中川菜々から優木せつ菜へ 〜ポケモンの世界であなたと紡ぐ奇跡〜   作:あいライス

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13章「どうして、こうなった……?」

誠一さんとの、あまりに不毛で、致命的な亀裂を生んだ対話を終え、私とイワンコは玄関を通り抜け、我が家の中へと足を踏み入れました。

 

廊下を歩く私の足音に合わせるように、キッチンからは、本来であれば心を芯から温めてくれるはずの、食欲をそそる芳醇なカレーの香りが優しく漂ってきました。

 

じっくりと時間をかけて飴色になるまで炒められた玉ねぎの甘い匂い。スパイスの奥深さ。それは、私が前世で心の底から愛していた、「家庭の時間」と「無償の幸福」を象徴するそのものでした。

 

けれど、今の私にとってその香りは、あまりにも遠い別世界の出来事のように感じられてなりません。

 

「七海さん、ただいま帰りました」

 

リビングの扉を開け、私は声をかけました。

 

キッチンでエプロン姿のまま火加減を見ていた七海さんが、私の声に気づいて、嬉しそうにこちらを振り返りました。

門の外で起きた出来事なんて、知る由もありませんね。

 

「おかえりなさい、せつ菜。公園はどうだった? 楽しかった?」

 

「あっ、はい。しずくさんのヨーテリー、とても小さくて可愛かったですよ。イワンコともすぐに意気投合して、仲良くなれました」

 

「ワンワン!」

 

私の言葉に合わせるように、イワンコも私の足元で、いつものように尻尾を小さく振りながら元気に弾んだ声を上げます。

この健気で、私のすべてを理解して寄り添ってくれる大切なパートナーだけが、今の私の心をこの世界に繋ぎ止める唯一の救いです。

 

私は努めて、平静を装いました。

それは、何も知らない七海さんに無駄な心配をかけたくないという健気な配慮からではありません。

 

今の私は、これ以上この優木家という人間と、不毛なエネルギーを消費するだけの感情のやり取りを重ねたくなかったからです。

これ以上、あんな無駄な時間を過ごしたくありませんからね。

 

「そう、よかったわね! しずくちゃんとも、どんなお話をしたの?」

 

七海さんはお鍋をお玉で混ぜながら、無邪気に尋ねてきます。

 

「……ポケモンの進化のメカニズムについて、少しだけ。それと、お互いの将来についての……大切な約束も交わしました」

 

私の声は、自分でも驚くほど冷徹に、そして滑らかにリビングに響いていました。

 

 

 

 

◆誠一side

 

せつ菜から、公園での出来事のすべての真相を淡々と説明されて、俺は門の前で立ち尽くしていた。

 

 

どうして、こうなった……?

 

一体、どこから俺のボタン掛け違っていたんだ?

 

ついさっき、たけしくんと、その母親が顔を真っ赤にして怒鳴り込んできた時の凄まじい光景が、最悪のフラッシュバックとなって何度も何度も生々しく再生された。

 

確かに、俺の目の前にいたたけしくんは、膝に小さな擦り傷を作って、服を汚して泣いていた。

 

『ちょっと聞いてくださいよ優木さん! お宅のせつ菜ちゃんと、イワンコのせいで、うちのたけしと、大切なビードルがめちゃくちゃに攻撃されて大怪我させられたんですよ! ほらっ、ここ! 見てください、この傷を!』

 

『ひっく……! せつ菜ちゃんのイワンコに、ひっく……いきなりされました~~……!!』

 

ヒステリックに叫ぶ母親の金切り声と、涙を流して被害者を装う子供の泣き声。

 

それを聞いた時、不謹慎だが、俺の胸の中に浮かんだのは、怒りよりも先に、安堵だった。

 

あの、物心ついた時から物静かで、4歳児とは到底思えないほど理路整然としていて、どこか大人びた雰囲気を纏っているせつ菜。

 

そんな我が子が、近所の子供と言い合いになり、ムキになって感情を爆発させて、年相応の事件を起こした。

 

「あぁ、あのせつ菜にも、ようやく4歳児らしい、子供らしい感情的な一面が出てきたのか」と、俺は内心、どこかホッとして、父親として少しだけ嬉しく思ってしまった。

 

『一体全体、ジムリーダーの家でどんな乱暴な英才教育をしてるんですか!!』

 

激昂する母親の言葉に、俺の脳裏に「ジムリーダーとしての責任」という重圧がのしかかった。

 

もし本当に、せつ菜が感情に任せてイワンコを動かし、生身の人間を直接攻撃して傷つけたのだとしたら、それはポケモントレーナーの端くれとしても、何よりこの街の治安を預かるジムリーダーの娘としても、絶対に扱いのルールを厳しく躾けなければならない。

重大な事故に繋がる前に、ここで一線を教えなければ。

 

父親として、そして街のトップトレーナーとして、少しきつめに、厳格に叱らなければならないと、俺の頭はそれだけで一杯になっていた。

 

『も、申し訳ありませんでした。娘が帰ってきたら、俺から厳しく叱っておきますから。本当にすみませんでした!』

 

相手の母親に何度も頭を下げて、ようやく帰らせた後、せつ菜とイワンコは何食わぬ顔をして、平然と帰ってきた。

その態度を見た瞬間、俺の中で「やはりここで甘やかしては駄目だ、父親の威厳を見せて叱らねば」という使命感が完全に空回りした。

 

いざ叱り始めた時、せつ菜が俺に向けてきたその瞳は――。

 

泣くわけでも、子供らしく怯えるわけでもない。

 

まるで俺を、一人の親だとも、対等な人間だとも思っていないような、軽蔑の混じった絶対零度の冷めきった目だった。

 

その目を向けられた瞬間、俺の胸の奥で、ドス黒い感情が急激に跳ね上がった。

 

俺の指導が通用していない。俺の父親としての言葉が、こいつには届いていない。

 

それに対する激しい苛立ちと、未だに父親である俺のことを「パパ」とも呼ばず、頑なに「誠一さん」と他人行儀に呼び続けるその態度に、日頃からの不満が一気に爆発してしまった。

 

「せつ菜っ!!」

 

気づいた時には、カッとなって頭の血が沸騰し、俺の右手が、感情のままに空を振っていた。

乾いた音が響き、せつ菜の小さな身体がよろめいた。

 

自分でも、信じられなかった。自分の掌の赤さを見て、あまりの衝撃に言葉を失った。

 

なんで……俺は、こんな4歳の、自分の最愛の娘に対して暴力を振るってしまったんだ?

 

だが、殴られたせつ菜は、一滴の涙も流さなかった。ただ静かに乱れた髪を払い、姿勢を正し、氷のような論理で、俺の犯した致命的な間違いと、ジムリーダーとしての底の浅さを容赦なく指摘し始めた。

 

存在もしないいじめを推奨する家訓という極論の刃で、俺の矛盾を完全にメッタ刺しにしてみせた。

 

負けた。完膚なきまでに、言い負かされた。

 

4歳児の娘を、父親として正しく導き、叱るはずだったのに。

蓋を開けてみれば、俺は4歳児の娘に、一人の未熟な人間として、その身勝手な傲慢さを冷徹に叱られていた。

 

なぜだ……?

どうして、こんな最悪なことになってしまったんだ?

 

俺が守りたかったはずのせつ菜の未来は、俺自身のこの愚かな掌によって、二度と修復できないほど粉々に砕け散ってしまっていた。

 

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