まり、その瞳に鋭い光が宿ります。
「『どうかしましたか?』じゃないだろ。……なにかお父さんに言うことがあるんじゃないか?」
「言うこと、ですか?」
私は状況が掴めず、思わず本気で首を傾げました。
言うこと……?
強いて挙げるとすれば、先ほどしずくさんと交わした、将来トレーナーズスクールへ一緒に行くという最高に前向きなお約束の朗報しかありません。
ですが今の彼の態度は、朗報を待っている父親のそれとは到底思えません。
「今日のことですか?」
「そうだ! それ以外に何がある…!?」
「はて…?」
全くもって、何一つとして見当がつきませんね。
「はぁ……。お前、公園でたけしくんを泣かせて、怪我をさせたそうじゃないか」
「えっ? 私が、たけしくんをですか?」
泣かせた? 怪我させた?
なぜそんな話になってるんですか?
確かに私は、イワンコに『いわおとし』や『たいあたり』を指示して、しずくさんとヨーテリーを助けるために、たけしくんのビードルとバトルはしましたが…。
そもそも、理不尽な暴力を振るってしずくさんとヨーテリーを泣かせていたのは、他ならぬたけしくんのほうですよ。
「さっき、たけしくんのお母さんがここに怒鳴り込んできたんだ。 たけしくんは泣いていて、お母さんのほうは『優木さんのところの娘さんは、なんて乱暴な教育をしているのか!』ってカンカンだったぞ」
なるほど。状況が読めてきました。
どうやらたけしくんは、自分がしずくさんのヨーテリーをビードルを使っていじめていた事実を綺麗に伏せ、一方的に優木せつ菜に、突如としてイワンコに攻撃された被害者として、母親に泣きついたのでしょう。
負けた悔しさからの腹いせでしょう。困った者ですね。
まあ相手は、まだ幼稚園生ですし仕方ありません。むしろ可愛いもんじゃないですか。
ですが、だからといってこのまま黙って、虚偽の事実を放置しておくわけにはいきませんよね?
誠一さんにもこのような下らない嘘に踊らされて勘違いをさせてしまい、非常に申し訳ない気持ちになりました。
この程度の誤解、解くのは容易なはずです。
「誠一さん。あなたが何を、どのように聞かれたかは存じ上げませんが、事実関係を整理させてください。実は、公園でしずくさんのヨーテリーが――」
「違うだろっ!!」
私の言葉を遮って、誠一さんの怒号が夕闇を切り裂きました。
「まず謝るときは、『ごめんなさい』だろうがっ! どんな理由があろうと、お前がイワンコを使って、たけしくんを攻撃した事実に変わりはないんだぞ!!」
はっ?
「で、ですから、私の話を聞いてください攻撃を仕掛けたのは彼のビードルのほうで、私は――」
「言い訳をするな!!」
私は、絶望に近い無力感に襲われました。
嘘以前に、私の話は聞く気なしですか…。
前世の私の父なら、警察官という職業柄、必ず双方の言い分を聞き、証拠を揃え、真実を見極めようとしてくれました。
ですが、目の前のこの人は、自分の娘が暴力を振るったという又聞きと、ジムリーダーとしてのメンツに囚われるようにしか見えません。
私はただ黙って冷ややかな視線で彼をじっと見つめました。
言っておきますが、これは反論を諦めて屈服したからではありません。
この思考を放棄した男に対して、私の貴重な言葉を尽くす価値など万に一つもないと、冷徹に判断したからです。
その、冷徹なまでに静かな、それでいて射抜くような私の視線が、誠一さんの怒りに油を注ぎました。
「なんだ! その目は!?」
彼はさらに一歩、私を威圧するように踏み込みました。
あぁ、やはり。
あなたは私のお父様とは、全然違いますね。
あの高潔で、法と正義を執行する組織の中で、誰よりも誇り高く生きていた前世の父と、誠一さんを比べるのは、いささか分が悪いのは百も承知ですが、それにしても、あまりにも、目の前の男の器が小さすぎて、比べざるを得ません。
ついさっきまで、私はほんの少し照れくささを抱えながらも、この人に、しずくさんと交わした約束を、無邪気に打ち明けようとしていた自分が、今は情けなくて仕方ありません。
――あなたを一瞬でも信じようとし、家族の温もりを期待していた私がバカでした…。
この世界に産み落とされたあの日から今日まで、誠一さんのことは、ただの娘に甘い「親バカ」なのだと分類していましたが、今の彼の姿を見て、私は完全に理解し、確信しました。
この人は、「親バカ」などではない。
「なぜ黙っている!? 何とか言ったらどうなんだ、せつ菜!」
4歳の娘相手に、声を荒らげ、威圧することでしか、自分の立ち位置を証明できない…、道理の通らない、知性と理性を放棄した…。
ただの…
「バカ親」だったのですね…!
「……私が何も反論をせず黙っているのは、もはや事実をお話しても、どうせまた『言い訳をするな』と理不尽に怒られるからですよ」
私の口から漏れたのは、感情を削ぎ落とした氷のような声でした。
「なに?」
「自分が気に入らない都合の悪い返答や、自分の貧困な想像力とは異なる不都合な真実を突きつけられると、そうやってただ感情に任せて声を荒らげ、力で相手を黙らせる。 大人のすること、もといジムリーダーのされる世渡りというのは、随分と単純で、知的労働を必要とせず、羨ましいものですね」
私のあまりにも冷静で、核心を容赦なく抉る辛辣な言葉によって、彼のプライドと感情は完全に沸点へと達したのでしょう。
「せつ菜っ!!」
誠一さんの右手が空を切り、私の頬に凄まじい衝撃が走りました。
――バシン!!
乾いた音が夕闇に響き渡ります。
「ワン!?」
イワンコが悲鳴のような声を上げ、私の前に割って入ろうとします。
「っ……!?」
むしろ、手を上げた誠一さん自身が、自分の掌を見つめ、自分の行動に対して信じられないと思ってるかのように立ち尽くしています。
「……せつ菜、今のは……」
私はゆっくりと、乱れた前髪を払い、姿勢を正して立ち上がりました。
「誠一さん。私はこれまで、あなたと七海さんの娘として…、そして優木家の名に相応しくなれるよう、自分なりに、いい子でいるよう努力してきました」
「そ、それとこれとは、今は関係ないことだろっ! 大体っ! お前は物心ついたときからずっとそうだ! いつまでそうやって親である俺や七海のことを他人みたいに『さん』付けで頑なに呼んでいるんだ!? そんな可愛げのない、他人行儀な冷めた態度が、今のその反抗的な態度を作っているんじゃないのか!?」
今度は、論点のすり替えですか。言い訳してるのは、どちらでしょうか?
勘違いも甚だしいです。
「いいえ、大いに関係ありますよ。 あなたは私の話をろくに聞こうともせず、状況を分析もせず、ただ一方的な感情に任せて私を怒鳴りつけ、そして挙句の果てに、手まで上げたのですよ」
「しかし! たけしくんは確かに怪我をしていたんだぞ! 泣いていたんだぞ!」
「仮にその怪我が、私とイワンコの攻撃によるものだったとしても、私があなたや、たけしくん親子に謝ることは、決してありません!」
「なに……!?お前はまだそんな強情なことを……!」
「私は、正当な理由があるときでしか頭を下げないと決めています。 あなたが、たけしくんのお母様から聞いた私の行動は、しずくさんと、彼女のパートナーであるヨーテリーを、理不尽な暴力から守るためのものでした。 もし万が一、私が今日という日に、唯一謝るべき反省点があるとするならば、それは……しずくさんの元へ、一秒でも早く助けに行けなかった、私の決断の遅さだけです!」
「ちょ、ちょっと待て……。どういうことだ? 一体、何があったんだ?」
狼狽え始めた誠一さんの姿に、私は冷めた嘲笑さえ浮かんできました。
「言い訳は聞きたくないのでは?」
「う……っ!」
言葉に詰まるジムリーダーを、私はさらに追い詰めます。
一度崩れた敬意は、二度と元の形には戻りませんよ。
「ふふっ、安心してください、誠一さん。これからは、あなたの望む、波風を立てない『いい子』になってみせます。今度から、しずくさんのポケモンがどれだけ理不尽にいじめられていようとも、私は一切関与せず、完璧に見て見ぬ振りをしましょう。いいえ、むしろ私も一緒になって、その相手に加担して追い打ちをかけてあげましょうか! そうすれば、どこからも『乱暴な教育』だなんて理不尽な文句は出ませんよね? 万事解決ですね!」
「せつ菜、お前何を……」
「それがこの街の平和と秩序を守る、ポケモンジムのジムリーダー、優木誠一の直伝の教育方針なのだと、街の皆さんや挑戦者のトレーナーの方々に、誇らしげに知ってもらいましょうか! そして私が大きくなって、法的に自立できる年齢になったその時、私は一秒の躊躇もなく、この家を出て行きます。 そんな、弱者へのいじめを推奨するような歪んだ家訓がある家の娘だなんて、生涯、誰からも思われたくありませんからね!」
誠一さんは、「親に向かって、なんだその態度は!」と言いたげに顔を歪めますが、もはや反論の余地はなく、黙り込んでました。
どれほどジムリーダーとして数多のバトルに勝利し、強大だと称えられていようとも、客観的な道理と倫理を欠いた今の彼に情けは必要ないです。
「す、すまなかった……。父さんが悪かった…。 事実を話してくれ……!」
私は、腫れ始めた頬の痛みを感じながら、深く息を吐き出しました。
「……わかりました。 聞く意思があるのならお話ししましょう。 今度は途中で遮らず、最後まできちんと、話を聞いてくださいね」
「……はい…」
私は、公園で起きたことの全て、一言一句漏らさず語り始めました。